00:01
それでは、お祈りをお伝えいたしましょう。
恵みにとみとも、お在天の地なる神様、
こうして寒さの中に過ごしてまいりました私たちに、
この新たな三月の月を与え、
日差しも柔らかく、
私たちの心も解かれるような、
そのような日を、今、迎えてされます。
そうした中で、この一年度を、
あなたのあわれに、恵みの中で、
ゆん先生が給食の中にあっても、
一人一人を支え守って、
共に礼拝をこうして続けてくることができまして、
なことに感謝いたします。
けれども主よ、ご承知のように、
このような時代を、
あなたの身っこの中において求めるときに、
人間の欲望の限りなさが、
そしてそのための戦争や、
あるいは、自然災害と言いますけれども、しかし、
人の手によるところの災害とも言われる、
大きな中で、今私たちは、こうして守られております。
けれども主よ、私たちの祈りは、
一日も早く、この地上から、お言葉のように、
その日が月に帰られる、
そのような平和な時代を願っております。
これはあなたの約束の言葉であり、
私たちはそのことに思いを向けております。
何とぞ、一日も早く、戦火の止まない、
あるいは貧困にあえぐ、
あるいは自然災害の中で怯えております、
すべての人々に、
しゅうどぞ、あなたのおいでを待つにふさわしい、
私たちが、よきいさあいをもってこれらに対応しながら、
あなたのみころをまず求めていくことができるように、
よろしくお願いいたします。
賛美いたしましたように、
戦い止みや、叫び絶え、
03:02
祈りと歌との声は響く、
いざ見ためよう、平和の主に、
栄えの冠を捧げますれ、
私たちの賛美であり、また祈りでありますから、
どぞこの地上に、あなたのみころをあらわしてください。
こうして私たちは、
今においてのこの礼拝の一時をいただいております。
けれどもこのような静かな礼拝の時も場所も持ち得ない、
厳しい中にあるすべての教会の、
そしてまたその礼拝のうちに、
主よどぞみころをらしい平和の中において、
まずあなたを礼拝することができるように、
すべてをおおさめください。
今からの時をあなたのみたにお託しし、
主イエスキリストの皆によってお祈りをいたします。
アメン。
祈られてまいりましたが、
この一年間、こうして皆さんと一緒に、
礼拝を守ることができて大変感謝しております。
しかも恒例ということでもって、
言い訳にするわけにいけませんけれども、
ダラダラとした言い訳も時にあったりしましたけれども、
いつもそうかもわかりませんが、
けれども皆さん方がそれを受け止めて、
そして礼拝での説教を聞く側で
ご報じいただきまして大変感謝しております。
なんとか一年間守られたなと思いながら、
今朝この3月においての今年度の最後のご報じに、
あたるとしております。
今朝私が開いておりますこの、
古臨闘大義の手紙のこの箇所は、
先立っても教会総会で、
そして新しい役員が選ばれ、
また長く役員として奉仕されてこられた、
方々の労に感謝しながら今おりますけれども、
私はそうした役員が新たにされるということの中でもって、
ローマビデオの手紙の12章と合わせてよく、
この箇所はその時に配録してまいりました。
特にこの18節をご覧いただきますとここでは、
これらのことはすべて神から出ているのです。
06:03
神はキリストによって私たちをご自分と和解させ、
また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
そのように記されております。
この手紙の背景には、
実は古臨闘の教会に対して、
これは人間的に言いますと、
教会の生みの世的な存在がパワーなんですけれども、
ところが彼に反対しているような立場や、
そういう偽教師と言われる人たちが、
いろいろと古臨闘の教会に封印をしては、
確かにベトナムやヨハネやヤコブは、
その家様から直に任命された人だった。
けれども彼は違う。
彼は最初はとんでもない悪人で、
教会にどれだけ迷惑をかけたか、
迫害に迫害を受けて、そして、
ついには大切なステパノという、
そういう人を人狂させてしまう、
その現場責任者みたいなことまでやってきた。
それが立場が変わったら、
今度は自分が教師だと言って、
そしてこの大きな顔をしてやる。
あれは自伝者だと言って、
パウロの立場というものをこき下ろして、
そしてパウロが教えるところのものは、
あれはデタラメだと言わんばかりのことを、
実はコリントの教会の中にあったわけです。
実はコリントの教会は確かに当時は、
大きい教会の一つでした。
財政的にも大変そういう点では、
豊かな教会として成長しつつあったんです。
ところがそういうよくない風潮が入ってまいりまして、
そしてパウロを偽物扱いにすれば、
彼が伝えている福音そのものも偽物だと、
言うことで反対してきたわけです。
そもそも使徒でもないのがね、
自分で自分を推薦して、
私こそ大人っていうようなことでもってやってる。
それは違う。
そういうことを耳にしました、このパウロはね。
09:01
本当に自分は1年半くらい、
その福音においては見換えの地でして、
このコリントに落ち着いて、
そして連動していったわけですよ。
そして生み出されたのがこのコリントの教会。
けれどもそういう噂が耳に入ってきますと、
やっぱりパウロとしてはね、
海の苦しみでもって誕生したような教会ですから、
まあ自分にとっては身の裂かれるような
そんな思いだったんじゃないかな、
立場を変えて、
もし自分がそういう立場だったらば、
もう私はどうしただろうかな、
一生懸命自己弁護してですね、
あの時はこうだった、この時もこうだった、
私は正しかったんだって言って、
やったかもわからないし、
もうそういう気力もなくてね、
もうそれこそ尻尾巻いて逃げていくような、
そういうことで終わってしまったかもわからないなと、
こういうところを読みますとしみじみ思うんですね。
ですから私は、前にも申し上げましたけどね、
本当に皆様の救いに預かって、
そしてしかも、
連動者の牧師の足首に加えられて、
いつでも辞められるんですかなんていうことで、
選挙しに来たようなものが、
こうして信仰も、また牧師としての務めも、
全部中途半端なところがあるんですけどね、
ここまで守られてきたなっていうことを覚えておりますし、
ですからそこには、
もう自分がやってきたっていう力がどこにもないわけですよ。
いくつかの教会で牧師として務めをさせてもらいましたけどね、
考えてみますと、教会の中にはこういう人がおってくれた、
この教会ではこういう人が祈ってくれた、
そういう支えになってくれた、
そういう人たちが必ずおられて、
それで守られたなっていうことを振り返ってみますとね、
もうしみじみそうなこと思いますよ。
今こうして月が経ちますとね、
そういう人たちがおられたんで助かったと思いながらも、
しかしそういう人たちが時にはですね、
先生それは違うって反省を向けてくるようなこともあってね、
もう役員会の中でね、
それこそ周りがなんだっていうような感じに落ち込ませてしまうようなことも、
実はありましたよ。
もう喧嘩しちゃってね、
もうこっちもあんたが辞めたら私は牧師辞めるなんて、
変なところで変な目をきっちゃいましてね、
終わってから牧師辞める、どうしようかな、
12:02
どこかでそれを善権取り消してできないかなっていうような、
そういう思いを持っておりましたら、
その時に一緒にこうやった、
その方がね、先生祈ろうって言って近づいてくれたんでね、
もう本当にその時はほっとしました。
今でもその時のほっとした気持ちは忘れられないですね。
もしあの時に役員会で喧嘩別れしたら、
私はもうどうなってたんだろうかなっていう、
そういう突き一発的なところを、
しかしその人は本当に私のためにね、
また私の家族のために、
良き支えとなり、祈り手となってくれたってことは、
未だにそういう一幕もありましたけれども、
けれどももう一つの場面においては、
例えば教会や教団総会なんかに行くとですね、
先生これ好きだっただろうかなって言って、
わざわざ総会に行った時に持ちをついて、
そして持ってきてくれたっていうこともありましてね、
いろいろこう思ってくれたんだなと、
そういう時に思ったんですが、
そんなこともありました。
こんなことで、この教会でどうだった、
この教会でどうだったって言われたら、
いろいろと出てまいります。
もうボロボロとね、
日本の教会ではどうだったか私はわかりません。
あの、ただ説教者としてね、
月一回こうして交わりと、
教師の中に加えられましたから、
あんまりボロ出さずに進んでおるのかなと、
一人勝手にしておりますが、
しかし本当にね、
与えられたこの務めっていうものに対して、
自分はどうだったのかっていうことを、
いつもふりだしに戻っては考えへん。
と言って今に至っていると、
申し上げてもよろしいかと思いますが、
で、パウロは、
自分の証を込めてね、
この国土財務の手紙を、
実は五章全体に、
自分に、
吉様が委ねてくださった和解の福音、
この務めっていうものを、
自分はどんなに感謝しまた、
どのようなことがあっても、
与えられた務めとして、
これに忠実でありたいという、
そういう思いを込めて、
このオリンピックの協会に、
この一方を過ごしているわけです。
で、読んでいただきましたこの十一節ですが、
彼が法師にあたっての、
その自覚と言いましょうか、
十一節を取り上げますと、
そのため主を恐れることを知っている私たちは、
人々を説得しようとしています。
私たちのことは、
神の御前に明らかです。
しかしそれが、
あなた方の良心にも、
15:01
明らかになることが、
私の望みです。
自分は、
あなた方の中の一部の人たちが言うような、
確かに、
イエス様から、
事故に、
ペトロたちのように召されたものでは、
確かにない。
しかし私にも、
それこそ、
イエス様とお出会いし、
そしてイエス様から、
私のために、
特に、
この微電池のところに行ってね、
そして伝道するように、
私はそういう証明を受けたんだ、
ということを言うわけですよ。
ですから彼がここで言う、
神の御前に明らかです、ということは、
人がどう言おうと、
けどこのイエス様から、
ペトロの問いを、
問いではないけれども、しかし、
主は私には、私に対してのこの、
招きをですね、
召しを、
与えてくださった。
これは明らかなことなんだ。
ですから、
ファウルのこの手紙を見て参りますとね、
このコリントの手紙では、
使徒ファウルっていうことを、
はっきりとそこに書いてます。
ちなみに、
例えばですね、
ドーバービジョンの手紙の一章の一節、
ここを見ますと、
どういうふうに彼は、
自分をそこに表しているか、
この一章の一節で、
キリストイエスの使徒で、
神の福音のために選び出され、
使徒として召されたファウル。
続くこのガラテアビジョンの手紙を見ますとね、
このガラテア教会も、
ファウルの立場に対して、
あれこれ、
一文つけたような、
そういう教会なんですね。
彼らもそういう偽教師たちによって、
間違った教えが、
ファウルに対する評価に入っていたんですね。
ですから、
このガラテアビジョンの手紙の一章、
一節を見ますと、
ここでは、
人々からではなく、
人間を通してでもなく、
イエス・キリストと、
キリストを死者の中から蘇らせた、
18:00
父なる神によって、
使徒とされたファウル、
こう書いてます。
ここでは、
人々からではなく、
人間を通してでもない、
私もイエス様から、
直に滅されて、
使徒とされたものです、と言って、
このガラテア教会の、
送ったその手紙の一文一章を書いてます。
非常に彼は、
そこでは、
使徒ファウルとしての意識を強調してます。
ところが、
このピレモン屋の手紙、
もうちょっと後ろを見てみますと、
ここではガラッと変わるんです。
ピレモン屋の手紙、
本当にその一章も二章もない、
わずかな手紙ですので、
ついついページをめくっていくと、
そのページを見過ごしてしまうぐらい、
そういう箇所です。
そう言いながら、
なかなか開けないでおるんですけど。
このピレモン屋の手紙を見ますと、
私は短いからというのではないんですけど、
非常に個人的な、
ファウルにすれば、
そういう極めて個人的な内容の手紙、
それを公にすることにおいて、
彼はここでは、
何でしょうか、
なんだか抵抗なく、
もういいですよ、どうぞ読んでください、
と言わんばかりに、
ピレモン個人にあてた手紙が、
ここではもう広く、
我々も今こうして読んでいるわけですけどね。
このピレモン屋に対して書いた、
この手紙の書き出しを見ますと、
ここではね、
死とファウルではないんですよ。
キリストイエスの囚人、
実はこのピレモン屋に書き送った、
この手紙の囚人は、
実はピレモンの元でもって、
奴隷として使っていた、
オネシモというね、
せっかく有益という名前をもらいながら、
もう無益なことばかり役に立たない、
いやむしろ被害まで生じさせて、
最後にはですね、
このピレモンの元でお金を騙しとって、
そしてローマへ逃げていくというようなことを
やったような、そういう人物です。
ですから、
言うならば、
このオネシモを取り成すためにね、
あえてこのピレモンに自分を紹介するにあたっては、
21:02
私もオネシモと同じ囚人なんだ。
そこではもう、
死とファウルとか、
そういう見出しはないんですね。
しかし、
このピレモン屋の手紙を読んでいきますと、
その一節一節の中に、
どんな気持ちでオネシモを取り成そうとして、
これをピレモンに書いたか、
その心情がわかります。
私の好きな歌詞の一つですけれども、
このように、
ファウルは、
時には人をファウルだ、
誰が言おうと、
私は直接、
イエス様からその人としての
飯を受けたんだ、
という、
そういうこと。
そうかと思うと、
このように、
一人の人を取り成すために、
彼は、
そういう人、
ファウルという肩書きは、
立場は、
何だというようしない、
あるいはそういうことを書かずに、
私もオネシモと同じ囚人、
ファウルです。
実際、
ファウルは、
そういう扱いも受けたんですよね、
動画の告知で。
けれども、
ファウルが言う囚人は、
キリストに捉えられた囚人としての、
そういう自分を、
そこで意識しながら、
それで、
こういう人が、
この、
オネシモを取り成すにあたっては、
そういう人ファウルではなくして、
囚人ファウル。
で、彼は、
そういう意識の下でもって、
先ほどお読みしましたように、
この、
神の御前においての、
神の御前においての法師、
ということを、
彼は自分の中にしっかりと、
持っておりました。
父に対する、
恐れ、
おののく思い、
異形の思いでもって、
法師に立てる、
ということです。
あの、
私たち人間というのは、
一つには、
慣れ、というね、
誘惑に弱いところがあるんですね。
などの経験をしてくると、
我慢してしまうところが、
あるわけですよ。
自分もそういう歳になって、
で、やはりこう、
若い先生たちとお会いした時にね、
すいぞ、
そう自分の、
過去の、
そういうようなことを、
そこに引き上げ出してね、
ああだった、
こうだった、
というようなことを、
言うこともあるんですね。
ですから、
そういうことは、
24:00
という意識が、
なんかちょっとこう、
薄くなってんじゃないかと。
だからついつい、
自分の経験を、
教えるようにですね、
言って。
これは、
私ども夫婦間の問題でもあるんですね。
私はいつもこう、
教えるっていうね、
それですると、
長年、何十年もきてますから、
ついと言ってる言葉がね、
そういう風に、
言ってるつもりはないんですけども、
相手にすれば、
なんかまた命令されてるような、
また言うっていうね、
それが時々、
トラブルの原因になるんです。
つまらんことで、
そういうことを、
このひでかす、
いまだにそういうところが、
ある。
しかも私、
東北の人間ですからね、
東北の人間っていうのは、
ここに有岡さんがおられますけどね、
有岡さんと私はタイプが違いますけどね、
私はどうしてもね、
言葉がきついそうですよ。
だからある時、
亡くなった花田先生、
今の委員長のお父さんですね、
電話でこうやってる時に、
家内がね、
何か二人喧嘩してんだろうか、
何があったんだろうか、
電話が終わってから、
何があったん?
心配そうに聞いてきたから、
別に何もないけど、
普通の話をしてきたっていう、
そういうことで、
そこで説明したことが、
一度ありましたけど、
何かこう、
正面向かってこうやると、
何か迷礼が来ちゃう。
私は、
逆型の教会でも、
今迷惑されちゃいましたけど、
先生と話をしている時に、
何かもう、
いつも叱られているような感じになるんだね。
それが、
東北弁とね、
関西弁の違いか分かりません。
ですからそういう、
言葉の上でね、
こういう話をすると、
どんどんどんどん広がっていくんですけども、
元に戻らなくなっちゃうんですけども、
そういうことで私は、
いろんなこう、
失敗を重ねてきましたけども、
慣れっていうのがね、
やっぱり誘惑でしたよ。
ついそこを、
教える。
迷礼した覚えはないけども、
何かそういうことで、
聞こえたところ、
聞こえるところがあったみたい。
この間の福生先生って、
個人的にここで、
お昼食べながら、
何かだいぶ昔のことですけどね、
先生こう言われたっていうこと。
え?そんな場面あったかな?
先生とそんな寿司かかんないの?
いや、もうそうじゃない。
やっぱり先生、
こう言ったって。
根にもってんだなぁと思いましたけどね。
そういうぐらいですから、
根にはもってないんでしょうけどね。
けども、
本当に死を恐れるって思いがありませんとね、
慣れっていう誘惑に負けてしまって、
つい自分の立場っていうのを。
27:01
私は片岡健吉っていう、
これは幕末から維新にかけて、
そしてまた維新を迎えて、
彼は政治家として、
衆議院議員を何期かやったような、
そういう人材。
後には新島城と進行があったようでね。
ここで新島城に言われて、
当時の名前は違いますけども、
今で言う、
同志屋大学の総長としての
勤めもなさった方です。
非常にそういう、
いろんな多方面にあたって
大きな働きをなさった方。
けども彼はね、
高知協会のそこで、
イエス様を信じて救われた。
だから、
沢川にとって、
よく言われるように、
あの桑の木っていうのは、
イエス様と出会ったっていう点においても、
障害は忘れられないわけでしょ。
ちょうど片岡健吉っていうこの方にとっては、
高知協会で、
イエス様のことを知り、
そしてそこで洗礼を受けなさって、
そして彼の、
そういう、
後の仕事が大きく広がっていった。
そして大きな働きも、
当時においてですね、
新しい明治憲法が作られて、
そして自由に、
この選挙、
こういう立つことができるというような、
誰でもないでしょうけども、
昔のそういうね、
幕府っていう中から解かれて、
そして、
彼は平民でありながら、
武士、武家の上ですけども、
そんな立場ではない、
こんな人間が、
国のために、
そして、
彼は、
国会で大きな働きをなさった方。
けれども、
彼はね、
国会に帰ると、
一人の、
このクリスチャンとしてね、
で、決まってこの片岡健吉という方がなさったのは、
いや、昔のことですから、
下足、
あの、
そこで靴を脱いで、
あるいは下駄を脱いで、
そして、
中へ入っていくわけですよ。
それの奉仕、
これが私の教会において許された、
もう唯一の、
誇りです、
奉仕です、
と言ってね、
彼はもう、
いつもそのことに徹した人です。
国会に戻れば、
衆議院の議長としてね、
そういう立場でもてなさるような人ですけども、
しかし、
教会に戻ったらば、
そういう率先して、
そういう働きに加わった。
で、私は、
教会というのは、
非常に多方面な仕事が、
務めがそこにありますから、
そういう人もおりは、
あるいは目立つようなね、
もっと自分はそういう立場じゃないのにというのは、
しかし、
いろんな賜物の違いでもって、
どうしても、
リーダー的なそういう立場でもって、
奉仕に使えるという。
30:02
あるいは、
そうでなくと、
私は何にも賜物がないからと言って、
そして、
遠慮なさることもあって、
そして、
そういう奉仕には、
加わらないわけではないんですけども、
しかし、
遠慮されて。
人間の社会ですから、
どうしてもそういうところが、
教会にもありますよ。
けれども、私は、
タオルの、
この奉仕者としての生き方を見てまいります。
どういう奉仕者であれ、
どういう立場であれ、
確かなことは、
神の御前において、
その務めのために召されたのが、
私たちクリシャンなんだと。
まあ、役員会でよく、
そういうこの箇所を開くと申し上げましたけどもね、
新しく任命を受けなかった、
役員の人たちは。
まあ、去年もなったから、
今年もなったっていうんじゃなくて、
今年、
来年度に向けて、
この更に召してくださったっていう、
そういう思いでもってね、
それを務めにこの、
向かう。
ですから、
こんな役員会の中で、
誰が何の役をする、
こういう役をするという、
まあ、中でもって、
教会のために、
自分のポジションというものを、
こう決めていくわけですね。
だけど、
そういう時にね、
いや、私は、
なんで私をそんなとこに回すのかな、
思わないでね、
本当に、
神の御前において、
今誘われた自分に対する奉仕は、
下側版であれば、
下側版、
もう、こういう言葉、
主語になっておりますから、
使わないですけどもね、
目立たない奉仕であっても、
本当にそれが、
自分に与えられた奉仕。
明日は、
こういう創学者としてね、
どうしても目立つかも分かりません。
出来ない人が見たら、
ああ、いいな、
しけて、
ってこう思うか分かりません。
けど、賜物ですからね。
そして、
そういう立場において、
奉仕される人もおります。
パウロは、
対する弟子の、
手元に書き送った一部の中で、
神の御前で、
また生きている人と、
死んだ人とを裁かれる、
イエス・キリストの御前で、
その現れと、
その御国をもって、
私はお坊さんに、
命じます、
と言って、
伝道者の生き方、
というものを、
パウロは、
対する弟子の、
手元に書いています。
そこで、
彼が言わんとしているところはね、
どういう奉仕をするか、
というのではなくて、
その奉仕は、
みんな、
イエス様が、
神様の御前で、
私たちに、
委ねてくださった、
パウロが言っていますように、
33:01
そういう意味では、
全ての奉仕というのは、
キリスト、
イエスの御前での、
奉仕であるということを、
私たちは、
より明らかにしていきたいと思います。
いらないことを言いますから、
時間がなくなっちゃいましたけれども、
そしてもう一つの点は、
十四説。
この十四説を見ますと、
というのは、
キリストの愛が、
私たちを捉えているからです。
私は今日こう考えました。
一人の人が、
全ての人のために死んだ以上、
全ての人が、
死んだのであると。
特に、
というのは、
キリストの愛が、
私たちを捉えている、
というこの言葉です。
私たちの奉仕の動機は、
キリストの愛に応えての奉仕、
私たちを愛しかさった、
その愛に対しての奉仕、
というのが、
それが私たちの奉仕者としての在り方です。
深宮福音書を見ますと、
ここでイエスさんは、
一人のパリサイ人の家に招かれて、
そして、
食事の接待を受けている、
そういうところがあります。
深宮福音書の7章ですけれども、
その時に、
そのパリサイ人は、
イエス様を食事に招いた、
そしてイエス様を招かれて、
そしてそこで食事をしている、
そこに、
一人の積み合う女、
これは深宮福音書の7章の終わりの方に出てくる
出来事ですけれども、
彼女は大切に大切にした、
香水の壺を割って、
そして、
イエス様にそれを誘う、
その様子を見た、
このパリサイ人は、
なんであんな女が、
私の家におれんだろうか、
という、
そういう思いと、
まことに自分のこの食卓に、
ふさわしくない、
という、
探すような思いで持って、
彼女のやっていることを、
彼は心の中で、
そう思って、
決めつけていたんですね、
誰が言うのかわからないけれども、
私の家にはふさわしくないお客さんだ、
そういうことをつまみ出したいという、
そんな思い、
けれどもイエス様は、
そういうパリサイの、
彼の心情をよく知ってね、
そして、
彼は言いました、
あなたは私がここに来た時に、
36:01
彼女がやってくれたようなことをして、
私を迎えてくれたわけではない、
けれども彼女はね、
自分の持っている、
一番大切なものを私のために、
それでそしてやってくれた、
なぜかならば彼は、
彼女は、
多くを許されたということを知っているからだ、
多くの罪あるものとして、
自分はイエス様から愛されて、
そして、
こんなものも、
イエス様のために、
そういう働きの一つに加えられたという、
喜びでもって自分は、
この彼女は知っている、
けれどもあなたはね、
そうじゃない、
あるいはならば高い目線からね、
私を招いてくれた、
そしてだからあなたは、
私が来た時に、
そういうおもてなしの一つの例として、
ちゃんとこうなさるはずなのが、
あなたはそれはなかった、
けれども彼女はそう言えない、
招かれざる客だろうけれども、
けれども彼女は私のために、
どれほどのことをしてくれたか、
多くを許されたもの、
多くを愛されているものとして、
彼女は自分の愛を、
一番に表しなさったんだ、
という、
そういうべきところですよね、
だから私たちの方針というのは、
彼女の方針の中にありますようにね、
自分がどれだけイエス様の記憶しか持って、
罪を許され、
そして愛されて、
今にあるか、
だから本当に自分は、
このイエス様の中に、
どういうお答えをしていたらいいだろうか、
彼女が選んだのは、
自分の唯一の宝であるそれを、
イエス様に注ぎ出すという、
それが彼女の働き、
あるいは、
動機がそういう、
ハーロー学校でいう、
キリストの愛が、
私たちを捉えている、
公語訳聖書では、
キリストの愛が、
私たちを、
私たちに、
強く迫っているという、
英語訳の方では、
脅迫というね、
脅迫という、
当分に使われるような単語も、
用いられているんです。
ですから、
キリストの愛が、
あれを脅迫せい、
ということを、
おっしゃった先生もおりますけれども、
パフォーマンスは、
それぐらい、
イエス様の十字架の愛というものが、
本当に自分を、
この借り立てて、
そしてその奉仕に向かわせる、
39:02
これは、
今の神教大学聖書の方の役の、
一節ですけれども、
そのような私たちは、
神から愛されている、
キリストの十字架を通して、
愛されている、
その愛に、
私たちはもう、
借り立てられるようにして、
その奉仕に当たる。
最後に申し上げたいもう一つは、
この十八節です。
ここで、
神はキリストによって、
私たちをご自分と和解させ、
また、
和解の務めを、
私たちに与えて下さいました。
この、
塚による福音書の十四章、
十章、先ほど流しを開きましたけれども、
その少し後に、
十章の、
これは一節にですね、
その後、
主は別に七十人を定め、
ご自分が行くつもりで、
行くつもりのすべての町、
村へ、
二人と先に、
お使わしになった。
ご自分が行くつもりの、
そこに弟子たちを使わされた。
という、
この表現ですね。
本当はイエス様が言って、
そうしてやめる者を癒し、
神の言葉を言えている人たちに、
神の言葉を語る。
それが常でした。
けれども、この場面では、
そうじゃない。
ご自分が行くつもりのところに、
この弟子たちを、
まず使わされたという、
書いてあります。
だから奉仕というのは、
私たちはどのような奉仕であれ、
イエス様の代わりに、
その奉仕に当たる、
ということを意味している。
イエス様が、
じゃあ、斎藤、
このことはお前に任せるから、
まずやってみなさい。
そんな思いで、
私は認知、
それぞれの教会に、
使わされたことを思い出します。
本当はイエス様がね、
先に行ってくださったら、
どれだけ助かるかは分からない。
けれども、私が行く前に、
あなたも使わせたら、
やってこな。
という、
そういう、
押し出されるような思いで、
そのいくつかの、
教会への奉仕に、
扱ってまいりました。
一つ思い出しますことは、
マザーテレサという方は、
彼は、彼女は、
インドの奥地の、
ライビヨシワの、
おります、
そこで持って、
自分の生涯の仕事として、
彼女はそこで持って、
ライビヨシワに使えたの。
42:04
で、そういう自分の生き方ややり方について、
彼女は、
こう書いてます。
イエス様が、
自分のためにしてくださったことを、
今度は、
イエス様に代わって奉仕を、
させて、
いただいただくのことです。
そういう風に、
彼女は、
ありはしくなることなく、
本来は、イエス様が行くでしょう。
もちろん行くでしょう。
けれども、
そこに私を、
使わせた。
それが今の私の働き場です。
だから、イエス様が成すことを、
私は、
今度はイエス様に代わって、
そこで、
イエス様にお使いするように、
やってるんです。
そう、
こう書いております。
私は、
神はキリストによって私たちを、
ご自分と和解させ、
また、
和解の務めを、
私たちに与えて下さいました。
この、
お言葉を、
私は大切にしていきたい。
イエス様に代わってって言ったら大げさですけどね。
けれども、しかし、
イエス様はそれを、
私たちを信頼して、
私の行くべきところに、
行きなさい。
やりなさい。
使わされたイエス様が、
おっしゃったことは、
父が私を信頼して、
そして私を使わしかさったように、
私も、
あなた方を使わせ、
父が私を信頼して、
この地上に使わし、
そして、
この十字架の福音を、
私に任せて下さったように、
私もまたあなた方を信頼して、
今度は、
私に代わっていってね、
そしてこのことを伝えなさい。
これが、
復活されたイエス様の、
私たちへの、
メッセージですよ。
父が私を信頼したように、
私もあなた方を信頼し、
この信頼関係の中で、
この福音が、
私にも、
イエス様は、
信頼していただいて下さった。
この務めに向かわせて下さった。
本当に、