00:02
一言お祈りをさせていただきます。
天の父なる神様、今日も私たちをあなたの御前へと招いてくださり、
主あおいで礼拝ができますことを感謝いたします。
祈られたように、私たちの周りには本当に様々なことがあります。
世界のうちに、そして私たちのうちに。
けれども主よ、あなたは私たちの主であり王です。
この世界の主であり王です。
そのことを本当に覚えて感謝をいたします。
どうか神様、様々なことがありますけれども、
そしてまた私たちの心も体も霊も弱りやすいものですけれども、
しかし私たちを越えて永遠のカイナがその下にあると約束されるとおり、
あなたは私たちを運び背負い待ち運んでくださる主であることを感謝をいたします。
どうか主を仰がしてください。
あなたは私たちを愛し抜いてくださいました。
御子イエス様の十字架の治療により罪に許され、
永遠の命を私たちに与え、永遠なる人と共に生きる命を与え、
この世界に御国を築くようにと私たちを召し出してくださいました。
召し出してくださった主は、私たちにその必要な力をも与えてくださる主です。
どうかあなたを仰がしてくださいますように。
祈られたように、ここに来たくても来れないお一人一人がいらっしゃることを覚えます。
自宅で礼拝を守っておられる方がいらっしゃること、
また、本当に4月のこの陽気の中で気候が安定しない中で、
心を痛め続けておられる方もいらっしゃいます。
どうか一人一人を主が慰めてくださり、
共にいてくださいますようにお願いをいたします。
その中で主は生きておられることを知ることができますよう、
帰りに見てください。お願いをいたします。
世界の中に今、戦争が起きていることを覚えています。
そしてまた、私たち聖書を読む者としては、
イスラエルがそこに巻き込まれていることを覚え、
胸を痛めていますけれども、
神様、この現実を冷静に見つめながらも、
平和の主がそこに臨んでくださいますようにと願います。
犠牲者たちを主をどうか、あなたが働きかけてくださり、
命を落とすのは、本当に社会的な弱さのある人たちですから、
神様がどうか一人一人を守りくださいますようにお願いします。
そのために、祈る群れとならしてください。お願いをいたします。
これからの時を見てに委ねます。
御言葉を開き、主が私たちに悟りを与えてください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン
皆さんは紙芝居で、
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くばりさんの捧げ物という紙芝居をご存知でしょうか。
実は私は小さい頃、本当に教会学校の先生に何回もこの紙芝居を読んでいただいて、
懐かしくなって、教会にあるかなと思ったらあってですね、
ちょっと後ろに置いてますので、また後で見ていただいていいかもしれませんが、
子供向けの紙芝居、くばりさんの捧げ物という話があります。
どういう話かと申しますと、簡単に言うとこういう話なんです。
炭鉱の町で働くモグラのくばりさんという人がいるんです。
彼は一生懸命お仕事をするわけです。家族を支えるわけですが、
仕事場では威勢がいいのだけれども、仕事場から帰るときにはいつも、
俺は何のためにこんな仕事をしているんだろう、何のために生きているんだろうということの
虚しさを感じている。家に帰っては酒を飲んで暴れるわけです。
ある種、そういう虚しさを慰めるために、そういうふうに暴れてしまう。
けれども、そのくばりさんの元にあるとき、羊のシャロン牧師がやってくるんです。
くばりさんにこう言うんですね。
くばりさん、あなたは神様に愛されていますよ。どうか聖書を読んでみてください。
けれども、くばりさんはうるさいと言ってそれを知りづけてしまう。
ところがある日、炭鉱で働いていた落石事故にくばりさんが巻き込まれてしまう。
休止に一生を得て病院に運ばれて無事だったんですが、くばりさんが目を覚ましたとき、
その隣には羊のシャロン牧師が祈ってくれていた、くばりさんを神様どうか助けてくださいと。
その愛の姿に胸打たれて、くばりさんは聖書を読み始めるんですね。
すると次第にくばりさんの目の色が変わってくる。明るくなっていくんですよ。
職場でも家族の中でも明るくなっていく。
そして神様を信じ洗礼を受けて、くばりさんはそのときから本当に神様の愛を喜んで、
家族を愛し身寄りのない子供のために教会を新しく建てました。
そういうお話なんですね。
子供の頃、これを読みますと、くばりさんなんて悪いやつなんだって、
そんな感情で読んでいたのを覚えていますけれども。
年をとって、私もまだ36なんですけれども、
この年齢ですら、その話を改めて読むと、
くばりさんの気持ちにすごく共感ができるというか、あるんですよ。
中年の憂いとでも言いましょうかね。
自分は結局生きているのだけれども、一体自分は何のために生きているのか、
なぜ生きているのか、そのむなしさがずいずい自分の胸にたまってきて、
慰めるために何かに逃げる。
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けど、それは一時的なものでしかなくて、ずっと埋められない穴がある。
でも、そういうくばりさんに対して必要だったのはたった一つの真理だった。
私はあなたを愛しているという神様の言葉。
私はあなたを愛している。
神が私を愛している。
それを知った途端に何か方向が定まるとでも言いましょうかね。
いろんな人生の歯車、ばらばらだった人生の歯車がカシャカシャとはまって、
きれいに回り始めるような、そのようなふうに彼の人生が回り始めた。
そういう話ですよね。
実にシンプルなんですが、しかし真理が含まれているなと思うんです。
今朝、実会の言葉を続けて見ていくんですけれども、
実会を読むときに私はつくづく思わされるのは、
神様は私たちの人生の歯車を整えようとしておられるということです。
私たちの人生の歯車を整えようとしている。
実会を読んでいく中で、あなたが生きている上で、
その部分がギシギシと傷んでいませんか。
油が足りていないのではないでしょうか。
いや、そこがもうすでに噛み合わなくなって、
自分ではどうしようもなくなっているんじゃないでしょうか。
けれども、それを整える実会の言葉。
何度も確認しますが、
私たちはイエス様の十字架と復活の上に神の子です。
これは変わりません。
でも、罪を抱える私たちには歪みがあるんです。
お互いにあるんです。私にもある。
そこの中にはギシギシと噛み合わない歯車があるわけです。
神様はその噛み合わない、その歪みが痛み続けないように
癒してくださるために、実会という言葉を与えてくださった。
今朝は第2回を見てまいります。
第2回というのは、この出礼式時の20章の4節から6節に書いてあります。
先ほど読んでいただきましたので、再度お読みしませんけれども、
ここで禁止されていることは何なのか一つです。
自分のために偶像を作ってはならないということです。
自分のために偶像を作ってはならない。
これは大切な今しめ、神様と私たち人間との関係はあるし、
痛めてしまう要因によくなってしまう、そのようなことを指摘している今しめです。
この言葉を通しながら、今朝私たちの歯車を少し整えさせていただければ幸いだなと思うんです。
この第2回はまさに偶像を作ってはならないということです。
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偶像を作ってはならない、まあまあシンプルだなと思いますけれども、
私のために偶像を作ってはならないという今しめは、一体何を禁じているのか、
分かりやすく私たちがすぐ思いつくのは、この20章の、ちょっと後になりますが、
32章にある金の行使事件ですね。
もう皆さんよくご存知かと思います。
モーセがシナイさんで神様から立法を授かるために、
そのシナイさんの上に行くわけですけれども、
戦っている間、待っているイスラエルの民はアロンに頼んで、
私たちのために、私たちに先立つ神様を作ってほしいと頼み、
民から貴賓族を集めて金の行使を作りました。
そして、せっかくですから開けてみましょうか。
32章ですね。
32章の1節から6節というところにそのことが書いていますが、
そのように作った像に対して、4節ですね。
アロンがこういうことを言うんです。
彼らは、すみません、イスラエルの民はこういうことを言うんです。
4節。
イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き昇ったあなたの神々だと言うんです。
金の行使事件の一番の問題は一体何なのか。
単に偶像を作ったということが問題ではないんです。
彼らはカナンの神様、イスラエルの神様以外の神様を表現するために何か違う像を作った。
違うんです。
あのイスラエルの地から、私たちを奴隷から解放してくれたあの力強い神、
イスラエルの神が金の行使だと言ったんです。
イスラエルの神が金の行使なんだ。
この事件の問題は何かというと、
民はエジプトから導き出してくださった偉大な神様を金の行使の像のようなものに小さくしてしまったということが一番の問題なんです。
神様というのは小さいお方でしょうか?
そうではないですよね。
神様は、これは何ヶ月前の招きの言葉で読んでいましたが、こう言われる方です。
私は始めであり終わりである。私の他に神はいない。私は始めであり終わりである。
世界の始めから終わりまで、全てを術を収める神である。
この宇宙を創造し、今も未来もこの宇宙に主権を保たれる唯一の神様、全知全能の神様。
だから、こういう言い方ができると思うんです。
全知全能で偉大な神だからこそ、神様というのは目に見えないんです。
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これ大事なことなんです。
神様が目に見えないというのには理由があるんです。
それは何かと言いますと、この偉大な神様、神は神であると言われ、
その神様は目に見える何かの形で形容できないほど偉大な神であるということなんです。
形容ができない。
この出エジプトの時代、イスラエルの民が置かれていた時代というのは、周りの国々には神の像ってたくさんあるわけです。
人間の自然な反応ですよね。
目に見えない偉大なものを、何かそれを称賛するために地上の動物を使ってそれを像にする。
エジプトにも様々な動物を模した神がいました。
けれども、そのようなことは当然と言われる世界の中で、実は神の像を作るなというのはだいぶ特殊な教えなんです。
でもそれはなぜか、なぜそこまでして神様は大事にされたのか、
それは先ほども言いましたが、目に見えないほど偉大な神様を目に見える形にする時に、確実に神様の本質が誤解をされ、神様が小さくなるからです。
確実に誤解され小さくなる。
どんな形にしようともですね。
そして、この神様が小さくなるというのが問題だったんです。
神様が小さくなるとどうなるでしょうか。
それは、人は神を自分の支柱に収め、異のままに利用したくなってくるということです。
いわば傲慢ということです。傲慢になるということです。
実は偶像崇拝の問題というのは、何を偶像とするかが問題ではないんです。
何を偶像にしても駄目なんです。
現在で言うならばお金だとか富だとかになるんでしょうか。でも何でもいいんですよ。何でもいい。
偶像崇拝の本質は、そういう装置を用いて神を小さくし、神よりも私が高い、神をコントロールできるという傲慢が生まれるというのが本質的な問題です。
傲慢になる。
神様に従うよりも、実は神様を従わせたい。
神様に取り扱われるよりも、実は自分の都合のいい神様だけを信じたい。
そうなってくるとどうなるのか。
本来あるべき場所から軸がずれてくるんです。
軸がずれるというのは何か。
神が中心で、私たちはどう生きるべきかという軸から、私が中心になってくる。
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私が中心になってくる。
神を中心に、神を軸にすべきところから、私、私、私が軸になってくるというのが傲慢という状況です。
誤解がないように言いますが、私たちは自分の幸せを神様に願っていいんです。
これは本当にそうです。
私の願う幸せのために、私のあのこと、このことのために、神様働いてください。
そのように、自分のために祈ることは大事ですし、必要なこと、良いことです。
そして、祈りというのは神様に聞かれますから、
神様は私のためにこうしてくれた、ああしてくれたという証がある、感謝する。
それは素晴らしいことなんです。
ただ、私たちの祈りが聞かれない時ってあるんですよ。
聞かれない時がある。
それはむしろ、こう祈っていたのに、願った通りの方向ではなかったということを私たちは経験する時に、
願った通り、期待通りに神様はしてくれなかった、そういう時に、傲慢が顔を出し始めます。
私の願いに応えてくれない神、そんな神に一体何の意味があるのか。
そんな神につまずきました。失望しました。
いや、神など本当はいなかったのだ。
自戒を込めて、これは私自身の自戒を込めて言いますけれども、私自身もそうなる時があります。
なぜですかしよ、ということを言いながら、本当にあなたは何なんですか、と言いたくなる時がある時。
けれども、その時に、ああ、もう主は私の期待に応えてくれない、
ダメな神様なんだ、って思い始めているならば、私は自分が傲慢だと気づかなければならない。
ああ、傲慢だ。
では、この第2回が軌道修正を与えるとするならば、どういうことなんでしょうか。
それは一言、こういうことでしょう。
あなたは、神を神として減り下りなさいということです。
神を神として減り下りなさいということではないでしょうか。
傲慢というのは、実はとても根深いものです。
それこそ、罪の本質というのは、時々言いますが、自分自身を神にするということになりますから、
私たちはこの傲慢の思いというのに実に捉えられやすい。
そろそろですね、私を生きているわけですから。
この5節6節を見ますと、
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20章の5節6節
それらを拝んではならない、それらに仕えてはならない。
あなたの神、主である私は妬みの神。
私を憎む者には父の戸賀を子に報い、三代四代にまで及ぼし、
私を愛し、私の命令を守る者には恵みを千代にまで施すからであるとあります。
私を憎む者、つまりこの10回の言葉を聞きながら無視をして傲慢であり続けていくならば、
父の戸賀は子供、孫の代までと言われる恐ろしいことですけれども、
神様に対して傲慢な姿勢というのは、実に周囲に影響を与えます。
どこかで、さっきの配りさんの話じゃないですけれども、
歯車が狂い始めたら、その歯車が狂い始めたときに、
そのギリギリと痛むものが自分の中で痛んでですね、
お酒に逃げるもいいでしょう、いろんなことに逃げるもいいでしょう。
でもそれは一時的なもので、本質的な解決にならなくて、
その痛みがうめき続けて、結局手を振り回して誰かを傷つけてしまうということが私たちにはあります。
だんだん自分もその家族も周辺も歯車が噛み合わなくなってくる。
本当は家族を愛したいんです、さっきの配りさんの話じゃないですが。
本当は家族を愛したい、優しく生きたい、けれどもそうは生きれないという自己矛盾があります。
その痛みを慰めるために酒を飲み暴れる、でもそれで歯車を戻すことはできない。
傷つけられた側にはそして傷が残って連鎖していく。
私たちは親から受けた何かの良い意味でも悪い意味でも影響力であったり連鎖ってあります。
そしてそれが次に繋いでいってしまうということもあるわけです。
でもどこか胸の中には思っているかもしれません。
この連鎖をどうやったら断ち切れるんだろうか。
ずっと続いてくる私の傷であったり歪みであったり、
そういう傲慢さの連鎖であったり、そういうものは一体何で断ち切れるのだろうか。
あえて申し上げます。それは今です。
今、私たち自身がその傲慢を食い改める以外には何もできない。
いやむしろはっきり言うならばそれにかかっていると言っても過言ではない。
そう言えるのではないかなと思うんです。
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神様の愛を知ってはいても横において、本当は私が神になっていて、
そのような私をなおも愛してくれる神様の愛をも過論じしてしまう。
そういうある種、決して減り下りはしない傲慢さ。
けれども、神は神である。神は愛である。
このお方の前に実は神戸を垂れ始めなければ回り始めない歯車がある。
神始めないものがある。
この箇所で、
この箇所で、恵みは千代までとこの六節に書いてありますね。
恵みは千代まで。それは歯車が回り始めたらずっと続くということです。
神と共に歯車が回り続けるということです。
今朝この箇所を読みながら、これは私自身も含めてです。
別に偉そうに言えるわけではなくて、
私と一緒に思わされたいのは、
減り下るということを回復させていただきたいと思うんです。
減り下るということ。
もう一度主軸を神様に据えるということを選び取ってみたい。
神様に従うよりも、私たちは神様を従わせたいという欲求が常にあります。
でもそれは違いますね。
神様に従う中でしか、私たちは本当の神様の道からというのは体験できないんです。
神様に取り扱われるよりも、
自分の都合のいい神様だけを信じたいという欲求が常に私たちにあります。
でも違います。
神様の御前に神戸をたれ、取り扱われる中にしか回復はないんです。
減り下りのモデルということを思うときに、
私はゲッセマネの園で祈られたイエス様の姿を思い出します。
イエス様は祈りの中でこう言われました。
父よ、御心ならこの杯を私から取り去ってください。
しかし、私の願いではなく御心がなりますようにと、御心がなりますようにと祈られた。
聖霊様は私たちを変えてくださいますね。
神様があるということを私たちのうちに気づかせてくださる。
そして、それに気づかされるならば、私たちは死の御前に神戸をたれて、
こう祈れたらいいんだなと思うんです。
神様、私の御前さすべてを御存じで、
あなたは私をなおも愛してくださっています。
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どうかその愛を受け入れさせてください。
どうか私を砕いてください。
そして、あなたに従うものとならしてください。
そのように、私自身を死に委ねるという経験が大事なのではないかなと思うんです。
先ほど、三華書の六章も読んでいただきました。
最近、僧天では三華書を読んでいます。
その中で私も本当にふと目を止めさせられた、
これは三華書の本当に大切な言葉ですけれども、
六章八節を読みますと、こういう言葉です。
主はあなたに告げられた、人よ何が良いことなのか。
主があなたに何を求めておられるのか。
それはただ公正を行い、誠実を愛し、
へり下って、あなたの神と共に歩むことではないかと。
この三華書が書かれた時代というのは、
キタイ・スラエルが豊かな時代でした。
繁栄した時代でした。
その繁栄したキタイ・スラエルの国の中にあって、
キタイ・スラエルの滅亡を予言したのが三華でした。
豊かな時代の中でも、実は豊かな繁栄の影に傲慢が隠れている。
そしてそれがうまくいかなくなり始めた時に、傲慢は顔を出す。
それはきっと国も人間の営みも同じなのではないでしょうか。
その中で、まさに全知全能の神様、
今も生きてこの世界を治めてキタイ・スラエルをどうにかしようと働かれる神様は、
決して人の支柱に収まりきらない。
手作りの像では形容しきれない。
生ける神様が、時代を越えてこれが良いことなんだと語ったのが三華書の六章の八節です。
人よ、何が良いことなのか。主があなたに何を求めておられるのか。
それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へり下ってあなたの神と共に歩むことではないか。
お気づきでしょう。これ実解なんです。実解なんです。
へり下って神を愛し、公正と誠実を行いなさい。実解なんですね。
私も最近三華書を読む中で、一箇所すごく胸を打たれた言葉がありました。
この六章八節を一ページめくっていただくと、七章十一節から十三節というところにこういう言葉がありました。
三華書七章の十一節から十三節。
あなたの石垣を建て直す日、その日国境が広げられる。
その日アッシリアとエジプトの町々から、エジプトからタイガまで、海から海まで、山から山まで、
あなたのところに人々がやってくる。
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しかしその地はその子に住む者たちのゆえに、彼らの行いの身によって、
あれはてると。私も人間ですからね。
いろいろなことに歯車がはまらないなと感じる朝があるわけです。
その時にこの言葉を読みながら、神様から私はあなたの石垣を建て直せと言われた気がしたんです。
あなたの石垣を建て直せ。
そうするならば国民は流れてくる。
そうするならば人々はやってくる。
祝福が動き始める。何か歯車が回り始める。
先ほども祈っていただいて、ああそうだなとつくづく思いはされましたけれども、
私たちは悩むあれもこれも主の手の中にあるということをやっぱり理解する必要があります。
ただ、その中でまず様々な歯車が狂っていて、何かを偶像と見立てて生きている私たちが、
最初にやっぱりそれを建て直すべきところは何か。
それは神こそ神であると認め神戸をたれること。
そこが私たちの建て直すべき石垣なんです。
神は神であり、その御前に神戸をたれること。
私自身そのことを示されるときに、これは減り下りの回復だなと思わされました。
私たちは互いに、私も含めてです、傲慢になりやすいです。
そうは言いながらと言いながら、本当に語った加藤はどうなんだということを思われるような、
そういう姿が私の中にも出てくることがあります。
でも、そういうことを繰り返していきながらもともに、
いつもここが大事なんだというところに帰らせていただきたい。
死の御前に減り下りを回復させていただきたい。
減り下りが回復されるときに、それは何が起きるのか。
神様を小さくしなくなるということです。
神様は小さくない。
私よりもはるかに大きい、悟るんです。
はるかに大きい。
そしてそのはるかに大きく、とらえきれないほどの神が、
私はあなたを愛していると語り、
そしてその大きさ、その神様が私はあなたを愛しているという、
その大きさをそのまま受け止められるときに、
私たちは実はくばりさんのようになっていくんじゃないでしょうか。
これもこれも地球の中に、苦しみ手の中にある。
だから、そしてそういう神が私を愛してくれている。
だから、何か明るくなっていく。
家族を愛する。
その中にも死の御手がある。
そこにひざまずくところから始まる歯車があるのではないでしょうか。
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そこから始まる回復があるのではないでしょうか。
私たちのために、私は自分のために偶像を作ってはならない。
とても危険的なことに私たちを招くからです。
小さくせずに、神とする歩みを回復させていただければと思います。
一言祈ります。