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2022-07-24 34:12

2022/07/24:天の開かれた生涯

2022/07/24 聖日礼拝

福本行弘師

ヨハネの福音書 -51


00:00
お祈りをお捧げ致します。
永遠の聖霊によって、分身を傷なき者として神に捧げられたキリストの血は、
なおさら私たちの良心を清め、死んだ業を取り除き、生ける神に使えるものとしないであろうか。
アレリア、めぐみゆかい、天の父なる恩神様、あなたのお測りしえない素晴らしい限りなき御愛とともに、
私たちの罪を許すために十字架で命を捧げ、血を流してくださったイエス・キリスト様の
お測りし得ることのできない御愛、そして尊い力強い権威ある御名前とともに、
救われし全ての者のうちに御内心をくださっている聖霊様を崇めて心いっぱい賛美致します。
今日は富永選挙主の貴重な選挙報告を受けたまわりました。
私どもが経験することができない、測り知ることのできない私にとっては、
次元の世界のように感じる国々にイエス様の福音を携えて多くの苦難がありましょうが、
その中で堂々と福音を伝えていらっしゃるその姿を映像を通し、また先生のお口を通して、
その素晴らしい貴重な働きを見させていただきました。
どうかこれからの先生のお働きを豊かに借りに祝してくださり、
03:03
またこれまでにない困難な戦いがあるかもしれませんが、
先生の霊長、大長を十二分にお届けくださって、
彼女にまた派遣してやることができますように心からお祈りをいたします。
私どもは直接そうした国々に行って、イエス様の福音を伝導することはできませんが、
背後にあって熱き祈りとともに、真心からなる温かい捧げ物をもって、
先生とともに宣教の恵みに預かることができますようにお待ちくださるようにお願いをいたします。
今日もまたこの明太二教会という神の家、ベテルのもとで
誠の神様を礼拝できます御恵みを感謝いたします。
ただいま鈴木一子姉妹に呼んでいただいた、
両根の福音書の御言葉から、
共に生ける誠の神、希望の神に強く希望をいただいて、
この大変な難しい時代を一共に乗り越えて生かしていただきたいと願っております。
どうか今日もユン先生、半田先生お子たちのために、
なお良き導きと御助けを賜りますように、
今またコロナウイルスの感染が急増しておりますが、
どうぞ神様この日本を世界へ憐れんでくださって、
何とかできるだけ早くこの感染が終息に至りますように、
目に見える現実がどうであろうとも、
全ては神様の主権のもとにありますから、
どうかあなたの最善と思われる御心を成してくださるように、
ひたすらにお祈りをいたします。
今この霜日を清めてくださって、
あなた様から与えられた恵みの御言葉をお伝えすることができますように、
06:00
お助けください。
主にある兄弟姉妹たちの切なる願い感謝に合わせて、
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
今日は三上兄弟からアナウンスがありましたように、
天の開かれた生涯というテーマで、
三つのポイントを挙げてお話をさせていただきたいと思います。
まず最初のポイントは、
身を、罪を取り除く神の子育児。
おそらく皆さんもご存じかと思いますが、
ヘブル賞の9賞、10賞あたりには、
旧約時代にイスラエルの民が、
自分たちの罪を許していただくために、
動物を犠牲として捧げた。
そして祭壇に流された血を見て、
私どもの罪が許されたと信じました。
しかし、実際は目の前の動物の血が、
私たちの罪を許す力があるとか、
あるいは命を与える権威があるとか、
ということは決して思っていませんでした。
彼らはその儀式を通して、
遥か彼方に真子の目を向けていたのであります。
その真子の目とは、
やがて来る本当のメシア、
イコールキリスト油注がれた、
乙女マリアから、
精霊によって生まれなかった、
巫女イエス・キリストを真子を持って見ていたのです。
神の立法に従って、
あがないの儀式を営んでいましたが、
それはあくまでも来るべく、
本体の予防にすぎませんでした。
またお家で時間があるときに、
ぜひ呼んでいただきたいのですが、
今私が申し上げたことは、
ただいまのヘブル書、九書、十書、
特に九書の11から14あたりを、
何回も読んでいただきたいと思います。
一つの実例として、
アブラハムは、
神様からの約束を受けて、
その約束を固く信じ続けていった人です。
つまり彼の生涯は、
09:00
神と共に生きる天の開かれた生涯でありました。
どんなに四方八方を下がっていても、
いつも彼は上を見て、
つまり天の主、神様を見つめながら、
歩んでいた人であります。
この見よという言葉が、
ヨマネの福音書の1章の29から、
1章の51節まで、
12回出てきます。
もし差使いなければ、
まあ差使いないと思いますが、
見るという言葉に丸を付けて、
くださったらよく分かります。
この見るという言葉は、
以前もお話したと思いますが、
えっけほもという言葉です。
このえっけほもという言葉は、
穴を開けて、
ドリルか何かで穴を開けて、
じーっとその穴の中を見るという意味があります。
じーっとその穴の中を見つめる。
つまりそれは、
アブラハムの生涯であり、
また私たちにとって天の開かれた生涯。
これが2つ目のポイントです。
現実の諸々の出来事に、
私たちは豪走しやすいものです。
でもそういう現実の中で、
神様の約束に、
しっかりと生きていくのが天の開かれた生涯。
もちろんそのアブラハムでも、
神様は信じ損ねたことがあるんですね。
つまりその神様は必ず、
妻のサラとの間に、
約束の子供が与えられるよと何回も、
神様から言われていた、
約束されていたにもかかわらず、
彼は焦ったと言いましょうか、
父の目でありました、
ハガルを迎え入れて、
生まれたのがイシマエルであります。
今日私たちも、
神様の御言葉約束をしっかりと信じておりますが、
なかなか皆さん正直、
何年経っても私たちは、
12:01
信仰者としてやすやすと、
現実の世の中に生きていくということは、
大変難しいと思います。
ですから、
生ハンカーな信仰では、
なかなかまともなクリスチャン生活は、
できないと私は思います。
つまり、
失敗してもしくじっても、
現実がどうであっても、
とにかくいつも身を、
見るべきお方を、
じっと見つめながら、
つまり、天の開かれた生涯、
これをやめない限り、
神様は希望の神様ですから、
必ず、
信仰生涯を、
全うさせていただくことができると、
私は信じております。
エグビー・マイヤーという方の、
教の力という、
著書の中にあったお話ですが、
川の流れには、
三種類の流れがある。
皆さん、
自分は、
クリスチャンとして、信仰者として、
自分は、
どういう川の流れに属するのかを、
自分の心に、
言い聞かせて欲しいのです。
一つの川の流れは、
チョロチョロとした流れである。
エグビー・マイヤーという方が、
教の力という本の中で、
おっしゃっていることです。
チョロチョロとした流れ、
これは、
途切れがちな信仰で、
すぐに諦めてしまう人。
二つ目の流れは、
ザワザワとした流れ。
そこがあたく、
あっちへ行ったり、
こっちに行ったり、
フラフラとしている、
落ち着きのないクリスチャン。
三つ目は、
堂々とした流れである。
これは、
見るべきお方を見つめつつ、
つまり、
天の抱かれた生涯を歩みつつ、
目標をしっかりと定めて、
その目標を目指して歩むクリスチャンである。
15:00
私は、
この本を読みながら、
あるいは聖書の言い言葉に、
自らを照らしながら、
クリスチャンの、
できるだけですね、
できるだけクリスチャンの
修行生活というものが、
健全に、
しかも、
倒れても、
つまずいても、
とにかく、
起き上がっていく。
そのためには、
精霊と御言葉の助けとともに、
祈りが不可欠である。
つまり、
教会生活、
これをなくして、
これなくして、
私たちクリスチャンが、
健康的な信仰生活することは、
まず不可能ではないかな、
教会生活。
教会生活というものが、
これは礼拝とか祈祷会ですけれども、
教会生活があるから、
私たちは、
ここに帰ってきて、
息を吹き返すことができるわけです。
安息日をおぼえて、
これをせえとせよ。
はるか昔、
神様が孟子に与えられた
実会の中の一つでありますが、
これは、
昔話ではなくて、
現在も生き生きと、
生きている神の御言葉です。
私たちは、
立法的になる必要はありませんし、
規則的になる必要はありませんが、
でもやはり、
私たちは安息日をしっかりとおぼえて、
これをしっかりとキープする。
どうしてもやむを得ない場合は別ですが、
先日もお話ししましたが、
クリスチャンは、
聖霊と御言葉に助けていただいて、
誰よりも努力する必要があります。
祈る努力、
聖書を読む努力、
あるいは伝道する努力、
そして、
教会生活、
礼拝を守る努力は必要です。
イスラエルがバビロン保守から、
18:08
エリサレムへ帰還するために、
異教の王クロスが、
神様の啓示と言いましょうか、
神様の導きをいただいて、
帰還するわけですが、
つまり彼らにとって当時、
クロス王は、
イスラエル・エリサレム帰還のお住み付きでありました。
私どもにとって、
お住み付きは言うまでもなく、
十字架と復活のキリスト、
このお方が絶対的なお住み付きです。
ところが、
このお住み付きであるイエス様、
私たちのために、
全ての命を捧げてくださった、
なくてならぬ、
神の子筆イエス様を、
みんな捨ててしまったんです。
罪を取り除いてくださる神の子筆。
しかし当時の偉大人たちは、
おととい偉大人たちは、
覗け覗け、
こんなものは捨ててしまえと、
叫びながら十字架につけて、
殺してしまったんです。
イザヤシャの五十三章、
これはイエス様の十字架を、
全面的に預言している預言でありますが、
この前このイザヤシャの五十三章、
かなり詳しく解説しましたので、
今日はその一つ一つは詳しく解説はしませんが、
一言で言えば、
イザヤシャ五十三章は、
私たちの罪を全面的に許し取り除いてくださった、
かけがえのないこのイエス様を、
ゴミのようにゴミだれに捨ててしまった。
いやそれは当時の多くの偉大人の罪であるとは言えません。
21:00
私の罪、そして大変失礼ですが、
ここにいらしている全ての人の罪、
否、全時代の全世界の全ての人の罪が、
除け、除けと叫びながら、
イエス様を十字架で殺したと言っても、
決して間違いはないと思っております。
そのイエス様は、十字架の上で、
エリエリレマサバクタニ、
父よ、彼らを許してくださいとお祈りする前に、
どうして私をお召し上げになったのですかと、
彼は叫んだのです。
イエス様は、なぜ皆さん、
エリエリレマサバクタニ、
私をどうして神を捨てたのかと、
恨み事を言ったと思いますが、
決してそうではないです。
このイエス様の叫び、
この叫びは実は、
罪のために滅べてしまう人々の、
地獄の叫びであります。
神を信じず民に偲いた、
滅びていく人々は、
かの闇の世界でこう叫ぶのです、みんな。
どうして私を捨てたのか、
それは滅びていく人々の魂の叫び、
それをイエス様が全部背負ってくださった。
悲しみの人で病を知っていたというのは、
そういうことです。
罪がどんなに恐ろしい結末をもたらすのか、
そしてそのイエス様は、
十字架で死んで、
お墓に葬られたけれども、
死人の家からよみがえりまして、
復活して四十日後、
天の神の身体に出した、
そのイエス様は、
今もなお、
私たちのために一生懸命取り成してくださっている。
私は、皆さんもそうだと思いますが、
イエス様が今日も私のために、
私の家族のために、
祈っていてくださる。
石巻教会のために、
明治谷教会のために、
またすべての教会や、
24:01
クリスチャンだけではありません、
全世界のすべての人のために、
イエス様は祈っていてくださる。
僕らへのためにも、
大変なことを本当にしてしまっている、
ロシアのためにも、
イエス様は祈っていてくださる。
そしてもう、おそらく、
イエス様はもうたまらなくなって、
立ち上がって、
祈っていてくださるんじゃなかろうかなと、
いつも私はそう思いますよ。
誰よりもご存知であるイエス様が、
コロナの収束のためにも、
祈っていてくださる。
もうみんなが、
国を改めて、
神のもとに帰ってくるのを、
イエス様は誰よりも、
祈っていてくださる。
ステファナが、
十九の詩を説ける直前に、
神の御座から、
立ち上がっている、
イエス様が見えると言いました。
私はステファナを本当に、
立ち上がって祈っている、
イエス様を見たと思いますね。
今も同じイエス様。
じっと座って、
あぐら組んで、
のんびりとしている、
イエス様ではない。
今も一生懸命、
祈っていてくださる。
キブリ書の七章の、
二十四節から二十七節のところに、
私たちの誰もが、
キリストを必要としている。
キリストを必要としていない人は、
誰もいない。
お話を終わりに持っていきたいと思いますが、
これは私が、
私の話というよりも、
カトリック教会のある聖書学者の方が、
表した本の中にあったお話です。
その聖書学者が、
27:01
こういうことをその本の中でおっしゃっていました。
2002年10月31日付けの、
アサヒ新聞社会欄の記事である、
アサヒ新聞の記事ですね。
ビッグバン直後の星発見される。
この星は、
ビッグバンの証拠になるそうである。
科学の進歩は実に目を見張る。
宇宙の起源を、
理論的に解明したビッグバン説を、
さらに強める証拠があがった。
アサヒ新聞の記事ですよ。
本当にこの宇宙は、
ピンポン台の球から発生したのであろう。
この理論を発見した人知の脅威は大きい。
ここまでがアサヒ新聞の記事です。
その記事に対して、この聖書学者はこう言っています。
私は心から尊敬します。
しかしこれは物質の世界、自然科学の世界です。
このように生じた宇宙に、
なぜ人間が生きているのか、
については説明ができていない。
この方面の研究が、
十の価値があるとすれば、
今ここに提示されたイエスの現象は、
無限の価値があります。
ビッグバン以前に、
イエス・キリストは存在されていたのです。
このキリストの存在がないなら、
人間そのものの存在はありえないのです。
イエスが巨大な奇跡を、
ここまでがこの聖書学者のことで、
これ以降は私のお話です。
イエス・キリストが巨大な奇跡を行っても、
どんな大事義を成功させたとしても、
どんなに名声を吐くしたとしても、
その一点すなわち、
人間の罪をあがなうことがなければ、
イエスはキリストではないのである。
その通り、
キリストが人類の罪をあがなってくださったからこそ、
30:02
一章の五十一節があります。
最後のところでありますが、
読んでお祈りをしたいと思います。
一章の五十一節。
イエスは答えられた。
あなたが一軸の木の下にいるのを見たと、
私が言ったから信じるのですか。
それよりも大きなことをあなたは見ることになります。
そして言われた。
まことにまことにあなた方に言います。
天が開けて神の見つかりたちが、
人のこの上を上り下りするのを、
あなた方は見ることになります。
ナタナエルのことがここに出てきますが、
ナタナエルという人はここだけしか出てきません。
イエス様によりますと、
ナタナエルという人は、
この方こそ、
まことのイスラエル人である。
つまり皆さん、
まことのイスラエル人であるということは、
ナタナエルという人は、
とうとう旧約聖書に精通していた人。
神の律法に非常に精通していた人です。
だから何のナザレから何か良いものが出ようか。
つまり皆さん旧約聖書には、
ナザレという町の名前は決して出てきません。
ここで初めて出てくるナザレ。
そのナタナエルのことを、
申し上げた後に、
イエス様が、
51節、
まことに、まことに。
つまり皆さん、
お気づきになったと思いますが、
51節の御言葉を読みますと、
私たちは、創世紀28章の、
ヤコブが石をまくらみして、
夢を見た話、
そうです。
天が開けて、
神の御使いが、
登り下りしているのを見て、
彼はそれを見た。
ここが神の家だ。
いいですね、皆さん。
ここが神の家だ。
ベテルだ。
ヤコブの生涯がここで一転するきっかけになりますね。
ヤコブが押しのけるものではない、
イスラエル、神の皇太子という名前を
もらう天気となる、
非常に重要なところです。
33:00
つまり、
これは私たちにとっては、
人生の転換期であり、
クリスチャンシー生活の
転換期点である、
つまり、
神の家、ベテル。
この明沢教会という教会、
ここがベテルであり、
神の家です。
ここに帰っていて、
私たちは、
初めて天の開かれた生涯の
新しい出発点となるんです。
どうぞ皆さん、
困難な時代、
大変な世界、
どうなるんだろうか、
心配にならない現実ですけれども、
どうかいつも聖書に
目をとどめてほしいんです。
聖書は何と言っておりますか?
神は希望の神です。
私たちは、
その希望の神様に、
希望を持って、
生き続けていきたいと思います。
お祈りをお伺いいたします。
34:12

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