00:01
みなさん、あらためておはようございます。
社会的には、ゴールデンウィークの10連休みたいでね、あちらこちら海外とかね、行かれたりしますけれども、
私は思うですね、毎週の祝日はゴールデンサンデーなんです。
恵まれる、それ以上のゴールドはありません。
今日もこのように、みなさん、他のところではなく、この礼拝を守って、一緒に集まって、礼拝できることを本当に、これから感謝いたします。
では、メッセージの前に隣の方と挨拶しましょうか。
ありがとうございます。
お祈りいたします。
信じない者にならないで、信じる者になりなさい。
あなたは私を見たから信じたのですか?
見ずに信じる者は幸いです。
アーメン。
私たちは信じない者にならないで、信じる者にならせてください。
見たから信じる。
それ以上に見ずに信じる者とさせてください。
主よ、今日も御言葉より、子供にも大人にも、神様が、精霊様が、一人一人の魂の中に、
主よ、あなたの御言葉を、主が優しく、またはっきりわかるように、
外裏が上から与えられるように、また御言葉を実践できる力をも、神様が一人一人にお与えくださいますように。
そして帰りの際には、希望に満たされ、信仰に振り立たされられて、恵みに満たされて、
またそれぞれ持ち場立場、この世に出ていくことができるように、神様どうぞ覚えて豊かに祝福してください。
神の御言葉を聞いているうちに、全ての悩み、不安が、主よ、取り除かれ、
キリストによる復活の希望に満たされますように、祝福してください。
イエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、ではね、子供たちはちょっと退屈かもしれないんだけれども、お話をね、聞きましょう。
03:04
さあ、今日のお話は、イエス様がよみがえられた後の話になりますね。
イエス様は、ズリカで死なれて、そして墓に葬られました。
そしてそのうちの話です。
もう自分だけの先生が、いわゆる処刑されたわけです。
いつもね、3年間、いつもそばにいらっしゃった先生が、イエス様が、もういなくなったわけなんです。
彼らはね、いろんな複雑な思いで、とても恐れていたんですね。
まあ先生に関われていないんですけれども、きっとですね、彼らは自分たちでですね、話し合うときに、こういうふうに言っていたかもしれない。
いやもう、俺たちはもうこれで終わりだ。どうしよう。
先生を殺した彼らが、今度は俺たちを殺すんじゃないか。怖いな。どうしたらいいの。
そういうふうに彼らは恐れていて、みんな一緒に一つの部屋にね、ドアを閉めたまま、みんなで集まっていたんですね。
このような弟子たちの様子を見て、いやイエス様と3年もいたのに、あんなに信仰がないんだろうか、なんてないなと思われることもありましたし、
あるいは、いやそのもう全てである先生がイエス様が亡くなられたから、恐れることも無理ではないなと思われることもありました。
弟子たちは本当に不快、失意に落ちていたと思いますね。先生がいなくなって本当に寂しい。
怖い。これから俺たちは何をどうしたらいいんだろうか。どうしよう。などと彼らは本当に恐れていたのです。
こんな弟子たちの様子を見ていて、誰が彼らを責められることができるでしょうか。多分いないと思いますね。
なぜなら、私たちも実は時々恐れるものですし、時々疑いやすいものです。
私たちには本当に落ち込んでいたり、失意に落ちりついたものだからなんです。私たちも皆。
06:11
完璧者とは誰もいません。そんな弟子たちの様子、彼らの恐れているその気持ち、不安、あるいは恐怖心、あるいは心配をイエス様が知らないわけではないでしょう。
あるいはイエス様は知ることができないのでしょうか。そんなことはないので。
恐れている彼ら、これからどうしたらいいんだろうかわからなくなってしまって、心配している彼ら、本当に尊敬していて愛していた先生がもうそばにいなくなったから、また彼らは非常に寂しがっていたことでしょう。
本当に不安や恐れ、あるいは孤独を抱えて、怯えていたに違いないと思います。
それを今日の26節はこういうふうに書かれています。
8日後に弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らと、これは26節ですね、26節でもいいと思いますけれども、19節を見るとですね、
その日、すなわち宗の初めの日の夕方のことであった弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて徒が死ねてあったかとあるんです。
恐れていてユダヤ人がね、イエス様を処刑にしたそのユダヤ人が今度は自分たちをまた何とかするんじゃないかと、死を感じていたのかもしれない。
俺たちもう死ぬんじゃないかと、というような恐れ、不安を抱えて、怯えていました。
それでどうでしょうか。そんな彼らの真ん中に、今日の19章、9節も26節もそうですが、不安をあるいは恐れをあるいは孤独を抱えている彼ら、
どうしたらいいのかわからなくなってしまっている彼ら、恐れて怯えている彼らのその真ん中に、よみがえられたイエス様が現れたんですね。
死に陥っている彼らの真ん中、心配している彼らの真ん中、あるいは孤独というその現場の真ん中に、よみがえりの主、命の主、希望の主がそこに来てくださったんです。
09:23
そして彼らはよみがえりの主イエス様に出会ったんです。
みなさん覚えていてください。この時、彼らはすごい立派な信仰を持って、誰も恐れない、もうイエス様に出て来い、かかって来い、もう俺は大丈夫だとね。
あるいは、ペペロがね、トマスがね、あるいはヨハネが、もう私もイエス様のように準拠するんだとね、そういう立派な信仰を持っていた時ですか。
イエス様がこの時は、少なくともこの時は、弟子たちは一般的に見たら情けないような彼ら、怖くて恐れている、怯えている彼らなんです。
何をどう言ったらいいのか、何もわからなくなってですね、何もできずにいる彼らなんです。不安を抱えている彼らなんですよ。
孤独を感じている彼らなんです。そういう弱い時に、恐れている時に、どうしようもなくてわからなくなった時に、その真ん中にイエス様がおいてくださったということなんです。
イエス様はどんな時にも私たちに来てくださるんです。もちろん私たちが立派な信仰を持っている時に、素晴らしい信仰を持って素晴らしい王子としている時にも、実は来てくださってね、出会ってくださるんですけれども、そんな時以外にイエス様は来ないわけではないんです。
恐れている時、落ち込んでいる時、寂しい時、つらい時、死を恐れている時、心配している時、その時に、その真ん中にね、よみがえられるイエス様が、命のイエス様が来てくださるんですね。
その真ん中に来てくださって、出会ってくださって、そして平安があなた方にありますようにと、なことの平安をお与えになるんです。
12:03
そしてどうですか。レヒサキは、よみがえりの死を自分たちの目で見たんです。そしてイエス様の手や脇の傷も見たんです。イエス様と話もできたんです。イエス様の息をね、感じることもできたことでしょう。
その真ん中にイエス様が来てくださった。これは本当にうれしいことなんです。ところが皆さんどうでしょうか。自分自身のことを考えてみると、振り返ってみたら、私たちもレヒサキのような時があったりするんじゃないでしょうか。
何かが原因になって、とても不安に思ったり、とても辛い孤独を感じたり、病気や事故や様々なことで恐れたりする時があるのではないでしょうか。
その心配はね、軽いか重いかの違いはあるかもしれませんが、日が何らかの形で、そういった恐れ、孤独、不安、心配を抱えているのではないでしょうか。そういう風に思いますね。
しかし皆さん、そこなんです。私たちの皆さんのその心配や不安や、あるいは恐れ、あるいは孤独、その真ん中に希望が訪れてくるんです。
希望の主、命の主、癒しの主が訪れて来られるという事実を、皆さん信じようではないでしょうか。
イエス様は、私たちの恐れや心配、孤独、それはその深いところに入って来てくださるんですよ。
知らないイエス様ではない。知っていても、どうしようもないイエス様でもない。あるいは自分でそれを解決しなさい、そういう風にね、私たちの話のイエス様でもない。
同行してくださるイエス様、思いやってくださるイエス様、その我々の恐れとか、失敗とか、辛さとか、そういう深いところに入って来てくださるんです。
そして今日、そのイエス様に出会った弟子達のように、私たちもイエス様にお会いしたいんです。
蘇りのイエス様にお会いしたいんです。
命のイエス様にお会いしたいんです。
15:00
そして、蘇りのイエス様に癒やしていただきましょう。
不安や心配などをイエス様によって取り除いていただきましょう、皆さん。
イエス様は必ず、必ず助けに来てくださるんですね。
この弟子達のところに付け加えたようになるんです。
そして、その話に戻りましょう。
イエス様が現れた時、どうですか。
あいにくトマスはそこにいなかったんですね。
なぜか分かりませんけれども、トマスはいなかったんです。
24節をご覧下さい。
今日の24節。
ここを見ますと、十二弟子の一人でデドモと呼ばれるトマスは、
イエスが来られた時に彼らと一緒にいなかった。
なぜかそこにいなかったんですね。
その理由は分かりませんけれども。
大事な時になぜかいない時が、いない人がいたりしてるんですけどね。
なぜかいなかった。
携帯のピピピ音が鳴ってますけど、何か確認してあげますか。
25節を見るとですね。
それでイエス様に出会った、見た弟子達がですね。
25節をご覧下さい。
それで他の弟子達が、彼に私たちは死を見たと言った。
しかしどうしたんですか。
その近くから一緒に読みましょうか。
25節の四角から読みますね。
しかしトマスは彼らに、私はその手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、
また私の手をその脇に差し入れて見なければ決して信じませんと言った。
トマスはですね、他の弟子達がきっとですね、とても喜んでいたでしょう。
びっくりして、本当にトマスさんイエス様来たんですよ。
その傷も見てね、本当にもうイエス様なんだとね、みんな喜んでね、言ってたでしょう。
ところがトマスはそれを聞いても、ちょっと冷血な人なんでしょうかね。
いや、もう俺はそれを自分の目で見ないと信じられませんとね、はっきりと言いましたね。
自分は見ていないから信じられない。
18:04
イエス様のあの傷の体を触って見ないと信じられない。
見たら信じるかもしれませんという話にもなるでしょう。
他の弟子達がね、見たよ、本当だよとね、相まったよと言っても信じないんですね。
人ですね、信じない、信じまいと思ってしまうと、周りですね、いくら本当ですよ、もう神様生きておられますからね、
甦りの手段だからね、いくら周りがね、百人が一千人が言われても、もう信じない、もうそんなことと思い込んでしまうと、
このトマスのようになりがちだなと思いますね。
ところがイエス様は、そこにトマスがいなかったこと、そしてトマスが疑いに迷っていることをイエス様はご存知でした。
イエス様は決して、いやこの不信仰のトマスはもうほっとけ、もう今日から弟子からクビだ、そういうふうなイエス様ではないんですね。
私は思うんです。26節の8日後にとありますよね。
だからイエス様がその初めの日弟子たちが恐れている時に現れてから8日が経って、イエス様はわざわざトマスが一緒にいる時に、
あの一人のトマスのためにもう一度イエス様は来てくださったと私は考えます。
疑っているトマス。自分の目で見ないと信じませんよとね、固い心を持っているトマス。
そんな彼もイエス様は帰り見てくださった。思いやって覚えていてくださった。
それでちょうどみんなが集まってトマスも一緒にいる時に、もう一度イエス様は来てくださいました。
26節、8日後にできた日はまだ室内におり、トマスも彼らと一緒にいた。
扉が閉じられていたが、イエスが来て彼らの中に立って平安があなた方にあるようにと言われた。
あるんですね。一番びっくりしたのはトマスさんですよ。
本当だ。あの8日前にペテロ達が言ったのは本当だったんだ。びっくりしたんでしょうね。
21:03
そして27節、一緒に読みたいと思います。
それからトマスに言われた。あなたの指をここにつけて私の手を見なさい。手を伸ばして私の脇に差し入れなさい。
信じないものにならないで信じるものになりなさい。
イエス様はトマスをトマスに優しく語りあげてください。
疑っているトマス。そのトマスのためにもイエス様は来てくださったんですね。
そして彼の信仰のためにイエス様は信じないものにならないで信じるものになりなさいと。
目で見ないと信じないと言っている彼のために私は示してくださいました。
この手をご覧なさい。私の脇をご覧なさい。手をつけてみてくださいと。
疑っているトマスのために迷っているトマスのためにイエス様はその疑いの真ん中に迷いの真ん中にまたイエス様は来てくださいました。
そしてそのトマスに会ってくださいました。
そして示してください。信じないものにならないで信じるものになりなさい。
そしてその話を聞いた時にトマスは何と答えたのでしょうか。28節。
トマスは答えてイエスに言った。私の主よ。私の神。あなたは本当のイエス様ですね。という話ですね。
その話を聞いていたイエス様は29節このように言われました。
29節大事ですから一緒に読みたいと思います。
イエスは彼に言われた。あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じるものは幸いです。
イエス様はトマスの心を見抜いておられたんですね。
あなたは見たから信じるんですか。実はねトマスさん。見なくてもね。自分の目で見なくてもね。見ないで信じるものが幸いですよ。
あなたはこれからこのような信仰のものになるんですね。という話ですね。
24:03
これを見てですね。信仰にもレベルがあるんじゃないかと。そういうふうに言えると思います。
例えば、見た人の話を聞いても信じないレベル。その次は見ても信じないレベル。自分の目で見ても信じない。
その次は見たから信じるレベル。自分の目で見てそこにできたから、ああそしたら本当かもねと信じるレベル。
一番最高はどうでしょうか。水中説のイエス様のお話の通りに見ずに信じるレベル。
レベルと言ってちょっとあれですけれども、皆さんいかがでしょうか。皆さんはどこに来ていらっしゃいます。
見た人の話を聞いても信じないところですか。見ても信じないところですか。見たから信じるところですか。見ずに信じるところです。
こう見ると、もう一瞬ですけれどもトマスの様子から信仰といっても皆同じではないだなと思いますね。皆さん自分自身のことをかえりに見てみたいと思います。
今日はですね、確かにそれは何と言いますかね、現実的がある。それは自分の目で自分の手でそれを確認できたら、ああそれは事実だと。そういう風に思う、受け入れる。
しかし見ていないし誰もわからないんじゃないかと思って、それは事実じゃないかもしれないと。目に見えない神を信じるか、あなたはおかしいんですねと言われるのが今のこの世の世界であります。
しかしイエス様ははっきりと信じる私たちに信じない世の人々にこういう風に言われています。見ずに信じる者は皆さん感謝しましょう。見ずに信じているんじゃないでしょうか私たちは。
目で神を見たことがない。目でイエス様を見たことがない。しかし私たちは神が、イエス様が、聖霊様が現れること、イエス様が死者からよみがえられたこと、天にしてあげられたこと、またやがては再び来られることを私たちは信じるんです。
それがトマスは最初は見た出来た気の話を聞いても信じないものでした。そこから自分の目で見て、ああ本当だと信じるものになりました。
27:12
そこからイエス様はトマスに見ずに信じる者は幸いですよと言ってくださって、見て信じることも立派ですけれどもさらに見ずに信じる者になりなさいとイエス様がトマスに声をかけてくださいました。
この朝私たちにも同じく語り上げておられる。あなた見ずに信じる者になってほしい。そういう立派な信仰を持ってほしいとイエス様はこの朝私たちに語り上げておられるんです。
信じられなかったトマスにご自身を現してくださるイエス様。疑おうトマスに信じる者になりなさい。見ずに信じる者は幸いですよと誠の信仰へと促して導いてくださるイエス様。
そのイエス様がこの朝私たちに優しく語り上げてくださっています。信じない者にならないで信じる者になりなさい。見ずに信じる者は幸いですと。
皆さん今もしも何か心配していることがありましょうか。何か悩みを抱えていらっしゃるんでしょうか。
人間の最大の恐怖という死に打ち勝たれたイエス様が今私たちのその心配の真ん中に、恐れの真ん中に、あるいは何かのその問題の病気のその真ん中にイエス様が来てくださるんですよ。
そして弟子たちにトマスに言われたイエス様が今度は私たちに同じく平安があなた方にありますようにと。それから信じる者になりなさい。
あなたは見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いですよ。見なくても信じられる者になってほしいわとイエス様は皆さんこれこそ最も根本的な幸せの道を教えてくださっているんですよ。
30:05
メッセージを終わりたいと思います。皆さん人生は最後まで心配のない日はないと思います。恐れのない日はないと思います。死に向かって私たちは生きているわけですから。
いろんな病気、いろんな事故があちらこちらで起きているんです。悲しいことですけれどもね、この前いろいろ事故がありましたね。横断歩道を渡っていた若いママと三歳の娘さんが亡くなった。
いろんな危険が、不安が、恐れが私たちの周りに散在していると思うんですね。そんな時に今日のイエス様がその不安を感じている彼らの真ん中に来てくださったイエス様が私たちの真ん中に来てくださるんですよ。
あなたのその不安の真ん中に、恐れの真ん中に、孤独の真ん中に、病気の真ん中に、心配の真ん中に来てくださる。そして平安があなたにありますように。
見ずに信じる者は幸いですよ。私を信じるか、私があなたを助ける、私があなたのすべてを責任を負って導くんだ。この私を信じるかと、イエス様は皆さんどうか見ずに信じる者とならせていただけばいい。
目には見えなくても、イエス様は私のために働いていてくださる。助けていてくださる。癒してくださる。イエス様なら何でもできると信じる者とならせていただきましょう。
そしてそのイエス様がくださる平安に、私たちの魂の心が満たされますように。心からお祈り申し上げますように。ではお祈りします。