1. 名谷教会 podcast
  2. 2019/05/19:人生の孤独と神
2019-05-19 45:02

2019/05/19:人生の孤独と神

 2019/05/19 聖日礼拝(ウェルカム礼拝)

尹善鎬牧師

イザヤ書 43:4

ヨハネの福音書

00:00
はい、ありがとうございました。いつも素晴らしいカンブリーに感謝いたします。
みなさん、おはようございます。
はい、先日に続きまして、カンブリーが行われていることを、本当に感謝いたします。
では、今日のお話に入る前に、隣の方とね、テーブルの方に挨拶しましょうか。
お座りのままでね、いいと思います。おはようございまーす。
はい、それでは一言お祈りをいたします。
私の目には、あなたは高下で立っており、私はあなたを愛している。
アーメン、主よ、いつも私たちを愛してくださっている神様、本当に感謝いたします。
今日もその愛に満たされて、愛に力付けられて、主の前に近づいてまいりました。
どうか、集まっている一人一人の霊の上に、主よ、主なる神様のお言葉を頂戴し、
そしてその御言葉によって生かされる私たちでありますように、
この席に一緒に葬石を、宮殿さん、あるいは弥勤寺の家族の方々、
一人一人覚えてくださって、速やかに救いへ、永遠の命へ、主が導いてくださいますようにお願いをいたします。
主よ、感謝します。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。
今日、5月の19日、ウェルカムレア2回目ですが、またこのように行われていて本当に感謝いたします。
今日も天の伝え神様の豊かな恵みと祝福が皆様の上にありますように、心からお祈りいたします。
今日は、人生の孤独と神、人生の孤独と神というタイトルでお話をしていきたいと思います。
そこに、フランスシューベルトとその音楽を少し鑑賞をしながら、彼の人生から考えさせられる精神のお話を触れて、またお話をしていきたいと思います。
03:01
では皆さん、たまにでもあるいは時々、寂しいなぁと思われる時があったりしますか、いかがでしょうか。あるいはどんな時にその寂しさを感じられるでしょうか。
ある人は、以前はいつも家族でいっぱいだった家が、ある時から一人になって一人ぼっちになって、そして寂しさを感じることもあるでしょう。あるいは、先に家族を亡くして寂しく過ごしている方もおられるかもしれない。
あるいは、ある人は世の中で物事が思う通りにいかなくて、あるいは周りに味方もなくて、あるいは心を打ち上げられる友達もいなくて、寂しく過ごしている人もいるかもしれません。
今日の音楽家はシューベルトですけれども、フルネームはフランス・ペーター・シューベルトですね。今から200年ちょっと前ですけどね。
彼は残念ながら31歳に、若い時に亡くなったんですね。本当に短い生涯でした。ところが知られていないような彼の生涯は、孤独と病気との戦いだったそうです。
31歳、大瀬にものすごく集図して曲を作ったわけですね。それが大体全部で600曲の歌の各曲、また公共曲、オペラなどを作ったわけなんです。
31歳で亡くなって600曲を作ったから、それはすごいと思いますね。シューベルトさんは小さい時から音楽的な才能を持っていて、そのお父さんはカトリック教会のオルガニストだったそうです。
家族で、いわゆる集図を作れるほどのメインな家族が、本当に音楽才能に満ちた家族、その中の一人でした。
06:12
200年前ですけれども、華やかな照明を使う、いわゆる性的な楽しむ音楽が流行っていて、またそれがお金になったわけなんです。
それで多くの音楽家が、そういうお金になる曲作りをしていた時代だったそうです。いわゆる古典的に鑑賞する音楽そのものよりは楽しむ音楽、お金になるならば何でもやるみたいな、いわゆるこの世のニーズに迎合するような曲を作る音楽家は金持ちになる。
今も似ているんですよね。お金になるものなら何でもやる。しかしこのシューゲルトさんは、そういった古名のニーズに迎合するような音楽でない曲ばかり作っていたそうです。
だから人々にあまり人気もお金も得ていなくて、調べたところでは自分の家一軒すらなかった。もう転々して、若い31年の生涯を送ったそうなんです。
ところが音楽はそうだとしても、その人間シューゲルトのことなんですけれども、20歳になっても20代になっても彼の身長は152センチぐらいだった。だから今のうちの息子の子孫ぐらいなんですね。
とても小柄な人で、視力がとても悪くて、この絵にメガネをかけているんでしょう。とてもキンチがあったそうなんです。
それにこういう絵は立派な筒として描かれていますけれども、背中がとても前に猫背で若いものなのに曲がっている。小さくて目は悪くて。
そしてまた亡くなる4年前からは、とても糖病を負って、もう髪の毛は全部剃って、そして本当に苦しみながら服を作ったそうなんです。
だからそういう彼の外見と言いましょうかね、その養母は何か寂しい、何か可哀想だなとね、そういうふうに言われる、そういう彼の人生でした。
09:05
ところが調べたところ、そういうときにこのシューベルトの、いわゆる曲をよく歌う。
彼は曲を作るんですね。その曲を歌う人はとても有名になって、お金をたくさん儲けて、そういう人がヨハンフォーブルという人がいるんです。
それで当時の絵ですけれども、いわゆる死にくくなる、そういう絵ですけれども、前に立っている人が歌う歌手のフォーブルという人で、後ろにいる人がシューベルトなんですね。
芸廃中は見解を入れていただけますでしょうか。
大勢あの国でシューベルトが曲を作る。でもシューベルトはお金をあまり儲けない、有名人にならない。
で、歌うフォーブルさんはとても名声下で有名になって、とてもお金を儲けていた。
なぜか天才の音楽家は人の悔しみにつくられていて、孤独な人生を送っていたそうなんです。
今の西洋時代には本当に偉大な音楽として評価されていますけれども、本当に歴史のアイロニだなと思ったりします。
シューベルトは27歳くらいからとてもひどい病気にかかって、不眠症、大音、また糖病で髪の毛を全部剃って、いわゆるかすらなんですよね。
徐々に死んでいく感じだったそうなんです。
ところが、そのシューベルトがとても憧れていた音楽家がいました。
それはベートーベンなんですね。
いわゆる今方に言うならば、もう大ファンで見習いたくて、でも実際に交流はほとんどなかったそうなんです。
とても表心で内向きのシューベルトさんは、ベートーベンが亡くなる本当に1週間前に自分の曲を作って、ベートーベンの病床に訪ねたそうなんです。
それでシューベルトさんが自分の曲を見てもらった。
そしたら逸話によれば、そのベートーベンがね、本当に君にもっと早く出会ったらよかったのに、君はきっとこの世を輝かせる音楽家になるだろう。
だからどうか勇気を失わないでくれって一言をかけてくれたそうなんです。
12:07
その出会いのちょうど1週間後、ベートーベンは亡くなりました。
自分のメンターのような人が亡くなった直後、寂しさ、孤独がもっとマシになって、そんな中で作った楽曲が、この有名な冬の旅という曲なんですね。
20何曲がありますけれども、その中の1番を聴いてみたいと思いますけれども、
その時も、あの当時はシューベルトの周りの人々は、シューベルトさんにまたお金にならない曲を作ったねって、そんな風に笑われたそうなんですね。
今日はその冬の旅の中に、1番の日本語のタイトルはおやすみという曲ですけれども、歌ですけれども、ちょっと見ていきましょう。
16:23
はい、1番の曲はここまでしたいと思いますけれども、それから彼はですね、もう27、28、その頃、自分の死がどんどんどんどん近くに来ているんじゃないかと感じながら、投票をしながら、
その中でまた、この冬の旅の曲を作り続けていくんですね。
音楽の才能に満たされていて、たくさんの曲を作れても、その人間の本性と言いましょうか、本能と言いましょうか、その孤独さ、寂しさ、
あるいは病気、あるいは火というそれに対する恐怖は、いくら素晴らしい曲を作った人だとしても、その前では人は本当に小さくなる、内向きになる、そういうような終わりをこのシューベルトさんは送ったわけなんですね。
その中で、その冬の旅の中で一番知られている、たぶん音楽の科目の中にも出てくる、そのボダイジュという曲を今からまた続けて見ていきましょう。
18:00
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22:40
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シューベルトの音楽の中には、神が天地万物を作られたこと、そしてその彼の音楽には神への信仰がそこにあるという評論家によることが書かれています。
このシューベルトは音楽的な才能は本当に優れていましたけれども、その寂しさ、孤独、周りに自分の味方になってくれる人が本当に少ない。
また天才の音楽家なのに貧しい、貧乏であって、しかも病気で31歳になくなったということなんですね。
24:04
その他にもたくさんいろんなエピソードがあるかと思いますけれども、このシューベルトの人生を見ながら、私たちはこの後このようなことをお考えさせるんじゃないでしょうか。
生きることとは何でしょうか。
子供たちに、あるいは20代の若い人に難しいお話かもしれませんけど、生きることとは何でしょうか。
人はなぜこの世に生まれて生きていくのでしょうか。なぜ死ぬのでしょうか。
そこで人に本当に必要なものは何でしょうか。
今日の世の中の様子を見てみると、強さ、能力が求められる社会だなと思われますね。
強い人、能力のある人、金のある人はかっこいいと、すごいとね。
しかし全ての人が強い存在に強い人になれるわけではないんじゃないでしょうか。
むしろですね、弱さを抱えていない人など本当にいないと思います。
みんな弱さを抱えている人がもっと多いんじゃないでしょう。
逆に言う強い人という言葉があります。
弱い人、弱い組織、弱い会社、弱い国は強いものに飲み込まれてしまう社会です。
会社もね、小さな会社も飲み込まれる、合併させられる国もそうです。
それでこの世の中はもっと強くなれ、もっと優秀な人間になれ、もっと金持ちになれみたいな。
それがね、この世の諏訪がになっているような気がしますね。
それで、私たちもこんな世の中に生きているわけですから、
いつの間にか自分自身に対しても人に対してもどういう風な基準を持って人を評価するか。
大体この二つで人を評価しているんじゃないかなと思います。
ちょっと見てみましょう。
簡単な言葉ですけど。
27:11
あの二つがあります。
それは何をしたか何を持っているか。
この二つで人は評価されたりすると思います。
英語的には何をしたか、doingなんですね。
それから何を持っているか、having。
大体ね、その人が何をしたか、その人が何を持っているか。
それで人が評価される。
私たちはみんなこのような目で、自分を見たり人を見たり、
口で明らかでも評価したり評価されたりする社会の中にいるんじゃないでしょうか。
若い男性や女性はね、本当にいい、すごいダンボール気味みたいな、
フェラリーみたいなすごい車を乗っていたらね、みんなから憧れる。
かっこいいみたいな。
あるいはね、本当にすごい会社を経営していて、
年数がですね、何百億何千億円くらい持っていたらすごい。
その人の個人が、その魂が、他の生活がどうであろうが、
それだったらもういい人、素晴らしい人にみんなから評価されます。
あるいは家庭ではね、子供たちがいい成績を取ったら、いい子いい子。
でも成績が悪かったらもう叱られるみたいにね。
勉強頑張っていい大学やいい会社に就職したら、
素晴らしい、いい人だね、かっこいい、結婚もうまくいくみたいなね。
このような社会は、そういう評価の目をみんな持っているんです。
ところが皆さん、私が忘れてはいけないことがあります。
この世は何を持っているか、何をしたか、それによって人を評価する。
しかし実際に見てみると、自分自身も見てみてもね、
この世の中で弱い人、能力のない人、金のない人、成功していない人たちがもっと多いんじゃないでしょうか。
そう思いませんでしょうか、皆さん。
覗いてみたら、弱い人が、能力のない人が、金のない人が、
あるいは人格のない人が、成功していないような普通の人が、
30:00
実は、あるいはもっと弱い人が、この社会でどれだけ苦しんでいるんでしょうか。
世の中にみんなが強いと、みんなが一等、みんなが金持ちになっているわけではないんじゃないでしょうか。
そう見ると、シューベルトのように弱いと孤独の人は、
そういう暗い日々を、戦いの連日になっているかもしれない。
これが果たして正しいんでしょうか。これで皆さんいいんでしょうか。
あるいはもう仕方がない。だから私は金持ちになるんだ、というふうに思っていいんでしょうか。
世の中はそういうふうに言ったり、言われたりするかもしれませんが、
ここで天皇ちなる神様、唯一の神様は、この世が見る目とは全く違った目で、
私たちを見てくださる。その人が、いいや、皆さんが、私が何をしたか、何を持っているか、
それによって評価されるのではなく、
人が何をしたか、何を持っているか、それによって人を評価するのではなく、
神様はね、私たちの存在、在り方、さっきのDoing、Having、それに続いているとBeingですね。
存在、在り方、もうそのもの、そのまま、あなたがいてくれているだけで、
それで主は喜んでくださる。応援でくださる。ありがとうと言ってくださる。
そして、豊かなものだと、尊いものだと評価してくださる。
皆さんどうでしょうか。自分自身のことを、神様の目で自分自身を評価しているのでしょうか。
私は、たっとい本在だ。私は神の目で、目には大切なものなんだ。
世の中の人からどう言われても、学校の先生から、会社の上司から、周りからどう言われても、
私は神の目では大切なものなんだ。
と、そういうふうに自分自身のことを、そういうふうに言ってきているのでしょうか。
ここで今日のイザヤー書43章の4節を、もう一度ね、一緒に読みたいと思います。字幕をちょっと出してくださいね。
33:08
イザヤー書43章の4節、一緒に読みましょうか。
私の目には、あなた方は高価でたっとい、私はあなたを愛している。
はい、ここまででいいです。もう一度だけ読みますね。ご覧ください。
私の目には、この私は神様ですね。神様の目には、あなたはですからね、一人一人なんですよね。
一人一人は、もう高価でたっとい、私はあなたを愛している。
皆さん、私たちが自分自身を、周りの人を見るべき目はこの目なんです。
たくさん持っている、お金を持っている、素晴らしい、ね、成功している。
そしたら、いい人、そういうふうに評価されるんじゃなくて。
私が弱くても、寂しくても、貧しくても、能力がなくても、成功していなくても、
いや、普通の凡人であっても、子供だったらね、成績が優秀な子供じゃなくても、
神様はあなた方を、あなたは高価ですよ、たっといですよ、と見てくださるんです。
その目で、自分自身を、周りを見なければならないんです。
ところがどうでしょうか。
私たちは本当にね、世の中のあの価値観、評価基準に見られて、言われて、自分も見ていってしまって、
実はこの世の偽りに騙されているんです。
それ自分のいつの間にか、自分自身をそういうふうに評価する。周りの人を評価する。
そういうふうにしていないでしょうか、皆さん。
実はこれは、神の御言葉による評価ではない。
世の偽りに、罪からくるあの偽りの、もう偽評価に騙されているんですよ。
それだけ多くの人々が騙されて、本能されているんでしょうか。
神は、あなたは私の目には、効果でたっといと、いつも見てくださっているんです。
何かを達成したからではない。
たくさん持っていたからではない。
36:00
神は、その愛の眼差しで、いつも私を見ていてくださる。
だからこそ、むしろあえて今、弱さということを強調したいんですね。
それが、社会の静かな変革につながっていくんじゃないでしょうか。
弱さの向こうにあるもの、弱さを本当に認め減り下る時、そこには必ず神様が臨在されます。
そして、イエス様が共に歩いてくださります。
そのことをすごく私は意識するようになりました。
イエス様は、弱さや傷を負って生きる人々に、私たちに、シャロームを平安を与えてくださる。
みんなこの世の中はスーパーマンになろうとね。
ヒーローの映画が流行っている。
スーパーマンになろう。
金持ちになろう。
有名人になろう。
今の小学生、中高生、日本語もどこもそうですけど、
ユーチューバーが名前を言いませんが、テレビに出てくる人は、年収が何百億円以上になるみたいなんですね。
みんなね、今の小学生、6年生、9学生の将来夢は何なの?ユーチューバー第一。
金持ちな有名人になる。
それもいい方向もあったりしますけれども、
有名人になりたい。金持ちになりたい。それであんなもの、こんなものを買いたい。
世の中の価値観に、罪の、サタンの価値観に騙されていないんじゃないでしょう。
大人も乗っかっている。
いつか必ず当たるだろう。ないですよね、万代にいたらね。
もう、いついても高畑勝人はずっといる。
年末ジャンボみたいな、片方かありませんけど名前は知ってるね。
もう並んでいるね。
前に福岡に行ったときにですね、たぶん超元旦の日だったのかな、年末だったのかね、
福岡の駅の市内に入れたことがあるんですよね。
なぜかね、行って1年、2年経ってなる市だったけれど、人がものすごく並んでいるんですよ。
それで、今日は何か何かやるんだろうと見たらですね、
何回も一頭に当たったお店のね、高畑勝人に買うための人が、
たぶん私の記憶では、100人ぐらいね、まあそれぐらいも並んでいました。
39:11
騙されている。悪魔に、サタンに、世の偽りに。
神様が私たちに本当の命を、本当の平和をお与えになります。
今日読んでくださった、ヨハネの訓書3章16節を一緒に読みましょうか。
前の字幕にもね、出してくださいね。
一緒に読みたいと思います。ご一緒に。
神は実に、その一人ごをお与えになったほどに、よう愛された。そうなんです。
次。
それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。
皆さん、永遠の命を失くしては、本当の唯一の神様を失くしては、
人はいくら金持ちになっても、有名人になっても、その人生は無駄です。
ところが、弱い人、孤独な人、貧しい人、そういう人々の友となってくださる方が、
家様なんです。
弱い人にこそ、失敗だらけの人にこそ、寂しい人にこそ、
家様が友、友達になってくださる。
そして、いつもその弱さや、孤独さや、失敗のそのど真ん中に、いつも家様が訪ねてきてくださる。
そして、あなた方に平安がありますように、と。
この平安と訳されている言葉は、当時の言葉ではエイレーネと言いますね。
エイレーネ。シャロームという言葉も同じ意味です。
エイレーネ風民と言いました。平安がありますように。
その失敗だらけの弟子たち、不安でどうしようもない、本当にね、そういうしょうもない、みたいな自分自身、その弟子たちのところに、
家様が来てくださって、平安がありますように、と。
皆さん、覚えていてください。
42:00
神様は私たちが何かをしたか、何を持っているかではなく、
ただ私たちが存在することだけで、私たちのことを喜んでくださるんです。
親として私も、あるいは皆さんも、兄弟妻達を見るときに、交わるときに、そういう風な目で交わっていただきたいんですね。
私の目には、あなたは高価でさっとい、あなたは大切だと言ってくださる神様です。
ちょっと隣の方にですね、「あなたは大切ですよ。」とね、声を掛けてくださいますか、皆さん。
あなたは大切ですよ。
皆さん、一人一人に愛されるべき存在として、主が私に立ち帰りなさいと声を掛けてくださるんです。
神様は本当におられます。
そして本当の神様が、親と一つで、今、今日、私たちみんなを招いていてくださるんです。
あなたのところに来なさい。そして信じなさい。そして救われなさい。
人は神を信じて、心に信じて、救われます。
何かをしたから救われるのではなく、信じて、人が救われるには何の資格も条件もいりません。
もう神様が全部してくださった。
神なるイエス・キリストを使わせてくださって、そして十字架で私の罪を背負ってくださって、死んでくださった。
そしてそれによって私の罪はすべて許された。
そして神のことを知ってくださって、滅びることなく永遠の命を得させてくださいました。
これが福音であります。
この死なる神様に出会ってください。
イエス様を信じよって行こうではないでしょうか。
最後に三章、ヨハネの国、三章十六節をお読みしまして、今日のメッセージを終わりたいと思います。
曲は三曲準備しましたけれども、曲までしたいと思います。
ヨハネの三章十六節。
神は実にその一人子をお綿になったほどに、よう愛された。
それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。
アーメン。
お祈りします。
45:02

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