00:01
アーテン、ありがとうございました。
はい、皆さんおはようございます。
母の日礼拝にようこそいらっしゃいました。
では今日もメッセージに入る前に、隣の方々と挨拶をしたり、挨拶をしたりとしていただきたいと思います。
おはようございます。
ごいらっしゃいました。
感謝します。
はい、感謝します。
それでは一言お祈りいたします。
主なる神様、今日もこうして喜びに満ちた礼拝を捧げることができることを本当に心から感謝いたします。
今から、生きる神様の御言葉に耳を傾け、心を傾け、そして心を開いてお口いたします。
どうぞ一世、我ら一人一人に、今日の命の御言葉、十字架の御言葉をもって語りかけてくださいますように。
どうぞ一世の聖霊様助けてください。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今日は母の日として礼拝を捧げています。
皆さん、母の日が制定されたきっかけと言いましょうか、それをご存知でしょうか。
アメリカのある教会で、教会学校の教師をしていたアンナ・ジャーヴィスという女性の神徒さんがいたんですね。
この方は教会学校の子供たちに、いつもこういうふうに言っていました。
探索のために、いつもいろんなことをしてくれるお母さんに何か喜ばれることを考えましょう、それを教えましょうと、いつも話をしていました。
時が経って、彼女が亡くなって葬儀の時に、その娘さんがそのお母さんの言うことを思い出しました。
そして、たぶんその地域にカーネーションが多くあったらしいです。
そして、いっぱいのカーネーションをそのお母さんのお墓に捧げました。
そして、せいぜいお母さんが何を言っていたのか、そして他のお母さんたち、あるいはお子様たちにどういうふうにしてあげたのか、その話をしたんですね。
すると、そこに集まった方々が非常な感動を受けたそうです。
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これが母の日にカーネーションを差し上げるきっかけになって、そして1914年、アメリカではなんと議会で母の日を、5月の第二の日曜日を母の日にしましょうといって世界に広まって、
これを私たちが母の日としてお祝いをしているところです。
ところが、そのはるかに昔、私たちが信じている清瀬の御言葉では、なんと親孝行をどうすればいいのか、私たちに御言葉として語ってくださいました。
その中の今日の御言葉は、「あなたの父と母を敬いなさい。」という御言葉がありました。
今日はこの御言葉からともに、特に親孝関係について御言葉からの教訓をいただきたいと、そう願っております。
しばしば、母の愛とは神様の愛に近いとおっしゃる方もおられるかと思います。
確かに、お父様とには差別かもしれませんけれども、お母さんの愛は確かに驚くような愛だと思います。
そして今の中でも、その多くの方がお母さんの愛を美高に驚くほど経験しておられたかと思います。
母の愛って本当に驚くほどすごいなんですね。
こういう話がありました。
これはイタリアにいたらポンペイの遺跡がありますけれども、その中で人々の涙を注ぐこの遺体があります。
写真でも結構知らされているんですけれども、腕に赤ちゃんを抱きしめたまま、そのまま亡くなった。
そのお母さんと赤ちゃんのそのままですね、遺跡として残っているんですね。
たぶんお母さんが自分の赤ちゃんを守って生かすために覆ってお母さんが抱きしめて、しかし二人ともそのまま亡くなったことがあります。
またある方は、
イエス様のその愛を、私たちのために生んでくださったその愛をすぐよくわかると言っている人がいました。
その人の赤人は、その人のお母さんがとても病弱な体を持っていました。
自分を身を持ったときに、お母さんの前にお医者さんから、
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あなたの体はどうしても持たないから子供を諦めた方がいいんですよ。そうしないとあなたの命が危険ですよと言われたそうです。
しかしなんとそのお母さんはですね、自分の命が取られても何としても産みたいですと言ってですね、
自分の命と引き換えに子供をこの世に産んだそうです。
その人は、神様が愛しているから命を捨ててくれた。イエス様が私を愛して、私を生かすために命を捨ててくれた。
そのイエス様の愛を言ったらですね、すぐにわかったそうですね。
皆さんもお母さんからあんなことしてくれた、こんなことしてもらったという思い出があるのではないでしょうか。
お父さんお母さんが生きていらっしゃる方もいらっしゃいますし、既に亡くなられた方々もいらっしゃるでしょう。
人はですね、不思議にですね、70歳になっても80歳になっても、いや90歳になってもお母さんのことは忘れられないんですね。
そういう人にとっては、あなたの父と母を敬いなさいという言葉は、従いやすい、絶やすいと思う言葉ではないかと思います。
けれども、気の毒にそういう親ばっかりではないですね。
最近の新聞を賑わしているのは、その反対の親がこの世の中には大勢いる、あるいはいたということです。
自主の親から虐待やひと石打ちを受け続けた子どもたちがいたとしますが、もちろんいると思います。
そういった子どもたちにとってですね、あなたの親を敬いなさいと言われても、到底受け取りにくいんですね。
どうしたらいいんでしょうか。
その言葉は、あなたの父と母を敬うこと、それはあなたが幸せになるためであるとありますね。
皆さん、親子関係がよくなかったら、朝鮮はどうやって健全な人間関係を築きつくることができるでしょうか。
皆さん、よく考えてください。人間はですね、人はこの世に生まれて初めてできる人間関係というものは、親子関係なんです。
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そこにおいて、良い関係が持てなければ、どうして他の人たちと良い関係を築いていくことができるでしょうか。
なかなか難しいかもしれません。しかし、解決方法が全くないわけではありません。
グッドニュース記事がある、福音がある、良い知らせがある。それを後にですね、今から申し上げたいと思いますが。
今日の読み言葉、エペソフィクトの手紙6章、2節、3節には、こう書かれているんですね。
私ではもう一度読みます。
あなたの父と母を敬え。これは第一の二話目であり、約束を伴ったものです。
すなわち、3節はご一緒に読みましょうか。
さんはい、そうしたら、あめん。
そうなんです、皆さん。
皆さん、私たちが普通考えるのは、10回にも書かれているわけですけれども、
人を殺してはならない、というのが人間に与えられている一番大事な今しめじゃないのか、と思うかもしれません。
しかし皆さん、人を殺してはならないという前に、あなたの父と母を敬いなさいという今しめがあるんです。
これが私たちが、皆さん、人間として生きるための最も大事な土台であるということなんです。
人間としてあらゆる関係の中で、良き関係を築きながら生きるための最も重要な、最も根本的な土台は、親子の関係ということなんです。
そこにおいて、良い関係を持って築いて結んでいくならば、社会に出ていても、学校に出ていても、またその人が大人になって、結婚して、子供を産んで、夫婦関係、親子関係においても、
今日も見言葉通りに幸せに生きられますよ、というメッセージなんですね。
このところを掘り下げて申し上げたいと思います。
あらゆる人間関係は、実は両親との関係が全ての関係の基礎になっています。両親との関係があらゆる人間関係に影響を与えます。
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今、皆さんが関わっている夫婦の関係、皆さんの親子との関係、あるいは社会での誰々さんとの関係、その全ての関係の今の様子は、その土台は皆さんと皆さんのご両親との関係の土台になっていると言えます。
例えば、今日、日本だけではなく、他の国々にも引きこもりの人たちが大勢いるんです。
その根本的な一番の理由は、両親との絆が整ったことが原因であるよう、これは臨床の結果として、データとして出ていることなんですね。
人を本当に信頼できるんだろうか?いや、信頼することはできない。
彼らはだいたい両親から信頼することを体験的に小さい時から学ぶことができなかったからですね。
しかし、その両親もまたその親から様々な傷を受けてきた被害者たちでもあるんです。
だから、子供に対して辛く語ったり、愛することができなかったりするんですね。
皆さん、今日の御言葉、あなたの父と母を敬え、これは第一の今しめであるからです。第一なんです。
すべての人生の第一の今しめ、第一の土台は何なのか、父と母を敬う。
そして、親子の良き関係を積み合って、築いて、持っていくことなんです。
そうしますと、私たちはこの地上において長生きできるわけなんです。
皆さん、長生きできるのに最も根本的な秘訣、原理は何でしょうか?
父と母を敬うことです。
いくら、例えばですね、ガキを体操してもいい、薬を飲んでも、サブリメントを飲んでも、青汁を飲んでもですね、親子の関係においてうまくいっていない。
それが癒されていない、回復されていないと、我々人生に大きな穴がそのまま開いているということになります。
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皆さん、十回をよく覚えておいてください。
十回は、第一から第四番目は神様に対する今しめなんですね。
そして、第五番目から十番目までは、人間に対する今しめ。
いわば、人間関係に対するメッセージなんですね。
そして、十回の真ん中の五番目にあたるのが、この父と母を敬いなさいなんです。
つまり、第一の今しめという意味は、人間関係における第一の今しめがこれなんですよ、というメッセージなんです。
ですから、父と母を敬うということをしっかりと覚えて実践しているならば、第六から第十の今しめも守ることができますよ、という言い方なんです。
皆さん、これはとても大事な話なんです。
もちろん、親と関係において、本当に幸せに、理想的にそういう関係を持って育てられて、今もそういう関係を築いて持っておられる方々もたくさんおられます。
しかし、そうでない方も実は多くおられるということなんです。
ですから皆さん、認めたくないかもしれませんが、今日は自分自身のこと、特に親子の関係について、主の見舞いで正直に共に考えて探って見ていきたいと思います。
親子関係において失敗した人、うまくいかなかった人、その傷が癒されていない人は、社会に出ても社会生活、上司関係、自分の部下との関係、あらゆる人間関係、夫婦の関係、また自分の子供との関係が、
あるいは、教会の中で兄弟姉妹たちとの関係、牧師との関係、また神様との関係もうまくいかない恐れが高いのです。
しかし、たとえ傷が深いものであったとしても、イエス・キリストの父親の恵みと許しによって癒されたならば、本当に今日も御言葉通りに幸せに生きることができるように変えられるのです。
皆さん、これが福音ではないでしょうか。親との関係がどれだけ大事なのか、もうちょっと掘り下げて見ていきたいと思います。
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皆さん、両親との関係が良くなかった子供たちが大人になって犯罪を犯すケースが高いというデータが、すでに世の中には出ているのです。
彼らは世の中の人々を憎んでいるのです。なぜ憎んでいるのだろうか。彼らはその前に両親を憎んでいるのです。
彼らが両親に従っているならば、最悪に陥るところまでは行かないでしょう。両親との関係が悪かったならば、子供にどのような影響を与えるのでしょうか。
まず一つ目は、両親の存在を否定するのです。そうすれば、それは結局、自分自身の存在感を否定することになるのです。
自分が誰かか、それがわからないことになってしまう。
そうすれば、お父さん、お母さんという存在は自分のルーツなのです。
ですから、皆さんの中にはそういう経験がないかもしれませんが、子供が自分の親父に対して、あんな父親はもういなければよかったのに、
お母さんに対しては、どうして俺を産んだんだ、頼みもしないように、そういうふうに言うならばどうなんでしょうか。
それは実は、自分自身を見つけて、自分自身を否定してしまうことと同じ結果になります。
特に、子供がお父さんの存在を否定してしまうならば、自分のアイデンティティ、自分が誰かを知ることが難しくなります。
次は、親御関係において敬うことがなかなか難しいとは、世の中に出て行ったら、学校の先生や会社の業種や教会に来たら、教会の牧師に対する敬意を認めようとしないのです。
それは、お父さんから敬意に従うことを学んだことがなかったからです。
どうやって敬意に心から喜んで従うのか、それを小さい時から中高生、二十代になっても学んだことがない、見たことがない。
その人が世の中に出て行ったら、学校の教師に社会に出たら、上司があるんですね。課長さん、部長さん、社長さんがいる。その敬意に従い、従い。
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教会に行ったら、役員さんとか牧官がいるわけですね。そこにもその敬意を認めようとしない、その真意が心の底にあるわけなんです。
上司とうまくいきませんとか、上司が私を認めてくれませんとか、私も心よく上司にしたことはできません。もう会社に辞めます。
多くの場合、もちろん他にさまざまな原因があるでしょうけれども、根本的な問題は父親との関係が崩れている。よくなかったことが原因なんです。
それは上司が父親と二重移しになって、こちらも父親に対する同じ感情を抱くからなんですね。
ある先生の赤い球を読んだことがあります。こういう話がありました。その先生はその教会で何人かの婦人からつっかかられたことがたくさんあったそうです。
後々わかったことですけれども、彼女たちは特に父親との関係がうまくいかなかったそうです。
よく僕がなかなか伝わらないある姉妹の場合は、その父親が浮気をして家を出てしまった。
もう一人の姉妹の場合は、そのお父さんがもうしょっちゅうお酒を飲んで、お母さんをいじめてなどっていた。
彼女たちは小さい頃からそのお父さんを見て憎んで尊敬できなかったんですね。
そのような心の傷が癒されていないまま、教会には来ているんだけれども、
イエス・キリストの基礎によってまだ癒されていない、回復されていなくて残念ながら、
その牧師に対してもまるで自分のお父さんに対してするように心よく従えないケースがあったそうです。
もちろんその持ち、彼女たちも深く恵まれて、傷が癒されて、よく戦う良い素晴らしい神社になったそうです。
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第三は、その関係の影響が自分の部下や自分の子供に対してまたそれが現れるということです。
世界に出てですね、部下が自分のライバルに思えるんですね。それはなぜでしょうか。
自分に父の心がないからです。
父の心がないので、人を憐れんだり、かばったり、許したり、心から世話しようとする父の愛がないからです。
父の心を持ったならば、自分が先輩になったら、後輩やあるいは自分の子供たちの成功を自分の成功として喜ぶわけなんですね。
しかし喜ばない。喜べない。
むしろ会社の後輩がうまくいって、良い成果をあげて、自分を乗り越えようとしたら、それは我慢できない。潰そうとします。
それを自分を乗り越えて欲しいと思うのが父の心なんですね。
大人になっても、ままじつは実際の大人になりきっていないわけなんですね。
第四番目の関係は、夫婦の間、自分の伴女に対してです。
自分の妻を正しく愛せないという夫がいます。
あるいは、自分の夫に従うことがなかなかできないという妻もいます。
例えば、自分が子供の頃、父親がいつもお酒に酔っぱれて母親を名乗っていた。
それを見てきた自分は、あんな親父にはなりたくないと誓うんですね。
僕もそういう時代がありました。それで絶対に結婚しないと誓ったことがありました。
高校生の時でした。しかしどうでしょうか。その傷が癒されていないと、自分が大人になってまた結婚するんですね。
そうすると、自分の妻に対して無性に手を挙げようとするんです。
なぜでしょうか。自分が心の中に子供の時に誓ったその失る誓いのせいであります。
それが逆の方に働いてしまって、自分の憎んでいる、そんな風になりたくないと誓った親父と同じことをしてしまうのです。
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また、女性の場合も同じかと思います。白いお父さんを見て育った人が結婚をします。
そうすると、自分の夫をどうしても敬うことができない。
どうしても対立して夫のリーダーシップを侮ってしまう。尊敬できない。
なぜでしょうか。お父さんとご主人が二重移しになっているからですね。
あるいは、お父さんをいつも見下げてばかりいるお母さんを見て育った女性がいるとします。
そうしたら、この女性が結婚して、自分を夫に対してお母さんと同じことをする傾向が強いのです。
第五、大事ですけれども、神様のイメージにも大きな影響を及ぼします。
自分のお父さんから受け入れられた経験がないのです。愛を受けた経験がない。
許してもらった経験がなかなかない。寛容の愛をいただいたことがなかなかない。
そうしたら、私たちは神様を父なる神様天皇お父様と呼ぶのですよね。
そうすると、自分の肉のお父さんと神様を二重移しにしてしまう。
そして、怖いイメージを持ってしまうわけですね。
ところが皆さん、希望はありました。福音はありました。
傷は癒され、私たちは全く死の神として見事な通りに親を敬うことができる。
そして、良い関係を築いて歩んでいくことができる。
自分も本当に素晴らしいお父さんお母さんになれる。
そのような福音の力がイエス・キリストの十字架にある。
聖書1ページを見てみましょうか。
旧約聖書、イザヤー書、53ページです。
旧約聖書、1214ページです。
それでは、イザヤー書、53書、合節、1214ページ。
53の合節をご一緒にお読みしたいと思います。
30:03
しかし彼は私たちの背きの罪のために差し通され、私たちの徒がのために砕かれた。
私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって私たちは癒された。
アーメン。
皆さん、この御言葉は私たちの罪の許しに対するメッセージでもありますが、
同時にここに書いてある通りに、私たちの徒が、私たちの傷すべてが癒され、
平安をもたらす恵みが十字架にあるのです。
赤崎は様々な傷を抱いたまま生きているでしょう。
けれども、イエス・キリスの十字架は、私たちの心のすべての傷をも徒がをも、
許して、癒して、全く素晴らしいものに直してくださるというメッセージなんです。
さらに私たちの上に罪のかしゃくがあるならば、この十字架が私たちをそこから解放して、
回復してくださると、その希望のメッセージが聖徒に書いてあるんですね。
皆さん、もう一度申し上げますが、イエス・キリスの十字架の恵みは、私たちの罪を許すだけではなく、
私たちの心の傷をも癒してくださるんですね。
そして私たちが心から喜んで父と母を敬うことができる、
そして今の子供とも本当に清純的で健全な豊かな愛の関係を結んでいくことができるようにしてくださる、
その力がイエス・キリスの十字架の力、父親の力なんです。
私たちはある意味でみんな病人です。
だからイエス様がおっしゃったように、誠の癒し主なるキリストが必要なんです。
皆さん、このようにキリスト教は単なる死んだ後、天国に行けるんだ、ああ嬉しい、これで終わりといった宗教ではありません。
それは極一部分だけです。
今生きているこの地上において、あらゆる関係、すべての関係が回復され、
自分の品性、自分の人格が全く素晴らしいものに変えられる、
33:01
回復される、すべての鎖から解放される恵み、これが福音なんです。
もしも皆さんの中に、どうしても父と母を敬うことができないという心があるならば、
あなたのその心にその地図があるならば、
その地図を神様に委ねて、そして癒していただかなければなりません。
それから、親との関係だけではなく、自分の子供との関係、夫婦関係、
あるいは上司や教会の牧師との関係などが、
イエス・キリストの十字架の支障によって癒され、回復される祝福がありますように心からお願いいたします。
では、具体的にどうしたらこの親に対する地図を癒していただいて、
あらゆる関係において喜びの花を咲かせることができるのでしょうか。
ピリピリとの手紙4章6節7節をもう一度開いてご一緒にお読みしたいと思います。
新約聖書ピリピリとへの手紙第4章6節7節です。
新約聖書387ページです。
では、ピリピリ4の6節7節をご一緒にお読みしたいと思います。
せーの、何も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝をもって捧げる祈りと願いによって、
あなた方の願い事を神にしていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いをキリスト・イエスにやって守ってくれます。
アーメン。
皆さん、これが福音です。これが良い知らせなんです。
思い患いがあるでしょう。悩みがあります。深い傷があるかもしれません。もちろんないかもしれません。
しかし人生って、悩みのない人生は誰一人もいないと思います。
傷があります。そういったものを何でもいいですから、イエス・キリストにそれを打ち明け、委ねて、思いを下ろす。
そうしますと、すべての人の考えに勝る神の平安が注がれて、
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それが自分のものになる、すべての重みから鎖から解をできる恵みが、イエス・キリストの十字架にあるのです。
傷を持ったままで、悩みながら生きたい人は誰一人もいないと思います。
自由になりたい、解放されたい、回復してもらいたい気持ちは誰にでもあるでしょう。
その道は、イエス・キリストの十字架にある。
そして、その日々が癒されて、重みから解放されるならば、私たちは子供を見る目が変えられるのです。
お父さん、お母さんを見る目が変えられる。夫、妻を見る目が変えられる。子供を見る目が変えられて、
今まで見えてこなかった良き者に目が向けられていくようになるのです。
そして、今まで感謝できなかった気持ちが、感謝できるように変えられるのです。
その恵みが、癒しが、十字架にあるのです。
以前、もちろんしたことがありますけれども、私も小さい時には、お父さんに対する悪いイメージばかりを持っていたものです。
お父さんも、しょっちゅうお酒に酔っぱらって、お母さんと喧嘩ばかりしていた親父です。
だから私は、お父さんに対するイメージも、結婚に対するイメージも、すごく悪いイメージを持っていました。
そして、実は自分は、独身の賜物が与えられていないのに、独身の賜物が与えられているように振り寄っていました。
結婚をしたくなかっただけです。
あんな親父のようになったら、怖いと思っていただけです。
教会には流行っていましたけれども、本当の意味で、キリスの十字架の恵みを、あの血潮による癒しと回復を経験していなかっただけです。
真面目に教会を行っていましたよ。聖課題もしていました。式もしていました。
中学生、高校生、青年のカイトさんもしていました。教師もしていました。
しかし、心の中のあの傷は癒されていなかったのです。
しかし、不思議にも神様は私のことを憐れんでくださいまして、大学の2年生、3年生の時に、私の目がキリスの十字架によって変えられたのです。
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そして、あの神様を信じていなかった、あの時のお父さんのこと。
波乱万丈だった、韓国のあの時代、日経時代や朝鮮戦争、貧しい時代を通ってきて、辛うしてやってきた、
神様を知らない男性として頼み持っているのは世の快楽。
神様を知らない人には、そう歩むしかなかった父の人生を理解できるようになった。
そして、私たちの心から愛の芽と言いましょうか、花が咲いてきて、
そして、自分がお父さんのことを愛することができるように変えられた。
実は、お父さんも変えられていない。
でも自分の心が、例がキリスの十字架のチップによって変えられただけで、お父さんとの関係がうまくできて、
そして、結婚もしたくなくて、したくてですね、結婚もすることになった。
もちろん今までから自分も完璧なお父さんなのか、夫なのか、されないところがたくさんありますけれども、
日に日に十字架の指標によって変えられていくところだと思います。
聖書一冊をもう一回見てみたいと思います。
殺さえ人への手紙、第3章13節。
まず13節を見てみましょう。
殺さえ人への手紙、第3章13節。
393ページですね。新約聖書。
まず13節を一緒に読みたいと思います。よろしいですか。
3、互いに募り合い、互いに許し合いなさい。主があなた方を許してくださったように、あなた方もそうしなさい。
もう一箇所、その次の次の15節。
キリストの平和があなた方の心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなた方もめされて一体となったのです。
また感謝の心を持つ人になりなさい。
これが福音です。これがイエス様の十字架の
イエス様もあなたを許してくださっています。
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あたさずも許されたものとして、親との関係、子供との関係、あるいはあらゆる関係において
その相手の弱さを許して感謝の心を持つ者にならせていただこうではありませんか。
父と母を敬えというこの大切な御言葉を実践する者にさせていただきたいものです。
あなたの神、主が与えられようとしておられるこの地で幸せになるためであるとあります。
この約束を信じようではありませんか。
ここで最も重要な一つだけお話したいと思います。
神なる神様を知ることなんですけれども、つまり神様をお父さんとして知るということですね。
でも知るという言葉は単なる知的に知るという意味ではありません。
政府が語っている知るという意味は、体験的にそれをわかる、理解するという意味です。
つまり体験的に神様の愛を体験して、そして神様が私にとっては最も良きお父さんなんだと知ることなんです。
政府には私たちはイエス様を通して父なる神様を知ると語っています。
ですからイエス様をよく知るならば、父なる神様を知ることができる、わかってくるという意味なんですね。
ですからイエス様は私たちを生かすために十字架で生んでくださった。
先ほど申し上げたように、子供を守るためにお母さんが命を亡くしたことと同じなんですね、似ているんです。
その無条件の愛が私たちに開かれている。
ですから父なる神様も無条件の愛をもって私たちを抱きしめて、受け入れて、許して、愛してくださるんですね。
その愛を体験的に思い存分体験すること、喜び味わわしていただくこと、これが信仰の道なんですね。
信仰の道は勉強するところではありません。教会は勉強する塾ではないんですね。
キリストの愛を、神の愛を日ごろ、家庭において、社会において、そこで主の愛を味わっていただく、体験させていただく、これが信仰なんです。
45:12
喜びを積み重ねることは博士への勉強をした方がいいかもしれません。
しかし教会ではキリストの愛を、生ける神様の愛を体験させていただく、そして自分もその同じ愛のものになることなんです。
最後に一つの証を読んで、今日のメッセージをあげたいと思います。
あるところに、とっても乱暴で怒りっぽい栗茶の男性がいました。
その牧先生がいつも帰るためによく祈ってあげていました。
ある日でした。その日も、その男性は自分は栗茶になっていながらも、なかなかこの怒り、この乱暴な自分の振る舞いをどうしても解説できなくて、
つらくて、この日もまた先生に訪ねてきました。
そして先生に祈ってもらっていました。
その時、先生が祈りながら、あなたの小さい時の家庭の様子を思い出してほしいか、何か言えますか、と男性に訪ねました。
彼は5歳か6歳ごろの時です。家の中が見えます。
お父さんがその夜も酒を飲んで暴れていました。子供の俺は怖くて泣いていました。
窓ガラスが割れて、大きな穴が開いているのが見えます。窓の穴から見える外は真っ暗ですと、このクリスの男性が言いました。
大体、こういう家庭は、ひとつで窓ガラスが割れて、そのままほったらかすのが多いんですね。
でも、ひとつでこの男性が涙を流し始めました。
先生が、どうしたんですかと聞きました。
あの時は気づかなかったのですが、窓ガラスの穴から家様が家の中を眺めていたのです。
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家様もとても悲しい顔をしていました。
その時、男性は、家様から、私も気の毒に思ったよ、という慰めの言葉を言われました。
それで、この男性は大声で泣き出したんですね。
そして、しばらく先生と祈り合って、祈ってもらって、自分のお父さんのことを許すことができるように変えられた。
そして、今まで自分がお父さんを憎んでいたこの憎しみという鎖から、自分が自分を自ら縛っていたこの縛りから、自由にしていただいて、喜びの中、信仰生活を歩んだそうです。
皆さん、家様は永遠の神様ですから、あなたの過去の出来事をご存知であり、深い慰めを与えてくださるお方なんです。
ですから、家様の愛がどうしても私たちには必要なんです。
たったの知識的な愛ではありません。
人生において体験的に、経験的に、宿命的にその愛を味わうこと。
そうしますと、不思議にも、私もそうでしたけれども、家族を許すことができるように変えられる。
そして、自由にされる、回復され、解放される恵みがそこから始まるのであります。
ですから皆さん、神様の御前において、十字架の御前に正直に自分の痛みを、あるいは傷を、あるいは苦しみを、あるいは悩み事を委ねようではありませんか。
告白しようではありませんか。
そうしますと、きっとその傷が癒され、癒されるとともに、あらゆる関係においてひくばらきに花が咲く。
幸せに生きることができる恵みが、平安が上から与えられます。
皆さんいかがでしょうか。
同じ恵みをいただきながらも、感謝にあふれる道を歩んでいらっしゃいますでしょうか。
あるいは不平とつぶやきにあふれる道を歩んでいるでしょうか。
51:00
どうか感謝にあふれ、心も霊も癒され、解放され、快愛とされて、神が下さるこの愛と平安の道を歩もうではありませんか。
お祈りします。