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おはようございます。
この1年、大変こちらの教会でお祈りに恵まれて、
良い月に一度の時間を過ごさせていただいていました。
今日は、この1年のサイクルで終わりになりますけれども、
マタイの5章から始めて、6章のあたりで終わりにさせていただきます。
では、はじめに短くお祈りをさせていただきます。
イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。私だ。恐れることはない。」と言われた。
恵み深い天の地なる神様、あなたの尊いお名前とイエス様の十字架の地を賛美いたします。
私たちの意図近きところにまで来てくださって、あなたのすべての恵みを提供してくださることをありがとうございます。
今日ここで私たちは、あなたの皆を褒めたたえ、あなたに心からの礼拝を捧げるために集まっています。
どうぞ、寝言をご自身がお開きくださって、私たちに新しい光をお与えくださいますようにお願いいたします。
尊いイエス・キリストの皆によってお祈りいたします。
今日は、「主の祈りの中心」という題にさせていただいておりますが、私の母教会の主管者の先生は、「主の祈りを祈れ。」といつも言っておられました。
主の祈りを唱えるのではなくて、主の祈りを祈れと言って、もう度々言われていたのが心に残っております。
ですので、このように行動の、礼拝の中で主の祈りをご一緒に捧げますけれども、本当に祈る、みんなで祈るという意味と、また個人でも祈るという大切な念があるのではないかと思います。
祈りというと普通は、呼吸、また神様との交わりということがありますけれども、ここでの祈りはまた、その意味ももちろんありますけれど、
この主の祈りの短いものを教えているのは、結局今日の題のように、主の祈りの中心は神様、神様第一であるということを私たちに思い出させるお祈りではないかなと思わせられています。
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今日お読みいただいたように、誤説からのところは、偽善者たちのようであってはならないということで、パリサイリストとか立法学者とか、当時の宗教家たちが角々で、人に見えるように聞こえるように、私は祈っていますというのを見せるためにしている祈りがほとんどだったのでしょう。
イエス様は、祈りというのはそうではなくて、人に聞かせて見せるためのものではなくて、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして、戸を閉めて隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさいと教えてくださいました。
家の奥の自分の部屋、本当に静まって神様の前に自分一人で出るということが大切であろうと思います。そして、いろんなことが聞こえない部屋、そして自分の思いも、いろんな自分の心の雑音を通しめて、そして隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさいとおっしゃいました。
イエス様は、私たちに神様が本当に親しい父親だというふうに紹介をしてくださっているわけですけれども、あなたの父に祈りなさいとおっしゃっています。
主の祈りですから、イエス様が教えてくださった祈りでありますけれども、主の祈りなので、その祈りの方をしっかりと捉えていきたいと思います。
ですから、このように皆さんで祈り、また祈りが聞こえるように祈るというのも、すごく大変励ましと力を受け、また自分で祈っていない面も教えられたりして非常に力になるんですけれども、
ここで教えられているのは、とにかく自分と神様と一対一になることが必要なんだということを私たちに教えているのではないかと思います。
それで、6節の隠れて祈りなさいということ、そして8節のあなた方の父は、あなた方が求める前からあなた方に必要なものを知っておられるのですとおっしゃいます。
ですので、確かにいろんなことをお祈りしなければなりませんし、神様は求めなさい、そうすれば与えられるという約束をこの後に書かれてあるように導かれますように、いろんなことを確かに祈ってよろしいんですけれども、しかし神様は知っておられるから、もっと中心を外さないように祈りなさいということをおっしゃっているのだと思います。
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イエス様のことは福音書の中に、朝まだ暗いうちから祈るために出かけて行かれ、そして昼もいろんな奇跡や宮座を行われるときにも天を仰いで祈られ、また夜を徹して祈られたということが聖書に記されてありますように、
イエス様自身が神様との関わりを必要としておられた、祈りを必要としておられたということは私たちがよく聞いているところです。
それで、今日の9節からのカギ活動のところに入らせていただきます。
先に申し上げたように、お相撲さんとして、本当に親しい父親として呼びかけて、私たちの父と呼びかけるように私たちを招いていってくださいます。
この神様の招きは、私たちにいつも恵みの座、神様と知ることのできるその座へ私たちを常に導いておられるということを知ることができるのではないかと思います。
それで、門世の実会も神様に対することと人に対することが2つに分かれていますけれども、
この主の祈りも神様に対すること、御心がなりますようにという神様に対することと、そしてもう一つは私たちがどうすればいいかという私たちに関する祈りと2つに分けられるように思います。
その最初に、皆が聖なるものとされますようにとあります。
神会約2017はギリシャ古にものすごい忠実な役の仕方をされるので、昔の神戸役成者のようにあがめさせたがえという表現ではなくて、
聖なるもの、神様の御名前、神様御自身が特別なものとして賛美され、褒めたたえられ、礼拝されますようにということを最初に教えています。
とにかくここでも第一が神様が特別、神様が第一、神様ファーストということがこのところにあります。
その後に、御心が天で行われるように地でも行われますようにとあります。
御心とだけ言われるとすごく捉え所がないというような感じが私などはするんですけれども、
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神様の御意志がこの天で行われているようにこの地上でもあなたの意志が行われていきますようにという願いです。
私たちの思いではなくてあなたの意志が果たされていきますようにという祈りです。
御心というと、ちょうど今月の終わりは受難集に入りますけれども、御心が行われますようにと、
イエス様御自身が御祈りをなさっています。
ゲステマネの園で、この杯をできるならば取り除いて散りづけてください。
しかし私の思いではなくあなたの御心がなりますようにと祈られた記事がこのマタイの26章の中には記されています。
イエス様にとっての御心は、神様の意志は十字架にかかって三日目によみがえるという大変な苦難を通されなければならないということが御心だとわかっておられて、
なお、しかしそれを受け取って実行するためにイエス様ですら血のような汗を流しながら祈らなければならなかったことが聖書の中に記されています。
ですので御心がなりますようにというのは、言葉で言えばすぐ出てしまいますけれども、実際に御心がなりますようにという明け渡しをするのには、私たちは取り扱われることが必要なのではないかと思います。
もう有名な話ですが、多分笹尾徹太郎先生だったと思うんですが、主の祈りをいつものように祈っているときに、そのときは御心が天で行われるように地上でも行われますようにと祈ったときに、
そのときの御自分の状況と御心というのが、何が御心かというのが、多分その話は献身をするということの御心が示されて五つあったときに、
主の祈りが開かれて、自分の社会に出て働いていることと献身をすることとどちらかという思いがあったときに、神様の御心がなるようにというこの言葉で取り扱われて献身へと導かれたと伺ったような気がします。
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ですので、いつもの習慣で祈るのではなくて、毎日日ごとあなたの御心、私の御心ではなくて、神様の御心がなりますようにという深い明け渡しがこの言葉の中にはあるということを、私たちは毎日確認させていただきたいと思います。
それで、御心の話をすると非常に話が広がってしまうんですけれども、このマザイの3章のところでバプテスナのヨハネが、「悔い改めなさい。天国は近づいたから。」と言いました。
そして、イエス様の御心も4章のところでバプテスナをヨハネから受けられて、「悔い改めなさい。天国は近づいたから。」と言って、選挙を始められたんですね。
ですから、神様の御心は、やはり福音、キリストによる十字架の福音が述べ伝えられること、人々が生き方の方向を変えて神様に立ち帰るということが、御心の中で大きい部分を占めているだろうと思われます。
ですので、自分にとって神様が何をしようと、私を通してしようとしておられるかということを問いかけるのが、この祈りの中にはあるのではないかと思います。
これは1週間に1回の点検ではなくて、毎日の点検になっていきます。
そして、次の私たちに関わることの述説からですけれども、
日ごとの糧を今日もお与えください。私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。
最初にこれを聞いたときは、今日の午飯、昼の午飯、朝の午飯、夜の午飯ということを思いましたけれども、そのうち霊的な糧、心の、魂の養いということを思わせられます。
その他にも、日ごとの糧をお与えくださいということ以外に、今日の何かをお与えくださいというものとか、必要なものを与えてくださいという祈りはないので、
おそらく私に与えられているすべてのものは、あなたから来ていますということを確認するための祈りでもあろうかと思います。
健康であれ、自分の置かれている環境であれ、すべてのものが、先ほどお祈りにもありましたように、
平和が与えられていること、すべての私たちに必要な糧をあなたが与えてくださっているということを確認するのが、
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この私たちの日ごとの糧を今日も与えてくださいという祈りの告白の中に含まれているように思います。
先週、あるカトリックスの先生の話、この主の祈りの話をたまたま見る時があったんですけれども、
その解説の中に、日ごとの糧、毎日ミサをされますので、生産式のパンのことを指しているように説明をしておられました。
つまり、イエス様の十字架の許しという糧を毎日私たちに与えてくださいという祈りの解釈、そういうふうなお話をなさっていたので、
ああ、それもなるほどなと思いながら聞いていました。
日ごとの糧は必要ということ以上に、私たちにいつもイエス様の十字架に立ち帰るということを教えているということも言えると思います。
そして、12節からの主の祈りで私たちがいつも告白している罪という言葉は、この聖書の中には、
マタイの聖書の福音書の中には、おいめという言葉で表していて、罪という言葉では出てきません。
ルカの福音書のほうでは、やっぱりおいめなんですけれども、あとの14節のほうは、ここでは過ちとなっているのは、ルカは罪というふうに訳していました。
ですから、この辺りも使われている元々の言葉が違うので、非常に微妙に違うように訳されています。
それで、「おいめのある人たちを許します。おいめをお許しください。そして、おいめのある人たちを許します。」ということで、
私たちの生活の中に過失ということが全然ないということはあり得ないわけですね。
お互い何かどこかでミスをしたり迷惑をかけたり失敗したりするわけです。
恋にするのではなくて、過失、そういう誰かに負担をかけたり間違っていたことに対して、
お許しくださいということと、そして私も許しますということを祈るようにイエス様が教えられました。
許しということは皆さんいろいろご経験になっていると思うんですけれども、
許しがたい、腹が立つということに日常生活で出くわすわけですよね。
そういう時に毎日この死の祈りに立ち返って、いかったままでその日を終わるなという聖者の言葉がありますように、
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いつも取り扱えて、自分が握ってしまっている怒りの種を手放してしまう。
それは手放して、そして自分も解放されるという、そういうことがこの中には含まれています。
私はラジオをよく聞くんですけれども、
熊本でしたっけ、南多病で体が不自由になった方がいろいろいじめを受けて、そしてひどい扱いを受けてきた。
あと国から保障が出たり、いろいろし始めた時に、私は今、その方がクリスチャンではないと思いますけれども、
私は今までいろんなことを言われてされて苦しい目にあって、ひどい言葉をかけられたことに対しては、私は許しますと言われたんです。
その後で、でも差別を続けるのだけはやめてくださいと語っておられました。
本当に許すということには大変大きな犠牲を払わせる面がありますけれども、
しかし、イエス様は御自分の十字架を私たちにお示しになって、許すという道を私たちにはっきりとお示しになります。
お祈りということで言いますと、このマハタイの18章の有名なところですね、
ペテロが、誰かが罪を犯した場合に何回許したらいいですか、7回ですかと聞いた時に、イエス様が70倍するまでですよと言ってお答えになったところがあります。
その後の解説のところでは、そのある身分のある人が、けらいの1万タラントを許してやったのに、その許された人は自分の下目の100万円ほどを許さなかったという記事があって、
人間の許しの小ささというのを絵に描いたように教えてくださっているわけです。
そのように私たちの許すということが、この世の中のレベルで考えると許せないということは多分たくさんあると思うんですけれども、
私たちの比べる相手は、イエス様の十字架と私たちのすべての罪を許して神のことをしてよみがえらせるというその約束と比べたら、天と地の差があるということを思わせられるわけですね。
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ですので、この私たちの小さい秤ではなくて、神様の大きな秤のところにいつも書いていくことができるように、この種の祈りが与えられていると思います。
そして、試みに合わせないで、悪からおすすめください。
確かにいろんな誘惑や試練が私たちの人生には来ます。
それはもう縫えないものですけれども、そこでやはり私たちは神様にそれを祈りながら一歩一歩神様と歩んでいくということを、この種の祈りは私たちに教えていると思います。
それでですね、自分の弱さを知るということですが、弱さは罪ではありません。
それで、私はずっとこの綿絵の福音書を開かせていただいておりましたが、綿絵5章3節に、
心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
心が貧しい、つまり自分には何も良いものがないという自覚している人たちは、何と幸いなのでしょうか。
天国は彼らのものですとイエス様がおっしゃったように、自分の無力を知って本当に神様に任せて委ねて求めていく。
そこに本当の天の国は来るとイエス様がおっしゃいましたし、
それこそ自分が本当に貧しくて無力で何もないということ、本当の意味で深く知る人の中に神の御国が来ますということは、
御心がその人の中になっていくということを教えているように思います。
先ほども言いましたように、イエス様は求めなさいというふうにおっしゃっておられるのが7章に書いてあります。
有名な6章の33節に、まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものは全てそれに加えて与えられます。
私たちの必要を神様が知っておられるということが書いてありますので、
さっきの6章の8節と通じているわけですね。
あなた方の父は、あなた方が求める前からあなた方に必要なものを知っておられます。神様は御存じですということ。
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そして私たちの求めるのは、まず神の国と神の義。神様の御意志がどこにあるかということと、
自分の義ではなくて神様の正義がこの地でなされるように求めるということが私たちに要求されているところです。
私、これお話ししたかどうかちょっと覚えてないんですが、
7月の終わりに小松島エコ協会の礼拝に行かせていただいたときに、
この私はマタイの7章の7節あたりからちょっとお話をさせていただいて準備をさせていただいてたんですが、
神様は本当に私たちに祈って近づいて、神様からいただく、神様と知って、そして神様に直接いただくという経験をするように私たちを招いておられるようです。
ですから祈りは、神様が必要とされたように私たちも本当はそこに近づいて、さらに豊かなものを得ていく場所、神様自身を体験する特別な場所ではないかと思います。
主の祈りとはちょっとズレるかもしれないんですけれども、
この3章の説教の終わりの部分の7章の終わりのところに、主よ主よというものが皆天の御国に入るのではなく、天におられる私の父の御心を行うものが入るのですとあります。
ですから、そしてそのためには、その24節の終わりのところに御言葉の上にかたく立って、そしてそれを土台として家を建てる人が賢い人だという例につながっていくわけですので、
その祈るということが、ただ言葉をたくさんとか願いをたくさん出すということの一つのことだけではなくて、もう一つの御言葉を学び、御言葉を読んで、そこから神様の御思いを知って祈っていくというその流れは、御言葉と祈りというのはやはり対だと思います。
そして皆様は日ごとに四百世書をお読みになるときに、どのようなことをお感じになっているでしょうか。
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いつもそこを読みながら神様の真心とか、神様の自分に対する願いとか求めとか、そして神様の素晴らしい約束とかいうものを次々に発見しておられたら、きっと精子は面白いと思います。
そしてもっと探っていきたいと思われると思います。
ですので、そのような御言葉とのふれあい、つまり神様とのふれあいをすることによって、私たちの祈りはもっと深められていくのだと思うわけですね。
人生、この地上に、天国に行ってもそうかもしれませんが、とにかく神様御自身を知るという経験を深めるほど幸いですし、どんなに神様が私たちにも期待してくださっているのかということがわかってくるときに、勇気が出てきますし、希望が出てきます。
そのような祈りの時間を私たちに与えるように、神様は祈りの時間を、祈りの大切さを教えてくださっているのだろうと思います。
話がもう最初に戻りますけれども、祈りの中心は神様第一、神様が一番に置かれるだけだということを、この種の祈りは私たちに教えています。
その御心にかなった生活に整えられていくということで、ひとつの聞いたお菓子をして終わらせていただきます。
これもちょっと前の話になりますが、本田浩二先生という、もう召されていた有名な大衆伝道の先生がいらっしゃいましたけれども、
あるときに、これもまた15年くらい前に召された三浦彩子さんという方とのお話なんですけれども、
あるときに本田先生が何かの本の中に、三浦彩子さんは若いときに祝福をしていたというような文章を書いて出されたそうなんですね。
それを見にされた三浦彩子さんがですね、私は確かに精神的には祝福のような生活をしていたかもしれないけれども、
祝福の生活をしたことはありませんから、その文章の訂正を広告してくださいという電話が入ってきたそうです。
それで本田先生、いやそれは申し訳ないということで、その訂正文を用意しようかと考えていたときに、また三浦彩子さんから電話が入ってきてですね、
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先生すみません、さっきのお話は取り消しますと言って連絡が来たそうです。
それはご主人の三浦光雄さんから、あなたはクリスチャンなんだから、そういうことはしないようにということの説明というかお話があって、
それで自分自身もそうだなということを思い直して、また再度電話をしたんですということがありましたということを伺ったことがあります。
これは一つの許すということの実践の話ですけれども、私たちは日ごとに主の祈りを祈って、そして神様が求めていらっしゃることが何かということを絶えず中心に置いて生活していくならばですね、
そこから私たちの生活態度が変えられて証となり、そして神様の香りを私たちが放っていくことができるのではないかと思います。
私がここでこのようにお話をするまでもなく、信仰歴の長い方々にはよくわかったお話であるかと思うんですけれども、
今日からまた新しい気持ちで共に主の祈りを祈るものであらせていただきたいと思います。
ではお祈りをいたします。