00:03
それでは今日はこの御言葉から、神の力に支えられる生き方、神の力に支えられる生き方という題について、御言葉の恵みを共にお受けしたいと思います。
それでは皆さん、今日もメッセージに入る前にですね、隣の方々、挨拶しましょうか。おはようございます。
熱い中、よくいらっしゃいました。
はい、ではお便りになります。
それは、あなた方の持つ信仰が、人間の地位に支えられず、神の力に支えられるためでした。
アメン。
主よ、こなたも神様の力に支えられて、死の宮にやってまいりました。
今の御言葉も、主よ、あなたに支えられ、また神様御自身が、私たち一人一人にお語りくださいますように。
待ち望みます。主よ、どうか、あなたの御言葉の命と御言葉の光を、この朝、我ら全ての方々に、主よ、輝く照らして下さいますように、お願いいたします。
感謝して、イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン。
はい、先日はですね、この第一御靈灯の後半の御言葉から、イエス様だけを誇りますよ、という御言葉をいただきました。
いかがなかで、今日か一週間のうち、皆さん、イエス様を誇りましたか?
毎日毎日、近々どころで、イエスキリストを誇ってきましたか?
どうか、今からですね、イエス様だけを誇って、イエス様だけを誇りにする生き方でありたいと、そういう風に願っております。
今日は、2章に入りますけれども、このスタファールが、コリントという町で伝道して、あるいは牧会をして、そしてそこで神の御言葉を教えるとき、
どのように御言葉を述べっぱいへ教えたのか。
そこに、とても素晴らしい法則がある。
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だから、我々の生き方の法則を共に教えていただきたいと思います。
まず、背景として、スタファールがどんな人だったのか、大体皆さんご存じかと思いますけれども、
スタファールは、当時のユダヤ人のラビという、ラピあるいはラビ、いわゆる教師ですね。
とても旧約聖章の、特に孟子五章、
「宗石、慈悲ずつとき、げびき、みんそき、しんめきに生通していて、そして多くの弟子をもって教えるそのラビの、
あの時の最高のラビ、カマリエルという人がいました。
その有名なラビの弟子として、その下でスタファールは旧約聖章あるいは律法をとても徹底に学びました。
日本語に言うならば、日本だったら東大で、アメリカだったらハーバード大で、そこで修学をした、それぐらいのエリートでした。
他にスタファールは、その教師の説法とか、あるいは論理とか、あるいは勉強法とか、などなどを学んで、
もう言葉や知恵、知識に対してですね、もう誰にも負けないぐらい、とても優れた知恵者でした。
それだけではないんですね。スタファールはユダヤ人でありながら、ローマ神意見を持っていたわけですから、
彼はですね、言葉においてもですね、ジーニクスヤ語もヘブライ語もとても優秀でした。
だからパウロ先生は、新約の聖章が全部、何の中にありますか、新約聖章は。
三十九?二十七?百?二十七。二十七のうちに、パウロ先生が書いている聖章は、何の数でしょう。
十三ですよ、十三。二十七の半分ぐらいですね。半分を、このパウロが、もとよ神の許しによって、
彼は師匠としてですね、書かせていただいたわけなんですけれども、十三感も百ほど言語にも、あるいは様々な知識、
あるいは人間理解がとても優れた人物でした。だから彼はですね、誰にも負けないほど論理や知識や知恵や説得力もある優秀な知恵者でした。
だからですね、彼が自分の能力で勉強を立ち立てをしつつ、あるいは知恵をくじって説得したら、もう何人も何十人も説得させられたかもしれない。
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十分できる人なんですね。ところが、今日の御言葉を見ますと、
その古人として、シト・パウロが神の御言葉を教え伝道する時に、彼はそのような人間の知恵や知識や哲学、論理やそういった潤しさを持ち得なかったということです。
つまりそれは、どういう意味でしょうか。自分の能力に頼らないということです。
いくらでも論理で人を説得できますけれども、できますけれども、しないこと。
できないからしないことはそれは当たり前ですけれどもね、できるんですよ。しかも優秀で作れているんですよ。
でも、持ち得ない。なぜなんでしょうか。
では、どのようにして御言葉を教え、救いを述べ伝えたのでしょうか。
どうやったのに、その古人とに立派な教会が建て上げられたのでしょうか。
四節を一緒に読みたいと思います。今日の御言葉も四節。ご一緒に。
そして、私の言葉と私の宣教とは、説得力のある知恵の言葉によって行われるものではなく、見たまと道からの現れでした。
皆さん、この見たまと道からの現れ、これは今日もキーワードです、ポイントです。
ここにフォーカスを当ててください。説得力のある知恵の言葉によって行っていませんでした。
何によってですか。見たまと道からによってです。
これが皆さん、神の力に支えられる生き方なんです。神の力に支えられる生き方。
イエス様を信じながらも、自分の力に支えられる生き方。そういったクリスチャンもいるかもしれません。
しかし、今日の御言葉のように、四節のように、神の力によって、神の力に支えられて歩む、そんな生き方をするクリスチャンがいるわけなんです。
まず、神の力に支えられる生き方、その第一は、人の知恵や言葉に頼りをするのではなく、神の力のみ頼ることです。
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神の力のみ頼りにすることです。
ハールは、言語にも能力がありました。知恵にも能力がありました。
それを用いることができますけれども、用いない。
ないから、用いないのではなく、あるけど、用いない。
まずでしょうか。何を表すためなんでしょうか。
それは、今日の五節です。五節。一章に読みたいと思います。
それは、あなた方の持つ信仰が、人間の知恵に支えられる、神の力に支えられるためでした。
もしですね、パウルが自分の説得力や哲学、勉強法、論理、知恵、知識を駆使して、説得させられて人々が生き方したら、そこに残るのは何が残るでしょうか。
パウルの素晴らしい哲学、優勉、流暢なイリシア語、ヘブナイ語、それが残る。
神様は現れない。
チトパウルという人間がそこに現れてしまう。それだけ残ってしまうことなんですよね。
だからチトパウルは、神様だけを表すために、神の栄光だけを表すために、パウルは自分の知恵も知識も能力も持ちなかった。
これは本当に謙遜で謙虚な姿です。
人は自分がやったことが報いられなかったり、認められなかったり、あるいは誰からも無視されたりしたら、大体の人間はむかし来ます。
なんでこんなにやったのに、と頭に来る。それが人間なんですね。
ところがチトパウルは、彼の願いは自分ではありませんでした。
自分の能力でもありませんでした。あるいは自分はですね、後から言いますけれども、ベナミンのその血統を持っている。
そんな血統や自分の市民権や、そういったものはもう何者でもない。
彼の一票の願いは、ただ自分を通して神様だけが、イエス・キリストだけが、十字架のイエス様だけが現れること。
それを表すことがチトパウルの一票の願いです。自分を表さないためです。
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徹底に自分を隠して神様だけを表す生き方、これが皆さん、神の力に支えられる生き方でございます。
もう少しチトパウルについて覚えて、あるいは皆さんに知っていらっしゃる知識を思い起こしていらっしゃる。
パウルはどんな人だったんでしょうか。彼はイエス様を迫害した人でした。
イエス様を信じる人たちを迫害して、その処刑に賛成する、そうしたパウルでした。
あの人の働きに出てくるステファノが、七人の羊のうちの一人、ステファノが処刑されるときに、この賛成票を投げたのが、その一人がパウルでした。
そんな彼が、イエス様に追われて、そして彼の人生は百八十度、全く新しい人に生まれ変わった。
今まで自分が大事にしていたもの、宝と思っていた全ては、どうしたんでしょうか。捨てました。
そしてイエス様だけを掴めました。今まで自分のために生きてきた人生が、自分の願いのために歩んできた人が、神のために、神の栄光のために生きる人に、新しく生まれたわけなんですね。
実はみなさん、これが生まれ変わること、神聖なんですよ。これが救いではないでしょうか。これこそ、イエス様を信じる人の生き方であります。
結構前に、焼肉を食べて地下鉄に乗ったことがありまして、あまりにも臭いがして、電車の行き、先ほどのところに肩にくっついていたときがありました。
半端がなかったですね。焼肉の匂いがして、焼肉を食べた人からは焼肉の匂いがします。
イエス・キリストに出会った人には、イエス・キリストに留まる人には、その人からイエス・キリストの香りがします。
なぜなら、自分がキリストに留まっていますし、自分の内にイエス・キリストが留まっておられるからです。
あと、聖書を開きましょうか。第2コリント2章14節から16節。第2コリント2章14節から16節。347ページです。
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では、14と15は私が読みますので、皆さんは16節をお読みください。
しかし、神に感謝します。神はいつでも私たちを導いて、キリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る主式の香りを放って下さいます。
私たちは救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前に囲わしいキリストの香りなのです。
16節でご一緒に。ある人たちにとっては、死から出て、死に至らせる香りであり、ある人たちにとっては、命から出て、命に至らせる香りです。
このような仕留めにふさわしいものは一体誰でしょう。
皆さん、いかがでしょうか。私たちは神の前に囲わしいキリストの香りなのです。
どうでしょう。皆さんも、今、右下に座っている方々から、キリストの香りがしますか。朝かけたコーヒーの香りがしますか。
あるいは、この人は朝、焼き餃子を食べてきたかのように、焼き餃子の匂いがしますか。
私たちは、神の前に囲わしいキリストの香りなのです。
これがですね、シトファウルがずっと抱いていった願いでした。
清い願いでした。どんな願いでしょうか。
自分を通してキリストのみ表される。自分を通してイエス・キリストの香りだけが放つことでした。
そんな生き方がしたい。そのためにずっと歩んでいかれた人が、シトファウルでした。
皆さん、私たちも、このシトファウルのような清い願いを持っていたい。
そんなクリスタンでありたい。
私たちの日々の歩みを通して、行いを通して、言動を通して、神様だけが現れる。
神の栄光だけが現れる。かくわしいキリストの香りが放つ一歩だけでした。
ところが、その御言葉に戻りますと、
シトファウルは、きょうの五輪堂教会のシンポニー、
二玉と身力の現れ、そして神の力に支えられる生き方はどんなものなのか、どこまでできたらいいんだろうかを、
18:05
彼は話すときに、二節のようにこう言いました。
二節を一緒に読みましょう。きょうの御言葉、第一五輪堂、二節の二節。
きょうの御一緒に、三杯。
イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。アメン。
シトファウルは、どれほどキリストを表したかたんでしょうか。
その自信がどこまで深くて強かったんでしょうか。
それは、イエス・キリスト、十字架につけられたキリストのほかは、何も知らないことに決心したんですね。
ここでですね、何も知らないことに決心したという言葉を、シトファウルは、ピリピ人への手紙でこのように語っています。
ピリピ人への手紙を開きましょう。ピリピ人への手紙、三章、四節から八節です。
ページ数はね、386ページ。386ページ、ピリピ人への手紙、三章、四節から八節。
では、私読みますね。
ただし、私は人間的なものにおいても頼むところがあります。
先ほど私が申し上げたそのストーリーですね。
もし、他の人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私はそれ以上です。
それ以上、多くありますよ、ということですね。
私は8日目の滑稽を受けました。
イスラエ民族に属し、ベニャミンの別れの者です。
既遂のセブル人で、立法についてはパリサイ人、その日清は教会を迫害したことで、立法による義についてならば、支難されるところもない者です。
しかし、ここから大事ですよ。
しかし、そんなに素晴らしいものをたくさん持っている人ですけれども、
しかし、私にとって得であった、得であったものなんでしょうか。
自分のその知識、説得、その熱心、さまざまなものでしょう。
21:02
得であったこのようなものを皆、私はキリストのゆえに何と思うようになりましたか。
損と思うようになりました。
9節です。すみません、8節を説明しますね。
8節3回。
それどころか、私の知であるキリストイエスを知っていることの素晴らしさもゆえに、一切のことを損と思っています。
私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらを知りあくだと思っています。
それは、私にはキリストへ、また、アメン。
これですね、キストパワールはどういう意味でしょうか。
簡単に言うならば、キストパワールはイエス・ギリスト、他にはすべてのものはどれが、
それがですね、この世の中でどれほど価値があったとしても、すべてを知りあくだである。
ここでこっちの人は損と言っていますね。
それほどもう価値がないんですよ。ゴミなんです。
それほどキリストだけを愛し、キリストだけに支えられる生き方をすると決して、これが神の力に支えられる生き方です。
グリシャに行ったらですね、一度行ったことがありますけれども、
マテドニアとかテサロニカ、今もちょっと結構賑やかな町なんですけれども、
あちらこちらに敵艦みたいなところが残っていたんですね。
そこでですね、パオロ先生についてガイドしてくれたり、現地の指定国会のようなところにもありますけれども、
そこでですね、キストパワールが話をさせてくれるんですよ。
そしたら本当に今日のこの4月5日に分かれているとおりに、とっても優秀な最高の教え者でした。
ところがパオロ先生に彼も人間力だから、貸したところがあったんですね。
これは昔の文書を見たら、そんなに美なんではなかったこと。
そしてすごくとても悪かったこと。しかも明らかにですね、この敵艦を見たらわかるんですけど、
ハゲ頭だったということですね。
それであのときですね、私が兄貴と一緒に撮ったことがありますけれどもね。
いずれにしても皆さん、キストパワールは、
イエス・キリストを知る知識以外に、自分に頼るところがきっといく場合もあります。
しかしそれを全て知り悪さとして、ごみのようにした。
ここで神の力に支えられる生き方の第二の法則は、
イエス・キリストを知る知識を最高の価値にする生き方です。
24:05
例えば皆さん、排泄物を宝のようにバックの中に入れて歩く人はいない。
ごみを毎日見て微笑む人はいない。
ごみを自分も隣の人に誇る人もいない。
キストパワールは自分も頼りしていたもの。
イエス・キリストに出会うまで宝と思っていた、最高の価値と思っていた、
そういうふうに扱っていた、排泄にしていたものも、
これは損だ、知り悪さだ、ごみだと、損法だと、
そういうふうに全く生まれ変わった。
それが神聖なんですよ、実は皆さん。
新しく生まれることはそういったものではないでしょうか。
クリスタンはイエス・サマをそう信じて救われて新しく生まれた人です。
だからこの新しく生まれる神聖というものは、
この地上においては自分は死んで、天において自分は生まれたということなんです。
だから生まれ変わる、新しく生まれるという言葉を使う。
つまりそれは今まで自分が従っていた、
あるいは自分の体に、考えに、習慣についていた、
文化や文集や印集やそういったものに従わずに、
神の法則、天の法則に従って生きる生き方、
それが生まれ変わった人の生き方ではないでしょうか。
あるいは選挙に離れたとしたいと思いますけれども、
韓国人としてアフリカのガンビアでかなり昔の1970年代から約30年間、
ガンビアで選挙をされたとても素晴らしい先生がいました。
その先生が帰ってきて、そして本を一冊出しています。そのタイトルが面白いですよ。
気持ち一つ諦められなかった選挙。
30年近くアフリカのガンビアで選挙活動をしてきました。
全ては1970年代のアフリカのガンビアにいたから、本当に全て何かも捨てていったわけなんですよね。
自分もそういうふうに自負していた。
私はもう家さんのために全てを諦めたんですよ。捨てた。
そういうふうに思って、ガンビアでそういうふうに教えました。
27:00
ところが、ある日、ふと自分自身のことを見たら、
もうあのアフリカでキムチが食べたくて食べたくて、
どうか白菜の種を手に入れて、そして小さい畑を作って、白菜を栽培して、
しかもアフリカだから蜜がめちゃくちゃ多いですね。
もう蝕まれて、昔農薬がパキャまくって、白菜も虫も全部殺すほどですね。
それである時は、数ヶ月でキムチが食べられなくて、
韓国から選挙しているのはキムチを持ってきて、
もう余りを食べたくて肉とキムチばかり食べて、お腹焦がったこともあった。
それでその先生が自分自身のことを辞書店みたいに振り返って、その本に書いた。
自分は全てを捨てたと思った。
そのガンビアの人々に、生産ために全てを捨てましょうと教えていた。
なのに自分はキムチ一つすら諦めていない自分があって、
本当に恥ずかしかったというストーリーですけれども。
ある日本の先生の話を聞いて、
一週間アメリカに旅行に行くんですよ。
ところがですね、バッグの中にインスタントの味噌汁、
どん兵衛のポップラーメン、焼きそばのポップラーメンを入れて、
飛行機の中からもそれを食べるわけなんですよね。
ホテルの中でもインスタントの味噌汁を食べる。
皆さん、食べ物は諦めても諦めなくてもいいかもしれませんよ。
ところが皆さん、
その国であろうが、昔から昔から大昔から流れてくる
飲酒、風酒の中には、少なくとも実は多くのシャーマニズム、
偶像崇拝、あるいは侵害と死者に対する崇拝などが実は
混在されているものが多くあるんです。
当時のコリンポもそうでした。
今もですね、コリンポに行ったら、
丘があって、その町が見渡せれる丘があるんです。
そこにあほど神殿の遺跡が残っていました。
足幅ぐらい、ほっと高いところにはほとんどの神殿が建てられたわけなんですよね。
ヒトパウルは、その偶像の星に住んでいるコリンポの神徒たち。
その神徒たちは、外までは上様に愛するまではですね、
彼らはですね、もうそのアフロとかジュースとかその偶像にですね、
拝んでいた人々なんですよね、彼らに。
アフロの神を捨てて、神に従いなさい。
今まであなた方が信じていた全ての神、神々を捨てて、神様に従いなさい。
30:03
今までの生き方を捨てて、変の人に新しく生まれなさいというメッセージです。
それを教えています。
そろそろ祭りになってきますね。
日本全国にあちらこちら、祭りが盛んです。
この前祭りは、もしも結構ですね、いろいろ本を読んじゃいまして、研究もしましたけれども、
その期限は大体サーマニズム、仏像崇拝、そしてそこには一切の崇拝がほとんどその期限にあります。
それがですね、現代風にちょっと変わった祭りもあちらこちらあるかもしれない。
それが混ざっているだけなんです。
だからクリスタルはどんな形であろうが祭り、日本の祭りに関わってはいけませんよ。
ニーフェスティンスとヒロシスティンス以外には、もうほんどきり悪さとしたパオロに習うべきではないでしょう。
ちょっと聖書を開きましょう。
ヘブロギトへの手紙12書1説2説。
新約の440ページです。
ヘブロギトへの手紙12書1説2説。
ではこういうふうに読みましょうか。
こういうわけで、このように多くの聖人たちが子供のように私たちを取り巻いているのですから、
私たちも一切の思いとまつわりつく罪としていて、私たちの前に置かれている教祖を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であるイエスから目を離さないでいなさい。
はい、ここまでです。
このヘブロギトへの御言葉は、私たちに当時のその吊らされているクリスタントたちに、私たちの一切の思いと、その次の言葉ですよ。
まつわりつく罪。まつわりつく罪。絡みつく罪。
それが今まで、人種や風習や文化であって、それが負け悪く自分の生き方に、生活に何か関わっている、
そういったものがもしもあるならば、それはまつわりつく罪であって、それを捨てて走り続けようではありませんか。
というこのおすすめを、この朝聴いていただきたいと願っております。
33:04
ですから皆さん、私たちはイエス・キリストを信じています。アーメネスト。イエス・キリストを信じています。
というのは、今までの価値をすべて知り飽くさ、憤怒のようにする人です。
しっかりと差し切るべきものは差し切って、ずるずるずるずるずる人間関係のために、
ふとからああだこうだと言われることを恐れて、心配して、差し切らないでいてはいけない。
捨てるべきものは捨てて、差し切るべきものはすっかり捨てて、新しく生まれなければならないことは生まれなければならない。
なぜなら、十回だけ見ても、私の丘に神を置いてはいけない。
メッセージをまとめて終わりたいと思います。
神の力に支えられる生き方は、人間の知恵や言葉に支えられるものではなく、
ただ神の力に支えられる生き方、それを頼りにする生き方です。
2番目、イエス・キリストを知る秩序を最高の価値として保管は、