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2023-06-20 28:39

#85:特攻隊からの生還 │ 中村優さん(100歳)【前編】

■90分のフルバージョンはこちら(『戦争の記憶』) https://youtu.be/r6QN6BWTzoo

▼今回のインタビュー 戦時中に特攻隊員として出撃の命令がくだるも 期せずして命をつなぎ止めた中村優さん。 大正11年11月23日生まれの100歳。 逝ってしまった仲間たちを想い続ける人生とは──(2023年4月取材)

▼「戦争の記憶」とは 戦争体験者の声を肉声で残すプロジェクト。 2013年より早川洋平が全国各地でお話をうかがい、映像や音声で配信。 http://memories-of-war.com/

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▼【聞き手・早川洋平プロフィール】 はやかわ・ようへい/新聞記者等を経て2008年キクタス株式会社設立。羽生結弦、髙田賢三ら各界のトップランナーから市井の人々まで広くインタビュー。近年は欧州を中心に海外取材を本格化するいっぽうで、戦争体験者の肉声を発信するプロジェクト『戦争の記憶』にも取り組む。公共機関・企業・作家などのメディアプロデュースも手がけ、キクタス配信全番組のダウンロード数は毎月約200万回。累計は3億回を数える。『石田衣良「大人の放課後ラジオ」』『横浜美術館「ラジオ美術館」』などプロデュース多数。 近年はユニクロやP&GなどのCMのインタビュアーとしても活動している。 https://linktr.ee/yoh.haya

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サマリー

岩国に住む、100歳の方がいます。彼は大正時代に熊本で生まれ、特攻隊に参加しました。現在、彼はヨカレン星での特訓や航空戦士としての日々について語っています。彼は特攻隊から生還した経験を話しており、特攻隊への入隊や訓練の内容についても詳しく話しています。また、命令による特攻隊への出撃についても話されています。

特攻隊への道
今日は中村政さんにお話を伺います。中村さん、よろしくお願いします。
ここは山口県の岩国に来させていただいているんですけども、中村さん、生年月表を教えていただきたいんですけども。
大正11年、11月23日生まれです。
大正11年ということは、これ今撮っているのが2023年の4月忘日まで、満100歳。
そうです。
今年101歳。どうですか?ご自身で100歳って、例えば昔100歳の人ってこういう感じなんだろうって思ってたような100歳と、ご自身実際になってみてどうですか?
そうですね、いつの間にか100歳になったのかなという感じですね。
本当にお若くてちょっとね、圧倒されたんですけども、大正11年生まれということで、今満100歳ということで、ここは岩国なんですけども、中村さんご出身はどこですか?
熊本県、人吉市、千歩新町です。
熊本でお生まれになって、ここね今岩国にいらっしゃいますけども、今日いろんなお話やっぱり伺いたいんですけども、一番はですね、特攻隊に行ってらっしゃったという話が伺っているので、やはり特攻隊その入隊から実際終戦を迎えるまでのところに、特にいろんなことがあるのかなということで、そこからちょっと中心で伺っていきたいんですけども、そもそもこの特攻隊に入隊したのは、いつどこでなんでしょう?
初めから特攻隊っていうことはないんですよね。
私が横田園に入ったのは、私の友達が熊本の山側の方から出生しに来たんです。
お兄さんと一緒に。
そしてその友達を大事に仲良くしておりました。
そうしたら、お兄さんがこの熊本の地に海軍佐世保から飛行機が3機来て航空展示をやるよ。
よかったら一緒に行ってくれんかと。
友達を私が連れて行くような格好で、博覧会に行きまして。
その時にアクロバットが。
飛行が。
3機来たのを見て、よしこれだというふうに考えたんですね。
だから帰りに福永茂と言っておりましたけど、茂君、私が海軍の方に行くら、あんたらよかったら陸軍の方の飛行機乗りにならんかと。
ということで暗黙の約束ができたんですね。
結果的に私が終戦になって、帰っても相手が帰らなかったということがありましたよね。
それからお兄さんのところにお母さんも一緒におりましたけども、二頭と会う気持ちが出ませんでしたね。
未だにお父さんの話。
そうなんですか。
この資料を見ても名簿が載ってないからですね、どうなったかなと思う。
今でも思っておりますけどね。
ご友人がその時を境にも連絡がないから今どうなったかわからない。
そうなんです。
実際そうすると、今のそのヨカレンの時っていうのは、最初アクロバット飛行を見た時っていうのは昭和何年ですか。
14年です。
昭和14年ってことは1941年ですね。
その時は18歳ぐらいか。
そうですね。私は会社に電気会社、五木の方に源流がありましてね。
そこから水を取って電気会社ができた。熊川電気。
そこにいたんですよ。2年間。
そしたらみんな大学でばっかり一人おりましてね。
いやこれはもう何やるにしてもという気持ちでおった時にたまたまそういう状況がありました。
いきなりヨカレンに受けた。
会社を辞めて。
そうです。
当時会社を辞めてヨカレンに受けるっていうのは結構普通のことだったんですか。
熊本でアクロバット見てからですね。
ちょっと憧れたみたいな。
そうです。憧れです。
そのヨカレンを受けて受かってっていうところだと思うんですけど、
そのヨカレンを受けることに関してはご両親とかお父様お母様とかどういう感じだったんですか。
いやおふくろはですね、泣きの涙です。
今でも写真をずっと持っておりますけどもね。
死にに行くようなもんじゃないかと。
その頃は飛行機もバラバラに飛んでたんですよね。今みたいにないですから。
特攻隊入隊まで
そのヨカレンに実際入って、実際ヨカレンと飛行予備学生とかあったと思うんですけど、さらに上の段階というか。
予備学生っていうのは大学での人が。
じゃあそれは最初から違うわけですね。
そうです。昔はですね、一般の中学かもうちょっとしたの小学校上がったところから行っておったんですね。
気象から体操から他の人と一緒にやっていけないから。
当初はオツシオというのが通常で。
それからシナチュ編も始まるということで。
これも太蘭から甲州。甲州というのは中学卒業。
年齢下げたんですね。
そうです。ということで始まって。
後からヘイ州までありましたからね。
こうオツヘイですもんね。
ヘイは一般の隊員の中から選ばれてパイロットになる。
そうするとそのヨカレンに入って、それが1900、もう本当に昭和だから16年すぐ入ったんですか。
そうです。15年に入ったんです。
入ったのは熊本で入ったんですか。
いや、私は瀬戸吉で。瀬戸吉から茨城の土浦。
やはりそこで、事前に茨城でという話を伺っていたので。
ちょうどたまたまこれ中村さんに関係ある本か分からないですけど、
特攻隊で茨城の話のことを書いてある本があったので、
当時その土浦って世界の玄関って言われるぐらい。
そうです。歌のモングルもありましたけどね。
ヨカレンのーって歌い始めた。
そこで茨城に来て、茨城には縁もゆかりもなかったんですか。
ありません。
全くですよね。
そういう基礎的な教育をやるところが、土浦っていうのも新しくたくさんの人を集めて訓練をやる。
その以前は横須賀にあったんです。
横須賀。
ところが場所がないし、ということで土浦。土浦っていうのは昔の霞ヶ浦の近くなんです。
その基礎教育をやる、いろんな基礎教育をやるために土浦にできた。
実際その土浦に行って、その時は海軍、陸軍、海軍ですよね。海軍のヨカレン星として入ったってことであってますか。
その後、特攻隊のところまであると思うんですけど、そのヨカレン星、海軍として入るのとその後特攻隊に任命されるっていうのは別の話。
別ですよね。
特攻隊って言ったら戦争ですから。
そうですよね。ヨカレン星はその前の段階ですよね。
そうです。
実際そのヨカレン星として昭和15年に入って同期で何人ぐらいいたんですか。
300名の予定がですね、健康診断厳しいですから、その中でやっぱり6人。
300人のうち6人しか受からない。
いや6人。
ああ、落ちた。
落ちた。
そうですよね。
もういろんな体の関係でですね、その間に病気になったり、それくらい身体検査も厳しかった。
ってことですよね。
そこからヨカレンの日々の生活ってどんな感じだったんですか。
例えば1日の流れとか、1週間、例えばお休み、休日があるのかとか、1日の流れとかどういう感じでした。
まあ時間でキャーっと決まってますからね。
ヨカレン星の訓練
気象時間があります。
何時ですか。
小ラッパが6時だったと思います。
はい。
その前から準備しないと間に合わない。
で、以前はですね、鶴床で寝とったんですよ。
だからですね、こんなのをぶら下げて、
このぶら下げるのが一つの訓練としてですね、難病で吊るすことができる。
片付けなくちゃいけない。朝晩、それも訓練です。
釣り竿とかってことですかね。何を。
鶴、ここ、長いのをですね、絞って巻いて、ロップで巻いて、で、担いで棚にあげると。
はいはいはい。
鶴から鶴床を下ろせと言ったら、それを持ってきて、また服をかけて様子にぶら下げる。
そういう訓練から。
それもトレーニングなんですね。
そうなんです。いかに早く確実にできるかという。
そういうことから始まる。
だから私なんか小さいから、上の服に手がかからんわけです。
だから椅子をこう出して、上ってかけるとか、そういうことから。
そういうふうに始まって、その1日の中で、やっぱりイメージとしては、パイロットというか飛行機のね、実地の乗るものが多いイメージなんですけど、実際どうなんですか。座学で授業とかのが多いとか。
それは期間がありましてね、大津会議で別れて、私たちは大津市で予定時間がですね、学科の時間と、それから1年半は学科がしたりですね。
結構長いんですね、1年半。
長いんです。もう就寝から軍事の勉強から科学全部やった。
就寝って例えばどういうことをやるんですか。
身を慎む方ですからね。
一つ軍人は、中世とはそう思うと、精神的な心身訓練ですね。
そしてその軍人、就寝軍人っておっしゃいましたけど、軍人の方はどういうこと、それもそういう何か心得みたいなことなんですか。
そうです。そういう頃から始まってですね、土曜集まりは天皇陛下をということです。
なるほど。その時っていうのは、やっぱり個人のいろんな考え方あると思うんですけど、天皇陛下、いい悪いではなく、やっぱりその四日連戦に対しては徹底的に叩き込まれるみたいな感じですね。
そうです。どっかありましたがね、一つ軍人は忠誠を尽くす。
特攻隊への道
忠誠っていうのは忠誠を尽くすみたいなことですか。
そうです。そういうことから始まってですね、僕の昔からいろいろあるんです。
それでだんだん毎日毎日が精神的に鍛えられていくわけです。
精神的に鍛えられるっていうところですけど、当然その憧れに燃えてその海軍に入った中村少年、青年か、青年としてはどうなんですか。
どんどんモチベーションが上がっていったのか、やっぱり上がっていく。それが意外と入ったらもうきつすぎて参っちゃったとか。
中にはそんなのもおりますよ。
中村さんは全然大丈夫だった。
私はもう意気揚々と負けられんということです。
実際それで今1年半っていうそこの時間もありましたけど、入られたのが1941年40年、終戦の5年前だと思うんですけど。
そこから特攻隊に至るまでってどういう経緯でその特攻隊に任命というか入隊というか、そもそも志願制だった。でも本当に志願制だったのかと。
なんかその辺の話もよく伺いますけど、どういう経緯で特攻隊まで。
特攻というのはもう特別にどの部隊はどこでどのように戦争を進めるということが人の目的ですね。
例えばアメリカのアメリカの潜水艦がよく出てくるよという場所によっては潜水艦に対する対処の方法を考えながら。
他の不積極艦とか巡洋艦とかいうようなのだったらそれに対する遠いところから接近する方法を考える。
内容によってどこの島を守るためにはどのようにしなければいけないというのが先に来る。
そしたら飛行機の方も爆撃目的の飛行機とそれから偵察の飛行機で、私たちもよく漁場作戦やったんですよ。
爆弾を積んであいつの潜水艦が距離内にいないか、そこを着敵のために三角形の運動をしながら行動をだいたい1000m以下、当時は水もあって異常なし。
もしあったらどこどこで今敵の潜水艦がおったけど、今も送ったよ。今と違って以前でもやっぱり探したら探したで、その所属を考えなくちゃいけないし、今とは全然違うんですね。
作戦から始まって、場合によっては他の飛行機を援助してもらって、爆弾を持って行っては落とすというような。
ヨカ連勢というのは実際に実戦をするわけじゃないわけですよね。
ヨカ連はですね、まず精神的、それから体力、目的を達成できるような精神力を鍛える。
そこから実際にその特攻隊に入隊されるわけですよね。
その戦争の内容によるわけですね。
中村さんはそのヨカ連に入った後に、いわゆる例えば茨城のところの関連、特攻隊で筑波隊とか大和隊とかいろいろあったっていうのをちょっと書いてあるんですけど、本いろいろ読んだら。
筑波隊っていうのは筑波の航空隊はあったけども。
また別なんですかね。その特攻隊の名前が筑波隊とか大和隊とかがあるっていう。
大和隊というのはもう部隊は独自のできるけども、大和隊って言ったらまた内容が違うんですよね。
中村さんはどこに属してたんですか。
それが私は教官を長くあちこちでやっておりましたけど。
初級の学校を卒業してから、飛行機の種類によって艦上爆撃機、艦上攻撃機、それから水上機は水上機、それから大型機は大型機あるわけですよ。
その中の一番初めに教官だったのは艦爆隊、艦上爆撃機というのは宇佐にあったんですよ。宇佐でやりましたね。
ちょっと整理させていただきたいんですけど、中村さんは四日連勢にまずなりました。その後はどうされたんですか。
その四日連勢の生活っていうのは1年半だけだったのか、その後も続いたのか、その後も教官になられたのか、どういう流れなんでしょう、終戦までの流れ。
飛行機の部隊がありますね、戦闘機、戦闘機は筑波の方、それから飛行機の種類が違う。
九六式艦上戦闘機から始まるわけですね。それから艦上攻撃機、攻撃機は攻撃機で他の部隊に行っておったんです。
それから飛行艇は飛行艇、種類が違う。それもやっぱりだんだん大きくなったり、時間を長く飛ぶようにしたり。
私は艦上爆撃機、艦爆。昔はお前はどこの機種に行きたいかということになったら、まず戦闘機ですよね。自分の腕を破棄するため。
戦闘機に行けなかったらしょうがないな、航空母艦に行きたいとか。航空母艦に行ったらまた攻撃とかあります。
中村さんは艦上爆撃機。
艦上爆撃機のところには志願したんじゃなくて任命されたんですか、そこに行きなさいと。
それまではいろんな訓練をやって、そこで教官がこれは何に向けた、何が言いとるというようなことを決めるわけです。卒業までに。
それで卒業までに、中村さんは艦上爆撃に行けと言われたということですか。
艦上爆撃で行きました。その中でも教官をやれということで。
種類がいろいろありますからね。
200mの長さのロープの先に吹き流しをつけて、8mくらいの吹き流しをつけて、それを向かって飛んで行きますね。
そしたら引っ張って行くわけですから。後方から降りて射撃をする。ダダダダ。そういうことから始まります。
卒業されて、四日連勢を卒業されて艦上爆撃の隊員の教官になったということなんですか。
そうです。
隊員になったというより教える側にもなるんですね、卒業したら。
そうです。その指名によってはね。
その教官になったのが何年のことですか。
半年後ですからね。
もう半年で卒業なんですね。
だいたい4ヶ月ですよ。徹底的に訓練をやる。
特攻隊への任命
四日連自体、さっき授業みたいなものを受けて1年半っておっしゃってたじゃないですか。
そうです。
その1年半の中で4ヶ月ぐらいでいわゆる訓練が終わって、その後に教官になったってことですか。
1年半の授業が終わった後に教官になったってことですか。
部隊が変わったということですね。
だから飛行機の実施部隊が戦闘機の部隊とかヤタベとかいろいろありますからね。
水上機、飛行艇は飛行艇、場所が変わるんです。
そこで訓練をやって、一人前になったならばその次が今私が申し上げた
環状爆撃機は爆撃としての射撃、それを吹き流しを使って初めは訓練をやりました。
なるほど。環状爆撃機の訓練をやって、その後はどんな感じだったんでしょうか。
その飛行機は救助式環状爆撃機、副用の飛行機がありました。
それを訓練をやって、その次は救急式環状爆撃機というのをガッチリした。
一枚の主翼で爆撃をやった、それから訓練をやったということですね。
ということは射撃の訓練、それから爆弾を落とす訓練というのを主体的に、
その間には編隊、3機が主体で、5機、6機、もう一つ合わせて9機というような飛び方を、まあ訓練として。
しかし、爆撃の訓練は高度2,000mから、それが追い風で行ったらだんだん深くなるんですね、降下の角度が。
そういうのが主体として訓練する。
爆撃では海の上に浮き袋を置かせておいて、それを狙って、どの風の時にはどっちから行ったほうが。
あまり深くなりすぎてもこれができないんです。そういう訓練をやった。
今、横練とか訓練の話があったと思うんですけど、実際、中村さんは特攻隊にも入隊されてるんですよね。
特攻隊は行った。行ったけれども、夜中の12時5分にそういう整列があって、
そこで、私が一番前におったけれども、乗るのはパイロット、偵察、
それからもう一人は、余裕があれば通信士、3人で踏んどったわけです。
ところがその時、一番前に整列がおったら、その時にぶっ倒れてしまう。
特攻隊への出撃
だから他の2人もそのまま病院に連れてきてくれました。
行かなくて済んだってことってことですね。
実際、特攻には当然行かれてないから、今、生きていらっしゃると思うんですけど、
ただ、その特攻、特別攻撃隊には志願されてるってことですよね。
いや、志願というよりも命令ですよ、当時は。
それをちょうど伺いたかった。
どこの部隊をいつどこに出せと。上から命令ですね。
それはいつ命令されました?昭和何年のことですか?
一番最後ですから、20年の4月ですね。
その時は、命令される直前までは、中村さんは。
客立派なで、教官。
教官をされてて、具体的にその4月の時に、覚えてる範囲でいいんですけど、どういうふうに命令来たんですか?
いや、部隊として出撃するように。だから、私の部隊でも結構ここに亡くなったのもおりません。
その部隊名があるんですか?隊の名前。
ありましたけども、もう、客立航空隊ということで。
客立航空隊。
そうです。
客立は100-2ですか?
そうです。
その客立航空隊の教官をしてて、客立航空隊。
もう、そんなになったら、教官も何もないですよね。
教官も何もないにしても、客立航空隊出撃せよの時に、記憶の限りでは同じ隊員はどのくらいいました?
ここにあるんです。
名簿があるんですね、リストが。
だいぶ亡くなったんですよ。
だから、他の人も、私が入院したおかげで、他の人も生き延びた。
特攻隊への出撃命令
出撃命令が出た時の中村さんの、いわゆる肩書き、章位とか何かいろいろあるじゃないですか、任秘僧とか、それは何だったんですか?
階級は菓子館の一番上、一等という上等。
上等という肩書きなんですね。
上等兵装。
上等兵装。
実際、僕ら普通に特攻隊を知らない人間が、例えば本を読んだり、インターネットで調べたりすると、あくまで特攻隊は志願だったと。
手を挙げてやりたい人って言ってたけど、でも実際は志願性と言ってるけど、強制だったんじゃないかと。
そうですよ。
その辺がやっぱり情報が錯綜してたので、なので中村さんにまさに本当に経験されているので、手を挙げなさいっていうんじゃなくて、本当に命令だったんですか?
そうです。みんな次はどこの部隊、どこの部隊と決まってくる。
じゃあもう選択の余地はなかったってことですね。
そうです。
行きたくないとか、行きたいとかっていう選択もできなかった?
そんなことは言えない。
言えないってことは、一応形としては行くものいるかみたいな感じの質問が来たんですか?
そんなのは、もう鉄砲で撃たれるよ。
具体的にはさっきおっしゃってた百里隊でしたっけ?がもう上の方から出撃せよ。
そうです。
特別攻撃隊として出撃せよっていう指令があって、有無を言わさない感じだったってことですか?
そうです。
その時ってもう終戦の年じゃないですか。昭和20年4月ってことは。
終戦の4ヶ月前じゃないですか。
教育部隊だから最後の最後ですよね。
そうですよね。
戦争の終結への不安
指令が来る前っていうのは、特に昭和20年に入ってからは、もう中村さんの中で戦争これ負けるんじゃないかとか、実際のそういう選挙に関しては何か情報とかって入ってたんですか?
それかギリギリまでそういう情報は一切入らずに勝つもんだと思ってたのか。
それはもういろんな情報でですね、あそこの部隊もやられた、ここの部隊もやられたっていうことですからね。情報が入りますよ。
そうするとその時の気持ちはどうでした?
その最初に四日連入った時は意気揚々としてたわけじゃないですか。
でも実際もうあそこも負けた、ここも負けたっていう事態になってくると、やっぱり自分たちの命もどうなんだろうとか、国は大丈夫なんだろうとか、何を考えてらっしゃったんですか?
それはもう負けられんと、負けないで頑張れというだけのことですよ。その当時の心理状態は。
それはもうそれ以上でもそれ以下でもなくて、本当はそういうふうに自分を奮い立たせてるけど、やっぱり当然死への恐怖があったのかとか、それすらも感覚が麻痺して。
そうですよ。バックには国民がおるんだから、国を代表してやるぞということですよ。
そういう意味では速攻隊のその出撃の指令が来た時もすごい怖かったとか、頭が真っ白になったとかっていう、あんまり変わんなかったんですか?
それ変わらんですね。やる気で言っとるから。
命の覚悟というか、こういうのは党の昔にもしてるから、あんまりその指令が来ても、それで急に怖気づくとか全然なかったってことですか?
ありませんね。
それは中村さん以外の周りの人たちも同じ感じでしたか?
そうです。今の人とは。
その当時がだからもう22歳とかですよね。
俺もみんなを守るためにという気持ちが大勢だったから。
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