今朝も続けて四式を私たちは見てまいりますけれども、今朝注目を致しますのは四師エフタという人物です。
エフタという人物は中々注目されることが少ないと思います。少なくとも私はCSでエフタの話は聞いたことがありませんでした。ギデオンやサムソンの話は聞くのですけれども。
それはおそらく彼のストーリーが悲しみに満ちている、そういうストーリーであるからだと思います。
彼の物語は四式でいうと10章から12章に書いてあるのですけれども、ちょっとだけ抑えたいのは四式は10章を皮切りによりイスラエルの堕落の歴史が速度が上がっていくということです。
呪いの現実が酷くなっていく、そのような状況を描きます。
例えばすみません、少し先に読ませていただくと、四式の10章の6節から7節というところを読み見せると、こういうことが書いてあります。
四式の10章の6節。
日本人の手に売り渡されたと書かれています。
ギデオンを前回見ましたが、徐々に偶像崇拝が彼らの生活に入り込んでいるということでしたが、
今日の歌詞を見るならば、彼らは自分の周囲の国々の偶像のすべてを取り込んでいるかのような、そのような状況に陥っているということが書かれています。
これはイスラエルの民が偶像崇拝に心をとらわれたわけですが、これは神様が早いうちから忠告をなさっていたんですね。
2章の3節というところ、言葉だけを見ますと、
彼らの神々はあなたにとって罠となると、主は早いうちから語っておられました。
偶像に心が奪われる、いわば神様以上に私の願いを叶えてくれる何か。
それを偶像と言っていいでしょう。神様以上に私の願いを叶えてくれる何か。
それは人の目には魅力的に見えるわけですけれども、
でも神様は偶像というのは実はとても危険なんだよということを早いうちから忠告をされています。
そもそも偶像崇拝は一体何が危険なんでしょうか。
一言で言いますと、それは神様がどういうお方かわからなくなっていくんです。
神様がどういうお方かわからなくなっていくんですね。
レイフターの物語には実はそのことにおいてとても悲惨なことが起きたということが語られている。
痛々しい話です。
けれどもそこにある人間の愚かさを見ると同時に、
そこに対する神様の眼差し、そこもご一緒に今朝も注目していきたいと思うのです。
2つのポイントでお話をしますと、1つ目のポイント。
神様から離れるときに私たちは神様の愛と恵みを忘れてしまうということです。
神様から離れるときに神様の愛と恵みを私たちは忘れてしまうということです。
ちょっとだけ十章の話をするならば、イスラエルは偶像崇拝が悪化していくその状況の一途をたどっていきます。
その状況に対して神様は十章の11節から14節を読みしますと、こういうことを言われるんですね。
主はイスラエルの子らに言われた。
私はかつてエシプト人、アモリ人、アンモン人、ペリステ人から、またシロン人、アマレク人、マオン人があなた方を強いてあげているあなた方が私に叫んだとき、
私があなた方を彼らの手から救ったではないか。
しかしあなた方は私を捨てて他の神々に仕えた。だから私はこれ以上あなた方を救わない。
行け、そしてあなた方が選んだ神々に叫べ、あなた方の苦しみのときには彼らが救ってくれるだろうというのです。
以前もお話ししましたが、詩式というのはパターンの繰り返しなんですね。
民が罪を犯しました。それに対して神様が怒りました。そして民が叫び声をあげて助けを求めました。
主は裁きつかさを使わせて民を助けられる。そのパターンがあるわけですが、しかしここでパターンが揺らぐんですよ。
それは何か。民の叫び声がその都度、死死を使わせて救われた神様が悲鳴をあげられるんです。
何度救ってもあなたは偶像の神々のところに行くじゃないか。ならその神々に救ってもらえばよい。もう私は救わないと嘆かれるんです。
これはよく神様とイスラエルの民は結婚関係でよくその比喩で表現されますが、夫婦の会話のように聞こえますね。
それはあなたが何度も私を捨てて他の人のところに行くのを私は何度も何度も許したけれども、もう限界許せないということです。
そうイスラエルに神様は言うんです。私たちも少し今日この箇所で誤解を正したいのは、聖書の神様というのは心も痛まない不動の神様ではありませんね。
そうではない。生きた愛の関係を神様は求められるんです。求められるときに神様は愛ゆえに痛まれる神様なんですよ。捨てられる痛みを感じている神様。
そしてそれゆえに民に対してもう救えないとまで叫ぶ神様ですね。でも同時に16節。
彼らが自分たちの家から異国の神々を取り去って主に仕えたので、主はイスラエルの苦痛を見るに忍びなくなられたと言える。忍びなくなられた。
痛んでいるけれども、でもどうしても手放せない。諦められない。それが神様。そういう姿が描かれます。
ただですね、先ほど言いましたこれを皮切りに、知識がだんだん闇の深いところに進んでいることを私たちは感じるわけです。
さてエフタの話に入っていきますが、当時このイスラエルを苦しめていたのはアンモン人でした。
アンモン人から救うのはエフタで、ペリシテ人から救うのはサムソンというふうに話は続いていきますが、しかしアンモン人がこの時民を苦しめていた。
そしてその危機から救うために現れるのがエフタです。ただこのエフタという人物は一言で言うならば、ならず者なんですね。ならず者である。
他の聖書の訳で彼は三族と訳されますけれども、彼は生育歴というか生まれがとても気の毒な人物でした。
11章の最初から書いてある話ですけれども、彼はおそらくギルアデ人という部族のギルアデという人、首長の息子として生まれましたが、彼は優女の子供であった。
だから彼は小さいうちから家から追放されるんです。追放されたところで、家族の愛も知らずに彼はならず者の中で育っていく。
結果彼はならず者の当領みたいな姿になっていくんですね。家族の温かさを知らず傷つきながら大人になった人物、それがエフタなのかもしれません。
しかし、アンモン人の危機が迫ってきたときに、ギルアデの長老たちが手のひらを返すように、エフタに私たちの首領になってくださいと言ってお願いしに来るんですね。
エフタは一度はふざけるなと断るわけですけれども、けれども結果的にエフタはこのことを了承してアンモン人と戦うわけです。
前生の捧げ者というのは、その人を殺して神様の前に燃やし尽くしますということです。
皆さんどう思われるでしょうか。
この誓いは素晴らしい。犠牲が大きい。素晴らしい。
これは神様に喜ばれる誓いだと思われるでしょうか。
一箇所聖書、別の箇所をお読みしたいと思いますが、レビキの20章の1節からというところを読ませてください。
レビキの20章の1節から5節というところにお読みしますと、旧約聖書213ページの下の段にありますが、ちょっとお読みします。
レビキの20章の1節から5節。
主はモーセにこう告げられた。
あなたはイスラエルの子らにゆえ、イスラエルの子らあるいはイスラエルに起留している者のうちで、
自分の子供をとってモレクに与える者は、誰であれ必ず殺されなければならない。民衆がその者を意志で打ち殺さなければならない。
私はその人に敵対して私の顔を向け、彼をその民の間から断ち切る。
彼がモレクに自分の子供を与え、そのために私の聖女を怪我し、私の聖なる名を怪我したからである。
もしも人がモレクに自分の子供を与えるときに、民衆がそれを見て見ぬふりをし、彼を殺さないことがあれば、
私自身が彼とその家族に顔を向け、彼と彼に習い、モレクを慕って因行を行うみだらな者を皆、その民の間から断ち切る。
これはモーセが語った言葉ですが、モーセの時代から、神は人間の犠牲を求めるというような、モレクという偶像の崇拝、信仰というものは、神の中に流行していました。
これはレビキはこのことを明確に禁じていますね。
モレクという神様がいて、その神様に捧げるときは、その人間を捧げなければならない。でもそれは禁じていました。
しかし、このモレクの信仰というのは、イスラエルの民が調子が良いときはないんですが、調子が悪化すると民の中にふつふつと何度も何度も起きてくる信仰なんです。
それが実はミナミユダが崩壊するときにも現れていました。
ちょっといろいろ書いて申し訳ないんですが、ここだけ見させてください。エレミーア書の32章の33から35節というところをちょっとだけ見させてください。
エレミーア書の32章の33から35節。旧約聖書の1354ページですけどね。下の段階。エレミーア書の32章の33から35。
ちょっとだけお読みしますと、
彼らは私に背を向けて顔も向けず私がしきりに教えても聞かず懲らしみを受け入れなかった。
彼らは私の名が付けられているミヤに忌まわしいものを置いてこれを怪我し、
デンヒノムの谷にバウルの高きところを築き、自分の息子娘たちに火の中を通らせてモレクに渡した。
しかし私はこの忌み嫌うべきことを行わせてユダを罪に陥りやせようなどと、
念したことも心に思い浮かべたこともない。
南ユダ末期にもモレクの信仰は残っていましたけれども、
南ユダの民は周囲の敵への戦争に勝つために、自分の子供の命を殺して、
神の前に燃やして捧げるということを実際にしていたという歴史がある。
ただ神様はその状況を見て、それは忌み嫌うべきものであり、言われるんです。
私は命じたことも心に思い浮かべたこともない。
それを思識に戻って考えるならば、そうであればエフタがしたことというのは、
神様が命じたことも心に思い浮かべたこともないことを彼は誓い、
そして残念なことにそれを実行してしまったということですね。
彼を出迎えたのは彼の一人娘。
家族に対して特別な思いを持っていたエフタからするならば、かけがえのない存在ですよ。
でもそれを捧げたわけです。
それ自体悲劇ですが、もっと悲劇なのはそれが神様が命じたことでも望んでいることでもないということです。
そしてもっと皮肉なことにですね、実はこのモレクという偶像はアンモン人の神なんです。
アンモン人の神なんですね。
そう思うときにエフタは果たして勝利をしたのかということすら怪しくなってくるような気がいたします。
なぜかと言いますと、エフタは確かに死の霊が注がれて、アンモン人には目に見える戦いでは勝利をしました。
戦争には勝利をしたんです。それは目に見える勝利ですね。
けれどもエフタ自身を見るならば、彼はその信仰や価値観に至るまで既にアンモン人の神モレクに奪われてしまっているということです。
目には見えないけれども彼自身の内面、生き様を思うならば、実は彼は既にアンモン人の神に負けている。
まさにこれは神様が心配されて言われたことですね。
彼らの神々はあなたにとって罠となる。
偶像崇拝を繰り返して、もう目に見えるところの勝利は神様が与えてくださいます。最後まで与えてくださいます。
けれども問題の本質は、それを繰り返す中でエフタ自身が、そしておそらく私たち自身が気づかないうちに、私たちの中に偶像の価値観が支配し始めるということですね。
そしてその結果、神様がどういうお方か本当にわからなくなるということです。
ひるがえって少し私たち自身のことを考えてみたいと思います。
私たちの中に偶像崇拝はないのでしょうか。
おそらくですが、怒らずに聞いてくださいね。
ここにいる私たち全ての中には大なり小なり偶像はあるのだと思います。
それは何か宗教的な像を持っているだとか、わかりやすく富や権力がそれがあなたの偶像になっていますよ、そういうことだけではなくて、そういうレベルには皆さんはもはやいないと思うのです。
けれども、おそらく私たちの一番の偶像は何かというと、それは私たち自身です。
私たち自身という偶像が私たちの中にある。
どういうことなのか、少しだけ私の経験をお話しさせていただくならば。
何度かお話ししましたが、私は新学校に入ってすぐ鬱になったんですね。
環境の大きな変化についていけなくて、気持ちがダンと落ち込みました。
けれども、その鬱を増長したのは何かと言いますと、私の中に刷り込まれている、私はしっかりした人間でなければならないという思い込みです。
それまでの人生で培われてきた価値観でした。
あの人、この人が何もできなかろうと、物分かりが悪かろうとも、私は一番物分かりが良くて、この中でしっかりした人間でなければならない。
けれども、体調不良に倒れてそういうことができなくなると、いつも私の中に声が聞こえる。
お前はこんなこともできないのか。もっとしっかりしないとダメじゃないのか。お前はなんで、お前みたいな人間がなんで献身したのか。
そういう自責の声が四六時中私を攻撃してきました。
ただ、そこに神様を届いてくださったんですね。またお明かししますが、いろいろな導きを通して私を導いてくださって。
神様が教えてくれたのは、お前はしっかりした人間じゃないということです。
お前はしっかりした人間じゃないし、そうし続けることなんかできない。
でも、それでいいんだ。なぜなら私があなたと共にいるんだから。そう私に教えてくださったんですね。
そういう声が聞こえた時、そう分かった時に、私は心が本当に軽くなりました。
私自身は、私自身から開放された経験だと思っています。
神様ってこんなに広いんだってことを教えられた経験だと思っています。
そしておそらく、神様はどういうお方かということを知った。それは今も知り続けていますけれども。
エフタ自身のことも振り返るならば、彼の誓願の内容から見えてくるのは、彼自身の神様感ですね。
それはきっと、神様は何かの誓願をしなければ祝福を果たしてくれないケチくさい神様であるかのように彼は思っているんですね。
そして神というお方は、人の命を犠牲として喜ぶような残酷な神であるということを、彼はどこかで思っている、納得しているわけですよね。
そのことは、もしかしたら彼が幼い頃に親から追放されて、孤独の中で傷つきながら生きてきたということもあるかもしれません。
そういう中で培われた彼の価値観であった人間性、困った時には結局神も誰も助けてくれない。それが彼の中に根深くあったのかもしれませんね。