1. 名谷教会
  2. 2015/10/25:聖日礼拝(旧音源)
2015-10-25 39:03

2015/10/25:聖日礼拝(旧音源)

2015/10/25 聖日礼拝(旧音源)




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それでは今日はですね、この御言葉から、「あなたは大切な人です。」という題を持って、共に恵みをお受けしたいと思います。
それでは、メッセージに入る前にですね、石間のように隣の方々と対話をしましょうか。
ようこそいらっしゃいました。おはようございます。
はい、それでは一言お祈りします。
神様、あなたの御言葉は光です、命です、真理です。
今、ここに集っている我らにしよう。
あなた様の光へ、真理へ、命へ、導かし、我らを導き入れて下さい。
お願いいたします。
御伝えに至れ、神様の御名によってお祈り致します。
アーメン。
はい。
5日前ですね、ネットのYouTubeで、ドクター・リンターローというドラマの一部を見たことがあります。
皆さん、見たことありますか。ないですか。
天才精神科医師が精神科の患者さんを治療する過程を描いたフィクションのドラマなんですけれども、
少しだけ見てですね、そこで一つ教えられたことがあります。
それは、いわゆる共感という、その共感の能力が、力がいくら大きなものなのか、一つ教えられたんですけれども、
そのドラマの一つのシーンで、ある女性がビールの屋上から飛び降りようとする女性がいたんですね。
こんな感じですね。飛び降りようとする。
その時そのリンターロー先生が彼女にこう語るんです。
頑張らないでください。あなたは今まで十分頑張ってきたんですよ。もう頑張る必要はないんですよ。と優しく声をかけていました。
頑張りすぎるほど頑張ってきた人にもって、あなたはもう十分頑張ってきたんですよという声は、まるで救いの言葉になるかもしれません。
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頑張る人、あるいは頑張りすぎる人って、だいたいこういうような人ではないかなと思います。
すごく自己増加が低くて、自分の価値が2位ではなくて、頑張っていなければ自分はここにいてはいけないんだとか、
あるいは頑張らなければ自分は認めてもらえないんだとか、こういう感じの人ではないでしょうか。
それで、こういうタイプの人は、ありのままの自分ではだめだと思い込んでいるから、頑張っている人たちではないです。
だからどんなに苦しくても、もう頑張らなくちゃ、頑張らなくちゃと自分を追い込んでしまうんですね。
あのビールから飛び降りをしようとした女性もこのようなタイプでした。
このようなタイプの人にとって、あなたは頑張らなくていいんですよ、という一言は、そのままのあなたで十分に素晴らしいですよというメッセージとして、
心に響くものになるのではないでしょうか。そのままのあなたで十分に素晴らしいですよという声。
実は皆さん、この声が神様の声なんですよ。
そのドラマを一部見ながら、私たちの信仰生活のあり方、ありざまを思い浮かべてみました。
みんながそうでないかもしれませんが、多くのクリスチャンが、頑張らないとイエス様に認めてもらえないんじゃないかと。
このままじゃイエス様には認められないんだと、そういうふうに思い込んでしまって、まるでドラマの女性のように、
頑張りすぎる、頑張りの信仰生活をしているんじゃないかなという思いがしました。
皆さん、19世紀から20世紀に上がって、アメリカから始まったこの世界の思想や哲学、あるいはそれが神学や教会にまで大きな影響を及ぼした思想があります。
それは成長式、あるいは成功式というものです。
19世紀アメリカの経済成長、そして20世紀に入って日本の経済成長がとても素晴らしくなされました。
ところが、このような成長式、成功式というものは、私たちの生活や生活、あらゆる人間関係にとても深く浸透して大きな影響を及ぼしました。
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もちろん、経済成長というとても素晴らしい結果をもたらしましたけれども、一方では、我々人間の精神や関係にあまりにもよくない結果をもたらしてしまったわけです。
例えば、学校や社会、あるいは家庭でいわゆる成績が良くって、いい学校に入って、例えば日本だったら東大とか京大とかに学校を卒業して立派な会社に就職できて、
お金も儲けて立派な家庭を持っている人が、家庭から社会から認められ、褒められる社会になっています。
いわゆる成功した人、良い人という党式が成り立っている社会になっているんですね。
その反面、あまり成績も良くない、いい学校にも入っていない、いい職場にも就職できていない、いわゆる成功していない人々は、世界からも認められない。
学業者、歯医者みたいに扱われる社会になっているのではないでしょうか。
こういうような社会の雰囲気の中で、思想の雰囲気の中であるかも、私たちは育てられたかもしれません。
あるいは、そういう子供を育てているかもしれません。
どれもですね、完璧な親はいないんですけれども、大外の人々が育てられるときに、兄弟とか誰々の子供に比べられながら育ったと思うんですね。
あなたのお兄ちゃんはこんなに立派にできている、お前はできないね、とか、誰々ちゃんを見てね、とか。
あるいは親父が結婚したら、誰々の奥さんは、誰々のお父さんは、とかですね。
そういうふうに比べられて、言われて、そういうふうな雰囲気で私たちは生きているかもしれません。
私の話なんですけれども、私も大学のときに親や人々に認めてもらいたくて、とても頑張りすぎたときがありました。
大学のときに人々から認めてもらいました。偉い人だな、素晴らしいなと言われたくて。
そしてもちろんお金もない、そういう事情もありましたけれども、それで自分が選んだ道は、もう一生懸命勉強して、いい成績取って、
賞金をもらおうということに自分は賭けました。そして大学4年間、もう胃のうちに勉強しました。
目を開けていたら勉強している。寝ていたら寝る。そして電車の中にもバスの中にも。
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どこにでも授業の時間以外は、いつも図書館で勉強していました。
みんなやっている語訳文部科はそんなことをやったことが一度もない。もう狂ったほど勉強ばかりしていました。
結果的にいい成績は持てたんですけれどもね。
ではみなさん問題は、このような性格文化というよくない影響の中に、それがいつの間にか私たちの信仰生活にも、
それから神様との関係にも影響を及ぼしているかと思います。
つまり、信仰生活の中で神様に認めてもらいたくて、頑張る、頑張りすぎるという信仰のありじゃまだと思います。
頑張らないと、一生懸命何かをやらないと、神様に認めてもらえないんじゃないかと。
そして頑張る信仰が良い信仰だというふうに思い込んでいるのではないでしょう。
だから教会の中でも、あるいは教会館の中でも、成功式、実績式、あるいは作品式というふうな雰囲気が全くないとは言えない作品の雰囲気だと思います。
頑張ったら神様に褒められる。頑張って頑張って放置したら人々にも褒められる。
ところが、とても頑張って信仰生活を送っている我々に、一生懸命にやっている我々に向かって神様が何とおっしゃるのでしょうか。
もっと頑張りなさい、もっと頑張りなさいと夢中通りにしてしまう。
あれはお前なんでしょっちゅう落ち込むだろうか、と怒るのでしょうか。
いえ、決してそうではないでしょう。
さっきも言いました、ドクター・リンタロウが言ったように、頑張らなくていいんですよ。
そのままのあなたで十分に素晴らしいですよ、と優しく声をかけてくださる家様がおられること。
実は皆さん、家様も神様からそのように声をかけられたんです。その場面が今日のお見言葉なんです。
よく皆さんご覧ください。
家様がバプテスマを受ける場面なんですけれども、皆さん、家様がバプテスマを受けるときはいつですか。
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それは家様が公家教会の働きを始める前なんですね。
つまり、家様が数多くの病人を癒す前です。
悪霊に囚われた人々を悪霊に追い出して立派な働きをする前なんです。
あるいは十二名の弟子を作る前なんです。
いろんな奇跡を行う前なんです。
つまり、これをまとめて言いますならば、家様が名師屋として実績をなす前なんです。
つまり、名師屋としては何もしていないときなんです。
そのときに家様がバプテスマを受けました。
さあ、そのときに神様からどう言われたんでしょうか。
それが十七節ですね。十七節を一緒に読みたいと思います。
よろしいですか。十七。
また、天からこう告げる声が聞こえた。
私はこれを喜ぶ。
皆さん、家様がとても素晴らしい何か業績、実績、成果をあげた後からではないんです。
何もしていないときなんです。
そのときにすでに神様は家様に向かって、
あなたは私の愛する子。
つまり言い換えならば、私はあなたを今のあなたのままで、
私はあなたを愛してますよ。
私はあなたを喜んでますよという声なんですね。
この二言葉は、人間である家様にとってはとても大切なお言葉です。
家様はですね、全く神でありながら全く人間ですから、
我々人間と同じ環境、状況、すべてを感じ、お持ちになっているからなんですね。
家様がこれから大和教会の働きをする前に、
家様のこの愛現実にとても大きな影響を及ぼした二言葉なんです。
そのときに神様は家様に、あなたは私の愛する子です。
私はあなたを喜んでますよという声を優しく語りかけてくださったんですね。
だから皆さん、人間であられた家様は、この働きをスタートする前に、
あ、自分は神様に深く愛されている。
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まだ何もしていないのに、誰々のように立派なこと、
まだ何もしていないのに、こんな私も既に愛しておられると、
喜んでおられると、あ、そう語ってくださったという愛を、
家様は深く感じた上で、そこから働きが始まったのではないでしょうか。
この経験こそ、人間であられた家様にとっては、
とても一生涯、この業での働きをする中で、
一生涯、家様にとっては、とても大切な経験でした。
それは、あ、神の愛は本当に無条件的な愛なんだ。
ただ、私の存在を受け入れてくださるお父さんなんだ。
私が何かをしたからこそ、したから、いいことをしたから、
実績を起こしたから、強いからとか、えないことをしたから、
神様は愛しているとおっしゃるんじゃなくて、
何もしていない時に、私はあなたを愛していますよ。
私はあなたを喜んでいますよと語ってくださった。
皆さん、家様にとって、神の愛を確認する、確信する時です。
あ、自分のこの存在、このままでは受け入れてくださる、
愛してくださる、喜んでくださるという声を聞いて確認したわけなんですね。
だから、揺さぶられることがないんです。
だから、その後どんなことが起きましたか。
その確認、確信があった後、
イエス様はアラノで断絶に入って、
そして悪魔に出会いましたけれども、
あのサタンの誘惑、それは権力の誘惑です。
迷路の誘惑です。
その誘惑がありましたけれども、揺さぶられなかったんですね。
ビックと持ちなかったんですね。
起きることができました。
イエス様は、自分が名声を持っているから、権力を持っているから、
何かを立派な声を上げたから神様に愛されるんじゃなくて、
もうこのままで一応あなた自身を喜んでくださる、
自分のことを一応愛されることを確認して、確信していましたから、
誘惑があっても負けないんですね。
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このアメリカの有名なヘンリーナウエンという先生がいますが、
彼が書いた本、愛されている者の生活、
愛されている者の生活という本があります。
その中にこういう話があります。
成功や名声や権力は、実際大きな誘惑から出ていることが多いのです。
あなたには価値がない。
愛されるに値しないと呼びかける声をあたしたちが信じるようになると、
次は成功、名誉、権力を求めることこそが、
その問題を解決する魅力的な手段のように感じられます。
自己虚偽は霊的生活の最大の敵です。
それは、あたしたちを愛する者と呼んでくださる聖なる神の声に反することです。
愛されている存在であることは、
あたしたちの存在の最も中心的な真理の表現なのですから、とあります。
本当に皆さんその通りなんです。
さて、イエス様がこの初端の誘惑に出会う前に断食をされたんですね。
2節をご覧ください。
4章の2節です。
そして40日40夜断食をした後で空腹を覚えられたと、
40日間イエス様は断食をして祈ってやられました。
皆さん、イエス様が40日間断食をされながら何を考え、何を感じられたのでしょうか。
間違いなく40日間イエス様の心は神の愛で一杯になっていたでしょう。
その40日間、神の愛、無条件的な愛、
自分が何を成したから愛してくださる愛ではなく、
ただ自分の存在のありのままを愛して喜んでくださる神の愛を豊かに厳密に噛み締め、
味わった時間だったのではないでしょう。
皆さん、この父なる神様がイエス様に語りかけられたように、
今日も私たち一人ひとりに同じく語りかけておられるんです。
私の愛すること、私はこれを喜ぶこと、
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今日この父なる神様の声を聞いていただきたいですね。
私たちが何か立派なことをしたら、
うれしい、うれしい、喜ぶ、それだけではなく、
失敗しても、落ち込んでいても、弱くても、嫌だるとおっしゃらなくて、
私たちの存在そのままを受け入れてくださる、
そして私はあなたを愛していますよ、
私はあなたのことを喜んでいますよと語ってくださる父なる神様の声を聞いて、
その確信をお持ちください。
皆さん、これこそ福音ではないでしょうか。
皆さん、イエス様が十字架にかけられて死なれたときに、
そのときに私たちは罪人であったときに、
そのときにイエス様は十字架にかけられて死んでくださったんですね。
私たちが立派な人だったから、立派な信仰を持っていたからではないんです。
罪人であったときに、そのまま愛しておられるから、
そのまま受け入れてくださるから、値するから、
イエス様は十字架にかけられて死んでくださったわけですね、皆さん。
ある統計によりますと、日本の社会は毎年3万人以上の人々が、
自分なんていなくていいんだと考えているしね、
自ら命を絶っていくそうです。
そういう人の中で、そうではない。
あなたは神様から探されている存在なんだ。
あなたを愛しておられる神がいるというメッセージを知ってほしいんですね。
そしてこのメッセージを知っている私たちは、それを落ちらせない。
今日、きつなる神様が皆さんお一人お一人に長く語り渡しておらせます。
私はあなたのことを愛している。
私はあなたのことを喜んでいる。
あなたがうまくいっているかどうか、それは関係ない。
あなたは私にとって大切な大切な息子なんだ、娘なんだという声を聞こうではありませんか。
私があなたを愛するのは、あなたが何か素晴らしいこと、すごいことを成したからではない。
あなたが強いからでもない。
あるいはあなたが一生懸命頑張っているからでもない。
24:01
私はただあなたの存在をそのままありのまま愛しているんだよ。
あなたでないとダメなんだという声を聞きたいんですね皆さん。
その神の声に耳を傾けたいんです。
もしかしたら私たちは私たちの人生の物語を書き直さなければならないかもしれません。
人々が作り出したいわゆる成功式、成果式というものたちで自分を評価する。
あるいは人々を評価して押し込んだり高ぶったりするのではなく、
私たちを作られ、私たちを本当に愛しておられ、一人ごとイエス・キリスト十字架で死なせるほど、私たちを愛してくださった神様。
私たちが罪人であった時に、私たちのために一人ごと十字架に渡してくださったこの神の無条件的な愛の声を聞きながら、
信頼しながら歩もうではありませんか。
皆さんは普段どういう声に耳を傾けていますか。
どんな物語を持って自分を評価しているでしょうか。
あるいは家族を、あるいは周りの人々を、誰かを評価しているのでしょうか。
その物語は人間が作った、いわゆる成果、成功主義、実利主義、そういったものではないでしょうか。
神様の物語は決してそんなものではない。条件がついていないでしょう。
ここで信仰とは何なのか、もう一度ですね、考えてみたいと思います。
信仰とは何でしょうか。信仰は頑張りでしょうか。
いいえ、違います。信仰とは一言で言うならば、ブドウの木であるキリストにつながることです。
ちょっと整数を開きましょうか。
ヨハネの国書15章ですね。ヨハネの国書15章。
27:00
1節から私が読みます。211ページです。私は読みますね、1節から。
私は誠のブドウの木であり、私の木は農夫です。私の枝で実を結ばない者は皆、
木々がそれを取り除き、実を結ぶ者は皆、もっと多く実を結ぶために刈り込みをなさいました。
ここまで読んだら、実を結ばなくならないと思うかもしれませんが、これが主なメインの話であります。
これはゴールではないんですね。その次から大事です。3節から私が読みます。
あなた方は、私があなた方に話した言葉によっても強いのです。4節からご覧ください。
私にとどまりなさい。私もあなた方の中にとどまります。枝がブドウの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができます。
同様に、あなた方も私にとどまっていなければ、実を結ぶことができます。
私はブドウの木で、この5節は一緒に見ましょうか。5節だけ一緒に見たいと思います。
私はブドウの木で、あなた方は枝です。人が私にとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。
私を離れては、あなた方は何もすることができないからです。
皆さん、この話は、家様が人々にたくさんの実を結びなさい、それがゴールではないのです。
まずは、先に必要なのは、家様につながっていること、家様の中にとどまっていること、それが先なんです。
いや、それが全てなんです。
家様にとどまっていれば、つながっていたら、実はもう自然に作られますよ、結ばれますよ。
だから、実を作るために頑張るんじゃなくて、家様につながっていること、家様の中にとどまっていること、それが信仰なんですよ、という家様のお話ではないでしょうか。
ところが、今日のこの世代の哲学思想の影響のゆえに、私たちは主の中にとどまること、主につながって、その中で神の愛をこのままでもしは受け入れて下さい、
愛して下さい、その愛を豊かに味わうことより、もっと頑張って実を結ばなくちゃ、もっと成果をあげなくちゃ、もっと素晴らしいことをしなくちゃ、
30:04
誰より偉く何かをしなくちゃ、という結果ばかり目指しているんじゃないでしょうか。
そのうちに、神様との関係、この愛の関係が薄くなっている。
そして、一瞬の間にが頑張っているんだけれども、いい成果をあげたらいいんだけれども、それができない時にはどう思うんですか。
やっぱり俺はダメなんだと、そう思い込んでしまうんですね。
そのベースした後が、ちょっとじれているんじゃないでしょうか。
とどまっていることだけで、家様は十分ですよとおっしゃるんですね。
つながっているだけで十分ですよ。そしたら、あなたは枝だから、木である私が実を結ばせてあげるから、とおっしゃる声に耳を傾けたいんですね。
6節ご覧ください。
誰でも、もし私にとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて食べます。
人々はそれを寄せ集めて、火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
7節。一緒に読みたいと思います。7節。
あなた方が私にとどまり、私の言葉があなた方にとどまるなら、何でもあなた方の欲しいものを求めなさい。
そうすれば、あなた方のためにそれがかなえられます。
皆さん、何が先なんでしょうか。実が先なんでしょうか。とどまることが先なんでしょうか。
神の愛を確信する、信頼することが先なんです。
それが、その舞台が薄くなっているとですね、不安なんです。
失敗したら、ああ、捨てられるんじゃないか。
いいことができなかったら、認められないんじゃないか。
不安で不安でいっぱいなんですね。
そして落ち込んだり、あるいはさかぶったりしてしまう。
いや、イエス様は神様が私たちに求められるのは、
身はあなたが結ぶんじゃない、私が結ばせてあげるんだから、
あなたは私にただとどまっているだけで十分ですよ。
私はあなたを喜ぶ、私はあなたを愛しているという声を、私たちは聞かなければいけない。
それを福祉のもとだけならないんですよね。
ですから、キリストにつながっていることが信仰ではないでしょうか。
時に、よく耳にする言葉があります。
自分は、信仰は足りない、祈りは足りない、足りない、もうだめで、
33:04
そういうことね、それは心存であるかもしれませんが、
自らを責めることではないでしょうか。
皆さん、心配しなくていいんです。
その信仰が、本当に小さい枯らし種のようなものであったとしても、
種には何がありますか。
命があります。そこには命があるんですよね。
だから、キリストにつながっている限り、信仰という管を通して、
恵みが流れてくるんです。
そうすると、いつか必ず実を結ぶことができるのです。
それを知ってくださるのが神様なんです。
それを信頼するのが信仰なんです。
頑張って実を結ばせるのは私でありません。
皆さんではないです。
だから、自分を見て失望する必要はありません。
むしろ、絶大な働きをしてくださる神様に、
信仰の目を向けようではありませんか。
それから、皆さんに向けて、私たちに向けて、
愛してますよ。
あなたでないとダメなんだからと言ってくださる、
神様の愛を知ろうではありませんか。
その愛を知ることこそ、
深く経験すること、豊かに味わうこと、
それが私たちの信仰の土台であり、人格の土台であり、
人生の土台にするべきではないでしょうか。
聖書、ここでですね、聖書を一箇所開きたいと思います。
プリビュートの手紙2章。
この前、商店で見た顔なんですけどね。
プリビュートの手紙1章でした。失礼しました。
プリビュートの手紙1章6節、382ページ。
新約のプリビュートへの手紙1章6節、382ページ。
1章6節をですね、一緒に読みたいと思います。
イスカサンアイ。
あなた方のうちに良い働きを始められた方は、
チリスとイエスの日が来るまでに、
それを完成させてくださることを、私は固く信じているのです。
36:06
皆さん、この言葉は本当に大事なんです。
良い働き、それが信仰であろうが、皆さんの人生であろうが、
家族の伝道のことであろうが、何であろうが、
その良い働きを誰が始めましたか?
イエス様が始められました。
皆さんの信仰をスタートさせたのもそうなんです。
その始められた方が、その良い働きをどうしてくださるんですか?
完成させてくださるんです。
皆さんの信仰、あるいは家族伝道を皆さんが望んでいることからの完成は、
いや、皆さんがさせるんじゃない。
始められた方が、それを完成もさせてくださるんです。
この信仰に立ちましょう、皆さん。この信仰に立ちましょう。
この信仰に立っていますとですね、もう不安なんてないんです。
イライラする必要もありません。落ち込む必要もありません。
いずれにしても私は弱いんですけれども、神様は偉大な方であるから、
つながっている限り恵みは流れてくる。
そして、神様はそれを完成してくださる。
素晴らしくそれを完成してくださることを、
私の働きではないんです。皆さんの働きではないんです。
神の働きなんですね。
だから神様が責任を負って、それを完成させてくださるんです。
このような神の無条件の愛を知る人こそ、自分自身を愛することができるんです。
そして、誰とも失格しない。
いや、失格されても平気なんです。
なぜでしょうか。誰から何と言われても、
お前はダメだなと、何と言われても平気にいられます。
なぜでしょうか。
神の愛を知っていて、その愛に立っているからなんですね、皆さん。
この愛に立っている人は、また家族も周りの人も、
本当の愛を持って愛することができるんです。
今日のメッセージのタイトルは、
あなたは本当に大切な人なんです。本当にそうなんです。
これが神の愛であり、天皇お父様の声なんです。
この笛を素直に受け入れていただきたいんです。
この愛にあって、今日も一生涯を歩んでいこうではありませんか。
あなたは神様にあって大切な人です。
39:00
お祈り致します。
39:03

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