1. 名谷教会
  2. 2025/08/03:それでも、祈るため
2025-08-03 28:36

2025/08/03:それでも、祈るため

2025/08/03 聖日礼拝

加藤満牧師

マタイの福音書 7:6-11


サマリー

このエピソードでは、祈りの重要性や神の愛に支えられていることについて語られています。特に、イエス・キリストの教えを通じて、祈りの力や人々を支える意義が強調されています。また、祈りに対する失望と信仰の葛藤についても触れられ、豊田辰彦先生の経験を通じて神の愛と祈りの大切さが再確認されます。旧約聖書の人物たちの事例を挙げて、信仰の深さが探求されています。さらに、祈りの神秘や神の愛についても語られ、十字架を通じて理解される神の永遠の愛の重要性に焦点が当てられています。

祈りの重要性
お祈りをいたします。
恵み深い、愛する天の父なる神様、今日も私たちを主の御前へと招いてくださり、あなたは仰ぎ礼拝ができます幸いを心から感謝をいたします。
本当に熱い日々が続いています。
その中で、体調を崩しておられる兄弟姉妹のことも聞いておりますけれども、どうか主がお一人一人に手を触れて、癒してくださいますようにお願いをいたします。
私たちは、この季節に心も体も霊も弱りやすいものですが、しかしあなたは永遠の御腕をもって私たちをなおも支え続けてくださり、倒れても倒れきることのないあなたの恵みが私たちを支えてくださっていることを感謝をいたします。
あなたは私たちを愛し抜いてくださいました。
イエス・キリストの十字架の父様により、私たちの罪を許し、神のことし、それだけではなく三神に甦えられた復活の命、永遠の命を私たちに与えてくださり、永遠なる主と切っても切れないその命を、永遠なる主が主をも超えて共に居続けてくださるという命が、私たちの内に今輝いていることを感謝をいたします。
だからこそ主よ、私たちは自分の足で立てなくなった時にも、あなたの恵みが私たちを支えてくださることを感謝をいたします。
そしてあなたと共にこの御国を築いていく働きへと加えられていることも覚えています。
どうかそれぞれ使わされているところにおいて、それぞれを通して主が御業を表してくださることを願います。
どうか私たちに力を与えてくださり、生きる勇気を与えてください。
今日も御言葉を開いてくださって、お一人一人があなたから励まされて立つことができますように、
特にここに来たくても来れないお一人一人を覚えます。
施設におられる方、ご自宅におられる方、また心が離れてしまっている方もいらっしゃいますが、
お一人一人を主が慰めてくださり、その場に御臨在くださって、それぞれを支えてくださいますようお願いをいたします。
世界の平和を願います。
平和を作る者として、この惨状に痛みながら、
あなたの平和の御業を願い、祈る者とならしてくださいますように。
なおもお願いをいたします。
これからの時を見てに委ねます。
どうか主が先んじ御言葉を開いてくださいますようお願いをいたします。
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
人々のつながり
今年の1月に赤城人丸教会を会場にして、
役員研修会が行われたことを、記憶にかかる方もいらっしゃるかもしれません。
その時に実は、ある僧侶の方が私に声をかけてくださったんですね。
突如こう言われました。
加藤君、僕は君のことを祈っていたよって言われたんです。
私は失礼ながら、その方の顔に見覚えはあるんですが、はっきりと誰かはわからなくてですね。
改めて話を聞きますと、実はその方は昔、私が参加した中高生キャンプの同じグループで、
私が中学生の時に一対一でカウンセリングをしてくださったことがある方だったんですね。
あの時の少年が、新学生のポスターに載っている、
ああ、検診したんだということが嬉しくなって、
その時から僕は祈っていたよと言ってくださったんですね。
私は本当に嬉しかったです。本当に嬉しかったですし、
ああ、実際、私の今の牧師の働きというのは、
こういう私が気づいていないけども、私のために祈ってくださっている、
誰かの祈りによって支えられているんだなということをつくづく実感をしました。
祈りというのが、人を支え、教会を支えるというのは言うまでもありません。
祈りが人を支え、教会を支えるのは言うまでもないことですね。
昔から関西聖書神学校では、聖書と膝とよく言われました。
聖書と膝に全ての問題の解決がある。膝というのは祈りですね。
教会が立ち、私たちが無事に日々を歩めているというのは、
きっと誰かの祈りに支えられているという事実がおそらくあるのだと思うんですね。
そのようなことを覚えながら、まさに教会の祈りが豊かに築かれていくことを願いながら、
今朝の歌詞をご一緒に見たいと思います。
今朝、目を向けますのは、6節から読んでいただきましたが、7節からの言葉に特に注目をしてまいります。
神の愛と祈りの根拠
求めなさい、そうすれば与えられますという有名な祈りについての言葉です。
3つのポイントでお話をさせていただきます。
第一に、この歌詞が語るのは、祈りというのは全て父の愛にかかっているという事です。
祈りというのは全て、父なる神様の愛にかかっているという事です。
参上の説教を続けて読んできていますけれども、皆さんよくご存知の通り、イエス様の前に多くの群衆がいるわけですね。
そこに集っている群衆たちというのは、多くがおそらく、自分は神様に愛されていると思った人はまずほとんどいなかったと思います。
イエス様の前に集っていた、この参上の説教を聞いていた群衆というのは、どちらかというと貧しい人たちや病人たちでありました。
そして貧しい人や病人というのは、当時、街道の礼拝に集うこともできなければ、当然立法の言葉も聞く機会がありません。
そういう人たちは一般的に、神に呪われていると見なされました。
彼ら自身もそう思っていたかもしれません。
ああ、私たちは神に呪われている、そのようなものなのだと。
しかしこれまでの参上の説教を見てきましたが、イエス様はそういう人たちに対して言われたわけですね。
違うよと、大丈夫だ、むしろあなたたちこそ、平和を作るために選ばれた神の使者なんだということを何度も何度も語ってきたのが、この参上の説教でしたね。
そして今朝、この七説から見るならば、七説八説を読みしますと、
求めなさい、そうすれば与えられます。探しなさい、そうすれば見出します。叩きなさい、そうすれば開かれます。
誰でも求めるものは受け、探すものは見出し、叩くものには開かれますと、イエス様は彼らに語られた。
求めなさいというこの言葉は、ニュアンス的に言うならば、彼らの受け止め方からしたら、あなたたちは求めていいんだよということです。
神に自分は呪われていると思っているかもしれない。でもあなたたちは遠慮なく求めていいんだよということです。
自分は神に呪われていると思う文集、そして私たちもしばしば自分のことをそういうふうに見てしまうことがあります。
自分は神に呪われている、私は罪深くて、こんな私が神様に祈っていいんだろうか、いや祈っても聞かれないのではないだろうか。
でも、発説にイエス様は、誰でもと言われます。誰でも。求めなさい。
あなたが今どういう状況であったとしても、求めなさいという言葉は、今ここに集う私たちもそうですが、
私たちがどういう状況にあろうとも、この言葉は今皆さんに語られていますよ。求めなさい。求めていいんだ。神様に求めてもよい。
そして、この続く言葉にありますのは7節。求めなさい。そうすれば、与えられますというのですね。与えられますと断言するわけです。
交互訳をご存知の方は覚えていらっしゃるかもしれません。交互訳ではこの言葉は、与えられるであろうという訳でした。
元が未来形なので、そういう訳になってしまう気持ちもわかるのですが、ただ未来形というのは、形によってこれは断言なんですね。この歌詞は断言で読むべき歌詞です。
注釈にありますように、ここには求め続けなさいという言葉が元々の継続のニュアンスがあるので、
ですから私たちはこの歌詞を読むと、祈り続けたら与えられるだろうみたいなニュアンスで取ってしまうことがあるかもしれない。
けれども、原文はこの断言が強いんです。求めなさい。そうすれば与えられるです。与えられるものだ。
あなたは継続点、あなたはどんな時でも求めなさい。どんな時でもあなたが求めるならば、それは神は与えてくださるのだと言い切っているのですね。
なぜそう言い切れるのか、その根拠が9節11節になるのです。9節11節。
お読みしますと、あなた方のうち誰が自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに蛇を与えるでしょうか。
このようにあなた方は悪いものであっても、自分の子供たちには良いものを与えることを知っているのです。
それならなおのこと、天におられるあなた方の父は、ご自分に求める者たちに良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。
このあなたが求めるならば与えられると言い切られるその根拠は何かというと、それは神様があなた方の恵み深い父だからだというのです。
理由はそちらにあるのですね。
私たちは祈りが聞かれる根拠というものを、まさにここの継続的に祈り続けることであったり、自分の信仰の強さに根拠を置きがちですが、聖書はそう書いていないです。
祈りが聞かれる根拠は神があなたを愛しておられるからです。
神があなたのことを愛する我が子として見ておられるからですね。
しかもここで書かれているのは、悪いものであってもという言葉、これは邪悪なものというのは、はっきりした言い分なんです。
めっちゃ悪い人間と言います。
でもいかにめちゃくちゃ悪い人間の親であっても、パンを求める子供に意思を与えないでしょうと。
であれば尚のことというのはこれは、あなたの父はあなたに良いものを必ず与えてくださるということが言いたいのです。
あなたの父はあなたに良いものを必ず与えてくださる。
求めなさい。そうすれば与えられると、ここでイエス様が断言なさるその根拠は、私たちの信仰の強さに根拠を置かれていません。
この求めて与えられる根拠は、父なる神様の愛のご人格に全ての根拠が置かれています。
祈りに対する失望
だからイエス様は曖昧にされないんですね。与えられるだろうとは言わない。
なぜなら、神様の愛は何よりも確かなものだからです。
だから断定的に言われる。神の愛は確かだから。
さて、ただですね、私たちは信仰歴が長い中で、この言葉をそう言い切られることを受け入れられるだろうか。
2つ目のポイントです。私たちはしかししばしば、祈りに対して失望することが多いにあるということですね。
もしかしたら求めなさい。そうすれば神様を与えてくださると言い切られることに抵抗を覚える人はいるかもしれません。
神様は本当ですか?ならば私のあの祈りはどうなったんですかということを私たちは思うことが互いにあるのではないでしょうか。
そういう祈りを私たちはいくつも抱えているのかもしれないなと思います。
祈りが大切であるということは教会で繰り返し語られますし、聖書でも語ります。
しかし私たちはそれを聞きながらなおも、祈りに生んでしまうということが時々ある。
そしてその原因を考えるときに、私自身もそういうことがありますが、祈ることに対する失望ということを私たちはもしかしたらどこかで抱えているということがあるのではないかなと思うのです。
お祈りの通りに主は答えてくださった。しかしそうではないことも私たちは経験をいたしますときに、この祈りは本当に聞いてもらわないと困るんだという必死に祈ったその祈りが聞かれなかったという経験をするときに、
私たちは本当に信仰自体が揺さぶられる大きな痛み、つまずきになるような痛みを経験することがあるのではないでしょうか。
豊田辰彦先生のエピソード
少しお話をしますと、私は前任地が大阪の羽引野という場所でありました。ご存知の方もいらっしゃるでしょうか。
今から50年ほど前ですが、大阪の柏教会で伝道師をなさっていました、豊田辰彦先生という先生がいらっしゃいますが、
その先生が柏教会の裏手にある高尾山という山に登って、お一人で徹夜祈祷をされている中で、息を引き取られるという、そのようなことがありました。
もう50年前のことです。お一人で本当にお祈りをされて、日曜礼拝になっても先生がいらっしゃらないからどうしたんだって言ってみんなで探しに行って、
山に行ったら祈った姿のまま先生がこときれておられた。当時先生にはお子さんが5人いらっしゃいました。そして一番下の子は生まれて2週間だったと聞いています。
その時の長男が今キリスト教会で活躍されています豊田信之先生という先生ですが、先生が4年前の100万人の福音の中にこのような記事を載せておられました。
なぜ神は日本の求霊のために徹夜で祈っていた父を守ってくださらなかったのか。
父を探す間祈っていた祖母と母の祈りは聞かれなかったのか。
神が貧しい伝道者家族のたった一つの願いを聞いてくださらないのなら、もはや何をどう祈っても意味がないのではないか。
10歳の少年の私から祈りが消えていった。
あの日から今も心の深いところに祈りへの不信感という小さな棘が突き刺さっているように思うと、そのように記しておられました。
神様のためにどうした、その人が何の理由もなく急に命を失うという、そして父親の喪失という、そのような大きな痛みが豊田先生の神様に対する信仰に大きな傷を与えた。
旧約聖書からの教訓
結局のところ、祈ったところでどうなるのか。
そう思ったら、祈れなくなる気持ちはよくわかります。
私は牧師をしながら、クリスチャンである方に、でもその中で祈れないという人に出会うことは時折あります。
祈り方がわからないとか、面倒くさいとかそういうレベルじゃないです。
祈れない。祈る手がもう自分は挙げられない。
むしろ必死に祈ってこの祈りが応えられなければならないと、祈ったその祈りが聞かれなかったという現実が、祈ってどうなるものかという思いが私の中から払拭されない。
そういうことが、私たちは時折あるのではないかな。
小さなそういう積み重ねが、もしかしたら棘のように私たちもあるのではないかなと思う。
難しいですね。聖書ははっきりと、神は愛です。そして願ったら与えられると断言して語る一方で、
けれども、いやでもそうであるならば神様はなんであの時に与えてくださらなかったんですかという葛藤の揺れ動きが私たちにはある。
でも3つ目のポイントに入ってまいります。
それでも聖書は神様は祈りなさいと招いている。だからそれでも祈るために私たちは何を知らなければならないのかということに目を止めてまいります。
もしも私たちの中に、そのような失望によって傷ついた祈りがあるのだったら、癒されるようにと心から願います。
そして皆さんご存知でしょう。聖書の中には神様を信じていたにもかかわらず、究極として理由もわからずに全てを奪われた人というのは何人かいる。
それぞれに目を止めます。短く目を止めていきますが、私たちがすぐ思い浮かぶのは旧約聖書の四部ですね。四部。
彼は何の前触れもなく家族と家畜と財産の一切を失ったと聖書を書きます。これは誤解のないように私たちは読まなければいけないのですが、四部は何一つ悪くないのです。
四部記の一章が語るのは、彼は偽人だったということを延々と語ります。彼の中には神様に責められる理由なんか何一つない。
けど彼は全てを失うということを経験をする。その結果、四部は神様を呪い、この世界を呪います。
神に従ったところで、でもその祈りも聞かれなければ私たちの生活も守られないのであるならば、
神に従ったら生活が守られて、そうじゃなければ守られないというのが当たり前だと思っていた彼からするならば、
正しく生きた私から、正しく祈ってきた私から全部が奪われるというのは、神は間違っているしこの世界は間違っている。
それならば私は生まれてきたくなかったということを彼は四部記で嘆きます。私の生まれた日は呪われよ。
しかし四部記の最後で神様は四部に出会われるのです。そして神様が四部に言ったことは先日めて二つです。
一つは、呼ぶよ。あなたは神の御業のすべてを把握することはできないということです。
神様がなさっていることをあなたは全部を知ることなどできてないだろう。できてないし事実を知ることなどできない。
だからこそ私たちは祈りが聞かれないという理由を、想定に理由づけてはならないということが言われているように思います。
私の信仰が足りなかった。私があの時にちゃんと祈ってなかったから、神が私をあのことのように罰したのだ。
私たちは理由づけはいくらでもできます。でも簡単にそれをすべきではないと私は思います。わからないんです。
しかしもう一つ神様が四部に示されたことは、しかし神はこの世と四部を含めた秘蔵物を愛しておられるということです。
それも四部記の後半で語られることです。
人間四部にとっては、彼がすべてを失った現実というのは実に不条理でした。これがこの世界のルールだと思っているルールから逸脱していました。
けれども神様の目にそれは条理は通っていた。私たちはその筋がわからないんです。
なぜそうなるのかなんかわからない。わからないがゆえの痛みは当然あります。
ただ、わかりきれないことをわかったと理由づけすることによって、私たちは自分を傷つけてしまうということは十分にあることです。
わからないんですよ。なぜ人がそんな苦しみに遭うのか。
でも私たちのこの業が祈ったことが聞かれないということを思ったとしても、神様のあなたに対する良い業はまだ終わったとは言われないですね。それはわからないんです。
そしてもう一つ、旧約聖書の人物で出てくる人は、ルツキのナオミですね。
皆さんよくご存知でしょう。彼女はモアブという都市で夫と二人の息子を亡くします。
その間ナオミが家族のために祈らなかったわけがないですね。しかし祈っても家族の命は失われました。
ベテルヘムに帰って行ったナオミは自分のことをマラと呼んでくれと言いましたね。苦しみと呼んでくれと。
なぜなら全能の主が私を癒しくし、つらい目に合わせたのだと彼女は理解しました。ルツキの1章の21節にそう書いてあります。
もう家族は帰ってこない、そしてこれは神が私を裁かれたのだと彼女は理解しているんです。神が私を裁いたんだと。
しかし神様はそのベテルヘムの地でナオミに関わられました。そしてご自身の恵みを示されます。
困窮生活の中で落ち葉拾いに出たルツは、ある日大量の大麦を抱えて帰ってきます。
そしてそれは神類ボアズによるということを、そのことをナオミが知ったときに彼女はこう言いました。
生きているものにも死んだものにも、御恵みを惜しまない主がその方を祝福されますようにと2章の20節で語ります。
ナオミの口からこの時、御恵み深い父、神は恵み深いという言葉がここで出てくるのです。
次第にナオミは気づいていきます。家族を失ったというこの不条理な痛み、でもこれは神の裁きではないのではないか。
むしろ神は御恵み、ヘセドというギリヘブル語になりますけれども、ヘブル語でヘセドの神。
ヘセドというのは、民の不信仰にも関わらず民を愛し続ける神の契約の合図ですね。
祈りむなしく家族が失われたことの理由は私にはわからない。私にはわからない。
けれども聖書の信仰によって昔からでも確かに知っていることは、神はそれでも恵み深い神なのだということですね。
そしてもう一人私たちが目を背けてはならないお方はイエス様です。
十字架上でイエス様は叫ばれました。
祈りと神秘
我が神、我が神、どうして私を御見捨てになったのですか。
十字架の上で御子イエス様は父なる神に捨てられました。その時に叫びます。
どうして、どうしてあなたは私を捨てたのか。その理由もイエス様はわからない。
ただ確かなことはどうしてという叫びを父なる神は聞いておられること、そして私たちは知っているイエスキリストが十字架で叫んだ。
その背後に復活の神の御業進んでいたということですね。
祈った通りの答えが来ない。
あれだけ祈ってこれが叶えられなければと思っていたのに、それが叶えられなかったという痛み。
ただ、理由はわからないです。理由はわからない。
そういう意味で祈りというのはいつまでも神秘であり続けます。
私たちはそれを天に行ってイエス様や神様の前で、あの時何でですかって聞くまではわかりません。わからないんです。
ただ、しかし聖書の御言葉が私たちに言うこと、それはこの神があなたの不幸を恵み深いこの父が望んでいるわけがないということです。
神はあなたの不幸を望んでいるわけがない。
そしてわからないんですよ。理由はわからない。
でもわからない中でも招かれることは、それでも求めなさいと招かれている。それでも求めなさい。
聖書と言いますのは、神の愛ほど確かなものはないと語ります。
そして教会というのは、神の永遠の愛というものを一つの形で表現をいたします。十字架です。
私たちは教会が十字架を掲げることはなぜなのか。
それは確かにイエス・キリスト神の御子が私たちを全て愛して御自身の命をあの十字架で捧げ神に甦ったという事実が変わりなくあるということをそこに確証するからですね。
それゆえに十字架を見るときに私たちは自分の中で神の愛が信じられなかろうとも、でも神の愛は確かにここに変わらないものとして示されたんだということを私たちは十字架を見て知る。
時に私たちは十字架を見ながら祈りを支えられるということが必要ではないかなと思います。
失望と不信を抱えたまま、私たちはそうです。失望と不信を抱えたまま、それでも祈りなさいです。それでも祈りなさいと招かれる。
マタイの福音書の三乗の説教でイエス様は言われましたね。神様はあなたの言葉になる前からあなたの必要を知っているよと言われました。
そして私たちが祈ったときに実感がある。ない。ありますね。でも実感があろうとなかろうと関係ありませんよ。
私たちの言葉は神は確かに聞いておられるし、あなたの心の声も神様は確かに聞いておられます。
私たちは祈りということを思うときに神秘に包まれているんです。神秘に包まれている。
けれども祈りが人を支え、教会を支えるというのは神秘に包まれながらも事実です。だから私たちは祈っていくようにと招かれる。
神の愛の確認
そして今朝の歌書はあなたを確かに愛しておられる神様があなたの求めを待っているということですよ。
求めなさい。あなたが神を信じれなかろうとも、そこに不信感があろうとも、でも今朝改めて求められる。求めなさい。
そうすれば私はあなたに良いものを与えるのだ。疑いながらでもいいです。
でも私たちはそれでもそれでも祈っていく群れでありたい。それでも神の愛を信じていく群れでありたいと願うのです。
一言お祈りをいたします。
28:36

コメント

スクロール