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2017-12-24 29:27

2017/12/24:最初のクリスマス

2017/12/24 聖日礼拝

斎藤亘師

ルカの福音書 2:1-8


00:01
今朝、私は、この説教題に記しておりますように、
最初のクリスマスという題で、この出来事を進めていき、
また、クリスマスの力のメッセージをご一緒に受け止めていきたいと思います。
私にとっての最初のクリスマスというのは、
高校二年生の時ではなかったかと思います。
当時、私は、スレーデンホリデスミッションという、
その団体が開拓をし始めた、バイオロクラスというところに行っておりまして、
そこで、クリスマスという礼拝を初めて経験いたしました。
実は、その夏にライブルキャンプでもって洗礼を受けておりましたので、
特に職家礼拝の時は、別に私が仕上げではないんですけれども、
洗礼を受けた当時の何人かが、聖書を朗読という、
そのことを受けたまって、そして、
私は、いずれや初級賞からの予言のことを一生懸命覚えて朗読した。
そんな記憶があります。
そしてこの職家礼拝、クリスマスイブ礼拝が終わりますと、
そのまま教会に留まって、そして、
明け方と言いましょうか、3時ぐらいに炊き出しのおにぎりを食べて、
そして教会に来ている人たちの家を朝早くキャロリングで持って、
その家の前で3時するわけですね。
私にとりましては初めてのことですから、こんなことするんだなということで、
一つ一つが目新しく、私にとりましては、そういう経験をしました。
そして、明け方5時半ぐらいだったでしょうかね、
教会に戻ってくるわけですよ。
そうすると宣教師が、当時ですから、
とにかくストーブをおで、部屋を温かくしておきますところに帰ってきましたからね、
その温かみと安堵観点でしょうか、
そしてそこで早朝のクリスマス礼拝が行われました。
教会にたどり着きましたときにふっと顔に当たるものがあるんです。
それは小雪が舞いだしたんですよ。
星の穴がキラキラ見えてるんですけどね、
03:02
どこからからの風でもって小雪が運ばれてきたんでしょう。
なんかクリスマスって、えらいロマンチックだねという、
私はそういう人間じゃないんですけども、そんな感じがしました。
星が光って、それで白く雪が舞って、
私はそこで初めてクリスマスの礼拝に出席したんですが、
出席してメッセージ、3日こういうクリスマスキャロルを歌いながら、
宣教師のメッセージが始まってからはもうどこかに意識が飛んでしまいましてね、
気がついたら椅子から転げ落ちて出ていた。
私だけじゃなくて、私と一緒に来ていた友達も同じように疲れと温かみと、
そういうようなことでもって一緒になって転げ落ちて、
気がついたらメッセージが終わっていたというような。
表に出ましたらね、その舞っていました雪が、
その結構な積雪を見とりましたね。
その教会の周りは、ひまれ休みという、
多分港の方に根のついたクリスマスツリーをやったと言っておりますけども、
あのぐらいのサイズなのか、私はこっちは見とりませんからわからないんですが、
結構なけまれ休みなんですよ。
宣教師はそれに今のような電飾の時代ではありませんからね、
いわゆる豆球のカラフルなそれを飾っておりました。
それと雪の広さと、何とも言えないクリスマスムードをそこで経験しましたけども、
私にとっては思い出す最初のクリスマスはそれなんですよね。
初めてですから、何もかもが目新しく経験しました。
それから今日までですね、最近はキャロリングに入るということはありませんけども、
明石一丸の時はキャロリングがなかったんじゃないかなと思うんですね。
だけどその前までの平方希望教会の時代はずっとそれをやりとりましたし、
そしてそれ以前の名古屋市愛心教会、これまた雪の深いところですから、
雪道を歩きながらキャロリングしたことを思い出しますが、
ですから私にとっては初めて迎えたそのクリスマス以来、
キャロリングというのが必ず行われてきたという記憶があります。
そしてこのクリスマスを迎える。
これは誰立て込むことですけども、今の平方希望教会に赴任して、
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そして教会学校を中心にこういう生誕劇が行われます。
その時の生誕劇の開幕の中に寝かせられた赤ちゃんというのは人形じゃないんですよ。
誰かがちょうどその時に間に合うように赤ん坊を産むんですからね、
実際にその赤ん坊を一緒に来てもらって、
そしてそこで赤ん坊を主役にしてクリスマスの生誕劇がありました。
私も今娘がおりますけれども、その子も赤ちゃんの時に同じ役で持って開幕に寝かせられて、
そしてクリスマスの生誕劇のそういう役をしたという記憶を持っております。
それぞれ皆さん方も最初のクリスマスとか、
あるいはクリスマスに関わるいろんな経験や体験やあるいは思い出があるんじゃなかろうかなとそう思いもいたします。
2000年前にイエス様がこういうステージの中でもって私たちの家においでくださったという、
このルカはね、それを本当にルカらしく、生誕劇はだいたいこの箇所が中心ですから、
ルカらしく生誕劇をそこにずっと記録して私たちに今日伝えております。
私はこの2章の必ずと言ってもいいほど読んでまいります、この生誕劇のこの出来事。
この11節を見ますと、
今日ザビデの町にあなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主なるキリストである。
あなた方は幼子が布にくるまって貝箱の中に寝かしてあるのを見るであろう。
それがあなた方に与えられる印である。私はここに大切なクリスマスメッセージをこう思うんですね。
今日ザビデの町にあなた方のために救い主がお生まれになった。お生まれになりました。
この方こそ主キリストです。神様の側のすべてのプログラムと言いましょうか、それをこの一点に集約して、そしてこのクリスマスの出来事を記録します。
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旧約聖書はある意味において見事なまでに、実はこの11節の出来事に向けてそれが一つ一つプログラムされ、そしてそれが進められ、そしてそれは当時の世界を動かしながら、
この日のために神はこの良き事を私たちの内にお与え下さった。
ケアンスという人の教会史の中に彼は当時の世界は三つの点でこの日のための備えをしている。
一つは当時世界を制覇しましたローマ。ご存知のようにこのローマが当時を制覇しました時に、すべての道はローマに通じる。
それはどこでもこの反乱が起き、どこで何事が起きてもすぐにそこに兵隊を送り出して、そしてそれを制圧する。
そういう政治的な意味合いにおいてこのローマはこの事のための貢献をしたんですね。
考えてみますと、パオロはそのおかげでどれだけ当時のこのローマが作ったすべての道においての選挙活動を彼は進めていった。
もう一つはギリシャですよね。ご存知のようにこの新約聖書はこういうねギリシャ語によってまとめられましたし、
そして当時ギリシャ語が今の英語のように世界の共通語みたいにしてそれが使われていた。
ですからそういう点においてもこのギリシャによって生み出されたそういう世界が後のキリスト教にとっての大きな貢献をしている。
そしてもう一つはユダヤ人によるユダヤ教によるそういうことでしょう。
ご存知のようにこのキリスト教の母体はそういうユダヤ教から来ておりますから。
ですから神がこの一つの民族を選りその民族の歴史を通してここに至るプログラムをさらに進めた。
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特にこの当時ローマが制覇しておりましてもあるいはギリシャが一時代を築くようなそういうことをしましてもこれらのものはみんな多神教の世界ですよ。
ところがユダヤ教はこれは一神教ですから。
ですからそういう点によって聖書の持つメッセージが私たちに神は唯一であるということからはですね。
さらに私たちに伝えてきているという点において大きな貢献をしております。
例えばトランプさんがエルサレムをこのイスラエルの人にするということを宣言したものですから国連が大騒ぎでもって日本もその反対側に入りましたけれども
ほとんどがそんなことをしたらもう世界が乱れるということでもやっておりますけれども。
どうしてもトランプさんの考えの中にはあり得てこういう背景が一つにあるのではないか。
やはりユダヤ教によってギリシャ教が生み出されたみたいなんですね。
確かに宗教的な面においてはそうかもしれませんけれども。
それらのことを考えますとね。
この十一節のこのメッセージに向けて神様はそういう一つ一つの言葉らを動員してそして私たちにこの良き方を、この良き死に、そして私たちの救いの成就のためにお使わし下さった。
このことを最初に知ったのは、これは藤原富次夫という方のイエス伝というそれを読んでいきますとね。
クリスマスのそれを目撃したという表現はちょっと違うかわかりませんけれども、しかしクリスマスというこの出来事に最初に出会ったのは、
なんとそのイエス様、このご両親が宿屋に泊まる余地がなかったということでもって馬小屋に案内されて、そしてそこでもってこの方が生まれなさった。
ですから生まれなさったこの方を最初に目撃したのは、その馬小屋に居るその家畜だろう、神様はそういう自然の中においてのね、プログラムのその一つをそこに進めなさったんだということを、その藤原富次夫ということを書いたその本をこう思い出します。
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そして次にこの巫女イエス様にお会いしたのは、この別例語で天使たちの見つけを受けたこの執事会たち、私もイスラエルに参りましたときに、今はベトニーの人たちですけれども執事会をしておる。
で、それを見ながら彼らはいろんなところに移り住んで、そして羊を養っていくわけですね。一緒に行きました、仲の一人が。あのベトニーの人たちはコティシカン勢って何だろうかとかいろんなことを。あら、あちこち行ってるんだからないかもしれないな。
是非としてもそこの一つの箇所に留まってるわけじゃないからねって言ってね、そういう冗談がバスの中でもって返したことを思い出しますけれども。しかし未だに私はイエス様時代のこの執事会の姿わかりませんけれどもね。
あのベトニーの人たちの執事会の様子を見ますと、あの人たちとあんまり変わんないんじゃないかな。全く今の文明文化っていうものから切り離された、そういう中でもって生活をしてる。もうちょっと深く知ってたらね。
あるいはテレビの一台二台を持ってるかわかりません。あるいはスマホ当たり持ってるかわかりませんけれどもね。しかしベトニーの人たちの姿を通して、ああ、あの人たちの姿の中にイエス様の時代の執事会たちが育ったのかな。
そして執事会というのはあのユダヤ社会において最も仮想階級って言いましょうか、そういうアニメで死にかけられた人たち。考えてみますとね、ユダヤ民族の歴史は皆そういう、今のこのベトニーじゃありませんけれども執事会ですからね。
ですからそうかかりがないわけではないわけですね。確かにアブラハムは一国を作りましたし、ダビデはそういう巨大な勢力をそこに反映させましたし、そういう点において大きな働きを後世に残してきておりますが、しかし元をたどれば同じこういう執事会の仲間でしたよ。
しかし神様はこの良き知らせを最初に知らせたのはその執事会たちなんですね。神は御自分の御手の中において一つの民族を起こしなさった。そして起こしなさったその民族はもともとこの執事会。
18:10
しかし神はここに立っては、この執事会たちを通して、あるいは執事会たちにこの良き訪れをまず知らせた。別れ無にすぐ一般のユダヤ人たちはそのことを知らなかったんですね。
いや、彼らは知っていても、あなた方がここで持って留まるところはありませんよと言って、余地がないために馬小屋に家畜小屋に案内されたぐらいですから。
まさかね、そんな使いを受けたこの人たちが子供らにキリストを拝みなさるなんてことは、もう想定外どこではない、全く思いもしなかったことからであったと思う。
しかし神様は想定外のこの出来事、一般の人たちが思いもつかなかったようなことから、特にイスラエル民族の先祖とも言うべきこの執事会たちにそのことを知らせたというのはね、
やっぱり神様の選びという中には、生まれがどうあっても、あるいはどのような経過をたどっても、神様はこの一点にずっと目を向けて、そして御計画を進めなさったんだなという、そういう思いをしますよ。
選ばれるはずのない執事会たちです。私は誕生の場所として家畜小屋が、そしてさらには産声を上げる貝場家が選ばれたという。
そして人類においては、この執事会たちがそこに選ばれた、こうした事柄がもしなかったならどうなんだろうか、自分に当てはめて考えてみますとね、選ばれるはずのないような、そういうものが60年余り前に大勢の中から特に覚えていたい。
どこにこの見どころがあるわけではない、どこかに何かそういうね、作れたものがあるわけではない、そういうものを神様の側においては既に選びの中において覚えていただいて、そしてこの方を私のためにお使わし下さった。
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執事会たちが最初のクリスマスのメッセージを聞いたように、私にも神様はそのメッセージをお与え下さってね、そしてイエス様のこの救いに向かう道をあいまして下さった。
飲みながらず、このイエス様をお伝えすることができる証人として選んで下さった。それが執事会、当時の執事会であり私たちなんです。
執事会たちは言われたとおりベスレームに行って、そしてやっとの思い出を持って救い主がお見下さったその救い主にお会いした時に、彼らはそこでどういう対応をしましたか。
十六節から見ますと、そして急いで行ってマリアとヨセフと会話を受けに寝ておられるミドリゴトを探し当てた。それを見た時、執事会たちはこのおさなごについて告げられたことを知らせた。
それを聞いた人たちは皆、執事会の話したことに驚いた。確かこの執事会たちは自分たちに告げられた言葉を、それを聞いた人たちというのはこれはヨセフでありマリアなんですけれども。
先に自分たちに、精霊によってこの方を家に宿すということをマリアは聞きましたし、ヨセフもまた少し遅れましたけれども、マリアの家に宿るのはそれは精霊によるんだということを知らせておりました。我々だけではない。
第三者の証言として神様はこの数人のこの執事会たちを選んで、そしていまち軍たちのうちになされた神様のおばさんが、まさにこれは私たちにとってどんなに大きなことか、私たちの救い主として、
今日ダビデの街であなた方のために救い主がお前になりました、この方ことキリストであるということを、この執事会たちを通してヨセフもマリアも、さらに第三者の証言としてこれを聞いたときに、自分たちに与えられた、いだめられたその技がどんなに大きなことか、このヨセフマリアにとってもそれは喜びでした。
そしてまた執事会たちはこの二人にそのことを告げると、彼らはさらにそこから別の辺りの街へ行って、そしてここに少し先ほどは十八節まで読みましたけれども、二十節を見ますと、
24:25
執事会たちは見聞きしたことが全部御使いの話した通りだったので、神をあがめ賛美しながら帰っていった。彼らは信じた言葉をそのまま受け止め、そして救い主にお会いした。
そして同時に自分たちに表された言葉を今度は人々にも、別霊部の人々にもそのことを伝えた。そして彼らはこの二十節、もう一度お見えいたしますが、執事会たちは自分たちが見聞きしたことが、見て聞いたことが全部その通りだったので、
彼らは神様を本当に心からあがめ賛美しながら帰っていった。行く時の不安は除かれ、救い主に出会ったというその喜びの下でもって、本当に神様を心からあがめながら、私たちはこのことを今、本日的に経験しているわけです。
何もわからない、そういう状態でもって教会に行き、そして聖書が解き明かされ、そして半信半疑のままでもって、じゃあ信じてみようかなというようなあやふやなところがありましたけれども、それでも神はそれをよしとして、しかし結果は違いました。
半信半疑のまま帰ったんじゃなくて、本当にそこでもってイエス様を信じて、本当に私に与えられた救いなんだなということをわかって、そしてそれからの以降の、今日までの人生において神様は約束された事柄がどんなに大切なことであり、またそれがどんな形でもって行受されてきているか、それを今私たちは経験させていただいている。
私たちもこの知事会から人になって、この方にお会いしてから、本当に神様を崇めて、そして行く時と帰る時では全く違う自分のそれをそこに見るわけですね。
私は先ほど、朝日新聞のそこにこれをちょっと紹介しようかなと思って、そして挟んでいたんですが、それは大変面白い事柄がそこに書いてありましてね。
27:43
どこへ?どこへ?新聞のちょっとした端切れですから。
それは聖書というタイトルでもって俳句が読まれましてね。何は竜山と言うんでしょうか。
ここにね、こういう言葉があるんですよ。聖書を読む僕は昨日の僕でない、聖書を読む僕は昨日の僕でない。
まさに私たちは今日において、本当に聖書に出会い、イエス様を知る、そしてそのおかげでもって、昨日までの自分ではなくして、
今日は本当にイエス様を心から信じて歩むことができるようになったという新しい自分をそこでもって見出した。
作者は多分そういうことをね、聖書を読む僕は昨日の僕でないということにおいて表しておるのかと思います。
もう一つは、あの日から僕は聖書の虜です。そういう句もあります。
あの日から僕は聖書の虜です。聖書に出会い、聖書によって助け主に出会った私たちは、それから帰られて、そして今に至っている。
クリスマスはそういう諸々の祝福を私たちにお与えくださっております。お祈りをいたしましょう。
29:27

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