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それでは、読んでいただきました、 図鑑読み福祉賞の18章をお開きいただきたいと思います。
先週は、ビリグラム伝道団の福岡での大きな、 今はクルセドと言わないで、フェスティバルという風に、
今回は希望の祭典ということで、大相撲の行われる 福岡国際センターという、そこでありまして、
そこに少しく関係するものですから、 他の先生たちと一緒に参加いたしました。
礼拝は、アブラヤマシャオル礼拝堂という、 福岡教会ですね。
アブラヤマシャロームキャペル、 そんな教会、教団にあったんだろうかと、
初めて耳になった方は思われるか分かりませんが、 前からアブラヤマという地域の名前を取りながら、
そういう名称を持って地域においては 大きな働きをしております。
そこへの礼拝に出たんですが、そうしますと、 今からしようかと思うんですが、
お互いにこの近くの人と ご挨拶をするという、
宮谷家私は初めてこういう経験をいたしました。
先週は福岡の教会です。
以前に私は平方におりましたときに、 そういうことをやったことがありました。
そしたら、あまりそれは受けませんでしたね。
先生、あれはやめた方がいい。
そういう声があって、やめておりました。
しかし、宮谷に参りまして、 今、福岡に行っておりますので、
一つの伝統になるのでしょうか。
ご挨拶をした方がいいかなと思いますので、
お隣が奥さんの場合は、前後の方々と ご挨拶しようかなと思います。
おめでとうございます。
おめでとうございますじゃない。
どうぞよろしく。
何回かやっていくうちに、こういう礼拝とか、
よくこういうふれるんですよね。
まともに結婚式で間違いなしにやったのに、 一回しかなかったそうです。
あと、どこかでいつもすべったり、 こけたりなんかしているという、
自分では気がつかないんですけれども、 言われたことがありましたが、
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それぞれとして、主婦にも知らされておりますように、
今はレント、いわゆるジュナンセスという、 その期間を過ごしてきております。
ご説明のように、イエス様が復活なさったその前日から、
46日前の水曜日という、3月の5日なんですけれども、
そこからこのレントが始まりましてね。
そのレントのときに、今朝開きましたこの十八章なんかが、 読まれるこの一つの箇所であります。
私はこの十八章をそこで、 改めてお開きしていきたいと願っております。
このレントの期間において、 私たちはそういう聖書の箇所を読んだり、
あるいは特別にそういうときですから、ディボーションと言いましょうか、 聖書のときに時を持つ、
そして主の十字架の意味を深く心に留めていくという、 そういうことをいたしますが、
この箇所を読んでいきますと、
改めて祈りというのはどういうものかということを考えさせられて、 あるいは教えられたりもいたします。
この二人の人がお祈りをしている様子がそこに記されているんですけれども、
祈りというのは言葉じゃないんだな、
どういう思いでもってお祈りをしているかというのが大切なんだなということが、
こういう一つのイエス様がお話しなさったことをとって教えられます。
私は教会に行き出して、
そしてなかなか聖書がわからないし、 読んでももう一つピンとこないという、
そういうですからなかなか信仰なんてな、 もう決断も思考もなかったんですね。
ところが、ある集会に来ましたら、
だいたい教会というところはここはもう最初に決まってお祈りをする人が決まっておりますからなんですが、
そのうちはですね、半分くらいもいませんか、十人そこそこの人数の集まりの中で、
いつものお祈りをしている人から、あまり聞き慣れない声の主がお祈りをしてやる。
誰がお祈りしているんだろうかと思って後ろから見たりすると、
あれ、あの人お祈りできるんだなって、
何回も私よりもずいぶん前に来ている方なんですけれども、そんな風に思って見ておりました。
そしたらその次、またその次というですね、だんだん人数の少ない中で、
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その祈りがみんなずっと捧げてきておりますんでね。
で、私を誘ってくれたその友達と、
今日はどういう集会だ、みんなお祈りするらしいなって言って、
みんなお祈りをしていますから、ちょっと心に焦りを感じましてね、
それで、じゃじゃんけんして、
負けた方が先にお祈りしろと言ってですね、
じゃじゃんけんしたら、私が負けたんで、
じゃあ回ってきたら私にお祈りをして、そしてあなたがその次に行かっていう。
そうしましたらね、彼らも先にお祈りしたんです。
よくよくこっちに任せてやって、結局私が最後にお祈りをしたんですけれども、
いまだにモハネを祈ったのかは全然覚えてないですね。
ただやたらとこのむしゃふるいだけはしましてね、
で、終わってから、お祈りってあんなんでいいんかって言ってもですね、
あんなんでっていうそのお祈りの内容を覚えておりませんから、
いや、あれは違うんだとか言われても、これもどうしようもないんですが。
けど私はそれからずいぶんしてからね、
なんで私が聖書の言葉をこうしっかりと信じることができるようになったんだろうか。
うちの家内におりますけれども、私は家内からね、
あんたみたいに疑い深い人いない。どうしてクリスチャンになれたんだろうか。
こう言われたことがあるんですよ。
何言ってもずっとこう、いやそんなことない。
ありえない。って言ってですね。
何でも否定するもんですから、そういうことになったんでしょうけども。
なかなか質問すると受け止められないところがあったもんですからね。
ですから先例の話が宣教師を通してきたときも、
いつでもやめられるのかって聞いたことがあるんです。
いまだに言わせられないんですけどね。
そしたら、いやいいですよって言うんで、
数字が考えますっていう。
そういうやりとりもあった。
申し上げたいことは、
私は本当にそういう中で求道生活をしとった中で、
なんで信じれるようになったんだろうかなとあるとき、
自分のクリスチャンになってからですけども、振り返ったんですね。
非常に心の堅い人間ですから、
なかなか受け入れがたいところがあって、
なんでこんなことをみんな信じてるんだろうかなというような、
冷ややかな目で見ることもありました。
そういう中でね、自分がそういう中に加わってから、
なぜ信じれたんだろうか。
なぜ聖書の言葉を自分は受け止めることができるようになったんだろうか。
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私はふっと思ったのはね、
何を祈ったかは覚えてないんですけども、
みんなの前でそのとき初めてお祈りをしたんですね。
だからふっとね、そのお祈りをしたっていう、
もう追い詰められてきて、そしてせざるを得なかったというようなお祈りなんですけどね、
それでもね、私がそこで心を開いたんですよね。
そしてそこに、
精霊が働いて、
そしてこの聖書の言葉も信じられるようになっていった。
私はこの福音書を読んでも、もうその先へ進まないんですね。
で、たまにしか読みませんから、
あれここはいろんなことがあるんじゃないかなと思っても覚えておりませんから、
先へ進まない。
それであるとき、読んだ過程に日付を入れたんですね。
たとえば今日だったら3.23ですか。
そうすると、一週間後に読んでも、
あ、この間ここが4なんだから、その次読んだらいいなっていう。
そういう読み方、今でもその聖書ね、支援のついた新学聖書ですが、
あの記念に置いてあります。
この福音書を読んでも、その分からない。
そしてこの人行伝を読んでも、もう一つ分からない。
ところがこの、なんとローマみたいな手紙を読み出したときからね、
この聖書の言葉がもう自分の中に入ってきたんですね。
ああ、これは私のことだ。
私のことがここに書いてある。
だから、イエス様が私のために自由主義者について信じてくださったんだなということで、
このローマみたいな手紙。
ただ私はあんまりローマみたいな手紙から説教したことがないです。
そんな話をあるときしましたら、カルバンという格林という有名な説教家がおりますけれども。
この人もでしたかね、この方も、公開されておりますけれども、
そんなローマ一の手紙から説教するということは、そうなさらなかったというふうに聞いておりますが、
どうだったんでしょうかね。
まあ、それぐらい説教となるとちょっと違うんですけれども、
しかし、このキリスト教というものの骨組みというのは、その中心にこのローマ手紙がある。
それぐらい大切なところですね。
ですから私は理解というよりも、みんな信じれた。
自分のことと信じれた。
それは、申し上げたように、何を言うのか覚えたんですけれどもね、
あのときに口を開いたとき、
精霊が私に望んで、そしてこの聖書の言葉がわかるように、
この精霊が解き明かしくださったんじゃないかなと。
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ですから、このローマ一の手紙の中にね、私たちはどういうことを言うかわからない。
けれども、精霊がどういうお祈りをしたらいいかということを教えてくださると書いてありますよね。
精霊の助けがあって、お祈りもそこでもってすることができる。
これも伝えきいたお話ですけれども、ある大きな聖会の中で、竹田修造という方だったでしょうかね、
その先生がお祈りを示されたそうですよ。
司会者からね、説教家だったでしょうか。
とにかくそこでもってお祈りを示されたときに、
この竹田先生は、河村校長の前の校長ですから、
もう別段も別段、幕僧先生から直に教えを受けなさった先生ですけれどもね、
この先生がね、ひとっこ小さく小声でお祈りをして、
それから口談に立ってお祈りをなさったということをお聞きしたことがあります。
あんなお祈りにおいて、別段の先生でもって、
私は計画に思いましたけれどもね、
その時に少し私に理解できたのは、
私のケースとその先生のケースは違いますけれども、
御霊霊の助けがあればこそ、
本当に心からそこでもって、どういう言葉で祈ったかというのは、
それは覚えていませんけれども、
しかしそこで自分の心が神様の方に向いたんだな、
そこからそこでもって自分の心の中に、
この聖書の言葉が少しずつ少しずつ理解する。
そしてそれは信仰となって、
自分のうちにやがてイエス様を信じますという決断に至ったんだなと、
もう今本当にそれを思いますね。
ですから私は、初めて教会に来られた方とお祈りをするときに、
いつも自分のそういうことを明かしをして、
初めてですから、私が代わってお祈りをします。
だから私の祈りの言葉の後、席に乗ってくださったらいいですよ、
そういうお祈りの仕方をするんですけれども、
しかし依然する御霊霊は、
私たちが祈ることを通して私たちのうちに働いてかかるということは、
これは確かだなと、今私は心に銘じております。
私たちは、今読んでいただきました箇所から教えられるんですけれども、
どういう気持ちという、どういう思いで持ってお祈りをするかという、
それは謙虚なそういう思いで持ってお祈りをする。
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この箇所で、自分を義人だと否認し、他の人々を憎ざしている者たちに対しては、
イエスはこのような例えを話された、と書いてあります。
公の役成長だったでしょうか、
この二人のうちの問題は、
一人はパリサイ人で、もう一人は主税人であった。
十一節、パリサイ人は、たってこの中でこんな祈りをしたと書いてある。
確かに彼の内容を見てまいりますと、本当に模範的なものになっている。
公の役成長の方では、
新科学では、たってこの中で祈ったと書いてありますが、
一人でと書いてあるんですね。一人で祈った。
確かに一人一人がお祈りをするということにおいて、私たちは教えられて進められてもおりますから、
本当に夜叉の前に出るということは必要なことです。
そういう意味の一人というのではなくて、
公の役成長があえてこの言葉を入れているということは、
このパリサイ人のそういう面での一つの様子というものを正直に表していると思う。
申し上げましたように、私たちはお祈りをする時に一人ではないんですよ。
精霊が働いてくださるから、自分の心もそこで開かれて、
そしてお祈りができるし、またどういう言葉でお祈りするかということも教えられますよね。
そうしても新学校におる時に、コウホー・ショウタロウという先生が諸君としておられました。
で、ある早期に人を拘っているんですが、
あなた方ね、まじでの良いエドレンなんですけれども、
ですから日本語を仕方を得ているような感じもしないではないですね。
関西の方から聞いたら、そんな風に聞こえたんじゃないかなと思うぐらい、何でもはっきりおっしゃる。
で、この先生はね、新学生はここでもって3年4年おったら、お祈りも上手にできる。
だけど、あなた方に必要なのは、自分のエドレンに対して責任を取れって言うんですよね。
責任を取れ。責任を取れないからお祈りするんじゃないかなって、いつもの反発的なそういう気持ちが出てくるんですけれども。
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ところが先生がおっしゃりたいのはね、上手なお祈りができるようになる。
で、おっしゃりたいことはね、もうくだりだけのそのお祈りです。
もう全然これにした後、もう関係ないみたいな顔をして。
そしてこうやってっていうところに、社官の上から見るともう本当にいい加減の新学生が、もうあっちにもこっちにもだったんでしょうね。
ですから余計に、自分がどういうお祈りをしたか、祈りの内容をその言葉をよく心に留めて、
そして本当にそういう思いでお祈りをしたならば、そういう思いでもっといつもその前に出なさいっていう、そこに強調点があったんでしょうけれども、
まったく仕方によってはね、自分の祈った祈りに責任を取れって言ったら、
なんかだったら祈る必要はないんじゃないかななんて思ったりもするようなことがありましたけれども、しかし意図するところはわかりましたね。
ですから繰り返し申し上げておりますけれどもね、このパリサイリとの祈りを見てまいりますと、
極めて模範的な、ああ彼はそれこそ自分の祈りというだけじゃなくて、
そういう生活をしてその生活の裏付けとなっているようなお祈りをしているんだなということが、よくこのお分かりいただけるんじゃないかなと思います。
この11節から見ますと、神よ、私を他の人々のように揺するもの、こういうもの、怪異にするものではなく、ことにこの人類人のようでないことを感謝します。
彼は自分が今日まで本当にそういう罪を犯すことから守られてきたっていう、そういう感じの祈りですよ。
そしてそれだけではない、彼は急に二度断言する。自分の受けるものは皆、その自分の位置を下げております。
こういう立派なお祈り、そしてまた彼はそういう生活をしてきているということが、よくお分かりいただけると思いますね。
別に皆さんに当てはめる必要はないんですけれども、皆さんこういうお祈りできますか?と言われてね。
私も毎朝一食抜いております。忙しいものだから抜いているというフェイスもありますし、ダイエットの期間中だから食事しておりませんという方もおるでしょうし、
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いろんな事業の背景がそこにあろうかと思うんですけれども、それとこれとはちょっと違いますね。
彼は極めて宗教的な意味において、私が決められたように急に二度は断言しています。
私も断食する機会がよくありましたけどね。
新学校におりました時は毎週この火曜日が、毎週じゃない、二学期が始まります。
その時の何日間が断食祈祷会と言って、そして備えるわけですが、
断食と言っても、やっぱり三食でしたかね、食事の時は。
一食でも抜こうと思ったら、何かやさらと食べ物のことがチラついてくるんですね。
食べちゃだめなんだな、あと何時間しか食べられるんだっていうような、そんなことばっかり考えて、断食の意味じゃないんです、これね。
そういう新学校で決めた教育時ですから、邪魔ということで断食をすると言っても、断食と言わないとですね、食事を抜くというだけ。
そういう言葉ではそうですよ、断食とはまた違う。
ですからもっとこれいいんですけども、一食抜くだけでもなかなか大変なことでしたけども。
それでも決められたならば、こう断食して、そしてその時間聖書の前に出る、あるいは祈るという、そういうことがそこに大切なんですけども。
彼は決められた、この立法において決められたそのことをきちっと守ってきた。
そしてしかも自分の受ける者は皆、自分の位置を下げております、というお祈りですよ。
大変これ裏付けのあるね。私はこれから捧げてきます、という。
本当に審議会がどうなんだろうかというような、そんなあやふやのことじゃなくて。
もう既にそういうことは、私の中において信仰生活の中できちっと守ってきております。
彼はそういう立派なお祈りをしました。
ですから、最初のお祈りは極めて道徳的な感じの、そういう意味合いのお祈り。
私はそういう間違いがなくて済んでおります、感謝します、という、そういうお祈りですね。
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そしてその次が、今度は宗教的なと言いましょうか、信仰的な、
そういう内容を込めたお祈りをそこに持って殺してきている。
これほど私たちにとって立派なお祈りはないんじゃないかなと思いますよ。
問題は、彼はそれをどういう気持ちで持って祈ったか、というところですよね。
やれたことに対する感謝もに対する感謝というよりも、
やれない!
そういう周りの人、そこには、気の毒に一生懸命がですね、たまたまそこに居合わせちゃったんでしょうね。
ですからこれはもうパリサリトの、彼がその前に出て行ってそうやって、
これ、なかなかに大きな声で立って、そしてお祈りをしている。
誰が聞いても火の打ち所がない、という。
そういうのは本当に比べると、なんで私がこんな立派な人と一緒にここに来ちゃったんだろうかな、というようなことでもって、
彼はそれこそ、もう失礼になったものでしょうか。
ただ一言、彼がそこに祈りましたのは、この十三節。
ところが自然は遠く離れて立ち、目を順に向けようともせず自分の胸をたたいてきた神様、
こんな住人の私を憐れんで下さい、なんの誇らしげな実行はない。
もう少し依頼人としてここに来ているならば、立法のその一手を守ってきたとか、
自分はできなかったけれども、これからやりますとか、
もうちょっと発展的な、信仰的なそういう内容のあるお祈りができないんだろう、
こともぐらい贅沢なるような、そういう内容の祈りしか彼の口からは出なかったんですね。
ですからよけい、こういうお祈りを聞いたパリ大人は、
そうだろう、だいたいここに自分と居合わせるのが間違ってるっていうような思いが、
こんなお祈りを取り主としては、よけいそういう自分を誇らしげにそう思ったんではないだろうか、と。
けれどもイエス様は、この二人のお祈りというのをそこに出して、
どちらが答えられたのか、ギトされたのかということはそういう意味ですよね。
神様がどの祈りを喜んで、そして受け入れられたのか、
主税人の祈りだということをそこでおっしゃった。
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ですから聞いておったのは、イエス様の周りには主税人もおれば、
それからパリ大人もおれば、立法学者もおれば、最小のそういう輩もおれば、
いろんな人たちが、いつもイエス様の一曲一奏に目をとめておりました。
だいたいこういうパリ大派、あるいは最小とか立法学者というのはですね、
このパリ大人に代表されるように、本当にまともにイエス様が出てきて、
そしてイエス様、どうぞ私にお言葉を下さいとかいうような、そういう謙虚さはないんです。
マルコニアの福井省だったでしょうか、あれが出来事の時に、
彼らはイエス様の言葉尻をとらえよとして、と書いてありますよ。
どこかにミスがあるならば、どこかでなくても私じゃないけれども、
すべて間違ったことを言うものならば、すぐそれをすっこんできたり、そうしてやるわけですよね。
そういう場面が福井省の中には何箇所か出ております。
それがこういう人たちの立場であり、言い方なんですね。
ですから、こういう津税人が私と同席しているということすらも、神にとっては、
自分の誇りが切りつけられるような思いだったんじゃないかと。
ある箇所では、住みやる女というふうに書いてありますけれども、
イエス様が会いたい人のところに、食卓に招かれていった。
ところが彼女は、そこへ行って、イエス様の髪の毛を濡らして、足を洗いなさったというその光景。
よくあの女性が、そんな人のところに入れたなと思うぐらいですよ。
けれども彼女は、もうイエス様のためならばということで、
とにかくそういうイエス様の、それこそおもてなしを、本当のおもてなしをしたわけでしょう。
それを、ひげやかな目で招いていないのに、なんであんな女が私の家に来たか。
日本一に行ったら、レフェスから広ぼけ!って言います。
それぐらいの感じですよね。
それでも彼女は、イエス様のところへ行けていって、
そして、そういうイエス様に対しての最高のおもてなしをしているわけです。
そういう場面場面の中で、パリシャイ派とか、そういう類いの人々は、
どこかでも手にすがっているのならば、イエス様をやっつけようというのは。
ですからね、ここへ来て、こういう話でもって、どちらのお祈りを神様がこれを喜びなさるか。
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一般のユダヤ人、あるいはそういう類いの人々だったんだろう。
そんなパリシャイ人の祈り、私はあそこまではできないけれども、ちょっとそれに近いことをやっている。
だから私もこの祈りに応えられるんじゃないかなと、このパリシャイ人の祈りに心を合わせる人がおったと思いますよ。
ところがそれを全部否定されたみたいにして、神が喜びなさる祈りは、この修税人のお祈りだ。
私は忘れられないんですが、サウムド・ゴロキ先生がね、私たちがやがて召されて、
イエス様の前に立って、そして私たちがそこでイエス様にお祈りできる言葉があるとするならば、
ここしかないだろう、これしかないだろうと。
つまり、罪かも私を癒しくださいと言うね。
死の前に立ったときに私たちがお祈りできる、そのお祈りはこの一句だということを発表しちゃったのが、今も忘れられないんですね。
何をしてきました、これをしてきましたと。こんなにお祈りをしていると、イエス様のお手に詰めきましたと。
そういうお祈りができたらいいですけれども、そういうお祈りよりも、
イエス様が一番私たちに向けて喜びなされたのは、まさにここにあるんだと。
こんな罪と私を哀れんでくださいとしか、祈れなかったのがこの修善人なんですよね。
パリサイルとは、神様の前に出るときに自分の実績を持ってそして、これもやれました、これもやってます。
しかしこの修善人は、その一つでも持ち合わせることができたかというと、そうではない。
何にも彼は持ち合わせを持ってそして出られるような人間じゃない。
けれども神は、彼の祈りを最もそれを喜びとして受け止めなさった。
私はこの修善人の中において、どういう自分をそこで発見するか。
それは大切な一つでもあろうかと思いますよ。
神様の前に私たちが出て、そしてその時の自分のこの本当の姿っていうのは、
どこかに私たちは、これは結構信仰生活を積み重ねてきた、やっぱりベテランのクリスタンにおいての大切なところですけどもね。
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やっぱり自分の挿し場っていうのが、教会なら教会なりにそこにできてきたりもしますよ。
あるいはそれを求めたりもしますよ。
あるいは自分のそういう背景にした発見というものがみんなに認めて欲しいし、
そこで思って、いやそうやっちゃいますと言われたら、もう一遍でですね、こんな教会に来るもんかみたいなことでもって、
自分のその誇りを築き上げるような思いでもって、触るっていうこともありましょう。
そういう私たちはいつの間にかね、間違ったこの熱さとか、
そういうものから来る一つのこの実績、誇りっていう。
あるいは弱いか期待するとこの優越感っていうような、そういう類のものが自分の中でこう渦巻いて。
そして、島には自分の熱心さが誇りとなったり、
あるいは、自分自身がそこで満足してるんですけども、
このパリシア人のお祈りのように、神様に来ることが多く駆け上がれたようなお祈りをする。
ですから、私はこれは、本当にこう長年の信仰生活を得てきてる、
そういう私たちへの癒やせたものを悟ってはないだろうか。
どういう場合でも、私たちはこのパリシア人のようなお祈りに真似るようなことはあってはならない。
ただ一言、罪との私を悟らんでください。
ではこれはそこから何かするんでしょうか、できたんでしょうか。
できるようになったんでしょうか。
そんな保証どこにも書いてないんです。
だからこの後に続く、この出来事を通じてね、
結局このパリシア人のお祈りっていうのは、この程度なんだなぁと思うような言葉ながら、
実はこれは、9月からある役人がイエスに質問してきた。
尊い先生、私が何をしたら、永遠の命を自分のものとして受けることができるんでしょうか、っていう。
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彼もある意味において、パリシア派のそういう人と同じような立場です。
イエス様とのやり取りの中でもって、私はその立法においては小さな力を全部守ってきました、っていうのが彼の実績ですから。
しかしイエス様の話を聞いていくうちに、この方にこそ本当の永遠の命があるのではなかろうか。
そして彼はイエス様のところに、その永遠の命、それが欲しいです。
どうしたらいいでしょうか、ってこうやってきた。
彼もまたイエス様の前に、これまでずっとやってきた、そういった事柄を誇りとするようなことを、イエス様に申し上げてますよね。
だから私も次々と教えあげ、それを守って、さらに世界に共鳴していきたい。
ですからある程度の、あるコースではある役人と書いてありましたけども、またここですね、あるところではこの青年とも書いてあります。
しかし、イエス様もその彼に、あなたは、まあ言うならば、99点。
ただいつそれになれば、っていうね、足りないところがある。
100点満点で99点だったら見事な合格ですよね。
そうしたらいいんじゃないかな、と思いもするんですけども、しかし彼はしかも1点になるんです。
しかしその1点が彼のすべてだったわけですよね。
というのは、あなたの持っているものを貧しい人に施しなさい。
そしたらわかる。
そう言われた彼は、この前パリサリトリスから神様の名につかげるということにおいては、もうどれだけ今までこの十分の一を研究してやってきたことか。
これまでの必殺があるからいいんじゃないかな、と彼はそう言ってますよ。
しかし神様の目から見たならば、1つ足りないところがある。
それは自分の持っているものを捧げなさい、ということですよ。
けれどもこの役人は、本当のものを得るために、本当の捧げるということを知らなかった、と言えるタイプじゃないかな。
そして彼は捧げるときにはいつも見返りを求めるんですよ。
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この場合だったらば、永遠の命です。
けれどもしかし、彼は捧げて捧げてきた。
それでもほぼの一点でもって、もろっとりをこの貧しい人に、こう具体的に言われたときに、彼は拒絶した。
一体それじゃ、捧げたから、神様から本当に見返りのものがそんなにも来るんだろうかどうなんだろうかと思った、
彼の頭の中の計算では、ちょっとこれは合わない。
そして彼はたった1つなんですけれども、全部失っていった。
しかしこの19章に出てくる境がそうじゃない。
彼はもう本当に神中心の生き方でもって、彼の人生観はもういかに自分の神とそれから神を得るかということでやってきた人間が、
イエス様とお会いしたとき、彼が決断したこと。
今まで不正な取り立てをしたことには、もう前にして全部それをお返しして、もう何もかもなくなってしまうくらいに、彼は不正な取り立てをやってきておりますから。
ですからこれを全部精算しようと思ったら、もうマイナスしかない。
それでもう、懺悔としてはそれをやれたんですね。
全員が馬鹿でした。全員が馬鹿でした。
ここにおけるところのこの役人は、まさにあのパリ裁判の最も中心的な将来を職望されるような、そういうこの人だった。
しかし彼は、あなたに一つだけ足りないところがあると言って、引退されましたけれども、彼の計算ではもう一つだけだったり。
そして彼はイエス様から去っていったということです。
それに対してこの主税人は、ラーサイは、彼はイエス様が向こうからおいでになるのを遠くもこないし遠くも見ていて、
そして性関係でしたけれども、イエス様から声をかけられたときに、彼はすぐさまこの方を受け入れた。
そしてそこから彼の人生が変わっていく。
こういう本面した出来事を見せると、私たちがどういう思い出を持って主にお会いしていくかということです。
本当に私たちは、このレントの中において改めて、イエス様の十字架というのが、私にとってどういうメッセージを与えなさっているのか。
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神様がどういう思い出を持って、私というこの一人の人間を熱い思いを持って、そしてご覧になっているのか。
イエス様は決してその他王子の中の一人じゃなくて、ここに一人の主税人。
一人の本権。
それを一番大切にする。
そしてそういう彼らの祈りを、彼らのお求めを受け止めてくださっている、このイエス様。
私たちは今朝、この黙想の中で、イエス様のそういう思いというものを、そして本当に聖人の私をどうぞ応援してください。
そこをこの私たちは新たなスタートさせていただきたいと思ってお祈りいたしましょう。
レグニス大主よ、本当に改めてあなたのお言葉を教えられながら参りましたけれども、
主が私を愛し、私のために十字架についてくださった、それほどまでして私という人間を求めてくださっている、この思いを応援してくださりありがとうございます。
しかもそんな人間の汚い祈りをも、あなたはこれを最高の祈りとして受け止め、
あなたはそれを居心地として私たちにどんなに豊かな恵みを与えようとされているか、
神様どうぞあなたが、今朝も私ども一人一人のうちに、
そして主よどうぞ、本当に主の身前に、自分自身のそれまでも積んでまいりました言葉でも何もかも全部これをお捧げして、
そして自分の本当の姿をもって今へ立つことができるように、主よどうぞそのような私たちとして導いてください。
これから迎えて参ります次元集への、どうぞイエス様の十字架のたぐられた道を歩むことができるように、
またそのことを深く心に留めながら歩ませてくださることを、主や主義者の皆によってお祈りをいたします。