00:01
みなさん、おはようございます。
それでは、短くお祈りをしてから、メッセージに入らせていただきます。
一言、お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
今日も私たちを、あなたが御恵みをもって、御自身の前へと招いて下さり、
私たちには様々な重りがありますが、今、主の御前へと招かれ、
主の御前に静まっていることを覚え、心からありがとうございます。
神様、あなたは私たちへの限りない愛を示して下さいました。
イエス様、巫女があの十字架へと捧げられ、
私たちの罪のために流されたあの血潮によって、
私たちの罪がもはや完全に許され、許されただけではなくて、
あなたは復活の命、巫女がよみがえられた命を、私たちに与えて下さり、
永遠の命、永遠なる神と共に生き続ける命を与えて下さいました。
あなたは、あなたはもはや自分の足で立つのではなく、
私の恵みによって歩みなさいと、
私たちはあなたの恵みの世界へと招き入れて下さったことを感謝いたします。
神様、私たちの歩みは、なお父たるもので、
様々な重りが人生のうちに絡みついてきますけれども、
主が礼拝へと招き、命の言葉によって養おうとして下さっています。
どうか御言葉を開き、私たちがそれによって養われ、
ここから立ち上がることができますように、
ここから使わされてこの世界で生きていくための勇気を、
あなたが私たちに与えて下さいますように。
そしてまた、礼拝を通し、私たちが兄弟姉妹と共につながることができるように、
あなたが祝し導いて下さい。お願いいたします。
語る者の唇を清め、
どうかあなたの御用のために用いて下さいますように。
また、ここに集いたくても集えない多くの兄弟姉妹を、
主がこの時も覚えて下さり、
お一人一人を慰め、
死の御前へとまた招いて下さいますように、
お願いいたします。
これからの時を見てに上だねをします。
イエス様のお名前によってお祈りを致します。
アーメン。
私たちはジュナーシュそしてイースターを終えました。
そして今朝からは少し新しく
聖書の歌詞をまた読んでいきたいと願っているのですが、
しばらく私は皆さんとご一緒に
主の祈りについて学ばせていただきたいと願っております。
私はこの教会に使わされて今で3週間目でしょうかね。
その中で実感を持って感じていることは、
03:01
今までの人生にないぐらい主の祈りを祈っているなということです。
礼拝の中で私たちは祈りますし、また祈祷会は水曜日にも祈りますし、
私は早天祈祷会を火曜から金曜まで参加していますけれども、
その時も主の祈りを祈る。
それ以外にも自分で祈るとなると、
ほぼ毎日もしくは1日に何回も
主の祈りを祈っているということがあって、
これはありがたいことだなと思うんですけれども、
よく祈るなあということを思っています。
きっとここには長く信仰生活を続けてこられていて、
もう主の祈りは思い出すまでもありません。
先生も口で覚えていますという方々は、
おそらくたくさんいらっしゃるのではないかなと思うんです。
ただ一方で教会に来始めた方は不思議に思うと思うんですよ。
え、なんでこんなに教会は主の祈りを祈るんだろうか。
教会はなぜこんなに長く主の祈りを祈り続けてきているのだろうかということです。
その答えというわけではありませんが、
私は2つほど主の祈りを教会が祈り続ける理由があると思うんです。
そのことは、今朝はまたいの福音書を読んでいただきましたが、
ちょっと違う箇所を開いて、
ルカの福音書の主の祈りの箇所にちょっと関係があると思うんです。
ルカの福音書では11章の1節から4節というところに主の祈りが記されています。
またいでは参上の説教の中に主の祈りが置かれるんですが、
ルカではイエス様がお祈りをされているときに、
弟子たちがやってきてイエス様にこう聞くんですね。
1節にこう言っています。
主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、
私たちにも祈りを教えてくださいと弟子たちは言うんですね。
主よ、私たちに祈りを教えてください。
主の祈りというのは、
まず弟子たちがイエス様に祈りを教えてほしいということを言って、
それでイエス様が教えられたのが主の祈りです。
ですから、端的に私たちが主の祈りを祈る理由ということの、
まず一つ目それは、主が私たちに教えてくださっている祈りだからです。
主が私たちに教えてくださっている祈りだからです。
私たちは何を祈ってもいいんです、正直言って。
何を祈ってもいいんです。
嬉しいことも悲しいことも、
すべて、怒りですら神様に祈ってもいいんです。
ダビデの詩編を見てもそうですよね。
ダビデは人を呪っていますよ。
でもそれを神様の前に彼は祈っています。
私たちはそのぐらい、すべての願いを神に祈っていいんです。
06:04
ただし、同時に覚えなければならないのは、
私たちは主に祈りを教えられているものであるということです。
それは何を祈ってもよいのだけど、
私たちの祈りは徐々に主の祈りに習っていく、
主の祈りに近づくものであるということです。
これは何か文言が似てくるというよりも、
むしろこの主の祈りを祈られた主のお願いですね。
主の願いや主の心に私たちは習っていくということでしょう。
そういう意味で私たちは主の祈りに習い、近づくためにある主、
主の祈りを祈り続けるということがあるのでしょう。
ただし、もう一つ私は主の祈りを祈る理由があるなと思うのは、
もう一つの理由は、主の祈りの中に私たちが一体、
自分は何者なのかということを語っている言葉があるということです。
主の祈りを祈り続ける中で私たちは、
自分は一体何者なのかということを知る。
これはちょっと時代背景が関係するのですが、
弟子たちがイエス様に祈りを教えてくださいといったその時代というのは、
実はイエス様のように一人の指導者が立って、
その指導者の下に弟子たちが集まって、
弟子の集団を形成するわけですよね。
でも当時実は、イエス様の時代にそういうふうに
指導者が立って集団を形成しているグループというのは、
他にもいくつもありました。正直言っていくつもありました。
使徒の御所というところには、
テユダだとかガリレイのユダという名前が書かれていますが、
いくつもあるのです。
イエス様の近くでおそらく活動したグループは何かというと、
バプテスマのヨハネなんですよね。
当時の世界においては、実はそれぞれのグループごとに、
それぞれのお祈りがあったのです。
この人を師匠とする弟子はこの祈りを祈る。
ヨハネのグループはこの祈りを祈るという祈りがあったのです。
それはきっと大事なことなんですよね。
当時は文字を読める人がほとんどいませんでしたから、
きっと先生が弟子たちに口伝えるんですよ。
あなたたちは私の弟子になった時はこういうことを祈るんですよ、
と何度も祈りながら言葉を教えていく。
その弟子たちは覚えた祈りを繰り返す中で、
その先生がどのような世界に生きて、
どのような神様を神様として弟子となった私たちは、
どのようなものとなったのかということを知っていくんです。
イエス様の弟子たちも思ったんです。
ヨハネが弟子たちに教えているようにしよう。
09:01
私たちにも祈りを教えてください。
それはイエス様、私たちはどのように祈ればよいのでしょうか。
私たちはどのような世界に生きていて、
どのような神を神としており、
そしてそのような神に祈る私はどのようなものになったのでしょうか。
実はそのことを主の祈りを祈りながら、
彼らは覚えていたんですね。
きっとイエス様は主の祈りって一度聞いてパッと覚えれませんよね。
何度も何度も弟子たちに主の祈りを口伝えで教えたと思うのです。
そしてそのようにある種、口伝えで伝えられ続けてきたものが、
2000年以上たって、今私たちも暗唱して祈っているということなんですよね。
ですから主の祈りを祈るというのは、
イエス様を主とする私たちはどのようなものなのか、
それを知るということでもありますから、
主の祈りを今日からちょっとずつ学びながら、
私たち自身は、私たちは何者なのか。
主の弟子、主にあるもの、キリスト社。
それはちょっとひいて言うならば、
いや人間って何なのかということも含めて、
私たちはちょっと注目しつつ見てまいりたいと願っているのです。
さてここまで主の祈りを話しつつですね、
申し訳ないことに今朝はまだ主の祈りの本文に入りません。
すいません。
実は今朝読んでいただいたのは、
このマタイの6章の5節から8節というところを読んでいただきました。
実はこのマタイの福音書の中では、
イエス様は弟子たちにこのように祈りなさいと9節から
主の祈りを教えられるわけですけれども、
その前にイエス様はこのように祈るんだよと弟子たちに教える前に、
お祈りというのはこういうことじゃないんだよという注意を促すんですね。
お祈りというのはこういうことじゃないんだよ。
そのことをある種、イエス様は主の祈りの導入部分といいますかね、
そういうふうに置いておられる。
私もこれから主の祈りを読んでいきますので、
その導入部分を今朝ちょっとご紹介をさせていただければ、
そのようなことから聞こうと思っています。
先ほど読んでいただいたこの箇所は、
マタイの福音書の主の祈りの直前の箇所ですね。
マタイは主の祈りを参上の説教の中にまさに置いています。
参上の説教というのは何かといいますと、
簡単に言えば神様の国に生きる人たちの価値観ってこういうことだよということを
イエス様が延々と語っている箇所なんですね。
神の国に生きる価値観を持っている人はこういう人たちのことなんだよということを語っています。
12:06
その中に置かれている主の祈りもまた神の国といいますか、
神様の価値観というものを表しているとも言えます。
ただイエス様は二つこの祈りの前に注意を促しておられる。
ちょっと短い箇所なのでもう一回ちょっと読んでみますね。
5節から8節をちょっと短いのでもう一回読んでみます。
また祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。
彼らは人々に見えるように街道や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。
誠にあなた方に言います。
彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
あなたが祈るときは家の奥の自分の部屋に入りなさい。
そして戸を閉めて隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。
そうすれば隠れたところで見ておられるあなたの父があなたに報いてくださいます。
また祈るとき違法人のように同じ言葉をただ繰り返してはいけません。
彼らは言葉数が多いことで聞かれると思っているのです。
ですから彼らと同じようにしてはいけません。
あなた方の父はあなた方が求める前からあなた方に必要なものを知っておられるのです。
2つの注意書きは読んでいただいたらわかるかと思いますが
1つは偽善者のように祈ってはならないということです。
偽善者のように祈るな。
そしてもう1つは違法人のように祈ってはならないという
この2つが注意されているわけです。
順にちょっと見ていきたいと思うのですが
1つ目の偽善者のような祈りとは一体どのような祈りなのでしょうか。
語説にこのように書かれてありますけれども
彼らは人々に見えるように街道や大通りの角に立って祈るのが好きだからですと書いています。
当時実際にこのような人はいたそうです。
道端に立って先生でもないのだけれども
とにかく大きな声で祈りながら祈っている人たちは実際にいたそうです。
そういうことを願ってそういうことをやっていた。
なぜそんなことをするのかと言いますと
端的に言うとあの人は何と立派な人なんだろう
あの人は何と敬虔な人なんだろう
そのように誰かに認められるということを望んで行っている人たちがいたということですね。
誰かに認められたい
そのような思いを持って祈っている人たちがいた。
15:00
少しだけ私はこの偽善者と呼ばれる人々の姿は
どういう人たちなのかなとちょっと考えたいなと思うんです。
それは何か自分自身の中にもこういう姿ってあるなと思わされるからです。
確かに私自身も、いえ私に限らず私たちもそうですけれども
皆さんおそらく誰かに認められたいということはきっと思うんじゃないでしょうかね。
誰かに認めてほしい。
自分を認めてほしい。
こんなに頑張っている私を認めてほしい。
こんなに一生懸命に生きている私を認めてほしい。
これは実に人間にとってはとても大切なことだと思うんです。
でも時にそのような誰かに認めてほしいという思いが
ちょっと自分の心を閉めてしまうということがありますね。
それ以外のことが考えられずに
自分の行う行動がある種、誰かに認めてほしいがために
全部それをしてしまうということがおそらく私たちにはあるんじゃないかな。
私はあるんじゃないかなと思うんです。
そういう中で誰かが認めてくれたらいいんです。
誰かが認めてくれたらよいのです。
その時に一時的に嬉しいんですけれども
でも誰かが認めてくれる声というのは長続きしないわけですね。
もっと思うわけです。
もっと私は不十分だから、もっともっと認められるために
私は頑張らなければ、頑張らなければ。
あなたは不十分だからもっと頑張らなければならない。
認められるためにはあれもこれもしなければならない。
認められるためにあなたは道端で立派な祈りをしなければならない。
そういう思いからきっとこの人たちは祈っていたんじゃないかなと思う。
その思いに私は少し共感ができるんですね。
私にもそういうことってあるなと。
でもイエス様はこの祈りを注意をされます。
なぜならそのような祈りは
自分を認めてほしいという私が
自分を認めてくれる誰かに向かって
祈っている祈りだからですね。
それは言い方を変えるならば
人から人に祈りの言葉を発しているだけなんです。
イエス様はこう言われるんです。
そのような祈りはすでに自分の報いを受けていると
ご説にあります。
人に認められたい。
そのためにしていることはそれを願ってやっているわけですから
人からの評価というものは得られるのかもしれません。
その評価を受けて私たちは喜ぶのかもしれません。
でもそれは人から与えられるもので
一時的な報いであって
18:01
そのような祈りは最大の問題は何かと言いますと
人と人がそこにいるんですけれども
神様がいないということです。
人と人がそこにいるのだけれども
神様はそこにはいない。
人からの報いというのは一時的なものですから
また渇くわけですよね。
また言われたら
もっと次、もっと自分は認められるために
もっともっと頑張らなければならない。
誰かに認められたい。
私は常に不十分だと感じる。
そのような思いを
もしも私たちが抱いているならば
きっとそれは聖書的に言うならば
その原因はやはり人が
神様の愛をちょっと受け止めきれていないと言いますかね
誤解しているというか
ちょっと離れてという言い方が
不相応しいかどうかはありませんけれども
そういうふうな神様の愛をちょっと
受け止め損ねているということがあるのかもしれません。
神様は私たち一人一人を
尊い存在として作られました。
これは変わらないんです。
そして神様は私たち一人一人を
尊いものとして認めておられるんですね。
誰かに認められなければ
私はこういうふうに認められなければ
私が足りないと思うのは何かと言いますと
神様が私たちを尊い存在として認めているという事実を
どこかで拒絶しているかもしくは
忘れてしまっているというところが大きいと思うんです。
常に私は不十分だと感じるというのは
神様がすでにあなたを十分なものとして
見てくれているという眼差しを
私たちはどこかで忘れてしまっている
ということなんだと思うのです。
神様は目には見えないんですよ。
神様は目には見えないんです。
ですから私たちはいつしか
目に見えない神様よりも
目に見える人に認めてほしいという方向に
私たちの思いは傾きがちなのかもしれません。
でもイエス様はそうじゃないんだよと言われたんです。
そうじゃない。
神があなたを認め
神があなたを見つめているのだから
あなたは神に祈らなければならないということを
イエス様は言われるわけです。
6節にそのようなことが言われております。
お読みしますとこういうことです。
あなたが祈るときは
家の奥の自分の部屋に入りなさい。
そして戸を閉めて
21:01
隠れたところにおられる
あなたの父に祈りなさい。
そうすれば隠れたところで見ておられる
あなたの父があなたに報いてください。
イエス様はここで
家の奥の自分の部屋の隠れた場所で
祈りなさいと呼ばれるんですね。
この言葉はとても興味深いなと思います。
それは言い換えるならば
とてもプライベートな場所なんですよ。
外の人は誰も入り込めない場所です。
他の誰も入れない場所
外では人に認められるために
とても頑張ってワーッとやるんですけれども
これは私の偏見かもしれませんが
そういう人ほどもしかしたら
家に帰ったら孤独なのかもしれません。
誰にもその心の中に
誰の言葉も入れさせずに
部屋の中に鍵を閉めて
じっと奥の方で隠れている。
そのところで
俺は孤独だ
私は誰にも分かってもらえない
というところで
閉じこもってしまうかもしれない。
でもイエス様は言われるんです。
そこに神はおられるんだよって言われるんです。
そしてそこに神はおられるんだから
あなたはその部屋の奥で閉じこもって
私は孤独だではなくて
そこにおられる神に
あなたは祈るんじゃないでしょうか。
誰も知らない
誰も入り込めない場所
きっとそれは私たちそれぞれにあるんです。
でも神様はそこにおられるんです。
そこで神様に語りかけるということを
外してしまうならば
実は私たちは
もしかしたら
人に対して祈るということに
終始しているのかもしれない。
神に祈りなさい。
隠れたところに
その最も深いところに
そこに
いやそこにも
神はおられる。
あなたの祈りを聞いておられる。
これは当然じゃ当然なんですよね。
なぜなら神様はあなたを認め
あなたを十分なものだと
認めておられるからです。
あなたの祈りを聞こうとして
待ち続けておられるお方だからです。
だから私たちは
どこに行っても
私の心の奥底の小さな祈りですら
神は聞いてくださっている。
実はそのことが大事なんですよね。
聖書はここで
あなたの父があなたに報いてくださいます
と言っています。
これは興味深いことに
語説にも同じ言葉が出ているんですよね。
彼らはすでに自分の報いを受けている。
人の報いと神の報いというのが
並べて書かれてあります。
24:00
いろんな違いがあるかもしれませんが
私はこう思うんです。
人が与える報いは消えます。
なぜなら人はいつまでも生きられないし
人はいつまでもそばにはいられないからです。
でも私たちは心の奥底で
隠れたところで神に祈り
神に聞いてもらう。
その中で神の報いを受ける。
神の報いは消えません。
なぜなら神様ご自身が永遠なるお方だからです。
永遠なる命というのは
永遠なる神に私たちが結ばれた命です。
神は共におられる。
神の報いは消えない。
隠れたところにある
あなたの小さな祈りすらも
神は聞いておられる。
偽善者の祈りをやめなさいと
イエス様は勧められました。
それは
言い換えたらこう言えるのだと思います。
誰かに認められるために
祈ることをやめなさい。
人に認められることに
渇き続けることをやめなさい。
そしてあなたは心の孤独の中で
神に祈らなければならない。
なぜなら
そこに神がおられるからです。
そこに神がおられるということを
認めなければならない。
一つ祈りで注意されることは
神に向かって祈りなさい。
先生、そんなのは当たり前のことじゃないですか
と思われるかもしれませんが
深いことだと思います。
神に向かって神に祈りなさい。
さて、もう一つ見たいのは
この
違法人のように祈るということをやめなさい
ということをイエス様が言われた。
ここにも注目をしていきたいと願っています。
さて、もう一つの注意点は
まさに七節ですね。
また、祈るとき
違法人のように
同じ言葉をただ繰り返してはいけません。
彼らは言葉数が多いことで
聞かれると思っているのですと
イエス様は言われます。
同じ言葉を繰り返すということを
注意されるわけですけれども
なにが問題なのでしょうか。
これはきっと
同じ言葉を繰り返すことで
祈りが聞かれると思っている
違法人たちが持っている
神感といいますか
神様像であったり
神様理解が問題になっているわけです。
どういうことでしょうか。
違法人はどのような神様を信じているのでしょうか。
先にここでは結論を言ってしまいます。
違法人はどのような神様を信じているかといいますと
祈りによって自分が支配できる神様を信じているのです。
27:01
祈りによって自分が支配できる神様を信じている。
こういう言い方ができるかもしれません。
同じ言葉を繰り返し祈り続ければ
神は必ず自分の願いを叶えてくれる。
しかしこれはちょっとだけ厳しい言い方をしますと
自分の願いを叶える手段としての神様を信じていると
もしかしたら言えてしまうのかも。
実はこの神様像について
もう少ししっかりと言ってくれている箇所が
旧約聖書にありますので
一緒に読んでみましょうか。
伊沢書の44章の9節からというところを
ちょっと開ける方は開いていただけたら嬉しいです。
伊沢書の44章です。
伊沢書の44章の9節からをちょっと
とびとび9節から11節と
14節から17節というところをちょっと読もうと思います。
お読みしますと
この伊沢書の44章の9節から11節
こういうことが書かれてあります。
お読みします。
偶像を作る者は皆虚しい。
彼らが慕う者は何の役にも立たない。
それら自身が彼らの証人だ。
見ることもできず知ることもできない。
彼らはただ恥を見るだけだ。
誰が神を作り偶像を置いたのか。
何の役にも立たない者を見よ。
その人の仲間たちは皆恥を見る。
それを採掘した者が人間に過ぎないからだ。
彼らは皆集まり立つがよい。
彼らはおののいて共に恥を見る。
ちょっと飛びまして14節からもお読みします。
杉の木を切り馬目菓子や菓子の木を選んで
林の木の中で自分たちのために育てる。
月景樹を植えると大雨がそれを成長させる。
それは人間のために焚き木になり、
人はその一部を取って壇を取り、
これを燃やしてパンを焼く。
また、これで神を作って拝み、
これを偶像に仕立ててこれに比例付す。
半分を火に燃やし、その半分の上で肉を食べ、
肉を炙って満腹する。
また温まって、温まった炎が見えるという、
その残りで神を作って自分の偶像とし、
比例付してそれを拝み、こう祈る。
私を救ってください、あなたは私の神だからと。
ちょっと難しい歌唱ですね。
でもここで、
30:01
伊沢は端的に偶像礼拝って何なのということを
見抜いて書いているような気がします。
ちょっと皮肉を込めて書いています。
それは何かと言いますと、
偶像礼拝というのは、神の支配の中にいる人間が
いつの間にか神様を支配してしまっている
という状況のことを言うんです。
偶像礼拝というのは、神の支配の中にいる人間が
いつの間にか神を支配できると、支配してしまうという
そういう状況のことを言うのです。
人が自分で育てた木を切り倒し、焚き木にして段を取って
残りの木で偶像を作って比例付すわけです。
私を救ってください、あなたは私の神だからと。
ある先生がこの歌手についてこのように言っています。
この歌手はまさにあたかもこういうことを言っているようだと。
私を救いなさい、私があなたを作ってあげたのだから。
その恩に報いなさい、さもないとあなたも焚き木にして
暖炉の火の中に焚べることになりますよ。
この祈り、この信仰の在り方というのは
ある種神様を脅している形に近い祈り方です。
人が神を支配する様子がここで現れているわけです。
この先生は、同じ先生ですけれどもこういうことも言っています。
ちょっと聞いていただければと思いますが
イエス様が違法人の祈りを真似するなと教えたのは
天地創造の神様を自分の願いを実現してくれる手段
すなわち偶像とみなすようになるからです。
そのような人にとって神はあくまで欲しいものを手に入れる手段であって
人格のある存在、喜び、泣き、笑い、悲しむ
人格的な存在ではないのですとそのように言っておられる。
ちょっとだけストレートな問いかけをしますが
私たちはこの違法人のように神様を見ていないかなと問われる気がいたします。
つまり同じ言葉を繰り返し祈り続ければ
神は必ず自分の願いを叶えてくれるというものです。
私たちは小さいころから日本エスに育った人間ですから
私たちは祈りの教団と言われますし
私が卒業した新学校は祈りの学校と呼ばれる学校です。
たくさん祈りますし
その分私自身も祈りについていろいろ考えてきましたけれども
これで私たちもまた熱心に祈り続ける群れだと私も思っています。
ただ誤解を恐れずに言うならば
33:02
ともすれば私たちもまた神様を脅すというところまではいかないのですが
祈りはすべて祈ったとおりに叶えられる。
そして叶えられなければ
それは私の信仰が、私の熱心さが、私の祈りが足りなかったからだ。
そのように自分自身を見てしまうことがあるのではないでしょうか。
しかし私はそれでいいのかなとちょっと思うところがあります。
誤解がないように言いますけれども
主は祈りを聞かれるんです。
主は祈りを聞かれる。
どんな祈りも神様は聞いてくださいますし
そして何よりも大事なことは
祈りでによって神様はご自身の御心を変えられるお方なんです。
だからこれは祈り続ける必要があるんですよ。
熱心に私たちは祈り続けるんです。
ただもう一つ片隅に置かなければならないこと
それは最終的に祈りがどのように答えられるかというのは
神様の主見の中にあるということ。
違法人のように祈ることをイエス様は注意されました。
では、違法人のように祈ること
それが神様を支配する祈りと仮にするならば
私たちはそれじゃなくて
どのように祈るようにイエス様に招かれるのでしょうか?
それは神様を支配する祈りではなく
最終的に神の前に跪く祈りなのだと思うのです。
祈りが深まるというのは
祈ったことが神様によく聞かれ
私の祈ったことは叶えられるようになりました
ということではありません。
むしろ最も深い祈りというのは
ゲッセマネの園で祈られたイエス様のお祈りなんですよ
イエス様はこのように祈られました
父よ、御心ならこの杯を私から取り去ってください
しかし私の願いではなく御心がなりますように
御心がなりますように
祈り深いということは
実れば自分の祈りが聞かれる、叶えられると知っている人のことではありません
祈り深い人という人は
祈りが深まるほどに
最終的に神の前に神戸を垂れるんですよ
そう言えるのかもしれません
これは、この事実は結構つらいんですよね
自分の祈り通りの答えを
神様が与えてくれないこともあり得るということです
でもそうなった時に
私たちが求められるのはきっと
36:00
私の祈りが足りなかったんだ
私の熱心さが足りなかったんだ
そうやって自分を責めることではないんです
むしろ私の願い通りに
神様はなされなかったとするならば
でも、なされなかったこのところに
神様の祭典は置かれているんだ
神様の御計画は一体
どのように繋がっていくんだろうか
そのように私たちはある種
なおも神様に期待しながら
心を広げてと言いますかね
それを見つめていくということを
求められるのかもしれません
イエス様は父なる神様は
違法人のように
違法人が信じているような
神様ではないと言われるわけです
ではイエス様は父なる神様は
どういう神様だと言われたでしょうか
8節をご覧いただけますでしょうか
8節にイエス様はこのように言われました
ですから彼らと同じようにしてはいけません
あなた方の父は
あなた方が求める前から
あなた方に必要なものを
知っておられるからですと言われるんです
あなた方の父は
あなた方が求める前から
あなた方に必要なものを
知っておられるのですと
祈る前から
私たちの言葉になる前から
いや心に埋めている時から
すでに父なる神様は
私たちのことを
私たちの願いを
思いを知ってくださっていると
これは先ほどの
違法人の神様像と比較すると
明確に違うわけですよ
違法人の神様は
祈り続けなければ聞かない神様ですね
でもイエス様は
その神様じゃないと言われた
イエス様が言われたのは
祈りの言葉を聞く前に
必要を知っておられる神様なんだよと言われた
私たちは一体
どっちの神様を信じるのか
ということが問われるわけ
祈る私たちは
おそらく気づかなければというか
知る必要があることは
私たちの父なる神様は
私たちが思う以上に
私のことを知っておられる神である
ということなんです
神様が私のことを知っている
これはイエス様が最初に
言ったことではなくて
詩編の139編というところにも書かれてありますね
ちょっとだけいろいろ開いて申し訳ないんですが
詩編の139編というところも
ちょっと見てみたいと思いますが
詩編の139編
139編の1節から6節というところ
これもゆっくり読ませていただきますので
39:00
ちょっと目で追っていただければと思います
詩編の139編の1節から6節を読みます
主よ、あなたは私を探り知っておられます
あなたは私の座るのも立つのも知っておられ
遠くから私の思いを読み取られます
あなたは私が歩くのも伏すのも見守り
私の道のすべてを知り抜いておられます
言葉が私の下に昇る前に
なんと主よ、あなたはそのすべてを知っておられます
あなたは前から後ろから私を取り囲み
見てを私の上に置かれました
そのような知識は私にとってあまりにも不思議
あまりにも高くて及びもつきませんと
このように詩編は語っています
神様は私たちの小さい挙動すら
もしくは私たちの胸に昇る前から
知り尽くしておられる
それはあまりにも不思議だということを言っていますけれども
本当不思議ですよね
祈り続けることは大事ですよね
イエス様は詩編の139編にもそう書いていますし
イエス様はあなた方の髪の毛さえも
すべて数えられていると言っているわけです
誤解がないように言いますけれども
祈り続けることは大事なんです
何度もごめんなさいと言いますけれども
マタイの7章にも
求めなさいそうすれば与えられます
探しなさいそうすれば見出します
叩きなさいそうすれば開かれます
有名な言葉ですよね
あれはよく現在形の継続で書かれていますが
叩き続けなさい求め続けなさい
そう書かれている
だから私たちは祈り続けるんだ
確かにその通りなんです
ただあの箇所が大事なのは
その後の7章の9節から11節なんですね
ちょっとここも読ませていただきますと
叩きなさい求めなさいと言われた
それが8節までですけど
9節から11節にこう書いてあります
あなた方のうちの誰が
自分の子がパンを求めているのに
石を与えるでしょうか
魚を求めているのに
蛇を与えるでしょうか
このようにあなた方は悪いものであっても
自分の子供たちには
良いものを与えることを知っているのです
それならなおのこと
天におられるあなた方の父は
ご自分に求める者たちに
良いものを与えてくださらないことが
あるでしょうか
求める続ける叩き続ける大事なんです
でも大事なのは何かというと
そのような神に私たちを求めている
42:00
それは子供に対して
良いものを与えたいと願われる神様に
私たちは祈っている
決して子供が祈っているからといって
悪戯に蛇を与えたいと願う神ではないということ
求める前から私たちを知り
私たちに良いものしか与えようとしていない
父なる神
あなた方は違法人の信じる神ではなくて
このような神を信じているのだと
イエス様は言われるんです
ですからもう終わりますが
今朝のメッセージの結論はこういうことです
このような神様なのだから
あなたを認め
部屋の奥で祈る
あなたの小さな祈りですら聞き逃さない
神なのだから
あなたを知っており
あなたに良いものしか与えようとしていない
父なる神なのだから
祈りなさい
とことん安心して
信頼して
祈りなさい
どんな時でも
失望せずに
祈りなさい
私たちはどのくらい祈れるかというよりかはむしろ
このような神様だから
祈りたいなんですよ
祈りたい
安心して
祈りたい
結論が神様の手の中にある
祈った結果が神様の手の中にあるというのは
ある種不安ですし
納得がいかないということがよくあります
神は良い父親なのだから最善が与えられる
そう祈っていたとしても
その結果が自分にとって受け入れがたいものであるということもあります
この事実は重たいことなんです
でも
私たちはその中で
やっぱり徐々に心を広げながら
やっぱりそれを見つめるということをしていきたい
そう願わされているんです
受け入れがたいこともあるんです
祈りの結果
でも祈りが聞かれなければという祈りが
本当に聞かれないとき
これが祈りが聞かれなければ神様困りますという
祈りが聞かれなかったときに
私たちが神戸を垂れるというのは本当に勇気がいることです
ただ
それを共に祈りながら
励まし合っていかなければ
ならないような気がするんですね
怒りがあります
文句があります
神様に怒って文句言っていいんです
死を何故ですか分かりません
どうしてですか
でもそれが既に祈りになっているんですね
私たちは今朝
この八節の言葉を受け止めながら
終わりたいと思うのです
あなた方の父はあなた方が求める前から
あなた方に必要なものを知っておられるのです
45:02
この言葉深いなと思います
私はあなた方のことを知っている
あなたのことを知っている
ある種祈りにおいて答えられなかった祈りに
怒っているあなたを知っている
孤独の中でうめいていて
私を弾き出しているあなたのことを知っている
でもそのような私はあなたを知り
あなたの祈りを待っている
私たちはそのように招かれる
私たちはそのような神様の懐の広さの中で祈っているんです
そこに安心して祈っているのです
そのような中で私たちは祈り
また主の祈りを祈っていくわけです
次週から主の祈りをまた見ていきたいと思いますが
私たちの祈りが豊かなものとなっていくように願っております
一言お祈りをいたします