2023-04-30 26:51

#イエス様の休息 23/4/30

マルコ-39からの礼拝説教。2023年4月30日録音。日本では昨日4月29日から大型連休に入りました。今日の箇所ではイエス様がお休みを取られたと見受けられる箇所です。さらに今日の箇所の中には「メシヤの秘密」というキリスト教神学の専門用語があります。まずそのことを、そしてその後、私たちの疲れを癒す秘訣としてイエス様の休息に関わることに触れます。1.メシヤの秘密、2.人として祈られたイエス様、3.荒野と働きを行きしたイエス様、3つの点から学びましょう。


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00:07
マルコの福音書1章29節から39節、新海約聖書2017年版でお読みします。
一行は、街道を出るとすぐにシモンとアンデレの家に入った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
シモンのシュート目が熱を出して横になっていたので、人々は早速彼女のことをイエスに知らせた。
イエスはそばに近寄り、手を取って起こされた。すると熱が引いた。彼女は人々をもてなした。
夕方になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人々を皆、イエスのもとに連れてきた。
こうして街中の人が都口に集まってきた。
イエスは様々な病気にかかっている多くの人を癒された。
また多くの悪霊を追い出し、悪霊どもが物を言うのをお許しにならなかった。
彼らがイエスのことを知っていたからである。
さてイエスは朝早くまだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけていき、そこで祈っておられた。
するとシモンとその仲間たちがイエスの跡を追ってきて彼を見つけ、皆があなたを探していますと言った。
イエスは彼らに言われた。
さあ近くにある別の町や村へ行こう。私はそこでも福音を伝えよう。そのために私は出てきたのだから。
こうしてイエスはガリラや全域に渡って彼らの街道で延べたえ、悪霊を追い出しておられた。
以上です。
今日はこのところから、イエス様の休息と題して見事を取り継ぎます。皆さんおはようございます。
日本ではですね、昨日からですか、いわゆる大型連休に入ったということであります。
コロナが語呂になるのも間近ということで、様々な規制が緩和されてですね、実家に帰る方なども多かったと思いますが、
今日の出来事は戦死の続きでしてね、ペテロが実家と言いますかね、自分の住んでいる家にシモン・ペテロがイエス様とともに入った。そんな出来事です。
その戦死の続きでですね、ここに図がありますけれども、
このイエス様はですね、このガリダヤ地域というところを主に3年間の活動の場所としましたが、その中でも特にですね、このカペナームというところ、
03:15
今日出てくるこの街が活動の拠点になりました。
前も言いましたが、場所的にはですね、こうやって西アジアがあって、そこにイスラエルがあってですね、その中のこの小さい湖がガリダヤ湖ですね、ここですね。
このカペナームという街での出来事が今日も続いているわけです。
それでですね、その中で街道で戦死を教えて、そこに悪霊につかれた男がいてですね、その安息日に教えて、その悪霊を追い出したという出来事が。
街道の土曜日なんですけれども、朝このように礼拝をしてですね、そしてその終わった後にイエス様とシモンはペテロですね、そのシモンと兄の兄弟アンデレの家に入られた。
そこにヤコブとヨハネの4人の弟子が一緒に行った。
そこでですね、ペテロの奥さんのお母さんシュートメが熱を出していて、その熱をイエス様が癒されたという話です。
で、その日が安息日が明けるまで、土曜日が明けるまでですね、一定の距離、おそらく1.56キロだと思いますけど、そのぐらいの距離しか移動しちゃいけなかったんです。
安息日が明けると自由に行き来していいということで、当時は夕方がその日の終わりですから、土曜日の夕方以降ですね、そのイエス様の噂を聞きつけた人々があそこにいるということでペテロの家に押しかけてきた。
戸口に街中の人が押し寄せたという話でした。
そんな中でイエス様が文字通り忙しく癒しの働きをした。
日本では連休に入りましたけど、そのイエス様は大きな働きの後に休息を取られたようなことが今日の箇所で見受けられるわけなんですね。
そこのところをですね、今日取り上げていきますが、もう一つ今日の箇所ではメシアの秘密というキリスト教信学の専門用語があるんですが、それに関わる出来事が初めて出てきます。
そのことを最初に見て、そしてイエス様の休息ということと合わせて、いつも通り3つの点から学んでいきましょう。
まず最初ですね、これさっきの図ですが、いろんなモチーフになっているんですけれども、ある教会のステンドグラスにですね、イエス様がペテロの習得を癒したというところがこのようにも使われている場合があります。
さあ今日の本題ですけれども、まず最初にメシアの秘密ですね。ちょっと読める方、読んでみましょうか。
06:02
1章34節3、イエスは様々な病気にかかっている多くの人を癒された。また多くの悪霊を追い出し、悪霊どもが物を言うのをお許しにならなかった。
彼らがイエスのことを知っていたからである。
先週見たこの街道でイエス様が悪霊に疲れた男と対面した時、その男はですね、悪霊が言ってますけども、あなたは神の聖者ですと言いました。
でもイエスはその男に対してというか悪霊に対して黙れと言って、それ以上言わせなかった。
イエス様の正体を公に宣言したようにも見受けられたんですが、黙れと言ったわけです。
そして今日のこの34節ではイエス様はですね、悪霊どもが物を言うのをお許しにならなかった。
彼らがイエスのことを知っていたからであるという、実は同じことをここでも詳しく述べています。
ここではですね、どういうことかというと、悪霊どもがイエス様が救い主である、あるいはそれと似合わせるような発言をすることを許さなかった。
たとえその悪霊どもがイエス様の正体を知っていたとしても、それを言うのを許さなかったということです。
このイエス様が悪霊などに自分の正体について発言を許さなかったということを、メシアの秘密という、キリスト教の中で専門的な言葉として言われているわけなんです。
なぜ、正しいことを言っているのにそれを言わせなかったのかということをぜひ覚えておいてください。
それはですね、悪霊による不本意な発言だったからだということです。
その敵対するような意味で、お前は神の聖者だとこの間述べた。
今日も多分そういうことが文章の背景に言われているわけです。
別の言い方をすればですね、そこにはですね、ここに詳しく書いてありますけれども、このような大事な意味があるわけなんです。
こういう真理がこの背後にあるわけです。それはこういう真理。
イエス様が救い主であるということは、イエス様の受難と十字架、そして復活の光を通してでしか正しく理解できないという背景です。
よく言う受難のメッシャー。何が言いたいか。
09:00
すなわちですね、イエス様が救い主であるという意味が、受難や復活という、そのところを正しく受けなければ、イエス様が救い主であるという意味を誤解するというのです。
どういう誤解か。それは単なる病気を治すご利益信仰になり下がってしまう。
そういう危険があるから、イエス様のメッシャーとしての正しい理解が、その発言に伴っていないから、イエス様は、まあ今日で言えば悪霊に黙れと言ったわけです。
よく私たちの教会でも取り上げている岩手学会での日野浩先生のいろんな名言の一つにですね、何を言ったかよりも誰が言ったかが大事ですっておっしゃるんですね。
公演でよく言うのは、戦後でしょうか、柳原忠夫さんという東大の総長がですね、国会に呼ばれて、そして何か証言なり発言をしたときに、矢字が飛んだ。
その矢字があまりうるさかったときに、柳原先生は何と言ったか。その柳原忠夫さんというのは、もちろん無教会派ですけどクリスチャンだった。
その柳原さんが、その矢字が止まないですね、議場に向かってこう言ったんです。
私がいい加減なことを言うと思うか。
そういうふうに言ったらですね、しーんとなって、その矢字が止んだ。これは良い例なんですけども、発言というのはその言った人の意図とか言った人の人格ということと切り離せないということです。
ちょっと難しくなりましたけれども、今日言うこのメッシアの秘密ということはですね、イエス様が救い主になるということを十字架の苦しみと、そして復活の勝利という、それに対する正しい理解や信仰がなければ、誤った方向に導かれてしまう。
それを避けるためにイエス様はあえて、ここではアクレアに黙れとおっしゃったというわけです。
このメッシアの秘密ということ、今日初めて出てきましたけど、これから何度もマルコの中で出てくる大事なテーマというか、モチーフなんですね。
だからぜひまず今日初めて出てきたこととして覚えておきましょう。それが一つです。
聖書を理解する上での基礎知識として捉えておいてください。
じゃあ2番目、イエス様の救足というところをこれから見ていきます。その中でイエス様は2番目、人として祈られたイエス様ということですね。
1章の35から37節、ここまで最初の一文だけでいいましょうか。
さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて、寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。
12:05
ありがとうございます。このマルコの福音書にはイエス様が祈る、寂しいところで祈るという場面が頻繁に出てきます。
そこからイエス様について、そのイエス様の本質的で大切である一面が読み取れるわけなんです。
それは何か。それはイエス様が神の御子であられますけれども、と同時に完全に人であった。
罪以外には私たちと同じ人間であったという、それもキリスト教信学でとても大事な出来事をこのことから垣間見ることができるわけです。
それが私たちとの、私たちの信仰や祈りと関係してくるわけなんですけれども。
ある学者はですね、この場面のイエス様について、こう表現しているんですね。この青い字である。
イエス様は祈られた。どういう時?イエス様はストレスを感じる時、誘惑の時、決断の時に、
イエスは力と導きを求めて神に祈ると言われています。
このようにですね、ストレスを感じ、誘惑を受け、決断したきゃならない時に祈り求めるというのは、私たちと同じですよ。
皆さんもそういう経験あるかと思います。そのイエス様の祈り。
このようにイエス様は私たちと同じ人間でですね、人間として罪はなかったですけれども、この弱さを知っておられたということなんです。
この先ほどのですね、カペナウムの町で、ペテラの家に、その家の玄関に多くの人が押し寄せたという出来事があります。
そこでイエス様は、朝、街道で悪霊に疲れた人を癒し、そしてその午後か夕方ですか、ペテラの家に行って、今度はペテラの仕留めを癒し、そしてそれを聞きつけて、時間が許すようになった時にですね、多くの人がイエス様のもとに訪れた。
そしてそこに訪れてきたですね、多くの人を文字通り癒されたと聖書にはあるわけです。
ある学者に言わせるとですね、もしかしたらイエス様はこの霊の働きをして脱力感を感じたのではないか、疲労を覚えたのではないかという人もいるわけです。
このようにですね、何がわかるか、イエス様は神様であられながら、人としてこの地上へ生まれて、私たちと同じこの弱さ、疲れ、そういうものを体験されたということです。
15:12
そしてその私たちと同じ弱さを知っているイエス様、そのイエス様の祈りに触れてですね、だから私たちも祈りましょうという、その招きの聖書の言葉を見てみたいと思います。
エブルの4の15から16節
私たちの大祭司、つまりイエス様は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯しませんでしたが、全ての天において、私たちと同じように、試みに憐れたのです。
ここから読んでみましょう。
ですから私たちは、哀れみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
私たちと同じ弱さを知っているイエス様が、鳥なし、祈りを聞いてくださるのだから、恐れることなく大胆にですね、
おりにかなった助けを受けるために、哀れみや恵みを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。という言葉です。
そう言い習って、私たちも試練の時に、疲れた時に、祈りによって神の前に行きたいと思います。
最後、荒野と働きを行き来したイエス様。
イエスは彼らに言われた。さあ、近くにある別の町や村へ行こう。私はそこでも福音を伝えよう。そのために私は出てきたのだから。
こうしてイエスは、ガリダや全域に渡って、彼らの街道で述べ伝え、悪霊を追い出しておられた。
1章38節から39節。イエス様の働きが始まってきました。
大やけにですね、神の国が近づいた、喰い温めなさいという宣言から始まってですね、弟子を召して、そしてこのカペナームの街道に入って癒しをなさった。
今度はこの個人的なペテロの家で癒しをなさった。そしてそのカペナームの街中の人が集まってきましたけれども、その後ですね、イエス様は祈っていて、さらにそのカペナームからガリダや全土に行こうということをここで宣言されたことがわかるわけです。
そこで注目することはですね、イエス様はアラノにシリゾー行ったということなんです。
このですね、先ほどここにはちょっと書いてないんですけども、前の時見た35節のイエス様が、イエスは朝早く、また暗い家に起きて寂しいところに出かけていき、そこで祈っておられたというところですね。
18:09
寂しいところ。これはですね、元の聖書のギリシャ語で見ると、エレーモスというですね、アラノという、まったく同じ言葉です。
本当はここはイエスは朝早く、また暗い家に起きてアラノに出かけていき、そこで祈っておられたという。
実はイエス様がバグテスマを受けて、そしてメッシアだというお披露目された後にアラノに導かれましたね。そこと交往してるんです。
そしてアラノにイエス様はバグテスマを受けて導かれて、そこで誘惑も受けましたが、御使いが使えた、いろんな説があるんですけども、誘惑に耐えながらですね、その誘惑に耐えたふさわしいメッシアとして訓練を受けたり、また神と深い交わりを持ったのではないかと言われています。
それでそのアラノからスタートして、先ほど言ったカフェナームに入って今に至っているわけです。
で、先ほどちょっと言いましたけれども、39節にあるように、ここからガリラヤ全域に出ていく。
その前にイエス様はアラノで祈っていた。そのアラノで祈る前は、ペテロの家でたくさんの人を癒したという大きな働きをしたわけです。
だから、この洗礼を受けてアラノに行って、そして弟子たちを召して働きを始めて、またカイドウに入って、ペテロの家で大きな働きをして、またアラノに戻って、そして今度さらに大きな働きに行くというイエス様のですね、働きとアラノの生き気が読み取れるわけなんですね。
で、そのアラノと働きの間を行き来したイエス様、それにはですね、このような意味があるんですね。
これさっき言ったことのあれですね、鈴木がパワーポイントに出てますけどもね。
洗礼を受けて、そこでお披露目がありました。そしてすぐアラノに導かれた。そしてその導かれた後に神の国宣言をして、宣教の最初の言葉が発せられて働きが始まった。
そして今日の箇所では、さっきも言いましたが多くの人を言い出して、そしてガリラやゼンドに福音を述べ伝える前にイエス様がアラノに戻られた。
このアラノと活動の間の生き気が繰り返されていることがわかるわけです。
それにはこういう意味があるんですね。
21:00
働きや忙しさと祈りの関係。
イエス様は大きな働きや忙しさの間に、今で言えばブレイクを一息入れた。
そういうことが見て取れるわけなんです。
そしてブレイクを取って次の働きへと出て行かれたということがわかるわけなんですね。
ここではですね、またある学者が言うにはですね、イエス様はもしかしたら誘惑に直面していたんではないか。
ペテロがですね、祈っているときに先生多くの人がまだ私の家に来てますよって呼びに来た。
でもよく見るとイエス様はそこに戻ってないんですよ。
もっと先に行こうって言ってます。
そこでどんな誘惑があるかというと、そこにまた多くの人がいるところに戻っていって、
学者が言うにはご機嫌取りの働きをする、そういう人気取りの働きをする誘惑があったんではないかと言われています。
まあこれらのことからですね、よくわかるのは私たちもですね、働きばかりだと身が持たない。
まあ私は最近疲れやすくなりましたけれども、体力的にはそういうことがあるかもしれません。
また疲れてくると誘惑に陥りやすいという、そういうことがあると思うんですね。
そんなときには文字通りブレークが必要です。
ピッとカットを食べるもよし、まあ私は食べませんけれどもね。
で、そのようなブレーク、さらにそこで静まって神様と交わる時間が必要だということです。
その神様と交わる時間、静まって交わる時間、祈りや聖書の言葉をもとにしてですね、
そういう神様とのリトリートを持つもよし。
神は神様が想像された自然の豊かさや、神が作られた生き物のですね、
この愛おしさ、そういうものに眺めたり触れることによってリフレッシュする。
まあなぜ私たちが山々を見て、クリスチャンはもちろんクリスチャンでもない人が素晴らしいと思うのか、
何だろうと思います?
それはね、非造物として共鳴しあっているということですね。
自然も神が作った。自分も神に作られた。
その非造物として人間はですね、神の作られた別の自然を見て感動して共鳴しあっているというんですけれども、
そうやって自分が神に作られたものであるということを確認する時間も必要かもしれません。
そのようにして、神様にあって安らぐときということが必要だということです。
もう亡くなられましたけれども、西留科国際病院の元理事長の日野原重明先生、
24:00
お父様が日野原善介先生という牧師ですよね。
その日野原善介先生がアメリカ人の牧師の祈りの本を訳したんですね。
その中に、今日最後述べたことと関わる祈りがあるので紹介します。
聖なる父よ、私はあなたに向かって平安を求めます。
どうぞ多忙な日々が私を苛立たせないように、
どうぞ平和の中に落ち着きますように、
この日全ての小さな心遣いから、また全ての煩わしい野心から解き放ってください。
そういう祈りです。
そして最後に、神にある平安ということを覚える見言葉を四篇から読んで終わりにしたいと思います。
四篇の四篇の八節です。
読んでみましょうか。
平安のうちに、私は身を横たえすぐ眠りにつきます。
主よ、ただあなただけが安らかに私を済ませてくださいます。
ゴールデンウィークに入りますけれども、そのような連休であろうがなかろうが、
私たち主にあって、祈りのうちにあるいは様々な形で安らかに力を得るお互いでありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、皆お賛美いたします。
イエス様がますます有名になり、働きがどんどん前進していく、
そのような様を知ることができて感謝します。
しかしそのような中におきましても、
イエス様は静まり、自信ある神と交わり、新しく命を養う、
そのような時を過ごされたと知ることができてありがとうございます。
私たちも多忙な日々を過ごしておりますが、
どうかそのような時にあなたに会って、
回復する、本来あるべき姿を取り戻す、そのような体験をすることができるように、
どうぞ私たち一人一人にあなたとの交わり、あなたの安息を与えください。
このようなあなたの幸いな身教えに感謝して、
私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは黙祷して、しばらく御言葉に応えましょう。
26:51

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