ありがとうを探し
朝起きて、ありがとうを100回言うと、脳はありがとうと言いたくなる現象を100個探し出そうとする。
脳は、先に口にした言葉に対して不条理、不合理を認めず、合理的な事実に当てはめて解釈しようとする働きがあります。
先にありがとうと言ってしまうと、その瞬間から脳はありがとうを探し始めるようにできているそうです。
ありがとうと言いたくなるような現象が起きていなくても、まずありがとうを言う。
すると、ありがとうを言った数だけ、ありがとうの原因を探し出すことになります。
ということは、1日中ありがとうと言っていれば、脳はずっとありがとうを探しをするわけですから、ありがとうに満ち溢れながら1日を終えることができるでしょう。
断ってもいい
頼まれ事は、基本的に断らない方がいいと思います。
頼まれ事を安易に断ってしまうと、それ以降、頼まれなくなるからです。
一否定三年と覚えてください。
頼まれたり持ち込まれたりしたものを、好きじゃないので嫌いなのでと好き嫌いを中心に得り好みしていると、ここから先楽しい仕事の話は三年間はやってきません。
ただし、中には断ってもいい頼まれ事があります。
断ってもいい条件は次の通りです。
1.借金は断ってもいい。
お金を貸してほしいという頼まれ事は、お金に用があるのであって、その人に用があるわけではありません。
2.自己嫌悪が大きくなるときは断ってもいい。
3.能力的にできない頼まれ事は断ってもいい。
4.単なる数合わせは断ってもいい。
その人の個性や人格に関わりがあるわけではありません。
頭数を揃えたいだけなので、個性や人格に関係ない頼まれ事は断っていいと思います。
5.戦略がある場合は断ってもいい。
すでに戦略が入っていてスケジュールが取れないものについては、無理に引き受ける必要はありません。
できないことでも引き受けると、強いすぎるとできない頼まれ事を抱え込み、やがて行き詰まってしまいます。
人間にはできることとできないことがあるのですから、できない頼まれ事にはできないと言ってもいいんです。
できないことを持ち込まれるとしたら、その人の中に、できないことでも何でも引き受けるぞという強いがあるからです。
私にはできないことは持ち込まれません。
なぜなら、気負いがないから、力が全く入っていないからです。
6.究極の愛の形。
自分の存在が感謝され、喜ばれるという幸せを味わってしまうと、史上の喜びを感じることができます。
では、自分の存在が感謝されるためには、何をすればよいのでしょうか。
究極的には、その人のそばにいてあげることではないでしょうか。
人という文字は、人が二人と書きます。
人が二人いるという意味です。
私は、人こそ究極の愛の形であると同時に、一番簡単な愛の形であると考えています。
人とは、ただその人のそばにいてあげること。
時間的に、距離的に、地理的にそばにいるのはもちろんのこと、
たとえ距離が離れていても、精神的にいつもその人のそばにいてあげることです。
究極の愛とは、おそらく人です。
特別なことをしなくてもいい。
フランスの宗教家ルナンは、イエスの生涯を次の世に記しているそうです。
イエスは、この世では無力だった。
何もできなかった。
ただし、苦しむ人を見捨てなかった。
孤独な老人のそばにじっと腰をかけていた。
女たちが泣いているとき、そのそばにいた。
自分を裏切ったものに、恨みごと一つ言わなかった。
イエスの生涯は、ただそれだけだった。
イエス・キリストは、人の塊だったと言えるのではないでしょうか。
あなたが苦しくてつらいときには、電話をしてきてもいいですよ、と
口で言うだけでなく、実際にそのようなことがあったら、
どんなに忙しくても、どんな時刻であっても、笑顔で対応してあげる。
それを人というのだと思います。
あるとき、私は宇宙から鏡の法則というメッセージを受けました。
これは、川の流れのか。
我のが。
身体の身を表します。
運命の流れが川。
その川の流れを変えるのが、我。
そして、我を貫くことによって左右されるのが、身、という相関関係です。
人間はもともと神様の意思によって、運命の流れ、川が決められていて、
それに沿った生き方、身が決まっています。
その川と身という神様の意思を、我が分断してしまうというのが、鏡の法則です。
還元すれば、我がなくなると、神様の示唆が見えてくることになります。
私はこの宇宙のメッセージを受けたときから、
じゃあ、なるべく好きだ嫌いだと我を貫かずに、やるはめになった仕事を、ただ黙ってやっていこう。
身体が壊れるまでは、つべこべ言わずに、それをやっていく。
身体が言うことを聞かなくなったらしょうがない。
とにかく身体がそういう意思表示をするまでは、ただこれをやりなさいと言われたことを、黙ってやっていこうと実践し続けました。
その答えとして、鏡の法則を掴んだのです。
人生でできること
心の不健康は、他者を責めるか、自分を責めるか、そのどちらかによって生まれます。
他者を責めれば、攻撃的になり、時には殺人を犯したり、傷つけたりします。
自分を責めれば、鬱状態になります。
どちらも、現象を否定しているところから始まります。
そして、なぜ、誰のせい?と問いかけるようになる。
聖書の中に、何時、なぜかなぜかと、問いかけることなかれ、という言葉があります。
よく、相談や質問をされる方は、なぜ、なぜ?とおっしゃいますが、問いかけた瞬間に、問いや相談の形をとって、その現象を否定しています。
自分の身に降りかかってくることについて、問いかける必要はない。
それはそれで良し、と思い、
例えば、不登校の子供がいたときに、これは誰のせいかと追求し始めると、きりがないでしょう。
夫が怒鳴っているから、夫婦関係が悪いから、甘やかして育てたから、
原因を求めても問題は解決しません。
何も責めず、現象を否定せず、風に吹かれて、川に流されて生きていれば、それで良いんです。
淡々と生きるということ、私たちが人生でできることは、やるはめになったらやる、それだけです。
好きだから、嫌いだからという生き方の他に、三つ目の生き方として、やるはめになったらやる、というのがあって、私の場合はこれだけ。
それが、風に吹かれて、川に流されて、という意味です。
毎日喋りたくて講演会をやっているのではなくて、頼まれてしょうがなくて、やるはめになったから、ただ素直に、はいよ、と言ってやっているだけ。
それだけで結構面白い人生が展開しています。