00:01
皆様おはようございます。
マルコの福音書も、その公開も、そこまでがありました。
ちょうどいう季節に、このゲッセマネのところが開かれ、やがて十字架活へと進むわけであります。
さて、元様が捕らえられる直前に、オリーブ山のふもとのゲッセマネというところに行って祈られました。
この話はですね、聖書を読む私たちの心に感動的な場面であります。
元様が私たちの苦しみ、激しい霊的な戦いをされたゲッセマネに、私たちもそこに行く、霊的な思いでその場に預かり、ということは祝福だと思います。
元様に対する愛が冷えたときに、どうぞ私たちはゲッセマネを思い出し、皆さんのために苦しまわれたゲッセマネの苦しみを思い出している。
さてそこでゲッセマネはどのような祈りをされたのか。
33節、34節にこうあります。
そしてペテロ、ヤコブ、ヨガネを一緒に連れて行かれた。
イエスは深く悩み、悶え始め、帰らぬと言われた。
私は悲しみのあまり死ぬほどです。
ここにいて、目を覚ましてください。
イエス様は深く悩み、悶え始め、悲しみのあまり死ぬほどだと言われた。
そしてその3人の弟子たちに、ここにいて目を覚ましていなさいと言って、
35節にあるように少し進んで地面に出るして、できることならこの苦しみの時が自分から打ち去るように、この苦しみの時は無くなるでしょう。
それはこれから捕らえられ、裁かれる、虐待を受け、みんなから見つけられ、十字架に引けられて殺されるその苦しみの時であります。
03:05
イエス様はご自分がどのようにして殺されるのかということをはっきり知っておられました。
死なる神様が私をこの世に使わされたということ、そして自分の使命はその人々の罪のために十字架にかかって死なれることをはっきりと意識しておられます。
このことはイエス様が再三に渡って弟子たちに伝え、また最後の晩餐においても、弟子たちのこの死状の最後の食事会においてもそれを伝えられました。
ユザが裏切ること、またペテロを始め弟子たちがみんな逃げ去っていること、予告されないこと、そのようにイエス様は全てのことをご存知でありながら、ご自分からその十字架の道を進んでいかれたわけです。
そのようなイエス様の姿を見るときに、こういう考えを持たれる方もおられるかもしれません。神の子であるイエス様は捕らえられ十字架にしてられ殺されるということを知っていたので平気ではなかったか。
また三日目によみがえられるということを予告されたぐらいであるから、その十字架の死において悲しんだり、あるいは恐れたりすることはなかったのではないか。神の子であるか。
そのようなイエス様の御時を見るときに、そうでないことを示していた。皆さんももう何度も言わなくても知っておられるように、イエス様は神の子でありながら人の子であります。
この神学的なことはまた別のところでお話をしたいと思います。
ですからこの激かめな御時において、やはりイエス様の十字架の苦しみは痛みであり、そして大きなこと、できるならばそれを避けたいという思い。
つまり、怒ってほしくないという御時だ。
三十六節にこの盃を私から見させてください。盃とはどういう意味でしょうか。旧約聖書をじっくり読んでください。
06:07
盃は神の裁き、私たちのすべての秘密に対する罰である。それは皆さんや私が公然受けるべきこと、神様ににしてられるという苦しみの体験であります。
一箇所だけ開いてもらえませんでしょうか。ガラペアの三章の十三節にこういう二言葉があります。
またどうぞ、開くことが難しい方はどうぞそこにメモしていただいてですね、ガラペアの三章の十三節にこう書いてあります。
キリストは御自分が私たちのために呪われたものとなることで、私たちを立法の呪いから贖い出してください。
木にかけられたものは皆呪われていると書いてあるからです。これがネギ様は呑み干さなければならない高口であります。
すなわち旧約聖書に書いてあるように、木にかけられるものは神様から呪われている。すなわちネギ様はその呪いを一心にこれから受けようとしている。
それが高口である。ですからネギ様はこの苦しみから逃れたいということを求めたとしても必死ではありません。
そこに神様の和解の奥地を見ること。どうぞ皆さん。ネギ様は悲しみ苦しみつつ祈られました。
自身はいない、人にもいないとあるように、すべての人が罪を犯したので、その罪の身代わりになることのできる人は、人は自分で呪文をつくうことはできません。
どんなに清純君主であったとしても、みんな罪を持っている。あの人とこの人と呪文を比べてまっまっしたと言う人は神かもしれないけれども、神様の前で自分を見ると、
そして私たちは罪によって生まれ、罪に苦しんでいる。神様ではなくて、自分を主人として生き、神様の隣人も自分の思い通りになるのでなければ、愛する子です。
09:29
自分の意味問わなければ、ほっぽを拭いてしまう。また、自分を守るためには、他の人を攻撃してしまう。それも平気です。
そういう罪の中に私たちはいますが、神様に見捨てられても仕方がないものです。そういうものを、元気様は全部しておいて、私たちのために苦しみを受けて、自衛隊につけられて、神様に見捨てられて、
それを抑えても文句も言えない私たちのために、その探しを全部引き受けていく。神様に見捨てられるという使命を味わっていく。
結局、神様は未来杯の一滴までも全て飲み干してくださったわけです。不思議なことでありますが、ここで神様は、
ペテロとベベダイのスタイルの子、ヤコブとヨガネ、3人だけを連れてきて、私と一緒に祈っていたわけです。この時、私たちは、イエス様と一緒に祈る必要がありました。
助けが必要な時に、思いを一緒にしてもらいたい時に、イエス様と一緒に祈るべきではなかったでしょう。
ところが、そういうことになって、私たちは皆、眠ってしまったわけです。イエス様が祈りの中で、本当に苦痛をしている時に帰れば、眠ってしまったわけです。
なぜそうなったのか。晴れていたんだろうか。緊張していたんだろうか。私は皆さんだったらどうでしょうか。目を覚まして祈っていたでしょうか。
私たちは冷静に眠っているということと、肉体的なこの居眠りを比べてみれば、自分では眠っていないと思い出を起こそうとすることが、私たちは自分でも気づかないうちに冷静に眠ってしまうのではないか。
12:15
霊廃で日眠りをすることが悪いのではないか。欲観視をしたい。あるいは体調が悪いとですね、眠りをしている。疎通している。
私もサラリーマン時代、毎週霊廃の時にですね、柱の陰に隠れて、自慢ではありませんが、毎週寝起きています。肉体が弱いので効かない。
けれども先生は何も言われなかった。しかし、信仰的に眠っているならば、私たちは神様の憐れみをいただかなければなりません。
皆さん、私たちは体が弱いのですから、眠ることも大切です。一生懸命、目を開けて霊廃をしようと思っても起こそうとすることもあるでしょう。
けれどもどうぞ、大人に迷惑をかけない程度に眠っていただきたい。息吹きを出さない程度に眠っていただければ、それは感謝です。
主役聖書のサムソンという人物は神様から素晴らしい玉物をいただき、その玉物を持って住みに遊んでいました。彼はレイヤーのところで眠りました。
レイヤーは彼を縛り上げてフェリシテルトに渡したわけです。でもサムソンはその会議でぐるぐる締められた砂を断ち切ってフェリシテルトをやっつけるしかありません。
ところがある日、彼はそのレイヤーに自分の会議の秘密を明かしたわけです。なぜ彼に会議という玉物があるか、それを知ったときにサムソンが寝ているときに彼は彼の髪の毛を切りました。
そして砂でぐるぐる巻いて、そしてサムソン、フェリシテルトが襲ってきました。どういうことでしょうか。
サムソンは前と同じようにその砂を断ち切ってフェリシテルトをやっているはずでしたが、自分の会議の神様からの玉物の源の原因を伝えたのです。
15:16
その源がそられたのです。彼はフェリシテルトを打ち倒すことはありません。彼は主が自分からさられたことを知りませんでした。
この歌詞を私は読むと非常に心痛い感じがします。特に彼は主が自分からさられたことを知らなかったという言葉で、私もそうでありましたが、
クリスタンであるならば、肉体的な眠りだけではなくて、霊的な信仰的な眠りに襲われることがあります。
彼はなぜ眠ってしまったのでしょうか。神様を信じる信仰を持っている人がどうして眠ってしまったのでしょうか。
確かにこのゲス様のところを見るならば、その夜、闇の力が働いていたことは間違いではありません。
神様から引き離そうとする悪の勢力が私たち、目には見えないけれども、場合にあることです。
ですからゲス様は、ご自分を捉えに来た者たちに、こう言いました。
しかし今は、あなたらごとき、暗闇の力で、暗黒の力で、ルカの22章の53句。
闇の力は眠りたい者が心地よい、そよかずを悔やきにします。
私たちは悪魔とその罪の力に気づいていないでおります。
私たちは今まで学んできましたように、裏切ってゲス様を殺してしまったのは、最初は律法学者、
あるいは法律、ゲス様を十字架につけた狼狽い、裏切ってしまったイスカリオ天皇ユダ、だけが悪いのでは、セテロも裏切りました。
他の弟子たちも逃げて、積極的に裏切ったもの、あるいは消極的に裏切ったもの、
18:07
これは2000年前の出来事だけでは、私たちの心の中にある罪が、神様を本当に追い出してしまう。
そして、自分勝手にして、神様との深い交わりを拒むものが悪いわけです。
セテロは言いました。ゲス様、私は皆様のものがつまづいても、あなたを決して知らないとは言いません。
たとえ死にたろうとあなたを否定しませんと。
セテロが言うならば、セテロだけではなくて、皆様も知らないと言いませんと書いています。
大臣の席にセテロのことを書いています。
けれども、セテロの裏技を知って、あなたは何度私を知らないだろうと言う前述をしました。
言い訳がなくまで何度も知らないと。
ゲス様が捕らえられたときに、助手にあなたは確かにゲスの仲間であると言われたときに、
はじめは単なる否定でありました。
私は知らない。関係ない。あなたが何を言っているのかわからない。
次の否定は、また次週その前の日、後に続きますかね、学びますけれども、
神様に誓って否定します。
そして、最後の否定は、私は呪われてもいい、という否定であります。
だんだんと強く否定していったわけです。
その箇所をですね、集会書で見てみると、
三度というか徹底的にという意味のことが書かれるんです。
徹底的にセテロは否定したわけです。
たとえここでも、三度でひたちは眠ってしまう。
三度というのが書き合わせて使っているんだろうなと思いました。
どうぞそのごとごとをみなさん覚える。
かいらは三度眠る。
こういう言葉は使わないかもしれませんが、徹底的に眠ってしまった。
21:04
弟子たちは徹底的に否定し、そして徹底的に眠り込んでしまった。
これが私たちの姿です。
イエス様は徹底までのとろに、
セテロとジョワネとヤコフのこの三人の弟子をとむなげました。
この三人はですね、いついかなるとにもいつもイエス様のそばにいて、
イエス様の様子を知ったこの弟子たちがいます。
5章においては、カイドロ・オズカサー・ヤイロの娘が死んで、
そしてそこでよみがえるという奇跡を体験したのも、
このヤイロの両親とこの三人の弟子たちの世代です。
さらに9章においては、三畳の山でイエス様の姿が変わったときに、
その三畳の山に連れて行ったのも、セテロとジョワネとヤコフと。
そこでイエス様の霊魂の姿を目撃したわけです。
さて今日のこの月曜日の祈りにおいても、
この三人がここにいるということをイエス様は教わっています。
それでイエス様は彼らに、
私が祈っている間ここに待っていなさい。
ここを離れる、目を覚ましてください。
そうしたんです。
つまりイエス様は何をおっしゃったか。
イエス様が苦しみの中で祈っているときに、
かたわらで見守っていたし。
この三人の弟子はですね、
イエス様が苦しみのときにそのかたわらにいて、
イエス様のために、イエス様を支えるために選んであった。
私たちは神様の御子同士、
一つになって祈っていくためにその目さえました。
けれども徹底的に眠ってしまいました。
イエス様は三十六節になるように、
あばきしよう、あなたは何でもおべきになります。
どうかこの杯を私から取り去ってください。
しかし私の望むことではなく、
24:00
あなたが望みになることが行われます。
イエス様は神様にあばきしようと言いました。
これは日本語でよく言うように、
私のお父さんという言葉です。
私のお父さん、あなたは何でもできるお方であります。
どうかこの苦しみの杯を取り除いてください。
苦しいです。痛みがあります。つらいです。
取り除いてください。
けれども、そういう望みは私の望みであるけれども、
あなたが望みになることを行ってください。
天皇父ちゃんと言います。
あなたは何でもできるお方できます。
私の思いはその苦い杯を取り除いてほしい。
けれどもあなたの御心を貸してください。
そう祈ったわけです。
御手前の祈りは神様に見捨てられても、
そして滅びていくしかない私たちのために、
神の御子イエス様が神の位を捨てて、
人となって生きてください。
私たちの苦しみ、悲しみを私たち以上に売り止めてください。
それを背負ってください。
信頼して神様の前に私の霊をやりなさい。
眠り漕げている私に言います。
神様との交わりが立たれると、
苦しみ、痛み、絶望するのが
私たちは愛する妻やおじと、
あるいは子どもたち、
あるいは親しい人と関係が立たれることです。
その関係が深いほど深いほど
沈黙はつらいです。
神様との関係が立たれることです。
皆さん、苦しみです。
とにかくやりきれないです。
残念ながら私たち罪人は何とも言わないのが罪です。
27:01
親しいネス様と知らぬ神様の関係があったからこそ、
祈りの中でやりとりができない、答えてくれない。
神様が見えなくなった。
それこそ、親しければ親しいほど悪い。
ネス様は知れません。
大切にしてください。
眠っている私たちをご覧になったネス様は
夕焼けに陥らないように目を覚ましてください。
霊は燃えていても肉は弱いのです。
心は燃えているけれども、肉体の弱さで命を失ってしまう。
肉体が弱くなると、肉体だけではなく心も弱くなってしまうんです。
確かに素晴らしい。信仰従事者がいいです。
肉体が弱くても霊に燃えている人と仲間をもらえます。素晴らしいから。
でも私は普通のクリスタンなので、肉体が弱くなると心も弱くなる。
すなわち、心と肉体が結びついている。
だから信仰も心だけで維持できるものではありません。
皆さん、私たちは心だけではなくて、
ただ来続いても神様とともに歩むことができる。
そのために毎週の礼拝があります。
祈りがあります。時間を勝ち取って。
そして肉体を持って礼拝に祈ります。
そして心と体の全体で神様を礼拝します。
そして上を上げて私のために成してくださった
イエス様の十字架に復位と復活の希望。
そこで信仰が養われていくんです。
そこで眠ってしまうものがあるけれども、
もう一度目を覚まして祈ることができるものではない。
先週、私の母が召されました。
1年前に父が亡くなりました。
私たちのために祈り支えてくださって、
本当に共に歩んでくださった皆さんに心からありがとう。
深い交わりがあれば、
30:00
復活の希望がなければ、
痛みで落ち込んで、それで終わってしまう。
復活の希望とイエス様の救いがあるから、
なんとか今、立っているわけです。
今回も金属との交わりの中で、
ある映画ですね。
よくおじいちゃんは、朝5時から起きて、
物道から広島の山奥の教会に行っていたね、
という話になりました。
JRと市弁とマスク。
朝早くいるので、駅までタクシーに乗って、
旗道を100匹を越えたわけです。
そういう話の中で、私ならどうしたらいいか。
まず難しい。
私は先に救われたけれども、
信仰においては、もともとに私は越えられてしまう。
できることではない。
ですから、私の妹のご主人も、
おじいちゃんよくやっててなとか、
おばあちゃんもなかなか教会に行けなかったけれども、
みなさんとの交わりの中で喜んで、
元気なときには1ヶ月に1度ぐらい教会に行ったんだろうけれども、
特大宣言を受けましたけれども、
でもだんだんと教会に行けなくなった。
でもそういう話があった。
その姿勢を通して、
新族の作りが広がっていきました。
先週は少し疲れましたけれども、
みなさんが信仰のことを始めてくるので、
私はどうして救われたのか。
仏教や信仰の関係の中でどうしてキリスト教になっているのか。
妹も、その妹の子どもたちも聖聖なるように、
教会に行き出しました。
ある名人は、
広島にいるわけでありますから、
広島の船井という彼らの方にいるわけでありますが、
なかなか教会までボーイは行かない。
ですけれども、その近くの教会に行っても、
ちょっと自分と分からない、会わない。
ということで、
毎週、毎週では行かないけれども、
私の娘に誘われて、
あるいは将来旦那さんになる人と共に、
教会に行っているという話を。
33:03
心で信じていることは、一番大切ですけれども、
この身体を巻き込んでいかない。
その3人の弟子たちは、再び眠り込んでしまう。
祈りから再び戻ってこられたイエス様、カエラがですね、
まだ眠っているのをご覧いただきたい。
40世紀には、まぶたがとても重くなっていたのである。
福井書を書いた丸子がですね、
まぶたがとても重くなっていたという、
カエラの中に言い訳をまいっている。
これはカエラの親交上性別脱節が気になります。
というのも、イエス様は黙って何も言わないで、
3度目の祈りに変わります。
また、3度目に戻ってみると、弟子たちはやはり眠り込んでいった。
この弟子たちは徹底的に失敗します。
これは弟子たちのことだけがあいわいはさせます。
皆さん、親交生活にはどうしても、この米籍な養いが必要です。
聖書を読んだり、そして聴いたり、養い、お祈りをしたり、賛美も大切です。
この3年間、コロナの中で賛美ができなかったのではないでしょうか。
私自身、皆さんはそうかもしれないかもしれませんが、
好きな時短をほとんどせず、礼的にずっと落ち込んでしまう。
これ、賛美はない。
ですから、礼の呼吸と呼ばれるものをもっと大切にしていかなければならない。
よく本田先生が、夫婦とんとん信者とは一つではありません。
日曜日には聖書を持っていくけれども、日曜日に帰ったら、もう月曜日から聖書を見分かない。
ですから、聖書の上には埃がいっぱい溜まってしまう。
土曜日になって、夫婦と埃を晒して、とんとんとして、捨てていく。
そういう話だけは、私は覚えております。
夫婦とんとん信者、私もそうではありません。
ですからどうぞ、日曜日だけ教会に持っているとき、礼をあげたとき、聖書を開く。
まあ、これも大切なことでありますが、どうぞ普段も聖書を開く習慣を身につけてください。
聖書通読も大変ですけれども、どうぞ、今からでもチャレンジしてください。
36:02
私たちは、自分自身に言い聞かせなくてはならない。
お前らはもう眠りこけてしまっているのではないか。
いや、永遠的には上から埃がなくなってしまっているのではないか。
神様の言葉も、祈りも、あるいは徒歩士さんたちの間際にも必要としていないのではないか。
目を覚ませ、法令されている。
お前らは眠れないんです。
そう、私に言い聞かせなければ。
皆さん、そして私たちが気をつけなければならないもう一つのことです。
それは、冷静に眠っている人は、他の人に対して無関心である。
まあ、その人は眠っているのでありますから、当然のことです。
そして自分の心に追いかけていく。
私たちは多くの人たちを見ているけれども、
彼らに対する関心がなくなっていないだろうか。
新聞やテレビやネットによってこの世のこと、この戦争のことも一体どうなるんだろうか。
物価のことはどうなるんだろうか。
いろんなことを私たちは本当に関心を持ちながら見ている。
けれども、やはり自分の身近な兄弟姉妹が滅びること、
その人の信仰が復興していくということは、どうでもよくなってしまっている。
そっちの方が最適に世の中にできるわけです。
そうすると、私は明かししたくないと思いますし、教会に行かなくてもよいと思います。
そういう自分の本当に今の真実な姿を知ることが必要になります。
私たちの目をイエスターに注ぐことが大事。
私たちの人を薬って、自分では必ず眠ってしまいますが、
断ることに薬ってですね、この起こさない。
さらに私たちは悲しみや苦しみが大きすぎて、もう追い切れずに眠ってしまうことがあります。
私たちは心配事が山ほどあります。
健康のこともそうです。子供のこともそうです。お金のこともそうです。
皆さん方、戦争や地震のこともあるかもしれません。災害のことや教会から体が離れるとですね、
39:01
子供の価値観や、あるいは道徳や習慣がですね、本当に私たちに迫ってこの世と合わせていくようにという疑惑があります。
ごめんなさい。最後に一箇所だけ開いて、割り替えてお願いいたします。
殺される人の手紙の4章。
殺される人の手紙の4章の2節は開いています。
殺される人の手紙の4章の2節。
歩みなく祈りなさい。
三章を持って祈りつつ、目を覚まして。
目を覚ますためには祈ること。
一人で祈っても途中で止めてしまいますから、共感して一緒に祈る。
そして信仰を持ってイエス様を見つめ、私のために死んでくださったイエス様がおられる。
そのイエス様が今日も生きておられる。
それが祈るときに分かってきた。
それがリバイバル。
ですから私たちはこの世の心配事や悩みを自分で胸を背負っている気をしなくていい。
弱いなりにこそイエス様を信じる人たちが集まるところに来て、祈っていく。
そしてまたそこから励まされ、弱めに出されていく。
そういうもので扱えることになるよ。