吉祥寺プラザの外観を見に行って、その日もののけ姫を見たという意味では、半分ぐらい見たと言ってもいいんじゃないかという感じですね。
ちょっと近所なんで、もう1回ぐらい狙っていこうかと思うんですけども。
この買いづらさね。
普段こんなに大人気の作品ばかりじゃないんで、普段困ることなくてですね。
むしろ普段はいいんですよ。フラッと行って、サッと入って、見ていくっていうのにすごくぴったりなんで。
普段全く困らないというか、逆に好感が持てる。
そこに行けば見れるみたいな、わかりやすい映画館で好きだったんですけども、残念ですね。返す返すも。
ちょっとその辺のニュースというか、なぜ閉まることになったのかみたいなのは、いろいろ新聞等でも報じられていますが、機材の入れ替え等で費用がかかるんだというようなことでした。
というわけで、もののけ姫なんですが、好きな作品だなという印象を持っていながらですね、これ見返したのはいつぶりだろうか。
たぶん頭から最後まで通してみたのは、23年ぶりとかだと思います。私今43歳なので、20歳とかそのぐらいの時が最後だと思います。
金曜ロードショーとかでね、やることありますけど、私CMで中断されるのが好きじゃないんで、だいたいああいうの見ないんですよね。
ただチラッと見かけて、ああいいシーンだなと思って見ることはあるんで、ちょっと見かけたことはあるけど、頭から通してみたのは本当に久しぶりでした。
そしたらね、なんか想像より面白かったですね。想像よりっていうのはね、何を想像してたかというと、97年の公開された年に見に行ったんですよね。
それは、弟子のっていうか、弟子って言っていいのか、庵野秀明監督のエヴァンゲリオンの映画。
それと同じ夏に公開だったんで、指定対決みたいなことを言われたんですよね、当時、1997年。旧劇場版ですね。
で、私は当時岩手県に住んでいたので、電車で1時間かけて森岡市まで行って、1日でエヴァンゲリオンともののけ姫、この2本を見てきたんですね。
で、あの時はね、エヴァンゲリオンは座れました。ただ、もののけ姫は座れなくて、劇場の脇の席に2時間以上立って見たんですよね。
そういう風にして、割と困難を伴う。疲れますからね、普通に。
見たという意味では、とても思い出深いんですけれども、どう咀嚼していいかわからないというか、高校生には難しかった部分もありまして、
すごい作品だなとは思いました。思ったけど、なんかそれがピタッと心に寄り添う感じで着地したかというと、そんなことはなくて、
繰り返し繰り返し何度も見たいなという風には、なんかあんまり思わなかったんですよね。なんか見るのに、「よし、見るぞ!」みたいな感じで、腰を据えないとなかなか見られないような。
わかりますでしょう?その他の紅の豚とか、かけのえのポニョとかが気楽に見れるに対して、物の劇名は結構見るぞって思って見ないと見れないみたいなところがあったんで、
それでなかなか見返さなかったんじゃないかと思うんですけれども、ただ時間が経って肩に力の入った宣伝をね、そういうのを間に受けなくなって、
宣伝って言ってももう20何年も前の話ですから、何気なくフラッと見たらね、何気なくフラッとというかプラザの閉館に合わせて見たわけですけどね、すごい面白かったですね。
じゃあどこが面白かったのか。今日はちょっとそんな話をしようと思います。まずね、物の劇名がどういう話か。これほど多くの人に見られている作品はないと思うんで、
改めて説明されるまでもないんじゃないかと思うんですけども、なかなかに複雑な話なので、要約する人があれば、なんか違う話に聞こえるってこともあるかもしれないので、一応そのあらすじというかね、お話の説明を試みてみます。
まず物語の中心地になっているのは西の方。これ具体的には九州地方のことだと思いますけども、そこでエボシゴゼンという人が山の中にですね、大規模なタタラ場を作っていると。
これですね、歴史上存在しません。タタラ製鉄というものは技術としては存在してたんですけども、あんなふうに何人くらいいるんだろう、あの砦に。200人とか、わかんないけど、持っているかもしれませんね。
あんなふうに大規模なやり方をするタタラ製鉄というのは歴史に残っていないので、フィクションの部分です。
ただエボシゴゼンがやろうとしたことというのは、例えばハンセン病患者とか、あるいは女性とか、いわゆる武士社会とか侍社会みたいなものの中で、ちゃんとしたポジション、地位を与えられなかった人たちをちゃんと活躍させる。
それに木を切り倒して、それをエネルギーに変えて、タタラ製鉄、フィゴで火を食って溶かして製鉄する。それで武器製造をして、それを販売して事業するということをしているわけですよね。
これ、今でいう6次産業みたいな、1次産業、2次産業、3次産業、合わせて6次産業とか言いますけれども、鉄を作るだけじゃなくて、そこから武器を作るところまでやるということを大規模に産業化しているということにチャレンジしている経営者なんですよね。
それだけ大量の鉄を溶かすには、エネルギーとして木を切り倒す必要がある。なので、シシ神の森という太古からある森をエネルギー源として切り開いていくということをしようとしている。ここはお話の中心地になります。
その過程でイノシシの神様が銃で撃たれて、体の中に鉄の弾が残って苦しんでその場から逃げて、逃げる過程でタタリガメになって、なんと遥々遠く、東北まで逃げていきますね。それが映画の冒頭のシーンですね。
アシタカたちが住む、エミシの末裔が住んでいる岩手県あたりの村の中に、そのタタリガメとなったイノシシがやってくると。アシタカがそれを退治する過程で、逆にアシタカの方が呪われてしまうわけですね。左腕にグルグルとした紋様が、紫のような黒のような紋様が出ますけれども。
それを村の中にですね、そういう呪いを残すことはできないので、追放されると。ただし、挫して死を待つのではなくて、この呪いの元になった場所に行けば、あるいは何らかのソリューションが…ソリューション?これダメだな。
今回見て新たに気づいたこととしては、なんでこれがアシタカの心を打ったかというと、
これ実は自分と似たところをサンの中に発見したからなんだと思うんですよね。
その張り詰めた弓の震える鶴。月の光にざわめく心。
研ぎ澄まされた刃のように美しい、その切っ先によく似た心。
悲しみと怒りに潜む誠の心を知る者は誰だ。
みたいなことは実はアシタカの中に起こっていると。
アシタカっていうのは自分の内面を発露しないキャラクターなので、
悲しんでるとか怒ってるってことがよくわからないんですけども、
それは悲しんだり怒ったりしてないってことじゃなくて、
それは見せてないだけで、ものすごく自分が生まれた場所を追われたことも悲しいと思っているし、
森と人がやりたいことが衝突している、解決できないことにフラストレーションを抱えている。
でもそれを理解してくれる人は誰もいない。
すごく似てるんですよね。
すごく似てるから心惹かれたっていう、この二人が心惹かれたってことだと思うんですけども、
それがこの歌を聴いたときに、サンの歌なんだけど、アシタカの歌でもあったなっていうのを聞きながらすごく、
音楽もいいし映像も良かったんで、そういうことをすごく感じました。
この映画の中には森の中でも複数の勢力が出てくると。
太古から生きている、何千年も生きているような体の大きな狼とかイノシシとかに対して、
もっと若い世代の小さく愚かになったと言われているようなタイプの動物とか妖怪とか、
人間の中でもたくさんの立場があって、より開いていくことで新しい産業を作って、
そこで社会からはみ出していた人たちを救っていくような組織とか産業を作っていくことをしている人たちと、
あとは既存の侍たちで利権を取ろうとしている人たちとか、何とかいろいろ出てくるんですけども、
その複数の立場を移動しているので、サンとアシタカだけなんですね。
サンはもともと人間だったけど、動物たちの立場になったり、
アシタカはもともと東北の大和に滅ぼされたエミシのアテルイとかアクローの末裔として出てくるのが、
いろいろエボシゴゼンの宝場に行ったり、動物たちとも会話したりみたいな、そういうことをする中で複数の立場を知ると。
当然ながら山をどんどん切っていく、切り減っていく、動物たちと殺していくってことに最初は怒っていたんだけれども、
エボシゴゼンと喋るうちに、この人がやっていることにも意味がある、理屈が通っている、正義があるっていうふうに途中感じていくんですよね。
ただ、両方の正義を知ってしまっているので、単純に答えが出せない。
でも最後は僕はたたらばに言う、そういうふうには言うわけですけども、
そういう簡単に答えていないことを身に浸しながらやっている。
悲しみと怒りに潜む誠の心を知るわ。
思いのせい者の家たちだけど。
いやーこれね、2つの3と足高い、両方の立場から聴けるすごくいい歌だなと改めて思います。
この作品なんですけども、私20何年見てないって言ったんですけども、
実はものすごく影響を受けていることは結構自覚をしてまして、
これがね、どういう作品だったかというと、いわゆるファンタジーなんですよね、ファンタジー作品。
まあそう言われて、そうですね、ファンタジーですね。
あんまり異論ある方はいないんじゃないかと思うんですけども、
実はこれはもう一言加えるならば、和風ファンタジーなんですよね。
実はこの和風ファンタジーっていう言葉が、この作品のチャレンジでもあったと思うんです。
普通ファンタジーっていうと、もう西洋風のファンタジーであることが分かりきっているので、
西洋風ファンタジーっていちいち言いませんよね。
ファンタジーイコール西洋風のもんだっていう風になるわけですよね。
ユーラシア大陸の西側、ヨーロッパを中心としたところの宗教とか歴史とかスピリチュアルなね、
妖精とかなんとかみたいな、そういうものの伝説が中世の騎士の世界とかね、
そういうのと混ざり合った結果として、何かよく映画や漫画や小説になるような世界観がありますよね。
あれの元を作ったのは誰かというと、指輪物語を描いたJ.R.R.トルキンなわけですけども、
そういう人がヨーロッパに伝わるものをある一つの世界観として固定化させたわけですよね。
それがもう今や世界一で楽しまれているっていうことなんですけども、
実は宮崎駿っていうのはこの作品、日本物語姫を通じてそれに近しいことをやろうとしたわけですよね。
東アジアに伝わるような宗教、歴史、あるいは妖精とか妖怪とか精霊みたいなものを使って、
そういういろんな立場の人たちが入り乱れる世界みたいなものを一つのパッケージとしてやったと。
だからこれは室町時代の作品なんですけれども、
よくある武士とか貴族とかが出てきて何やかんやするみたいな時代劇にならずに、せずにですね、
武士でも貴族でもないいろんな職業の人たちがたくさん出てきて、
人間だけではなくて動物、動物も太古の時代から生きているようなダイヤウルフ、
ファンタジーだとダイヤウルフとか言いますけれども、
ダイヤウルフとかそういうものが出てきたりとか、
あとは少女ですね、猿の妖怪ね、そういうのも出てきたり、
混ぜこぜにして、あとこだまも出てきますね、
もののけ姫といえばこだま。
そういったものを作っているという意味で、
ファンタジー世界を作り上げようとしたという意味で、
ほとんど稀な成功例なんじゃないかと思うんですね。
これがね、本当に大成功というのはトールキーみたいに、
その世界観をみんなが真似していったらいいと思うんですけれども、
なかなか真似しづらいというのと、
宮崎さんが97年にその時の研究の成果を取り入れた後、
もっともっといろんなことが明らかになっているので、
そこで止まってちゃいけないというか、もっともっと研究とか先に進んでいるのですが、
やっぱりこういう考え方というか、
民族学とか歴史学の成果をこんなふうにエンターテインメントにした作品ってなかなかないと思うんで、
しかもそれが今だと通算何人ぐらいに見られているんだろう。
当時映画館だけでも1000万人以上見たと言われているので、
その後の金曜ロードショーとか合わせるとすごい数の人がものけ姫見てますから、
すごい影響を与えているはずなんですけども、
そういったはずなんですが、その割には民族学とかメジャーな、
みんな好きな、みんな興味あるんだろうか。僕興味ありますけど。
もっとメジャーになってほしいみたいなのありますけどね。
ちなみに、このものけ姫のジブリの教科書第10巻。
これはですね、いつも解題を大塚恵二さんが書いてるんですけども、
私大塚恵二さん大好きでよくその評論を読むんですけども、
ここでは大塚恵二さんって大学で民族学をやって、
その後も柳田邦夫関連の評論とか本をたくさんたくさん書いているので、
先ほど言った研究分野の統治者としてかなり張り込んでいる人なので、
このものけ姫の解題はかなり的厳しいですね。
的厳しいです。
言いがかりに近いんじゃないかっていうくらい的厳しいですね。
例えばどういうことかというと、宮崎駿の作品が、
その作品に現実世界にインパクトを与えようとするアクチュアなメッセージを持った作品として
作り続けているんだから、これまでもそうだったし、この後もそうだったんだから、
そういう作品として見たときに、このものけ姫っていうのはファンタジーとして確かに
偶然の人に見られたんだけれども、その中で描かれているような
人間と動物とか自然とかありますけれども、複数の立場の多様性、
その問題の解決困難さと、それに向き合う、向き合っている人たちの
そういうメッセージというか、刻みたいなものとか、
そういうものをこんなに多くの人に見られたのに、
そうやって現実に何にも人々の行動とか意識とか変えてないじゃないかと。
だからこの作品がファンタジーであるっていうのは、その通りなんだけれど、
ファンタジーであることによって、本来達成したいというかね、
この作品の企画のもとになっているアクチュアにインパクトを与えようみたいなことを
失敗してるじゃないかっていうことを言うわけですよね。
だってこの後金曜ロードショーだってやって何千万人に見られてるはずなのに、
こんな多様な世界、多様な社会みたいなものに関して、
みんなの意識も行動も何にも変わってないじゃないかっていうんですね。
いやでも、それは言いがかりじゃないけど、
それを言うのは厳しいなって厳しいなって思うんですよね。
特になんでそう思うかというと、
いや数は多くないかもしれないけど、僕みたいに小さいけれど
インパクトを受けて自分の考えとか作るものとかに人生変えられた人もいるんで、
そんな言うほど悪くなかったと思いますよって思うんですけど。
まぁまぁまぁまぁ思うんですが、
そんな評論も呼び起こすような魅力のある作品だということですね。
あとアニメについても僕たくさん喋りたいなと思ってたんですけども、
見どころ山のようにあると思うんですけど、
ただね、これなんだろうね。
君たちはどう生きるかを5回も見てしまった効果っていうのが、
こういうとこに悪い影響が出てまして、
君たちはどう生きるかって本当に贅沢に素晴らしいアニメーターたちの時間を
ふんだんに使って作られたものなんで、
当時の桃の剣姫を見るとね、物足りないところちょこちょこあるんですよ。
いや宮崎駿バリバリ現役だったと思いますよ。
でもCGを使った処理、あるいは背景との関係みたいなところとか、
ちょっとしたことなんですけど、
君たちはどう生きるかの方がさらにすごかったな、
あれに及ばないなみたいなふうに比べて物足りなく思っちゃうことなんですよね。
こういうふうに思っちゃうと楽しみ方が貧弱になっちゃうんで、
良くないと思うんですけども、
5回も見たからね、僕はね。