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改めて、みなさん、おはようございます。
今日、正式礼拝、ウェルカム礼拝にようこそいらっしゃいました。
多くの方々、御名になって、とても嬉しく思います。
今日のお話のテーマは、心の弱さと神、心の弱さと神でございます。
その中で、ウェルカム礼拝ですから、今週は音楽家の中で、イギリスのエロワド・エルガーさんの音楽と、
その生涯に現れた神のお話を、またそこから話をしていきたいと思います。
では、入る前に、動くのはちょっとあれですので、横の隣の方と軽く挨拶しましょうか。
おはようございます。
前の席、空いてますので、よかったら、空いてる席に皆さん入って座っていただけますか。
間に空いてますので、空いてるおじさんのところにお座りくださいまして。
ありがとうございます。お座りください。
今日は、心の弱さと神というテーマですけれども、皆さんいかがでしょうか。
弱いという言葉と、強いという言葉を聞くときに、大体どういうイメージをそれぞれ皆さん持ちますか。
大体でですね、弱いというのは、良くないイメージがあるんですね。
強いと言ったら、良いイメージがあったりするんです。
でも、皆さんどうですか。人はですね、誰もが失敗をしたり、ミスをしたりするんですよね。
例えば、教会であるいはお家でお茶をこぼしたりですね、皿を割ってしまったりですね、車を運転してこすってしまったりですね。
みんな失敗をしたり、ミスをしたりするんですよ。みんなね。
今まで皆さん、一度も私はこんなミス失敗したことありませんよという方いらっしゃいますか。
誰もいないと思います。みんな失敗します。しないというのは嘘です。
ところでどうでしょうか。
良い家庭、良い教会と言ったら、それは失敗をしてもミスをしても御返せる家族、その家族がいるホームに帰りたいんです。
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あるいは失敗をしても見下されることない、失敗しても静かにフォローして補ってくれる家族が、あるいは兄弟姉妹がいる教会に行きたいですし、そこにいつまでも留まりたいんですよね。
今の時代だけではないでしょうけれども、特にこの今の時代は、いわゆる成功主義という世の価値観、見方があるんですよね。
その上に、例えば学校で社会で会社で何か失敗をしたりミスをしたり、それがまた大きな違いをもたらす、そういうものであったりしたら大変なことになります。
もう、会社でミスをされることもあるかもしれません。ボケモノにされる、バカにされる、そして成功して出世する人は、有志な人、偉い人、立派な人に見なされます。
でもよく失敗をしている、なかなか実績も成績もあまり良くない、そしたら良くない人、そういうふうに見られる今の時代ではないでしょう。
そんな中では、私たちは小さい時から実は競争社会の中で育てられたんです。成績が良かったらいいね、いいね、成績が悪かったらお前はね、みたいに。成功者が良い人、有志な人に見られる。
失敗者は悪い人、劣等な人だと思われる、今の時代の見方があるかと思われます。しかし、仁様は私たちの弱さも失敗も欠けたところも、責め立てたりボケモノにしたりするお方ではありません。
今日の読んでいただいた二番目のヘブロビタイの手紙の箇所をもう一度ちょっと出してくださいますか。
聖書をお持ちの方は聖書とか前の画面、ヘブロビタイの手紙4-15節の見言葉ですが、ここに私たちが信じる家様がどのようなお方なのか、その大事な一つの家様の品性、性質を教えてくれています。
私が読みしますのでご覧ください。
ヘブロビタイの手紙4-15節。
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私たちの大幸は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように試みにあわれたのです。
そうなんです。私たちの弱さに同情できない方ではない。
つまり、私たちの弱さ、失敗、架けだらけのそういうところを同情してくださる、思いやってくださる家様ということなんです。
本当に感謝なことなんです。
私たちがすごい大変な失敗をミスをしたとしても、主は寛大な目に見てくださる、許してくださる、そして弱いところをそこで同情してくださる。
同じ弱さの立場に一緒にそこにいてくださるんですね。
今日、音楽家のお話、その家様のような女性に出会って、人生が変えられた音楽家が、エドワード・エルダという人です。
フルネームは、サー・エドワード・ウィリアム・エルガ。最初にサーがつくのは、彼が調べたら、英国の初代純男爵だったそうですね。
だから、F・I・R・サーがつくわけなんです。1800年代から1900年代、割と近代と言いましょうかね、音楽家でありまして。
このエルガさんの一番有名な曲の、まずこれを動画とともに見ていきたいと思いますけれども、
異風同防という方針曲ですけれども、歓迎楽のための方針曲集の中で、一曲を動画とともに一緒に見ていきたいと思います。
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はい、どうですか皆さん。この曲だけ聞くとですね、このエルガさんは、とても精神力が強くて、明るい性格の持ち主のように思われますけれども、
実はですね、彼は若い時、小さい時から性反対でした。とても心細くて、長い間鬱病を持っていて、また劣等感がとてもひどくて、いつも自信感のない人だった。
彼はですね、お父さんがカトリック教会のオールガニストをしていて、そしてそれだけではお金が貧しいから、お父さんが楽器屋さんをしていたそうなんです。
そこで生まれてですね、そのお父さんからオールガンを習っていたそうなんです。ところが、親もね、そんなに金持ちじゃなかったために、彼は正式的な音楽の教育を受けることができなかったそうです。
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ところで、面白いことはですね、彼は小さい時から本を読むのが好きで、その図書館に行ってですね、音楽関連の本をたくさん借りて、小さい時に、8歳、9歳、あの時によく読んだそうなんです。
まあ、そこで借りた本を読んで、いわゆる独学で音楽を習ったそうなんです。まあ、そうしていても、自分は何もできない。すごい劣等感や鬱で、自信感はいつもなくて、自分はいつもダメだみたいにね、そういうふうに自分を思っていたそうです。
そのあたり、15歳の時には、まあ、親に強いられてお金を稼ぐために、弁護士事務室で働くことにもありました。いつも自分自身をですね、悲観的に見ていました。鬱も長みくしていました。
人と自分を比べて、うちはお金がない。もう親はお金がないから、自分は音楽をやりたいんだけれども、もう勉強してくれないし、だからもう自分はダメなんだみたいにね、そういうふうな日々を送っていたある時でした。
そんなエルガーさんの目の前に、天使のような女性が現れたんです。まあ、男性も女性もね、誰か本当に素晴らしい人に出会って、人生がね、くるっと変わるね、そういうチャンスが訪れてくるんですね。
このエルガーさんは弁護士事務室で働きながら、またそれでも給料が少ないから、ピアノの家庭教師とレッスンをしていました。そして彼のピアノの教え子のキャロライン・アリス・ロバーツ、キャロラインという女性が自分の教え子で入ってきた。
そしてレッスンをし始めて、3年後、二人は結婚をするようになりました。この二人の出会いは本当に素晴らしいお出会いでした。
特にですね、この奥さんになったキャロラインという女性の家は、イギリスの名家であってですね、でも素晴らしいプロテスタントの信仰を持ったクリスタンファミリーでした。
そのキャロラインの祖父にあたる方は、キリスト教の教会学校というものがあるんですよね。その一番最初に始めた方なんです。いわゆる教会学校の創始者が、このエルガーさんの奥さんの祖父にあたるんです。
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いわゆるね、本当に信心深いクリスタンの女性に出会った。そしてそのキャロラインは本当にいい信仰を持って、良い神性を持ったお嬢様でした。
そしてこのキャロラインという女性は、二人がお出会いから結婚。そしてその後の生活は、この音楽家のエルガーを変わらせる至福とつながりました。そして彼の音楽の才能、引き出されるチャンスになったそうなんです。
なぜなら、さっきも言いましたように、このエルガーさんは小さい時から心の弱さを抱えていました。自信がない、鬱を患っている。また、父と自分を比べていつも自分は何もできないんだと思っていた。心細くて傷つきやすいものでした。
ところが、この妻になったキャロラインは、付き合いの頃からどこからどこまでも丁寧に優しい神性を持って、よく配慮して夫のために祈る妻だったそうです。
何より、自分の夫であるこのエルガーがひどい劣等感を持っていたり、自信感がなかったり、鬱の状態が続いていたので、彼女は本当に良い世話を傍でし続けていたそうです。よく励ましたり、勇気づけたり、とても温和な性格の奥さんだったそうです。
いつも夫の傍で、そのエルガーさんが音楽に専念できるように、そしていつも自信もない夫を応援して、最高のサポーターでした。
本当に神様が送ってくださった天使のような優しい祈り手の奥さんでした。
そこで、そのように天使のような女性に出会ったエルガーは、とても素敵な音楽を作曲するようになりますけれども、その結婚式で今、今日ですよ。
結婚式でよく流れている愛の挨拶という有名な曲がありますけれども、このエルガーさんが婚約のときに、この奥さんのキャロラインに送った曲なんです。
2番目弾きたいんですけれども、愛の挨拶という曲なんです。また見ていきます。お願いします。
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さあ、どうですか。本当に愛していたなと思われる、皆さんよく聞かれたことのある曲でしょう。
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その妻のキャロラインは信仰の糸、神の糸でした。そして夫エルガーの音楽才能を引き出して貢献できるようによくサポートする妻でした。
彼女は夫のエルガーを神様が用いてくださると信じて祈り続けてフォローし続けていました。
その妻の応援と祈りによって、エルガーさんは13年間作曲に専念した結果、イギリスで名を残す音楽家になり、勲章も授けられ、また先も一番最初に評価したように、イギリスの初代準男爵という名誉ももらいました。
その男爵になった時が彼が42歳だったそうです。私はこう考えます。天才的な音楽家エルガー、彼に神様はキャロラインという天使のような妻を送ってくださって、彼が空高く舞い上がることができるように素晴らしい翼をつけてくださったと。
私たちも誰かの良き道路者、サポーターになりたい。夫になりたい、妻になりたい、兄弟になりたい、姉妹になりたい。
そして私たちがよく祈って、サポートして、応援して、配慮して、祈って、そして神様が私を通ってその方にもう素晴らしい立派な翼をつけてくださって、その人が空を高く飛ぶことができるようになれば、どれだけ幸せなことなんでしょうか。
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あいにくですね、エルガーさんは奥さんのキャロラインが先に天国に行ってしまったんです、悲しくも。
で、奥様はあまりにも愛していたのか、奥さんが亡くなった後は、エルガーさんはほとんど曲作りをしなかったそうです。愛のパワーすごいですね。
ところが聖書の人物の中で自分の弱さを隠さずに、むしろ自分の弱さを誇る人がいます。パウロという人です。
彼が言った言葉が、さっき読んでいただいた十二章九節ですが、私が読んでいます。
しかし主は、私の恵みはあなたに十分である。というのは、私の力は弱さのうちに完全に現れるからである。と言われたのです。
ですから私は、神社の力が私を覆うために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
パウロという人は、どんな病気なのかはっきりは知られていませんが、ひどい病気を持っていました。
一説によると、彼の病気は、発作がある転換のような病気だったのではないか。
あるいは、聖書にもよく出てきますが、視力がとても悪くて、ほとんど見えない状態だったのか、そういう病気も持っていました。
また、そんな病気を持っていて、体もとても弱くて、身長もとても低くて、そういういわゆるハンリキャップを持っている人だった。
それがとても病気があって、とても痛くてつらくてつらくて、聖書にパウロが神様に、この病気を私から取り去ってほしいと3回も祈ったことがあるくらいつらかったのです。
パウロはそれを聖書ではトゲと言っています。
しかし、これを取り去ってほしいと祈ったときに、神様の答えは意外なものでした。
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神様はパウロに弱さを持っている彼に、こう答えてくださいました。
私の恵みは弱さの中に完全にあらわされる。
私の恵み、つまり神様の恵みはあなたの弱さの中に完全にあらわされますよということです。
つまり弱さの中にこそ神様の恵みと力はさらに勝って示されるということなんですよね。
パウロはその言葉を素直に受け止めましたね。
ところが、全部読んでいませんが、第2コリントの今日の御言葉の全部読むとですね、弱さという言葉が何回も出てくるんです。
実際にパウロ自分自身は、自分が弱いものであることを知っていたわけなんです。
病気も持っている。
でも皆さん、弱さという言葉があるということは、その反対には強さ、強いという言葉があるということなんですよね。
ところが皆さん、勘違いはしないでほしいですけど、聖書は私たちに強くなくていいですよ、弱くていいですよと教えている御言葉は一つもないんです。
むしろ強くあれ、大しくあれという言葉が聖書のメッセージなんです。
しかしその強さは私たちの力で頑張りで得られるそういうものではなくて、主にあって強くあれ、つまり主にあってこそ強くされる、主にあってこそ強くされるという意味なんです。
それをパウロはさっきのコリントヴィテの手紙で、私はキリストの力が私を覆うために、この部分大事ですよ皆さん。
キリストのイエス様の力が私を覆うから、私はキリストの力に覆われるから、自分はむしろ自分の弱さを誇るんですよ、ということです。
皆さんどうでしょうか?皆さんも自分の弱さを誇りますか?隠しますか?
だいたい隠したいんですね。自分の弱いところ、ダメなところ、恥ずかしいところは隠したいんです。そして隠して、全然そうではないふりをするんですね。そうしがちな私たちなんです。
しかしパウロは、キリストの力が弱さのうちに完全に表される。それはキリストの力が私を覆うからだと言っている。そして強くされるということ。
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そこにまず大事な一つのポイントがありますよ。それは自分が弱い存在であることをまず同意しているんです。いいですか皆さん。
自分は弱いものである。それを否定していないんです。同意をしているんです。お座りください。
パウロはですね、いやいや私は弱くないんですよ。私は強いですよ。何を言っているんですか。私は強いですよ。そうじゃないんです。
神の前にも人の前にも私は弱い。それを認めているんです。
皆さん、心の弱さを乗り越える、主に乗り越えされていただくその第一のステップは、まず自分が弱いものであること、欠けだらけのものであること、失敗だらけのものであることをまず素直に素直に認めることです。
そして誰にも私は弱いものですよと言える。私は失敗だらけのものですよと言える。そこから恵みが、この人パウロの恵みが始まるんです。
さあ皆さん、よかったら隣の方にですね、こう言い合いましょう。私は弱いものです。私は失敗だらけのものです。さあ言ってみてください。私は失敗だらけのものです。私は弱いものです。
どうですか皆さん、本当にそうなんですよ。私は弱いものなんです。失敗だらけのものなんです。
パウロはこういうふうに言っているんですよ。キリスの力が、そんな弱い私を、キリスの力は完全な力なんですよね。その力が私を覆ってくださる。
そして出力される。だから弱いときにこそ私は出力される。さっきも少しお話をしましたけれども、パウロの時代もそうでした。今の時代もそうなんです。勝つものは強いものである。負けるものは弱いものである。勝つものは良いものである。負けるものは悪いものである。
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そういう見方がパウロの時代もありました。剣闘地がいたり、コロセウムでそういうものがありました。今もそういう見方があるでしょう。そういう価値観もあるんですよ。
だから、もっと強くなれ、もっと優秀なものになれ、もっとがんばれ、もっと一等になれ、実績一位になれ、と彼らとやられる社会で私たちは生きているんです。
そこで、本当に苦しんでいる子どもたち、青少年、男性、女性がたくさんいるんじゃないかなと思いますね。そういう競争社会、一位じゃないと誰も覚えてくれない社会、勝つもの、優秀なものは良い待遇をもらえる社会、
そうでないものは本当におけものにされる、こういう社会の中で多くの人々が実は苦しんでいるんです。どれだけの多くの人が苦しんでいるのでしょうか。
そのために、引きこもっている人々、鬱病の人、ビストカットする人々、あるいは自ら命を貸す人などなど、多くの人々がこの心の弱さもゆえに、病んでいるがもゆえに苦しんでいる。
それはこの世の味方の弊害のためだと。しかし皆さん、私たちの作り主なる神様はそんな味方の方ではありません。本当に私たちの弱さを同情してくださるお方で、私が弱い時には弱い私たちのそばに一緒にいてくださるお方である。
苦しんでいる時には一緒に苦しんで、ため息をする時には一緒にため息をしてくださる聖霊様であって、イエス様である。
今日、パウロの弱さを誇るとは、三に、自分の弱いことを自慢するという意味ではないんですね。
私たちはみんな本来、神の前においては作られたもの、非造物でしかないこと。そして大事なのは、神様の助けなくしては、神様の支えなくしては、極めて弱いものであることを自覚することなのです。
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そういう意味として、弱いことを自慢する。神様、私はあなたの助けなくしては、あなたの支えなくしては、私は本当に何もできない弱いものです。
皆さん、本当の幸せな人生、本当の信仰は実はここから始まるんです。
頑張るからできる、あるいは頑張ってもできない、じゃなくて、お金があるからいい、ないからだめ、じゃなくて、神様の前には私たちは作られた非造物でしかないこと。
神の助けなくしては、支えなしには生きられない。だから私は弱いんだけれども、そんな弱いものをキリスの力が覆ってくださるから、私はこの弱さを誇りましょう。
また私は、この体を持っている肉体的存在であります。もうそれ自体がそもそも弱さを持っているということなんです。
体はどんどんどんどん、失礼ですが、50年、60年、70年、80年、体を使ったらどうなりますか?どうか故障するんですよね。
歯がむつったり、血管が詰まったり、膝が痛くなったり、水が溜まったり、脳みそが少なくなってしまったりね。
この体を持っていることは、もうそもそも最初から、生まれるときから、人間我々は弱さを持っている存在なんです。
なのに、私は大丈夫、大丈夫、全然大丈夫というのは、それは自分自身を騙していることです。私は弱いものなんです。
人工は自分は弱いものであることを認めるところから、神の助けなくしては生きられないものであることを認めて自覚するところから、そしてそこから本当の平和が、平安が始まります。
最後にもう一曲聴いてみたいと思いますけれども、このエルガは愛の挨拶を発表した後にも、その中でも弱い自分自身のことで苦しんでいたりしたそうです。
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でも不思議に、彼の周りには奥さんのケロダインのほかに、もう一人のアーグスト・イエガというとても親しい友人がいて、その友人もこのエルガをよく応援してくれたそうです。
そしてよく良いアドバイスを、良い講師をしてくれたそうです。そしてこのエルガがですね、十四曲の編奏曲を作りましたけれども、これが一体何を意味するのか意味がわからない。
それで通称ナゾという甘えがそこにつけられているんです。それで十四曲ありますけれども、第一は奥さんのケロダインのために、最後の十四番目は自分のために、その中でわりと知られている第九の編奏曲を友人のイエガに送った曲なんです。
だからそういう意味としては、エルガの周りには奥さんのケロダイン、あるいはイエガのような神の天使のような人に支えられて、素晴らしい曲が作られたということであります。
最後にこの編奏曲ナゾ、エニグマ編奏曲と言われますが、これを見ましょう。
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三段階みたいな人で、若い頃から次々といろんな病気にかかっていました。体調が良いとは言えないときでも、彼女は夫の協力を得ながら、いわゆる口術筆記で多くの作品をとても意欲的に作りました。
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ある本で私は三浦役さんが自分の病気についてこう語っているのを読んだことがあります。
私はこんなに多くの病気にかかって、神様は自分をエコー引きしているのではないかと思います。
皆さん、とても不思議な言葉だと思いませんか。なぜ、彼女をして神様が自分をエコー引きしていると言わせたのでしょうか。
それが彼女が言うには、私は病気を一つするたびに一つずつ新しいことを学んだ。素晴らしい恵みを受けたと受け止めているからです。病気になっても頑張りますという人がよくいます。
けれども、それとは格段に違うような気がします。彼女の言葉は神様への信仰から来ているのです。つまり、神様は真実で良い方であるという信仰です。
確かに彼女の病気は、彼女の肉体を弱めましたけれども、彼女の精神を蝕むことはできませんでした。彼女の病気は、神様から来る霊的な命を彼女から取り去ることはできませんでした。
外なる人は衰えても、内なる人は日々強められるという言葉がありました。病気は確かに外なる人を衰えさせました。私たちはそれをみんな知っていました。
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しかし、この三浦彦さんは、彼女のうちに与えられた神様への信仰は、彼女より強くしていったのです。結論ですが、イエス・キリストは、私たちの弱さを知らない方ではなく、私たちの痛みも弱さも同情してくださる優しいお方です。
このイエス・キリスト様は、あなた方を救うためにこの世に来られました。このイエス・キリスト様を救い主として信じる人には、永遠の命が与えられ、救われ、神のことされます。このイエス・キリスト様を信じようではないでしょうか。
今日、ストーリーとして、道具としてお話ししましたあのエルガを、エルガであるように励まして勇気づけたあのキャロラインのように、弱さを誇るパウロのように、イエスの子供となろうではないでしょうか。
イエス・キリスト様は、私たちみんながその方の前に帰ってくること、立ち帰ることを待っていてくださるのです。そして今日も皆さんお一人お一人を名を呼んで、ここに集めてください。
皆さんが自分の足で歩いて電車でバスで車で来たかもしれませんが、そうではない。神様が皆さんを愛して、世の始めから知っておられ選んでくださって、今日ここに集わせてくださりました。
それは、まことの神に出会うためであり、イエスを救い主として信じて救われ、永遠の命を得るためであります。
今日はイエス様がこの集会を通して、あなた方の心の塔をノックしておられました。心を開いて、イエス様を受け入れて、イエス様を救い主として信じようではないでしょう。イエス様はまことの神です。お祈りします。