1. 名谷教会
  2. 2015/09/20:聖日礼拝(旧音源)
2015-09-20 28:52

2015/09/20:聖日礼拝(旧音源)

2015/09/20 聖日礼拝(旧音源)




00:01
皆さん、おはようございます。
それでは、今日もメッセージに入る前に、隣の方々に挨拶しましょうか。
よろしくお願いいたします。
よくいらっしゃいました。
それでは、一言お祈りいたします。
愛する天皇、主な神様、皆がお召さんびいたします。
聖なる主の日、感謝と喜びの日を、主が私たちに許して下さいまして、
主の民が、主の御前に集めていただきました。
主は何より、私たち主の御前に比例をして、
悔いた心、砕かれた心をもって、十字架の水晶によって、
主を銘いただきまして、主の御前に、
強い生きた生き生きとして、主の御前に捧げられる礼拝でありますように、
どうか主よ、神様御自身だけが崇められ、
褒めさえられ、主の力だけが現れますように、
どうか主よ、ここに集っている皆宗一堂の上に、
一人一人の上に、主の恵みの御言葉、
光の御言葉を、希望の御言葉を、どうぞ主よ、お語り下さいますように。
主の御前に、謙遜に入り下して、
人間の言葉としてではなく、主の言葉として、
優しい謙遜に受け取ることができますように、
主よ、どうぞ、聖霊様、あなた様がお語り下さいまして、
御前に御前に、神様の御名によってお祈り致します。
アーメン。
セルシティクリティアナイト、3回目になります。
謙遜は、心の大掃除という題を持って、
共に御言葉をいただきました。
心を清めましょう。
そして、自分にはできないんですけれども、
心を清めて下さる主に全てをいだねましょう、
という御言葉をいただきました。
皆さん、いかがでしたか。
一週間のうちに、心をきれいに大掃除にできましたか。
御名をよく出しましたか、皆さん。
その御名をもし、御名してばじゃなくて、
03:03
他の隣の家の扉の前に置いてはいませんか。
今日は、あなたは幸いな人です、
あなたは幸いな人です、という題から、
なぜ私たちが幸いな人なのか、
主の御心御声を一緒に聞きたいと思います。
皆さんは、何をしているときに、
あるいは、どんなときに、
ああ、私は本当に幸せだな、
私は幸せな人だな、
と感じていらっしゃるでしょうか。
どうでしょうかね。
小さい赤ちゃんであれば、
お母さんのところに抱かれたまま、
寝ているときが一番幸せでしょう。
あるいは、受験者たちは、
念願の大学にも見事に合格したときに、
一番幸せでしょう。
お店をやっている人は、
売上がものすごく上がるとき、
一番嬉しいでしょう。
サラリーマンは、会社で消費して、
給料も上がるときに、
とても幸せになると思います。
このような幸せは、
確かに私たちの人生に、
とても大きな喜びになると思います。
ところが、このような幸せは、
ときには、まるで朝霧のように、
風に吹かれたり、
朝日が昇ってきますと、
すぐに消えてしまうものであります。
いつまでも、
永遠に続くものではないんですよね。
生徒理科長、一緒にいただきたいと思います。
新薬生徒の中に、
ヤコブの手紙があります。
後ろの方にありますが、
ヤコブの手紙4章13節14節を、
一緒に開きましょうか。
新薬生徒の450ページです。
450ページ、ヤコブ4章13節14節です。
それでは私が読み始めます。
みなさえ、今日か明日、これこれの町に行き、
そこに一年いて、
商売をして、儲けよう、という人たち。
06:03
あなた方には、明日のことはわからないのです。
あなた方の命は、一体どのようなものでした。
あなた方は、しばらくの間現れて、
それから消えてしまうきりにすぎません。
とありますね。
愛する皆さん、
人々から、何より神様からですね、
神様から、あなたは幸いな人です。
あなたは幸せな人です。
と、神様に言われる信者になりたいんですよね。
また、人々からもそう言われたいんですよ、私たちは。
もしですね、あなたは本当に不幸な人ですね、
あなたは本当に運が悪い人ですね、と言われてですね、
うわぁ嬉しいという人は、誰もいないでしょう。
では皆さん、私たちが自ら、
本当に私は幸いな人だ、と感じられるためには、
そう、自信を持って言えるためには、
どのような人生を送ればいいんでしょうか。
何より、人々からの評価もね、大事であるかもしれませんが、
何より神様から、好なる神様から、
あなたは幸いな人なんだよ、と評価されるためには、
どのような生き方をしたらいいんでしょうか。
聖書を見ますと、多くの人物が出てきます。
その人々に対する神様の評価の記録が、実は多く書かれているんですね。
その中の二つだけ、比較したいと思います。
まずは、創世紀六書九節を開きましょうか。
今日はちょっと箇所がありますけれども、
旧約聖書の創世紀六書九節。
旧約聖書の9ページです。
私が読みます。
これはノアの歴史である。
ノアは正しい人であって、その時代にあっても全く人であった。
ノアは神と共に歩んだ。
みなさん、これが、ノアに対する神様の評価記録なんです。
もう一箇所、よぶきという説があります。
旧約聖書の中で、四編の前の書物ですが、
09:00
よぶき一書一節をお開きいたしましょう。
よぶき一書一節。
旧約聖書849ページです。
私が読みます。
宇都の地によぶという名の人がいた。
この人は潔白で、ただしく神を恐れ、あくから遠ざかっていた。
という神様の評価記録が書かれています。
他にもですね、モーセやヨシエフ、ダビデ、あるいはダニエル、
ペセロ、パオロ、ヨハネ、そして天皇、こっちのように大勢の宗徒の先輩たち。
彼らはみな神様に愛されて、神様の心にかなった人々ですね。
あなたの人生は本当に幸いですと言われた人々でした。
ところで、なぜこのような人々は神様から素晴らしく評価をしていただけたのでしょうか。
それは聖書の御言葉を借りて申し上げますと、
彼らはみな朽ちるものを取らず、朽ちない永遠のものを取ったからです。
皆さん、私たちは永遠に消えないもの、永遠に続くもの、
朝霧のようにすぐに消えてしまうものではなく、
朽ちてしまうものではなく、永遠に残るものを取るべきではないでしょうか。
本当に永遠に消えないものがあるならば、本物の幸福があるならば、
それを私たちが求め、それを私たちが取るべきではないでしょうか。
では皆さん、どのようにして私たちは永遠に続くもの、永遠の価値あるものを取ることができるのでしょうか。
それは、最も価値あるものを取るためには、それより価値のないものを諦めることです。
分かりやすく申し上げましょう。
私の知り合いが韓国ですけど、弁護士の事務所を辞めて、
50代の人ですけど、機能を知って、リンゴの農業をする農夫になりました。
12:02
やっと今年から、秋のリンゴは今が旬ですね。
彼がSNSに写真とかを載せていましたけれども、
最も良いリンゴを収穫するために、他のものを切って、もったいないんだけれども、それを諦めるんです。捨てるんです。
最も良いリンゴを甘くて、良いリンゴを取るために、それより良くないものを捨てる、諦めることなんです。
皆さん、私たちはここで、本当に幸せな人生、ヘルシー・クリチャー・ライフの原則を知ることができました。
我々の人生は、そもそも神様によって作られる時から、2つを同時に手に入れることはできないんです。
2つを両方同時に掴むことはできないんです。
これを選び取ったら、あれを諦めなければなりません。
そういう風に神様が作られたからです。
イエス様も神様も何度も言われました。
この世のものを掴む者は、神を選び取ることはできない。
どれか選び取りなさいという見事があります。
例えば皆さん、睡眠時間を減らすと、祈る時間、聖書を読める時間、あるいは散歩をできる、運動をする時間を得ることができるでしょう。
あるいは、いらない時間を減らしたら、不必要な時間を減らしたら、神のように必要な時間そのものを得ることができるでしょう。
思い患い、心配を諦める、知っていたならば、ヘルシー・クリスタル・ライフを手にすることができるんですね。
憎しみを知っているならば、和解を得ることができる。
この世のものを捨てるならば、永遠の命、イエス・キリストを取ることができるのではないでしょう。
ヨハネムク印象6章27節を一緒に開きたいと思います。
新約聖書のヨハネムク印象6章27節、185ページです。
15:04
私から読みます。
亡くなる植物のためではなく、いつまでも保ち、永遠の命に至る植物のために働きなさい。
それこそ、使徒の子があなた方に与えるものです。
この使徒の子を、父すなわち神が承認されたからです。
亡くなるもののためではなく、いつまでも保ち、永遠の命に至る植物のために働きなさいとありますね。
皆さんは今まで、何のために、何を取るために、何を得るために働いているのでしょうか。
もう一ヶ所、新約のガラテア人の手紙、6章8節です。
ガラテア人の手紙、第1、第2コリントの次にあります。
ガラテア人の手紙、6章8節、371ページです。
それでは、この書きは一章にお読みしたいと思います。
自分の肉のためにまくものは、肉から滅びをかりとり、
身様のためにまくものは、身様から永遠の命をかりとるのです。
アーメン。
皆さんいかがでしょうか。少なくともこの一週間、皆さんは何をまかれたでしょうか。
身様のために命を、希望を、喜びをまかれたでしょうか。
私たちが求めるべきものは、私たちが取るべきものは、
朽ちるものではありません。朝霧のように消え去るものでもありません。
私たちが取るべき価値は、この肉体でもありません。
私たちが取るべき価値は、単なる幸せでもないでしょう。
私たちが取るべき、求めるべき、最も価値あるものは、
ただイエス・キリストお一人だけあります。
この事実、この真理を悟ることが、実は信仰であります。
ですから、この真理、この事実を悟って、そしてその通りに歩むクリスチャンことを、
18:01
私は幸いな人ですと言えるクリスチャンなのではないでしょうか。
もう一度申し上げますと、私たちが取るべき価値は、私たちが求めるべき価値は、
朝霧のように消え去るもの、朽ちてしまうものではありません。
それはイエス・キリストであって、その方から与えられる永遠の命であります。
このような人生こそ、私は幸せな人ですと、自信を持って、確信を持って言えるクリスチャンではないでしょうか。
ここで、もう一つ大事なことがあります。
今日のキーワードが、永遠の命です。
ところが、永遠の命、私たちは思うたびに、それは亡くなった後いく死後の世界。
それだけ考える思いがあったりしますけれども、それは正しくありません。不十分です。
皆さん、イエス様が私たちに与えようとしておられる、
いや、もうイエス・キリストを信じる私たちに既に与えられて、私たちが持っているこの永遠の命というものは、
ただ、この肉体が死んだ後、その後にならないと味わうことができないものなんでしょうか。
決してそうではありません。
キリスト教は、来世の宗教ではありません。
キリスト教は、今、ここで、家庭で、職場で、社会で、あるいは教会で、イエス・キリストのゆえに喜び楽しむ人生、
イエス・キリストのゆえに感謝する生き方、
イエス・キリストのゆえに全ての悩み苦しみが消え去る、
イエス・キリストのゆえに永遠の命のその恵みを前味する、
先取りして、今ここで天国の喜びを喜び楽しむこと、享受すること、これが永遠の命であって、これがキリスト教なんです。
だから皆さん、永遠の命というものは、今ここから始まるのです。
死んだ後にならないともらえない、そういうものではありません。
案外少なくないクリスチャンが、来世だけの永遠の命を考えている、そう信じているクリスチャンが少なくないなと私は驚く時がありますが、
21:01
決してそうではありません。
永遠の命というものは、今ここでそれを享受する、喜び楽しむこと、それが永遠の命であります。
イエス・キリストを救い主として、皆さんは信じていらっしゃるでしょうか。
そうでならば、皆さんにはすでに永遠の命が与えられています。
皆さんは持っているんですよ。
聖書を一箇所開きましょうか。
新約聖書471ページです。
ご一緒にお見せしたいと思います。
この証とは、神が私たちに永遠の命を与えられたということ、そしてこの命が御子のうちにあるということです。
ここにですね、神様が私たちに永遠の命を与えられた、いわゆる過去に与えられて、
その効力が今にも永遠に続くことなんです。
すでに、もうすでに皆さんはイエス・キリストを救い主として告白して信じる人々には、
永遠の命が与えられている、私が持っている、それを味わったらいいんですよね。
それを確信しつつ、歩むことが信仰なんです。
例えば皆さん、飛行機に乗ってですね、アメリカとかヨーロッパとか遠いところまで行きますと、
アメリカに私は1回しか行ったことはありませんが、機内族が3回ぐらい出てくるんですよね。
そうすると皆さんはどうするんですか。機内族を喜んで食べられますよね。
なぜでしょうか。
チケットを買った人には、搭乗だけではなく機内族も食べられる権利があるわけなんです。
もしですね、ある人が機内に座っているんだけれども、機内族が出てもですね、
いや、私は搭乗券だけ買って、機内族のチケットは買ってないから食べれませんと言ったらですね、それがちょっとおかしいと思うんですよね。
24:00
それ自分のカバナの中でですね、おにぎりをですね、それ出して食べる人は、
まあおやつ食べてもいいんですけれどもね、機内族は、いや私は食べれませんよ、私は買ってませんよ、という人はいないでしょう。
永遠の命は、主の喜びと主の力と全てはもう既に与えられている。それは私たちのもの、あなたのものなんですね。
それを喜ぶ、それを楽しむ、人と共に歩むこと、それが信仰なんです。それが永遠の命というものであります。
亡くなった後に、それだけの祝福ではありません。
イエス・キリストを救いにとって信じる者には、既に永遠の命が与えられている。
持っている、既に持っているこの永遠の命の力を、永遠の命の喜びを、その自由を、その恵みをあふれるほど、今ここで共受すること、喜び楽しむこと、それが信仰なんです。
僕は皆さん、そのようなクリシャンでありたいんです。
永遠の命を、今既に与えられていますから、それを喜び楽しもうではありませんか。
だから私たちは、私は幸いな人ですと言えるのではないでしょうか。
今ここで、永遠に戯くことのない、永遠の命を喜び楽しむ。
そして、この地上での命を終えるならば、イエス・キリストと共に蘇って、永遠に神の御所で、神のお住まいに住むこと。
その全てが、実は永遠の命なんですね。
だからこそ私たちは、私は幸いな人ですと言えるのです。
皆さんいかがでしょうか。もしですね、皆さんの家族とか、あるいは知り合いの人々、あるいは友達がですね、
あなたは幸せですか。あなたは幸せですか。
疲れたときもあるじゃん。
そしたら皆さんは何とお答えになるんですよ。
そうですね、不幸ではないんだけれども、幸せになったらいいんですね。
こう答えるのではなく、もちろんですとも、私は幸せな人ですよ。
なぜなら、イエス・キリストを信じて、そのイエス様が私に既に永遠の命を与えられたから、
私は今ここで、その永遠の命の喜びを、祝福を、喜びを楽しんでいるから、
27:06
そして死んだ後も、神様と共に永遠に生きるから、私は本当に幸せな人ですよと言えるクリシャンになりたいんです。
胸を張って、言えるクリシャンになりたいです。
そんなときにはですね、どうぞと言っていいんじゃないでしょうか。
ヘルス・クリシャン・ナイフ、ここから始まるんですよ。
今ここで、イエス様が既に与えられた永遠の命から来る喜びと祝福と自由を、
イエス・キリストと深い親密に、その深みまで入り込んで、それを喜び、喜び、そして味わうことが、ヘルス・クリシャン・ナイフなんですね。
今日はもうちょっと特別式が行われますので、メッセージは短くさせていただきますが、
今日の歌詞をもう一度一緒にお読みしたいと思います。
ヨハネノクイーション5章24節、一緒にお読みしたいと思います。
ヨハネノクイーション5章24節、
一緒に、誠に誠にあなた方に告げます。
私の言葉を信じて、私を使わせた方を信じる者は、永遠の命を持ち、
裁きに遭うことがなく、死から命に移っているのです。
アーメン。お祈りいたします。
28:52

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