1. 【体験者の証言】戦争の記憶(Memories of War)
  2. 【記憶10】福田秀郎さん/Memor..
2014-02-26

【記憶10】福田秀郎さん/Memories10_Hideo Fukuda

【記憶10】福田秀郎さん/Memories10_Hideo Fukuda


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【早川】こんにちは、早川洋平です。今日はですね、埼玉県の狭山市の福田秀郎さんにお話を伺います。
福田さんよろしくお願いします。【福田】こんにちは。【早川】福田秀郎さんはですね、大正10年5月19日の生まれで92歳。
今までこの戦争の記憶というインタビューで、たくさんの方にインタビューしてきたんですけど、90代の方は
2人目だと思うんですけど、秀郎さんもものすごく元気で、今日本当にいろいろとお話を伺えればと思いますので、よろしくお願いします。
【秀郎】わかりました。【早川】早速なんですけども、今92歳でいらっしゃって、この第二次大戦の時は、ちょうど68年前だと思うんですけども、
その終戦の年の前から、いわゆる戦争を経験されていると思うので、
第二次大戦が始まる時というか、そのくらいのところまでちょっと遡っていただきたいんですけど、その時はどこでどんな状況でしたか?
【秀郎】確かに戦争が始まりましたのは、1961年の今日の12月8日でした。【早川】1961年。
【秀郎】昭和16年。【早川】昭和16年ですね。
【秀郎】それで、その時は12月8日というのは今日でして、曜日も日曜日でした。【早川】まさに。
【秀郎】まさに日曜日の朝6時半頃でした。ラジオ放送が始まりました。
その時私はまだ学生でした。それで、私の家内の父親が私を6時頃に起こすんです。
そして言ったことが、戦争が始まったぞ、みんな起きなさい、ということからスタートしました。
私はちょうど昭和16年に満二つという格好で、いわゆる徴兵の検査がありまして、
第一オツシュ、海軍の水兵というあれで、16年度に決まっておりました。
戦争が始まったのが1961年、いわゆる昭和16年の12月8日ですが、私が軍隊に入ったのは翌年の昭和17年1月の10日です。
【早川】日目鮮明に。 【秀郎】はい。それは横須賀に海兵団がありまして、それに入団いたしました。
約3ヶ月間水兵の教育を受けまして、私が軍艦マヤという巡洋艦に乗っかりましたのは、同じ年の4月の10日でした。
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場所は愛知県の三河湾の長島という温泉がありますが、あれの沖の方でした。それが私の軍隊生活の始まりです。
当時学生は学生行きというのがありまして、2年から3年は軍隊に延期入隊することになっておりましたが、
私はその年に戦争が始まったので、いずれ戦争に行かねばならないと思ったので、その延期を断りまして、自ら普通の一般兵として海軍に入隊しました。
それで戦争に本当に加入したのは、それから1週間後です。なぜかというと、その4月の18日に東京に空襲がありました。
その空襲は、確か乗っかってきた飛行機の連中は中国の方へ逃げたり、あるいは日本で撃墜されたりしたと思いますが、
私がその4月18日に何という航空母艦か分かりませんが、それを追いかけるためにそこから三河湾から出航したのが、戦争に参加した最初です。
ただし約1週間ぐらい太平洋をぐるぐる回りましたが、先方は捕まらず横須賀に帰港しました。
その海軍、海兵、水兵さんは何か、船に戦闘船みたいに乗るんですか?
軍艦には、戦艦、航空母艦、重巡洋艦、軽巡洋艦、駆逐艦、その下に小さな船があるんです。
私が乗っかりましたのは重巡洋艦で、配水量が1万トンという巡洋艦でも大きい方です。
それで昔から海軍には軍艦にそれぞれの名称がありました。
そして航空母艦とか、それから戦艦は昔の日本の国の、やはり大和時代から伝わっております国、例えば大和とか武蔵とか、長戸、武津、渾郷、比叡、大抵そういう風に決まった名前がありました。
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重巡洋艦は山の名前でした。
ですから、あたご、たかお、まや、ちょうかい、で私が乗っかりましたまやというのは、あたご、たかお、ちょうかい、まや、これ4船体と言いまして、1船体が確かに長戸、武津でしょう。
2船体が渾郷、比叡かな、それから3船体が、なんか他の戦艦の名前でしたね、キリシマダとか、それからそういう名前のほうが3船体、で4船体があたご、ちょうかい、まや、あたご、たかお、ちょうかい、まや、4船体。
5船体が、なち、みょうこ、わしがら、それからもう1つなんかありました。
それから6船体が、6船体、7船体ぐらいまであったですね。だいたい1船体が4隻ぐらいずつだった。
それで航空母艦はね、船体という名前には乗っからなかったんですが、いわゆる通称の、これはもうほとんど戦争で使われなかった分まで、シナノというのがあったんです。
この大きさは大和武蔵と同じ格好ぐらいの大きさででかい航空母艦。これは横須賀から呉か、あちらのほうに運動する途中に、あそこの静岡県の尾前崎かな、あそこら辺で潜水艦にやられて沈没しちゃいました。
だから母艦としてはほとんど使われなかったんです。
あと駆逐艦がたくさんあり、軽巡洋艦もあるので、軽巡洋艦は確か、これも川の名前だと思う人がね、川、仙台だとかね、仙台というのは九州の方にある仙内、仙人の仙人、内雄だとか外雄、内ですね、仙台。
それからね、もう軽巡の名前もほとんど覚えてないやな。
あとは駆逐艦は波とか風というようなものをつけたと思います。
例えば浜波だとかね、浜風だとか、島風だとか、島波だとか、そういう風な名称がついていました。
それで私が乗っかったその前は、その結構、約千人くらいは乗っかっておりました。
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-それはすごいですね。
ただまぁ、一番最後に、その武蔵が死んだ、やられた、あの霊帝島ですか、あそこ行った時に潜水艦にやられましてね、
あそこで約700人くらいが助かって、それで助けられて、乗っかる船がどこかと思ったら武蔵だった。
武蔵が沈むその日に約300人くらい引きられて、帰ってきたのは400人。
約400人が、そうですね、あの、昔船が沈みますとね、船に乗っかっている時は海軍では履歴書がありましてね、一つの船頭があるたびに履歴書が書かれていくんです。
それによって、いわゆる禁止訓証とか、訓証のあれが、差が出てくるんです。
それで、それも、いわゆる海が違う、例えば兵隊と飛艦では海が違いますからね、その飛艦でも一番下の飛艦と一番上のトップのあれでも差異がありますから、それぞれそれぞれのあれによってその与えられる、いわゆる訓証の差別があるんです。
ところが、船が沈んだ場合は、その成績は全部ボツ、バッチリゼロになっちゃう。
で、私が戦争終わって帰ってきたら、もう乗っかる船がないんです。
で、その戦争が、いわゆる昭和17年の4月の18日の東京の空襲の後の戦闘から始まってね、まずその年の5月だったかな。
5月の27日に、いわゆるカムチャッカの方へ行きました。
で、アリューシャンレッドの方に行きまして、いわゆるアッツピスカ、あれの上陸作戦のいわゆる支援隊として行ったんです。
で、5月の27日の日、昔で言いますと、日露戦争の日本海戦で、日本軍がロシア軍を全滅させた、その輝かしき日にですね、米国の船と砲戦が始まったんです。
その時に、こちらの方は私のマヤをはじめとして、従業官がマヤと、それから、あれはワシガラかな、これが従順なんです。
あと駆逐官が6席か7席、約8席くらいいて、戦法はね、4席くらいしかいなかったんです。
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それで互いに台風を打ち合い始めましたが、どっちも当たらなかったんです。
朝の6時頃からお昼頃まで続きましたね。
私の覚えている範囲では確かにね、昔で言うソビエと今のロシアのね、コロンバルスキーとか言う島のそばだったんで、コロンバルスキー海戦ということになるかはわかりませんが、
両方波が穏やかだったんですがね、両方とも当たらなかったんです。
ただ、感心しましたのはね、向こうから打ってくる大砲の波の上に落ちました水橋が立つ、水橋が立つ、これが着色弾なんです。
色がついてるんです。そうしますと、自分で打った着色がどっかの船に当たれば、それに信号を合わせて、みんなで集中攻撃ができるわけです。
色でわかりますね。
日本の方はそうはやってなかったですね。
だからもう一つ、こっちから敵を発見して打ち始めたんじゃないんです。向こうの方から打ち始めたんです。
というのは、島で日本が先ほど言ったアリューシャンのアッツキスカに上陸するために小戦団をたくさん送ったわけです。
敵はこちらの方が8隻もいたと思うんですが、夜中に間違って小戦団を攻撃しようとして、朝の6時ごろに出てきたんですが、
出てきたあれは、向こうは当時電波を使っていたわけです。いわゆる電気弾、電弾と我々は言うんです。
日本には電弾はなかった。電弾を使ったから向こうは小戦団だと思って安心して出てきたら、こっちは一種の艦隊ですからね。
それで向こうもヘッドモードして逃げていったんですが、逃げ足の早いことで、それで結局両方とも無事に終わったような状態です。
それが海戦としては初めてです。
それでそれが終わって、キスカの方へ作戦が終わって、大地へ戻りましてね、すぐその足でね、いわゆる南方へ行ったんです。
それで南方の、今度はキスカは終わったけれども、ショートランド、ラボールという島にですね、
太平洋の、いわゆる南方の方、ショートランドというところで夜戦がありましてね、その時にショートランドの夜戦に、いわゆる先ほど言った4戦隊にいた長海というのが、
船は何隻か集まりますと、1隻が機関、型の船と書いてあります。機関というのがありまして、長海が機関だったそうですが、
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夜戦でですね、前の方は文化内でもう遠くにいた、遠くと言ってもラボールの近辺にいたんで、その夜戦には加わらなかったんだけれども、夜戦があって、その時に長海は確かに向こうの船を2、3隻やっつけちゃった。
それでそれは流石に有名になりましたね。長海の野郎、うまいことやったんだというふうにみんなは言ってました。
それでその翌日か翌々日にですね、マヤも出ていたんですが、そこで敵の大空襲があったんです。
それでマヤも、大砲もあるし機銃もありますからね、だから結構落としたんだと思いますが、向こうの飛行機が一気、
自爆で来たのか、あるいは落とされてきたのか分かりませんが、ちょうど船の真ん中に墜落しましてね。
それで船を動かすためには、機関、釜を炊きましてね、銃を炊きまして、その釜で機械を回して、それで動くんですが、そのうちの、
ちょうど船の真ん中に落ちましたものですからね、釜がね、やられましてね、それは悲惨なものでした。
もう推進軸、いや、プラプラは、自衛用艦の場合は2つ付いてますから、そのうちの1つ、2つ、4つじゃない、あ、4つかもしれませんね、1つしか動かなくなっちゃう。
動きが取れなくなって、ヨタヨタしながら、確かにラボールの港までやっと辿れていたという記憶があります。
その時に私の船員が1人、この腹部に傷を負いまして、結局船の上では、地上はあまりママになるもんじゃありませんから、
腹膜炎で3日目になくなりました。それが私たちは、本当に衝撃的な事実でした。
だから敵の顔は見たこともありませんが、味方の顔もやられたというのは見たんです。
それで、そこのラボールからヨタヨタしながら横須賀に帰りまして、約半年くらいかかって、船の改造を直しました。
その時はアメリカの方も、まだ沖縄までは来ていないのですが、
向こうの南方の方のラボールとか、あっちの方には相当来ていたし、
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ミッド上海戦というのがありましたけど、ミッド上海戦の時には先ほど言ったあれあれば、アリーシャンにも行ったから助かったのです。
ミッド上海に行ったらどうなったかわからないです。
それで昭和19年の10月、日本の横須賀や呉などに航空するための燃料を使うのはもったいないので、
ほとんど南方にずっといました。
そして昭和19年の10月に、いわゆる米軍がフィリピンに上陸したので、
フィリピンの上陸のための冷凍機の改戦というのがその時にありまして、
アタン、ヤマト、ヌサシ、アタン、タカオ、マヤ、チョウカイはその時にはいなかったと思うのですが、いたのかな。
それで何しろ相当大きな艦隊で米軍に攻め込むために行ったわけです。
それで昭和19年の10月の23日でしたかね。
我々の朝の起床は6時になります。
6時になると、もちろん敵のそばに行けば、二直行隊と言いまして、半分は寝て半分は起きて監視するわけですね。
それでもうそういう時は半分戦闘状態という格好で、
それでもまだレッドの方は暑いですから、半袖半ズボンでやってるんです。
朝の6時に起きましてね、起きるとすぐその戦闘配置に着きまして、戦闘訓練とも必ずやるわけですね。
それで戦闘訓練を始めたのが6時半頃でしょうが、その時から敵の潜水艦の猛攻撃がありましてね、
まず一番、その時のヤマト・ムサシも一緒にいたんですが、機関としては一番特にタッチを乗っかっていたのがそのヤマト・ムサシではなくて、アタモだったんです。
そのアタモがですね、私たちの目の前で潜水艦に2本ぐらいのアレが当たって、5分ぐらいで沈没しました。
アレよアレよと言うので、それでその時になると、船はノの字運動というのをやりましてね、ノという字からクの字運動です。
ク、カキクカのク、こういう格好で移動するんです。で、クの字運動が始まったなと思って見ていたら、2番目に走ったタカオ、これまた潜水艦にやられた。
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ところが我々はそれを見ていてもどうしようもならないわけです。なぜかというと、周りに駆逐艦がいますからね、駆逐艦は潜水艦をやっつけるために爆雷というものを持っている。
人用艦も爆雷というのを持っているんです。で、主は駆逐艦の方がやりますから、その爆雷を本当は放り出して潜水艦をやっつけるんですがね、
自然な船の浮いているその兵隊連中は、もし直接の爆雷に当たらなくても波の振動でですね、爆発の振動でお腹やられちゃう。
駆逐艦として安易に放れないんですね。それを見つかったのかどうかは知らないけど、我々のところもですね、まずは号令があったんです。
戦闘服に着替えろと。袖半ズボンではなくて、長袖の長ズボンという学校に変わるんです。
その時はそういうものを持って歩きませんからね。各部屋まで行くわけです。
で、あの部屋は戦闘服に着替えろという号令があって、全部が一緒にやったら戦闘配置になくなっちゃいますからね。半分が行くわけです。
私は最初の組に入りましてね、一番、というのが一番後ろの方。船はだいたい長さが200メートルぐらいありますからね。
私の戦闘配置はね、艦橋と言いましてね、艦の前の方にある塔があるんです。
それがちょうど重複頃にですね、測敵というのは敵との距離、それから方向とか風向とかいろんな要素を集めて、
大砲の的を計算するところのある場所を測敵という格好で言うんですがね、それに追ったものですから、そこから私は機械に戻りました。
船には右辺左辺と言いまして、普通の方向に向かって左側が左辺、右側が右辺という格好になるんです。
私は右辺を通ってですね、自分の部屋が一番後ろの方だったんですから、そこへ行って機械で、それでまた戦闘配置に戻るために来たところをですね、
敵の揺らいが正確に4本ですね、左側に当たってました。もののそうですね、時間的に10分くらいあるんですよね。
ですが、私はちょうどその時に左側に当たったんです。私は偶然にも右側を通って、元の戦闘配置に戻る途中だったんです。
24:00
ただ、ごう音ともなしのために、跳ね飛ばされそうなごう音で、えらいことになったなという気はありましたけれども、まだその時は船は動いているんです。
それで、ひばらく経つと、船の上に出てこいと言って出て行きますとですね、もう船は約20度くらい傾いていましたけれども、
いわゆる艦橋のあそこのところにですね、艦長が出てきましたね。
船をこれから退去するから、とりあえず万歳山椒と君がおる、そういうことで、君がおったって万歳山椒を言いましたね。
実は艦長が、総員退去、いわゆる退勤退ですね、去れと言う、退去という号令を、これを聞かないうちは船を出るわけにいかないんです。
それで、もうそういううちに船は惰性で動いていますから、どんどんどんどん傾きながら、船が横倒しになっていくのがわかります。
そうなっていますからね。それで、総員退去というわけで、艦橋というのですが歩くとき、そこから船の横から出るわけですよ。
こう逃げる、それしかないですからね。
そうしたら、船というのは大体横から苔で、苔だらけなもの。
立っていた連中は、みんな転倒しちゃいますよ。結構それで頭を打った連中がいるんでしょう。
私は横着なものですから、どうせ沈むなら同じだと思って、最初から寝さぼっていましたよ。
寝さぼっていたら、スースースーともう、船はこう行くんだから、体のほうは寝さぼっているものですけど、ずーっと足のほうから入ってきました。
それで、次に考えたことは、船から早く入らないと、逃げないと、石に巻き込まれる。
そういうありがありましたね。
とりあえず、抜き手を切ってなんて、そんなあれができませんから、
泳ぎながら広い泳ぎで、立ち泳ぎで、腐っていた船はどんどん惰性で前に進んでいましたね。
一番最後に見ていましたら、確かにもう後ろのほうを直立させながら、沈んでいっていました。
その時に泳げない連中もいますから、そこに座った連中の姿も見えました。
あとそこから、ちょうどそれをやられたのが6時半ちょっと過ぎでしょうから、朝です。
0.1度は暑くて温かいですからね。
波の温度としては高かったから助かった。
あれ以上の温度でやられたら、もろに2分で寒くてやられますからね。
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そこから、口管はぐるぐる回っているだけなんですよ。
なんともやられていない連中も。
爆弾を落とすわけにはいかない。
その時にボートを下ろして、拾い上げていきましたね。
私はそれでも3時間ぐらいは立ち上げていました。
本当に砂のものは我らも使わないといけないのですが、
船にはアカリ取りに使うんですが、
ちょうど甲子島の1メートル四方ぐらいの板の枠があるんです。
それがアカリ取りですか、
こたつの山裏の上の方に近くにあったんです。
それが浮いてきたものですからね。
やれやれと思って片手でいくんです。
そしてよく見たら、それに3人ぶら下がっているわけですよ。
4人もぶら下がったら沈んじゃうんですが、
4人でそれを持ち上げながら泳いでいましたね。
人間なんてのはおかしなもので、
沈むのはわかっていても、それにすがる。
すがればそれをなんとなく持ち上げる。
人間のこすっからい根性ですかね。
それでも3週に1分それをやっていました。
それからもう一つは、着ているものは全部脱ぎました。
思い出したのは、サメは長いものには食いつかないと言うので、
当時軍隊の連中はサラマタなんて履いてないですからね。
いわゆるフンドシというのを履いていました。
フンドシというのは、
シャラシの長いタオルのような、手ぬみのような長いものにひもがついているだけです。
それを外しまして、
泳ぎながら足首に縛り付けました。
それは全長2メーター半くらいになりますからね。
気の問題ですね。
船が沈んだ後ですから、体中が油だらけだったんですよ。
上がるときにおごじをしました。
ボートなんかに助けてくれていないんですよ。
ボートにひもをつけまして、いつもつながっていくわけですから。
ボートは自分の船まで持っていくんです。
船が上がるときまで船から砂がぶら下がっているわけです。
それにすがって上がっていくわけです。
体中が油だらけでした。
30:02
自分たちの前に上がった連中の油、
そんなもんで何回も何回も落ちました。
それでもやっと上がったときに、パッとしたのがあれだけで、
死ぬとか生きるとかそんなことじゃなくて、
生きててよかったなんていう気持ちも何もなかったです。
ただ早く一杯水が飲みたいになったというくらいの。
海の中にはいたけど。
そんなもんです。
今、三時間くらい泳いでいたんじゃないかとおっしゃってましたけど、
その三時間って何を考えていたという。
ただ浮いているだけです。
もう生きようとか死ぬとかそんなことは考えていない。
どうなるかなんてことは考えていない。
ただ波に揺られてぼっくりぼっくりするだけです。
恐怖というのともちょっと違う。
恐怖なんてのは飛んでいっちゃっても、恐怖なんてのは最初からないです。
というのはあたがたにはわからないんですけど、
軍隊には看板整列というのがあるんです。
看板整列。
これが夜の8時、夜食事が終わった後、
寝る間までの約小一時間、休む時間がある。
その看板整列に人部屋の兵隊が集められましてね、
一番フリー兵隊がですね、やる気合を入れるわけです。
それでその気合を入れる理由はですね、
いろいろつける。
誰それがこういう不始末をした。
こういうことをやるべきものをやらなかったとかね。
本当に取ってつけたような理由で全員を引っ叩くわけです。
引っ叩くのは、ほっぺたを拳で殴るのと、
それから精神棒と言いまして、
直径約そうですね、野球のバット。
もうちょっと細くしたような約2メーターぐらいの、
1メーター半ぐらいの棒でですね、
お尻を引っ叩くんです。
金属?木ですか?
木です。
金属はですね、消火栓のつづさ木です。
木で引っ叩かれると、木の方は折れないですが、
消火栓で引っ叩かれると、
消火栓の方がへこんじゃうんです。
消火栓の方が。
それでやる気合というやつでね、やられるんです。
これは兵隊だけではなくて、
私の知っている範囲では、
飛艦連中もやっていたようでした。
いわゆる兵学校での、出たばっかりの、
その若い教皇の卵がですね、
古い、まあ古いって言っても、
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古くなるとそういうことは手付けないんですが、
ちょうど中間職ぐらいのがおりましてね、
これが気合を入れる。
ですから、何しろ戦争より怖いのがその木。
だから戦争の方が楽なんです。
それすごいですね。
当時はそんな感じですかね、
戦争の方が楽なんです、戦争の方が。
そういう方の方が。
だから戦争が始まった方が、
仕事は要するに、
同じところにいたら座ってて、
それで気合を見てて、
それで気合を合わせるというか、
針を合わせてどんどんやるんですがね、
そうやってた方がね、
当時は持ってきてくれるし。
だから何しろそういう風な気合を入れるよりは、
そっちの方が楽なもんですが、
さっき言った海の中でぽっくりぽっくりやった方がね、
まだ気が楽で、
ひどいもんです。
そうです。
その気合を入れるというか、
引っ叩かれる大罰というか、
そういうものっていうのはもう、
当時は当たり前ですけど何だろう、
それに歯向かうなんていうのも、
そういう発想もない?
その駆逐艦に助けられましてね、
助けてもらった駆逐艦はね、
浜波か浜風か、
なんかああいう名前でしたが、
ちょっと記憶が遠くなりましたね。
駆逐艦はだいたい200人ぐらいしか
分かっておらんもんで、
助かった約700人くらいは全部ですね、
食居だとか寝る場所とかその分ないもんですから、
助けた後すぐにですね、
我を乗っけてくれたのが武蔵だと。
それがやる10月の23日の夕方までの行動ですね。
それで10月の24日に、
やる米帝沖の方に残った船がどんどん進んだんです。
それで大空襲がありまして、
武蔵が狙われたんです。
ものすごかったですね。
我々は助けられたんですから、
戦闘配置がないんです。
武蔵には約3500、600人乗っかってるんでしょうね。
各自みんな戦闘配置に乗ってますから、
我々は戦闘配置がないもんですから、
戦闘が始まりましても、
船の中に閉じ込まれた状態です。
それで戦闘が始まって空襲で、
大砲を撃つこと、機関銃を撃つこと、
いろいろありましたけども、
結局爆弾が当たったり、魚雷が当たったりしましてね。
武蔵の兵隊がいなくなった戦闘配置には、
36:04
我々助かった方の、
いわゆるマヤのそれに該当するものが、
その補充としてその戦闘配置に着くわけです。
それで夕方の4時頃まで空襲は何回もありました。
一番最後に私たち出て行った時に、
私たちは補充には回らなかったので出て行った時には、
もう見るも無残な船の姿でした。
船の確か左後ろ横に大きな穴が開いてましたね。
そこに同じところに向こうのいわゆる飛行機から落とした魚雷が当たっているわけです。
それでも武蔵は沈まないんです。
それから船の上に爆弾を落としたり、
あるいは機銃で操作したような跡があるんですが、
それも大きな砲塔と言いまして大砲が収まっている。
武蔵は大きな大砲3本を持って、
合計3本を一つの砲塔に抱え込んで、それが3つあるんですが、
9本あるんですね、大砲で。
そのところに当たった爆弾の跡を見ますと、
ボロキレに油を浸して壁にぶつけますと、その跡が残るでしょう。
そんな跡しかなくて、亀裂も何も入っていないんです。
だから相当頑丈な船だということがわかった。
ところが確かに左後ろの方の穴の位置の関係から見ますと、
火事をやられているんですね。
火事?
火事。船の火事です。
方向転換。
ですから同じところをぐるぐるぐるぐる回っているんですよ。
真っ直ぐ進めないわけです。
確かに4時か5時頃に、
武蔵の船頭に乗っかっているのが武蔵の船頭員です。
我々は便乗員なんです。
お客様なんです。
ですから他の船に移れと言うので、
確かに島風という駆逐艦で、
当時としては日本では一番新しい駆逐艦ですかね。
それがやる船に寄ってきまして、
それに移りました。
それで他の船、残った船でさらに出ておきに進むわけですが、
武蔵はどこかへ島に乗り上げて、
そこの包材にしようとしたらしいんですが、
結局真っ直ぐ進めないですから、
結局ぐるぐる回っているうちに浸水してひっくり返っちゃった。
割と人もいったときの、
武蔵のまだ出るときはまだ形は残っていました。
まあひどかったです。
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昔の海賊船でよく小柱の上に紫外環なんかぶら下がっていました。
あんなのがあちこちにあるから。
ということは爆弾が落ちましても中に入らないですから、
上でもって破裂するわけです。
船の上で破裂するもんですから、
船の復元の連中は吹き飛ばせません。
そういう連中はみんな死にるるるってやつです。
本当に亡くなってしまった人たちが。
ああ、ひどかったですね。
私どもはそのときに確かに島下で撃ったのが、
船にいたのは最初700人くらい地下につかって、
島下で撃ったのは400人くらいですかね。
だからもう600人くらいは、
その2つのマナが沈没したときから
武蔵の船頭で亡くなっているわけです。
元は1000人くらいいたとおっしゃっていましたよね。
で、なぜ400人くらいになったかというと、
そのあれは冷凍機で終わりましてね、
それで日本へ帰ってきたときに、
釣り堂というところがあります。
富士山の近くですね。
あそこに隔離兵舎がありましてね、
沈没船の連中はみんなあそこで集められるんです。
そのときに見たら約400人くらいしかいなかったから、
結局300、そのもう佐賀浅という格好になると
約600人くらいがですね、
その2つの船頭で亡くなっちゃって。
で、後から武蔵から、
私どもはね、確かに400人が残ってね、
うちのその前が沈むときに
御礼を掛けた松本という海軍の大佐でしたがね、
この方はおられなかったから、
もう安定に前で沈んじゃったんだろうと思いますが、
艦長の次に副長というのもいる。
副長の確かに伊藤という人だと思って、
我々のことを伊藤部隊に取り付けていきましたから、
それが残ってたと思います。
で、武蔵の連中も、
後から助けられた連中は来たんです。
3000何百人いたんですが、
来たときに300人ぐらい死なかった。
10分の1。
それで、その24日の日に、
確かに突っ込んでいったんですがね、
清掃をやらないで引き返しちゃったんですよ。
引き返しちゃった。
冷鉄塔にどんどんどんどん本気に行って、
そこで動くのは海戦でもあるかと思ったんですがね、
やらずに引き返しです。
それはどうして?
分かりません。
要するに、
まだその時は日本の飛行機は一気に来ないんですからね。
身の前にあっちゃ困ると思ったんでしょうかね。
もう負け戦になるとそういうもんですよ。
負け戦という言葉が出てきましたけども、
当時日本に戦争に行ってなかった人も当然いたりとか、
42:03
いろんな報道で、
やっぱり日本は勝ってるみたいな風に僕も聞いてますけども、
実際海軍の中にいて、
これ負け戦だなっていう。
それは感じない。
そこまでニュースが入ってこないわけです。
分かんないんですよ。
自分、電信でですね、
こういうことがあったとかいう風な立場にあれば、
その電波で入ってきたニュースで分かるんですが、
一切そういうものは出ません。
毎日の新聞なんか出るわけですよ。
そうですよね。
口自体しかない。
それも噂から噂っていう格好だけで、
何々がやられたとか、
やられたそうだとかいうことしかないんですから。
ただ要するに、
これはひでえもんだなということだけは分かります。
自分の船がやられたから左じゃなくて、
他の船もやられてますからね。
自分の船もやられてもしょうがないと思う。
そういうあれもありますからね。
まだまだあるときは負けてるという気がしますね。
負けた後も、
気が起きたのはね、
それで何しろ戦争じゃなくて、
そのあれを、
あそこのレディ島から帰りましてね、
レディ島から帰ったときに、
どこへ行ったのかな?
トラックのあの辺はもう全然占領されてますから、
寄り道がないと思うんですが、
先に乗っかって帰ってきた時に来たのは、
武蔵から、
確かにマイズルのね、
あの船には、
各、
ヨコスカ、
クレー、
それから、
サセホ、
それから、
マイズル、
大港、
あるんですが、
マイズルの諸葛なんですよ。
マイズルの、
あれを諸葛にする、
トネトネ、
もう一艘、
二台ある、
二機、
二つの禁用艦があったんですね。
そのどっちかに乗っから、
トネトネ、
何だったかな、
あれは。
何しろそれはね、
その船はまたおかしな船で、
あの普通は、
あの禁用艦が、
前の方に、
二つの大砲を持つ、
いわゆる砲塔というのが、
三つ、
後ろに二つ、
合計十万あるんですね。
そのトネとかは、
もう一つの禁用艦は、
前の方に四つあって、
後ろの方はね、
飛行機を乗っける看板が、
いちあってね、
特殊の禁用艦だった。
それに乗っかって、
帰ってきたのがマイズルでしたね。
帰ってきたのは確かに、
十二月でしたかね。
そうか、十九年。
その年。
それで、
汽車に乗っかって、
いわゆる、
外に出すわけにはいかないですが、
汽車に閉じ込められて、
いわゆる辻堂まで乗ってから、
で、辻堂から終わって、
45:00
今度は、
我々400人が残りましたのに、
行く場所がないわけ。
で、私は、
結局どこに配属されたかというと、
千葉県に、
カトリ航空隊という航空隊がありまして、
航空隊というのは、
航空隊という名前であっても、
航空兵とか、
そういう飛行機乗りのいる場所ではなく、
空軍とは違う。
いわゆる、
教育機関のあれですね。
整備士とかそういう関係。
で、その航空隊の、
道路をへざった向こうに、
カトリ基地と言って、
戦闘機とかそういうのがいる場所があるんですが、
そっちは戦争の戦地なんです。
航空隊の方は内地。
で、そこへ、
私は転勤しました。
で、
そこで電話交換機がありまして、
あれはね、確かに、
いわゆる交換手、
金材の女の子ですね。
それが、
24人いましたよ。
で、24人で、
半分個ずつ交代でね、
12名ずつ、
やると翌日がまた12名。
学校でやって、
そこ行って私は交換手を打ち上げてね、
何にもしないで、
その航空隊にいましたけどね、
それは場所はね、
昌志都、それから、
旭町という町があるんですがね、
その旭、
8日市場、
あの辺で、
日形と言いましたかね、
そういうところにありましてね、
落下性の産地ですよ。
そこのところ大きな、
飛行場がありまして、
それがカトル基地。
それから私たちのみたいなカトル航空隊。
そこに昭和20年の1月でしたかね、
12月に内地に帰って、
1月にそこに転勤して、
8月にですね、
千葉県のあの辺にですね、
米軍が上陸してくるだろうというわけで、
私は何枚の航空隊、
今のトヨタ、
昔コロモと行ったんです。
そこへ転勤になりました。
それで終戦です。
8月15日。
それで8月15日に終戦になりましてね、
山の中ですよ。
山崩して飛行場にしたところですよ。
名古屋航空隊っていうのは。
それでそこに、
12月頃までというかな。
ここは、
そこへ向こうから接種員来るわけですよ、
米軍が。
その時に接種の、
いわゆる接種員で残されたわけです。
それで9月に来る予定がね、
台風がありましてね、
延期になっちゃって。
本当は9月頃に帰る予定が、
結局12月頃まで。
そんなのをしたんですね。
その時はだから内地のことはほとんどわからないです。
戦争終わってるのに。
48:01
戦争が終わってるのは8月頃に終わってるんですが、
要するに、
その向こうのね、
9月に来るというやつが来なくてね、
11月頃にやっと来たんですが、
その時に向こうから来たのが、
向こうの戦闘機でしょうかね、
あれが連絡機でしょうかね、
なんか飛行場に降りたんですよ。
降りたのは、
あ、来た来た来た、大変だ敵だ敵だ、
敵さんが来たよって言って、
出て覗いたらね、
来て、
飛行機が止まって出てきたやろうが、
何したかと思ったら、
いきなりタッチ準備して、
その時に初めて、
あ、戦争終わってきた。
本当にあれですね。
だから敵の顔を見たっていうのは、
要するに、
飛行機があそこの時に、
ショートランドで落っこった時に、
目の落っこったあれを、
向こうの操縦士の顔は見なかったんですよね。
持っている、
いわゆるどんなものを持っているのかって見たら、
いわゆるいろんなものを持っていましたよ、
ケーキだとかチョコレートだとか、
身の回りのものがありましたしね。
だからあと、
いわゆるコンド。
それまで乗っかってたの。
使う機械あるんですかね。
あるんでしょうね。
いいや、あるでしょ。
それはもう墜落したから、
そのパレットはもうなくなっている。
もう死んでいるけど、
その姿は見えた?
見えた。
見た。
ですから、
戦車の船ですからね、
いわゆる水槽です。
いわゆる毛布に積んで、
もちろん木箱を作りましてね、
毛布に積んだものを入れて、
それで、
船の一番後ろの方の、
後看板、
後ろの看板と言うんです。
後看板で、
だいたい、
その到着に立っているもの以外は、
集まりましてね、
それで、
ラッパで鳴らしながら、
小銃を3発撃ちましてね、
それで、
いわゆる道板っていうことは知ってますか、
いわゆる、
船から港を渡す時に渡る板、
その道板に乗っけましてね、
両方から3、4人が持ってね、
船は止まっちゃいませんから、
どんどん動いてますから、
そこで、
それに合わせて、
みんなを追って、
あと3回ばかり同じところをぐるぐる回るんです。
それでおしまい。
それは当然、
自分の日本軍ですね。
そう、日本軍ですね。
向こうの連中のことについては、
どうしたか、
知りません。
だから、戦争の悲惨さっていうのは、
自分の声優がそこで腹の、
打たれて、
腹膜炎で3日目に死んじゃったのと、
それから、
その死んだのを水槽にしたのと、
それからあと、
ラボールでやっぱりやられたんですがね、
その時はあんまり記憶にないんです。
51:01
で、ラボールの連中はどうしたかというと、
指をね、
指先だけ切りましてね、
体は水槽にしちゃって、
で、指先だけを指輪に持って焼いて、
それで、
おこつして持ち帰ったようですけども、
大抵は中、
紙に書いた、
それしかなかったそうです。
あ、そうなんですか。
ね。
まあ、戦争のね、
本当に悲惨だなと思うのは、
そんなところもありですが、
自分の身のことを考えるとね、
悲惨だとか怖いとかね、
考えたことなかったです。
今はそうすると、
海軍として船に乗ってたというか、
基本的に陸地にいなかったら、
もう3年近くぐらい?
いや、
そうですね、
でも、
大体ね、
生物がないですからね、
一番最初困るのは水ですよ。
朝、
歯を洗ったり歯を磨くのは、
これはもちろん毎日やるんですが、
その時にもらえる水は1リットルです。
それで歯を磨いて、
歯を洗って、
まあ、極端なことを言うと、
帽子と靴下か、帽子とフンドシぐらい洗っちゃうんです。
1リットルの水。
はい。
お風呂といっても、
陸上部隊ならば別ですが、
船の場合はですね、
水を3杯くれるだけです。
その3杯のあれは、
1リットルが3つです。
水ですよね、しかも。
お湯じゃなくて。
お湯じゃなくて、3リットルの水です。
それで、
よく間違いなく3リットルもらえるというのはですね、
そこに入っていく時に、
小さな小瓶のコマのやつを3つくれるんです。
1杯入れてもらうたんびに、
それをやっているのに渡すんです。
そうすると、それを渡すものの中ではもらえないんですよ。
それで体を洗って、
もうそれで洗濯して、
で、よく言われたんですがね、
タイの白いものは、
着てますか、割合に。
乾くの。
乾けば白くなるっていうわけ。
洗って、石鹸がついてるのなんだろうね。
乾けば白くなるんです。
で、
実は、
もちろん太陽の光線で当てて乾くのが一番いいんですが、
風があれば乾くんですね。
ですから、曇り空でも風がある日だったら乾きます。
これ実際その船に乗っている時に、
もうその時期にも言ってますけど、
どんな食事だったんですか。
食事はね、
やっぱり麦飯です。
大体ね、
ご飯、
それからおつゆはね、
なっぱに、
なっぱに大体、
癒しを、
癒し犬を
潰したようなやつかな。
それで、
あとはたくあんは、
54:00
二切り紙切れ。
時には梅干し。
これが三食ですね。
朝昼晩何。
ただあの、
船が港に入りましてね、
いわゆる出港とか入港、
その日の晩はですね、
一杯飲ましてくれる。
あ、そうなんですか。
はい。
これだけは間違いないです。
ただし、
それもその、
一番下の序列の兵隊からすれば大変なんです。
飲んだ後の食器をですね、
またご飯に使うわけですから、
それを洗うのが大変なんです。
ビールだとかお酒だとか、
昔はね、
入れ物はね、
食器はお茶碗じゃない、
割れちゃいますからね、
お茶碗ではないんです。
ベイクライトでもないんです。
昔はベイクライトではないんですけどね。
要するにホウロウ引きの、
ホウロウで引いたやる器なんですから、
お酒だとかビール入れなきゃ匂いがつくんです。
この飲んだ後をですね、
翌日それまた、夜でしょ、
翌日の朝にまた使うんですから、
そのままにやったら、
ほらあんた看板せいで、
大事になりますわ。
それを飲んだ後、
少しぐらいフワフワ酔っぱらいながら、
きれいに磨き上げなきゃならないわけです。
それがきついもんですから酒が強くなりますよ。
食事は専門で作る人って言ってるんですか?
それは宿泉兵と言いましてね、
最初から決まってるんです。
我らには水兵でも、
水兵というのはですね、
例えば砲火とか水位火、
それから通信火、信号火、
宿泉兵ってのは、
砲水兵と言いましてね、
それ専門のも決められると、
朝から晩まで食事のあれやってるんです。
戦闘になったら何するかというと、
地兵の中でも応用火っていうのがあるんです。
それが船の要するに、
穴が開いたところとか、
それから傷がついたところを補修する兵隊。
陸軍の工兵とは違うんですよね。
そういうのが応用火と言いましてね、
それの補充をやったり、
それから戦闘配置の、
例えば機関銃を撃つ連中、
大砲にはいないでしょうけど、
機関銃を撃つ軍人とかそういう時の、
弾を運ぶ連中、
そういう補充の関係をやる。
そういうのと、あと砲水兵のやり方は、
食事を作るのと、
そういう応用火の補充兵として動く。
あと湯向かっていうのはありますね。
57:00
これは看護兵が3人くらいの、
小校が1人くらいの、
病院長とか何か言っても、
中尉か大尉、中尉くらいの若いのがやってましたからね。
それと看護兵みたいなのが3人くらいついてる、
そんなもんですよ。
秀郎さんは、
水兵で私はね、
普通の砲術家にいましたから、
砲術家。
大砲のほうの関係ですね。
それは実際戦闘になったら大砲撃つ?
いや撃つんじゃなくて、
私は測敵っていうところでね、
さっきおっしゃってた。
距離を測る、
あれでもあるんです。
それはですね、
大砲の、
一番に私の当てがあったのは、
大砲の、
1番、2番、3番、4番、5番って、
5つ砲筒があるんですが、
前のほうから1番、2番と言いましてね、
1番に高いところにあるんです。
そこに、
砲筒にですね、
即興銘というのがついてる。
即興銘というのがついて、
2人いましてね、
右と左を見ていて、
その即興銘というのは、
レンズで合わせますとね、
先方の、
垂直のものを捕まえて、
その垂直のものが分かれてるのが、
一本になったときに、
距離が出てくる。
その距離を測るのが即敵です。
その即敵のあれの、
連絡兵という格好で、
私が両方の真ん中にいましてね、
大きなゲージがあるんです。
右のほうの、
あれ測ったのと、
それはもう兵隊ではなくて、
科士官がやるんです。
それが測ったのが、
針が出てくるんですよ。
私がその針を追っかけるわけです。
その針を合わせてくるんです。
その合わせたのが、
私が一番最後にいた環境に、
即敵所というところがある。
そこに集中して集まってくるんです。
そこで集まったものをまた、
計算し直して、
一番トップにですね、
法律庁というのがいましてね、
確かに法律師かな、
兵隊では一番古いね、
法律家というと、
大砲専門にやってるやつ、
一番古い科士官のあれがですね、
大きな眼鏡で覗いてまして、
その眼鏡と、
こっちから上がってたいろいろデータですね、
それが合わせて、
それがまた1階の船の底に降りてって、
それでまた計算し直したやつがね、
また戻って、
そこで引き金をね、
引いてやったときに、
各大砲にそのデータが行きましてね、
データの大砲に
シャッシというのがいましてね、
1:00:01
それがまた大きな針を追っかけるわけです。
この針が正規に動いてると、
この針を追っかけますと、
大砲が上がったり下がったりして、
これが重なったときに、
一番特殊なのがあれが、
引き金をね、
打ったときに重なった大砲だけが、
大砲の弾が出るんです。
重なった弾は、
下手くそだけど出てこないわけです。
無駄なことはやらないわけです。
そのまま私がやってるのは、
即拒否の連絡があるわけです。
それが戦争が始まります。
会議としての3年の話もそうですけど、
恐怖とか、ある意味麻痺してるじゃないですか、
お話をおっしゃってましたけど、
そう言っても毎日寝るときに、
明日生きてるんだろうかとか、
怖くて眠れなくなるとか、
その間でもほとんど麻痺ですか?
麻痺です。麻痺してますね。
麻痺というよりは、考えも及ばない。
要するに死ぬのは当たり前だという、
最初からのあれですからね。
その最初というのは入った時から?
入った時から。
もうそれだけの要するに、
周りの環境がそうだったですからね。
軍隊っていうものはもう、
行ったら死んじゃうもんだった。
そういうあれでした。
逃げたいとか、生き延びたいとか、
将来生き延びてどうしたいとか、
まだ私の時はガチ弁庫で、
好きな人がいたとか、
そういうこともないですからね。
未練はなかった。
じゃあ親父やお父さんに対して、
どうだったかというと、
私自身もそれほどね、
今の家内と、
私がいた福田の家に、
私も行ってたわけですからね。
家の親父やお父さんとは、
接触はしてましたけどね、
ちょっと離れてましたからね。
ありあえずそういう点は、
気が楽だったです。
もうご結婚されてたんですか?
いやいや、まだ。
とんでもない。
もう親父と親父の知り合いだったもんですから。
そうなんですか。
でも、私は新潟県ですからね。
新潟県の長岡という町だったんです。
あそこら辺はね、
どっちかって言ったら軍隊はですね、
陸軍の軍隊ね、
仙台に大西団というのがありました。
そこはだいたい、
だいたい普通は軍隊入って、
大西団に就活するんです。
私の場合は、
私は生まれは東京なんです。
あ、そうなんですか。東京はどこですか?
浅草です。
あ、そうなんですか。
で、本籍も浅草。
今は麻布なんです。
家内が麻布だった。
だから、東京だったもんですから、
浅草のところの、
浅草のやはり本籍のあるところで、
1:03:01
徴兵検査を受けたんですが、
その時には、
私なんかも新潟県に住んでいたことがあるもんですからね。
陸軍でもどこかなと思ったら、
その時に、やはり守衛兵という格好で、
特別かなと思って。
だから、もし私が陸軍でいて仙台に行ったらですね、
仙台の連中はガザルカになるので、
みんな死んじゃってるんです。
ひどいもんですよ。
で、新潟県の長岡町は、
戦争が終わった8月の1日、
15日じゃなくて、
11日に空襲でやられましてね。
あれはなぜかと言っても、
山本一郎君があそこから出たから。
それの控え室ですよ。
で、私の住む下の妹はそこで亡くなりました。
だから軍隊で、
軍隊に行った私も、
兄貴は陸軍だったんですよ。
これは中国に行ってて、
帰ってきましたけどね。
内地にいた方の、
あれが、要するに私の住む下の妹でしょ。
これは、私の亡くなったお袋の弟というのは、
浅草にいましてね。
3月の10日の大空襲。
あれの時に亡くなってました。
おじさんです。
おじです。
だから、戦争の、
やっぱり被害者は被害者ですけどね。
自分自身は何ともなく残っちゃって。
戦争が良かったか悪かったか、
なんて考えたこともなかったですよ。
今でもね。
戦争があの時に日本が勝ってたらどうなったかな。
勝ってたら、もっと酷くなったのか。
それともね、朝鮮人じゃないけども、
半分と半分となってね、
やってるかな。
色々ありますが、
まあ、負けて良かったのかもしれないな、
という気はありますね。
それはもうちょっと聞くと、なぜそう思われますか。
要するにその方が、
まあ、自分が納得するからでしょ。
納得する。
それはどういった点で。
そうですね。
人を直接に殺したり、
あれしたってことはなかったって言うあれもありますね。
これでやっぱり、
そこまで自分を自制してるわけじゃないんだけども、
そういう巡り合わせ環境の中を
抜かされたというあれはありますね。
ですから、学生時代のあれも、
毎晩、毎日遅くまで戦闘訓練ばっかりでしょ。
はい。
それから、奈良市のというところがあります。
あそこまで行ったり、
今は代々木のあんな町になってるのに、
代々木の練兵場。
昔、練兵場があったんですよ。
1:06:00
あそこでね、戦争ごっこの経験をさせられたりね。
色々ありました。
だから、そういうものが普通だと思ってました。
普通だとってありましたけど、
とりあえず楽しくはないじゃないですか。
楽しくはないです。
それが普通だと思う。
諦めようもないんですね。
みんなそうやってるんだというあれが、
もうミンチじゃってますね。
その船で2年とか3年弱いる時って、
僕から言わせてくれれば、当然非日常なんですけど、
逆に日常にそれがなってた?
そうなんです。
だからなんだろう。
支えになったものはありますか?っていう質問も
あんまりピンとこない感じですか?
ないですね。
例えば、家族のお父さん、お母さんとか、
やっぱり経験してないと何かが支えになってない。
やっぱりね、
ゆもん袋だとかさ、
手紙はもらえば嬉しかったですよ。
やっぱり手紙届くんですね。
届いたんです。
家内からの手紙が来たことはありますし、
お人形を送りましたって言っていたんですが、
残念ながら人形は来なかったです。
多分途中で他人食ったんですよ。
それ逆に手紙を返せるんですか?
自分では返って出すんですが、
ついているかどうかは分かりません。
それは船後確認したことはあるんですか?
ないです。
書いたことは、当時書こうなんて気はなかったです。
書けるという、
そんなことまで考えたことはなかったですね。
家内のことをもらったことは嬉しかったですよ。
何もないですからね。
食べ物はさっきそんなもんでしょう。
水のあれもそんなもんでしょう。
水のありがたみだけは大変だったですよ。
だから船がやられて帰ってきて、
一時、築地堂あたりから鎌倉あたりまで散歩、
興奮したことはありません。
あの山道を通るときに谷川の水がちょろちょろ流れて、
あれ見て本当に羨ましく思いましたね。
水の大切さですよね。
今はもう水なんて流れっぱなし。
いくらでも使ってもね、
何とももう感じなくなりました。
もうそれだけの年になったんですよ。
当時、帰ってきた、
24のあれで帰ってきて、
5、6年はまだ水のありがたみというのは
そのうちまでも頭にありましたね。
船の生活については、
どっちかというと陸軍さんと違って、
あれ考えて住むというあれが大きかったですからね。
だから割合、陸軍さんに比べれば
私は陸軍隊に対する教訓はありますね。
でもその何でしょう、その中で、
1:09:02
些細ではないと思いますけど会話?
その同僚というか何を話してたんですかね。
ほとんど同僚と話をしたという記憶はないですね。
その2年とか乗ってても。
言ってても、私なんかはね、
常には、さっきも言ったように段階、
そのいわゆる年数によってあれしますがね、
その2年乗って私がぼかちん食ったときも
昭和19年には私は兵隊のほうでは時の。
というのはもう階級ではなくて、
古さで、わずか2年半くらいで。
で、各そういう兵隊の、
そういう部署部署によってですね、
第1部隊が大砲の関係、
第2部隊が降射砲の関係、
第3部隊がいわゆるこれはね、
船の大砲関係のあれをあれするんですが、
即席と同じような関係、
私どもいたのは4部隊なんです。
4部隊では私の兵隊が一番トップでね、
トップになりますとね、
いろいろ役職がありましたね。
兵隊の中では役割、
それから看板助手、リア長、
役割というのはですね、
何もしないで船が動いたときに
いろいろサイン音が出てくるんです。
そうするとどこそこの兵隊、
あるいは何人かの兵隊が
こういう仕事をさせろというのに、
上の方から指示が出るんです。
その役割というのはそれを受け止めましたね。
おいお前どこそこの作業に行け、
お前は何々の仕事をやれ、
いうことを役割という名前のあれでですね、
決めるんです。
それからさっき言った看板整列、
これの引きは役割です。
私は身体が小さかった。
当時50キロ8つだった。
私が殴ったら、
殴るほうが痛くて叶わないです。
それで私はね、
非常に小しい考えだったんですが、
私のすぐ下には2、3人、
2、3人、私よりジュレットの低いのがいるわけです。
それを呼びつけて、
今日のこごとはこういうことでやれと。
お前らの頼んだからこういうことになるんだと、
その3人ばかり引っ叩くわけです。
3人ぐらい引っ叩いたら、そんなに痛くないんです。
で、後は夜の看板整列、
ずらっと2、30人並ぶわけです。
で、その3人なら3人がですね、
個々にですね、
それぞれこごと文句を言うわけです。
1:12:03
それで精神がたるんでいるわけです。
その3人が交代で2、30人、
携帯を殴りつけるんですね。
気合を得るっていうことで精神棒をつける。
でもそれまでになるには、
私も何本精神棒で引っ叩かれたか分かりませんし、
何発引っ叩かれたか分からないです。
でもそういうこともやったこともあるんです。
だから、さっき言った水の耐熱なんてのは、
洗濯のときに分かるんです。
洗濯のときに大きなたらえが3つありましてね、
これに船で、船は重油で炊いて動くんですが、
重油を1トン炊きますとね、
5トンの回水管、やはり真水と言うんですが、
水ができるんです。
それを配給してくれる。
その大きなたらえ3つ。
たらえの名前はオスタップって言うんですけど、
これはイギリスの軍隊の名前じゃないですかね。
日本じゃないですね。
オスタップ、それから石油管、
リットガンですね。
あれをチンケースと言うんです。
それのオスタップとチンケースを、
その各4分隊なら4分隊の兵隊の人数によって、
何リッターって水決まってますからね。
それを、いわゆる水を供給してくれるわけです。
それで、その時に一緒に、みんなで一緒に洗濯をやる。
洗濯をやるときは看板です。
そこでやって、最初は水できれいに石鹸でやって、
それからまず浸して、あれして、
一番最後に残った水でまた湯すぎ上げするんですが、
それは古い兵隊から先にやられる。
あとの兵隊はもう石鹸でドロドロになる。
だから何回も言うんですが、
言われることは、乾けば白くなる。
そういうこともあります。
何しろ、本当に記憶に残って、今もないですがね、
やはり水の大切さだけが、
その人形館に乗っかっても、みんな死んでいました。
食べ物に対する苦情はなかったです。
お酒が効く、乳腐を引っ込むときにお酒が出ると言いましたね。
そのときにおかずなんてのは、
せいぜい缶詰、沢の水煮ですか、
それから鮭缶ですね、これくらい飲んでね、
あとは何を出すかというと、
玉ねぎをスライスしたやつ、
1:15:02
それからごぼうをスライスしたやつ、
常にそういう野菜としては、
大根、玉ねぎ、ごぼう、
いわゆるくしゃりが細いものが乗っかっている。
それをもらえるわけではないです。
それを買っ払いに行くわけです。
大抵そういうのは、金網のあった倉庫にあるんです。
その金網のどこに穴が入っているかというのを、
先にちゃんとチェックしておきましてね、
そこからいくかにかすめてくるんです。
大軍で言いますと、これを銀梅と言いました。
それをナイフ、昔、死後の紙のナイフ、
あれは大抵みんな持っていました。
包丁なんかないんですが、みんな持たせてくれません。
死後の紙なら置いていた紙のあれですが、
その死後の紙というやつでスライスにしました。
それだけに、味は何でつけるかというと、
当時はお味噌は、粉末のお味噌もあったんです。
それは顔の聞いたのが、いわゆる死刑兵からもらってきました。
それを振り返って、
端で食べたらすぐなくなっちゃうものですから、
爪楊枝ついて、食べながら飲むんです。
だから、スライスした玉ねぎは美味しいというのは、
今でも私は美味しいですよ。
そんな思い出ともに語っていただきましたが、
それこそ今、平和になれてすごく恵まれている僕らなんかすると、
やっぱりそれでも当時を想像すると、
千人減って何百人ですが、
気が狂う人っていなかったんですか?
あのね、
本当にもうおかしくなっちゃう人は。
いたんじゃないかと思いますが、それもほとんどあれだと思います。
何があったかはわかっていませんけど、
何かはあったと思います。
当然、そんな顔を全員が覚えているわけではないわけですよね。
覚えていません。
自分の戦闘配置と、
どうやって、何しろ船が動いている最中に戦闘が始まったら、
全部戸は閉まっちゃうんですから。
水が入らないように、
全部戸はガッチリ閉まりまして、
通行の数人は、
せいぜい直径50センチくらいのドアのところに、
50センチくらいの穴が開くようになっていて、
それも扉ですよ。
それを通ってから、下手すれば、
自分の戦闘配置に行かれなくなっちゃうこともある。
戦闘が始まって、
戦闘配置につけないといったら大変ですよ。
普通、押し分けというのも何でも自分の場所に飛んでいくんですからね。
だから、もし中には、
もちろん船に乗っける時に、
1:18:00
適正検出ではないですけども、
こういうものは乗っけちゃいけないというあれがあってね、
それは選別されたと思いますよ。
とってもこの野郎は、
集まればね、
三大図鑑の海兵団、
いわゆる海兵団で教育しますよ。
だいたい分かりますからね。
こういうのは除外されて、
船に乗っけないようにしたと思います。
そういう戦は、また繰り返しますが、
鬼野山城、栗知恵赤道のは、
もう最初から言われてましたからね。
だから山城とか、赤城は国防団ですね。
山城は戦艦で、
まあ、長ともつに比べると、
ものすごいでかいあれですが、
戦艦だけはいかないように、
いつも思ったから私は、
お前、どこに乗りたいんだって言うから、
自由に乗っけてください。
自由、自由、自由に乗っけてくださいって頼んだっていうのは、
さらに私、あの時、100何人海兵団に、
私のところが第二部みたいです。
私はね、どっかのトップだった。
ですから、お前が希望を聞いてやると言われて、
で、もらったのは万年筆です。
海兵、あの、兵学校だったら探検課なんかもらうらしいですけどね。
私がもらったのは万年筆です。
確かに名前が入っていたと思いますがね。
それで、そのペンは確かに、
あの、私が海兵団を卒業するときに、
亡くなった親父が面会に来ましたんでね。
それに私も。
だから、たぶんあれはどうなりましたかね。
戦災で亡くなったかどうかしましたでしょうね。
残っちゃって言いなかったですからね。
そんなもんです。
だから、割合その点はね、
気軽に一目置かれたというところはあったと思いますね。
68年経って、今、先ほどお孫さんもいらっしゃってましたけど、
お孫さんや僕、これから生まれる人に対して、
伝えたいこととか、
まさに今日のインタビューはそうだったと思うんですけど、
改めて最後にそういうメッセージ、伝えたいことと、
あと逆に今の人たちを見て感じることも含めて、
最後にメッセージいただけないかなと思って。
そうですね。
戦争はやらなくていいものはやらなくていいけれども、
どうしても必然的に起こるものでしょう。
争いは、どこまであっても争いで残りますよ。
これはその時の、もう、
私は運命同士ではないんですけども、
運命でしょうね。
回り合わせ、巡り合わせでしょう。
そこには巡り合わせなかった人もいるんですから。
この戦争に行っても。
ちょうど私たちの年来のものがぶつかって、
1:21:00
私がその戦争、いわゆる徴兵を延期しないで行ったためにですね、
海軍というところにいて、
2年も乗っかっていてですね、無事に帰ってきたんですが、
私と同じように同期のものは、
戦争の長期兵を延期して、
いわゆる学徒動員に引っかかっちゃった。
ですから私の知り合い、私の同級生というものは、
新潟県にいた連中は、長岡にいた連中は、
仙台にいた、いわゆるガザルカナで亡くなった。
だから8月1日の空襲で亡くなり、
だから学徒動員で亡くなって。
私の知っている範囲、一人もいません。
私が海軍の三河湾で乗っかった時に、
私と一緒に乗っかった84人ですね。
内地のそこの戻った時は5人だ。
あとはどっかに転勤したか、返信したか、分かりませんけどね。
最初、顔を合わせたのが5人だけです。
そんなものが現実です。
だからほとんど私は、軍隊にもいた連中と、
それから子供の時の知り合いとか、
ほとんど今現在いないです。
年取った生もあるかも分かりませんが、
そういう方たちの絶えというのは見たこともないし、
全然何かの時に、いわゆる前に乗っかっておりましたという
運動を探してみるんですがね。
一人もいません。
だから私と一緒にいました、
広報生の、あれが池田というんです。
この人は東北大学の教授になっていました。
戦後ばっかり東京で会いましてね、
鹿児島への生まれの方だと思うんですが、
私のまだ家内と一緒になる前です。
私は家内のときに同居してましたからね。
その時に面会に来てくれましたけど、
その人ぐらいの方でしたね。
その人はもう亡くなりました。
池田清という人でしたね。
あとはもう軍隊で知り合いというのもいないし、
そちらから積極的に探そうという気もありませんしね。
貴重なお話を鮮明に、経験してないですけど、
すごく映像に出てきましたが、
今日は埼玉県狭山市の福田秀郎さんにお話を伺いました。
福田秀郎さんどうもありがとうございました。
どういたしまして。

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