00:01
それではただいまから、斉藤渡先生に、 パンくずの恵みと題しまして、メッセージを聞いていただきます。
おはようございます。お祈りをいただいてありがとうございます。
珍しく、体調少し悪くなって、一生懸命休むときがありましたけれども、
先週は、前から依頼されておりました赤木ひと丸教会で、無事にその報酬を終えて、
言うならば、名谷教会の礼拝のための準備のような、 そういう気持ちで、礼拝のご要望をしてまいりました。
最近私は、赤木ひと丸教会もそうですが、 その前には大阪の平方希望教会というところで、長く行使をしておりました。
その教会は、当時、親と子の家族礼拝という、 月一回、こういう子どもさんも一緒になって礼拝をするという書類を持ってまいりまして、
その時は、二回、最初は子どもたちのためのメッセージをして、 そしてそれに続いて、一般幼い人たちのためのご要望をするというような、
そういうご要望をしてまいりました。
で、平方行きました時に、この親と子の家族礼拝で、 悩ませられた子どもたちがおるわけですよ、複数。
何回言うとそっちから声が上がったり、 こっちからも声が上がったりですね。
うかつなことで、「どうだ?」って聞くようになりますとね、 もう礼拝が途中で終わらかってしまうというようなことがあったりもしたんです。
その子どもたちがですね、この間久しぶりに会いましたが、 一人はもう大学生で、一人はもう社会人になっている。
まあ十年余り経つんですけれども、 と思いましてね、こっちも年をいっていますけれども、
子どもたちの成長というのは、すごいなあと思いましたよ。
で、今度は青春若志一丸教会に行きましたけれどもね、 礼拝の間中、あそこは一階がちょっとした畳敷のホールになっておりましたから、
そこで走り回っておりました、 当時中学一年生かな、女の子たちが今大学生。
まあおしそやかになりましたけれどもね。
ですから、そういうところを見たり、 久しぶりに会ったりしますとですね、
当時はもうやかましくて手に負えられない。
もうこんな子いなかったらいいのになと思うような、 そういう場面もありましたけれども、
けれどもそれがね、現在のそれぞれの教会の新しい力になってね、
03:04
中には教科学も手伝っているんですって言うからね、 何の手伝いしているんだろうかなと聞こうと思いましたけれども、
触ることを手伝っているんだろうかと思いながら、 けれども今は成長しておりますからそういうことはありませんが、
そういうところの恵みをいただいて、 今朝起こして二人、
ユン先生が、今朝はフィリピンですか、そこに行かれている。
先週は、スウェーロ教会の、 韓国人牧師の教職者のためのセミナーがあって、
韓国人の先生たちばかりかなと思ったら、 私が先週行きましたのは、
加藤先生がね、一緒に同班している。
何人かの先生方がですね、 フェイスブックか何かを見ておりましたら、
結構先生たちに言っているんだなと思いながら、 私も随分、だいぶ前の話になりますが、
よくスウェーロ教会でのセミナーに 参加したことを思い出しておりました。
どうも私がご用意いたしますと、 お互いに会いましょうという挨拶の時を抜かしてしまうんですけれどもね、
今朝はやはりやった方がいいなと思って、
お互いにご挨拶をして、 そしてお子様を一緒に知られて参りましょう。
それぞれのご挨拶が終わったと思いますので、 一言お祈りをいたします。
恵み深い神様、今朝は大変暑い日となって、 この朝からの状況の中にありますが、
けれども私たちがそれぞれ守られて、 今朝もこうして、
神礼拝をあなたにお伝えできることを 心から感謝いたします。
お祈りがありましたように、
ユン先生は、山の韓国人牧師のセミナーについて、
今週はフィリピンに行かれている、 大切な働きの中に今ございます。
どうぞ先生の健康を守り、その霊性を祝福し、
そのために備えられているところの メッセージの一つ一つが用いられますように、
神様がどうぞ与えてください。
今からの時をいだめ、 主の皆によってお祈りをいたします。
06:01
アーメン。
今朝私は、最近私の心の中に ずっとありました中の一つですが、
このマタイヨルク勲章の15章、 今読んでいただきましたこの箇所から、
パンクスのメリーという、 そういうタイトルを付けました。
そして、ご一緒にこのところを 見ていきたいと思います。
イエス様は、イスラエリオイとの働きを進められ、
そういう中で、何を思われたのかというと、 大変不謹慎な言葉になるか分かりませんけれども、
そのユダヤ人、イスラエルの人たちが、 嫌うような、また嫌いような、
そういう外国の地にいたんですね。
今はここは、レバドン城になっておりますから、 少しく今は平和になっておるようですけれども、
イスラエル軍が攻めたり、 あるいは隣のシリア軍が入ってきたり、
いろいろと戦争が繰り返されてきたような、 そういう場所です。
イエス様の時代はそうではありませんでしたけれども、 しかし、このツロシドンという地方は、
ユダヤ人は滅多に行かないような、 ほとんど行かないと思いますけれどもね、
そこに行かれ、おそらく列車はですね、 またイエス様は何をお考えになったんだろうかと、
そう思われたに違いないと思うんですけれども、 そこへ行かれたんですね。
そして行かれると、すぐに一人の女性が イエス様のところにやってきて、
イエス様、私の娘がもうアクレに取り憑かれて、 もう私も娘も大変なんです。
そういうことでもって、 イエス様にお祈りしてきたわけですよ。
願ってきたんですね。
この場面でのイエス様の姿というのは、 後にも先にも、
こういうイエス様の姿というのは、 ほとんど見たことがない。
あるいは私たちが聖書を読んでいく限りにおいて、 この場所は、
イエス様がどうしてこんなことをなさったんだろうか、 何ということなんだろうかと思うぐらいの、
そういうイエス様の、そこでの対応ですね。
それは、病に付している娘のために、 何とかして癒してほしいという願いを持ってやってきた、
この可難の女とも言われておりますけれども、
彼女は、それこそ、 イエス様がおいでになる、そういう時があるんだろうか。
09:00
それぐらい、いらやしぬイエス様が、 こんな外国にまで来るなんていうことは、
考えもしなかったでしょう。
けれども、だんだん聞いていくと、 イエス様が近くまで来られた。
そして、私たちのこの町にまで来られるということを、 彼女は何に聞いて、
そして、その日の来るのを待っていたかのように、 イエス様がこの町に来られると、
すぐに出て行って、 イエス様、と言って、
イエス様に頼み込んでいるのが、 この今読んでいただきました21節からのこの出来事なんですね。
私は、ここで見る母親としての、 彼女のこの姿の中にですね、
こう思う母親の痛ましいほどの気持ちというのが、 そこによく表されていると、思うんですね。
というのは、せっかくイエス様を待っていて、お待ちしていて、 そしてイエス様がおいでになった。
ぜひ、私の娘を治してほしい。
子供が病気だというと、
まあ、父親もそれなりに心配するんですけどね。
それ以上に心配するのが、母親だな、 ということを改めてここでも思うんですね。
ある時、私が夫婦の間の話ですけれどもね。
ずいぶん昔の話ですよ。
長男が生まれて、 そして、うちの子はあまり夜泣きしないで、 助かるなって言ったら、
夜泣きしようとする前に、
すぐにね、やって、 おっぱい割れたり、いろいろやって、
そして泣かないようにしてるんだ、 ということを言われて、
そんなになったのか。
うちはもう、横になったら すぐ分かんなくなっちゃいますから。
だから、うちの子はもう夜泣きしないで、 親としては助かったなと思うぐらい、
救援の存在というのは、怖いですね。
ところが、母親は本当にここに現れているぐらいに、
もう娘の痛みが、自分の痛み。
そういう言葉でしょ。
どうぞ、イエス様、私の娘を 癒してください、というよりも、
イエス様、どうぞ私を、と言ってですね、
もう娘の痛み苦しみを、 自分の痛み苦しみとして、こうやって。
私がクリスチャンになって間もない頃ですが、 一人の宣教師のあたしを聞きました。
この宣教師は、幼い時に両親に引き分かれて、 そして成長してきたんですね。
本当にいい子でもって、 あるところまでは来たそうです。
ところが、この小学校に入ってからのことなんでしょうかね、
ちょっとした気持ちの、心の緩みでもって、
友達の宣教室の中に見たら、
12:00
いろいろ自分が持っていないようなものがあるんでね、
ちょっと借りてみようと思って、 そしてやったら、とても書きやすい。
いいなと思って、自分の筆入れの中に、 宣教師の中に、ペンケースの中に入れたそうですよ。
友達は気がつかない。
いいことを覚えたというわけではないんですけれども、
彼はね、ちょっとした心の緩みというところからね、
中にいるのに、隣同士の友達の大切なものを、 スッと盗んでしまった。
そしてそれは、二回、三回。
彼は心の中ではね、
友達のものを盗ってしまったんだなという、 そういう気持ちもあるんですけれども、
けれどもなんかこうやっぱり、それで、
ああよかった、儲けた。
おばあちゃんに言っても買ってくれないものを、
自分は買えたっていうようなものを持てたという、 そういう気持ちでしょうか。
とうとうですね、彼はそこからやる。
人のものを盗んで黙っていれば、 もう誰も分かち得ないんだという、
そういう気持ちに変わっていった。
そのおばあちゃんが座っていらっしゃった彼は、
その大切に自分の机の人たちの中にそれをしまっておいた。
すると、おばあちゃんが机の上で整理しながら、 そして片付けをしているときに、
自分が買ってあげたこともないようなものが出ているので、 どうしたんだろうかなと。
で、彼が学校の帰ってくるのを待って、 そして聞いたらね、
いや借りてるんだよと言って、
それで友達からのそれをですね、
いやうまいことやって盗んできた。
そんなこと言えませんからね。
で、彼はそこはそこで持って終わった。
ところがまた、おばあちゃんがそれをやっているときに、 また珍しいものがあるのでね、
こんな買ってあげた覚えがないのになぁと思って聞いたら、
それはと言ってね、本当のことを言えないものですから、
次の嘘のことを考えると、その次の嘘が出てこなくてね。
そのうちに子供のせいとおばあちゃんのせいとは、 どっちがかっこいいかはおばあちゃんのせいですよね。
ずっとおばあちゃんのその心の中に、
そういう心配だなぁという気持ちがあった。
あるとき、その子、ギョンソンっていうんですけど、 彼を呼んで、
冬の時期だったそうですけども、
ギョンソン君のためにね、 セーターか何かそういう編み物をしておった。
で、当時はこういうシャッシャッとするような、 そういう編み物じゃなくてね、
金でできた、針金みたいにできた、 それでこうやっておったそうですけども、
それをね、ストーブの中に入れた。
そしたら、すぐにこう赤くそれが、 もう火か何かわからないくらいになってしまった。
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それをおばあちゃんはね、こう言ってね、
お前がせっかくのお友達が大切にしているものを、 どうしてこんな風に持って帰ってくるんだ。
お前の手が悪いに違いないから。
もしお母さんやお父さんが怒ったのならば、 どんなにそれは寂しい気持ちになったかわからない。
おばあちゃんも一緒だ。きっとその手が悪いんだ。
手を出してごらんって言ってね、 おばあちゃんはその子のギョンソン君の手をしっかりと取った。
そしてね、ストーブの中で焼いた、 その網棒というか、それを取ってね、
そしてもうこの手がそういうことを二度としないように、 今、それをお前の手につける。
ギョンソン君が未だに見たことのないような おばあちゃんのそういう表情に、もうびっくりしてしまってね。
で、おばあちゃんがこう手を取るんで、 もうどうしてかわからない。
そしてやっているうちに、もうびっくりした彼は目を閉じてもって、 おばあちゃん、ごめんなさいって言っても、おばあちゃんそれを許さなかった。
そして真っ赤に焼けたそれをね、ザーッとつけた。
厚いはず、ところが厚いはずのそれがですね、 なんか一枚立つのは少ないんで。
うっと見たら、その真っ赤に焼けたそれがね、 彼の手を握っているこの背の甲にね、それをビターッとつけてたんです。
もう、彼はもうびっくりしてね、腹にのけるようにしてね、 おばあちゃんもう二度としないからごめんって言って、このお詫びしたそうですよ。
たしかに彼はそれからはね、友達に返しもしまたはお詫びもし、 そしておばあちゃんにもうゼッとしない。
やがて彼は教会学校に行ったときにあるお話を聞いた。
聞いていくうちに、うちのおばあちゃんみたいな人だなぁと思ったそうですよ。
誰のことかというとね、イエス様のこと。
イエス様がね、私たちのそういうよくないことのために、 罪のために身代わりになって、そして十字架で死なれたということを、
こう彼は聞いたときにですね、 おばあちゃんみたいな人だと最初思ったそうですよ。
そしてその次に思ったことは、 私は本当におばあちゃんのためにとんでもないことをやってしまった。
けれどもおばあちゃんは、自分のこの過ちを罰しないで、おばあちゃんが代わりになってね、
あの真っ赤に焼けた銀棒を自分の手につけて、そして傷を受けてくれた。
その時におばあちゃんがね、お前の両親から、 私はお前という大切な大切な子供を帰ってきた。
18:01
そして帰ってきた。
その子がね、まさかこんなことをするとは思わなかった。
やっていることは、おばあちゃんのそれは熱いけどね、
私にとってお前がやっていることは、 私の心、その暗号をギュッと胸につけるような、
そんな痛い、そういうつらい経験をしてしまった。
けれどもお前がそんなにまでお詫びするならば、おばあちゃんも許す。
そのことを彼は思い出してね、
イエス様は私の過ちを全部、あの十字架で許してくださったんだな。
私はこのフェニチアの出来事を読んだ時に、 そのことを昔あったお話を思い出しました。
このジョンソンは彼が大きくなってね、 選挙日になって日本へ行って、
そして私たちにイエス様のことを伝えた。
その時に、自分が子供の頃にこんな過ちをしたけれどもね、
けれども私の大切なおばあちゃんは、 そういう風に生きて代わってやってくれた。
そしてそれは、私がイエス様のことがわかる 大切なきっかけになったというご自分の証をなさった。
特にこのお母さん、彼女にとってはね、
もう自分の体を痛めるよりも、
自分の娘がこんなにまで苦しんでいるのを、 自分はもう今まで何もできないだったという、
それがね、やはり自分の中に大きくあったんでしょう。
だからイエス様がおいでになった時に、周りの弟子たちは、
もうイエス様、あんな女性は知らないんですから、 どうぞ追い返しましょうというぐらいに、周りはみんな反対した。
彼女が頼んで、イエス様だけやってきているという、 それをね、もうやかましいと言って、追い返しようとした。
イエス様は、そういう弟子たちの様子とか、
それからその母親が、娘のために何とか癒してくださいとやってきているのに、
それに対してイエス様はね、何にも答えされなかった。
私がずっとこう請求してきて、この場面に来るとですね、どうしたんだろうかな。
イエス様は私たちが求める祈りに対してはいつも答えてくださるから。
けどもここでは、まあ言うならば、無視してしまっているような感じがしますよ。
私たちは何度も何度も祈っても、
同じようなね、私たちは待遇というか、そういうことで出会ったならば、 私たちはもう気づいてしまいますよ。
せっかく教会に行っているのにね、みんな無視して、
誰も、ああよく来ましたね、来られましたねと声をかけてくれるならば、ほっとしますけども、
21:03
誰も声をかけないし、何でこの人来たんだろうかと言われたらね、私たちはもうがっかりしてきて、
教会に来ることをやめてしまう。
これも古い話ですがね、山田晴れという先生がおられた。
これは新学校の助手への釈放をなさったり、
それから足柄教会とか三陰府県教会とか、そういうところで、
夫人牧師として大きな働きをなさった先生。
ところが、この先生が、まだ岡山から出てきて間もない頃に、教会に行かれた。
そして教会は、自分のイメージではね、きれいな賛美歌を聴いたり、
心穏やかでみんなが親切にして、こう思ってやっていたら、
本当に教会の賛美を聴いていたのならば、心が静まって、
賛美だった聖書の話はわからないけれども、また来よう。
そこへね、英国人の女性の勉強生が来られて、よくいらっしゃいましたね。
お話わかりましたか?
先生は、わかったような、わからないような感じで思って、
そうですね、と言って答えていたら、
そうですね、あなたは、聖書にある通り、自分が罪人だということがわかりましたか?
そうであるなら、幸いですよ、と言われたのに、え?と思った。
今まで自分はね、ここまで来るのに、
人様から、あの人は悪い人だとかね、身持ちが悪いとか、なんとかということを言われたことがない。
あそこの子は不真面目でね、と言われたことがない。
私はもう一番真面目でやってきたと思う。
ところがその英国人の勉強生の女性の勉強生からね、
あなた自分が悪い人間だとわかりましたか?と言われたときに、やらなきゃいけない。
今でも心をよだやかにして、また来ようと思った気持ちが、一変でそれでも冷めてしまった。
もう今日から二度と来ない。
そして、もうアヒゲにするようにして、家へ帰ったそうです。
下宿先へね。
で、下宿先でもって、最初はもう気が高ぶってね、
なんであの下宿先の彼女は私にあんな失礼なことを言うんだろうか、と思いながら。
けれども、だんだんいくうちにね、
じゃあ、本当に何も悪いことをしたことがなかったんだろうか、
自分の心の中にね、あるとき一つのことを思い出されてきた。
また二つ目のことも思い出してきた。
三つ四ついくうちに、私は今まで真面目にやってきたと思うのに、
あれもこれもやってたら、
あの友達に対しても、親に対しても、
どれだけ自分はね、悪いことをしてきたことか。
だんだん、この山田晴江先生の心の中に、
24:01
この聖書のイエス様の光が入ってきてね、
自分の本当の姿がわかってきた。
先生は、ああ、やっぱりあの宣教師が言うように、
私は誰から言われたわけではないのに、こんな悪いことばっかりしてきた。
明日行って、そしてお詫びして、お祈りしてもらうと思って、
朝、明けるのを待って、そして教会に訪ねて行ったと。
そしてその朝ね、イエス様を信じた。
そして先生は中国にまでね、後にこの体の不自由な先生ですけども、
宣教師として渡って行かれるぐらい、大きな働きをなさった方です。
けどもこの先生も、何でそんな失礼なことを言うんだろうかと思うくらい、
自分ほど真面目な者はいない。
自分ほど正しい者はいないと思っていた。
私もそうではなかったんですね。
私がやっていることだけはみんなやっている。
だから平日で悪いこともやっていた。
だから警察の前を通るのはね、ちょっと抵抗があった。
それは小さい時に、その兄からね、渡るお前が警察の前を通って、
そして中を見ると、自分の映るようになっている。
悪いことをしていたら映る。
そこに映らなかったら大丈夫だ。
脅迫に見えたことを言われたことがあったんですね。
それでまたから警察の前を通る時には、誰かの影になっていた。
ちょこっと見る。
ちょこっと見るから映らない。
ああ、映らなくて助かった。
でも自分がその前に出すということは、もう勇気がなかった。
だから子供ながらにもね、自分は悪いことをしてきている。
だから映らなければすぐに警察に捕まえられて、
そして中へ入れかけてしまうというような、そういう気持ちがあったんですね。
それでもね、私がやっていることは、私だけじゃない。
あれもやっている、これもやっている。
みんなやっているんじゃないの?みたいな、そういう気持ちでもって、
自分を少しでも正当化。
言うならば、真面目な子供だよ、真面目な中学生だよ、というような、
そういうふうに自分の気持ちを切り替えていたんですね。
けれども教会に行くことがわかった。
どうして?
そんな私にもね、このイエス様の光が入ったんでしょうね。
まあそういう表現を使いますけれども。
あらずき自分が真実だということが、チクッとわかった。
けれどもチクッという程度だからね、それ以上はあまり感じなかった。
教会から出たら別に問題ない。
また教会に行って話を聞いていくうちに、チクチクッとこうね、
今度は2回ぐらい心の中にね、感じるようになった。
でも教会を出たら、あまりそういう問題ない。
27:02
私の周りはそういうことでもって、そやかく言う者いない。
しかし本当の自分の言うことを知ったときにね、
もうチクチクどころじゃない。
ああイエス様は、こんな私のためにも、十字架に過ぎかしちゃったんだな。
マクストンという有名な先生はね、
母親が子供のためにここに来て、そしてイエス様のところにやってきた、
そして私はあれにてくださいと、一生懸命お祈りしている彼女にとって、
子供の病は自分の痛み。
だからね、この子を治してほしい。
これが母親だ。
けれども神様の愛は、それを超えてね、
自分の独り子を犠牲にされた。
それは自分を犠牲にする異常の犠牲がそこにはあるんですよ。
そういうことを神様が言った。
親として子供が苦しんでいる。
そのために自分が代わりになろうというのは、いわゆる親の愛ですよ。
けれども子供を犠牲にしなくてならないという子のことに平気でおれるような、そんな親はいない。
親にとって一番の犠牲はね、自分を犠牲にする以上に子供を犠牲にすることです。
しかし神様は私たちの罪の許しのために、
ご自分が苦しむのではなくて、ご自分の御子をこの世にお使いしなさって、
そして彼の苦しみを通して私たちの苦しみを癒してくださった。
その苦しみを通して神がどんなに私たちを愛しているかということをそこで表しなさったんだ。
ちょうどこの覇親に見るその親の愛というこのことを通してね、
より高い、より深い父なる神様が私たちのために、
どんなに苦しみを持ってそしてイエス・キリスト御子なるイエス様をお与えくださったか、
それを私たちは知るべきです。
このお母さんはね、子供のためですから一生懸命頼むんですけれども、
イエス様は一向にお答えになさらない。
そのお母さんに言ったんじゃなくて、弟子たちに向けても、
私はね、子供たちのために来たのであって、子犬のために来たんじゃないという、
30:04
そういう意味合いのことをここでおっしゃっているんですね。
そしたらそれを聞いたこのお母さんはね、イエス様だったら、
さあわかりましたけれども、子犬でもその自分の食べた残屑をこぼし出す。
そしたら、こぼしたその、それだけでもいいですよ、と。
そうやってイエス様だけやってきたんですね。
私はこの場面をどうしてもね、私の家にココという小さい真っ白い小犬がおるんですけどね、
ここを読んでみてね、
テーブルからこぼれるパン屑でもっていうような、そんな心やさしい、
うちのペットはそうじゃないな、
あの時私が楽しみにしておりました、あのキャラメルコーンのね、
これから食べようと思って、そしてたまたまテーブルの上に置いておいたのを、
夜中に寝ている間にですね、この子はね、我々が寝ると夜行性ですから起き出すんですよ。
そしてね、翌朝見たらね、しっかりこう蓋がしてあるのにもかかわらず、
それを食い上げてね、半分で食べちゃう。
で、翌朝見たらもう水はないですよね。
そして起きたら水をくれってやってくるから、
珍しい朝からこんな水を入れてくるなんてなと思って、
ふっとテーブルの上見たら、そのテーブルの上に大切にしておいた、
それをほとんど全部食べられた。
もう悔しいってね、これはもう私が楽しみにして、
結構高いお菓子なんでね、そう思いながら、もうと思ったんですけどね。
パン屑を待つようなそんな優しい子犬じゃない。
なかったら飛び上がって、そうしてテーブルの上で持って、もう何でも限ってやろうと。
ある時は、ほんとそこに置いておいた私のいつも飲んでいるバファリンという薬まで飲んでしまったもんですからね。
電車に行っていたら、そうですか、と言って、
まあ一度連れて来たらどうですかと言われて連れて行ったこともあるんですよ。
ある時は、家の家内が置いておいたキシリトールのチュイガム。
あのキシリトールが一番マリーですね。
それを食べたったんですね。
この時また医者へ連れて来ました。
やっぱり家族みたいなものですからね、何をやらかすか分からない。
だからテーブルの上に、夜寝る前には全部それを見て、そして何もないということを確認してね。
そしてその上、台所にも入らないように柵を筆としてやる。
ですからここで見るようなテーブルから、ここで見るようなパン屑。
けれども彼女はね、そんなに強引に飛び上がって、そしてやるんじゃなくて。
イエス様が言い聞くのをそこで教えた。
33:01
私が来たのはね、子供に、
そしてそれを子犬にあげてやるのはよろしくないということを教えた。
それを彼女は聞いてね。
それでもイエス様は分かりましたけれどもね、
子犬が食べてこぼしたタンクでいいですよ、すごいなと思いましたよ。
私と全然レベルが違う。
私はふられてしまったという気持ちの方が強いんですけれども、
この母親はね、娘を思うそういう優しい気持ちで。
それでも子犬がこぼした分だけでもいいですから、どうぞ私の娘をついてやって来て。
彼女は無視されようが。
しかも考えてごらんなさい。
イエス様がこうおっしゃったんだなと思うとですね、よけいこうショックなんですけどね。
子供たちのパンをとって、そして子犬にあげてやるのはよくない。
この場合の子犬というのは、この女性あるいはその女王のことですよ。
子犬、子供というのはやる。イザヤ人、イスラエル。
もうはっきりした、これ。
ある意味において今だったならば、差別用語みたいなものですね。
私はお子様のものなんだ。
あなた方のために、特にこの外国人のあなた方のために私はそんなことはしない。
イエス様の言葉なんだろうかと思われるような、そんな差別用語をここでイエス様がおっしゃっている。
とも取れるようなこの表現ですよ。
なのにこのお母さんがね、これも母親のそういう愛情でしょう。
だからイエス様はわかりました。
これでもこういうのが食べこぼしたパン屑でもいいですから、どうぞそれでもって私たちを憐れんでください。
イエス様はそれを聞いた時に、改めてここでね、このおっしゃった次の言葉ですね。
15章の28節。
その時イエスは彼女に答えて言われた。
ああ、あなたの信仰は立派です。
その願い通りになるようにっておっしゃって、そして彼女の祈りが、彼女の求めがここで持って、
36:03
イエス様の口からね、わかったよって言ってイエス様は、そして結論を見るとそのお母さんが。
そしてこの子供も娘も癒されたって書いてある。
そして別な箇所を見ると、イエス様はね、おそらくこの時の出来事がそこにあったんでしょう。
当時の私こそ神様のお恵みに、神様の救いに、そしてその祝福を一番受けているんだという、
そして他の人はもうそんなことはないと、そういう思いで持っておった当時のこのイザワキに対してね、
あるいはイスラエルの人々に対して、あなた方ね、あなた方の言っていること、そしてしてきていることならば、
何としても神様の心を痛めていることか。
このツロフェニキアの子供の、この婦人のような信仰があったならばって言って、
そこで引き合いに出しているのが、このツロフェニキアの出来事です。
あなた方が、あの国は、あの人々は、もう全然神様の祝福に預かれないんだと思っていた、
思われていたその人たちこそ、神様がどんなに祝福をなさっているか、
自分ほど恵まれた者はいないと思っていたカフェナーモの町の人たちよ、
あなた方は、せっかく私がこの町に住んで、大きなバラバラ技をしても、あなた方はそれを信じようとしなかった。
けども、あなた方にとっては、
違法人の国、神様から呪われている国と一方的に決めつけている、あのツロの人たちこそ。
で、イエス様はそういうことを、このツロフェニキアの出来事を通しておっしゃったんです。
それぐらい、イエス様の心の中には、このやりとりでもって冷たくあきらったんじゃなくてね、
この彼女の家にあるところの、わずかな信仰という灯火を、大きく燃え盛るように。
イエス様はそこで、次々と何もんでしょうかね、そういうことをおっしゃりながら、
けども、イエス様はそこでもって、ご自分がどんなにこのツロフェニキアの、
あるいはその娘が親子のために大きなことをなさうとしているかということを、そこでお秘めしながら、
私たちはそこで大切なことは、
イエス様が彼女の信仰を、あなたの信仰は立派だとおっしゃった。
他に言ったことがない人たちですよ。
神様の言葉に触れてずっと守られて養われてきたような人たちじゃないですよ。
39:00
言うならば、ユダヤ人から見れば、神様の言葉から、神様の祝福から外されてしまった、
そういう連中だと思っていた、その人たちの中にこそ、
イエス様はそのことをここで宣言ながら、
私たちにとって大切なことはここですよね。
どんなことがあっても、私たちは一回お祈りして、二回お祈りして、三回お祈りして、
もうやめたというのではなくて、
もう自分の娘のためになればと言って、必要に求めてきた、
この夫人のようにお母さんのように、私たちにとって子供たちのために取り成す責任というのが、
我々にあるんだなと。
最初に申し上げましたようにね、
もうやかましくてしょうがないというのは、当時小学生だったその子が、
もうみんな大学生になったり、社会人になったりして、
教会の新しい力になりつつあるという、それを見たときにね、
少々やかましくたってね、
この頃の十年先は、今ここに子供たちがおりますけど、
十年先は大学生か社会人か、
もうこの教会の、それこそこれからの教会のための大きな力がある。
そのためにこそ私たちは、今子供たちが教会に出る、
あるいは教会に誘われている、そういう子供たち、
赤ちゃんだったその子もですね、
あと十年たったらば、もう立派な中学生、高校生になってます。
その子供のときにね、本当に希望がありました。
私は、あなたの信仰は立派だというこの信仰の中にね、
将来というのに対する神様の祝福というのがそこに織りなされているんだなということを改めて思います。
ですから、子供たちがね、一緒に神様の祝福を受けて、
そして立派に成長していくように、
大人の私たちのそこには大きな責任があるなということを感じます。
お祈りしましょう。