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2017-01-29 41:57

2017/01/29:信仰のベーシック(3)祈り

2017/01/29 聖日礼拝

尹善鎬牧師

マルコの福音書 -39, -52

00:01
皆さん、あらためておはようございます。
今日も礼拝にようこそいらっしゃいました。
それでは、メッセージの前に、隣の方たちの質問のように挨拶をしましょうか。
おはようございます。
ありがとうございます。
それでは一言、お祈りさせていただきます。
イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて、寂しいところへ出て行き、そこで祈っておられた。
私たちは、このイエス様にお会いするために、主の教会に、この礼拝に集わさせていただいております。
この朝、どうかしよ、お一人お一人の魂の中に、あなたご自身の御言葉、恵みを深く深く語ってくださいますように。
私たちは信仰を持って、アーメンしよ、従わせていただきますと応答できるこの時としてくださいますように。
そして、そのいただいた御言葉を実践できる、礼の力も主からいただけますように、主をどうぞお助けください。
神徒の兄弟姉妹たち、初めての方々、求別の方々、どうぞ、等しく、あふれんばかりの主の御恵みを注いでくださいますように。
イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
先週は、今年度の新年正解西本先生から、十字架におる清潔、それから主に合う備えをせよという、とても大事なメッセージを語っていただきました。
水曜日の基督会において、分かち合いをしていただきましたけれども、それぞれいただいた御言葉、あるいは決心した主のメッセージを、今年一年間、いや一生涯、それを実践して歩んでいきたいと願っております。
この前あるクリスタンの雑誌で読んだお話です。出発するところが大きいなと思ってお話したいと思います。
アメリカのロスアンジェルスのある教会であったお話です。ある土曜日の午後、僕先生はダニエル先生みたいです。
ダニエル先生に、普段、州法の印刷を任されているその印刷会社から電話がありました。
03:09
先生、送ってくださった内容の中で、州法の説教のタイトルが抜けていました。説教のタイトルを教えてください。
先生は、ああ、そうですか。すいません。タイトルは、州は私の知事会です。と答えたんですね。
そしたらその担当者が、いつも僕先生の説教のタイトルが長めのものだったから、もう一度確認したんですね。
州は私の知事会。それでいいですか。はい、州は私の知事会。はい、それだけで十分です。と答えました。
日曜日の朝、州法が届いてですね、その州法を確認した僕氏は驚きました。説教のタイトルはこうなっていました。
州は私の知事会。はい、それだけで十分です。
皆さんどうでしょう。でもですね、よく考えてみる。しかしその説教のタイトルを何度も繰り返し読んだ僕先生の目から涙が流れたそうです。
講壇に立っても僕氏の涙は止まらなかった。説教がなかなか始まらなかった。
その先生は、州は私の知事会。はい、それだけで十分です。
これ一つさえあれば全てが十分だというものがあるのではないでしょうか。
私たちはあまりにも多くのものに欲を出しているかもしれない。
それで心が奪われ、本当に必要なものを見落として歩んでいるかもしれません。
健康、お金、家庭、豊かさ、安定さ、名誉などなど、確かに必要な大事なものであるかもしれませんが、
いずれにしても、いつかは消えてしまうものであります。
永遠に逃してはならないものは必ず手に掴まなければならないでしょう。
州は私の知事会。はい、それだけで十分ではないでしょうか。
私たちは今、信仰のベースクシリーズのメッセージをいただいております。
礼拝、御言葉、祈りこそ、知事会なる主との大切な交わりそのものではないでしょうか。
信仰のベースクについて学んでおります。
第一は礼拝でした。礼と誠をもって主を礼拝しましょう。誠の礼拝者になりましょうというメッセージでした。
第二は聖書です。神の御言葉を学び、主にお会いしましょうということです。
06:05
今日はその第三で、祈りです。
私たちの信仰には標準があります。その標準は言うまでもなく、イエス・キリストです。
イエス様の見姿に倣って、そして従って、聖書を読んでいくことが信仰の道です。
ですから皆さん、イエス様のお祈り、そのイエス様の祈りのお仕方、
あるいはイエス様の経験な強い祈りの習慣こそ、私たちの祈りの標準ではないでしょうか。
今日は聖書の中の二人の人物から祈りについて学び、そして学んだことをこれから実践して歩んでいきたいと願っております。
第一はイエス様のことです。
今日の一章の三十五節の御言葉をもう一度一緒にお読みしましょうか。
マルコの福音書、一章三十五節です。
はい、さてイエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところへ出ていき、そこで祈っておられたため。
皆さんイエス様はとても忙しい日々を送っておられました。
行く所々には人々がですね、もう群がって近づいてきて、
イエス様お話をしてください、癒してください、悪霊を追い出してください、などなど押し寄せてくる波のようでした。
そんなとても忙しい日々の中でも、イエス様は最も大切にしておられた強い空間がありました。
それは祈りだったんですよね。
イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところへ出ていき、そこで祈っておられたとします。
この祈っておられたという言葉は言語的に見ますと、ずっと来ている、前から来ている習慣の意味がこの中に含まれているんですね。
イエス様はわかっておられました。
ご自分には神様とお出会いする祈りの時間こそ、絶対に欠かせない大切な時間なのだ。
自分のお働きの厳選、力なんだということをイエス様はわかっておられたでしょう。
もう一箇所、聖書を記載していただきたいと思いますが、ルカモフクリン教22章39・40節です。
09:11
新約の164ページです。
聖書をお持ちの方は開いていただきまして、ルカモフクリン教22章39節と40節。
よろしかったらご一緒にお読みしましょう。
それから、イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれ、弟子たちも従った。
いつもの場所に着いた時、イエスは彼らに、誘惑にお知らないように祈っていなさいと言われた。
この見方はまた後でももう一回開いていただきますので、印をつけていただいて。
皆さんここに見ますと、イエスは出て、いつものようにいつもの場所に着いて、何をしておられましたか?
祈っておられました。
このいつものようにと訳される言葉は、即訳しますと、習慣に従って、
習慣に、イエス様はいつものようにいつもの場所で祈る強い習慣をお持ちでした。
皆さん、私たちクリスタンの信仰の力はどこから来るのでしょうか?
御言葉に従って生きる力はどこから来るのでしょうか?
そのために奉仕できる力はどこから来るのでしょうか?
神様にお出会いする祈りの時間ではないでしょうか?
私たちがイエス様から学ぶことができる祈りは、
祈りによって生きる、祈りによって歩む、祈りによって働くということです。
今年はぜひこのような祈りの実践をしていこうではありませんか。
ところで、イエス様の祈りの見姿を見ますと、
祈りたい、とても熱い祈りの意欲がイエス様にはあるんだなと皆さんお別れになるでしょう。
一般的に昔から健康な人には食欲があるんですね。
でも病んでいる人は、すみません、こういう表現。
もうすぐ天に行かれる人には食欲がないんです。
体だけではないと思いますね。
心に悩みがあるときも食欲がなくなるんでしょう。
12:02
同じです。
信仰的にも健康なクリシャー、つまり霊的に健康なクリシャー、
神の恵みに満ち溢れている信者には、祈りが旺盛なんです。
何の祈りでしょう。
意欲なんでしょうか。
祈りの意欲が旺盛なんです。
熱いんです。あるいは強いんです。
祈りたい、祈りたいといったですね、この祈りの欲、意欲、しかも喜んで祈るその気持ちが。
18世紀アメリカインディアンへ選挙した、最初は神道伝道者で後からは牧師になられた、デイビット・ブレイナードという先生がいます。
この先生の日記がですね、残っているんですね。ちょっと紹介しましょう。
4月4日、聖日。夕方、神は祈りにおいて信仰を与え、魂を和らげ、天の麗しさを味わわせて下さった。
ああ、神よ、あたしを見そば近く登らせて下さい。
4月12日、月曜日。今朝、司書家に祈っている時、主は御顔の光をあたしの上に輝かせ、祈りの時をあたしの魂にとって貴重なひとときとして下さった。
4月18日、聖日。早朝、祈るために森に入り、地上にキリストの御国が拡張されるため節に訴えることができた。
知るには神と踏み打ち、祈りのうちに神の愛の力を感じた。とあります。たくさんありますけどね。
他にこの先生が書き残ったある文章にこういう文章があります。
祈らないということは、その人の何かの弱さや足りなさではなく、むしろ積極的な悪と言えるでしょう。
ところが、あたしたちは祈らないでいる自分自身の経験を通して、信者は自分の中に残っている恵みの大きさ分だけ祈りの意欲を感じるということが実は自らわかります。
というお話です。皆さん本当にそうだと思います。
あたしたちの内側に神の恵みが満ちていればいるほど、祈りの意欲は旺盛なんです。祈りたくなるんです。
しかし逆に、恵みが腫れていればいるほど、祈りの意欲はどんどんどんどんなくなるわけです。
15:01
ですから、あたしたちがイエス様のように祈りの人に成長していくために、祈りの人に生まれ変わるためには、神の恵みを常にいただくほかには、
もう一つ、さっき読んでいただきましたイエス様が祈りについて言われた大事なこの御言葉のルカの福音書の22章の40節を後半を見ていただきましょう。
ルカの福音書22章40節を開いていただきまして、40節1と2を見たいと思います。
いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、誘惑にお知らないように祈っていなさいと言われた。
ここにイエス様は弟子たちと一緒にオリブ山に登られたんですね。
そこでイエス様は、御自身だけわかっているのではなくて、弟子たちにも言いました。
誘惑にお知らないように祈っていなさいと。
皆さん、祈りこそ、誘惑に立ち向かって、誘惑を退けることができる神の手段です。
イエス様が弟子たちに、それから私たちに教えてくださった霊的な武器とは何でしょうか。
祈りではないでしょう。
誘惑、罪は私たちに責めてきます。
私たちを何とかして倒してしまおうとする。
そして隙を狙われているんですね、実は。
そのために何をするのか。
悪魔さんはですね、私たちの祈りを妨害しています。
妨げます。
祈れないようにさせます。
これを見抜いていたアメリカのピューリたちは、このような信仰を持っていました。
罪は祈りを殺し、祈りは罪を殺す。
ピューリたちはこの言葉をですね、信仰の名言のように手帳にあるいは家にですね、書いてあったそうです。
罪は祈りを殺し、祈りは罪を殺す。
罪と誘惑を持って私たちに責めてくるあのサタンの仕業はパターン。
そのパターンはですね、意外と簡単です。
私たちから祈りを奪うことです。
祈りを奪われたら、その人は悪魔に逮捕できなくなってしまうからです。
ですから皆さん、祈りこそ私たちの信仰勝利の手段なのです。
誘惑に落ちらないように祈っていなさいと言われたイエス様のお言葉を心に留めようではありませんか。
18:05
ところで、イエス様の見姿について申し上げますと、
私はもうイエス様のようにはできません。無理です。
ハードルが高すぎます。と思われた方がおられたかもしれません。
それで、複数の人物をもう一人紹介したいと思います。
バルセマイです。
彼は今日の授賞に書かれているように、猛人の物語でした。
ある日イエス様が歩いていかれることがわかると、
イエス様に向かって、ダビデの子イエスよ、私を憐れてくださいと呼びかけ、叫び続けました。
周りの人々がバルセマイ様を叱りつけて黙らせようとしました。
たぶん物語を聞いていた猛人のご辞儀ですから、人々から差別されていたことでした。
お前の出番じゃないんだと。
ところが、このバルセマイ様はそうされても、ますます激しく叫び続けました。
いかがでしょう、皆さん。
こうしたバルセマイ様の姿は、悩みを持つ私たちに、もう一度真剣になって、
イエス様に向かって訴え続けるように、イエス様に向かって祈りを捧げるように、励ましを与えている姿のように思うのではないでしょうか。
今日こうして出番に集いました。
目に見ることはできませんが、私たちがここに御臨在なさる神様に向かって賛美を捧げ、
聖祖の言葉と説教を通して私たちに語りかける神様に、心の耳を傾けるために集まってきたのです。
そして同時に、私たちの心の中にある願い、その願いよ、それも切実な願いをイエス様に向けて祈るために集まってきたわけですね。
確かに私たちの捧げる祈りが、すぐに変えられるかどうか、神様によって聞かれるかどうかは、実は私たちにはわからないわけなんです。
ただ、イエス様が教えてくださったように、私たちの側でできることがあるんですね。
それ何でしょうか。
熱心に求め続けること。
門を叩き続け、探し求め続けることなんですね。
21:04
そのようにして、私たちの願いをこのパルテマサイムのように、自分の願いを神様に知っていただくために訴え続ける。
それこそ祈りではないでしょうか。
ところが、このパルテマイさんのように、私たちが祈り続けていこうとする時に、場合によっては、そこに妨害や邪魔者みたいなものが入り込む時があるかなと思います。
このパルテマイさんが、イエス様に、イエス様私は哀れんだけど、癒してる人々から、お前はあっちへ行け、あっちへ行けと妨げられたように、何かの妨害物があるかもしれない。
例えば、周りの人々から、そんなに叫んで何になるんだ、という声が周囲から聞こえてくるかもしれない。
あるいは、教会に通って、また熱心に祈って、結局無駄なんじゃないか、とか。
あるいは、何も言わないでじっと見ている周囲の周りの、あるいは未信者の家族の心の中の声が、彼らの表情や態度を通して、私たちに語りかけてくるように感じてしまう時があるのではないでしょう。
そして、自分の心の中で、いつの間にか、これは困った時の神頼みではないか、とか。
自分の勝手な願いのために神様を利用していいんだろうか、といった声で聞かれてしまう時があるかもしれない。
ところが皆さん、聖書が教える信仰とは、いわゆる日本の一般社会で言われる、語理学信仰とは全く異なったものなんです。
ただ自分の質疑を叶えてもらうための信仰ではありません。
でも皆さん、ただ、私たちが決して忘れてはならないことがあります。
それはですね、弟子たちがある家様に、家様、パシワケもですね、家様のように祈りたいですよ、何とか祈りを教えてくださいませんか、とお願いしたんですね。
その時に家様が何を教えられましたか。祝の祈りをね、教えられた。
ところが、祝の祈りの中に、仕事の糧を今日も与えてくださいという祈りが、家様から教えられたんですよね。
つまりそれは、毎日の、ただのお米のもんだかんですね。
24:04
毎日の必要を祈るようにと、実は家様から教えられているということなんです。
カルテマイさんは、目が見えるようにという願いをすぐ祈りました。叫びました。
あっちへ行くとですね、邪魔されても求め続けましたよ。
彼は自分の中にですね、もう見えないからですね、その苦しみがあったわけですね。
だから、主よ憐れんでください、と叫び求め続けたんです。
多くの人々からですね、もう叱られて黙らせようとされましたけれども、でも彼は負けなかったんですね。
祈り、訴え続けていきました。すると、どうでしょう。
イエス様が、四十九節をね、十章の四十九節を見ますと、するとイエス様は立ち止まって、とあるんです。立ち止まって。これなんです。
イエス様は、ご自分の予定があるんですよ。その予定を変更してくださった。
そしてご自分の時間を、このバルテマイ、もう叫び求め続ける人のためにお仕えになり、そして他の人にあの男を呼んで来なさい、と言われたんですね。
そして、呼ばれてイエス様のそばに来た彼に向かって、イエス様は何と言われましたか、皆さん。五十一節をご覧ください。
そこでイエスは、さらにこう言われた。
あたしに何をしてほしいのか。あたしに何をしてほしいのか、と聞いてくださったんですね。
こういう意味です。あなたは何の願い事があるんですか。遠慮せず、隠すことをせずに、願い事を残らず話してごらんなさい、と励まし促す言葉をかけてくださったということであります。
そしたらですね、このバルテマイさんは、そのイエス様の眼差し、その励ましと愛の言葉に背中を押されるようにして、先生、目が見えるようになりたいです、と答えました。
この何と素直なんでしょうか。イエス様が何をしてほしいんですか。
と皆さん、この朝、神様が皆さんお一人お一人に語りかけておられるんです。
いいえ、イエス様いいです、結構です、と遠慮せずに、素直に目が見えるようになりたいです、と祈ればいいんじゃないでしょうか。
そしてその結果、イエス様は生きなさい、あなたの親子があなたを救った、と言って、彼は端々、見えるようになりました。
イエス様は、祈りに応えてくださる。
27:09
一冊ですね、整理して下さいましょうか。九百世書四編五十篇十五説。五十篇の十五説です。954ページです。
それでは十五説一緒にお見せしたいと思います。
苦難の日には私を呼び求めよ。私はあなたを助け出そう。あなたは私をあがめよ。
苦難の日には私を呼び求めよ。祈りなさい、呼び求めなさい。
私はあなたを助け出そう。
この御言葉は今見ているイエス様とバルテマイさんのこの場面と全く同じなんですよね。
ここにイエス様のお姿が現れているんじゃないでしょうか。
聖徒が示している私たちの神様は、悩みの時には自分のことを呼んでくれ。
私がいないかのようにして悩み続けるな。悩みの時には私を横の立とう願い求めておられるんです。
実は神様が呼び求めよと願っておられるんですよ。
悩みの日に、悩みの時に、あなたが本当に助けてもらいたいこと、してほしいことを私に向かって祈れと言ってくださるんですね。
あなたの心の中にあるその願いを祈りとして表現しなさい。遠慮しないでいい。あなたの願いを私に向かって祈りなさいと促しておられるんです。
どういう祈りがお祈りの課題があるでしょうか。
イエス様、ここに留まりたいです。イエス様、結婚したいです。イエス様、就職したいです。
イエス様、私の戦略が見たいです。イエス様、健康になりたいです。
こういった仕事ができて、あなたに栄光をお届けしたいです。
といった祈りをですね、素直に主に祈ればいいのではないでしょうか。
ところが皆さん、よく考えますと、なぜ神様は悩みの日に私を呼び求めるものに、イエス様が言われたように、何をしてほしいのか、とそのままに尋ねてくださるのでしょうか。
30:14
よく考えると、祈る側の私たちの方に、その祈りを神様に聞いていただくその資格は実はありませんし、神様の場も必ず祈りに聞かなきゃならない義務も実はないんです。
それなのに、なぜ神様は悩みの日に私を呼べ、何をしてほしいのかとわざわざ聞いてくださるのでしょうか。
政治は与える答えはただ一つだと思います。それは、神様が憐れみ深い愛のお方だから、ということだけです。
神様は私たちを愛してくださっている。
私たちの一人号を十字架にかけてくださるほどに、私たちを大切なものと受け止めてくださっている。
それ以外に答えが見つからないのです。
ところがですね、もう一つ深めていきましょう。
なぜ祈りに答えてくださるんだろうか。
今日のマルコの実況に戻りまして、なぜ答えてくださるんだろうかということであります。
このバルテマイという人は道端にいた人でした。
マルコ実況46節を見ますと、
手前の子バルテマイという盲人の物語が道端に座っていたとあります。
いわゆる皆さん、社会が彼に与えていた居場所は、人が歩く道ではなくその端っこなんですね。
それで彼がイエス様を見つけ、道端から走り上がって、「主を憐れんでください。」と叫びながら道に立った途端、人々からまた道端に引きずり戻されそうでしたね。
でもイエス様は違いました。
社会が落ち着けているその道端から彼を道のど真ん中に招いてくださったわけなんです。
このように皆さん、我々人間の願いが神様の願いと一つになった時、
このバルテマイに起きたことのように、その生き方に、その人生に大きな変化が起こるということであります。
そして本当に人間なき人生が始まる、新しい人生が始まるということを、このバルテマイの記事はあささきに教えているんです。
33:05
盲目の彼が見えるようになったこと、それ自体大変な素晴らしいことなんですが、ところがその後が大事です。
見えるようになったこの目で、彼が皆さん何を見たのでしょうか。
何を見たのでしょうか。
マルコの十章の52節。
するとイエスは彼に言われた。
さあ行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。
するとすぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれるところについていったとあります。
つまりこの人はその目で、癒されたその目で、応えられたその目でイエスさまを見たのです。
そして道を進まれるイエスさまをしっかりと見て、そのお方から離れることなくそのお方に従っていきました。
たぶんですね、このバルテマイさんはずっとイエスさまに従っていったのではないでしょうか。
これこそ皆さん、主が、イエスさまが、神さまが私たちの祈りに応えてくださる目的ではないでしょうか。
例えば、祈りが構えられて良い会社に就職できた、希望の学校に受かった、昇進できた、良い家に引っ越しできた、素敵な人と結婚できたなどなど、確かに良いことかもしれませんが、
果たしてそれ自体が私たちクリスタル人生の究極的なゴールなんでしょうか。祈りのゴールなんでしょうか。
今日の盲目のこの人に起きたことのように、主が私たちの願い、祈りに応えてくださる理由があるんです。
それは、私たちの目が見えるようになって主を見ること、そして主に従っていくこと、そこにあるんです。これこそ、実は祈りのゴールなんです。
それなしですね、一般の人と何の変わりがないでしょう。こうしてほしい、ああしてほしい、それでああ良かった、嬉しい、それで終わったらですね、目が見えるようになって主を見ること、そしてなおなおますます主に従っていくこと、そこに祈りのゴールがある。
最後に祈りの力という一人のお明かしを紹介したいと思います。たまたまですね、私はパソコンに教会のホームページとか、
36:06
説教とかそういうページをぶくまくってですね、よく見ているんですけどね、いい証がないのかなとですね、検索していた頃、なんと先週の石本先生の柏教会の昔のある親徒さんがね、他の何かのチラシみたいな、そこにですね、載せた証がありました。
ちょっとね、結構前の証みたいですけれども、インパクトがありましたので紹介したいと思います。私が柏教会に始めてきたのは、もう30年ほども昔のことになりました。
しかし、本当はさらにその10年ほど前から、教会の玄関先までは来ていました。と言いますのは、家内が次男の病気を通して、近所で開かれていた家庭集会に導かれ、子供たちと共に教会へ集うようになり、その送迎のために玄関先までは来ていたのです。
今日も何人かいらっしゃいましたね。当時、私は幼いころから、あさゆうことに仏壇や神棚に手を合わせる仏教信仰の盛んな北陸の田舎町で育ち、仏教も神道もキリスト教も根本は皆同じ神様や、という親父の言葉に発たる疑いを持つことなく、キリスト教も同じだろうと思っていました。
そんな私が玄関先から、街道へと足を一歩踏み入れることができたのは、主人が教会に勤いますように、救われますように、と毎朝繰り返し祈る家内の祈りに押されたからでした。
最初の頃は、祈りの声が聞こえてもあまり気にならなかったのですが、徐々に仕事や飲み会やらで、毎日遅いのにあさやぐからうるさいな、まだ眠たいのに変わらんな、と布団の中でぶつぶつ呟く毎日とありました。
家内の声は幼稚園の教師をしていたこともあり、地声が大きい上によく通るのです。本人は小さい声で神様たちに祈っているつもりなのでしょうが、別室からでも本当によく聞こえるのです。
実際のところは神様にはもちろんですが、私によく聞こえるように大きな声で祈っていたでしょう。家内の祈りと私の呟きとのこんぐらべのような毎日がもう一つ続きました。
朝ごとに繰り返される祈りに私の心もまだまだ、ただそのうちにへと変えられていき、私の足がいつしか教会の玄関先から街道の一番後ろの席へと押されてきました。
39:09
最初の頃は福祉の世紀の内容も十字架も罪も救いも神の愛ということについてよくわからないというのが実感でした。
ある教会のメッセージの中で二人の足跡の話をされました。
先ほど祈りにこれが来た人たちにびっくりしましたけれども、ある人がイエス様と歩いていて、二人の後ろには二つの足跡が続いていました。
ところがあるところからその足跡が一つになったというのです。
私の理解では一つになった足跡はイエス様のもの、消えた方は多分自分だろう、そしてそれは自分がイエス様から離れたためだろうと考えたのですが、
それは辛くて歩けなかった時、神様が私を背負って歩いておかれたからだと教えられ、目から鱗が落ちる思いでした。
こんな私でさえも神様を一方的に愛してくださるのです。
決して私が神様を選んだのではなかったのです。
あなた方が私を選んだのではない、私があなた方を選んだのである。
そしてあなた方を立てた。
ユハネ15の16節ですね。
これらのことを通して神様を信じたいという決心が与えられ、実に十年目に家内の祈りは聞かれました。
今日は20年生まれの私は、62年12月42歳で受鮮しました。
家内の毎朝の祈りに感謝するとともに、何よりも忍耐をもって待ち続けてくださった主イエス様の大きなご愛に感謝いたしました。
家内の毎朝の祈りの中から私が救われ、そして二人の子供たちが救われ、さらに孫一人が救われました。
主イエスを信じなさい。そうしたらあなたもあなたの家族も救われます。
1と16の3と1の三言葉は誠に真実です。これで終わっています。
皆さん、主の心にかなった祈りは応える。何をしてほしいのか、主は今日も私たちに語っておられる。
イエス様こそ私たちの祈りの標準であり得ます。
主イエス様、みならけですね。今年も熱心に、諦めずに、遠慮せずに信仰をもって祈っていこうではありませんか。
祈りの人に生まれ変わりましょう。お祈りします。
41:57

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