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身体が、背が小さいので、これでマックスで私の顔が消えちゃうんじゃないかなと思います。ちょっと下の方に、はい、大丈夫ですか。
はい、ありがとうございます。身長は低いんですけども、声は大きいので、多分皆さん方、ちゃんと地域、分けることができると思いますが。
ご質問ありがとうございました。鎌野義美でございます。ここには、鎌野直人という、私の老いが、長く誤解をしていたと思うんですが、違う人物です。
彼は大鎌野で、私は小鎌野で、身体小さい、しかし元気に今日もご報酬できるところから喜んでおります。
先生と、加藤先生とお話しいたしまして、どういうメッセージにしようかという中で、いろいろと話が出てきたんですけども、私はこの教会の最初の頃、まだ家庭集会だったこと。
白石姉妹のね、兄弟姉妹のご家庭で家庭集会をしていらっしゃった頃から知っている。あの頃私、西武教会で伝道師じゃなくて、新学生でしたね。
新学生で1年間だけだったんですけど、放射していただいた中で、何回かこうさせていただいたことを覚えておりますけれども、ですからもう相当の期間ですね。
それが私が20、あれは7の時だったと思うので、今、76ですからね、50年間、50年ほどこの教会、それ以前からされていると、50年以上も伝道されているわけでありますよね。
皆さんもかえって本当に多くの方々、今日は満堂で1つか2つ席が空いているぐらいのもので、皆さん来てやがって、本当に福音がどんどん広がってきているわけでありますが、その背後には皆さんがそれぞれいろんなご奉仕をして、一生懸命されてきたからだと思います。
伝道の疲れ
しかしそういうふうな人に限って、だんだんとこの伝道をしているときに疲れを覚えてくる。今日は伝道に疲れた人という題なんです。
新年正解にふさわしくないと思われるかもしれませんが、これは加藤先生と話した中で、これがいいだろうという話だったんです。
先生もよく理解していらっしゃいまして、皆さん方のご状況、本当に一生懸命やってくださる人はもちろんいらっしゃると思います。
けれども疲れた人が1人か2人か、あるいは3人いらっしゃったとしても、その人たちにメッセージが届くようにという深い愛のご配慮をもって、この題ではどうでしょうかというときに、ああ、じゃあこれでいいです。
私にも聞きたいですというか、先生も疲れているんじゃないかなと思いますが。
何しろこういう、いわば普通、新年正解では伝えないような表現をいたしますけれども、それは皆さん連動に疲れましょうということを言いたいわけではありません。当然でありますけれどもね。
しかしそういう現実がある中において、聖者の言葉はどう私たちに語りかけているかということが、今日学びたい事柄なわけであります。
今日このようにしてこのヨナという章を開かせていただいたのも、ヨナというのも聖書の中で私が一番しょうもない預言者だと思います。
このヨナのような人がやっぱりいるのかもしれません。
クリスチャンでありましょうともね、みんな素晴らしい人では決してないです。
自分でも聞いてわかるでしょう。私は素晴らしいクリスチャンだと言っている人とはちょっと危ないかもしれません。
かえって本当に自分はクリスチャンでありつつも、なかなか思うようにはいかないし、パウロもそうでありましたけれどもね、
良いことをしようと思ってもできない、悪いことをやめようと思ってもやってしまうというような弱さの中にあるということを感じている人は実は幸いなんです。
なぜかというと、そのことを知らせてくださるのは聖霊なんですね。
聖書の言葉を読んだならば、聖霊が働いてお前、聖書の言葉通り生きているかどうかと問われたら、
これぐらいはやっていますけれども、これぐらいまでだと言うようなことがあったとしても、なかなか胸を張ってね、聖書の言葉通り生きているなんてなかなか言えたものではありません。
しかし、このヨナというのは、そういうたくさんの預言者がある中においてね、今日も聖霊の中心になるわけですけれども、神様が言われたことに逃げていったんです。
しょうもないヨナなんですね。この中で私もしょうもないクリスチャンだと。
実は他の教会にいていたんだけれども、その教会でもいろんな問題があったり、しんどくなって出て行って、そしてついにこの教会にやってきたという人も中にはいらっしゃるかもしれません。
私も今までいくかの教会をもう一回しましてね、そういう人が2、3いらっしゃる。
この教会こそ素晴らしいと、この教会こそいいと思って最初は来たんだけれども、だんだんそうじゃないことがわかってきたというような人もいらっしゃるわけですけれども。
教会もそうです。本当に素晴らしい教会、立派な教会はもちろんあります。
でもそうじゃない教会だってあります。素晴らしい牧師だと思ってきたところが全然そうじゃなかったという話もね、ここの教会に言っているんじゃないでしょう。
だけれども他にもいくつかそういうのはやはりキリキリしております。
けれども問題は実はしょうもない弱さの中にあるということを認めた上で聖書は語っているということなんです。
今日は1、2、3、4つの章であります。
今日の午後続けてこられた人はね、よな章4章だけじゃなくてよな章5章についても話をしたいと思う。
え?5章5番の?そういう思う人は午後も来てください。
私はこのよな章4章というところの中に書いてある事柄は、よなの生涯の前半部分だったと思います。
後半が実はあるんです。
しかしそれはどこか午後に楽しみにしておきましょう。
しかしまず最初に聖書は、そういうよげんしょ、たくさんのよげんしょ、立派なよげんしょがたくさんいる中において、あえてよなの弱さと言いましょうかね。
よながどういう人物だったかということをまずこの1章は描いております。
今日何分話していいんでしたっけ?2時間ほど?
まあちょっと長くなるかもしれませんけれども、ちょっとこの聖書のもう今見ました10分ほど話をしています。
これからいろいろいよいよ本論でございますけれどもね。
よな章の1章でありますが、阿弥陀影の子よなに、筑のような種の言葉があった。
これはあのよげんしょの中によく出てくる言葉で、神様がこのよなに語られた種の言葉があった。
この阿弥陀影の子と言いますけども、この人はお父さんが阿弥陀影2を吐いていった人じゃないんですよ。
阿弥陀影というこれは名前です。
それの子供であって、このよな、これは列王記下第2列王の4章にこの人が書いてあります。
このよなという人は、ガリライの阿弥陀影というところは、ガテヘセルといったところだと思います。
そういう町の出身のところがここにも書いてありますので、
イスラエルの国の中の北の方、ガリライ子の方の東、ごめんなさい、西の方にあった町だそうですけれども、そこを出身だった。
ということが書かれております。
彼の時代、このよなの時代にどういうことが起こったかということも、第2列王の4章の中に書いてありますが、
この時にイスラエルの国は北と南に分かれておりまして、北の方はヤロウブアムという王様でした。
このヤロウブアムも決して良い王様ではなかった、かえって悪い王様だった。
しかしこの王様が結構手腕があった人だった。
北王国はその時かなり繁栄しておったということがこの中にも書いてあります。
そういう時代の出来事なんです。
なぜ繁栄したかと言いますと、イスラエルの国というのは、今もそういう国がありますけれども、
小さい国でありまして、北にはアシリアという大きな国がありまして、南はエジプトという国があって、
その間の挟まれた小さいところにある国だと。
今でも大きなアメリカとか中国とかロシアとかと大きな国の間に挟まれている国というのはかわいそうですよね。
急にベネズラみたいにバーッと飛んできたりするようなこともあるわけであります。
こういう大きな国の間に挟まれている国にとりましては、その大きな国が余計なことをしてくれなくて、
自分たちの国はほったらかしてくれている方がいいんです。
よそのこの大きな国が自分の力を発揮しまして、もっと平等を広げたいなと思ったら自分の国は危うくなるわけです。
ですから、そういう状況だったということが背景にあるんです。
このヨナの時代にアシリアという国はちょっと勢力が落ちておった時代、
そしてヤロブアムという結構有能な王様が働いておりまして、良い政治を、良いと言いますか、かなり力を持って抑えつけるようなこともあったに違いないんですけれども、
そういうことがあったので、国としては繁栄しのった時代。
その時に神様の声が彼に響いた。
そして二節、立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べということでした。
あの大きな町ニネベ、これはニベやとは違いますよ。ニベやは結構知っていらっしゃる方がいらっしゃいますけれどもね、知らない人はいないんです。
ニネベという、これはアシリアの国の首都があったところです。
で、この大きな町言ってもそんなに東京みたいな大きな町ではありません。
当時としては繁栄しておった町だった。一応アシアリアの国の首都だったわけでありますけれども、その大きな町ニネベに行って、これに向かって叫べと言われている。
これよく注意してください。叫べと。聖書の中には予言しろとか、これに向かって述べ伝えようとかという言葉があるんですけれども、ここでは叫べとあえて言ってらっしゃる。
なぜか、それは今日と午後を見ていければわかる。特に午後になぜ叫べという言葉があえて使われているかということがわかってくると思います。
みんなこれに、午後、聞かないわけにはいきませんね。今からでも予定を変更して午後に出てきたと言うんですけれども、まあ叫べと言う。
そして、彼らの悪が私の前に昇ってきたからという理由まで言ってある。つまり、行って叫びなさい。何を叫ぶかは言っていない。あえて。叫びなさい。それは彼らの悪が立ち昇っているから、私の前に来たからなんだと神様は言われる。
普通、これでこの言葉を聞いた時に、良識ある人、あるいは良いクリスチャンならば、ああそれは二レベの街が悪いことをしておったから、そこに行ってこの神様の言葉を伝えて、そして彼らが悔い改めて良い国になってほしいと、今の私たちなら覚えます。
けれども二レベは、この世の中はそうじゃなかったということがことの始まりなんだ。なぜ彼はそれがしたくなかったか。そこに行って、この国がもう一回立ち直るのが嫌だったから。
つまり、今彼らが大人しくしていて、反映しないで言ってくれて、今私たちの国はなんとか守られている、その中で細々と、それなりの暮らしができたらいいんだと。
その中でわざわざ行って、しかも決して二レベは今までそれまでの歴史も何度かイスラエルの国に攻めてきたことがあるわけであるので、そういうことがまたあったら困る、というのがどうもあったようです。
で、ここのところが分からないといろんな人は分からない。なぜここで彼はそうではなかったか。彼は彼の声を聞いたんです。聞いたけれども、彼の理解ではそれは自分の思いとは違っていたということだ。
これね、今の時代もそうなんです。私たちは毎週日曜日礼拝でメッセージを聞きます。あるいは、ちゃんと私の3分間のグッズニュースを用いてね、毎日電子読んでいらっしゃる方もいらっしゃると思います。聞くんです。
けれども、「ははは、そうですか。はい、分かりました。はい、じゃあ次の報道。」というふうになってしまいがち。つまり、神の声を聞いた。聞いてもそれは自分の生涯にあまり良い影響を及ぼせない。良い影響どころか、これ彼のように、彼はある意味では応答しているんです。
神の声を聞くこと
けれども、良い意味で応答しているんじゃない。かえって彼はそこから逃げていったということだ。今日の話の第一のポイント。これは、伝道につかれるということの大きな問題性は、神の声を聞いている中で起きるんです。
もし神の声を聞かなかったら、疲れも何もないんです。普通通りやっていた。神様を知らない人のように。今日、沖へ出ようという賛美歌を歌いましたけれども、世の人は岸辺に立って、海に出ようともしない。彼は陸上の生活で満足しているからだという内容ですけれども。
で、クリシャンじゃない人たちは今の世の中、まあいろんな問題、今年もいろいろあるということを思っておったとしても、じゃあそこで何か自分で何かしやらなくちゃいけないなんて思わない。まあそういう人が政治家になるでしょうけれども、政治家でもあまり良いことをやるばっかりの政治家でもないですよね。
だから、いわば自分たちの生活が守られたらそれでいいんだ。これ以上何かのことが起こる必要はないんだ。というふうに思っている。クリシャンでもやはりそういう中において、今までも一生懸命伝導したけれども、伝導してもこの程度か。こういうふうな思いがある。
本当にコロナ以降、こういうふうに思う人たち、私もフラッとそういうことを思うこともあるんですけどね。あのコロナの時は本当に大変でしたよね。しかしそのコロナ以降、みんなの心の中にはいっぱい伝導したけれども、
一時はずっとこう福音が広がっていって、日本もずっと人口1%、クリシャンを超えるような時期もあったけれども、今はどんどんどんどん味方が下がり、教会もどんどん数が減ってきている。私たちの教団もそうでありますけれどもね、教祭が上がってきている。天気も下がっている。検診者も減ってきている。
本当に残念なことです。立派な建物はできたんですけれどもね、集まる者が本当に少ない。私たちの頃は学生数が80名、90名といた。こういう時代があるのに、今はもう10名内外というようなところであります。
こういう状況で本当にこれから先どうなるんだろうか、今まで一生懸命やってきたのに何の効果があったんだろうかと思う時、私たちは疲れを覚えます。それは今のままであったらよくないと分かっているから。
そしてどんだけやったとしてもあまり変わらないな。本当にこれから先に何か新しいことをやったとしてもどういうことができるんだろうかという気持ちがあったときに気持ちはなえていく。それで第二番目です。
主の声を聞いたんだけれども彼はその主の御顔を避けて逃げていった。これその後書いてありますね。しかしおなわたって主の御顔を避けてタルシシへ逃れようとした。このタルシシというのは今のスペインのことではなかろうかと言われております。
あるいはトルコの方だと言われていることもありますが何しろ二レベというのはイスラエルの国からするならば北東の方です。北東の方約800キロの方相当の距離ですよね。ここから行ったら東京を越えて青森ぐらいまで行くかもしれませんね。それぐらいの距離ですよね。
北東の方ここにいるんだけれどもタルシシというのは丸切り反対側の地球界を越えて西の方になるわけです。ここタルシシまでの距離は約2500キロぐらいというものには書いてありますけれども相当離れている。
そういうところに行け。つまり彼は北東の方に行けと言われたにも関わらず全く反対の西の方に向かって出て行った。そしてヤッファという港町に行きましてそこで船賃を払って逃げて行こうとした。
彼はヤッファに2人タルシシ行きの船を見つけると船賃を払ってそれに乗り込みシュノミカを避けてとはっきり書いてある。シュノミカを避けて人々と一緒にタルシシへ行こうとした。
彼が神の声を聞かなかったらそういうことはしなかった。聞いたから逃げて行こうとした。だから神の声を聞ける彼は心はあったんです。つまり預言者の端くれであったとしても神の声を聞いた。
皆さんように神徒の福利さんの端くれでも聖書の言葉を聞くためにわざわざ教会に来ている。皆さんようなような人。ようなように神声を聞く。
でも問題を聞いてもこれはちょっと嫌だと。じゃあ帰りましょう。もう大正の日曜日はお休みしましょう。今年はちょっとあまり無理しないでちょっと休みましょう。
この教会もずっと来てたけどいろんな問題もあるし別の教会行きましょう。そういう人が多いんです。私も何にも経験していない。疲れる時に聖書の言葉を聞いてもそこから避けて行こう逃れて行こうとする。
そういうことを彼ほど明確に言われたらたぶん次の日ぐらいでフラッシュを払って反対の方向に行こうとした。これが現実の姿です。ここで彼はやっぱり下りという言葉があります。
下りという言葉も聖書の中でちょっとこれ見てもらってちょっと意味があるんですね。次四節。
イスラエルの国の中心部はちょっと高高い丘の上にあるんですけども港は当然海の底ですから下らなくちゃいけない。下って船に乗った。船に乗っても彼は船の中の一番砂底に行ってまさに苦難底に下りて行ってと書いてある。
神様の見顔を避けるため。何とか神様の見顔を避けるために彼はどんどんどんどん神様から離れて行った。そして今度はぐっすりと寝込んでいるということでよっぽどホッとしたんでしょうね。
自分が本当にいろいろやってこの神様の声を聞いてやってきてはいたんだけれどももうそこから逃げないと思ってやって行ってそして一番船底にあったときはホッとしたところで思ってぐっすり寝いて行ったというその気持ちはわかるようなことであります。
だから彼としましては本当に自分はこれで神様から逃れられたと思った。だけれども実はそうではなかった。というのがここに書いてあるように嵐が起こるということですね。すると船主が近づいてきて彼に言った。一体どうしたのか。
眠りこけているとは起きなさい。あなたの神に願いなさい。もしかするとその神が私たちに心を止め私たちは滅びないで済むかもしれない。この表現もよく覚えてください。これ午後にもう一回出てきます。もしかするとその神が私たちに心を止め私たちは滅びないで済むかもしれない。
この人は預言者じゃなくて船船長は神様を信じているわけではないんですよ。異邦人の船長であるように覚えます。それぞれいろんな国の人たちがそこに乗っておったでしょう。そこにはむしろん次第の世のような人もいたでしょうしそれ以外の人たちもいた。
そしてさまざまな国の人たちがそしてさまざまな神々を拝んでいる人たちがいた。そしてそれぞれの神にこの嵐になったときにお祈りをした。そしたらするともしかするとその中の百ある中の神々の中の一人ぐらいはちゃんと聞いてもしかするとそれにその神が私たちに心を止めて滅びないで済むかもしれないからこの祈りとこう言うんです。
数打ち当たるというわけです。日本にはやおよろずの神々がある。
多くの私もいろんなミシニアの人と話をするとだいたいクリシャン以外の人、クリシャンの人でもそうなんですけども一つの神だけじゃなくていろんな神々に何かのことがあるたびに、きのうは10日恵比寿で恵比寿さんのところに行って商売繁盛ささもて来い来いというような人もいるでしょうし
お正月はちゃんと神社に初詣に行くとかお寺にお祈りするとかお葬式は仏教やけども結婚式は教会でキリスト教式でやるとかね。いろんなことをやって子供が生まれたら神社で神式やる。これが兵役であるというのがまさに多神教の神、世界である。
いろんな神々がいていろんな神々にそれぞれお祈りしてそしてそこでやったら何かのご利益があるに違いないとこう思っている。そういう人たちがたくさんいる中でこの宣教もそうなんですけどもその中で言えることはもしかするとそのたくさんある神の中のどれかがうまく当たってそれで救われるかもしれないというこういう思い。
これはまさに多神教の考え方です。
もしかするとその時のためにあるということを言うんです。もしかするとというのは人間の生活はやっぱり確かにそうなんです。あるかどうかわからないけどもしかするとうまく当たってその滅びないで済むかもしれないとこう言った。
そして人々はたかに言った。さあ誰のせいでこれの災いが私たちにかかるのか。くじによってしろ彼らがくじを引くとそのくじはヨナに当たった。ヨナも自分が当たるとは思いもしなかったんでしょうけどももしかすると当たるかもしれなかったんでしょう。何しろ彼としてはもったいなかったんだけども当たった。
なぜ当たったかというと偶然では決してないですよね。そこで彼らヨナに言った。話してくれ。誰のせいでこの災いが私たちに降りかかったのか。あなたの仕事は何か。どこから来たのか。国はどこか。どの旅のものかというふうに問いただいたところがヨナは彼に言った。私はヘブル人です。
そして私は海と陸を作りあえた天の神しを恐れるものだ。ほんまに恐れているのかと。恐れちゃったんだことは知らないだろう。天の神は言ったんだ。私は神を恐れるものだ。恐れたから恐れて逃げていったんだということでしょう。つまり恐れると言いましても怖がる。つまり彼のイメージは神様は怖いことをするというイメージがあったんでしょう。
そしたらゆっくり寝ることもできないとは思うんですけどね。しかし彼はそういう意味での意味において本当の意味で神を恐れるもの。聖書の中でそういう表現が旧約聖書新約聖書よく出てきます。神を恐れると言ったら本当に心から意見の面を持って神様は素晴らしいお方だということを受け止めてそして神の前に正しいことをしていこうと思うのが本当です。
彼は神を恐れているゆえにこそ逃げていった。そしてこういう中でいるんだけれども一応自分は神を恐れるものだというふうに彼はその船長に言った。
人々は非常に恐れて彼に何ということをしたのか。いやその船長地を作られた神がいらっしゃってそこでそう見たことだったらお前こんなふうになるのはやっぱりお前のせいや。もう彼は船長たちはみんな思ったに違いないですね。と言った人々は夜中彼に近いところであって彼が宿の三日を避けて逃れようとしていることを知った。
初めてこの人たちもあ、船長を作られた神がいらっしゃる。船長を作られたならばこの嵐も実はその船長を作られた神が起こされたとしても何の不思議もないということを彼は思った。
皆さんこれね、夜中は否定的な意味だけども神様を明かしているんです。神様ってお方は逃げていったときにほったらかしにするお方じゃない。しかもここに書いてあるように大きな嵐を起こすというようなことさえされるお方だということをこの本当の神を知らない人たちもここでそういう中で気が付かざるを得なかった。知ったからだというふうに彼は言った。
まあ、だからここで彼がね、本当に彼が夜中悔やらためてね、本当に私は恐れ事をしました。皆さん信じてください。この神こそ本当の神ですよと言えばいいのにそれもしなかった。彼が言ったのはどういうことか。その次ですね。
彼らは夜中に言った。私たちのために海が静まりにするためにはあなたをどうすればいいのか。海がますます荒れてきたからである。夜中は彼には言った。私を抱え上げて海に上げ込みなさいとこう言った。
これもね、私は普通に聞いて、ああこれは自分が犠牲になろうとしたんだなと思えるんでしょう。けれども彼が死んでこうやって犠牲になって本当にいいのか。
周りの人たち、いやそれ良くないと思ってその後また船を岸につけようと必死になったことを書いたんです。
けれど彼は私を犠牲にしなさいと言った。けれども彼がやることは本当ですよ。そこで私は神様の前にひどいことをしました。
けれども私はこのところを悔い改めて、皆さん知ってください天地を救われた神はこの私がしたことを悔い改めた時に神様が許されて決して私を海に投げ込まなくても神様は悔い改めることによって海を静められることができますよと言えたらよかった。
そうしたら世の中はここで終わっているのかもしれません。
けれども二章三章四章だったのは彼はそれをしなかったことも実は神の御計画の中にあったわけですけれども。
しかし一つ言えることは彼はここで神様から神の言葉を預かれたものとして他にもいくつかの選択肢があったに違いない。
生きることの意味
彼が本当に神様のことをしっかりと受け止めてやっていったならば彼はここの船の上でも殿堂できたに違いない。
しかし彼はそれをしなかった。
なぜか疲れていたからです。
やるのがしんどかった。
もうそうやったら私は死んだ方がいいと思ったのかもしれません。
彼はそのことをまた今日の午後に言いますけれどもね。
彼は何度も言って私は死んだ方がましや。
あと皆さん知っている人もいらっしゃるでしょう。
死んだ方がましや。
皆さん死ぬのはいつかは死にますよ。
けれども死んだ方がましやないんです。
生きていくことが必要なんです。
生きていくことが必要なんです。
だから後でこの後また二章三章の中に出てきますけれども彼は死にたいと思ってあるいは自分を犠牲にしたら静かになるだろうと思って言ったんだけれども
そうではなかった。
彼はあえて助けられたんです。
生きることが必要なんです。
私たちはこの主要に生かされております。
そして今までも生きてこないだと思います。
しかしこれから先どう生きるのか。
どれにできます。
伝道の疲れ
この世の中のように神の顔を避けて逃れることもできるでしょう。
伝道ということにも疲れたしもこれから楽でしょう。
私も引退したんです。去年の春。
これから楽になるかなと思っておったところが突然電話がかかって新学校へ来いと言う。
なんちこちゃって。
私は新学校で四年半も勉強した。普通四年間しか勉強しない。
私は半年余分に勉強したんです。
成績が悪かったからじゃないんですよ。
入学する前に行ってたんです。
なんちこちゃと思うんですけど。
それから十年間連動しました。
その後また三年間留学することもしました。
ところがまたそこで連動しておった時に教団から来い上がって新学校へ来いと言って。
新学校の社官としてまた四年間。
うちの家内は周囲の新学校じゃなくて東京の聖書学院の方に卒業したので私は家内に行ったんです。
あなたが東京の聖書学院それもいいけど周囲の良さを知るために四年間私に連れられてここで勉強した。
そう思ってくれとひたすら頭を下げて。
そして教団の言われるように私はずっと教団の言われるように従ってきましたね。
そこで四年間この社官の働きと。
それでそこから解放されて今度また連動しまして二十年間また池田で連動したんですけど。
また教会から来い上がってまた新学校へ来いと。今度は校長になって来いと。
何言うか知らない。あの社官でもしんどかったのにまた校長になって。
いや校長になるますけど出来るだけ短くしてください。
最低の二年間。いや二年間やったら何とか我慢しますと言って二年間やって。
まあ私としては連動したい。
私は皆さん方、新学生もいいですけど皆さん方あんまり聖書のこと知らない人に対して話をする方がいいんです。
適当にごまかせるから。
まあ何しろこうやって連動するのが私は好きでもあちゃこちゃ。
そうそう引退の話です。引退したんだけれども。
また少なくとも一年でいいからと言われて。
ここで急に病気をされた同じ加藤先生の名前だけどね。
加藤先生の後継いでメッセージのお手伝いだけしましょうということで一年間。
もう本当によっぽど運のない男で言いましょうかね。
もう連動したいのにこういろんな新学校の働きをせざるを得ない。
まあそれも決して悪くは言いますよ。
けれどもそういう中で皆さん自分として引退した退職したそういう人たちが結構多そうな感じですねここでは。
そういう人たちが多い中でね。
もう今からは自由自適好きなことをして、水泳もしたり散歩したりあるいはブランドゴルフをしたりいろんなことをしたりしてね。
神の愛と存在意義
もう気楽に過ごそうと。
しかしその時に神様があなたに言われたらどう答えるかということです。
いやもう私はそのことにあと一、二年の命ですから早く死んで早く天国に来てそれがずっと楽です。
私もそう思います。
早く天国に行ったらずっと楽です。
この前兄も亡くなったんです。
私8人兄弟の4人がもうみんな天国に行きました。
いや天国は賑やかやろうなと思うんですけどもね。
しかしそれでも生きねばならない。
生きなくてはならないになったら何をすべきなのかな。
夜は楽しい日の国に逃げて行ってそこでゆったりと話を。
よほどのお金持ちであったのかもしれません。
ここで楽しい日の国でゆっくりしようと思ったに違いない。
けれども、いや神様はそうじゃなかった。
そこで彼はこの海に投げ込まれましたね。
その後どうであったか。
11節。
それでも人々は船を陸に戻そうとこいだが、そうすることができなかった。
海がますます彼らに向かって荒れてきたからだ。
そこで彼らは死に向かって叫んだ。
ああ死をどうかこの命のことで私たちが滅びることのないようにしてください。
とが亡き者の地の報いを私たちの上に下さないでください。
死をあなたは望まれたとおりになかったんですから。
これは違法人が言っているんですよ。
神を知らない人があなたは、つまり神様は望んだことをなされているんです。
つまりこの人でもこの神様がこの海を嵐を起こし、
またこの天と地を創られたということを受け入れざるを得ないような状況にしている。
皆さん私たちは神の手の中にあるんです。
どんなに世の中で逃げたいと思っても逃げられないんです。ごめんなさい。
逃げた人と逃げられないんです。どうしたって逃げられない。
もう覚悟を決めた方がいいです。
自分がもう本当に私はもう少し世の中の楽しいことをしたい。
もう電動なんか別に考えないでやっていきたいと思っていたとしても、
神の声を聞いている間は、そうじゃないんじゃないかという気持ちがあるはずなんです。
そこから逃げていきたいと思っても、それとも神様はあなたを逃がさないで捕まえていらっしゃる。
その時にどう答えるのか。
ここでこうして彼らは世の中を抱え上げ、海に泣くんだすると激しい怒りが止んで、海は泣きになった。
確かにこのようにして彼が言った通りに泣きになった。
人々は非常に死を恐れ、主に生贄を捧げて生還をされたということで、
この人自身は世の中からあまり話は聞かなかったけれども、
なんとかここで彼らは神様ってお方がいらっしゃるということは理解した。
とこら中、主は大きな魚を備えて読むような世の中を飲み込ませられた。
魚を備えてとあります。
この魚が何であったか。
今日の午後でもお話します。神様はいろんなものをこの後でも備えていらっしゃる。
この世の中に対して神様が声をかけられました。
彼はそこから逃げていった。
逃げていっても神様は彼が民家を避けて逃れていったとしても逃れられないんだということをこのところで知らそうとされた。
そして彼は自分でも知らしんなほうがいいと自分が身の中に投げてくださいと言った。
だけれども神様は彼を生かす道を備えられた。
それが魚。
今だったら潜水艦がそこでぼーっと浮上して、
世の中をパッと助けてまた防空壕のことがあったのかもしれません。
しかしこれはどういうものであったか分かりませんけれども、
確かに大きな魚に飲まれて生きていた人という話はどこか現地にあるそうなんです。
だからそういうことはあり得たようでありますけれども、
しかしどういうものにしろそういうことがたまたまここでできたのがいいと。
たまたまではないんです。
神様はちゃんと死のうと思って自分が投げ込まれた世の中を助けられた。
皆さん私たちは今この中でそれぞれのところに神様は備えていらっしゃる。
あるいは家庭を備え、あるいは住む場所を備え、あるいは健康を備え、
すべてのものを備えていらっしゃる。
備えていらっしゃるのに私たちは自分でいろいろ心配し、
これをせねばならない、あれをせねばならないとこう思っている。
伝道もせねばならないとこう思う。
しかし伝道はせねばならないことではないんです。
せざるを得ない、いやしたいものになるんです。
伝道というのはそういうものなんです。
実はね、昨日こんな話、今ふと示されて話すのより、
日本家庭以外のある教団のあるご夫人の方が、
先生ちょっと話をしたいということで、
昨日ちょうど私大阪で出る予定があったので、
じゃあそこでお会いしましょうとお話をした。
その人は、ある教会ですごくいい御法師をして、
立派な働きもして伝道もしてきた。
先生、私本当に今のこの中で私自身は何者であるかというのは、
分からなくなったんですというのはね、かなり深刻な話です。
私は30分ほどずっと話を聞いておりまして、
で分かりました。
その人が言っていらっしゃったのは、
私はいろいろやってきたし、これもいろんなことをしてきた。
というのもしてきたけれども、本当にそれでいいのかと思うようになった。
私はそこで言ったのに、
あなたがそういうことをしたから、神様はあなたを愛していらっしゃるんじゃないですよ。
あなたがたとえ何をしなくても、神様はあなたを愛していらっしゃるんですよ。
あなたはこれから何かを自分がこれから年をとっても何かをしなくちゃいけない教会の中でも、
政界大臣とかいろんな婦人から働くようなことをしなくちゃいけないと思って、
いろいろな心を悩ませていたようなんですけれども、そうじゃないですよ。
あなたはそのままでいいんです。
しかし神様はそのあなたを教えてくださるんですよ。
あなたが何かできるから神様を教えてくださるんじゃない。
あなた自身が神様から救われて、
まあ、このいろんな身の身話は聞きましたけれども、いろんな大変なことがあったそうです。
しかしそんな苦しいところを通して、今もあなたが教会に居続けることができるようにしてくださっているのは、
みんな神様なんですよ。
あなたが頑張ったからやったんじゃないんですよ。
神様がそうしてくださったんですよ。
すべてを備えてくださったんですよ。
と言うと、その人が、
その言葉が聞きたかったと言われた。
その言葉が聞きたかったと言うと、
それなりに考えていらっしゃったので、感じていらっしゃったんですよ。
けれども、私はその人のことを最後にお祈りしたときに、
先生、ありがとうございました。
そのお祈りが聞きたかった。
そう祈っていただきたかったと言われた。
私とかでよく誰もがある、一生懸命やる人ほどそういうことを考える人だと思う。
自分がこれまでああしてきた、こうしてきた、そしてそれなりのことをしてきた。
けれどもこれから先どうなるんだろうと思ったときに、
神様はそれをしたから、伝導したから、あなたを用いられるにはないんです。
世の中に逃げていったものでも用いてくださる。
いや、逃げていったからこそ、あえてヨナ賞を聖賞の中に入れ替えたんです。
他が立派な預言者かもしれません。
けれどもヨナのようなしょうもない預言者だからこそ、
神様はこのヨナ賞をこの聖賞の中に与えられたんです。
私は一人一人がたとえしょうもないクリスチャンである、
何にも伝導もしてこなかったと思う人、
だからこそ神様は今日のこの集会を与えてくださったんです。
こんな私でも用いようとしていらっしゃる。
で、あるならば、神の顔を避けて逃れるんじゃない。
未来の宣教イベント
神が備えてくださるものは何なのかということを受け入れることです。
私に必要なものは何なのか。
私は今日、先生とお話をしたんですけれども、
2027年にウィル・グラハムというベリー・グラハムのお孫さんがこの日本においでになる。
しかも予定よりも1年遅れて来られる。
しかしその間にそのもたれる会場がサンガミアに出てくる新しくできた
ジー・ライオンという施設。聞かれております?ジー・ライオン。
私が来たときに、ジーというのはライオンでも年をとったオスのライオン。
これはジー・ライオンかな?わかります?
わかんない人はいいです。
ジー・ライオンという場所かなと思ったんですけれどもね。
その場所が、これはバステッケットボールの試合のために作られた
1万人ぐらい入るところだそうなんですけれども、
一番上は足がすくむようなところだそうなので、
そうじゃないところでも8000人ぐらい入るということを聞きました。
そこでもたれようと。2027年の6月。
そのためにね、それまで大阪が中心だったんですが、神戸に戻ってきたので、
神戸で、私はいろんな神戸の、神戸は日本USの本拠地でもあるので、
いろんな教会に来年に行かせていただいて、そこで宣伝をして、
皆さんのボックスの中にも入れていただいたんですけれども、
ジー・ライオンが持たれる。
本当にそこでね、私はこのことを皆さん方に祈っていただきたいし、やっていただきたい。
神戸訓練の集会の準備
やっていただくために必要なのは、神戸訓練の集会を成功させるんじゃない。
集会に人々を導いていくために、その前の準備はどうなるか。
あと、導かれてきた人たちをどのように教会の中で訓練していくか。
これは弟子訓練の大きな機会。
はじめから予定の中で言われておりますけれども、
10%しかその当日の集会に力を注ぐんじゃない。
90%はその前とその後に力を注ぐんだということで持たれようとしているんです。
私はそのことがまさにね、
一人一人が霊的に備えられる伝道というのは何か特別なことをするというのではない。
あなたがあなたとしてそのまま生きる中で、人々の中であなたの証がなされていく。
それが人々を食いしろり導くきっかけなんだ。
そのことをね、ぜひしていただきたい。
世の中のような人でもね、神様は用いられるんですよ。
私のようなものでも神様は用いてくださるんだと思ってください。
そんな風な私は今までその準備をしている中においてね、
何度も出てきたことは、これはビルグラム伝道協会の人から聞いた言葉なんですね。
この働きは一緒に働くんだ。
これを言うと、コーレーバー、コーってのはコープなんかのコーと一緒に言ってる。
レーバーってのは労働という意味のアルバム、コーレーバー。
コーレーバー、一緒に働く人を今は必要なんだ。
しかしコーレーバー、コーレーバー、何度も言われるんだよ。
よく考えてみたら日本語で言ったら、コーレーバー、コーレーノバーさんだ。
ジーライオンで年をとった男だ。
コーレーバーさん、今度は年をとった女だ。
いや、ここの協会ぴったりじゃないですか。
若い人何人かいらっしゃるけど、多くはない。
しかし皆さん、コーレーバーでいいんです。
ジーライオンでいいんです。
しかし皆さん、年をとろうが何しようが、私たちのうちにイエス様の愛があるならば、
イエス様が私を用いようとされるならば、神様がその必要なものをみんな備えてくださるんです。
自分じゃない神様が備えてくださる。
今の時代に皆さん方を教会に導き、今の時代に生かされているのも神様です。
そのためなら皆さんの人生は今まであるんです。
神様が備えてくださるということがわかるならば、私たちの愛みたいなのは本当にホッとします。
逃げなくていいんです。
もう全部神様ご存知なんです。
逃げようと思う気持ちがあったこともご存知なんです。
けれども神様はちゃんとその世の中を用いられたんです。
どれくらいの用いられたか。
それが今日の午後です。
ぜひともね、ここで話してもらって、前半しか終わっていません。
今の時代はどう神様を用いられるかということを、今日の午後の中において知ってください。
何よりも大切なのは、世の中でも用いられた死は、あなたも用いられるということです。
お祈りしましょう。