今日は中村政さんにお話を伺います。中村さん、よろしくお願いします。
ここは山口県の岩国に来させていただいているんですけども、中村さん、生年月表を教えていただきたいんですけども。
大正11年、11月23日生まれです。
大正11年ということは、これ今撮っているのが2023年の4月忘日まで、満100歳。
そうです。
今年101歳。どうですか?ご自身で100歳って、例えば昔100歳の人ってこういう感じなんだろうって思ってたような100歳と、ご自身実際になってみてどうですか?
そうですね、いつの間にか100歳になったのかなという感じですね。
本当にお若くてちょっとね、圧倒されたんですけども、大正11年生まれということで、今満100歳ということで、ここは岩国なんですけども、中村さんご出身はどこですか?
熊本県、人吉市、千歩新町です。
熊本でお生まれになって、ここね今岩国にいらっしゃいますけども、今日いろんなお話やっぱり伺いたいんですけども、一番はですね、特攻隊に行ってらっしゃったという話が伺っているので、やはり特攻隊その入隊から実際終戦を迎えるまでのところに、特にいろんなことがあるのかなということで、そこからちょっと中心で伺っていきたいんですけども、そもそもこの特攻隊に入隊したのは、いつどこでなんでしょう?
初めから特攻隊っていうことはないんですよね。
私が横田園に入ったのは、私の友達が熊本の山側の方から出生しに来たんです。
お兄さんと一緒に。
そしてその友達を大事に仲良くしておりました。
そうしたら、お兄さんがこの熊本の地に海軍佐世保から飛行機が3機来て航空展示をやるよ。
よかったら一緒に行ってくれんかと。
友達を私が連れて行くような格好で、博覧会に行きまして。
その時にアクロバットが。
飛行が。
3機来たのを見て、よしこれだというふうに考えたんですね。
だから帰りに福永茂と言っておりましたけど、茂君、私が海軍の方に行くら、あんたらよかったら陸軍の方の飛行機乗りにならんかと。
ということで暗黙の約束ができたんですね。
結果的に私が終戦になって、帰っても相手が帰らなかったということがありましたよね。
それからお兄さんのところにお母さんも一緒におりましたけども、二頭と会う気持ちが出ませんでしたね。
未だにお父さんの話。
そうなんですか。
この資料を見ても名簿が載ってないからですね、どうなったかなと思う。
今でも思っておりますけどね。
ご友人がその時を境にも連絡がないから今どうなったかわからない。
そうなんです。
実際そうすると、今のそのヨカレンの時っていうのは、最初アクロバット飛行を見た時っていうのは昭和何年ですか。
14年です。
昭和14年ってことは1941年ですね。
その時は18歳ぐらいか。
そうですね。私は会社に電気会社、五木の方に源流がありましてね。
そこから水を取って電気会社ができた。熊川電気。
そこにいたんですよ。2年間。
そしたらみんな大学でばっかり一人おりましてね。
いやこれはもう何やるにしてもという気持ちでおった時にたまたまそういう状況がありました。
いきなりヨカレンに受けた。
会社を辞めて。
そうです。
当時会社を辞めてヨカレンに受けるっていうのは結構普通のことだったんですか。
熊本でアクロバット見てからですね。
ちょっと憧れたみたいな。
そうです。憧れです。
そのヨカレンを受けて受かってっていうところだと思うんですけど、
そのヨカレンを受けることに関してはご両親とかお父様お母様とかどういう感じだったんですか。
いやおふくろはですね、泣きの涙です。
今でも写真をずっと持っておりますけどもね。
死にに行くようなもんじゃないかと。
その頃は飛行機もバラバラに飛んでたんですよね。今みたいにないですから。
忠誠っていうのは忠誠を尽くすみたいなことですか。
そうです。そういうことから始まってですね、僕の昔からいろいろあるんです。
それでだんだん毎日毎日が精神的に鍛えられていくわけです。
精神的に鍛えられるっていうところですけど、当然その憧れに燃えてその海軍に入った中村少年、青年か、青年としてはどうなんですか。
どんどんモチベーションが上がっていったのか、やっぱり上がっていく。それが意外と入ったらもうきつすぎて参っちゃったとか。
中にはそんなのもおりますよ。
中村さんは全然大丈夫だった。
私はもう意気揚々と負けられんということです。
実際それで今1年半っていうそこの時間もありましたけど、入られたのが1941年40年、終戦の5年前だと思うんですけど。
そこから特攻隊に至るまでってどういう経緯でその特攻隊に任命というか入隊というか、そもそも志願制だった。でも本当に志願制だったのかと。
なんかその辺の話もよく伺いますけど、どういう経緯で特攻隊まで。
特攻というのはもう特別にどの部隊はどこでどのように戦争を進めるということが人の目的ですね。
例えばアメリカのアメリカの潜水艦がよく出てくるよという場所によっては潜水艦に対する対処の方法を考えながら。
他の不積極艦とか巡洋艦とかいうようなのだったらそれに対する遠いところから接近する方法を考える。
内容によってどこの島を守るためにはどのようにしなければいけないというのが先に来る。
そしたら飛行機の方も爆撃目的の飛行機とそれから偵察の飛行機で、私たちもよく漁場作戦やったんですよ。
爆弾を積んであいつの潜水艦が距離内にいないか、そこを着敵のために三角形の運動をしながら行動をだいたい1000m以下、当時は水もあって異常なし。
もしあったらどこどこで今敵の潜水艦がおったけど、今も送ったよ。今と違って以前でもやっぱり探したら探したで、その所属を考えなくちゃいけないし、今とは全然違うんですね。
作戦から始まって、場合によっては他の飛行機を援助してもらって、爆弾を持って行っては落とすというような。
ヨカ連勢というのは実際に実戦をするわけじゃないわけですよね。
ヨカ連はですね、まず精神的、それから体力、目的を達成できるような精神力を鍛える。
そこから実際にその特攻隊に入隊されるわけですよね。
その戦争の内容によるわけですね。
中村さんはそのヨカ連に入った後に、いわゆる例えば茨城のところの関連、特攻隊で筑波隊とか大和隊とかいろいろあったっていうのをちょっと書いてあるんですけど、本いろいろ読んだら。
筑波隊っていうのは筑波の航空隊はあったけども。
また別なんですかね。その特攻隊の名前が筑波隊とか大和隊とかがあるっていう。
大和隊というのはもう部隊は独自のできるけども、大和隊って言ったらまた内容が違うんですよね。
中村さんはどこに属してたんですか。
それが私は教官を長くあちこちでやっておりましたけど。
初級の学校を卒業してから、飛行機の種類によって艦上爆撃機、艦上攻撃機、それから水上機は水上機、それから大型機は大型機あるわけですよ。
その中の一番初めに教官だったのは艦爆隊、艦上爆撃機というのは宇佐にあったんですよ。宇佐でやりましたね。
ちょっと整理させていただきたいんですけど、中村さんは四日連勢にまずなりました。その後はどうされたんですか。
その四日連勢の生活っていうのは1年半だけだったのか、その後も続いたのか、その後も教官になられたのか、どういう流れなんでしょう、終戦までの流れ。
飛行機の部隊がありますね、戦闘機、戦闘機は筑波の方、それから飛行機の種類が違う。
九六式艦上戦闘機から始まるわけですね。それから艦上攻撃機、攻撃機は攻撃機で他の部隊に行っておったんです。
それから飛行艇は飛行艇、種類が違う。それもやっぱりだんだん大きくなったり、時間を長く飛ぶようにしたり。
私は艦上爆撃機、艦爆。昔はお前はどこの機種に行きたいかということになったら、まず戦闘機ですよね。自分の腕を破棄するため。
戦闘機に行けなかったらしょうがないな、航空母艦に行きたいとか。航空母艦に行ったらまた攻撃とかあります。
中村さんは艦上爆撃機。
艦上爆撃機のところには志願したんじゃなくて任命されたんですか、そこに行きなさいと。
それまではいろんな訓練をやって、そこで教官がこれは何に向けた、何が言いとるというようなことを決めるわけです。卒業までに。
それで卒業までに、中村さんは艦上爆撃に行けと言われたということですか。
艦上爆撃で行きました。その中でも教官をやれということで。
種類がいろいろありますからね。
200mの長さのロープの先に吹き流しをつけて、8mくらいの吹き流しをつけて、それを向かって飛んで行きますね。
そしたら引っ張って行くわけですから。後方から降りて射撃をする。ダダダダ。そういうことから始まります。
卒業されて、四日連勢を卒業されて艦上爆撃の隊員の教官になったということなんですか。
そうです。
隊員になったというより教える側にもなるんですね、卒業したら。
そうです。その指名によってはね。
その教官になったのが何年のことですか。
半年後ですからね。
もう半年で卒業なんですね。
だいたい4ヶ月ですよ。徹底的に訓練をやる。