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本当の私を思うラジオ。こんにちは、misaです。今回は、無価値感と罪悪感について、考えを掘り下げていきたいと思います。ちょっとタイトルは変えるかもしれませんが。
このラジオは、世代マスターを目指すmisaのホロクロン作りの過程を開くするものでございます。よろしくお付き合いください。
さっき収録したんですが、えっとね、親の感情の振る舞いとか、母親の
なんか、やんわり要求してくる、感情的に何か要求してくるってところに、罪悪感を依頼したんだよね、みたいな話をしたので、
あー、これ結構大事ではと思ったので、ちょっとこっちで掘り下げてみたいなと思います。私は、えっとね、その、なんかね、自分にずっと自分が価値がないって思っていることを隠してたんですけど、
罪悪感については認識してたんですよね。で、これらは結構相互作用するのでは?って思って、わかってくれる人いるんじゃないかなって気がして、ちょっと話したいんですが、
えっとね、なんかその根本的な、 罪悪感の根源、私の罪は、母親を笑顔にできなかったことなんじゃないかなって、今のところ思ってるんですよ。
なんか、お母さんに笑って欲しくて、お母さんに喜んで欲しくて、お母さんいつも仕事ですっごい疲れた顔してたから、
えっとね、そう喜ばせたかったけど、プレゼントとかしてもなんせリアクションが薄いから、なんか、あーありがとうとかその場で本棚に戻されちゃ、片付けられちゃって、二度と見てもらってないんだろうなぁ、みたいなのとか、
すごくこう、泣けなしのお小遣いで、カーネーション1本しか買えなかったけど、お花屋さんに買いに行ったら、なんかおまけしてくれて、2本になって、これ喜ぶぞーと思って渡したら、
なんかそれも、あーありがとうぐらいで終わらせちゃって、あれ、なんか思ったような、 そんなか喜ばせられなかったなぁとか、
あとね、なんかインパクトあったのは、小学生ぐらいの時に、なんか寝ようとしてた、なんでなんだろうな、疲れて寝ようとしてたのか、洗濯物頼んでたのか忘れちゃったけど、
母親に、お母さんは1日のうちで何の時間が一番好き?って聞いたんですよね。私はそこでうっすらと、なんか私たち妹と私と関係ある時間かな、ワクワクって思ってたんですよ。
多分私は、なんかお母さんがたまーに、なんか夜迎えに来てくれる、歩いて、なんか近くまでフラッと来てくれるのがすっごく嬉しかったから、
なんか、母親もきっとそれが好きで来てくれてるんだって信じてたんだよな、今思い出したけど。でもお母さんがなんて答えたかっていうと、寝る瞬間って言ってて、
へー?みたいな、1日で一番楽しみなのって寝る時なの?ってなって、お母さん1日全然楽しくないし、私たちとの時間も全然好きじゃないんだ、みたいな、一人でいたいんだと思って、すっごいショック受けたんですよね。
私ってなんか、いるだけでは、その母親の助けにならないし、
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母親を喜ばせることができない、で、無価値な人間なんだってことと、お母さんをこう、笑顔にできないことに、すごい罪悪感を植え付けたんだと思うんですね。
実際のとかわかんないですけどね、今思えばね、そんなことじゃないのかもしれないし、どうだろうな、まあ養護するとしたら、もうその母親がんばりすぎて、疲れすぎて、
なんか子供がかわいいとか言っている場合じゃなかったから、そういう日々の安心した暮らしの上に、ああ、子供かわいいなあ、幸せだなあ、みたいなのが乗ってくるんじゃないのかなって思うから、もうちょっと頑張りすぎだよって気がするんですけどね。
子供はそんなのわかんないから、そこにすごくこう、なんか心の傷ですね、を多分作ったんだろうなーって思ってるんですね。
で、こう他人に何かを自分がいるだけで、存在するだけで誰かの喜びになるっていうのって、強力な魔法だと思うんですよ。
自分には価値がある。自分はただ生きているだけで、世界に祝福されているっていう感覚になるけど、残念ながらこれを持てなかったんですね。
ちょっと私は子供たちに是非この感覚持っててほしいなってすごい怒ってるんですけど。
で、一方で、ちょっとまたこの後撮ろうと思ってるんですけど、この時の、なんか自分の期待、お母さんはきっと私との時間を好きだと思ってくれているだろうっていう期待が裏切られるっていう経験をここで大量に積んでるんですけど、
これは大人になっても聞いてくるのね、この呪いが。これはまたちょっと後で話しますが、罪悪感とはちょっと別ですね。
罪悪感は、そうだね、その母親を喜ばせられないこと、世界に祝福されていない私は罪だと、罪な存在だってなってるんですよね。
で、そんな自分は誰かのに対して、もっと、なんか、やれるんじゃないかみたいな、もっとやれるべきだった、もっとなんかしてあげるべきだったみたいなところに入っていくんですけど、
そもそもなんか、そんな人に尽くすみたいなことはできないんですよ。なんか献身的な何かみたいな、なんだろう、世話をやってあげるとかは全然できなかったな。
これは何でなんだろうな。なんかこう、物理的な世話をする、尽くす彼女みたいな、ああいう関わりを人としてたかって言うと、むしろ全然ですね、全く尽くさないですね。
なんかやってあげるとかも好きじゃないし、やりたくないっていうかしてるから、やんなかったなぁ。これも多分なんか親子関係見直すと、なんかここでそういう呪いは作らなかったんだね、みたいなのあると思うけど、あんま問題じゃなかったからあんまり掘り下げてないですが、
一方で、その物理的なサポートはしないんですけど、しなきゃとかも思わないけど、
献身的なサポートにおいてはめっちゃやんなきゃいけないっていうルールと、やんなかった時はすごい罪悪感を伴うんですよね。
それが非常に生きづらさの根源だった気がしますね。これに気づいてどうしていくかですけど、
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私は、母親を笑顔にできなかったっていうのが罪なわけだから、
思って、その罪な私は無価値って判定してたんですけど、本当にそうなのかな?ってところを当たったかなぁ。
ずっとその自分が誰かに本当の意味で求められてるって思ったことがなかったんですけど、
一方で、自分がそもそもそれを受け取り拒否してるってことにも気づくというか、なんかそういうロジックだからなんですけど、
自分ができてないって思ってるってことは、何歩与えられても自分は受け取れないじゃない?ってこれ伝わるのかな?
そう、私は愛されてないって思ってたら、どんなに大事にされても、でもどうせ私のお金が見当てなんでしょ?みたいな感じになってひねくれてるから、
ひねくれて、本当に純粋に大事にしてくれる人たちを価値のないものと思ったり、あと疑ったりとかね、
そういうのをよく聞くんじゃないかな。めっちゃ無関心感強くて、見た目が可愛い子とかは、
なんかどうせ私の顔が好きなんだけど、私の本当なんて見てくれないんだわみたいな、あの状況がめっちゃ発生するから、
そうそう、私は誰も喜ばせられない。だから誰も喜ばさないって方がイコールになるんですよね。
で、物理的なサポートしないっていうのもそういうとこから来てるのかな?ちょっとわかんないけど。
一方で、そうでもないかもみたいな、呪いが解け始めると、なんかあれ?ってなってくるから、そうそうそうそう、現実的になんだろうな、
今まで全く見えなかったものがちょっとずつ見えてきて、誰も笑顔にできないんだ。私ってば罪って思ってたけど、
なんか喜んでくれる人がいるかもとか、あれ?みたいな、なんで毎回声かけてくれるんだろう?
あれ?みたいなのとかがちょっとずつ現れてくるんですよね。その時は気づかないです。今思えばですけど、あれは呪いが解ける前兆だったんだな、みたいに。
今思えばわかるけど、その時はあれ?みたいな。自分のその強力に持ってた、
えっと、がっつり効いてた呪いが弱くなり始めると、そうじゃないかもしれないっていうのがちょっと入るようになってきて、
で、この時になるべくさっさと復帰して、ガッと掘り下げたら、さっさと解けるっていう。まぁ別に呪い持っててもいいんですけど、
逆に言うとさ、呪いにほころびが生じている時期っていうのは、もういらない呪いなんですよね。なんかエゴの解放とかタロットにもありますけど、
そういう時期なんだと思うから、私はそういうのを復帰して、さっさと呪いを解除していくのが趣味なんですけど。ここで気づいた
きっかけは、 ほんとねー
いっぱいあるけど、
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でも子供の存在とかも結構大きかったかもしれないな。私がその母親を無条件に好きだったように、この子たちは私のこと好きでいてくれてるんだって思ったら、
私がニコニコしていることがこの子たちの喜びなのかって思うと、
なんかね、溶けるものがあったり、なんかこういうのがいっぱい、これだけじゃねーでも溶けないんだよね。いっぱいいっぱいあって、最後の一押しがあって、
あ、この罪悪感はもういいのかもしれない。私は無価値だって思ってたらしいけど、それは無意識だからあんまりその意識的に持ってたわけじゃないけど、
私なんて価値がないんだ。誰も喜ばせられないんだ。罪、生きてる価値なしみたいに思ってたみたいだけど、そうでもないかもね、みたいな。私が好きでやってたこととか、
みんな祝福してくれてたじゃんって思って、あ、生きてていいのかも、みたいな。私のこれが誰かの喜びになるのかもしれない、みたいなのが現在でしょうか。
それがなんか発信活動なのかな?発信っていうかな?私はこう思うんだよね、みたいな。これが気になるわ、みたいな話に価値を持ってくれる人が結構いるのでは?って思い始めて、
なんか友達とかも一方的に、妹はめちゃくちゃLINE送ってきたりするんですけど、それもなんかゴミ箱扱いされてるってずっと思ってたけど、
シンプルに私の意見とかがコメンテーターとして求められてるのかっていうことにふと気づいて、これも不思議ですよね。同じことされてるのに自分の前提が変わると受け取り方は全然変わるんだよね。これが面白いなって思うんですけど。
そっか、なんか変なこと、彼女にない発想で彼女のない意見を言うから、そのコメンテーターとしてのコメント力に何か価値を見出して送ってきてるのかなって思うと、
じゃあなんか感情的な要求に答えてあげなきゃとかじゃなくて、じゃあコメントしてやればいいのかと思って、それはなんか変ではなったとか、好きにコメントするようになってきましたね。
で、多分その、今じゃあその無価値観とか罪悪感は多分全然まだ持ってると思う。持ってる、持ってる。ただ意識、なんか知ってるってだけで、わざわざその自分から隠すっていうところにエネルギー振らなくてよくなったから、生きるのはめちゃめちゃ楽になります。
なんかエネルギーの漏電がなくなった感じがしてますけど、でも罪悪感はやっぱ感じるし、なんか私って冷たいのかなーみたいな、その人の期待に応えてないときはやっぱり罪悪感を感じますけど、でもなんかそれも含めてこんなもんかなーみたいなね、そこで自己否定することはなくなりましたね、私は罪罪罪罪みたいな感じで自分を断罪することはなくなって、
あ、なんか罪悪感感じてるねーみたいな感じるねーみたいなぐらいでやんわりすることができるようになってきましたので、とっても楽になってきました。で、これは別に死ぬまでなくならないような気がする。
ね、なんかキリスト教とかもそんなんですよね。ずっと罪の意識持ってそんなもんなのかなーって気がする。それが悪いわけでもないのかも。その引用バランスとか言ってるのもそういうとこなんですけど、
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自分にはこんな罪があるなって思うから、だから少しでもマシな人間になろうと思って成長するかもしれないし、そこを使い方なのかなーっていうこう、今までずっと隠してた陰と陽でいうところの陰の自分を、
なんか上手く使うってところを考えていくといいのかなって最近は思い出しました。なんか参考になると幸いですが、よかったら感想とか、
自分はこうだなーとか、自分の罪はこうですねーとか、レターなりコメントなりいただけるとめっちゃ喜びます。最後まで聞いてくださってありがとうございました。
youtube でもこのテンションでタロット読んでますんで、よかったら見てください。ありがとうございました。バイバーイ。