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2019-03-03 39:43

2019/03/03:ヨハネの福音書講解説教(53)愛すれば祈ります

 2019/03/03 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 18:1

マタイの福音書 -45

00:01
ありがとうございました。
みなさん、おはようございます。
今日はですね、説教の時間をちょっと割愛させていただきまして、
今日、衆報に一緒にお配りしました、礼拝祭の心絵という一枚の紙がありますけれども、
それを説教の前に、もぶともお兄弟に来ていただきまして、段落ごとに読んでいただきましたが、
これはですね、まさか新しいものではありません。
たぶんこれが8年、9年、10年前のこの資料、みなさんが学ばれたものなんですね。
みなさん、覚えていらっしゃるかと思いますけどね。教会心絵書みたいなね。
これはたぶん10年前だと思いますけれども、既に学んだことであります。
そこからちょっと抜きさせていただきましたので、今日はですね、選挙は10回もありましたので、
改めて、みんなでこの礼拝祭の心絵をまた確認して、また決戦していきたいと思います。
それでは、もぶとも教会に段落ごとによろしくお願いします。
お読みさせていただきます。
礼拝者の心絵
神は、ご自分にかたぞって創造された私たち人間が正しく神を知り、
心から神を愛し、神と共に永遠の祝福の中に生き、
神を誉め、支えることをお求めになっておられます。
すなわち、私たち人間に礼拝をお求めになっておられます。
神の御子イエス・キリストによって、
罪からあがなわれ救われた私たちは、
精霊と神の言葉による導きのもとに礼拝を捧げる神の民として、
教会を形成し定められた聖術に礼拝を捧げています。
礼拝の意義
礼拝は私たち人間が全人格を傾けて神を拝むことです。
神に作られ、神がお仕わししてお仕わし下さった救い主に救われた私たちが、
精霊と神の言葉に導かれて神を拝むのです。
ですから、礼拝は神を恐れ敬う思い、救い主を賛美する豊かな喜び、
精霊の与える命に満ちたものでなければなりません。
03:02
初めての方も、まず教会の礼拝に出席しましょう。
教会の礼拝に出席することは、最も大切なことです。
精霊と神の言葉に導かれる礼拝において、
私たちの創造と救いと感性について明らかにされ、
その恵みに生きるものとされるのです。
信仰者の生活の中心は、教会の礼拝にあります。
その次、礼拝の準備
誠実には、必ず教会の礼拝に出席することが大切です。
神を拝むには、つまぐれであったり、少々の用事で怠るようなことがあってはなりません。
神に受け入れられる礼拝をするため、前日と正日の朝、
心も体も軽減に過ごす、礼拝に礼拝を唱えましょう。
良い唱えは、良い礼拝のお源です。
また、遅刻しないことです。
礼拝は一つのプラグラムによってできていますから、
はじめから終わりまで出席していなければ、正しい礼拝にはならないのです。
神を拝むのに遅刻するのは、神を遠飛ばないことで、礼拝にはふさわしくありません。
また、遅れてくることは、他の人の礼拝を乱すことにもなります。
奏楽が始まる前には、礼拝堂に着席できるよう早めにおいでください。
その他の奉仕をしている人がいたら、礼拝の最初から最後まで、礼拝堂内で礼拝することが大切です。
神様を拝飛ぶ態度から良い信仰が生じます。
礼拝堂内の席は、礼拝堂に入った順に、できるだけ前からすべて着席しましょう。
自分などは、とわざわざ後ろの席に着くのは謙遜ではなく、むしろ自分を特別扱いにしているのです。
神の前では、全ての人が平穏なものなはずです。
06:00
しかし、小さいお子様であるの方は、入口の近くに着席される方が便利でしょう。
お子様が騒いだときは、連れ出しやすいためでもあります。
そのようなときのために、親孝室があればなお良いでしょう。
礼拝が始まったら、礼拝に必要以外のことは沈黙しましょう。
生徒や親生家を黙読するか、黙祷するか、あるいは黙祷するかして、礼拝の準備に心がけ、礼拝に必要以外のものを読んで過ごすことがないように注意してください。
携帯電話の電源を切り、礼拝以外のものには思いが取り上げられないようにしておきましょう。心の準備がなければ良い礼拝は守れません。
礼拝が始まったら、熱心に神を求めましょう。
信仰は求めなければ与えられないものです。
全身全霊をもって神の言葉を聞き、悔い改め感謝し、神を賛美します。
礼拝の中心は聖書朗読と説教と清霊典及び祈りにあります。
毎日帰国したときでも、聖書朗読と祈るときには、礼拝場にお帰りにならないでください。
礼拝中に聖書を開くべきときには必ず開くようにしてください。
賛美は神を賛美するのですから、司会者のリードに合わせて大きな声で歌いましょう。
奏楽者は司会者のリードに合わせて奏楽をします。
祈りの後には信仰の証明としてはっきり、アーメンと言いましょう。
礼拝の中でなされる献金は、神の恵みに応えて私たち一切を捧げる志を表すものでありますから、
献金の心をもってお捧げしましょう。
礼拝が済んだら、礼拝が終わったら、なるべく多くの兄弟姉妹たちと交わりを持つことが心がけましょう。
09:05
信仰者がいれば、親切に温かく交わりを持ちましょう。
こうして私たちは、ヒルストの体であることを覚えるのです。
このような神との礼拝の姿を、青少年や初心者が見習って良い礼拝家へ成長します。
礼拝を中心にした教会生活は、神への愛とケイケイへの愛に満ちたものでなければなりません。
アーメン
はい、ありがとうございます。
これに特に説明はつけなくてもいいと思いますけれども、
どうか皆さん、これを特によく見えるところに貼っておいていただいてですね、
常に良い備えを持って良い礼拝を捧げる私たちでありたいと願っております。
さあ、それでは今日もメッセージの前に隣の方と挨拶を交わしましょうか。
よろしくお願いいたします。
ありがとうございます。一言お祈りいたします。
誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい。
心は燃えていても肉細は弱いのです。
アーメン
神様感謝します。
本当に私たちが志頃、礼と誠を持って全身全霊で礼拝する礼拝者となりますように、
全てのものから私たちを清めて、神様に本当に全てを捧げて、
生きた備え物として捧げられる礼拝者となりますように、
祝福して導いてまた教えて下さいました。
お願いいたします。
今から神様御自身がここにいる一人一人の礼の心の板に主の言葉を刻みつけて下さって、
その御言葉が命となり希望となり恵みとなって、
12:04
主の御心通りに歩むこの一週間となりますように、
主をどうぞ豊かに祝福して下さい。
お言葉を下さい。
しもべはお聞きいたします。
イエス様の御観によってお祈りいたします。
アーメン。
ありがとうございました。
はい、ヨハネの福音書を公開すると53回目になります。
ヨハネの福音書は18章1節で、
他の福音書、マタイの福音書にはヨハネの福音書の17章と18章の最初の前後に
ヨハネは記録していない。
マタイ、マルコ、ルカには詳しが書かれているところから、
今日は愛すれば祈ります。
先週のタイトルを皆さん覚えていらっしゃいますか?
忘れましたか?
愛すれば伝道します。
愛すればシリーズではありませんけれども、
内容的にこの愛すること、そこに通じる大事なポイントがあると思いまして、
タイトルをこういうふうに示させていただきました。
皆さん、いつかですね、寝てはいけないときに、
寝てはいけないときに眠ってしまって、
ああ困ったなという、そういったことはなかったのでしょうか?
例えば、大事な式のときにですね、
もう寝ぶりしてしまってですね、困ったことはなかったんですか?
私はありますよ。
以前ちょっと話をさせたことがありますけどね、
結婚式のときにですね、
主席の先生が説教をですね、40分か50分のさってですね、
あまりにも緊張して肩に力を入れすぎてですね、
ちょっと音を落としたことがあります。
あるいは、居眠り運転とか、危ないですね。
私は正直にですね、昼間に運転するのはとても苦手なんですよ。
よく居眠り運転するから、
だから皆さん、昼間には遠目視の車には乗らないでくださいね。
危ないです。
居眠り運転していたら、
一瞬で車が右に行ったり左に行ったりするんです。
赤信号を認識できないから、ストップできなくなってしまって、
大きな事故につながることもあり得ると思います。
ところが皆さん、居眠り運転も危ないですけれども、
居眠り信仰も安全ではないと思います。
信仰的に目を覚ましていれば、
自分の身に起こる良いことも、あるいは危ないことも、危険も誘惑などに
15:10
気づくことができるから安全なんです。
目を覚ましているからすぐ分かるんです。
良いことはすぐに受け取ることができるんです。
あるいは、誘惑やそういった危険から逃げることもできますし、
戦うこともできるのです。
目を覚ましていれば、
信仰的に、霊的に目を覚ましていれば、それができるんです。
しかし皆さん、信仰的に霊的に眠っていたら、
良いことが来ても、自分に良いことが来ても分からないんです。
自分のものにすることができなくなって、逃してしまうんですね。
あるいは、信仰的に霊的に眠っていたら、誘惑や危険に襲われても
気づくことができないから、いわゆる無防備状態になって大変なことが起きてしまう。
さらに、その攻撃にも敗れてしまう恐れが非常にあります。
今日は残念ながら、いめむり信仰の弟子たちのお話です。
家様は弟子たちの中で、ペテロとヨハーネ・ヤコブ三人を連れて、
ゲッセマネの園に行かれました。
なぜ家様がゲッセマネに何をしに行かれたのでしょうか。
祈りに行かれました。
ルカの福音書、マルコの福音書を見たら、
いつも家様が祈られたあの場所に行かれただけなんです。
では、この時はどんな時なんでしょうか。
ローマの兵士たちに対応される直前なんです。
家様は弟子たちのために、神の国のために祈る。
その時を持つために、あそこに。
そして今日のマルコの福音書のように、そのゲッセマネについてから、
家様は特に他の弟子たちの相手となるわけですけれども、
その中で特にペテロ、ヨハーネ、ヤコブを特に選び込んで、
家様も近くに座ってもらって、
18:00
彼らも祈ってもらうために、誘惑に陥らないように、
目を覚ましていてね、とね、家様が本当にお願いして、
そして家様はちょっと離れたところで、一緒に祈っておられました。
あの祈りの様子を、医者であったルカは、
汗が地の雫のように地に落ちたと書いてある。
それほど家様は苦しみもだえて、いよいよ節に節に祈られたんですね。
どれだけもだえながら祈ったでしょうか。
汗が地の雫のようにポタポタ落ちたわけなんですよね。
それほど家様は苦しみもだえて、しかし目を覚まして、
静寂に節に祈っておられました。
ところがその家様があれほど祈っている途中、
他の弟子の中でもそれでもマシな方だと思った。
偉いと思った。
いつも家様が特別なときには連れて行かれたあの三人ですよ。
ペテロ、ヨハネ、コブに家様が祈って、
途中彼らのところに行ってみたら、
なんと彼らは何をしていましたか。
眠り込んでいました。
今日のマサイの訓示の皆さん、
ご覧いただきましたけれども、
家様が三回も行きました。
一回祈って、三人のところに行きました。
眠りこけていました。
目を覚ましてみなさい。
いく時間も目を覚まして祈れないのか。
そしてまた家様が祈りに行かれて、
そしてまた戻ってきたら、また眠っている。
目を覚まして祈りなさい。
今もう眠っている場合じゃないんですよ。
そして家様がまた祈りに行かれて、また戻ってきた。
それを三回に帰ってきたら、
三回も彼らはしっかりと眠り込んでいたんですね。
そこで家様は今日の四十節、
聖書をお持ちの方は四十節一緒に開いて、
お読みたいと思います。四十節。
聖書を開きましょう。
さっきもね、聖書を開くときには必ず開きましょうって
ありましたよね、皆さん。いいですか。
四十節と四十一節一緒に読みたいと思います。
はい。それからイエスは弟子たちのところに戻ってきて、
21:04
彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。
あなた方はそんなに一時間でも私と一緒に
目を覚ましていることができなかったのか、
誘惑に押し入らないように目を覚まして祈っていなさい。
心は燃えていても肉体は弱いのです。
皆さん考えてみてください。
なぜイエス様はあれほど必死に、
汗が血の雫のように落ちるほど苦しみをもたえて、
十字架を前にして祈っておられたときに、
どうしてあのペテロ・ヨハネ・コブはあんなに眠りこけていられたのでしょうか。
イエス様と彼らの違いは何なんでしょうか。
あの弟子たちは他の弟子たちよりイエス様よりものすごく疲れていたからなんでしょうか。
あるいはイエス様よりはるかに何十歳もぼち売れたからなんでしょうか。
あるいはイエス様よりもっと悲しかったからなんでしょうか。
そうではないと思うんですね。
いろいろお話できるかと思いますけど、
今日は精算式もありますので、
絞ってポイントだけ、ワンポイントだけお話したいと思いますが、
その大きな、最も大きな違いは、
どれだけ神様を愛しているか、
どれだけ全身全霊で神様を愛しているか、
その違いなのではないでしょうか。
イエス様は神様への信頼を、
神様への愛を、
それが力になって、
そして十字架のことを前にしていたわけですから、
祈られるわけなんですね。
皆さん不思議にも、あるいは当たり前でもありますけれども、
愛というものは、私たちに祈らせる、
愛によれば本当に祈る、祈り手に変えられます。
清聴できるんです。
だから、愛すれば祈ります。
私はこれが正解だと確信しております。
しかしは、これから、この後、何が起こるか、
24:05
イエス様は何度も何度も教えたのに、覚えていません。
そして、あんまり危機感を感じていません。
杉越の最後の晩餐において、
イエス様が十字架の話も何度もされたんですよね。
それにも彼らは、今が目を覚まして、
祈るべきなんだという危機感があんまりなかったんです。
十字架のことをそんなに深く考えていなかったんです。
何より、神様を本当に心から愛する愛が欠けていたのではないでしょうか。
愛すれば祈ります。
もちろん、祈りと御言葉、御言葉と祈りは、
クリスチャンの私たちが神様と交わることのできる、
とても大事な神様が救ってくださった恵みの手段なんです。
もちろん礼拝もそうですよ。
簡単に言いますと、神様を愛するから、
イエス様が大好きなんだから、一緒に過ごしたいんです。
ずっとずっと一緒にいたいんです。
イエス様と神様と話し合いたいんです。
イエス様の心が知りたいんです。
あるいは、自分の話を神様に話したいんです。
こういった気持ちで、神様とずっと一緒に過ごし、
一緒にそこにいたいんです。
それで、ずっとずっと祈っていたり、
神の心が知りたくて、その御言葉の恵みを、
四辺の御言葉のように、蜂蜜のように甘くて、
食べてまた食べてまた食べて、
読んで読んで、そういう御言葉の恵みにね、
深くどっぷりと浸かるようになるんです。
わかるでしょうか?
愛するからなんです。
だから、愛すれば祈るわけなんです。
先週の水曜日基礎課題、水曜の基礎課題に、
学びの中で、こういうことを皆さんにお尋ねしました。
毎日どれくらい祈っていました?
どれくらい聖書読んでいますか?とお尋ねしました。
もう一度ここで皆さんにお尋ねしたいと思います。
27:01
皆さん毎日どれくらいこの聖書の御言葉、
聖書を開いて読んでいるでしょうか?
どれくらい祈りをしていらっしゃるんでしょうか?
一日どれくらい神様と親しく交わっているんでしょうか?
祈りを通して御言葉を通って。
年末から神様は私に良い心たちを与えてくださっています。
不思議にも、普段いろんな先生方の説教ですね。
本を読んだり、あるいはネットで説教を聞いていたりするんですけれども、
いろんな先生方の説教を聞いていても、同じことが語られている。
いろんな本を読んでいても、また同じメッセージがまた語られている。
何だろうなって思うんですね。
そういう時には皆さんこれは確かな神様からのサインなんです、メッセージなんです。
皆さんは普段説教を聞いていて、あるいは礼拝していて、あるいは祈っていて、
聖書を読んでいて、その時にまるで繰り返しているような神様のサインがある時があるんです。
それはもうすぐにそれを従わなければならないんです。
神様のサインなんだから。
私に与えられた神様からのサインは一つでした。
それは毎日一時間祈ることでした。
それは私が作った話ではないんですよ。
今日の四十節を見たら、イエス様がペテロにこう言われました。
あなた方はそんなに一時間でも私と一緒に目を覚ましていることができなかったのか。
ただ目を開けている話ではないんですよね。
ここでの目を覚ますということは祈るという意味なんです。
一時間でも私と一緒に目を覚まして祈れないのかということなんです。
祈っているうちに神様からこういうメッセージが与えられていただきました。
野谷教会の信徒みんながもし毎日一時間以上祈ったらどんなに素晴らしいことが起こるんだろうか。
私はこの野谷教会にあなたたち一人一人に考えられないほどの祝福とリバイバルと恵みを備えておいてある。
ただあなた方が祈ればいいんだ。目を覚まして祈っていなさい。
30:03
そうすれば祝福を与えようという神様からの皆さん考えていただきたいです。
野谷教会の信徒みなさんが毎日一時間以上祈ったら神様からどれだけ大きな祝福が注がれると思いますでしょうか。
想像を超える奇跡が起こると確信させます。
野谷教会から教区へ教団へ日本の教会にもし毎日一時間祈祷運動がこのキャンペーンが起こったらすごいことが起こると思うんです。
未だかつてなかった神様の素晴らしい皆さんがリバイバルが必ず起こると私は確信します。
イエス様は一時間でも私と一緒に目を覚ましていることができなかったのか。
誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい。
イエス様のお言葉です。
今日のこのメッセージを皆さんお聞きになりながら神様からすでにあなた祈りなさいというメッセージをすでに聞いている方がおられるかもしれません。
神様のサインです。メッセージです。
祈っていなさいというすぐに実践必要ではないでしょうか。
ところが本当に祈りたい、祈らせないと普段そういうふうに感じて祈っている信徒さんにこういうふうに毎日祈りましょうと言われたら、
それがストレスに負担感に違和感になるんじゃなくて嬉しく感じられるとさせるのです。
先生、祈れるように導いてくださって本当にありがとうございますと答えるんですよ。
そう思いませんでしょうか。
感謝のことは、妙谷教会には教会やあるいはお家でよくよく祈っておられる兄弟姉妹方がおられて本当に感謝しております。
誰から言われる前に既に神様との深く交わったり、祈ったり、せいせいおんだりする方々がおられて本当に感謝しております。
そういう方々の普段の近郊生活をよく見ると一つの共通点があると思います。
それは本当に神様を愛すること、そしてよく従うことということだと。
33:00
でしょうか皆さん、愛すれば祈ります。
愛するから祈ります。
御言葉と祈りの時間がテレビよりも新聞や雑誌よりも遊びよりも趣味よりも
どうしてこの恵みを知らないんですかと言いたくなるほどそういう風になる我々でありたいです。
何十年経っても、もし深交生活を30年40年50年60年していても
一日にもし5分も祈れない、週に日曜日以外に聖書を書くことはほとんどないとしたら
私たちは神様を愛していると言えないと思うんです。
しかし神様を愛する人は言われるか言われないか関係なく愛するから
祈りの座に自分の身も心もそこに置くんです。
神の御言葉を支援第一編のように昼も夜も口ずさも、そして主の御言葉を何とするんですか?
喜びとするんです。
私たちは何を喜びとするんでしょうか?
遊びでしょうか?趣味生活でしょうか?祈りでしょうか?御言葉でしょうか?
テレビでしょうか?雑誌でしょうか?新聞でしょうか?あるいは健康のための散歩なんでしょうか?
それももちろん必要なんでしょう。でも先に祈り先に御言葉に
この統計平均という数値には落とし穴があるんです。そこに気をつけていらっしゃるんです。
例えば、これはもう一つの例えばです。
二つの教会があります。
A教会はだいたい平均的に1日神父さんがだいたい10分、5分も祈らない。
聖書もあんまり読まないという教会があるとしましょう。平均的ですよ。
Bの教会は本当によく祈る。
もう30分、40分のところか1時間、2時間も3時間も祈り。
聖書も1日何書も読むそういう教会、Bの教会があるとしましょう。
Aの教会にいる神父さんだとしたら、平均的にみんなあんまり祈らないんですよね。5分、聖書もあんまり読まない。
36:09
そしたらみんな横を見て、だいたいこれぐらいしか祈っていないし、聖書もこれぐらいしか読まないし、
そして私もあれくらいやってるから大丈夫だろうと安全に思うわけなんです。
それが平均という数値の危険性なんです。
しかしもしその人がBの教会に行ってみたら、あれ、自分は大丈夫じゃなかったんだと気付くようになるわけです。
だから平均的にレベルが低い教会では、レベルが低い神父のいる教会になりやすいんです。
見たり見て、だいたいこれでよかろうと安寿したがるんです。人間は不思議にそうなるんです。
しかし不思議にレベルが高くてゆっくり祈っているところに行ったら、自分もそういうふうに成長するんです。
私も恥ずかしい話をしますよ。
私、新学校卒業して、院長の母教会で伝道士をして、僕がなる前の高校生まで法治を3年間させていただきました。
もう自分なりに結構祈っているというものだと思っていました。
他にも結構祈る教会でしたから。
そこからイントンから2004年、富山の私の派遣教会の州の教会に行きました。
そしたら今までの自分の祈り生活、御言葉の生活は、福祉であるのに普通の神父のレベルよりものすごく低かったんです。
わかりますか、皆さん。
だから平均的でよかろうと思ったら、それは落とし穴なんですよ。
そこに落とされてはいかない。
お願いします。
イエス様の言葉を心に留めて刻んでいただけないでしょうか。
あなた方はそんなに1時間でも私といつも目を覚ましていることができなかった。
神様が愛しとられますか。
イエス様が愛しとられますでしょうか。
礼祭を終わりにしたいと思います。
神を愛する人は、身国のために、教会のために、兄弟姉妹のために、自分自身のために祈ります。
愛するからです。
愛が源であって源泉なんです。
愛すれば祈ります。
明日から大津で、あるいは蒼天に来られてチャレンジしてみていかがでしょうか。
39:06
神の御言葉を開いて蒼山府の恵みの泉をたくさん揉んでみようではないでしょうか。
皆さんに教会が低いレベルのああいう教会じゃなくて、もっと神の素晴らしい恵みの世界を豊かに挙げ合う教会でありたい。
覚えていてください。
神様は皆さん一人一人と御言葉、あるいは祈りを通して交わりたくて、神様は待っておられます。
お祈りします。
39:43

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