水泳で言うなら、
身を捨ててこそ浮かぶ背もあれ、ということでしょう。
泳げない人が溺れかかった時、
溺れたくない、泳ぎたいと思っている時はなかなか浮かばないが、
そこで全身の力を抜き、
もう好きにしてくれ、と流れに身を任せた瞬間、
浮かぶこともある、というのがこの事柄の意味ですが、
それは水泳に限らず、この世の現象すべてについて言えることらしいんです。
比叡山に千日開放行という修行があります。
これは7年間、合計千日をかけて山々を巡る、
世界で最も過酷と言われる修行です。
比叡山中を1日に30から40キロ、700日間、
1年に150日ほども歩き回り、
残りの300日は京都の市中に出て、
1日70から80キロ歩くというものです。
この千日開放行を達成した方を、
アジャリさんと呼びます。
あるアジャリさんの話を新聞記事で読んだことがあると小林政官さんは言います。
700日ぐらいまではこの方は順調に来たそうです。
ところがその後、信者さんからいただいた食べ物にあたり、
三日三晩下痢をしてしまいました。
それでもその方は初めの2、3日は70から80キロを何とか歩いたそうですが、
4日目くらいにはもう立つことも歩くこともできないほど、
ひどい状態になっていました。
そこでアジャリさんはどうしようかと考えました。
千日開放行は途中で修行を断念した場合は、
死を覚悟しなくてはなりません。
そのために常に喉をつく探検を持ち歩き、
菅笠の紐で首を吊るようになっています。
アジャリさんは探検で喉をつこうか、
それとも紐で首を吊ろうか真剣に考えました。
しかしそのどちらも痛かったり苦しそうだとやめることにしました。
けれども今ここで山を降りれば、
千日開放行を断念した人という評価をされ、
おそらく日本の仏教会では生きていけないだろうと思ったということでした。
いっそのこと海外で暮らそうかとも考えましたが、
英語が全く話せないことに気がつき、それも断念しました。
そして悩みに悩んだ末、
得た結論というのがこのまま前にばったり倒れて死んでしまうのが
一番いい解決方法だというものでした。
アジャリさんは鉛のような重たくなった体を起こし、
本当に死んでしまうつもりで前に踏み出しました。
これで死んでもいい、死んで全てのことを解決しようと。
その瞬間あれほど鉛のように重たくて動かなかった体が
嘘のように軽くなり動けるようになったんです。
後日、アジャリさんはその時のことを次のように解説しています。
実のところ、私は700日くらいまでは
あまりにも順調に生きていたために
神も仏も本当は存在していないのではないかとさえ考えていました。
そんなものがなくても自分はここまですんなりとやってこれた。
あと300日くらいは楽にこなせそうだと思っていました。
ところがあのように体が動かなくなり
人間の力や思想ではどうしようもない状態になった時
命を捨てて一歩踏み出した瞬間に体が動くようになりました。
あの時私はこの世界には本当に神や仏が存在するのだと
心の底から確信したんですと
まさに命を捨てたから体が浮かんだんです。
人間は物にこだわっている時
こうでなければならないと思っている時は
現実処理の能波であるβ波しか出てきません。
ですが囚われなくなり心穏やかで満たされて幸せな時
特に感謝をしている時はα波やθ波が出てきます。
このα波やθ波のレベルは
超能力を目覚めさせ潜在能力を呼び起こし
引いては宇宙の構造を自分の味方にすることができるらしいんです。
何かをこうでなければならない
こうせねばならないと思っているうちは
なかなかその現象は自分の思うようには変わっていきません。
そうでなくてもいいけれども
そうなってくれたら嬉しい
でもそうならなくても別にいいけれど
という考え方がどうやら潜在能力や超能力を引き出す
大きなポイントになっているようです。