00:00
聖書をみたします、使徒の働きの2章40節から47節、新訳の231ページです。
使徒の働き、2章40節。ペトロは、このほかにも多くの言葉をもって明かしをし、この間がった時代から救われなさい、と言って彼らに勧めた。
そこで彼らの言葉を受け入れた者は、バクテスマを受けた。その日、3000人ほどが弟子に加えられた。
そして彼らは人たちの教えを固く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
そして一同の心に恐れが生じ、人たちによって多くの不思議と記しが行われた。
信者となった者たちは皆一緒にいて、一切のものを共有にしていた。
そして資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて皆に分配していた。
そして毎日心を一つにして庭に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美し、全ての民に好意を持たれた。
主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
以上です。
聖火体の賛美に続いて、聖霊降臨と教会の誕生と題して御本庁のメッセージをいただきます。
神と言う神様の愛しの甘い聖火に疑い恐れは晴れより晴れに
わが心静かに嵐は泣いて
嬉しみが飛び越えるのにさやまにてこりゅう
03:02
あことおにきた川 光のごとく
もとの日常を照らしたまえに
わが心静かに嵐は泣いて
嬉しみが飛び越えるのにさやまにてこりゅう
みたまりにちたる心の道に
しわその火花を映したまえに
わが心静かに嵐は泣いて
嬉しみが飛び越えるのにさやまにてこりゅう
今日、聖霊降臨記念日を迎えることができたことを感謝いたします。
今日は、使徒の働き、公約聖書で使徒行伝と言いますが、その2章全体を通して、また神様の教えをいただきたいと思います。
一言お祈りをいたします。
あなた方が聖霊を、あなた方の上に聖霊が下る時、あなた方は力を受けます。
めぐめ深い天の父なる神様、今日こうして私たちは教会の尊い記念日である聖霊降臨の記念の時を迎えています。
あなたは約束通り、聖霊を教会に下し、そして今全世界にあります教会のすべてを導いてくださっていますことをありがとうございます。
私たちに与えられたこの場とこの時、今あなたを覚えて礼拝を捧げています。
そのお方はこの礼拝の主であり、また私たちがどこにいようとも導いてくださる助け主であり、私たちのすべてをご存知の善能のお方です。
06:05
私たちもそのお方を信じ、また委ねて共に会いませていただけるその幸いと、また特権をいただいておるものでございます。
今日こうして見舞いに集うことができたことをありがとうございます。
どうぞ私たちのこの魂にあなたが今語りかけ、そしてさらにあなたを次第求めてこれからも歩んでいけますように、見言葉を通してまたあなたが今日教えてくださるようお願いいたします。
全世界にあって、またまだこの誠の神様を知らない方々が多くおられます。
あるいは知っていても、まだ本当にこの神様を救い主として信じるところまでいっていない方々もおられます。
神様どうぞあなたが私たちに憐れみをかけてくださったように、等しくその方々にも臨んで、そしてこの方を救い主と受け入れて、そして幸いな生涯を送ることができるように切なる願いを持っています。
全世界の教会がそのためにまた老死、そして死に持ち入られています。幸いをありがとうございます。
私たちもまた今、精霊を受けて出ていき、全世界にこの福音を述べ伝え、そして一人でも多くの方がこのお方を救い主と信じて、そして神のことをされますように、また子どもたちや若い人たちの上にもどうぞあなたが臨んでください。
教会も後をついてくださる人たち、バトンを渡すその次の世代の人たちを求め、また願い、祈っています。
神様どうぞそのところにも精霊様が働いて、私たちが本当にファミリーとして、どの世代も神様を信じて、そして礼拝を捧げるものとなりますように、委ねて主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン
今日は、首都の働き、首都行伝の二章全体を、私たちは見たいと思うんですが、もう既に二章を読んでくださっている方もおられることでしょうし、もしまだ読んでおられないなら、お家に帰って二章の全体を通して読んでいただけたら幸いであります。
全ての営みには時がある。これは聖書が言っていることであります。
その営み、特にイエス様が約束なさったその時が今来たということをここで言っているわけです。
イエス様は御昇天なさる前、昇る天ですね、御昇天なさる前に弟子たちに約束なさいました。
09:05
一つは、あなた方が聖霊を受ける時、バプテスマを受ける時に、あなた方は力を受けるんだ。それは人間の力ではない、神の力を一人一人が受けるのです。
その約束をしてくださいました。そしてあなた方はその聖霊のバプテスマを受けるんだよと、そのことをおっしゃって天に還られたわけであります。
そして地の果てにまで私の承認となる。全世界に出ていき全て作られたものに福音を述べ伝えよと、そのこともイエス様はすでにおっしゃった。
そのことを改めてこのところでも言ってくださったわけです。その約束の時、すなわち聖霊が下る時が来たのだ。
これはおおよそ二千年前のことですけれども、この二章の最初のところにその有様が書かれてあるわけです。
二章の一節から四節までのところをお読みいたします。
五巡節の日になって皆が一つのところに集まっていた。すると突然天から激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
また炎のような分かれた舌が現れて一人一人の上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、
御霊が話させてくださるとおりに他国の言葉で話し出した。
いかずっとこの時の様子が刻々と書かれてあるわけですが、主が復活なさってからちょうど五十日目、ペンテコステ、その時の様子がここに書かれてあるわけです。
突然激しい風が吹いてくるような響きが起こった。
風が吹いたということではありませんが、風が吹いてくるような音が、響きが起こった。
そこに集まっていた人たちにとっては本当に驚きでした。これは何だろうか。
それは聖霊が下ったという、そのことの一つの現れであったわけです。
もちろん聖霊様は天地創造のその時から、永遠から永遠までおられたお方なんですが、このところに集まって人たちの上に下った。
それがこの時が初めてであったわけです。ですからこれは一体何の音だろうか。
彼らは耳でその聖霊の下ったことを確かめたわけです。激しい風が吹いてくるような響きが耳に起こったわけですね。
12:11
そしてその聖霊が彼らの耳を通して、そして彼らの一人一人に下った。いわゆる耳が霊によって開かれた。
それから彼らは何が真理なのか、何が神の言葉であるのか、そして神の言葉の真理というものをしっかりと霊の耳で聞くようになっていくわけです。
そして彼らのいた家全体に響き渡った。また炎のような分かれた舌が現れて一人一人の上に留まった。
炎ではないんですが炎のような分かれた舌が現れた。それは彼らはっきりとその目でそれを見たわけですね。
それがこの聖霊降臨の時に起こった出来事です。彼らはそれをしっかりと目で見ることができた。
彼らの目にもその聖霊が臨んでくださった。彼らはその時から神をしっかりと見ることができた。
今までは朧げながら、これが神だろうか、いや違うんだろうか、サタンとは何だろうか、悪霊はどうなんだろうか。
彼らはまだ真理というものがわかっていなかった。イエス様が予言なさっても、一体イエス様は何をおっしゃっていたんだろうか。
そんなこともわからなかった。しかしこの時から彼らの霊の目は開かれて何が真実なのか、
それをしっかりと見ることができるようになったわけです。
そして皆が聖霊に満たされて、御霊が話させてくださる通りに他国の言葉で語り出した。
彼らが言葉を通して神様を語るようになったわけです。
聖霊が彼らの口を通し、そして魂の中に聖霊様が臨んでくださる時に、
彼らは今まで出していたその言葉が変えられていった。
呪いの言葉が賛美をする言葉に変えられた。
そういう風に聖霊が望まれる時に、こうして一人一人が聖霊に満たされて、
そして全く神様に支配されるものとなっていく。
それがイエス様が言われた約束でありました。
その通りにこの時一人一人がなっていったわけです。
それを見ていた他の人たちは、あの人たちは甘い武道酒に酔っているのだと、そう言った人もいました。
霊の耳が開かれず、霊の目も開かれない、そして口も霊に満たされていない。
15:02
そういう人たちにとっては、あの人たちのしていること、言っていること、それは自分たちとは全然違う世界のことでありますから、
まるで酔っているようだ、何かに取り憑かれているような、そんな風にしか見えない。
しかしそれは全く逆のことであったわけですね。
神様に支配された人こそ、何が正しく、何が真実で、そして何が神であり何が悪の霊なのか、そういうことをしっかりわかるものにならせていただいた。
そうでない人は、イエス様があの十字架でおっしゃったように、彼らは何をしているのかわからないのです。
そういうものであり続けるわけです。
私自身もそうでした。何をしているのか、何を言っているのか、全くわかっていなかった、そういう人のうちの一人。
しかし、精霊が望んで、その精霊をいただいた時、私は神のことを知って、そしてすべてが明らかにされたという幸いを得たわけであります。
もう一つのことは、この二章の中で、ペテロの説教が書かれてあることに気がつきます。
多くの文字を割いて、このペテロが語った説教が書いてあるわけです。
その内容は去ることながら、四十節、ペテロはこの他にも多くの言葉を持って証をし、
そして、この曲がった時代から救われなさいと言って彼らに勧めた。
どういうふうにペテロは多くの人々の前で語ったんだろうか、想像します時に、
皆さん、ちょっと神様のお話を聞いていただけませんか。
そんなことじゃなかっただろうと思うんですよね。
皆さん、聞いてください。ここに神様がおられます。神は生きておられるんです。
もう大胆に聞いているものは圧倒されるような、そういう説教ではなかっただろうか、そう思うんですね。
ペテロですよ。あのペテロが多くの人々を前にして、この主を明かしする。
そしてその主が復活なさって、今も生きて、そして私たちの救いの術として、あの十字架にかかってくださったということを大胆に、そして名にはばかることなく。
おそらくこの時ペテロは、もう自分が語って、もしそれで、たとえ迫害にあり殺されても構わない。
18:04
あるいはそんなことも全く思わずに、ただただ神様のその言葉を前にいる人々に向かって語ったんだろうと、そう想像するわけです。きっとそうだったに違いない。
あのペテロが、イエス様が十字架に捕らえられた時に、それを影からこそこそっと見ていた。
そして見つかって、お前もイエスの弟子の一人じゃないか。いやいやいや、私はそんなものではありません。
あのペテロが、今や人々を前にして大胆に神のことを語り、主を明かししている。
これが何よりも、精霊が望まれる時、あなた方は力を受けるという、その明かしであるわけです。
ペテロは身をもってそのことを明かしをしているわけです。
精霊を受けた者は、そういうふうに変えられていく。
自分が望むならばそうなるでしょうし、望まなくても神様がその人に望んだならば、
その人は神様の器として尊く用いられる、そういうものに変えていただける。
本当に幸いだと思います。決してペテロのような、説教するという種の弟子だけではありません。
私たちがどこにいようとも、何をしようとも、お家で仕事をしている時にも、
今までは何をしてもつまらないな、でも精霊を受けたならば、もうお料理するのもルンルン気分で、
もう鼻歌まじり、それも賛美を歌いながらお料理をしたり、あるいは職場に行っても、今まではつまらないな、と。
私もサラリーマンをしていた時に、牧師に言われました。
サラリーマンでも、ちゃんとしたサラリーマンになるように、決してダラリーマンにならないように。
ダラリーマンって何ですかと聞いたら、ダラリとしているからダラリーマンになるんだ、と。
もうしっかりせよと言われたことがあるんですが、精霊を受けたら本当に立派なサラリーマンになるんだ、ということを教えていただいたんですね。
ですから、私たちがどこにいようとも、何をしようとも、そしてどんなに使命が与えられ、どんな責任を持とうとも、今までとは違う。
もう今は精霊に満たされて、神様の御支配の中で、それをさせていただいている。
ですから全く今までと違うものであり、またそのようにさせていただく。
それが御精霊の働きなのだ。
そのように神様は約束をしてくださっています。
もう一つのことは、第三番目のことは、この精霊降臨の時、これはいわゆる教会の誕生の時である。
21:01
もう私たちは神様を知らなかった。
しかし、父母を通して私たちはこの世に生み出された誕生の時というのがあります。
しかし、ある日、あの時、私たちはこのイエス様と出会い、そして三密体の神を私の救い主として受けて、
そしてそれは自他ともに認めて、そしてバプテスマを受けて、
晴れて私たちは神様の子供とされた。
あの時に私はもう一度生まれ変わった。
罪に死んで、そして神の命にもう一度生きる、もう一つの誕生が与えられた。
この教会にもこの時、誕生の時があったわけです。
一節のところで皆が一つのところに集まっていたとあります。
そうです。人々は、あるいは弟子たちは、ことあるごとに一つのところに集まっていたんですね。
しかしそれは教会というエクレーシアと呼ばれるものではなかったわけです。
ただの人たちの集まりであったわけです。
しかしその集まりの中に突然精霊が下った。
その集まりはもはや今までの集まりではない。
今度はそれが教会と言われる精霊に満たされた集まりに変わったわけです。
それが今日までずっと引き継がれている教会であるわけです。
何が違うのか。ただの集まりには神様はおられない。
しかし教会と言われるその集まりには神様がいてくださる。
精霊が注がれているんだと。
それは二人三人わが名によって祈るとき、そこに私もおりますという見言葉の通りですね。
十人であろうが百人であろうが一千人であろうが一万人であろうが、そこに神様がおられる。
それはこのような建物の教会堂の中の集まり、それも教会です。
しかし今日は愛生園に子どもたちと行って、そこでお祈りをし、皆さんと一緒に交わりをした。
そこに神様がいてくださる。それがエクレスや教会なんですね。
あるいは今日は礼拝をしましょうと公園に行って、そこで賛美をし見言葉を開き、そして共に交わりをするならば、そこに神様がいてくださる。
それが教会であるわけです。
教会と教会堂、これはしっかりと区別をしておかなければなりません。
私たちが外に出て伝道するとき、教会のことをお話をします。
そのときに私たち自身が誤解し間違っていると、それが間違って伝わりますので、教会とは何ですか。
24:08
教会とは、皆さんが信仰告白で、いつも告白されておられますように、教会はキリストの体であって、神に召された生徒の集まりです。
教会は行動の礼拝を守り、主の命に応えて、福音を正しく述べ伝え、精霊展を行い、生徒を整え、主に仕えつつ愛の業を励み、主が再び来られるのを待ち望みます。
これが教会です。
ある人が、教会ってどこですか。
そうですね、スマークの明大の2丁目の、それは教会道のことですよね。
どういうふうに言ったらその教会道に行けますかということを聞いておられる。
そのときは教会道の場所を教えてあげたらいいわけですが、教会って何ですか。
そのときは教会とはこういうことですということを、しっかりとそれを説明しないと皆さんが誤解されます。
ですから教会、このとき誕生したわけです。
今までの単なる集いではなかった、その神様がいて、そして皆が神様をあがめ、そして礼拝をなし、そしてここにありますような一堂が共に交わり、パンを裂き、そして祈りをしていた。
あるいは持ち物を共有にしたり、あるいは心一つにして宮に集まり、そして礼拝をして家でパンを裂き、これは聖三式でしょうか。
喜びと真心を伴って食事を伴うし、これも交わりです。
神を賛美し全ての民に好意を持たれ、主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
これは初代教会の一つの教会生活の様子ですが、これが理想とかそういうことではありませんが、こういうことをしていたんだな、こういうことが精霊の満たしを受けた教会の一つの姿なんだなということを改めて思うわけです。
もちろん私たちが聖書を読んでいくときに、例えば古臨都の教会、古臨都という乱れた町の中に建てられた教会、ですからその町の文化や様々な状況が教会に影響を及ぼす、そして教会の中で色々な課題があったということも私たちは見ることができる。
しかしどんな教会であっても、そこに精霊が注がれて神様がいてくださる。全ての人ではなくても、そこに主を信じて、そしてこの方にひたすら信仰を抱いて、主体を求めている人が一人でもおるならば、その交わりは主の教会である、そう言えるわけです。
27:24
皆さんが例えば別の教会に訪れなさるときに何を見るでしょうか。私はもし、例えば講談交換で、あるいは何かご奉仕で、要するに教会に行かなければならないときに、私はその教会の何を見るだろうか。
ここの建物は何年経つんだろうか。立派な教会堂だな、あるいは古い教会堂だな、そういうことは大事だろうか。あるいはここの、例えばカトリックであるならば神父さんはどういう人なんだろうか。
あるいはインターネットでホームページを見たらこういう人か、牧師はどんな人なんだろうか。そこに私たちと同じ年代の人はいるだろうか。子供たちだったら同じような子供たちがいるだろうか。あるいはプログラムを見たらこんな活動をしているのか、ここはあまりしていないなと。
私たちはその教会ということにおいて何に関心があるんだろうか。何を見るんだろうか。そして何が大事なんだろうか。そんなことをもう一度考えさせられるわけです。
教会において最も大事なこと、それはそこに今も生きた神がおられるかどうか。そのことですね。建物がどうであって、プログラムがどうであって、どんな活動がして、どんな人がいているか、牧師がどんな牧師で。それも大事ではないとは言いません。しかし最も大事なことの一つではありません。
最も大事なことはその教会に、その交わりの中に神がおられる。精霊が確かに注がれて、その人たちは精霊のバプテスマを受けて信仰に励んでおられるんだ。そのことが私たちが訪れたときにまたまたと感じられるような教会。
あるいは少しの交わりをしただけで、ああここに神様がおられる。そういうことを私たちが覚え、またそれじゃ他の他の人たちがこの教会を訪れたときにどんなことを感じられるだろうか。決して私たちが意気込んで力んで神様がおられますよ、そんな見せることもできません。
30:01
その人たちがどう感じなさるか、それは私たち分かりません。しかし間違いなく私たち自身が、一人一人が精霊を受けて、そしてひたすらこのお方をあがめ、そして賛美し、そしてこのお方に従っているならば、きっとこの教会を訪れてくださる人たちは、ああここに神様がいてくださる。生きたもう神がおられる。
そして私も皆さんが信じておられるこの神様を信じたい。私たちも救ってほしいと、そう思われるに違いないわけです。
この集まりの中に精霊が下った、そういうことが一行伝の二章で書かれて、そしてそこから教会というものが始まった。
そしてそれは二千年も続けられ、そして今日全世界にそれが存在するということ、これが何よりの精霊が下ったということの証であります。このお方を仰いでこれからも進んでまいりたいと思います。
お祈りをして聖三式に移ります。
そして毎日心一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心と思って食事を伴にし、神を賛美し、全ての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
天の父なる神様、今日の幸いな日をありがとうございます。精霊が集まりの中に下って、この時から教会が誕生しました。
そして彼らはひたすら主の前にあって交わりをなし、そしてあなたを賛美したことでございます。
私たちも今その志を受け、今全世界に教会が建てられています。
その一つ一つの教会にもう一度精霊が臨んでくださり、日々新たなる神の霊を、神の命を注いでくださるように、私たちも信じてあなたに従い得るならば、神様は新しい魂を贈り、
そして仲間に加えてくださるということを今信じます。
堂々、あなたの御前にあります一人一人を尊く用いてください。
良き賜物を持たれておられるお一人お一人を主の霊に満たして用いて、そしてこの福音が全世界に行き渡ることができるように助けてください。
およだねし、イエス様の尊い皆によってお祈りいたします。
アーメン