カナの婚礼の始まり
このところから、祝宴が始まったと題して、見言葉を取り継がせていただきます。
まだの方もいらっしゃるので再度ですが、明けましておめでとうございます。
新たなこの年も、また皆さんとともに、一生お礼拝し続けたいと願っております。
新年も続けて、よはねの福音書からご一緒に聞いていきたいと願っております。
今朝、お開きしたこの箇所は、カナの婚礼と呼ばれるその箇所です。
皆さんよくご存知でしょう。
イエス様と弟子たちが、ガリレー地方のカナという町で行われている結婚式に招かれるのです。
当時の結婚式というのは非常に盛大なものでした。
いわば村をあげて、一週間、飲めや歌えやの騒ぎの食事会をするのですね。
非常に楽しい一時でした。
そしてその祭りの準備をするのは、その結婚式の親戚、二人の親戚ですね、
ホストとなる人たちがそれを準備するわけです。
その飲めや歌えやの騒ぎ、騒ぎというか、そのお祝いが途中で途切れてしまうというのは、
家のメンツもさることながら、婚礼の喜びが途切れるということを意味しました。
いわば喜びが途切れるのです。
ただ、このイエス様が招かれた祝宴はことのほか盛り上がったようで、
途中で葡萄酒が切れてしまうという事態が起きました。
そこでイエス様は、水を葡萄酒に変えるという奇跡をここで行われるのです。
これがいわば最初の印、イエス様は何者であるかということを表す一つのきっかけ、
公に表したことであると、ヨハネは語ります。
実はこの話は先ほど話したように、話の筋としては実にシンプルなんですね。
それだけに、ここからヨハネが一体何が言いたいのかということが、
ちょっと分かりにくい箇所であるような気がいたします。
当然、私たちはこの箇所から水汲む下部は知っていたというメッセージを聞きます。
それは素晴らしいものとして私たちは受け止めるのですが、
この箇所が語っていることは果たしてそれだけなのだろうか。
実はこのカナの婚礼の箇所が私たちに語ることは、実はもうちょっと壮大なことなのです。
それは一言で、先日めて言うとこういう言葉で言えるでしょう。
このカナの婚礼の出来事は、イエス・キリストによってこの世界に宿縁が始まったということを告げている出来事なのです。
イエス・キリストによってこの世界に宿縁が始まったということを告げている出来事です。
なぜそういうことができるのか、実はこのテクストにはいくつか鍵があります。
その鍵に注目をしながら、この箇所は一体何を言わんとしているのかということをご一緒に聞いていきながら、
新年の私たちへのメッセージとして受け止めたいと願っております。
新しい創造のメッセージ
二つのポイントで今朝お話をさせていただきます。
一つそれは、新しい創造による宿縁であるということです。
新しい創造による宿縁である。
この箇所はイエス・キリストによってこの世界に宿縁が始まったそのような良き知らせだとお話をいたしましたが、
なぜそういうことができるのでしょうか。
第一に鍵となりますのは、実はこの箇所はヨハネの福音書1章と同じように創造の出来事を重ねて読まなければならないということです。
なぜそう言えるのか。実はこれはヨハネの面白いトリックがありまして、
2章冒頭を見ていただきますと、2章1節目に、それから3日目にという言葉がございます。
実は1章を開ける方、1章を開いていただくと、実は1章には特徴的に、その翌日にという言葉が3回出てきます。
1章の29節と35節と43節に、3回その翌日にという言葉が出てまいります。
そしてヨハネの福音書の1章1節を皆さん思い出せるでしょうか。
ヨハネの福音書1章1節は、はじめに言葉があった。
これは以前見ましたが、はじめに言葉があったというのは、はじめに神が天と地を創造なさったという創造の第一日目となぞられているのです。
じゃあ、その1章の1節が1日目とするならば、1章に翌日が3回あるわけで、1章1節からその翌日、その翌日、その翌日、そしてそこからその後3日経ってです。
となったときに、このカナの婚礼の出来事は何日目にあたるのか。これ7日目なんです。
実はヨハネは意図的にカナの婚礼の出来事を創造の7日目と重ねて書いているのです。
これとても大切な点です。
それが一体何を意味するのでしょうか。
私たちは思い出していただきたいのは、創造の7日目というのは、神様が天地創造を完成し、安息なさった日ですよね。
しかしそれは、言葉を変えるのにはもう1つの意味があります。
神様が安息なさり、玉座についてこの世界の支配を始められたときなんです。
7日目というのは、神が王座に座り、世界の支配を始めた日です。
このような背景を置きながら、このカナの婚礼を見るときに、私たちは一体何が浮かび上がってくるかなということを思うときに、
この箇所は単に水が葡萄酒に変わった話ではないのです。
むしろこの箇所は、水が葡萄酒に変わったというのは、イエス様による新しい創造の御業がここから開始されるということを言っているのです。
イエスキリストによる新しい創造、新しい支配の御業がここから始まったということを、ヨハネは言いたいのです。
そのような予言的な印です。
そのイエスキリストの支配というのは、新たな質の良い葡萄酒のような、かぐわしい豊かな支配がここから始まるということを読み取ることができるのではないでしょうか。
これは一つ目の鍵です。
ただ読んでいくと、もういくつか鍵があります。
もう一つ注目をしたいのは、6節7節です。
この箇所の話は皆さんよくご存知かと思います。
結婚式で葡萄酒が尽きました。
マリアがイエス様に、葡萄酒がなくなりました。でも私の時はまだ今ではありませんと言って、マリアが、じゃあイエス様の言う通りにしてくださいと求人たちに言った。
イエス様はそこで何を用いられたでしょうか。
6節7節を読みすると、そこにはユデイ人の清めのしきたりによって、石の水がめが6つ置いてあった。
それぞれ2あるいは3メートルエデス入りのものであった。
イエスは求人の者たちに言われた、水がめを水でいっぱいにしなさい。
彼らは水がめを淵までいっぱいにした。
6つの石がめを用いるということ、これも実に象徴的です。
ユデイ人にとって、実は数字というのは意味があります。
7というのは完全数というお話をいたしました。
でも6というのは何かというと、7に1つ足りないということです。
いわば7を完全とするならば、6というのは不完全を意味します。
不完全、足りないということを意味します。
ヨハネはここで6つの石の水がめと話すのですね。
それは何かというと、水がめ。
6つの水の石がめが不完全な状態で枯れているということなんです。
石の亀なんです。
旧約聖書において、石という言葉が象徴的に使われるのは何かというと、石の板です。
いわば立法ですね。
いわばこの石亀は旧約聖書内社立法というようなものを、私たちに彷彿通頭させるようなものです。
もしかしたらここでは、石は孟子に授けられた石の板立法を重ねているのかもしれません。
当時の状況をよくご存知でしょう。
当時の人々は、この孟子の立法を基にした教えを基に生活を規定していきました。
613、無意味な何とかというような覚え方がありますが、でも孟子の立法から派生して、様々な教えで生活を規定していきました。
より厳格に立法を守り、より早くメシアの到来を早めるためにやっていたのです。
そして、この石亀で手を洗うというのは、その教えの中でも特に大事なことでした。
当時の人々にとっては、誰かの家に入る、祝いの席に入るという時には、玄関の石亀で必ず手を洗うんです。
それはなぜか、宗教的な意味があります。
自分の罪を清めて人にあうんです。
それが習慣的になっていました。
でも、イエス様は何度も何度も聖書で語られましたね。
人は外側をいくらきれいにしたってきれいにならない。
人の内側にあるものが清められなければ、人は変わることができない。
しかし、水亀は空でした。
いわば何が言いたいのか、まさにそのような立法と教え。
立法はいいものなんですが、しかしそのような立法と教えは、今やこの時代空虚なものになってしまっている。
空っぽになってしまっている。
しかし、イエス様が来られたのです。
イエス様が来られて何をなさったのか、
ミス使いたちにイエス様が言われたことは、水亀を水でいっぱいにしなさいです。
水亀を水でいっぱいにしなさい。
これはギリシャ語では、フチまでという言葉がついています。
フチギリギリまで水をパンパンに入れなさいということです。
いわばこれは、象徴的に見るならば、空虚な立法が、キリストが来ることによって満たされていくんです。
そして満たされた水が、水が満たされただけではない、その水が葡萄酒に変わるんですね。
キリストの支配の開始
それは何を意味するのでしょうか。
3つほど意味があると思います。
1つ目それは、空虚な立法が満たされただけではなくて、その質が変わるというのは、参上の説教で私たちが見てきたものです。
イエス・キリストは立法を廃棄するのではなくて、立法を成就するために来られた。
マタイの福音書の5章に書いてあります。
まさに旧約聖書において、神を愛し隣人を愛するという、あの立法の本来の形を取り戻していく。
イエス様がこの後なさっていく見業というのは、真新しいことじゃない。あれ立法の実践なんです。
そのように立法を成就していかれる。
そして水が葡萄酒に変わるというのは、第2に、それは単なる液体の性質が変化しているということではない。
これは神様の新たな創造の見業が始まったということを示している。
これは真創造なんです。
新たな葡萄酒が創造をされたということを示す印です。
しかし第3に、この葡萄酒は後に十字架に重ねて語られます。
十字架の血潮です。
この立法の成就、新たな創造、新たな支配、神の国が訪れた。
しかしそれはイエス様が訪れたときは、イエス様だけに留まっていた。
しかしそれは、まさにイエス・キリストを通して、神の民、教会がそのことを用いて、そのことを成していく。
そのような支配が完成するためには、イエス・キリストは血を流さなければならない。
宴会の世話人は言いました。
2章の9節から10節に宴会の世話役は言いました。
皆、初めに良い葡萄酒を出して酔いが回っていた頃に悪いものを出すのだが、あなたは良い葡萄酒を今まで取っておきました。
この宴会の世話役の言った言葉は、実に重ねて、旧約聖書と重ねて読むならば、すごく理解ができることです。
この世界を神は良いものとして創造をなさいました。
良いものが最初に出されたんです。
しかし、世界は神の恵みの支配の中で良い方向に進んではいきませんでした。
アダムとエバが善悪と知識の実を食べ、自らを神としてこの世界を治め始めると、良いものはだんだんだんだん悪くなっていきました。
世界はまさに、悪いお酒に酔うかのように、命廷状態になっている。
人は自分の利得のためだけに人の命を奪います。土地や資源を独占します。
自らを神とした高い塔や神々を作り出し、私にとっての支配と平和を実現するために、悪なき力への渇望に飲み込まれていきます。
これは現代に見られるものですが、これは全部旧約聖書に書いてあることです。
全部聖書に書いてあることです。その根源は罪ですね、罪。
神様を恐れず、自分を神とする的を外した人間の傲慢さがそれをもたらす。
しかし、キリストが来られたのです。
キリストが来られたということは何を意味するのか、それはこれまで以上に良い武道士がこの世界に注がれたということです。
これまで以上に良い武道士がこの世界に注がれた。
それは神の最初の良い、この世界は良かったと言われる支配へと回復させるキリストの恵みの支配が始まった。
冥帝状態の世界にキリストはかぐわしい香りを放つ支配をこの世界に始められた。
実はそのように見ていくときに、この歌詞は実にキリストは何者であるかということを明確に語っているんです。
まさにマタイの福音書の一章と一緒なんです、これは。
マタイの福音書もありましたよね。
14代×3、アブラハムからダビデが14代、ダビデからバビロン保守が14代、バビロン保守からキリストまでが14代。
14×3というのは7×6である。
世代一つが7とするならば、7×7の頂点にキリストが来たというのは、
旧約聖書、世界の始めからの歴史をひっくるめて、それを成就されるお方としてキリストは生まれたとマタイは語ります。
しかし、ヨハネはこの石亀をすべて満たし、満たすだけではなく、葡萄酒へと変えられる。
まさにそのようなお方としてキリストは来た、旧約聖書の成就をそのように語るのです。
ある信学者がこのような表現を用いました。
この世界は2000年前から十字架の形に変わった。
イエス・キリストの誕生と影響
この世界は2000年前から十字架の形に変わったという言葉です。
私は好きな表現です。
2000年前から世界の形は変わったと聖書は語ります。
それは、2000年前、イエス様がこの世界に来られてから、この世界に新たな支配が始まった。
貧しい人々に本当の立法の温かさが伝わり、慰めが満ちあふれた。
イエス様の周りはいつも楽しそうでした。イエス様の周りはまさに宿縁なんですよ。
いつもそこに喜びがあり、弱い人々への慰めの眼差しがいつもそこにあった。
しかしイエス様は十字架で殺されます。
人々の罪が、自分以外の他の神を認めない人間の強良さが、神の子を十字架につけます。
しかし三日目に甦えられた主は天に上り、全能の父の右の座に座されて、
今や天上においてこの世界を治め、この世界のために取り成しておられると聖書は語る。
平たく言うならば、二千年前から世界の王様が変わったんです。イエス・キリストになられた。
そしてイエス・キリストが王になられて何が起きたのか、教会が生まれました。
イエス・キリストと共に歩んでいた神の霊は今や教会に注がれ、教会にある私たちに注がれ、
イエス・キリストにおいて広がっていた宿縁は今やキリストを頭とする教会の中に、キリスト社の中にあふれている、
そう聖書は語るんです。
マリアの態度
さて、私たちは果たしてそのような現実を生きているでしょうか、ということなんですね。
聖書は、私よく言いますけれども、キリスト社は救われているということだけで本当に素晴らしいことですよ。
本当に素晴らしいことです。
神のことされているということがどれほど豊かなことかと思います。
そしてキリストを頭としている教会というのはどれほど力強いことかと思います。
けれども、私たちの周りはどちらかというと、それに何か見えないような力尽きている感じが、私自身の中にもあります。
でも、私たちは聖書の語っている現実と約束を、私たちの現実として生きるということを大事にしなければなりません。
目には見えずとも、私たちの神はそこに立っておられて、キリストは教会の頭であるという現実を、私たちの現実としなければならないように思います。
じゃあ、そのような現実を私たちの現実としていくために大切なことは何なのか。
一つのポイントがこの箇所から読み取れると思います。
次のポイント、二つ目のポイントは、宿縁の中で喜ぶためにです。宿縁の中で喜ぶために。
この宿縁の喜びを喜ぶため、取るべき態度はどのようなものでしょうか。
今日読んでいただいた2章の1節から11節の中で、一つだけ注目できる言葉があるとするならば、それはマリアの姿勢です。
2章の3節から5節をちょっとお読みしますと、こういう言葉があります。
葡萄酒がなくなると母はイエスに向かって、葡萄酒がありませんと言った。
するとイエスは母に言われた。
女の方、あなたは私と何の関係がありますか。私の時はまだ来ていません。
母は求人の者たちに言った。あの方が言われることは何でもしてください。
宿縁中に葡萄酒がなくなった。
母マリアは焦ります。そしてイエス様に言いました。葡萄酒がありません。
しかしイエス様はこう答えられました。
女の方、あなたは私と何の関係がありますか。私の時はまだ来ていません。
実にこの言葉は素っ気ない応答のように取られますが、そうではないです。
これはむしろ実に丁寧に言っているんです。
女の方というのはギリシャ語でもものすごい敬称なんです。女の方。
むしろここには、肉親としての情を超えたメシアであるという立場をイエス様は明確に出しておられるのです。
私はあなたの子である前にメシアなんだということをイエス様はここで出しておられる態度です。
そして同時にマリアはイエス様の中に我が子を超えた何かをすでに見たのだと思うのです。
マリアはイエス様をここでメシアと認めて言いました。
あの方が言われることは何でもしてください。
このマリアの態度も実は想像の記事と重ねるならば、アダムとエヴァの態度とは真逆であるということに私たちは気づきます。
先ほども少し申し上げました。
アダムとエヴァの問題は何か。
蛇にそそのかされて彼らは善悪と知識の実を食べた。
それは神のように賢くなる実でした。
でも神のように賢くなる実を食べたということは、彼らが自分を神だと勘違いするようになったということです。
その結果、神のようにあたかも賢くなった彼らは、自分自身を神とした結果、最初にしたことは自己保身と責任転嫁でした。
私は悪くない。あいつが悪い。
そういう自分自身、もしくは自分の願いというものを中心に置く姿こそが、神様から的を外した生き方である。
別に自分の願いは大事にしていいんですが。
しかしそれが私の神になってしまうならば、それは的を外した生き方になってしまう。
一方でマリアはどうであったでしょう。
彼女は言いました。
あの方が言われることは何でもしてください。
それはあの若き日、マリアがミツカイガブレールに言った言葉も同じでした。
あなたはイエスキリストの母親になります。
どうぞあなたのお言葉通り好みになりますように。
マリアはそういう女性だったんでしょうね。
私の願い、私の願い自身を持つことは悪いことでも何でもないのです。
持ったらいいのです。
しかしそれをも含んで主よ、あなたが言われることは私に何でもしてください。
願いは大事です。
でもそれをも含んであなたが私になさること、あなたが私に言われることは私のうちになしてください。
最終的に主に委ねる。
宿縁の喜び
それが主の御心を喜ぶ姿勢でありましょう。
私たちはそういうことをしようとするときに怖くなります。正直言って。
自分の願い通りに物事を進むことが最善だと私たちは信じすぎます。
でもそうではない。
願った通りでなくともここに神の良い計画が流れているのであれば、
ああこれは最善が進んでいるのだと私たちは認める心はあってよいのではないでしょうか。
主は私たちに良い計画をお持ちのお方なのです。
今年もそうです。主は私たち、皆さんに良い計画をお持ちのお方です。
この世界はなおも暗闇が多います。
しかし聖書が語る現実は、暗闇が多い世界の中で、
しかし主を頭とするこの場所には宿縁が始まっているという事実を告げているのです。
宿縁はもう始まっているのだよ。
キリストを頭とする教会に、そしてイエスを主とする私たちの内側に、
新たな創造の御業は今も始まり続けていて、
神を愛し隣人を愛し、そして自分自身を愛するというあの立法の成就は、
今私たちの中に神が起こし続けてくださっている。
私たちは願いがあります。
しかし、全てをご存知の主よ、私の願いをも含んで、
あなたが言われることは私に何でもしてください。
そのように自分を主におゆだねするほうが、
こうがという言い方は良くないですが、
私たちは主の宿縁の中を自由に喜ぶことができるお互いになるのではないでしょうか。
どうか今一度、主の御前に私たちは互いに出ていきたいと思います。
私の願いは大事。
でもそれをも含んで、あなたがそれを導いてくださいと祈れるかどうか。
私たちはここ一緒に主と共に主の御前にそのようなことをゆだねながら歩んでいきたい。
そしてその中に現れる主の武道主のかぐわしい支配を、
そして主の豊かさを味わう一年でありたいと願っております。
一言お祈りをいたします。