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2019-03-17 39:07

2019/03/17:ヨハネの福音書講解説教(55)イエスこそ、わたしの王

 2019/03/17 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 -37

00:00
あらためて、みなさん、おはようございます。
朝、天気が急に雨が降ったりしましたけれども、でも、にもかかわらず、このように共に集まって、神を礼拝できますことを、これから感謝いたします。
しかしからはですね、大人と子どもが、子どもと大人が、一緒に神の家族として、礼拝することになりましたけれども、
大人の礼拝、子どもの礼拝、そういった工夫なく、心を一つにしてですね、礼拝していきたいと願っております。
確かに新しい試みでありますけれども、みなさんのお祈りとご協力によって、そこからですね、美しい身がなり、また各世代の伝道、あるいは信仰継承というふうに、四国につながることを祈り願います。
ぜひみなさんもですね、お祈りいただきますように、よろしくお願いいたします。
では、次の場合に隣の方と挨拶をしましょうか。
おはようございます。
ありがとうございます。一言を短くお祈りします。
そこでジラトがイエスに言った。
それでは、あなたは王なのですか?
イエスは答えられた。
私が王であることは、あなたが言う通りです。
アーメン、主よ、王です。
イエス様は最先の王です。
王の王、主の主です。
その信仰をもって、主をお使いしていきますように、最先を導いてください。
この朝も、心を込めて主を賛美しました。
お祈りを捧げました。
また、神様が語ってくださるあなたの御声に、心の耳を、体の耳を傾けてお聞きいたします。
主をどうぞお語りください。
全身全霊で目を覚まして、主の御声を聞き、そして、それに応答できますように、
どうか主よ、私たちの神功を引き上げてくださいますように、お願いいたします。
御言葉を語られて、その御言葉を悟ることは、御霊様の恵みですから、主をどうぞ豊かに働いてくださいまして、
ここにいる一同が、あなたの御言葉を悟り、生ける主にお会いする時となりますように、祝福してください。
03:00
感謝して、イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン。
今日は、ヨハネの国との説教、55回目。
イエスこそ私の王。イエスこそ私の王であります。
その前に先ほど、首都心情をしませんでした。失礼いたしました。申し上げます。
今日の話は、大体皆さんご存知のストーリーは、ご存知の話だと思います。
イエス様を、その当時のいわゆる力を持っていた人々、立法学者たちとか、
あるいは、いつもイエス様と対峙していたパリサイトたちとか、あるいはシャイシたちとか、
彼らによって、彼らはイエス様をもう敵にしていましたから、
イエス様を敵対する人たちによって、イエス様は、ゲッセマネの園で逮捕されました。
そしてこの後、ダイサイというカヤファに連呼されてきましたけれども、
そのやりとりの中で、結果的には裁判といわゆる執行権を持っている、
当時のあのイスラエルのユダヤの総督、ピラトに送られてしまいました。
今日のペースは、イエス様とこのピラトの会話であります。
今、この総督ピラトさんの前に、イエス様がおられるんです。
その方は、本当の王様なんです。救い主なんです。しかしどうでしょうか。
今ピラトさんは、イエス様との話を見ると、
自分の目の前にいらっしゃるイエス様が、本当の王であることをわかりません。
気づいていないんです。
だから今日の37節を見ると、ピラトはイエスに言った。
それではあなたは王なのですか?と、
33節にもありますけれども、2回も聞くんですね。
あなたは本当の王様なんですか?
するとイエス様は、37節で、
私が王であることは、あなたが言う通りです。と、お答えになりました。
ここで、より深くですね、考えてみたいと思うんです。
このあなたは王なのですか?といったピラトのこの質問には、
06:03
彼のピラトの心の中には、その心の中に潜んでいる2つの思いというかね、
その意味があるんじゃないかなと思います。
1つは、まず事実として、彼はイエス様が救い主であることも、王であることもわからない。
気づいていない。
つまり、霊の目が開けていないからでしょうね。
自分の目の前にイエス様がおられても、霊の目が開かれていないから、わからない。気づかない。
いくら荘徳であってもですね、いやもうローマ皇帝であっても同じだと思います。
肉眼の目では、これがイエスというものなのか、なぜか出身の大学屋さんの息子なのか、
できたとすれて、あちらこちら巡回した、そういうものなのか、それはわかるでしょうけれども、
この人が、この方が救い主であること、唯一の王であることが王なのですか?と聞く、そこにはそういうことがあります。
もう一つは、実はイエス様が王であったとしても、ピラトはそれを認めたくないんです。
忘れたな。自分のこの既得権、自分が持っているこの地位、権力、富、そういったものを失いたくないんです。
だから、王なのですか?と聞いているわけなんです。
結果的にはどうなったのでしょうか。ピラトは残念ながら、イエス様が王であることを知らないまま、認めないまま、十字架刑を判決。
もし、もしもですよ、この時にピラトにはある意味で最高のチャンスなんです。イエス様と自分と一対一で話し合える、救われる、生きるイエス様に出会える、すごいチャンスなんですよ。
もしそこで彼が、あなたは本当の王様ですね、救いですね、救い主ですねとイエス様の前で比例をして信じたならば、どんなことが起こったと思いますか。
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ところが、ピラトはその最高のチャンスを、ある意味で彼の人生においては最後のチャンスだったかもしれない。
そのチャンスを、そしてイエス様を処刑と判決を下してしまいました。本当の王様が自分の目の前にいらっしゃるのに。残念なことなんですね。
このピラトのこの姿を私たちは反面恐怖として、では私たち神様を信じる者として、クリーさんの生き方はどういうものであるべきか。
特にイエス様が本当の王であるということをその観点から考えて学んで、またその通りに歩んでいきたいと思います。
クリーさんの生き方、クリーさんとして生きるということは一体何でしょうか。
それは今日の御言葉、イエス様が王であるそこの観点から申しますと、イエス様だけが私の王ですと宣言してその通りに生きることではないでしょうか。
そして王なるイエス様だけお仕えすることです。イエス様以外には誰も何者も自分の王としないことです。
人は実は何かを自分の主、王として生きているかもしれない。
ある人には成功がある人には金銭がある人には名誉がある人には健康がある人には権力がある人にはある人には自分自身が自分の王になっている。
でも神を信じる者はお一人しかいない。イエス様だけが私の王様です。
では皆さん、どうしたらイエス様だけが私の王ですと、そういうふうに宣言してそれにふさわしい信仰の歩みをすることができるのでしょうか。
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まず第一にお話したいのは、イエス様の素晴らしさを経験することです。イエス様の素晴らしさを経験することです。
そしてそれをまず私から、自分自身から始めることです。
皆さんお一人お一人が、四谷評価院のほかに三十数名の方がいらっしゃいますけれども、二十代の方も十代の方も三十四十代の方々がおられますけれども、
まず自分から、このイエス・キリストの素晴らしさ、恵みの偉大さ、癒しのすごさ、祝福の驚き、慰めの温かさを、その素晴らしさを日々深く豊かに豊かに経験すること。
ここから始まるんですよ、信仰は。
この経験をしたときに、人はもう自然にですね、思わずですね、イエス様こそ私の王です、という風に言うんじゃないでしょうか。
そしてその通りに生きるんじゃないでしょうか。そしてイエス様にだけお仕えするんじゃないでしょうか。
今、この日本やアジア、世界にキリスト教、その教会が建てられています。日本には大体八千ぐらいの教会と言われています。
ところが、数は別々ですね。今までイエス様以来、キリスト教の歴史、2019年としたらね、2019年間、世界に福音が広がっていきました。教会が広がっていきました。
そしてあらゆる国に教会が十字架のね、街道が建てられてきました。多くの信仰の人々が主を信じて、あるいは保守して、あるいは善信をして、あるいは尊敬をして、
そして今の私たちのこの明治教会が、日本の教会が、世界の教会があり、また私たち一人一人の信仰があるわけなんです。
そう考えてみたらですね、神様から離れない信仰、教会から離れない信仰、日本と言ったらこの0.45%しかないクリスタの中で、
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惑わされることなく、ぶれることなく、信仰を守り続けていること、あるいは奉仕をし続けていることは、実は本当に素晴らしいことです。
皆さんもそういうふうに思うのではないでしょうか。
教会から離れる、そういう現実があったりしますね。もちろん理由は、原因は複雑だと思います。これだとね、言えないと思いますけれども。
でもその中で、多くの皆さんは、何十年も何十年もね、ただこの信仰の道を、時には寂しくても、時にはもうね、しんどくても、
でも神様から、祖から離れない、信仰をしていない、教会から離れないといったこの信仰をもって、ここまでこれたことは、ただ神様の恵みであります。
その中でみんながね、私みたいに先生方みたいに、みんな牧師になりましょう、宣教師になりましょう、というわけではありません。
もちろんね、神様の名刺があったらね、明太に教会からもね、けんしんさんがね、起こされてほしいなと思うわけですけどね。
では何でしょうか。神様は、私たちをそれぞれ、皆さんが置かれているそこに、主が使わせてください。
家庭に、会社に、その町に、あるいはこの神戸に、あるいはこの日本に、それぞれ持ち場、立場に、神様が皆さんをこう、たっ飛んで、選んで、そこに置いて下さけるんです。
偶然私たちが今ここに、あるいは家族の中に、そこにいるわけではないんですよね。偶然落とされたわけではないんです。
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神様は素晴らしい、私たちには計りすることができない神様のプランを持って、今皆さんをそれぞれ、その家庭に、明太に教会に、会社に、学校に、そしたら皆さん、皆さんがいらっしゃるそこが神の国なんです。
そこで、イエス・ギリシャの素晴らしさを経験して、そこで生きることです。そこにいる一人のクリスタンとして、イエス様の素晴らしさを常に経験して、生き生きとして生きることです。
イエス様を信じる喜び、恋愛する嬉しさ、祈る自宅も、御子どもからあふれる恵みを日々味わって生きることなんです。教会で、家庭で、学校で、会社で、町で、それが灯台となる、証人となることなんですよね。
皆さん、いかがでしょうか。日々、日曜日はもちろん、礼拝はもちろんそうでしょうけれども、月曜日も火曜日も水曜日も木曜日も金曜日も土曜日も、家にいても、会社にいても、学校にいても、どこにいても、そこでイエス様は私の王なんです。
その素晴らしさを、豊かさを、恵みを、いつも受けているのでしょうか。味わっているのでしょうか。経験しているのでしょうか。それが本当にすごい香りで放っているのでしょうか。
枯れている、しぼんでいる葉っぱじゃなくて、生き生きとしている、緑の葉っぱのように生きているのでしょうか。
そこから、その恵みを経験してから、イエス様は私の王ですと、告白ができるし、宣言できるし、またそれを伝えたくなるんですね。
私一人一人が、自分自身がその素晴らしさを、恵みを経験するところから、自分が恵まれ、その恵みがあふれ出て、それが伝道に、証につながるということなんでしょうね。
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2番目、このようにイエス様の素晴らしさを経験したら、そうすると、本当のイエス様に出会ったからですね、一番大切な宝を見つけたから、他のものはイエス様以外のものを損と思うようになる。
でも皆さん、これは本当に不思議なことなんです。不思議なことである。
信仰生活をしていく中で、イエス様の恵みの素晴らしさ、イエス様の本当の偉大さ、その祝福、あるいは礼拝の恵み、
本当にイエス様が生きておられる。その命に触れるならば、経験したならばですね、本当の宝物を見つけたんだから、世の楽しみなんてつまらないものなんです。
くだらないものになってですね、もう興味がなくなる。楽しみがなくなる。世のものに対する執着もなくなる。見たくもないですし、触れたくもないですし、そういうふうに変えられるんですよ。不思議なんですよ、これがね。
そして実際にその通りに生きていくんです。一括ですね、聖書を開きましょう。
ピリピリ人への手紙、二百手書です。ピリピリ人への手紙、三章四節から八節。聖書をお持ちの方はぜひ開いてくださいまして、一緒に読みたいと思います。
ピリピリ人への手紙、第三章四節から八節です。私の聖書では三百八十六ページです。それではですね、私が四節、五節、六節、七節を見ますので、
みなさん大きな声でですね、心一つにして、八節の最後の思っています、そこまででいいですので、八節をみんなで一緒に読みましょうか。よろしいでしょうか。四節からは私が読み始めます。
ただし私は人間的なものにおいても頼むところがあります。もし他の人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私はそれ以上です。
私はヨウカメの滑稽を受け、イスラエル民族に属し、ペニャーミンの別れの者です。既遂のヘブル人で、立法についてはパリサイ人。その熱心は教会を破壊したほどで、立法による義は、義についてならば非難されるところのない者です。
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しかし、私にとって得であったこのようなものを、みんな私はキリストのゆえに損と思うようになりました。
ご一緒に。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っているこの素晴らしさのゆえに、一切のことを損と思っています。
私はキリストのために全てのものを捨てて、それらを散り飽くたと思っています。アーメン。
いかがでしょうか、みなさん。
パウロはですね、私と比べたらすごいものを持っている人なんですよ。
もう偉い先生の弟子であって、血統を見てもすごいですし、知識を見ても、新約聖書の中で十二、十三項をかけるほど、知識的にも立法的にも旧約聖書を知ることには、もうはるかに凡人を超えるレベルなんですよね。
でもどうでしょうか。
それを彼は昔は自慢していたんです。これは徳だ、私の徳言だね、すごいだろう。そういうふうに思っていたんです。自慢していました。
これがイエス様に出会ってから、七つの御言葉。このイエス様に出会って、発説に私の主であるキリストイエスを知っていることの素晴らしさも故に、私が昔自慢していたもの、徳と思っていたもの、
それは全部、もう損なのだ。いや、チリアクタなんだ、ゴミなんだ、というふうに宣言をしているんですね。これがイエス・ギリストに本当に出会った人の生き方なんです。この世に対する未練がないんですね。
目の向きもしない。つかもうとしない。味わうとしない。後悟薬精神はこのチリアクタを憤怒っぽい訳しているんですね。もう憤怒と思っているんです。それほど素晴らしい宣言なんですね、皆さん。
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いかがでしょうか、皆さん。私たちもこの世に告白するものでありたいんです。この世に生きるものでありたいんです。本当にイエス・キリストを知っているこの素晴らしさの故に、私たちも本当にその素晴らしさを日々、祈りを通して、御言葉を通して、礼拝を通して、
あるいは祝歌を通して、あるいは兄弟姉妹のこの祈りの交わりを通して、その素晴らしさを味わいたい、経験したい、豊かい、豊かい。いかがでしょうか、皆さん。そういう良い意味としての欲はないでしょうか。そういう貪欲を持ってほしいんです。
でも、こういう話をすると、ある御年配の方々は、先生、あなたはまだ若いから、そんな話をするかもしれないけど、もう遅いかもよとおっしゃるかもしれない。ところが、ちょっと気に入っていただきたいことがあります。
ちょっと字幕を見てみましょう。一つ見つけましたけれども、アメリカの各国にこういう言葉があります。ご覧くださいますか、前の。
あなたのこれからの人生の中で、今日が一番若い日。意味わかりますか。皆さんが今日、九十歳だとしても、これから起こったら、今日が一番若いんです。そう思いません、皆さん。今日が一番若いんですよ、皆さん。
だから、今ここに一番若い方々が集まっておられるわけなんです。でも、皆さんですが、こう思うんですね。
若い頃、もっとやりたいことをやっておけばよかったのに、あるいは昔、もっと勉強しておけばよかったのになどなど、誰もが思うことかもしれません。
しかし皆さん、何かを始めるのに遅すぎるということはないと思います。もう自分は歳だからと思っても、未来の明日の明後日の一年後の自分から見たら、今日の私たちが一番若いんです。
そうではありませんか、皆さん。そして、未来の自分から見れば、今日がずっと可能性にあふれているんです、実は。
だから、ある人はこう言いました。大事なのは、早いか遅いかではなく、やるかやらないか。
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何年前か、流行語がありましたね。いつしますか。今でしょう、みたいにね。今なんです。
これをね、一般的な国がこう言ってますけど、ヨエル書はこういう読み言葉があります。
神様、私にもっと素晴らしい有機読み言葉をくださいます。このように長くありませんので、一緒に読みませんか。
ヨエル書、2章の28と29列です。ご一緒に。
その後、私は私の礼を全ての人に注ぐ。あなた方の息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
その日、私は下辺にも端端にも私の礼を注ぐ。はい、皆さん、ご覧ください。
神様は約束します。息子、娘は預言をする。年寄りは夢を見る。若い男は幻を見る。
なんでそれができるのでしょうか。神様が下辺であろうが、端端であろうが、息子、娘は若い者であろうが、年寄りの人であろうが、男であろうが、女性であろうが、
みんなに私の礼を注いだら、年寄りなんて関係ない。男性、女性なんて関係ない。という御言葉なんですよ、皆さん。はい、それでいいです。
皆さん、覚えていただきたい。方法は、密は一つではないでしょうか。
主が注ぐ私の紐辺に、男性にも女性にも若い者にも子供にも年寄りにも注ぐと約束してくださった、主の礼に燃える。
あそこに何十年も書いてあるんですが、礼に燃え、主に誓え、私たちはみんな、礼に燃えて、精霊に満たされて、
そして、シトファウルが言ったように、キリスト、イエスを知っていることの素晴らしさも故に、一切のことを損と思っていますと言って、その通りに生きるものでありたい。
枯れた、ひぼんだ、くれちゃんじゃなくて、そこからあふれ出してくださる、注いでくださる御霊に満たされていきたいんです。
そのために皆さん、ひたすらお祈りに専念していこうではないでしょうか。
33:04
祈って、祈って、お家でも祈って、教会でも祈って、祈りに専念しようではないでしょうか。
今、水曜日の会ではですね、一日少なくとも三十分は祈りましょう。聖書は一章くらいを読みましょう。
だいたい一章読むのにですね、十分もわからないでしょう。
皆さんは日本人だから日本語で聖書を読むのに何の苦もないのではないでしょうか。
私だけ十分くらい読めますから、ね、聖霊に満たされるために祈ってください。
イエス様だけを愛する者とならしてくださいと、祈ろうではないでしょうか。
主よ、私もこのパウロが経験したこの素晴らしさのゆえに世のも一切のことも損と思うようなものになりたいんですと、
主よ、そういうふうに経験させてくださいと、祈ろうではないでしょうか。
また御言葉に励んでください。生きる主の御言葉に励んで、そこからこの素晴らしさを、豊かさを、宝を発見していただきたい、味わっていただきたい。
ハンナがですね、去年東京の教会に行って、少ない人数でしたけれども、コーヒーブレイクのね、スモールグループのやり方を教えたことがあるんですね。
その教会に以前、統一教会に入っていたね、何人かの信徒さんがいて、今はね、そこから脱回してね、その教会の信者さんになってですね、熱心に信仰生活をしているそうなんです。
ところが、その中のね、一人の姉妹が、本当にもう毎日聖書をものすごく読んで、そしてですね、もう本当によく祈ってですね、
そしてこのコーヒーブレイクの学び方、それがね、その他はだめですという話ではないんですけれども、その恵みをもう発見したわけなんですよね。
それでよくよく電話とかLINEに来てですね、聖書のことを聞いてですね、聞いたらこの前ですね、初めてその方がその小グループをつくって、その学びを始めたらすごくよかったみたいなんです。
その御言葉に対する渇きがある、上渇きがある、もっと知りたい、その恵みをもっと味わいたい、もっと学びたい。
それでですね、昔トイットに行った人がだっかいって、そこで自分がその神父さんを集めて、スモールグループをやりだしたということなんですよ。
36:11
どれだけ恵みをね、味わいたいか、その熱さが伝わってくるんですよね。まだ私はね、お会いしていないんですけどね。
我が使いのは、神の御言葉の素晴らしさ、祈りの豊かさ、それを味わったならば、それをもうどうにもやめられなくなるんです。
お願いいたします。一度しかないこの人生を、一度しかない信仰のこの道を、
イエス様の命にあふれて、御霊に満たされて、霊に燃えて、すぐにお使いしていこうではないでしょうか。
乾ききった人生、しぼんでいる草のような人生ではなく、いつまでも浅い浅いレベルでとどまっているんじゃなくて、
御言葉にあるように、成熟を目指そうではないでしょうか、という御言葉通りに、成熟を目指していこうではないでしょうか。
イエス様に本当に御愛しているならば、その素晴らしさのゆえに、それを知っているならば、
ファオルのように、世のお楽しみなんて、お金なんて、快楽なんて、喜びなんて、大したものじゃないでしょう。
さっきイエスのメッセージさせてもらいましたけれども、献金の話をさせました。
それでね、うちの息子、六年生の秘僧にですね、君、神様があなたのお越し会を神様に捧げなさいと言ったら、何と言うの。
いや、無理です。六年生らしい言葉かもしれませんけど、大人になっても、お金であろうが、自分の趣味であろうが、時間であろうが、健康であろうが、
何であろうが、楽しみであろうが、それが神様のものである。
そして、本当のイエス様の素晴らしさを味わったならば、そういったもの、大したもの、ひりあくたなんです。
そんなゴミにしない。そういうふうに変えられるんです。そういうふうに変えられる。
三玉の恵みによって、三玉の恵みによって、それが、イエス様は私の王ですと告白する、クリスチャンの生き方です。
ぜひ、私たちみんな、心から、実際の生き方からとしても、イエス様こそ私の王ですと、そういうふうに宣言して、愛もものとさせていただきましょう。お祈り致します。
39:07

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