1. 名谷教会 podcast
  2. 2012/09/23:聖日礼拝(旧音源)
2012-09-23 52:52

2012/09/23:聖日礼拝(旧音源)

2012/09/23 聖日礼拝(旧音源)


00:01
ご着席ください。本日の聖書朗読をしていただきます。
本日の聖書朗読を信友姉妹にしていただきます。
聖書の箇所は、
マタイの福音書18章1節から14節までです。
新約聖書の35ページをお開きください。
では、お願いいたします。
その時、弟子たちがイースのところに来て言った。
それでは、天の御国では誰が一番偉いのでしょうか。
そこでイースは小さい子供を呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて。
言われた。
誠にあなた方に告げます。
あなた方も悔やあらためて、子供たちのようにならない限り、決して天の御国には入れません。
だから、この子供のように自分を低くする者が天の御国で一番偉い人です。
また、誰でもこのような子供の一人を私の名のゆえに受け入れる者は、私を受け入れるのです。
しかし、私を信じるこの小さい者たちの一人にでもつまづきを与えるような者は、
大きい石薄を首にかけられて、湖の深みで溺れ死んだ方がましです。
つまづきを与えるこの世は災いだ。
つまづきが起こるのは避けられないが、つまづきをもたらす者は災いだ。
もしあなたの手か足のひとつがあなたをつまづかせるなら、それを切ってしてなさい。
片手片足で命に入る方が、両手両足そろっていて延々の火に投げ入れられるよりは、あなたにとって良いことです。
また、もしあなたの一方の身があなたをつまづかせるなら、それをいぐり出してしてなさい。
また、片目で命に入る方が両目そろっていて燃える下品に投げ入れられるよりは、あなたにとって良いことです。
あなた方はこの小さい者たちを一人でも見下げたりしないように気をつけなさい。
まことにあなた方に告げます。
彼らの天の御使いたちは、天におられるあたしの父の御顔をいつも見ているからです。
人の子は失われている者を救うために来たのです。
03:05
あなた方はどう思いますか。
もし誰かが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、
その人は九十九匹を山に残して迷った一匹を探しに出かけないでしょうか。
そして、もしいたとすれば、まことにあなた方に告げます。
その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
このようにこの小さい者たちの一人が滅びることは、天にいますあなた方の父の御心ではありません。
では聖火隊に賛美をしていただきましょう。
賛美していただく曲は、新聖火2番です。
聖火隊の賛美の後、足立坊主より教会で偉い人と題してメッセージをしていただきます。
聖火隊の賛美を聞いてください。
聖火隊の賛美の後、足立坊主より教会で偉い人と題してメッセージをしていただきます。
06:25
聖火隊の賛美の後、足立坊主より教会で偉い人と題してメッセージをしていただきます。
おはようございます。
今日またこのところに立たせていただきまして、御言葉の御用、御応援ができますこと、私たちは幸せに思い、光栄に思って感謝しております。
どうしてこんなものだと思われるかわかりませんが、神様の憐れみであり、また内田先生や役員の方々の御恩情によって、今日ここで御用させてあげることを本当にありがたく嬉しく思っております。
ちょっと御覧のとおり、若くないものですから、昔の人間は、お話がどうしても長くなるので気をつけますけれども、その点御容赦、御辛抱を願って、祈って協力してくださいますようお願いします。
一言感謝します。
御慈愛深い天の父なる神様、とうとう皆と恩慈しをあがめ御恩情を感謝します。
気候不順のおりですが、過ぎました一週間も守っていただきましたこと、ありがとうございます。
そして今日また祝の始めの日、教会にお集めください。
今週もまず礼拝をして御言葉からスタートさせていただきますことを感謝いたします。
すでにあなたはこのところに臨在していてくださいまして、私たちがお捧げする賛美を、祈りを、感謝を御可能くださっていることをありがとうございます。
どうか続いて御言葉を持って私たちを養ってください。
この日、外なる人には安息とともに、内なる人は道立たらしく養って強めてくださいますように。
09:07
キリストを親ざし申したものとして、キリストの愛を基にとして生活するようにと言われておりますけれども、どうぞそういうものにこの朝も整えてくださいますように。
そして今週も救われたことを感謝して喜んで、そして御自身がこんなものをも御選びになった、また御救い下さった御自身の御計画、また御目的をわきまえて、心得て、
そこに沿って歩むものとしていってくださいますようにお祈りをいたします。
ありがとうございます。
今日、いろんな都合で同席できなかった兄弟姉妹もお守りください。来週はお送りくださいますように。
内田先生のどうぞ御健康も続いて祝し、いよいよあなたの生きる器として尊くお持ちくださいますように。
今日も建てられた教会、救われた私たち一人一人を清め強め福音の証のためにお持ちくださいますとともに、
どうぞまだ救われていない同族同胞一人も多く、今日も救い出してくださいますようにお祈りをいたします。
さよならいました。感謝祈りにあわせ、死のみなによってお祈りします。
アーメン。
イエス様の後生涯と申しまして、イエス様の地上の御生涯は33年でしたけどね、
30年はある意味で死生活、あとの3年半は公の御生涯、後生涯でしたが、
その後半は弟子教育に力を入れられたと言われています。
今読んでいただきました。そして今日一緒に読むこの18章ですね。
ここもそういうところですけども、はじめに天国とありますので、私たちが召されていく天国かと思いますが、
そうではなくて、イエス様の贖いが完成した後にできる教会のことです。
その教会で奉仕する弟子たちに大切なことを教えられました。
今朝はここから私たちクリスチャンが身につけるもの、イエス様が喜ばれる奉仕とはどういう奉仕でしょうか、学ぶことにいたします。
まず第一、イエス様の弟子が身につけるもの、それは謙遜ということですね。
公語訳で読ませておきますが、18章。
一節から、その時弟子たちがイエスのもとに来て言った。
12:03
一体天国では誰が一番偉いのですか。するとイエスは幼子を呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせてと言われた。
よく聞きなさい。心を入れ替えて幼子のようにならなければ天国に入ることはできないであろう。
この幼子のように自分を低くするものが天国で一番偉いのである。
イエス様が御自身の使徒、それによって生まれる教会を横行くなさるにつれて、弟子たちの間ではそこでの順位序列が問題になってきました。
イエス様がやがて王となれる神の国、天国で誰が一番偉いだろうか。
誰が右大臣、左大臣になるだろうか。弟子たちの間でそれが非常に問題になってきましたが、それに対するイエス様の答えが今お読みしましたところです。
四つ五つの幼子には野心とか階級意識や権力争いはありません。
順位序列争いは自分は他の者よりできると思うところから起こってきますが、
皆さんその他の者よりも優れておると思う知識才能はどこからいただいたかならば、全部神様からの賜物です。
亡きに等しい者が救われ、天佑の賜物をもって奉仕ができることを感謝して使える。
お手本はイエス様ですね、私が来たのは使えられるためでなく使えることをし、全ての人の贖いとして命を捨てるために来たと王政になりました。
教会で偉い人というのはそういう、誰が一番偉いか、私心、邪心を捨てて心から喜んで神と人に仕える謙遜な人です。
だいぶ前ですけれども、謙遜ということについてあるもので読んで教えられたことは、聖書で謙遜というのは絨毯ということから出ているそうです。
私たちの国では謙遜と言ったら、もっと前の方に言われてもいいえ、結構後ろの方におったりできるのに、私もできません、どうぞあの方が何て言うのか譲るような、それを謙遜みたいに言いますけれども、
聖書では絨毯、地中海、湾岸というか沿岸、東はユダヤの国、西はローマの方でしょうけれども、あの辺は建物は全部石造りですね。
日本は木造ですけれども、石造り。そして皆さん、床が石むき出しでしたら入ったときに、やっぱり足の裏に抵抗がある。固い、痛いというときがあるでしょう。
15:14
けれども分厚い絨毯が敷いてあるとですね、柔らかい、ふわっとしてですね、いい感じになります。そして絨毯は入ってきた人を柔らかく迎えるだけでなく、もしその人の足に汚れがあるならば汚れを吸い取るというね、温めるし、そしてもし汚れがあればそれは吸い取ってきれいにしてくれるという。
絨毯というのはそういう役目ですけれども、聖書でいう謙遜というのはそこから出ているということです。温かくどんな人も迎えることができる。
そしてもし見にくいところ、弱点、欠点があるならばそれは、つすむようなですね、本当に温かい心を謙遜と言うんですけれども、私たちが身につけるのは謙遜ということですね。
そういう心で神と人に仕えるクリスチャンをイエス様は喜んでくださる。教会で偉い人だとおっしゃいました。
二つ目は信仰の幼子への心遣い、あるいは配慮と言ってもいいかもわかりません。
誤説からお読みしますと、
マタイによる福縁書、大事発祥、誤説。
また誰でもこのような一人の幼子を私の名のゆえに受け入れる者は、私を受け入れるのである。
しかし私を信ずるこれらの小さい者の一人をつまずかせる者は、大きな卑怯嘘を首にかけられて、海の深みに沈められる方がその人の英気になる。
この世は罪の誘惑があるから災いである。
罪の誘惑は必ず来る。しかしそれを来たらせる人は災いである。
もしあなたの片手または片足が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。
両手両足が揃ったままで永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になって命にいる方がよい。
もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。
両眼が揃ったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命にいる方がよい。
二つ目のことは、信仰の幼子への心遣いと申しましたが、ここに書いてある幼子というのはね、
信仰の幼子で、今日的に言うならば、救導者さんとか、まだ救われて日浅い信者になってまだ守らない人のことですね。
18:02
そして、イエス様の弟子である私たちは、先に救われた者は、そういう人を守って育てていかなければなりません。
イエス様はこの時、将来、教会の指導者、奉仕者、リーダーになる弟子たちが、順位争い、序列争いをしていたのでは、つまずきになると心配しておられたと思いますけれども、
神様がせっかく教会に入れられた人をつまずかせる者の罪は大きい。
六説に書いてありますね。
しかし、私を信ずるこれらの小さい者の一人をつまずかせる者は、大きな引きウスを首にかけられて、海の深みに沈められる方が、その人の駅になる。
こんな30センチ、直径30センチぐらいのね、石ウスとしてもこれらの厚さがあるでしょうか。
それを首にかけられて、海に置いたら、もう深みに入ってしまって、二度と上がってこないでしょう。
ということは、そういう人はいない方がいいという、そういうことですね。
そこでイエス様の弟子には、信仰の幼子をつまずかせないための自己訓練と言いましょうか、
そういうことが必要になる。
八説なんか読むと、もしあなたの片手または片足が罪を犯させられるなら、それを切って捨てなさい。
両手、両足が揃ったままで永遠の日に投げ込まれるよりは、片手片足になって命にいる方がよい。
あるいは片目とか両眼とかでできますけれども、
ここで手は才能、足は習慣、目は欲望とこういうふうに言われますけれども、
現代訳という聖書ではよくわかりますね。
ちょっと控えてきましたから読むと、
ですから、もし人をつまずかせるものがあれば、たとえそれが自分にとってどんなに高価なものであっても、それを取り除くだけの勇気が必要です。
永遠に祝福を受ける方が、永遠に呪いを受けるよりははるかにましです。
手は才能、足は習慣、目は欲望と申しましたが、
人のつまずきになるものは悪くないものでも捨てるということですね。
若い時に先輩の先生から聞いたお話で、ここを読むとそのことを思い出すんですけれども、
21:01
その先生の教会でこういうことがあったという。
年の初め頃から求道していらっしゃって、そして福音がわかって信じて救われた。
ペンテコステには千両おけになった。
35、36歳くらいの若い奥さんというか、若い姉妹のこと。
それから夏も秋もざっと喜んで教会に来て、そして信仰生活に励んでおられてクリスマスが来たという。
最初のクリスマスですからね、どんなに心の中で期待して喜んでおられたでしょうか。
ところでその教会は毎年クリスマスだけではないんでしょうけれども、
クリスマスにはごちそうを作ってね、そしてみんなでいただく。
そしてクリスマスをするという毎年そうなっておったそうですが、
そのごちそう作りには年配のご夫人でなかなか腕利きというか、プロは顔負けの人がおられたということです。
そしてその人の差しずつでおいしいごちそうを作って、
そしてクリスマスの礼拝の後ね、出会いでそれをみんなでいただくと。
こういうことだったそうです。
申しました。救われてまだ1年も経つか経たない。
せんで受けてまだ半年という若い姉妹がね、もう喜んでクリスマスのごちそう作りにも来られたんです。
そして他の姉妹たちと一緒にごちそうを作られたんですけれども、
そのリーダーさんがね、おつけ物を切るようにその姉妹に仰ったそうです。
姉妹はもう喜んでそのおつけ物を切っておったんですけれども、しばらくしてそのリーダーが来た。
あんた、おつけ物切り方も知らんの。こっちかしなさいと言って取り上げたと。
その姉妹はそれっきりも教会に来なくなった。
寂しそうな顔をして、この話を私になさった先生の顔を思い出しますけどね。
毎年毎年クリスマスにごちそうを作って、そして喜ばれたかしませんけれども、
こういうことならば、その上手なごちそう作りという才能はなかった方がよかったんです。
お分かりですか。
ある教会で聖火隊を作ろうと。
何でも音楽大学に出たような、そういう音楽に通じた人が来られたものですから、
その人の指導の下で聖火隊を作ろうとしたんですけれども、
24:03
集まった人が、その先生への指導に従って聖火隊をやるんですけれども、
その先生はただ歌ったらいいという話に、音楽芸術というような見地からもレベルの高いものを頭に置いて、
そして聖火隊は指導されたらしい。
ところが教会ですからね、集まってくるメンバーというのは、
ウグイスやカナリアばかりではないよね。
カラスもいればトンビもいるし、鳩もいるというわけですけれども、
どうもそのリーダー、カラスが気に入らなかったらしい。
ですからカラスに対してあまりいい顔はしなかった。
どうもその人が来て歌うと嫌な顔して、
それを感じたカラスは聖火隊から離れたんですけれども、
聖火隊だけなくて教会にも来なくなったという。
お分かりですね。
こういうことになるならば、どんなに引き出た音楽的な知識や才能、
またそういう経験があったとしても、それはなかった方がいいということです。
こんな話をしておればたくさん出てくると思いますので、
この辺までにしたいですけれども、
せっかく求道して見えている方、せっかく救われて、
これからいい信者に神様がお育てになろうとする幼い人、
信仰の幼子をつまずかせるということは、
本当にイエス様にとっては悲しいことですね。
欲望とも申しましたけれどもね、才能、習慣、目は欲望と言いましたけれども、
あるいは酒とかタバコもつまずきになるなら飲まない、いいですね。
何も酒タバコは全部悪いというわけではないけれども、
私たち日本の国では、その昔からクリスチャンは酒やタバコはもう飲まないということになっておるんですからね。
信仰の弱い人をつまずかせてはいけないということで、そういうものも私たちはもうやらない。
イエス様の教会で偉い人というのは、信仰の弱い人や幼子をつまずかせないように
心遣いする、配慮する人、そして自分を制御する人ですね。
キリストの人パウロはこういうことを言っています。
彼が生活したときに、当時の社会ではお肉を常食にするんですけれども、
それが羊の肉であり牛の肉であり、肉は屠殺場で処理されて、そして直接市場に持ってきて売る肉と。
27:11
一片偶像の宮に捧げられて、そこからお下がりの肉と2種類あったという。
そして偶像の宮に捧げておいて、市場に持ってくるお下がりは安かったというんですよ。
直接屠殺場から来る肉よりも値段が安い。
ですから安い方がいいからね、それを食べるという。
パウロは肉に代わりがない。
どこに置いてあろうと、直接屠殺場から来ようと、偶像の宮に置いてあって来ようと、肉には代わりがない。
どれを食べたっていいと言いながらですね。
けれども、パウロ先生、キリスト信者という人が偶像の宮に捧げてあったお下がりの肉を食べていらっしゃる。
へえ、と言って人がつまずくなら、私はそれがどんなに安く、私にとって別に問題はなくても、永遠に食べないと聖書に書いてますよ。
肉に代わりがないという。
知識も大事かしらんけども、自分がそうすることによって信仰の若い人たちをつまずかすということになると、それは配慮が足らない。
だから、知識も大事だけども、ああいう人の徳を高めると言ってですね、パウロは偶像の肉を食べたことによって、
誰かがつまずくなら、私はその肉は永久に食べないと言ってます。
業界で偉い人というのはですね、こういう幼い子に対する配慮ができる人、そして自分をコントロールできる人、パウロのような人ですね、パウロに習いたい。
三つ目のことは、十一節から読むと、
人の子は滅びるものを救うために来たのである。あなた方はどう思うか。
ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を探しに出かけないであろうか。
もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい。迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
そのように、これらの小さいものの一人が滅びることは、天にいます。あなた方の知人の御心ではない。
ありがとうございます。
三つ目。私たちが身につけるもの、あるいは私たちが喜ばれる、主に喜ばれる奉仕をする。それはどんなことかというと、
30:03
三つ目は、一人ぐらいと言わず、一人を大切にする人。一人ぐらいと言わず、一人を大切にする人が、教会では偉い人なんです。
これは、御心の人の救いに努めることで、私たちが言う伝道ですね。
主の教会の使命は、福音の宣教と求令ということですが、それには順序があります。
まず、第一の問題で取り上げた、学んだように、使い合うというね。本当に誰が偉いか、俺が偉いではなしに、使い合う。
へり下って本当に互いに使い合う。
そして二つ目は、信仰の偉い人に対する心遣い、配慮と言いましたが、思いやりですね。
皆さん、教会というところは、そういう使い合いと思いやり、本当に特に救助者さんやまだよくわからない人に対して気を遣ってあげるというね。
そういう温かい教会ができると、神様はそこに人を送ってくださるんです。
出て行って伝道、これも大事ですよ。同時に受け皿ができるということね。
そして使い合いと思いやりという良い受け皿ができると、神様がそこに人を送ってくださるんですが、
私たちはそういう人をお導きさせていただくんですけれども、時々来なくなる人が出てくるね。
せっかくおいでになったのに、途中から来なくなっちゃう。
なんでかなと思うんですけれども、やっぱりその人なりの考えがあって、
いい救助者さんだ、洗礼を受けてくれたらいいのになと思って祈ったり、また交わろうとしても途中から来なくなる人が出てくる。
そういう時は訪ねていくということですけれども、これはそう簡単なことではありません。
あの先生がね、信者さんの修行会みたいな時におっしゃったことがありますけれども、
皆さん、せっかくお見えになった方が来なくなる。救助者さんが来なくなった時にどうしますか。
3つあるの、対応の仕方が。
1つはね、無関心。ざっと来てられた人がね、この頃来ていないということに対しても、知らん顔というのが1つ。
その次は、牧師に聞くという。
先生、あの方最近見えなくなりましたが、どうしてらっしゃるんでしょうね、先生ご存知ですかと聞く人が2つ目。
33:08
3つ目は、自分から訪ねていって、そして帰って牧師に、先生、あの人熱心に見ておったのにこの頃見えないものですからね、ちょっと訪ねていきました。
そしたらね、いや、教会に行きたい気持ちはあるんだけど、ちょっと家の中に病人ができて、この頃ちょっと出にくいんですと、
こういうふうにおっしゃってましたよ先生と言って、自分が訪ねていって牧師に報告してくれると。
3つあると言われましたけどね。
1人ぐらいと言わず、1人を大切にする。
これ大事なことよ。
イエス様がね、おっしゃったりなさったことをちょっと見ると、
私たちは、私を使わされた方の技を昼の間にしなければならない。
夜が来る。すると誰も働けなくなる。
私はこの世にいる間は世の光である。
本当にイエス様はお忙しい御生涯でした。
そしてもう間もなく赤内を完成して天皇帰りになる時が近づくと、
もう本当にもう残された時間はわずかですね。
1人も僕の人を救わなくちゃならない。導きたい。
だったらイエス様だからね、
いっぺんに50人、100人、300人とバーッと薄くなったらいいじゃないかと。
そうではない。イエス様がなさったことは、
サマジアの井戸方の女性1人とか、目の見えない女性1人とか、
雑貨屋さん1人とか。
もう時はない。忙しい。
だったらたくさんいっぺんにお導きになったらと思うのね。
そう言いながらイエス様がなさったことは1人、1人なんです。
お互いイエス様に習っていきたいですけれども、
こういう奉仕ができる人が教会では偉い人だ。
神様は1人から大きなことをなさるというんですね。
もう天に帰られて早もう時間が経ったからね、
みなさんの頭から記憶から薄れますけれども、
三浦彩子さんという人ね、救われて、
そして才能を生かして本を書きになると、
それが日本中に売れる。
そうしてみなさんそれをいろんなことによってね、
教会に行くようになった人、救われた人、
牧師になった人、牧師夫人になった人、
数えられんというんですよ。
いまだにあるミッションスクールではですね、
36:03
三浦彩子の本を読む会なんていうのがあってですね、
そして三浦彩子さんの本を読んで、
教会に行く人ができる、信者になる人ができる。
本当に三浦彩子さんによって、また書かれた本によって、
どれだけたくさんの人が救われたか、想像がつかない。
では三浦彩子さんはどうして救われたか。
それは幼な友達、三浦和忠さんというね、
一足先にクリスチャーになった三浦彩子さんの幼な友達が、
自分がクリスチャーになった時から、
なんとか三浦彩子さんをやっぱり教会に連れて行きたい、
エス様を信じてほしいと言ってね、一生懸命誘うんですけども、
なかなか三浦彩子さんが行くわと言わない。
もはや北大の医学部ですか、医学生であった時ですけども、
前川兄弟がある公園に三浦彩子さんを誘って、
そしてベンチに座りながら、エス様のことを話して、
そして彩子さん、あんたもね、教会に行って、
エス様を信じてねと言う、なかなかうんと言わない。
ひょっと立ち上がって、
そしてそばにあった石、これを蹴っ取ったと言うんです。
前川兄弟。その頃下駄ばきだったそうですけどね。
ところが思いがけん一つの石が親指に当たって爪が割れて、
そして血が出た。
ベンチに座って、そして血が出るところを止めながら、
三浦彩子さんが見たら涙が出ておると言うんですね。
三浦彩子さん、痛いの?本当に大変ね、なんて言うとったらね、
痛くない。
じゃあなんで泣いてるの?
あやちゃんをキリスト様に導くことができない、
導けない私の弱さを泣いておるんだ、と言ってね、涙を流した。
それを見て、三浦彩子さんは、
本当にこんなに思ってくれる人って他にいるだろうかと思うとですね、
心を開くんです。
そして、前川さん、私も行く。
連れて行って頂戴と言って、教会に行く。
行った教会はまた良い受け皿だったというわけね。
そして間もなく救われて良い信者になって、
そして本もお書きになったら、
数えられない沢山の人が三浦彩子さんの本によって救われているという。
そういうことを見ることもなく、前川兄弟は若くして天に召されちゃったんだけどね、
皆さん一人ぐらいと言わず、一人を大切にする。
39:01
神様その一人から不思議なことをなさうんです。
そういえば、もうお年を召されたけれども、
ラジオ牧師として有名な先生は鳩居明という先生でしたね。
この先生も、まだ二十歳にもだな、十六歳の時にね、
本当に悩んで苦しんで教会に行ったんだけど、
この皆さん、少年を温かく迎えて、そして祈って大事にして、
お育てになったのが、英国から見えておった先教師、
婦人先教師ね、バーネットという先生でしたけれども、
皆さん、バーネット先生がこの一人の少年をね、
本当に一生懸命祈って、そして力を尽くしてお導きになった。
結果は、日本中に福音を述べ伝えて、
これまたたくさんの人が救われてくるという、
神様ってね皆さん、本当に一人から大きなことをなさるんです。
私たちも一人ぐらいと言わず、一人を大切にする、
そういう奉仕をさせていただきたい。
S様から、教会で偉い人やと言っていただきたいですね。
もう一つのことは、四番目は、十五節から読むと書いてありますが、
もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、
彼と二人だけのところで忠告しなさい。
もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。
もし聞いてくれないなら、他の一人二人を一緒に連れて行きなさい。
それは二人または三人の承認の口によって、
全ての事柄が確かめられるためである。
もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。
もし教会の言うことも聞かないなら、
その人を違法人または主税人同様に扱いなさい。
よく言っておく、あなた方が地上で繋ぐことは天でも皆繋がれ、
あなた方が地上で説くことは天でも皆説かれるである。
またよく言っておく、もしあなた方のうちの二人が、
どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、
天にいますと私の父はそれを叶えて下さる。
二人または三人が私の名によって集まっているところには、
私もその中にいるのである。
これで終わりですけれども、四番目は、
祈り取りなしする人。
祈り取りなしする人が教会では偉い人です。
ここは読んでお分かりになるように、
信者、救われても神のことなったクリスチャンという人が
罪を犯した時のことです。
救われ、クリスチャンと呼ばれるようになると、
罪などを犯さないかと言うと、そうでもない。
悪魔もおることです。
42:00
負けて罪を犯すことはある。
そして、クリスチャンが犯した罪の遺憾によっては、
怪奇、執行もある、刑罰もあるという。
しかし大事なことは、
罪を憎んで人を憎まずで、
裁くよりも悔い改めに導くということですが、
そのためには祈るということですね。
巨大姉妹には不意調したり、
言いふらしたりしないです。
そういうことを知った者だけが集まって祈る。
18節から書いてあるね。
よく言っておく。
あなた方が地上で繋ぐことは天でも皆繋がれ、
あなた方が地上で解くことは天でも皆解かれる。
またよく言っておく。
もしあなた方のうちの2人がどんな願い事についても
地上で心を合わせるなら、
天にいます私の父はそれを叶えてください。
2人3人、我が名によって集まるところに、
我もそのうちにあるという。
時々思ったよりも人があまり集まらない。
時間になっても集まっている人間が2人か3人という時に、
2人3人、我が名によって集まるところには、
我もそのうちにあるならという。
何か自分を慰めたりする時がありますけどね。
よく読んでみると、この言葉はそういう意味ではないね。
本当に兄弟姉妹の中で謝って罪を犯すものができた。
そしてそれは栄えにならないことによったら、
本当に教会にとってはイメージダウン。
つらいなあ。
もう何てことをしよったんやあいつは。
もう私なりのことをせえへんのに。
本当にクリスチャンにいても、
本当にしけしからんやっちゃうと言いたくなる時に、
2人3人、我が名によって集まる。
そしてイエス様、天皇お父様と言って祈りとります。
あの兄弟がああいうことをして、
本当に証にならんことをした。
教会にとっても本当に情けない。
いいえ、それは兄弟がというよりも、
私が悪かったんです。私が至らなかったんです。
どうぞ神様、私のどうぞ至らなかったところを許してくださいと言って、
その人を責めるよりも、私が悪かったんです。
許してくださいと言って祈りとります。
祈りとりますと言えば、アブラハムとかモーセのとりなしは有名ですね。
魏学聖書、室内美徳から明治時代などを読むときに、
モーセが行くたびに、皆さんもとりなしますか。
神様がこんな強情な、こんな不信仰なヤツは許せんとおっしゃって、
滅ぼすとおっしゃってもですね、
モーセは神様許してください、私が至らなかったんです。
45:04
時には神様?滅ぼす?
せっかくエジプトから救い出しときながら、
そんなことがあったら、神様は善能だ、力がある、
恵み深いなんて言ったって結局、最後まで導き通せなかった途中でも、
放ってしまったら、神様って何じゃと、
神様あなたが笑われますよ、と言うてですね、
そうしてもとにかくモーセが祈って祈って祈ってとりなすと、
神様がそのたびにですね、思いを変えなさるという。
そして、堅くならないイスラエルも、なお神様が憐れんで導かれて、
そして約束の地に入っていきました。
すでに皆さん、しとってくださることなんですけどね、
しとってくださることなんですけども、話をまとめていきたいと思いますけども、
教会は人にも多く、まだ救われてない人を救いに導くところです。
そして、救われた人を養い育て、良い信者にして、天国に送り届ける。
言葉を変えるならば、魂を生み育てるところ。魂を生み育てるところ。
これがキリストの教会ですが、私たちはこういう法師にも目されていることをよく知って、
良い教会形成に努めたいんですが、
こういう法師ができる人は、教会で偉い人です。
では、もう時間になりましたので終わりますが、
21節から終わりまで、もう読みませんが、何が書いてあるかお分かりでございましょう。
イエス様が弟子たちに、もし罪を犯す者が出ても処罰より立ち直りを、
そのためには祈るようにとおっしゃった時に、ペテロがイエス様にお尋ねした。
その時ペテロはイエスのもとに来て言った。
主よ、兄弟が私に対して罪を犯した場合、行くたび許さねばなりませんか。
七度までですか。
イエスは彼に言われた。
私は七度までとは言わない。七度を七十倍するまでにしなさい。
聖書の中解書そのまま読むと、
一出なりというのは一日の賃金。
一万タラントというのは二十万年分の賃金だという。
二十万年分の賃金だと。
こういうですね。
数千億というようなお金を免除されながら、
48:04
百万円あるかないかの返済を迫った者が罰されたというお話をなさったんですね。
この話は私たちが主にあって神様からいただいた救いということで、
二十七節を見ると、
しもべの主人は哀れに思って、彼は許し、その際を免じてやった。
私たちはたくさんの罪がありまして、
とても自分で償うこともできなければ、
神の前に返済などは不可能。
神様は哀れんで、そういう罪人を許してくださった。
キリスト様に会って、免除。
チャラにしてくださった。
罪などなかったものと認めて、
そして交わりに入れてくださった。
その中で私たちが救われたのは、神の哀れみ、
神の恵み、キリストイエスにある贖えによった。
ここは十八章の説教、イエス様がなさったお話の結論ですけれども、
自分がどういうものか本当に知ったなら、分かったなら、
謙遜になれるし、つまづきにならぬよう配慮はできるし、
迷信の人の救いに奉仕できるし、
人の罪を挙げつらうなどはできない。
自分がどういうものか。
地獄にやられて当然のものが、
神様の哀れみによって、キリスト様の身代わりによって救われた。
そして、分かってみたら、全部許されて、
もう罪などは問われない。
精霊によって清められて、
だんだん神のことを知って整えていただいて、
この地上では、神と人のために役に立つ生活、
そして役目が終わったら、天に迎えてくださるという、
皆さん、こんなたっとり救いを預かった私たちが、
どうして、役でなりを求めることができるだろうか。
できない。
自分がどういうものか、本当に分かったら、
謙遜になれるし、
信仰の小さな子のつまづきにならぬように、
気遣いもできるし、
まだ救われていない人の救いに奉仕もできる。
巨大姉妹が罪を犯したからだといって、
それを挙げつらうことはもうできない。
愛は多くの罪を負うと、
この後、ペテロが言いましたね。
地位争い、序列争いしていた弟子たち、
イエス様の贖いが完成し、ペンテコして、
目玉に満たされると、
51:00
良い弟子となって、
救霊と教会形成に用いられました。
イエス様の弟子とされた私たち、
聖霊に信頼しましょう、従いましょう。
死の教会で偉い人と呼ばれる、
お互いにしていただきたいと願います。
お祈りします。
恵み深い天皇父なる神様、
この礼拝の時を感謝します。
今日もあなたは御言葉をもって、
私たちを教えてくださるし、
また取り扱ってくださるし、
育ててくださることをありがとうございます。
神様がどういう御意図、
あるいは御計画、御目的をもって、
私どもごときをお救いくださったか、
神の子にしてくださったか、
教会に入れておってくださるか、
どうかそのことを悟る者とならしてください。
そしてそこに標準と言いましょうか、
本当に目を据えて、
神様の期待に沿うものとなるように、
これからもどうぞ、
精進するものとしていってくださいますように。
どうぞこの時も、
聖霊様、どうぞ私たちをなおなお、
清めてくださり、満たしてくださり、
本当に目玉による教会生活、
目玉による方針を教えてくださいますように、
お祈りをいたします。
感謝して神の名によってお祈りします。
アーメン。
どうも長くなって失礼しました。
52:52

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