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2025-09-07 35:41

2025/09/07:回復の始まり

2025/09/07 振起日礼拝

加藤満牧師

サムエル記第一 3:1-21


サマリー

このエピソードでは、聖書のサムエル記を通じて神様の回復の働きが探求され、特にハンナの祈りがその重要な要素であることが強調されています。霊的な寄金の時代にもかかわらず、神様はイスラエルの民を決して諦めず、回復を始めているというメッセージが語られています。サムエル記においては、神が高ぶる者を退け、下り下る者を守るというテーマが描かれています。ホフニとピネハスの邪悪さと、ハンナの祈りから生まれたサムエルの成長過程が対比され、神の言葉を受け止めることの重要性が示されています。神は人々に御自身を明らかに示すお方であり、サムエルを通して語りかけることがテーマです。特に耳を閉ざす原因として私たちの思いが挙げられ、主が私たちに何を語ろうとしているのかを受け止めることの重要性が強調されています。

神様への祈りの重要性
一言お祈りをいたします。
恵みと哀れみに満ちておられる 天の父なる神様、
尊い皆を心から賛美をいたします。
主の御前へと私たちを再び集めてくださり、
あなたを今日も仰いで礼拝ができます栽培を感謝をいたします。
あなたは限りない愛をもって私たちを愛し抜いてくださり、
巫女イエス・キリストを十字架へと捧げてくださいました。
その流された尊い父王により、私たちの罪を許し、
神の子とし、そしてあなた御自身の永遠の命を与え、
永遠なる死と結ばれた命を私たちに与えてくださり、
何があろうとも、私たちが倒れようとも、
永遠なる主が確かに共におられるという希望のうちに、
私たちを生かしてくださっていることをありがとうございます。
それは、たとえ死をもっても切り離されることはないと、
私たちの死をも超えて希望を与えてくださっていることを覚えてありがとうございます。
神様、私たちはそのような大きなあなたの恵みと、
そして罪を繰り返してしまう私たちであろうとも、
なおも諦めない主の憐れみに抱えられながら、
この地上の生涯を生んでいきます。
どうか主よ、あなたの御前にまた減り下るものとならして下さいますように、
今朝からさまよる気をまた御一緒に聞いていきますけれども、
あなたが御言葉を開き、お一人一人にあなたの御声を聞かせて下さい。
あなたの御前に跪いて、前に進んでいくことをえさして下さい。
そして主が生きておられることを味わいながら、
この季節を過ごすことができますように、あなたが導いて下さい。
お願いいたします。
世界において、また日本において、災害、戦争は繰り返されていますけれども、
主よどうか、あなたがなおもこの世界をあなたの義によって治めて下さり、
必要な知恵を犠牲者たちに、また助け人たちに与えて下さいますように、お願いいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人が施設におられる方、
ご自宅で礼拝を守るだろう得ない方、
また、コロナにかかっている兄弟姉妹のことも聞いています。
主がどうかお一人一人を慰め、癒し、お支え下さって、
あなたとまた出会うことができますように、導いて下さい。お願いいたします。
これからの時を見てによだれます。
主が御言葉を開き、私たちに悟りを与えて下さい。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
サムエル記の物語
苦学の第一週を迎えております。
苦学の第一週は新規日ということです。
英語ではラリーデイとも呼ばれますけれども、
ラリーと言いますのは
再結集であったり、
奮い起こすということを意味する言葉です。
これは19世紀のアメリカの教会学校で始まった
そのような日なんですけれども、
この日は
夏休みを終えて、9月から新しく学校に向かっていく子どもたちに対して、
もしくは今教会から離れてしまっている兄弟姉妹、
来たくても来れないその人々を覚えて、
心を傾けて、
再び集うことができるようにと願い、
祈るそのような日であります。
可能であれば、
よろしければ心に浮かんでいるあの人、
この人へとお声がけ、もしくは
お祈りを捧げていただけたら感謝です。
暑い日は続いていきます。今年は11月まで
暑い日が続くと言われていますが、
しかし私たちはこの9月から改めて
アドベントに向けて再出発をさせていただきたいと
願っております。
さて、この秋は
ご一緒に第一サムエル記を
読み進めていきたいと願っております。
旧約聖書の中には
サムエル記第一、第二、もしくはサムエル記上下がありますが、
もともとこれは一つの書簡です。
その中で描かれていますのは、
イスラエルの民族が民族集合体から
一つの王を持った国家へと変わっていくという
そのような変遷を描いています。
皆さんよくご存知の通り、
登場人物、主要な人々は
サムエル、サウル、そしてダビデ
という人たちが出てまいります。
しかし変わらず、
聖書の主役は神様です。
それはこの世界にとってもそうです。主役は神様です。
サムエル記を読み進め、1章2章はちょっと別のところで語りましたので
今日は3章から開かせていただきましたが、
このサムエル記の最初の時代
というのはどのような時代であったのか
そのことを端的に描いているのは3章の1節です。
ちょっとだけお見せしますとこういうことです。
さて、少年サムエルはエリの下で仕えていた。
その頃、主の言葉は稀にしかなく、
幻も示されなかったということが書かれています。
この3章で描かれているのは、当時のイスラエルの中心的な聖女であるシロです。
しかしそのところで神の言葉は稀にしかなく、
幻も示されなかったというのは、
いわばこの時代が霊的な寄金の時代であったということを示しています。
なぜこのような霊的な寄金の時代を迎えたかと言いますと、
私たちは昨年、詩詩記まで読んできましたから、よくご存知かと思います。
サムエル記の最初の時代というのは、いわば詩詩記の最後の時代です。
皆さん思い出していただきたいのは、
詩詩記の最後というのは、聖書の歴史上を見ても、
最もイスラエルが堕落した時代であったと言えるでしょう。
約束の地に入ったイスラエルの民、
しかし彼らは偶像を慕ってしまって、その度外敵に襲われて、
神様は数々の死士を送ってその危機を救うのですが、
しかし救いが終わった後、彼らはまた再び偶像崇拝を繰り返す。
そのことによって、螺旋階段状にイスラエルが落下していった、
堕落していったということを私たちは見てきました。
第一サムエル記というのは、そのイスラエルがどん底に落ちた時代から始まるのです。
いわば暗黒の時代です。霊的貴賓の時代です。
しかし第一サムエル記を見ていくときに私たちが気づくのは、
こんな暗黒の時代でも神様はイスラエルを諦めないということです。
霊的な回復の始まり
ご自身の民を決して諦めない。
そして神様は小さなところからすでに回復を始めていかれている。
神様がそのために用いたのは二人の女性だったことを知っているでしょう。
ルツ記のルツ、そしてサムエル記のハンナでありました。
神様は小さなところから救いを始められます。
第一コニットの一章に書いてありますが、主は取るに足らない無力なものを選び用いられる。
なぜかそれは、これは人の手によるのではない。誰かの力によるのではない。
これは神の力によって回復が始まっていったんだということを認めるためです。
誇る者は主を誇れと書いてある通りですね。
そしてこの3章から見ていくならば、この神様の救いの御業というのは、
ハンナの子供であるサムエルを通してそれは続けられていく。
今朝は3章だけではなく2章もちょっと注目をしながら、
3つの点で神様がここで暗黒の時代に始められた回復とは一体どういうものなのかということを
ご一緒に見ていきたいと願っています。
さて一つ目のポイント、それはハンナの祈りということです。
ハンナの祈りです。
サムエル記を見る上で、ハンナの祈りの重要性はいくら言っても過言ではないです。
ハンナの祈りというのは第一サムエル記の2章の1節から10節に描かれている彼女の祈りですけれども、
このハンナの祈りというのは、実はこの第一サムエル記、第二サムエル記合わせて
両方全体を通してサムエル記の筋を説明している祈りなんですね。
いわばサムエル記に通定する論理といいますか、こういうことを見ながらサムエル記は進んでいきますよということが
描かれているのがハンナの祈りです。
ちょっと余談を言いますと、ハンナの祈りから始まって、第二サムエル記の最後にダビデの歌があります。
でもこれはサンドイッチになっているんです。
ハンナの祈りに神様はこういうお方だよねということが書かれて、
そのようにストーリーが進んでいって、最後ダビデはやっぱり神様はこういうお方だと言って、
サムエル記は進んでいくという、そういう構成になっていますが。
じゃあこのハンナの祈りに書かれている大切な神様の論理というか筋は一体何なんでしょうか。
3つぐらいあるんですが、でも1つだけ今朝お話しします。
それは何かというと、神は高ぶる者を退け、へり下る者を守られるということです。
神は高ぶる者を退け、へり下る者を守られるということです。
そのことはハンナの祈りの、それは実に3節から9節あたりまでずっと書いてあることですね。
ちょっとかいつまみながら読みますけれども、
例えば4節に、勇士の弓が砕かれ、弱い者が力を帯びます。
満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に飢えることがなくなります。
不倫の女が死人の子を産み、小沢さんの女が打ちしおれてしまいます。
ご存知の通り、ハンナにはペニンナというある種、嫌なライバルがいましたけれども、そのことを意識してでしょう。
そして9節、種は敬虔な者たちの足を守られます。
しかし悪者どもは闇の中に滅び失せます。人は自分の能力によっては勝てないからです。
またこの3節から9節をまた読んでいただけたら、よくお分かりかもしれません。
高ぶる者と減り下る者がいる。
それは1章においてはペニンナでありハンナでしょう。
しかしサムエル記をご存知の方はよくお分かりかと思います。
サムエル記はこの高ぶる者と減り下る者が並べてずっと描かれます。
そしてストーリーは高ぶる者が下げられて、小さい減り下る者が挙げられ、種に用いられるということの交差によってずっと物語は進んでいきます。
ただこれはですね、サムエル記に限ったことではありませんでした。
思い出していただきたいのは、私たちは昨年四四期の前にヨシワ記も見ました。
ヨシワ記に記されていた種の戦いというのは、種の群の章の前に減り下り靴を脱ぐことでしたね。
勝利をする者は種の前に減り下る者でした。ヨシワ記の5章に書いてあります。
そしてもっと遡って神明記を思い出すならば、神様の前にはいつも命と死、祝福と呪いの道がある。選択肢がある。
高ぶることも減り下ることもできる。
あなたは命を選びなさいというのが、神明記の30章の19節に書かれていた言葉ですね。同じことが続いているんです。
ここで主眼になるのは、種の前に減り下るということが大事ですよということですね。
2章の10節のBには、種が王を立てるということも書いてあります。
サムエル記というのは王様が立っていく話です。サウル・ダビデですね。
しかしどんな王様が立とうとも、誠の王で世界を裁かれる神様こそが誠の王であって、
神をおもんじる者
王であっても神の前に減り下るかどうかというのがサムエル記の筋になってまいります。
さて、そのようなことをハンナの祈りから確認をしながら、2つ目のポイントに進んでまいります。
2章の12節から描かれていますそのことは、神は神をおもんじるものを神はおもんじるということです。
2つ目のポイントは、神をおもんじるものを神はおもんじるということです。
この2章の12節以降から早速、高ぶるものと減り下るものが並べて描かれてまいります。
この12節からのものを見ますと、種の前に高ぶっているそれはエリの一家、
特にエリの息子であるホフニトピネハスという若い妻子たちであります。
この2人は妻子なんですけれども、シロの正当な妻子なんですけれども、
彼らは妻子の職権を私利私欲のために乱用していたということが、この12節から17節のところに書いてあります。
ご存知かもしれません。種に捧げなければならないお肉を、
俺らが妻子やから食べさせろと言って、勝手に食べる。
17節に書いてますが、このように指定たちの罪は種の前で非常に大きかった。
この人たちは種への捧げものを侮ったのであると書かれてあります。種を侮った。
何よりもこのホフニトピネハスという人々がどういう人であったかというと、特徴なのは12節なんです。
さてエリの息子たちは横縞なものであったと言われます。横縞なもので。
横縞なという言葉はなかなか聖書では使われませんが、特徴的に使われていますのは、実は詩式の19章22節です。
これは昨年まで詩式を読んできているので、少しそういう話ができるなと思って嬉しいんですが、
詩式の19章というのはまさにイスラエルが本当に堕落の一途をたどっていったその最中です。
思い出していただきたいのは、ある妻子のレビビトと、そしてその女性が旅をする中で、ベニヤ民族のギブアの町に行く。
そこで宿泊をする時に、ギブアの町のならず者たち、横縞な者たちが来て、彼らを知りたいと言い、
結果的にその旅人と一緒に旅をしていた女性が、一晩中暴行を受けて殺害されるという事件が起きます。詩式の19章ですね。
あのギブアのならず者たちのことを、聖書は横縞なものと書くんです。
で、サムエル記のここで、ホフニとピネハスは横縞なものであったと書くのは何かというと、
そのような時代の邪悪を象徴するような悪事ですけれども、それと同じような人物ですよということを言っているんです。
妻子たちであろうとも、実にこの時代の邪悪を象徴するような人々が、このホフニとピネハスであったということを書く。
で、一方で興味深いのは、サムエル記の1章16節というところでは、ハンナが主の前に乗っている時に、エリーがあなた酔っ払ってるんですかと言ったら、
彼女が言ったのは、妻子さん間違います。私は横縞な女ではありませんと言ったのです。
これが意味することは何か、ハンナはその時代の中ではその邪悪に染まっていなかったということです。
そして、その横縞な女ではないハンナの祈りから生まれたサムエルですね。
少年サムエルが育った、彼は少年期にエリーの家に預けられますから、彼が育った環境は決して良かったとは言えないでしょう。
ホフニとピネハスはもしかしたら、サムエルからしたら兄気分であったかもしれません。
しかし、横縞な行為へと誘われる誘惑はあったかもしれませんが、この2章をちょっとかいつまんでみますと、
例えば2章の11節、幼子は妻子エリの下で主に仕えていた。
18節、さてサムエルは天布のエポデを身にまとった幼い下辺として主の前に仕えていた。
飛んで21節、少年サムエルは主の身元で成長した。
そして、ちょっと飛びました。すみません。26節、一方少年サムエルは主にも人にも慈しまれ、ますます成長したと。
一方と書かれる。
いわばここで、ホフニとピネハスの邪悪さと、しかしそれに染まらず、主に愛され人にも愛され育ったサムエルというのが明確に区分されます。
エリへの神の警告
そして先ほども言いましたが、サムエル記の筋は、神は高ぶる者を退け、下り下る者を守られる。
何が起こるでしょうか。2章の27節から書いてありますが、神の人がエリのもとにやってきます。
いわば妻子エリに対する妻母通告を行います。27節から36節にその言葉が書かれてあります。
そこで、神の人がエリに対して言われる言葉。
27節を読みしますと、こういう言葉があります。
主はこう言われる。
あなたの父の家で、エジプトでファローの家に属していたとき、私は彼らに自分を明らかに表したではないか。
そして28節にも書いてあるのは、私自身はあなたの前に現して、妻子の家を選び、その家に必要なものを与えてきたということを語る。
いわば私は救い、あなたを選び、あなたに祝福を注いできたということを28節まで語る。
まさにその通りですね。
イスラエルがアレノの旅を40年続けていたときも、神様は昼は雲の柱、夜は火の柱として、ご自身を表わされました。
本来神様はご自身を隠されることなんかない。
そして日ごとの糧は40年間尽きなかった。
神の恵みは確かで、彼らを毎日祝福していたんだ。
そのような哀れみ深い神なのです。
ご自身の民をどこまでも愛し抜かれた神様なのです。
でも、なぜ白で死の言葉は稀にしかないのか。
原因は29節から30節です。
なぜあなた方は私が命じた私の生贄、私への捧げ物を私の妻で足下にするのか。
なぜあなたは私よりも自分の息子たちを重んじて、私の民イスラエルのすべての捧げ物のうちの最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。
それよりイスラエルの神主の言葉。
あなたの家とあなたの父の家は永遠に私の前に歩むと私は確かに言ったものの。
今や、主の言葉。
それは絶対にあり得ない。
私を重んじる者を私は重んじ、私を下げすむ者は軽んじられるからである。
この30節の言葉も一つのサムエル記を貫く鍵言葉である。
私を重んじる者を私は重んじ、私を下げすむ者は軽んじられる。
それは言い方を変えるならば、神様は40年間もやその後もイスラエルの民を重んじようとして来られたのです。
神様がイスラエルをご自身の民を重んじようとしてきたのに、あなたは私を重んじてくれない。
私を重んじなさいと主が招かれるのはなぜでしょうか。
神ご自身がイスラエルを愛し、神ご自身がイスラエルを重んじ、ご自身を明らかに示し、ご自身の御声を語り続けてきたからです。
しかし、私たちは詩式を読んできました。
詩式の歴史が描くのは何か、何度救っても語っても、民はその時の救いを感謝をするけれども、救い主である私をすぐに軽んじる。
これは人間でもありますね。
愛する人に、その人と信頼関係を築くために大切な言葉を伝えた、あなたに私は大切なことを伝えた、
それをあなたに理解してほしいという勇気を持ってその言葉を語ったとしても、
相手に利く耳が全くない時、私たちは深く傷つきます。
もしくは、失望して諦めてしまうかもしれません。
原因はどこにあるのか、利く耳がないということです。
利く耳がない。
私を重んじる者、私を重んじ、私を詐欺すむ者は軽んじられる。
重んじるという言葉はヘブル語で、これは栄光という言葉と同じ言葉です。栄光です。
神の言葉を受け止める
神に栄光を帰す、日曜日ごとに神様を礼拝するというのは、
神様というお方が私の中で何よりも重さを持っているから私たちは来るわけですよね。
重いからですよ。神様は重い。
しかし、神を軽んじるというのはいわば、私にとっての神様の重さ、神様の存在が軽くなっていく。
私自身が重たくて、神様は軽い。
しかし、主の回復はどこから始まるのか。
それは、神ご自身が私たちを愛し、私たちを重んじている事実を思い出して、
神というお方に対する私の中の重さをもう一度取り戻すことです。
神は重いお方である。
じゃあその具体的な応答は一体何なのでしょうか。
それは今朝の三章に書いてあります、神の言葉を聞き受け止めるということです。
三つ目のポイント、神の言葉を私たちは受け止めるようにと招かれています。
三章の一節に先ほど見ましたけれども、
城には久しく神の言葉はなかった、稀にしかなかったと描かれます。
しかしその城の聖女に神様の声が響くのです。
しかしそれは最始エリに対してではなくて、少年サムエルの耳に対してでありました。
四節をお読みしますと、三章の四節。
主はサムエルを呼ばれた。
彼は、はいここにおりますと言ってエリのところに走っていき、
はいここにおりますお呼びになりましたのでと言ったと。
この後読んでいただくならば、この同じやりとりが三回繰り返されるということが描かれています。
一回目、二回目だめで三回目になってエリが気づくというのは、
サムエルに語る神の声が、それが神の声だとエリは最始であったとしても気づくことができなかった。
いわば霊的寄金というか霊的停滞のときを象徴しているような最始エリの姿です。
しかし神の声だと気づいたエリは三章九節に、それでエリはサムエルに言った。
言ってねなさい。主がお前を呼ばれたら主よお話しください。
下部は聞いておりますと言いなさい。
そのようにサムエルに語り、サムエルはそのようにいたしました。
十節を読み失すると、主が来てそばに立ち、これまでと同じようにサムエルサムエルと呼ばれたサムエルはお話しください。
下部は聞いておりますと言った。
この十節の言葉は興味深いです。主が来てそばに立ち、これまでと同じように語った。
神様は一回目二回目三回目もサムエルに語るんですが、しかしそれは遠くに立っていたわけではない。
同じように主がそこまで来てそばに立ってサムエルの耳元で語っているというのは、サムエルにどうにか神の言葉を語りたいんです。
主は近づかれる。そして語りたいお方です。
三度気づかない中にも、けれども私はあなたにこの言葉を伝えたい。それほど近くに私たちの耳元にも神はおられる。
そしてお話しください下部は聞いていますという十節の彼の応答ですね。
この応答を主は待っておられたのです。
神様が私たちに求めているのはこの数行の言葉かもしれません。
お語りください下部は聞いておりますと。
ただですね、そうやってサムエルが耳を傾けた後、主が長く語られることは激しい裁きの言葉でした。
十一節に、見よ私はイスラエルに一つのことをしようとしている。誰でもそれを聞く者は両耳が鳴るというのは、これは災いを聞く人間のリアクションを表す象徴です。
両耳が鳴る。
それは神様がその後サムエルに告げたことは、自分を育ててくれたエリの一家の滅亡を告げる予言でありました。
あまりにもショックな内容です。
サムエルの啓示
ですから十五節を見ますと、サムエルはそれをエリに伝えることを恐れたと書いてある。
それほどまでに恐ろしい裁きの内容を少年は受け止めた。
しかし翌日エリがサムエルに問い正します。
そしてエリは十七節十八節でこういうことをサムエルに対して言います。
三章の十七節からエリは言った。
主がお前に語られた言葉は何だったのか私に隠さないでくれ。
もし主がお前に語られた言葉の一つでも私に隠すなら、神がお前をいくえにも罰せられるようにと。
サムエルはすべてのことをエリに知らせて何も隠さなかった。
エリは言った。その方は主だ。主が御目にかなうことをなさるようにと。
エリはおそらく二章の後半に神の人がエリに告げたと書いてありますから、
きっとサムエルが語られたであろう内容を予期していたかもしれません。
これは良い予言じゃなくて私たちに対する裁きの予言なんだと予期していたかもしれません。
しかし彼は神の裁きである言葉も含めて、神の語られた言葉をすべて聞こうとします。
それは自分に都合の悪い言葉であってもですね。
そしてすべてを受け止めます。
十八節の言葉はまさにそのような指定でしょう。
主が御目にかなうことをなさるようにと。
皮肉なことにエリな裁きが確定していますが、しかしこのエリの姿こそが神をおもんじるという具体的な姿でありましょう。
神をおもんじるとはこういうことです。
横島であるコフニとピネハスは自分の都合や欲望をおもんじて神様を軽んじました。
しかし神をおもんじるとは自分の都合や欲望よりも神の言葉、神御自身を重く受け止めるということ。
仮にそれが自分の両耳が鳴るような言葉も含めて。
しかし主が御目にかなうことを私になされますように。
それはイエス様があの月せまねの園で祈られた祈りとまったく一緒ですね。
それが神をおもんじることなのではないか。
神は何度も申し上げます。私たちをおもんじようとなさっておられるのですから。
そしてこの十九節から二十一節に書いてあること。
サムエルは成長した彼と共におられ、彼の言葉一つも血に落とすことはなかった。
神の言葉を受け止める
二十一節に主は再び城で現れた。主は城で主の言葉によってサムエルに御自身を現されたのである。
主は城に再び現れたというのは、この三章の一節から比べるならばまさに回復です。
神の言葉が聖女城で語られ始めた。
私たちは今朝のこの歌詞から何を受け取るべきなのでしょうか。
一つ明らかに知っておきたいこと。神は御自身を明らかに示されるお方です。
神は私たちの前に御自身を明らかに示されるお方です。
そして神様は語られるお方です。
いえ、語るためにそばにまで近寄られる神様です。
主は私たちの耳元でささやかれる。
主が語られるその手段はどのようなものでありましょうか。
第一にそれは聖書の御言葉である。その大切さは私たちはよく知っているでしょう。
しかし時に神様は誰かの言葉を通して私たちに語られることがあります。
時にそれは神様は様々な出来事を通して私たちに語られることもあります。
しかしその現実に様々なことが語られ起きてくるその中にあって
ああ、神が今私に何を語ろうとしておられるのだろうと
私たちはそのように耳を開くことができるかということです。
主に主の言葉が稀だったのは神が遠かったことが原因ではありません。
神は近くにおられて語っている。原因は耳が閉ざされている。
その耳を閉ざすのはきっと私たちの中にある思いでしょう。
神は語る神であり、そして神は神であるという重さを
私たちはご一緒にもう一度受け止めたいと思います。
時に自分の期待通り、願い通りでないことが起きてきます。
別にそれを全部が全部、主が私を苦しめているんだなと受け止める必要はないかもしれません。
しかし私たちは現実の中にそれをも通して主は私に何を語っておられるのだろうか。
そしてもしも主が私にそのことを語っているとするならば、
私はそのことをおもんじることができるだろうか。
私をおもんじる者を私はおもんじ、私を下げすむ者はかろんじられる。
お話しください。しもべは聞いております。
ご一緒に神様に耳を開かせていただきたいと思います。
神様は今日も明日も私たちに語っておられる。
私たちに語っておられる。
それを聞き、主がそう語られるならと真摯に受け止め始めるところから、
神の回復は始まっていくんです。
そのことをご一緒に受け止めさせていただきたいと思います。
一言お祈りいたします。
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