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それでは、一文のように周りの方と挨拶しましょうか。
はい、ありがとうございました。一言お祈りします。
さて、スイコシの祭りの前に、この世を去って地の身元に行くべき、自分の時が来たことを知られたので、
世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく死ねされた。
主よ、イエス様は弟子たちだけではなく、私たちをも最後の最後まで、昔も今もこれからも愛してくださること。
今日、主のその恵みと愛と選びについて、主から聞きたいと願っております。
主よ、一人一人の心の中に、霊の中に主が言葉を語ってくださいますように。
そして、地づきよ、悟りよ、また恵みを豊かにしてくださいますように、お願いいたします。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
感謝します。
今日も神様が恵みと健康と力をくださって、このように礼拝をともにお捧げできること、本当に感謝いたします。
このヨハネの福音書のメッセージが、去年の6月11日から始まって、もう1年過ぎまして、
今、大体半分来ていますので、これからあとまた1年ぐらいは指していただくのではないかと思います。
また、私も主から教わって頑張りたいと思いますので、皆さんも頑張って続けていただけたらと思っております。
ヨハネの福音書、ここまで12章まで来て、今日13章に入りましたけれども、
このヨハネの福音書に書かれているイエス様のことを、もし一言で、一つの単語で表現することができるならば、何でしょうか。
皆さんは何だとお答えできるのでしょうか。
おそらく多くの方々がそろえて、愛のイエス様とお答えになるんじゃないかなと思います。
確かにそうなんですね。
ヨハネの福音書に登場するイエス様の姿は、時には一人の女の人に注目をなさるイエス様。
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時には5000人以上の多くの人々を注目して、愛して、恵みを施されるイエス様として書かれていますし、
また同じく私たちにもそういう方として、私のところに近づいてくださるイエス様であります。
ヨハネの福音書は、大体11章までは、ある特定の少数の人じゃなくて、
特定していない群衆、大衆向けのメッセージなりに教えなりをイエス様がされてきたんです。
今日の13章から特に17章までは、その群衆ではなく、特定の群衆ではなく、数千名じゃなくて、
とても小さな少数の人々に愛と関心と時間と情熱を注がれた。
その少数の人たちって誰なんでしょう、皆さん。
イエス様の弟子たちなんです。
12人なんです。ここにおられ方の大体3分の1くらいかもしれない。
とても少ない人数ですね。
もしイエス様を今の僕氏と例えることができるならば、
イエス様の僕会の最後の1週間は、その少数に、いわゆる選ばれた人に集中して、
彼らを教えられて、彼らを愛して、そして神様のもとに帰られたということなんです。
私はこのメッセージを準備しながら、こんなふうに考えて想像してみたんですね。
できないんですけれども、もしできるんだったら、過去に戻ることができるんだったら、
12人の弟子、イシカリオという家族じゃなくて、他の弟子になって、
この聖バンさんといわれる、そこにいたいなと思ったんです。
本当に近くに、ヨハネといわれる、ヨハネさんはイエス様の胸のところに横になって抱かれるみたいにいたわけですから、
本当にイエス様の息が感じられるほどの、近くでイエス様のお話を、
しかも最後のイエス様の最後の、あの子のヨハネさんが書いた長いこの愛にこもったこのメッセージを、
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もう近くで聞ける恵みは、そこにいたいなと思うんですね。
皆さんはそんな考えをしたことはありませんか?
そこでイエス様と一緒に食べたり、笑ったり、泣いたり、深く考えたり、
あの、そんなに広くない部屋の中で、イエス様は12人の弟子たちと最後の晩餐をされました。
そしてそこではですね、今までと違ったイエス様のお話が話されました。
というのは、ある意味でこの12人は選ばれた者たちなんですね。
選ばれた者たちなんですね。
選ばれてない者には、まあ苦しみであって悲しみかもしれませんが、
選ばれた者たちには大きな喜びであって、祝福であって、恵みなんですね。
今日ね、藤本君が赤字してくれて、あのキャンプのことをちょっと思い出しましたけれども、
そこも他の青年たちもたくさんいたことでしょうけれども、
そこに参加できた人たちは、ある意味で主に選ばれた者じゃないかと私は思ったんですね。
それで祝福があったということであります。
その時にイエス様が、あのたった12人いるそこで一番最初にイエス様が話させた、
そのことをヨハネはこういうふうに記しています。
一節、もう一度ですね、一節を一緒に読みたいと思います。
さて、杉越の祭りの前に、この世を去って父の身元に行くべき自分の時が来たことを知られたので、
世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
この神科学は、この最後の部分ですね、イエスはその愛を残るところなく示されたとありますけれども、
2017年出された聖書には、イエスは彼らを最後まで愛されたとあります。
それを今日のタイトルにして、イエスは彼らを最後まで愛されたとさせていただきます。
まずこの一節からイエス様のことを一つお話したいと思います。
それは、イエス様はご自分がいつ死ぬか、父の身元に行くべきか、その時とその場所とそれを知っておられました。
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世間的には、賢者の知恵は自分の時と自分の死を知ることだとも言われています。
しかし愚かな者の特徴は、自分の限界を知らない、自分の無知を知らず、そして自分の死を知らない。
とても長生きすることのように思って生きる。
あるいは自分の病気を自分が治せるかのように、コントロールできるかのように振る舞う。
そう見ればですね、人間はどれだけ愚かな者なのかとわかります。
イエス様はご自分がいつ死んで、そしてどこで死んで、何よりなぜ死ぬかをはっきりとご存知でした。
この十三章始まって、大体一週間後になったら、イエス様は十字架で死刑されます。
病死でもありませんし、死前死でもありません。
私とあなた、私たちを救うために死なれました。
以前、九十九歳のお医者さんがイエス様を信じるようになった証を説教で聞いたことがあります。
若い年ではありませんが、その方が自分は医者としてイエス様を信じようと決めたその理由を
こういうふうに言っていました。
その方は医者として多くの患者さんを見てきたわけなんですよね。
ところがそこにこういう特徴があったらしいです。
そもそもこの方は、この死んだ後はどうなんだろうか、それにとても関心というか、それがあったわけなんですね。
それでその方が言うには、その患者さんの中でイエス様を信じて信仰を持っている人は
もう死ぬ病気にかかっても、その死ぬことをあまり恐れていない。
むしろ天国に行きたがることを見て、医者として不思議だなと思ったそうです。
ところが無心のお医者というか信仰のない人は、実は死ぬ病気でもないように死ぬかと思って
とても恐れて恐れていることを見て、なんでこんな違いがあるんだろうか。
普段お医者さんとしてずっと考えてきたそうなんですね。
そしてやっぱり死んだ後には何かがあるんじゃないかと。
そして信仰を持っていたら本当にもう1ヶ月2ヶ月3ヶ月しか生きられないかもしれないのに
全然平気でいや喜んで死ぬことを楽しみしているようなそういう人々を見て
ここには確かに神があるんじゃないかと、信仰があるんじゃないかと
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そういうふうに自分もその患者さんを通して気づかされて
歳をとっているんだけれども、イエス様を信じたいと。
それで99歳の親さんがイエス様を信じて千年を受けたそうなんですね。
皆さん賢い人は自分の人生の始まりを知って、そのプロセスを知って、その最後を知るものない。
だから神様を選ぶのです。
神の前に行くのです。
もともと自分がいるべき場所に至福と愛と平安の場所に戻っていくのではないでしょうか。
イエス様はなぜ自分がこの世に来たのか、その目的をよく知ってやられました。
一人でも多くの人々を恐れと不安と恐怖と罪から来る死から救うために十字架で死ぬこそ、
それが自分のこの地上に来た目的であることをよく知ってやられました。
皆さん私たちも人はどこから来て、どこを通ってどこに行くのかをよく知っていただきたいと思います。
そして二番目はイエス様の御言葉からわかるように、死というものは全てが無になる終わりではないということであります。
この一通りをよく見ますと、杉越の祭りの前にこの世を去って、その次の言葉ですよ。
この世を去ってどこに行くんですか。どこに行くんですか皆さん。
父の身元に行くということ。これが大事です。皆さんイエス様の死はそれで終わりではないんですよ。
恥とか呪いとかはそれで終わりではないんですよ。我々も同じなんですね。
イエス様が教えてくださいました。父の身元に行くということです。神の身元にみんな帰って行くことなんですね。
そして二節にイエス様が語られました。夕食の間のことであって、悪魔はすでに指紋の子イスカリオテユダの心にイエスを売ろうとする思いを入れていたがとあります。
イエス様は知っておられましたね。あと何日か経ったら自分は十字架で救いのために死ぬのだと知っておられました。
しかしそれは神の身元に帰って行くことでありました。皆さん私人もみんな同じであります。
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死ぬということは確かに怖いものであるかもしれませんが、しかしそれは神の身元に帰るときであって、
全てが無になるとか何も残らないものではなく、みんな神の身元に帰るわけなんです。
イエス様を信じる者はですね。でも神を信じない、もう神なんていないと考える人はもう無になるんだと。
実はそう思いたくなるだけなんですよね。
実は死の後に裁きがあること、人間は本能的に例のものだからそれを何かのことで感じている。
だから死にたくない、だから何も残らないんだと言いたいだけなんですよね。
人生に三大の質問があります。一つ、人はどこから来て?二つ、何をして?三つ、どこに行くのか。
世の中の人々はそれを知るために必死なんです、ある意味で。あるいは何も知らずに一生懸命生きているだけなんです。
あるいは何かの成功をして自主的を得て自分の評価を高くしたい、あるいは人々に責任から名誉をもらいたいだけなんです。
しかし私たちは聖書を通してその答えをみんな知っているわけなんです。
ちょっとセーフを開きましょうか。ローマ人への手紙、11章36節、開きましょうか。
308ページになります。ローマ人への手紙、第11章36節。
一緒に読みたいと思います。
というのは、すべてのことが神から発し、神によってなり、神に至るからです。どうかこの神に栄光が常しえにありますように。アーメン。
みなさんどうでしょうか。すべてのことがですよ。私たちもすべてのものが神から発し、神から発しで、神によってなって、神に至るということです。
だからイエス様は十字架を避けられませんでした。十字架を背負われました。その死の後には神の身元に帰ることをよく知っておられたからです。
みなさん、私たちもこの三つのことを、ぜひ聖書的にその認識を持っていただきたい。
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自分は神から来て、神のために生きて、神のもとに行く。この三つさえはっきり知っていて生きるならば大丈夫なのではないでしょうか。
さまようこともありませんし、なんで生きるんだろう悩むこともありませんし、あるいは死にたくない、死にたくないということもなくなるのではないでしょうか。
神から来て、神のために生きて、神に行くということです。しかし神様が人をアダムといえば最初に作られた時には、みんな人間はどうでしょうか。
罪を知らない、罪を犯さない、永遠に神と共に生きる存在として作られたんです。死も病気もないんです。
しかし人間が罪を犯してしまって、死が入ってきました、病気が入ってきました、呪いが入ってきました、苦しみが入ってきました。
聖詩ははっきりと語っていますね。罪の報酬は何でしょうか。死です。
そしてその故に、絶望が混沌があるいは病気が入ってきたわけなんです。
それで神様は御子イエスキリストを送ってくださって、私のためにあなたのために代わりに常寺下で死んでください。
その死、絶望、病気すべてから救うために、そしてみんな最初に作られた想像の時の姿に変えるために永遠の命をお与えになったということです。
だからイエス様を信じましょうということであります。
イエス様という道だけが死とか絶望とか苦しみとかから解放される、不利になる唯一の道だからなんです。
もう一度みなさん改めて覚えていただきたい。
死というものはすべてが無になる終わりではない。神のもとにみんな変えていくということであります。
三つ目、今日の一節から教えられた三つ目は、イエス様はご自分のものを最後まで愛されたということであります。
この神科学は、その愛を残るところなくってありますから、最後の最後まで愛されたということであります。
みなさん、イエス様はここにね、世にいる自分のものを愛されたとあるんですね。
イエス様は私たちはどんなふうに愛してくださるんでしょうか。
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それはイエス様が、たくさんの日本の中のクリーチャー、世界の中の人をまとめて愛しているんだけれども、たまたまそこに私たちが入っているわけではないんです。
例えば、子供の大会としたら、お菓子掴み取りをするんですよね。
お菓子を取って、たまたまお前が入っているみたいに、神様が私たち多くの人々を愛して選んだから、偶然たまたま私が選ばれたわけではないんです。
一人一人世の前から、永遠から知っておられて、そして、召してくださって、愛してくださって、呼んでくださった、選ばれたものが私たちなんです。
人間の愛を例えて話してみましょうかね。男女が愛をします。そして、その男性が女性に、「俺は死ぬ後もあなただけを愛します。」と。
そして、その男性が本当に実際に一生、その自分の女の人を一人だけ愛して、その女の人のために生きて、その女の人のためにもし死んだとしましょう。
なんてかっこいいでしょうか。ドラマの謎通りみたいじゃないでしょうか。
実は、イエス様の愛がこんな愛なんですよ。私はあなたを愛する。そして、あなたのためにこの地上に来たんだ。そして、あなたのために私はジョジカに死ぬのよ、という。
このイエス様の愛は、もうちょっと掘り下げて話していきましょうか。イエス様の愛はどんな愛でしょうか。無条件の愛なんです。
条件がついていないんです。条件を求めない愛なんです。
もし皆さんがイエス様に、「イエス様、なぜ私を愛されるんですか?」と聞いたら、イエス様は、「ただ私はあなたを愛するんだ。」
実は、なぜイエス様が私を愛するか、理由がないんです。答えがないんです。イエス様の愛は無条件の愛なんです。
我々人間の愛とは違うんです。実は皆さん、どうでしょうか。私たちも変わらないんですけど、普通の人間の愛ってどうなんでしょうか。
実は、深いところを覗いてみたら、だいたい、条件付きの愛なんですよ。そうと思いません、皆さん。
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自分に利益になるから、あるいは自分の好みなんだから、あるいは気が合うから、あるいは世の中はですね、
誰々さんを本当に尊敬してついていく。そこにお金があるから、権力があるから、名誉があるから、何か自分に利益があるからついていくということが、世の愛じゃないでしょうか、皆さん。
ここの多くの方々は結婚なかったわけですけれども、今もそうでしょうけれども、少なくとも昔戻って恋をしてたときには、本当に好きなタイプだったから結婚されたでしょう。
今も有効なかどうか、それは分かりませんけれども。イエス様には好きなタイプが決まってないんです。みんなが好きなタイプなんですよ。そうでしょう。
もしイエス様が好きなタイプ、男性は身長185、女性は160、太っていない人、髪の毛が多い人、西洋人、そんなふうに神様がもし好きなタイプがあったら、だいたい私たちはアウトかもしれない。
しかし神様は好きなタイプが決まっていない。みんなが好きなんですよ。そして一人一人を愛してくださるわけなんです。
イエス様がなぜ私たちを愛して死んでいるのでしょうか?私たちが有名だから?あるいは愛されるべき何かの能力があるから?あるいは愛されるほど神様にたくさん捧げられるお金があるから?
違いますよ。ただ愛してくださるんですよ。本当によかったんじゃないでしょうか?これこそ恵みなんです。
もう一つイエス様の愛には資格を求めないんです。イエス様は何かの資格を求める方ではない。
例えばイエス様が、あなたが私を愛したから私があなたを愛するんだよ、という愛でもないんです。
イエス様は本当に一方的に愛してくださった。しかも何かの資格を求めないんですよ。私があなたを愛したんだから、たくさん捧げないし、たくさん奉仕しなさいとか、もう私のために死なさいとか、そういうことを求めない。
だからイエス様の愛には限界がないんです。バウンダリがないんですよ。イエス様がここまでは愛せるんだけど、このあとはちょっと無理だからやめとくね、といったバウンダリ、境界線がないんです。イエス様の愛には。
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しかし皆さん、この世の中はどうでしょうか。あちらこちらでたくさんの資格を求めるんですよ。今日、学校の授業の一環で、敬明の高校生の娘の友達が来ていますけれども、卒業して大学に行くたびには、AKA2級をパスしないといけない。
どこでもいい会社に入社するためには、いい成績を取らないといけない。会社で、主任から大臣から箇所から部長から進級するためには、実績を上げなくならない。論文をパスしなくならない。あるいは卒業するときに、票をもらうのは教師の者だけなんだよ。
世の中はだいたいほとんどが何かの資格を求めるんです。そしてその資格があれば、それに相互する何かが与えられるわけなんです。もちろんそれも失礼でしょうけれどもね。
ところが、イエス様が私たちのために、死んでくださるために、救うために、何の資格も求められないんですよ。これこそ恵みじゃないでしょうか。我々に何かの資格が、すごい資格があったから、イエス様に選ばれた者は一人もいないんですよ。
だから、私たちは神の前に本当に謙遜になる道しかないんです。神様、なぜ私を愛してくださるんでしょうか。なぜ私を救ってくださるんでしょうか。イエス様も答えがないんです。ただ愛するだけなの。
イエス様の愛を説明するときに、二つの言葉が思い浮かびます。それは今までお話ししましたように、一つは選び、一つは恵みなんです。選びと恵み。イエス様、なぜ私を選んでくださるんでしょうか。答えがありません。ただ選んでくださった。
私があなたが好きなんだから、私があなたを愛するんだから選んだのよ、という答えしかないでしょう。恵みどうでしょうか。主よ、なぜ私にこんなものに、こんなダメなものに恵みをくださるんでしょうか。私があなたを愛するから恵みをお得すのね。
私は思うんですね。なぜこんなものが徳士になって選挙士になったんだろうか。もっと能力のある人、もっとかっこいい人、知識のある人、世の中にたくさんいるのに、なぜ本当にこんなに素晴らしいものが神の下目になったんだろうか。
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神の選びと恵み、他には答えがないんですね。皆さん、イエス様はそこまで愛してくださった。それが、イエスは彼らを最後まで愛されたという言葉であり、自分の命と変わるほど愛してくださった、死ぬほどまで愛してくださったということです。
ところが皆さん、すみませんが、我々クリスチャンは長い間信仰せかどうしていると、今の話はもう耳に囲みたいにたくさん聞いてですね、ちょっと鈍感になっているかもしれない。
ああ、そうそう、イエス様は私のために死んでくださったよね、と聞き流しやすい話になるかもしれない。
皆さんどうでしょうか。私たちの自分自身の愛はどうでしょう、皆さん。神の前に率直になって、それぞれ自分の愛を考えてみてくださいね。
実は私たちが誰かを愛する。それは家族であろうが、兄弟姉妹であろうが、誰であろうが、愛していると言いながらも、自分の心の中に何かの線を引いて愛していることはないでしょうか。
ここまでの人だったら許せる。これぐらいの常識の人だったら受け入れる。愛せる、愛せる。しかしその線をちょっと越した人がもし自分の目の前に現れたら、
忍耐はするはするんだけれども、いつの間にかその忍耐の限界を超えて爆発したら、もうそれ以上愛じゃない。もっとその怒りが増していくならば、もうさよなら別れる。
皆さん、実はですね、私の人間の愛は、実はとても自己中心的なものなんです。自分にそっとして害になったら、傷になったら、自分の心にかなわない、気に合わない、自分の常識で考えると合わない。
そしたら愛さないことにしてしまうんです。実はそうなんです。皆さんはそうではないでしょうか。私はそうです。私たちが誰かを愛していますと言いながら、実は愛みたいな似たものがあるだけ、実は神の愛のような愛は私たちの中にはない。
それを知らなければならない。自分の心の中に深い内面を、もしそれを見ることができるならば、そこには自己中心があるわけです。ところがエス様はどうでしょうか。誰も受け入れてくださった。境界線を線引きしない。
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無条件、何度も何度も、ずっとずっと、裏切っても裏切っても裏切っても、受け入れて、受け入れて、許して、許して、愛して、その裏切りのために死なれることの愛。限りなく受け入れてくださる愛なんです。しかも何の資格も求めない愛なんです。
線引きをしない愛なんですよ。ただ愛してくださるんですよ。それがエス様の愛なんです。私はその愛を知らなければならない。そしてその愛を私たちも愛するものに変えていただかなければならない。
ところがエス様の愛は、昔愛してくださって、昔の話で終わったのでしょうか。そうではない。エス様が彼らを最後まで愛されたということは、昔も今もこれからもずっと同じく愛してくださるという意味であります。ずっとずっと。
皆さん、最後まで愛されたということはどういう意味でしょうか。それはエス様の愛は何かの瞬間的で感情的な愛ではないということなんです。ただの青春の感情的な愛ではないんです。
エス様はお自分のものを愛されたとのこの愛は単純な感情による愛ではなく単純な情熱による愛ではなくて、エス様の愛はエス様の意思なんです。意思を持って私はあなたを愛する。
決めたら何がどうやってもずっとずっと受け入れてずっと許して抱きしめてくださる愛はエス様の決定と意思なんです。素晴らしいのでしょうか。だから昔も今もこれからも変わらない。我々人間の愛はどうでしょうか。
だいたい我々の愛は感情によるんだから変わりやすいものなんです。しかし神の愛は神の変わることのないその意思による愛なんです。皆さん、そんな愛を持って人を愛していますか。そういう愛を持って人を受け入れているのでしょうか。どうでしょうか。
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大事なのは私たちがあいあい言うより、その愛を持って愛することなんですよ。意思を持ってエス様の愛がどんな愛だったのか、自分がどんな愛を受けたんだのかわかるならば、またエス様が最後まで愛されたということは、
しかしもそうですけれども、私たちのことに対して私の状況や条件が変わっても最後まで愛するという意味なんです。
皆さん、エス様の愛は私の環境が変わっても年を取っても、あるいは貧しくなっても、あるいは年を取って衰えていても、昔ほど元気がなくてやる気が少しなくなっても、変わることなく最後まで愛してくださいよということなんですよ。
神様がですね、エス様がね、私たちのことを見て、いやー、妙大の皆さんね、二十年、三十年間みんな熱心だったのに今はなかなか熱心じゃないね。元気もないし、いや、まあ僕らの愛はここまでみたいね、さよなら、そういう神様じゃないんですよ。
そんな愛じゃないから本当に感謝のことなんです。
ずっとずっと私たちが若くても年を収めされても、元気であっても病気であっても、貧しくなっても金持ちになっても、神の愛は変わらない。それが最後まで愛されるということなんです。
そしてもう一つ、最後まで愛されたという愛は、もし私たちが過ちを犯したとしても、失敗したとしても、神はエス様を許してくださる、愛してくださる、無限の愛なんです。
この十字架、エス様の十字架はどういうシンボルでしょうか。無限の愛の十字架。このシンボルなんです。不思議なんですよ、皆さん。
私たちが神様にいくら捧げて、いくらエス様を愛して、いくら素晴らしい恩賜をしたとしても、エス様の愛に比べたら本当に何者でもないんですよ、実は。
それにしてもエス様は愛してくださる、受け入れてくださる、なんと素晴らしい愛なんでしょうか。
時には私たちはエス様を愛している、兄弟姉妹を愛していいながらも、実は時にはエス様を裏切ることもありますし、エス様の心に傷つけてしまうこともありますし、
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エス様が愛している兄弟姉妹を時には理由なき憎んだり下手なりすることもありますし、許さないこともあったり、信仰がなかったりあったりすることがあるんじゃないでしょうか。
それにしてもエス様は、だから皆さんある意味で安心してください。神の前に完璧なものはないんです。
我々は時には自己中心的なものであって、時には高ぶりのものであって、時には怠けのものであって、時には神様より自分をもっともっと愛したりするんじゃないでしょうか。
にもかかわらず神の愛は変わらない。だからそのままいいですよと話ではありませんよ、皆さん。わかりますよね。
だからこのエス様の本当の愛に合うならばその人生は変わるんです。そして死のために生きたいというふうに人生は変わるんですよ。
その愛に触れるならば、言葉では言い尽くせないことであります。この愛に生きてください。
最後にもう一つだけお伝えして終わりたいと思います。この人説に、この夕食のこの場に悪魔はすでにシモンの子イスカリオってユダの心にイエスを売ろうとする思いを入れていたとあります。
このエス様は知っておられましたけれども、それにしても彼らを最後まで愛されたんですよ。ユダも愛されたんですよ。
またですね、エス様は、この十三朝またこれから見てきますけれども、そんな場にあっても彼らに愛の告白をしているんですよ。
エス様は知っておられました。十人のうちにユダが自分を裏切ること、銀貨三十枚で売ること知っておられました。
それにしてもエス様はみんなの悪意を洗ってくださいました。愛してくださいました。
皆さん、この場面をイメージしてみて、エス様は愛を語っておられます。永遠の愛、無条件の愛、命を捧げる愛をね、告白しているんですよ。
その中でユダはですね、頭の中でですね、こうしてどうしたら、どこでエス様を何とかしようか、銀貨三十枚でいいんだろうか、そのことを考えて裏切りを考えている。
そこにユダがいる。本当に呆れる話なんですね。
二つの言葉で話してまとめて終わりたいと思いますが、この場面は愛と裏切りなんですね。何かの映画のタイトルではない。
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不思議にエス様の聖晩餐の食卓の上に二つのメニューがあった。愛と裏切り。ユダは愛じゃなくて裏切りというメニューを選んでしまったわけです。
エス様はそういう裏切りがあるにもかかわらず、無条件の愛、一方的な愛を示している。しかしそんな愛の裏でユダは裏切りという陰謀を図っていたんですね。
皆さんいかがでしょうか。メッセージをやりたいと思いますけれども、どんな状況にあっても私たちは裏切りを選んではいけません。
愛を選んでください。そしてその愛によって歩んでいく種のものでありたいと切に願います。お祈りしましょう。