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2025-09-21 31:57

2025/09/21:罪人のかしらにおよぶ恵み

2025/09/21 聖日礼拝

斎藤亘師

テモテへの手紙第一 -15


サマリー

クリスチャンとしての道のりやイエス・キリストとの出会いについて語られています。洗礼を受けた後の喜びや教会での経験を通じて、神の恵みに感謝する気持ちが深まっています。このエピソードでは、聖書の言葉がどのように心に働きかけ、信仰を深めているかが述べられています。また、パオロの手紙を通じて、教会や信者たちとの関係が描かれています。このエピソードでは、パオロの信仰や罪を悔い改める姿勢についても語られ、彼が罪人の頭であることを認め、主の恵みがいかに彼を許したかが強調されています。

イエス・キリストとの出会い
おはようございます。
大変緊張して、今朝の礼拝の御用に当たろうとしております。
説教するということは、大変緊張することでありましてね。
ですから何年と言っても、数多くしているわけではありませんけれども、
加藤先生から、夏の休暇を取りたいので、この日曜日はどうでしょうか?
私は、ある意味言ってフリーターですから、いつでもどうぞと言ったものの、
加藤先生が、あんなにいつも聞かせる説教、よく学べる説教をなさるので、
そういう中でね、御用するというのは、申し上げたように緊張するな、と。
私は加藤先生のような、そういうメッセージの構成は、自分できませんのでね。
私はその依頼を受けた時に、それまでにいつもこの、今読んでいただきました、
手もて大志の手紙の、この一章の十五節の言葉が、心にいつもありました。
ありましたというよりも、本当にそうだなと思いながら、
もしイエス様が来られなかったならば、私はこういうイエス・キリストの恵みの世界を知らずに、
どういう道を歩んでいただろうか、ということを思いますとね、
私が今こうして今日まで、クリスチャンとして来れたということの一番の理由は、
それは、主の憐れみがそこにあった、ということを思い返すたびにですね、
そのことを深く思いながら感謝しております。
もしイエス様に出会うことがなかったならば、どんな人生私は歩んだだろうか、と想像することがありますが、
しかし、それは想像だけで、幸い、十六歳のときに、
教会での経験
友人がなぜか私に声をかけて、斉藤一生に教会に行くんで、東北ですからそんな調子なんですね。
じゃあ行ってみるか、と言って行った教会が、スウェーデンから家族で日本伝道のために来られている、
そういうスウェーデンの先生たちでした。
スウェーデン人に言ってもアメリカ人と変わらないな、と言って、
その頃はですね、あんまりその辺りの人を知りませんから、そんなことで興味深く見ておりました。
それが私の教会に行く最初のきっかけでした。
私は代替があまり長く続かないものですからね。
別に教会に行くと言って、親が反対するとか、そういった抵抗というか、
私の家内の方は父親がずいぶん反対したようなんですけれども、
そういう反対を受けるという経験はなかったんですね。
どうせ三日坊主で、そのうち辞めて帰っていかないようになるだろうという、
そういうことだったんでしょうね。
そうしていくうちに、やがて一年経ちましてね、
17歳の時に、イエス様を信じる決心ができました。
それは浦万台の檜原湖という湖がありましてね、
そこにその前の年からか、当時私たちのこの白樺の教会は、
高校生が中心と教会でしたから、
そして今みたいにキャンプがどうのとか言うような、
そういう時代ではありませんでしたから、
キャンプがあるから、テント当てなんかやるんだろうなと、
そう思いながら行ったのが、その17歳の夏。
その時の講師は、
森山聡という、当時藍住若松の大坊教会の牧師をなさっておられて、
後で分かったんですけども、教会の方がね、
先生時々私たちの教会にも来てくださいよと、
言うぐらいいろんな教会に招かれていく、
あるいは自分の方から行ってそして御用するというような、
そういう非常に積極的な先生で、
聞けば有岡さんも仙台にこの先生がですね、
確かきっかけはこの先生のきっかけじゃなかったかなと、
そして仙台の北山というところに家を借りて、
そしてスタートしたと。
もういろんなところに先生は広く働きを進めておられた方で、
この森山先生という方が来るからと言われて、
そして行ったんですけどね、
最初のうちは何か分からずにおりましたね。
分からんけれども、しかし1週間か10日間か、
そういう長い期間のキャンプでしたから、
そのうち少しずつ分かり出してきて、
やったら一緒に皆様信じていこうかというような、
そういう非常に軽い気持ちでね、しました。
しかもそのキャンプの最中に、
今回ここで洗礼式を行うから、
希望者は手を挙げなさいと。
じゃあ私も挙げてみようと挙げたんですよね。
そんなのがきっかけでした。
そしてどういう風にするのかと思いましたら、
ひばらこの湖で、それまで自分が泳いでいたところですよ。
またそこに戻っていって、
そして森山先生が手を挙げて、それでお祈りをして洗礼を受けるという、
洗礼たらこんなもんかなという、
そういう感じで洗礼を受けました。
そうしましたら、選挙司から、
斉藤さんあなたは洗礼を受けたんだから、
これから教会学校の講師をしなさいと言われて、
いきなりですね、教会学校があったのも知らなかったんですよ。
やってるから来なさいと言われて、
そしてそれから教会で講師を始めたのが教会学校でした。
それで私もそれなりにですね、
割り当てられたこの中からそこのお話をするんですけれども、
そしたら終わってから一人の生徒がやってきて、
斉藤さん上手だね。
上手下手も何にも分からないようなそういうことでした。
こっちが初めてですからね。
そう、じゃあまた来週するわ。来週はいいわ。
褒めてくれたのか、くさしてくれたのか、
からかってくれたんでしょうけれども、そんなことでしたね。
その教会はね、1600坪ぐらいのところに、
教会がいても、やはり日本家屋が建っておりましてね、
ですから午後からはその広いところでもっていろいろ遊んだんですね。
ですから子どもたちとの接触も早くできまして、
やがてそういう中でね、後にインドネシア選挙に行かれた
足立康夫という先生が、彼が中学生ぐらいかな、
母親と一緒に教会に来たときに、
あなたは午後からこういうことがあるよって言ったら、
じゃあ来るわって言って、一回帰って、そして改めて午後から来た。
彼の来るきっかけは、母親が一人で行くのは何だから、
やっすんお前にお菓子買ってあげるから一緒に行くんべって言われて、
それで来たんだって言って、彼がそういういきさつを話をしてくれたことがありましたけれども、
とにかく彼もそういう中におったんですよね。
まあいろいろと教会での出会いというものが、そういうふうにいろんな形で生まれました。
信仰の深化
しかも私は教会ということもそう知らずに、
ただイエス様を信じますと言ったそれと、それから実はもう一つあったんですね。
その時も私を誘ってくれた友達と、彼はせんで受けなかったんですよ。
なんで受けないんだって言って、こう話をしている時に、
次の人どうぞ手を挙げてくださいと言うから、今はせんで受けないので手を挙げたんで、
じゃああげますと言って、あげたんですよ。
そしてその集会が終わってから、このキャンプでね、イエス様を信じて、
そして献身そのものが生まれました。
献身なんて言葉も知りませんから、誰なんだろうなと思って、見ても誰もいないんですよ。
斉藤君来なさいと言われて、いきなり名前を呼ばれて前に出て行ってですね、
それであなたはそういう良い志をイエス様から与えられたんだから、これ出しなさいよと言われて、
それもあって、その宣教師は宣教師で教会学校の奉仕をするように多分言ってきたんだろうなと思うんですけれども、
そのあたりの歴史は私はわかりませんけれども、とにかくそんなことのきっかけでね、
献身ということすらも知らないで、私はせんで受けてクリスチャンになって、
そして献身して将来伝道師になるんだ、伝道者になるんだ、両親は何にも知りません。
私の身内も誰もそんなの言っていませんから知らないで、私はこんなものかな、と。
だってせんで受けるときにね、一つ条件つけたんですよ。
いつでも辞められたら受けますけど、というような曖昧なことを宣教師に言ったのを覚えているんですよ。
それでもいいから行きなさいと言って、それで受けるきっかけにはなったんですけれども、
しかしそれからが問題ですよね。
教会で奉仕をするようになり、子どもたちにお話をするというのが順番で来る、
一生懸命準備をしてやるんですけれども、こちらの方が全然空っぽですから、すぐに行き詰まってしまって、
もう苦しくなりましてね、どうしたもんだろうか。
今さら辞めますと言ったら、自分がイエスさんを信じますという、そして宣伝まで受けた、
それも何かこうね、否定することになるんじゃないだろうか、というような、
そういうことも気持ちの上でありましたから、断る勇気もないんですよ。
続ける勇気もないんです。
一体どうしたらいいだろうか。
もう今でも忘れませんが、高校2年生のちょうど2月もね、
そういう中間講座みたいなのがあったんですね。
私はクリスチャンになってから、聖書を読むようにと言われて、
とにかくどういう形であれ、読んだらいいんだろうという。
私は今もその聖書を持っていますけれども、当時支援付きの文豪薬聖書。
そこに小さく日にちがついている。
その日にちというのは、例えば今日だったら9月21日であれば、
そこまで読んだというね、その日そこまで読んだという印なんですよ。
それをしておかないと忘れちゃうんですよね。
読んで毎日読むようにと言われたんですけれども、つい2日たち3日たちやってくるうちに、
どこまで読んだのかなと。
聖書との出会い
何回もこうやっていると、ここも読んだような感じがするし、
初めてのようなことの感じもするしというような、
そういう聖書との出会いみたいな。
それで日にちをつけたら、そこまで1週間前読んだ。
じゃあその後そこから読んだらいいんだろうということで、日にちがやたらとついているんですね。
時々私の救いの証の中に、それを宮道中の方に見せるんですけれども、
へーって言いながら聞いておりましたけれどもね、そんな聖書との出会いでした。
ところがね、本当に心理的に、霊的に、しかし教会に行けば法師があるし、
一度休んだことがあるんですよね。
そうしたら、誘ってくれた友達がね、
彼の家から教会へ行く途中に私の家があるものですから、
いつも誘ってくれて。
そして誘ってくれて、そしたら父親は、
よっ、一緒に一冊注文かと言って、
私は2階におりましてね、
誘いに来たなあと思いながら、だがーって言った。
そしたら、よっ、まだ誘ってないんだけども、
じゃあ行きますわ、と言って、彼はそのまま行ったんです。
私はそれも一つの罪に感じましてね、誘ってくれたのに行かない。
なんていうことか、ということもあって、
だんだんだんだん追い詰められていくわけですよ。
教会に行くというのがね、重荷になっちゃったんですよ、それで。
そして私は、それでも聖書を読み出していこうと思って、
旧約聖書から読み始めて。
それで、吉焼の一生の旧説というところに来た時に、
その時にテーブルに聖書を置いて、正座してなんていうんじゃないですよ。
時々こうして、上に置いて顎をのせて、
読んでいるときにふーっと眠りますからね、ちょうどいいんですわ。
ただ、よだれがね、何かしらにあるんですけども、
そんなんだった。
ところがそんな読み方だったんですけども、
その一生の旧説に来た時に、
私があなたに命じたのではないかという、
この最初の一句なんですね。
後で高校生の集会でその話をしたら、
あらずや、だから、否定してるんだから、
えーっていう、
じゃああの時は私がお前に命じたのではないんだっていう、
そういう意味かななんてですね、
一時期考え直した。
いやけど、あらずやだから、
私がお前に命じたのではないか、
それはもう残りましたよ。
そして後は、私があなたが行くところどこまでも行くっていう、
やつ様の保障が、神様の保障がそこに続くわけですよね。
よしよしそれを聞いたんですよ。
で私は、
私があなたに命じたっていう言葉を読んだ時に、
私はもうこういう姿勢で聖書をそのまま読むことができなくて、
もう一度座り直してね、
足りんでしょうかって言って、
そこが私にとっては、
イエス様との間の献身の決心の時っていう、
それになりました。
今思えば、もしあんな姿勢で聖書を読みながら、
もうその手前で持って居眠れ始まって、
そしてその歌詞を読まなかったならば、
私は献身者なんてことはとてもいけなかったんだろうな、
だからいつでも思うことはね、
私が誓いますって言ったんじゃなくって、
本当にイエス様がね、
憐れんでくださったからこそ、
その短い時間ですけども、
そこで聖書の言葉を通して、
私に語りかけてくださった。
それが17歳の2月の時。
ですから私はもう喜んでね、
翌日学校行って、
今日教会に来てた何人かの私を誘ってくれた友達や、
それから後輩のそれをみんな読んで、
そしてある部屋でもってね、
いや実はこういうことがあったんだって言って、
話をしましたらね、
みんなやめとけって言わないで、
喜んでくれたんですね。
本当にわかっているのかなと思いながら、
けども喜んでくれたんだからいいだろうと思って、
しかしそれがやはり、
私の中で一つの大切な言葉になって、
それで今日まで来れたっていうのは、
あの無様な格好で追い詰められて、
もうこれ以上教会に向けない方針もしない、できないっていう、
そんな中でもって、
あの精工の一つが私の心に働いてくださったんで、
私はもう一度そこでもって、
イエス様の慰めで立つことができたんだなっていう、
それからね、この88歳ですけども今、
新学校卒業したのが1961年ですから、
それで引退してここへ来たのが1912年、
何年になりますかな、
ちょっとこう引き算できないですけども、
とにかく40年50年、
ああ来たんだなっていう、
そしてここへ来て10年ちょっと、
ですからクリスチャンとして、
またそういう出だしでしたけども、
伝道者として本当にこの憐れみを受けて、
今日まで来れた。
私はなぜここがですね、心に残っているかというと、
パオロは手も手に、
もう自分の最後のメッセージのようにして、
パオロとオネシモの関係
教会とは、
あるいは教会においての働き人というのは、
そういう教会においての在り方、
教会においての奉仕者としてのその生き方というものを、
この第一と第二の中で教えているわけですよ。
若い手も手にとっては、
もうパオロには出会おうと思っても、
その機会があるものなのかないものなのか、
ですからそう書き送られたこの手紙というものが、
本当に手も手にとってはですね、
自分のこれから、
イエス様に奉仕する教会に支えていく、
そういう大きな自分にとってのこの力でしょうか、
学びになったわけですね。
ところが第二の方を見てまいりますとね、
私の時はもう近づいた、
そういうことまで書いて、
そしてやがて自分の残された時間の中でもって、
もう書くスペースはない、
けれども心に思うことは、
あれの人のことも、この人のことも、この教会のことも、
いろいろと名前が出てくるわけです。
そういう教会のパオロを通してイエス様を信じた人たちも、
もちろんおりますしね、
またパオロの働きに加わってきた人もおる。
その中の一人にね、
ここではオネシボロという言葉で出てますけれども、
おそらくそれはオネシモのことじゃないかな、
彼が捕らえられてローマに来るときに、
実はピレモンの家庭集会で、
このオネシモは当時ピレモンの家の奴隷でしたから、
ですからもう仕方なし、
そこに集会に出席していたという、
それだけの結びつきだった。
それで彼はね、ピレモンのところから何かしらのお金を盗み取って、
そしてトーンとですね、ローマに逃げたんですね。
そんなあった。
ところがパオロがローマでもってね、
大変不自由な生活をしているということを聞いたそのオネシモは、
もういてもたってもおれなくて、
パオロ先生を愛したい、
これ少し私の想像もありますけれども、
そうして尋ねていって。
そして彼はそこでね、獄中といっても、
まあいうならば、
なんてでしょうか、
その牢屋みたいなところではなくて、
難禁状態ですから会うこともできるし、
しかしパオロと一緒に出かけていってというのは、
そういう自由はないですけれども、
けれどもオネシモはそこで一対一の関係でもって、
パオロとして平田さんを信じた。
それから本当に彼は一生懸命に、
パオロの身の回りのことも含めて使えた。
そのあたりのことがこの団員の手紙の終わりの方に、
オネシモロという名前に出てくるんですけれども、
彼は家族でもって私を支えてくれたんだといって、
自分の当時の喜びをそこに書いてますけれども、
そういう出会い、いろんな人との出会いの中で、
改めてパオロは手もてにね、
こういう人もおる、こういう人もおる、
けれども中にはね、
名前が悪いから出たんだろう、
出ますというね、パオロのお弟子さんがいたんですよ。
これは出て行っちゃったんですよね。
本当に日本語で言うなら出ますと言って、
挨拶したかどうか分かりませんけれども、
とにかくそういったところ。
それからもうパオロに最初は使えたんですけれどもね、
だんだん行くと自分との利益関係でもってね、
会わなくなって。
それでパオロに反対するだけではない、
彼の行く先々でもって、
この彼はね、自分の営業をこういうふうにしてパオロは邪魔をしたといって、
とんでもない言いがかりをつけて、
そしてパオロの信用と、
そしてパオロの働きというものを、
彼はもう行った先々でパオロをこなして、
不審な思いを与えて、
そしてやったような、
結局はパオロもね、
自分は極中ですから、
行ってというわけにもいきませんから、
あとはイエス様の手に委ねて、
イエス様が彼をどのようになさるかということで、
そういう一部も書いてあります。
パオロの信仰と悔い改め
だから素晴らしい出会いもあれば、
そういうつらい出会いもあれば、
だからパオロは手もてにね、
教会というところはそういうところだ、
だから本当にあまり期待していなかったのに、
一生懸命使えてくれたという、
オネシモのようなケースもあれば、
けれども一生懸命やってくれたと思っていたら、
いつの間にかいなくなってしまったとか、
いなくなるのだまれいけども、
行った先々で自分の働きを中傷して、
そして邪魔をしてという、
そうしてもいろんなのがあるという、
そういうようなことで、
名前がそこに最後に出てくるんですね。
ですから私はそのパオロは、
どんな心境でもって、
そういったことを書いただろうか、
けれども彼の中に詰まったことは、
私はこの15節、14節から読みますと、
私たちの主の恵みは、
キリストイエスにある信仰と会えるともに、
満ちあふれました。
キリストイエスは、
罪悪を救うために世に来られた、
という言葉は真実であり、
そのまま受け入れるように値するものです。
私はその罪悪の頭です。
パオロの信仰の、
ある意味で原点と言ったらいいでしょうか、
パオロはヘトルや、
そういった他のナナタル弟子たちとは違うんでしょう。
彼らはイエス様に3年数かけて仕えて、
そして色々と教えてもらって、
ところが自分はそうじゃない。
もう教会と言ったら、
その頭から否定して、
そうしていった先々まで行って、
この教会を迫害してきたという。
だからイエス様を信じて、
本当に守られて、教えられて、
そういう機関がない。
もう私はどれだけ大きな罪を犯し、
教会を迫害してきたか、
もうそれを思うと私は、
もしイエス様が、
罪人を救うために来られなかったならば、
一体どうなるんだろうか。
しかも私は、
罪人の中の一番の頭だ。
もう許されないはずのものが、
今こうして許されているという、
主税人の祈りと人間の姿
このことを彼はそこに書いている。
私は定例祈祷会だったか、
学科の時だったか、
ちょっとそれは覚えておりませんけれども、
沢村先生がね、
私はイエス様の前にやがて立つ。
その立つことができた時に、
私はどういう祈りを
捧げることができるんだろうか、
という、
その前が覚えていませんけれども、
記憶にあるのは、
そういうことをおっしゃった。
そして先生がおっしゃったのは、
同じ神殿に来ながら、
パリショビタも自分でやってきたことを
なんだかんだにも誇らしげに祈っている。
それを聞いたらもう、
神殿におったその主税人は、
もうあながた入りたいような、
そんな気持ちでしょうか。
そういう気持ちの中でもって、
彼が最後に一言祈ったのは、
主よ、罪との私を憐んでください。
沢村先生はね、
イエス様の前に立つことができた時の
祈りは、
私はこれだと思うということをね、
おわかしと言いましょうか。
そういうことをおっしゃったのは、
もうそれだけ残っているんですね。
ということは、本当に私も、
もう間もなく、
イエス様にお会いする時が、
あと何年後かに、
約束されていると私は信じておりますけれども、
ああいうふうに思って、
もう来なさいと言って、
そして立たされた時に、
私は本当にそうだ。
自分の信仰の追い立ちから振り返って、
そしてこの牧師になって50数年、
クリシアンとして合わせて60数年、
いったい何がそこでできたんだろうか。
ただできたというよりもね、
やってきたというよりも、
本当に自分はただ、
今あるのは主の恵みがい、
何者もないということを、
深く心に覚えますよ。
ですから、あの主税人の祈りこそが、
私のイエス様の前に立ち入ったその時の、
最初の祈りかなと。
どうぞこのツイートの私を憐れんでください。
私はこの手元に書き送ったこの手紙と、
そしてイエス様がお話の中でもって、
パリサイ人の祈りと、
主税人の祈りとをそこに置きながら、
そしてイエス様が一番重んじられたのは、
何をやった、こういうことしてきました、
これだけのお捧げましたというよりも、
罪との私を許しください。
私は人としてね、
本当に人に前にこの祈りこそがね、
もう最大の宝だなと。
その祈りができるからこそ、
今こうしておれるのかなってこう思います。
やがてその手が来たら、
また報告する機会があればね、
向こうから発信しますけれども、
そうはいけませんので、
私の最後の言葉として、
今申し上げた罪との私を許しください。
なぜなら私はその罪との中のもう頭です。
そんなものでも哀れんでくださっている。
お祈りいたします。
31:57

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