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こんにちは、早川洋平です。今日はですね、広島県呉市、ここは焼山本城の菅田芳樹さんのご自宅にお伺いして、お話を伺いたいと思います。
菅田芳樹さんは、大正15年、10月1日生まれ、今年87歳になられます。よろしくお願いします。
いや、先ほどインタビュー前にもお話したんですけども、とても87歳には見せず、とてもお元気で、すごく驚いたと言うとちょっと失礼かもしれないんですけども、今日いろいろお話を聞かせてください。
早速なんですけども、今回のこの【戦争の記憶】という企画自体が、先ほども少しお話ししましたが、1945年第2次大戦、当時終わった後、始まる前というか、終わる前か、そのあたりのことについて、少し当時の記憶をお話し伺いたいと思うんですけども、
そもそも、その第2次大戦当時前後、菅田さんは、もともとこの呉のご出身でずっといらっしゃったのか、そのあたりはどういう感じだったのか。
親父が海軍の軍医をしておりまして、転勤をわちこちしているんですが、親父は割に苦労が長かった。
そうなんですか。
最後は、マイズルの海軍病院長をやって終戦になりました。
そうすると、お父様は軍医でいろんなところへ転勤とおっしゃっていましたけど、陽式さんも一緒に、つまりご家族、お父様と一緒にという感じだったんですか。
ほとんど暮れでしたからね。
そもそもその遺体期間が。
その中、1年半か今言う兵学校の軍医長も、やった時は家族で江田島へ行って、1年、2年弱暮らしました。
そうなんですか。
陽式さん、ご自身はお生まれはどこになるんですか。
お生まれはどうも東京のようです。
親父が東京で勤務している時に生まれたようです。
ご自身の記憶としては。
全然ない。
そうすると、さっきおっしゃっていたように、長く呉にいるという感じですか。
小学校に入った時は呉で、今言う江田島の兵学校の小学校へ、2年か3年ぐらいに行ったんですね。
あとは全部呉だよ、学校。
そうなんですね。
いずれにしてもこの広島の特に呉周辺で、基本的にはお生まれお育てになったという感じですかね。
そうですね。
早速そこのお話を伺いたいんですけども、
そうすると、軍医のお父さんをお持ちになるご家庭に生まれたということですね。
菅田さん、今87歳とおっしゃっていると思うんですけども、1945年がちょうど68年前なので、当時はもう19、20歳とかそのくらいだったという感じですかね、第二次大戦が終わると。
もう20歳前ですね。
その頃はどこで何をされていた感じですか。
海軍の兵学校で生徒を。
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海軍の兵学校で生徒というのは、基本的なことから教えていただきたいんですけども、兵学校というのは、いわゆる海軍の兵隊の学校、それとも軍医。
海軍の将校、将校を養成する学校でして、兵学校と海軍兵学校、海軍機関学校、海軍警備学校、この3つの学校がありました。
私は兵学校に入ったわけです。
兵学校ではどんなことをするんですかね。
もう普通に一般の教養課程が多かったですね。
もちろん法術とかいろいろ忘れましたが、軍事の授業もありましたけれども、ほとんどが一般の。
時の校長側の有名な井上正美。
入った時の校長が海軍のサンバガラスに言われた人で、最後まで英語をやらせていました。
ああ、そうなんですね。
陸軍は昭和15年ぐらいで英語はやめたんですけども、
自分の国の言葉しかわからない、海軍証拠はおらないと言って、井上さんが反対を仕切って最後まで英語をやらせていました。
終戦と同時に卒業しました。
今の軍事の授業があったとおっしゃいましたけど、当然私の世代は受けていないわけで、具体的に覚えていらっしゃる範囲に、どういうことを教えられたんですかね。
うーん、それは忘れてしまったけれども、やっぱり航海、実とかいうのはごくクソですね。
もう船に乗って何をするか言ったら、どっちもできない。
船に乗って実際に修行せんと、まだ一人前にはなれないような授業しか受けていない。
むしろ科学とか物理とか、一般の何が最後までありましたね。
海軍兵学校っていうのは、当時、菅田さんが19、20歳ぐらいとおっしゃってましたけど、今の僕らに当てはめると、単純に言うと大学生とかの世代だったと思うんですけども、
そこに入るまでの経緯っていうのは、例えばそれまでは、当時は高等学校という名前だったかわかんないですけど。
中学ですね。
中学4年の時に受けましてね。
4年の時は落ちたんです。
難しいですよ。当時はもう兵学校にいたら、もう何十倍の面白い話は落ちますとね。
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次の日からいかんでいいんです。
で、受験写真と内心証みたいなものが放り投げてあるんです。
それをコソコソと拾って帰って、恥ずかしげに帰ったものですがね。
5年の時に、4年から受けられるんですよ、中学の。
4年、5年と受けて、5年の時は通ることができたんですが、4年の時はずいぶん恥ずかしい思いがしました。
それ、試験っていうのは、逆に今の兵学校の試験ってどういう試験があるんですか。それこそ一般教養。
普通の試験です。
で、第一日が英語。第二日が数学。
で、3日か4日か受けるわけです。
そこに例えば、僕の勝手なイメージだと兵学校って体力の試験とか。
身体検査は別の。先に身体検査をやるんです。
身体検査を通った者が学科試験を受けるんです。
身体検査もすごいハードな試験というわけでもないんですか。特に病気がなければ。
ハードですね。特に視力が1.0。ないといかれるのです。
視力がメガネをかけとるような人は受ける資格がない。
南方軍人になりたくてもダメですね。
あとは、そんなに身体検査の結果とか何とかいうのがない限り問題がなかったように思います。
身長の制限とかそういうのは特に。
身長、体重はごく普通で。
ものすごく小さくない限りは。
そういうことです。
受験写真がパンツ一丁での写真なんですが、
これは入れ墨があったりとか、大きな障害みたいなものがあったときは、
将来小校になったときに部下に笑われるから、
後ろ指を刺されるから言うんで、そういう人は通さなかったようです。
お父様が軍医でいらっしゃったということですけども、
その時から当然のように将来その姿もお父様を継ぐというか、
自分も医者になるというのも決めてたんですか?
医者はもう、ならずに兵学校の軍人になる方ですね。
選択肢としては、兵学校という選択肢だったと思いますが、
そういう軍医というか、医者になるための学校に行くという選択肢もあったんですか?
ありません。
それはないんですか?時代が許さなかったって感じですか?
時代が許さなかったんですが、
ただ終戦になって兵学校を卒業した者は大学を受ける資格をくれたので、
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親父に相談して、私は文学部に行きたかったんですけども、
親父が医学部に行けというので、医学部を受け直して幸い合格したんですね。
そうなんですね。
お医者さんに何が何でもなりたいといったわけではないんですか?
何が何でも昔からお医者さんになりたかったというわけではないんですか?
それはもう一切ありません。これは軍人一本やりです。
まさにね、さっき菅さんおっしゃったように、兵学校も入りたくても、そもそも試験に行かないと入れない。
軍人になってということがあったと思うんですけども、
その当時の時代の背景もあるかもしれないですけども、
やっぱり兵学校に入るというのが、一つの当時の若い男性たちの目標であり、
憧れであり、国のためにみたいな、そういう気持ちだったんですね。
そうですね。特に軍人を希望する人は、専門でもおりましたけどね、
高等学校で行って、帝国大学を出て役人になるとかいう希望の人もおりましたけども、
普通、みんな軍人は希望しましたね。
私は小学校の今言う3年生から2年から3年にかけて、
江田島の兵学校の中の小学校へ行ったものですから、
生徒の厳しさ姿をチラッチラ見とわる間に憧れましてね、
もう兵学校一本やりで、陸軍の試験は受けていない。
海軍一本やりで。
そういう幼い頃の見たものって、結構影響されますもんね。
ちなみに、ご兄弟とかはどういう感じだったんですか?
兄は、これは中学から医学部へ行きまして、医者になっております。
あと、一人はあまり大学は嫌いで、いかなかったのがおりますし、
一人は東大を卒業して、大企業の方へ進んだのもおりますね。
そうなんですか。皆さん男の子だったんですか?
いやいや、女の子は2人おったんですが、これは今広島におります。
そうなんですか。
これはどこも行かずに、すぐ家庭の中に入っていきましたね。
ご兄弟は、戦争そのものでは皆さんご無事だったんですか?
戦争で直接、例えば負傷、お怪我をされたとか、何かすごい被害を受けた方っていうのはご兄弟にはいらっしゃるんですか?
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いらっしゃいません。
ご兄弟は全部で何人?
6人。
菅田さんも入れて6人強?
はい。
何番目とかだったんですか?
2番目です。
そうなんですね。
そんな中で、先ほども少し聞きましたけども、当時、きびきびした姿を見て自分も憧れたって話がありましたけども、
やっぱり当然、戦争を経験していない世代からすると、いろんな考え方がいると思いますけど、
ここは逆に、いろんなリスナーの人から何か言えるかもしれないですけど、僕はやっぱり戦争怖いので、
今のこの雰囲気だったら、僕は自分はもう入らずに逃げるんじゃないかなぐらいの気持ちはあるんですけど、
さっきね、少なくともそういう、自分は戦争行きたくないっていう人もいたっていうふうにおっしゃってましたけど、
でも全体の、もう大多数はやっぱり国のためにみたいな感じでみんな言ってたんですか?
まあ国のためというようなことじゃなしに、憧れの兵がこの生徒になりたいだけですね。
じゃあそういう意味では、いわゆるなんでしょう、国のために行きたくないけど行くとかじゃなくて、むしろどちらかというと、
ここに入るんだみたいな、入って頑張るんだみたいな。
それは生命を失う機会が多いことはわかるんです。
死ぬのはやっぱり怖かったです。
怖かったですけども、文人に対する憧れのほうが強くて、死んでもいいかというようなつもりですね。
最後まで死ぬのは怖かったですよ。
しかし癒せ我慢といいますか、特攻を志願すると、特攻に血症で、志願死で入って死んでいったろうと思いますね。
あと1年戦争が続いていたら、私は完全に静止しております。
そういう意味で今さらっとお話いただきましたけど、憧れで入った時は死は常に意識はされてたってことですよね。
死はやっぱり意識しますね。特に戦時中ですから。
そうですよね、そのあたりがまさに今お聞きしてて思ったんですけども、
海軍の兵学校にいる時に、例えば当時も1945年だと、後から振り返ると日本はもう負けるっていうのはほぼ確実だったわけで、その辺の情報とかって入ってないんですか。
入った時は負けるとは思いませんでしたね。
1年9ヶ月、板島の兵学校におったわけですけども、途中からちょっとおかしいなあ、負けるなあという気はしました。
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それはなぜですか。
いやいや、それは俺の軍校が空襲を受けたり、兵学校自体も空襲を受けて生きたものですからね。
兵学校空襲を受けたっていうことは、その兵学校に菅田さんも通ってらっしゃるということですよね。
そうすると爆撃とか受けてるってことですか。
怖かったのはね、機銃装射。
機銃装射ってどういうものですか。
機関銃みたいなので、タッタッタッタッと土煙が上がってくるんですよ。
慌てて岩に隠れると通り越していって、あれは怖かったですね。
その時は空襲警報みたいなものとかっていうのは出るんですか。
空襲警報はもちろん出たと思いますよ。はっきり覚えておりませんけれども。
いわゆる今おっしゃったように機関銃というか空襲とか受けたっていうのは、
いわゆるクレ自体に空襲があったじゃないですか、7月に。
この時期と同じぐらいの時期にやっぱり受けたんですか。
そうそうそうそうですね。
冒頭でそんなにいろんな経験されていないとおっしゃってましたけど、やっぱりお話を伺えて今すごく感じたんですけども、
やっぱりその時になるとなんか結構やばいかなっていうふうに思いましたか、自分の命も。
もちろんさっきおっしゃったように兵学校入るときに覚悟はされてたと思うんですけど、
本当の意味でそういう機関銃とか撃たれたりとかになった時っていうのは、
そこからさらにもう一歩何か覚悟というか。
戦争に対する怖さというのはありましたね、正直言って。
しかし野生革なんですよ。
死にたくはなかったけども、特攻隊を募集すると決勝していきますと書いたのだと思います。
まだその時代には行くまでに敗戦になりましたから。
きっとその当時兵学校行ってた他の同期というか、全員じゃないかもしれないですけど、お話を伺ってみんなそういう感じだったんですかね。
大方はそうじゃないでしょうかね。
その気持ちとしては。
死を恐れずにというところまでは、一般の人は兵学校1年教育を受けたら死ぬのが怖くなくなるというようなことを言われましたが、
私はやっぱり最後まで死ぬのは怖かったです。
怖かったけども特攻隊志願があったら決勝して志願して死んでいったろうと思います。
ただ戦争が早く終わりましたからね、あと1年続いていたら確実に21歳未満でこの世を去ったと思いますよ。
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その癒せ我慢っておっしゃってましたけど、当然つまり本心は怖いわけじゃないですか。
その時って、わからないですけど兵学校って寮みたいになってるんですか。
そうすると同じ寮に住んでいる同年代の男の子が何人かいるわけですよ。
そういう彼らと、例えばですけど本当は怖いよなぁみたいな話とか絶対しないんですか。
いやそれはしませんでしたね。私は記憶がないです。
それはやっぱりみんなもう。
言えないですよ。恥ずかしくて。
今の僕も含めた男児だったら言っちゃいそうですけど、当時はその空気とか雰囲気自体がもうそういう。
今まさにその敗戦を迎えて結果的にそこで行かずに済んで、今まさに菅田さんがあると思うんですけども。
これ当然外せないと思うんですけど、呉にいらっしゃったということですけども、広島で8月3日に原爆が飛ばされたじゃないですか。
その時っていうのは煙とかって呉でも見えたりしたんですか。
いや私はね、これはもう貴重な体験ですが、広島のひしがいが向こうに見える無人島に、その日出入り訓練で、肩で漕いで行って、今から泳ごうかという時に、ピカーッとこう行きかえりましてね。
それからしばらくしてダダダダダというじり引きと、広島の市内から煙がもくもくもくもく上がり出して、その時に文体好きの技術聴講が、
あ、あの呉の真ん中にピンク色に染まっているのは、なんかストロンチウムの炎色反応が、これは新型爆弾だ、もうその日そこで言いましたですね。
じゃあ新聞よりも早く新型爆弾。
で帰って、学校へ訓練を終わって帰って、当直小校が夕食の時に、広島に新型爆弾が投下されて、ひがい、甚大なひがいを受けたという説明がありました。
ああって思って、だから私、光を受けているんです。普通の土地市町で。何もなかったですから、よかったんです。
光を受けているとおっしゃいましたけど、本当の意味での原爆症とかそういうのは特にはない。
後から夜に甚大な被害を受けたって発表があったっておっしゃいましたけども、それは発表なくても甚大な被害になっただろうっていうのはその場でやっぱり見れば感じるわけですか。
その日の朝にふんどし市町で見られたわけじゃないですか。なのでその夜に偉い方から甚大な被害があったってお話があったと思いますけど、その言葉を待たずして、朝見られた光とか異常な爆弾を見てた時でも広島は甚大な被害があったなってやっぱりもう感覚で菅田さん自体も感じましたか。
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つまり何十万人何万人も亡くなったぐらいの。
それはあまり感じなかったですね。
何かまでもあったんだろうな、爆弾落ちたんだろうなみたいな。
進化と爆弾が落ちたらしいわよっていうぐらいのことで。
じゃあ逆にまさかあれほどの方が亡くなってとまでは思わなかった。
そうですね。ただ8月の終わり9月頃に故郷へ、親父が舞鶴の病院長をしていたんですから、舞鶴まで帰ったんです。
生徒を招待されて、無害の貨物列車で広島から行ったんです。
その時に広島の宇品におりまして、支柱を車でずっと駅まで行った時のひどさっていうのは原爆のこれはもう想像でするものがありましたね。
その時支柱を車でっていうのは菅田さん。
それはつまり原爆が10日されて何週間とか1ヶ月とか。
原爆は8月6日ですかね。
だから2週間ぐらい、2週間か3週間後だと思いますね。
もう今何日に帰ったかはっきり覚えておりませんけども。
その時ってなんて言うんでしょう。当然もうある程度想像はつくんですけど、本当にその死のあたりで、やっぱりまだもう服もボロボロでみたいな人もいたんですけど。
焼け跡がひどかったですね。
今その無人島というか島でって当時そうおっしゃってましたけど、それ何という島なんですか。
それ名前は覚えてないです。
今も当然あるはずですね。
無人島、今でもあると思います。
無人島で本当に小さな白浜があって、そこで水泳訓練を海で泳いだりしたんですけどね。
その時ってもう具体的になりますけど、本当に泳いでた時ですか。それか一応その無人島の陸地にいた時ですか。
今から泳ぐと言うんです。天候下、今から訓練すると言う時ですね。成立して天候を受けて注意を受けた時にピタッと光ったんですね。
そのあたりその地響きみたいな。
はい。
その地響きとともに例えば津波ってことはないでしょうけど、波が結構荒くなったとかそういうのまではなかったですか。どういう感じですか。
それはあんまり記憶になかったですね。
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ただ地響きってことは地面揺れていたということですね。
はいはいはい。
かなりピカーッと光ってから来るまでに、やっぱり何キロか離れていたと思うんですから、差がありましてね。
ピカーッとからドカドカッと来るまでがちょっと時間がかかったように思うんです。
8月6日、新型爆弾原爆が投下されて、
で、甚大な被害があったというとこから、結局終戦ってそこから9日後、8月15日にしたと思うんですけど、その9日間っていうのははっきり覚えてないかもしれないですけど、
僕がもしその立場になっていないんでわかんないですけど、でもイメージとしては例えば僕も菅田さんの立場だったら、その兵学校にいて機関銃とか来て結構やばいなと思って、
かつ広島で新型爆弾が落ちたら、さらに本当にそろそろ自分の命も広島も呉も危ないんじゃないかって思うと思うんですけど、
その辺って原爆落ちてから特に変わったってこともないですか?
それは全然なかったですね。ただ、これはどうも負け戦になるなという感じはしましたけども。
負け戦になるなっていう感じもやっぱりそれは例えば上の上司とかにも言えないし、みんなもなんとなく感じてるけどそれもやっぱり誰も口に出さない。
上司も言いませんしね。
8月15日を迎えるわけですけども、いわゆる天皇陛下の放送があったと思うんですけど、その時は何か朝そういう放送があるぞみたいなことに、どこでどういう環境で聞かれたんですか、その放送を。
天皇陛下のお直告が放送されるから集まれということで集まったんですが、放送障害があっても全然聞こえなかったんです。
ただ通信がガガガガガガ言うだけで、後で通信課の何がそれをうまいこときれいに何して負けたんじゃない。
天皇陛下の直接の声は聞いてないんですか。それからきれいになったから。
声はガーいう音だけですね。
その別の方が。
誰かが障害させたんですね。障害したんですね。聞かせないぞって。
そういうことなんですか。
だから普通に放送が聞いたところもあるんですが、私たちの時はもう全然妨害を受けて。
それは単純に、あれラジオだったんですよね。
ラジオです。
平学校のラジオが調子悪かったとかじゃなくて、明らかに誰かが妨害してた。
そうそう。
それはすみません、僕も勉強不足で全然知らなかった。そういうことっていうのは、例えばその平学校以外にも結構。
あったんじゃないでしょうかね。東京の方でも聞こえなかったというのは、後で聞いたらおりましたからね。
確かに私もそこまで深く聞いてなかったですけど、何人かそういうあんまり聞こえなかったという方、ひょっとしたらそういうことかもしれない。
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おそらくだいぶん聞こえなかった、何のことやらわからずに聞いたのがずいぶん多かったんじゃないでしょうか。
それは菅田さんにお聞きするのも変な話ですけど、どういう人が妨害するんですか。
それはやっぱり戦争を続けたいというものが、最後の敗戦の直後は菅田さんということで、いろんな機会を使って妨害したんだろうと思いますね。
実際、ただそうは言っても終わったというのが分かった瞬間というのはその瞬間どういう感じでしたか。それぞれの子さまも力抜けたのか。
もうとにかく目先の目標が失われたわけですね。負けたんだということで。
私が兵学校の庭を、海岸の方を歩いているときに特殊閃光艇が一石入ってきましたね。
特殊閃光艇というのはどういう。
ハワイで沈んだ旧軍士が乗っ取った閃光艇ですかね。
小さな1人乗りか2人乗りの戦闘機、潜水艦ですが、それが軍艦級をなびかせながら入ってきて、
俺は負けないぞと手渡信号を送ってきて、これから出撃すると言って。
その戦争終わっているのに。
私らも一生懸命手を振って頑張ってくださいと言っておられたりしましたがね。
その方はそのままどこへ行ったか分からない?
どこへ行ったか何かも顔も分からないです。
ただ入ってきて手を振ってこれから出撃すると言ったように思います。
本来であれば戦争終わって、もっかい直ちに命を失うという可能性がかなり減ったわけじゃないですかね。
普通に聞くと良かったに決まってるのにって思うけど、
その方もそうだし、今菅田さんがおっしゃったように目先の目標がなくなっていたところで、
その単純なほっとして嬉しいなぁみたいなのとも違う?
嬉しいなぁという気持ちは全然分からなかったですね。
敗戦が悔しいということだけですね。
そういう意味では方針状態かどうかって分からないですけど、
目先のものがなくなって、そこから徐々に国全体もそうでしょうけど立ち上がるというか、
次に進むというか、その辺に切り替え、完全に切り替えられたという時期がいつか分からないですけど、
ご自身振り返るとどのあたりから、本当につまり文字通り戦争終わっただけじゃなくて、
ご自身も戦争が終わった新たな次の人生に踏み出したみたいな、その辺りでどのくらいでできたと思いますか?
30:03
その辺の地区の人は大学を受けられるということになって、
元海軍が学校講習会を開いてくれたんです。
授業を受けて、生き様らがんばれと言って、その講習を受けたんですが、
やっぱりその頃はまだ尋常な気持ちじゃなかったですね。
尋常な気持ちじゃなかった。というのは?
やっぱり死ぬのが免れてよかったなぁとは思いませんでしたね。
悔しい気持ちが第一だったんです。
その悔しいというところを少しお聞きしたいんですけど、
敵国、アメリカも含めてに対する、戦争終わる前と終わった直後もかもしれませんけど、
悔しいはあったけれど、憎いとかそういうのはなかった?
憎いのはないよ。同じ喧嘩をする相手ですから、憎いとは思わなかったですね。
ただ徹底的にやってあげてやろうという気持ちはありましたけどね。
戦争が終わったら、アメリカの兵隊さんとかも来たわけですよね。
その時ってどういう印象とか?
怖かったですよ。
新中軍を見ると、もう近寄らないようにしておりましたね。
でも実際それがちょっと変わるわけですよね。印象って途中からそうでもないっていうのは。
そういうきっかけってありました?それかどうか?
やっぱり時間でしょうね。
終戦直後と何ヶ月が経った時とは、だいぶいろいろ思いが違ってきますから。
目の前が真っ暗になって目標がなくなったわけですから。
それが大学を受けてもいいぞという新しいのが何ヶ月ごとに許可になって、
そういう講師をやってくれて、講師を置きながらにいた時なんかには、これから医者になっている気になっておりましたね。
休みはその時期にはある程度切り替えて、少し話が戻ってしまうんですけど、先ほど兵学校に入られて、
国のためではないけど、将校になりたいっていうことですよね。そういう感じでっておっしゃってましたけど、
その時に描いている未来っていうのはもうそこだけなんですか?
例えば戦争が終わった後にどういうことをやりたいとかっていうのは考えなかったんですか?
そうですね。自分のことしか考えていなかったですね、その時は。
33:03
国家とかいろんなのはもう考えていなかったように思いますね。
国のために天皇陛下のためにっていうよりも、ご自身がそこに憧れて、ある意味純粋にやりたいっていうふうに思っていらっしゃったっていうことですかね。
その戦争終わった後に国のためとかそういうことを置いておいて、まず海軍出て会ったと思うんですけど、
その当時入っている時に、例えば20年後、30年後とか、自分はどうなっているんだろうとか、
そういうことって全然考える余裕もなかったですか?それから考えることもしなかった?
兵学校でですか?
僕も当時、例えば自分は20歳だったら50、60のこと考えなかったですけど、
ただ例えば須田さんはどう思っていたのかなっていう。
いやいや、戦争に負けたのがただ悔しいだけで、
生徒を辞めるんですが、不備になって、何した時はもう目の前が真っ暗になったのは間違いないんですけどね。
そうか、パーッと明るくなったわけじゃないってことですよね。
おまけにあんまり医者にはなりたくなかったものですから、文学部のほうを生かしてくれると、
親父が学位を出さないものですから、医学を受けたんですけどね。
先ほどね、この時代は当然死の隣り合わせで、そういうことは常に感じていらっしゃったとおっしゃいましたけど、
兵学校行っている時も、例えば明日も死ぬかもしれないとか、その辺どのくらい死を身近に感じていたのかな。
兵学校の中は生徒の自治が許されましてね。
自治?
自治、自ら治めるんです。
上級生が、私が75期なんです。
で、上に74期、73期というのがおりまして、73期が75期を、
生徒間の中では自治が認められたり、主導に当たるわけです。
その時に鉄拳制裁も受けましたし、1年間たらずで2千何発殴られました。
え、菅さん、2千何発でも数えてたぐらいの…
途中まで数えてたんですかね。
数えきれないようになりまして、一発何本殴られたかわからん。
ぐるぐるぐるぐる先輩に、こっぱみじんに殴られて。
今ある意味笑い話で済んでますけど、当時はそれは理不尽なことで殴られたりもするんですよね。
まあ、軍隊ですからね。理不尽なと思ったこともありましたけどね。
それはもうしょうがない。
不思議なことに、殴り殴られた人が卒業する時は、なめたかぽろぽろぽろぽろ出てしょうがない。
36:05
で、一期上の74期は殴ることはない、優しく指導してくれたんですが、
その人が卒業する時は、追い出せ蹴り出せというところで、
いわゆる兵学校の一号なんですが、最上級生になるのが、
もうこの一期がなくなったら、我らがそれになるんだと思ったら、追い出せ蹴り出せだったんですね。
2千何発で聞いたら、それだけでその人たちが卒業する時なくて、
普通に考えたら考えられないですけど、そこを経験したい人しかわからない何かがあるんですよね、きっと。
殴って殴られた73期の卒業式の時は、追い追い出なきました。
それは姿さんだけじゃなくて他の人?
いやいや、他のもんも全部。
だから、いわゆる殴り殴られたのも一つの指導で、我らのためにやってくれたんだと思ったんでしょうね。
卒業の時は本当に涙が出てしょうがなかった。
ただ一期上がり卒業する時は、もう早く出て行ってくれんかなという調子だったんですよね。
それこそ、全員鉄拳制裁を受けて耐えてたんですか?
逆に切れて殴り返すみたいな人は、やっぱりとても大変ですか?
殴り返すようなことがあったら、それは絶対にないです。
それはやっぱりあり得ないということなんですね。
海軍の思い入れがきつかったですね。
兵学校に入る日は、当時前の晩に江田島へ行って、江田島の民家のクラブに寄ったんですが、
クラブという民家へ泊まって、次の日の朝、連れられて兵学校に入るんです。
どこへ行くかというと、袋場へ連れて行くんです。
袋を開かせて、今まで着た服を全部脱いで、家へ送るように蓋をつけて、
風呂から上がると、ふんどしシャツを着て、
これで、貴様らは海軍に入ったんだぞ。シャバとが縁が切れるんだぞという思い入れですね。
ある意味、儀式ですね。
それで入学式、新しい服を着て行くわけですけどね。
それは思い入れというか。
思い入れがありましたね。
そういう時代で、やっぱり死が隣らせだった時期で、そんな中でも怖い中で、
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痩せ我慢ということもありましたけど、今振り返ると支えになっていたこととか、
こんなささやかな実はちょっと楽しいことがあったとか、
例えば分からないですけど、寮で寝る前にこんなことをして実はちょっと遊んでたとか、
分からないですけど、どんなものでもいいのですか?
そうですね。寝る前は怖かった上級生が、
周りに我々がベッドの何人集まって、
今このシャバでどういう歌が流行っているか教えてくれとか、
上級生が言ったりして一晩、15分くらいですけど、
断乱したことがありましたね。
そういうのが積もる積もってやっぱり涙になったんですよね。
逆にね。
つまり本当にもう殴っているだけじゃなくて、
それもやっぱりある意味愛情とまでか分からないけど、
いろんなしょうがない部分があったんだなと、
逆にその優しい時間を知っているから感じたということなんでしょうね。
私は英学校で1年9ヶ月しか行っていないけれども、
非常に良い経験をさせてもらったと。
それは今でも?
思っています。今でも。
良い経験というと、今ね、お話されている中にもちろんあると思うんですけど、
改めてお話をすると良い経験というのはどういうことを思いますか?振り返って。
とにかく同じ目的のものが集まって、
上級生は下級生は殴り、
下級生は無理へに原骨みたいなことをやられても走り回った時代ですけれども、
同じ目的が一つの団体だという意識はあるものですから。
面白いことを言うと、寝ていまして、ザワザワと何かをするんですよ。
目を覚ましてみたら、女学生がこのベッドの間に入ってきて、
我々の起きる動作を見に来るんです、女学生が。
ひょっと見たら女学生があるので、
慌ててすんどしをしみながら。
それはどういうことなんですか?
やっぱり寝学校の生活を受けるのに、
寝学校の起床動作というのは一つの、
寝巻きを脱いでシャツを着て何を着て毛布をたたんで犬が2分半でやるんですよ。
42:03
その訓練がまたあったんですよね。
よーい寝ろ、よーい起きろ、犬を。
1日に何回もやられるんです。
2分30秒か切るまでやらされて。
本当に測るんですね。
言いたいことがありましたけどね。
女学生が来たときはびっくりしましたね。
それは女学生が見学に来たんですか?
見学は見学の見学。
夜いきなりみんな目が覚めたら、女学生がバーっていたのかと思います。
見学に来たのは、生徒が起こさないようにそーっと入って。
やっぱりその生徒みんな寝てて、本当にそうできるかっていうのも含めて、女学生が来てたってことですか。
上官とかはみんな知ってるんですよね、当然。
上官はもうおらんです。
寝学校はもう大抵、あれですからね、自治ですから。
教官なんかはもうあまり口入れ。
普通の授業とか訓練には口を出すけども、
寝学校の生活にはもう生徒の自治ですから。
そうすると、細かい話ですけど、女学生たちが夜来たっていうのは、
朝です。
来たっていうのは、でもそれは誰かが誰かに断ってるんですよね、当然。
それはもちろんそうです。
それは寝学校の上部の人の許可を得て。
驚きますよね、でも。
それは驚くですよ。
それは何か起きろーみたいな感じで言われるんですか。
いつも起床みたいなそういう掛け声があるんですか。
いえいえ、ラッパですね。
いきなり鳴って。
起床、ラッパ、起きろよ、起きろよ、みんな起きろよ、言う。
それはいつも通りなわけですよね。
いつも通りです。
いつも通りでバッてやろうとしたら、いきなりバッて女子。
そういうこともありましたね。
そのとき女学生たちはみんなクスクス笑ってたりするんですか。
女学生は、それでみんな驚いてる男性陣を見て、
女子はみんな、もちろん真剣に見てるはずだけど、
やっぱりちょっと笑っちゃってたりした女子とかはいるんですか。
笑った方もおるでしょうね。
いや、それも全然、起きてからもう2分半で服を着て出ていかないといけないんですから。
あの、途中からもう女学生は頭の中から消えましたけどね。
ただ女学生が目の前ずらっと並んでるのにはびっくりした。
それは驚きますよね。
そういうことがありましたね。
そうか、ありがとうございます。
戦前から終戦までの話、いかがだったんですか。
振り返って、やっぱりそんなに経験してないといろいろおっしゃってましたけど、
お話しの中でもすごい経験されてると思うんですけど、
振り返って、肉体的にでもいいです、精神的にでもいいですけど、
改め、戦争の時代を生きてて、これだけは本当に一番辛かったなということ。
45:00
さっきお話しした中からでもいいんですけど、振り返るとどんなことが挙げられますかね。
うーん、私は特別ですかね。
1年9ヶ月の海軍兵学校生徒の生活以後は余生だと思っております。
私はそれから本当の自分の思い、こういうものは終戦と同時に亡くなっている気がしますね。
私は87歳ですが、19歳で終戦になったわけですから。
しかも19歳までの1年9ヶ月という短い時間の影響がいまだに残っておって、
遅れながら同期生が集まって、いまだに酒を飲んで、
昔の話を、もうだんだん死んでいきますからね、少なくなりましたけど、
今週の木曜日はまた70くらいの75機が集まって、一杯飲むことにしているんですがね。
これはもう20人ぐらいおったのが、今は4人です。
4人しかおられませんが、まあ居酒屋でささやかに飲んで昔を忍ぶ。
文字通り極端に言うと、今の話よりも昔の話で盛り上がるというか。
それは同じ失礼をした仲間ですからね。
良いことも悪いこともあるけれども、鍛えられた仲間ですから。
今は世界が全然違う世界に生活していても、昔に戻って、
今何をやっているかとか、どこで何をしているかとか関係ないですからね。良いですよね、逆に。
これも一年の楽しみの一つですね。
私はいつも人に言われるんですが、
板島の生学校の生徒の生活の余生を送っているんです。
その余生がもう60年以上続いているわけですが、その気持ちはあまり変わりませんね。
その余生が68年は続いていると思うんですけれども、
やっぱり今現代に戻ってきて、当然日本は戦争はずっとないですけど、
改めて今この時代を見ても、僕みたいな戦争を知らない人間にもこうやって話したりも含めて、
世界がというと大きくなると思うんですけれども、
日本というか今のこの時代を菅田さんはどう見ますか。
戦争はやっぱりしちゃいかんということですね。
特に負ける戦争は絶対するなと。
48:05
世代三つの山本一六、我々の校長の井上正美、
この3人が日独い三国同盟にも反対し、アメリカとの戦争にも、
最後はハワイで突っ込んだんですけれども、
ああいう人の気持ちが私は素晴らしいと思っておるんですかね。
田舎でくだらない試合をしていたずらに時を過ごしたなとは思いますけれども、
あの海軍時代が一番懐かしい。
岡山の、私は岡山ですか。
伊賀大学時代の生活なんかある夢にも出てくるんです。
何かあると思う。板島、板島。
これはもう、それから素晴らしい教育を受けたんですよね。
鍛えられましたけれどもは。
家の産むところは。
これはもう、あの頃の教育で、
英語はやめずにやめなかった。
食卓礼法という時代があるんです。
食卓のある日こう集まりましてね、
ただ戦争中で最後だから何もないんですが、
皿とフォークが並んである。
テーブルマナーみたいな。
テーブルマナー。
英語で言うと。
テーブルマナーを教えてくれるんですよ。
これはフォークとなれば外から取るぞとか、
スーパー手前から前向こうへ進むんだとか教えてくれるんです。
こんなの教えてくれるところはおそらくないだろうなと思って。
何しましたかね。
人としての品格というか、
そういうものを含めて学べたということですよね。
貴重なお話を本当にありがとうございます。
ちなみにこういうお話って、
お子様だったりお孫さんとかにされたことってあるんですか。
お孫にはもう戦争の話は一切しませんで。
それは何かしたくないって言われるんですか。
聞かれないから。
なんですが、
お孫もかわいいんですが、
こんな話は向こうもあまり聞きたくないし、
聞いてもわからないだろうと思うんですね。
お孫さんと言っても結構大きいですか。
私はひまごを…。
ひまごさんも5歳とかそのくらいですか。
ひまごさんも5、6歳とかそのくらいですか。
今年の2月に生まれて。
かわいいって言ってんね。
51:02
ひまごは孫が生まれてからかわいいかったけど、
ひまごはなおかわいいですな。
貴重なお話をどうもありがとうございました。
どうもありがとうございました。