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2022-10-30 47:46

2022/10/30:私たちの義、パリサイ人の義

2022/10/30 聖日礼拝

黒津幸雄兄

マタイの福音書 -24


00:01
おはようございます。
マラソンのスタートラインに立つときはいつも緊張するんですけど、
今日はウォンマップができませんので、余計緊張しています。
ただしもうピストルが鳴りましたので、やらせていただきます。
昨日の当選祈祷会のときに、
エラカの中にね、マブネの中に一粒が入っていまして、
私の2曲も、これは火曜日頃選んだんですけども、
1曲、選んでた曲は、実は審査委員会がいなくて、賛美会しかなかったのでね、
ここも神の…を入れたかったんですけど、急遽マブネの中に入れました。
そしたら、昨日の総点祈祷会で、その中が、そのマブネの中にの記事が出てましたので、
すごいなと思って、神様が私の選択、それを指示してくださった、
変な自己満足をしていました。
今日のこの証と奨励ですけども、
これも神様が守ってくださるということを、固く信じてやらせていただきたいと思います。
二言葉に加わります。
人々があなた方を捉えて引き渡すとき、
何を話そうかと前もって心配するのはやめなさい。
ただその時、あなた方に与えられることを話しなさい。
話すのはあなた方ではなく、聖霊です。
主よ、この小さなものを立ててくださったことを感謝申し上げます。
私の言葉ではなく、私の話ではなく、
主よ、あなたが聖霊様を通して、あなたの御言葉、あなたのストーリーを語ってくださいますように、よろしくお願い申し上げます。
小さな聖霊を隠して、主よ、あなたがこの街道いっぱいに道を歩いてくださいますように、
どうぞ、聖霊を助けて、この聖霊、証、任務を全うできるよう、
どうぞ、あげましてください。
水、持ちきってくださいますように。
一言、イエス様の恩によって感謝し、期待して、お祈りいたします。
今日の聖霊と証、三分立てになっています。
前半は半分くらいになるんですけれども、ニューライフキリスト教会、豊田信行先生が、
2022年の9月11日の礼拝で語られたメッセージを、ようやくして皆さんの方に紹介したいと思います。
あれ、日本イエスの先生じゃないぞと思われるかもしれませんけれども、
9月に清戸以来で、夫婦のカムセリンコースをやって、やろうとされていた先生。
または、大洲先生の川を挟んで向かいに住んでいる先生で、大洲先生の仲間でもあるという、
03:03
そのような形の先生で、私は月曜、水曜、金曜、夜は、私が家にいるときはね、
先生と一緒に家庭礼拝をしているんですけれども、その時に、
インターネットをつないで、いつも聞いていて、これはすごいなと思って、教えも全然日本イエスと存じていない、
素晴らしいメッセージをされますので、皆さんに今日、それをご紹介したいというふうに思っています。
実は水上さんからバトンタッチ急遽、依頼を受けた次の日の日曜日の礼拝メッセージで、
これも神様の巡り合わせかなというふうに思っています。
前置きが長くなりましたので、始めさせていただきます。
題はついていなかったんですけれども、
マタイ五章二十節から二十四節、私が要約して、私たちの義、大祭仏の義という形で題名を付けさせていただきました。
では始めさせていただきます。
要約ですので、わかりづらいところもあるかもわかりません。
辛抱してお聞きいただければというふうに思います。
誰も神の前に意図されない。正しくあり得ない。
私たちが詳しいと思う動機や行いでは、神の期待には応えられない。
そしてルザーの話が出てきます。
ルザーは真面目な人でした。
自分の内面を見つめ、罪を悔い改め、そして修行院でいろいろと自分に修行を課して、
なんとか自分が罪から清められるように、そのようなことでいろいろと熱心に働いた方です。
しかし彼はいくら罪を悔い改めても変わらない自分を覚えることしかありませんでした。
そして彼は自分の罪深さに絶望したというふうに書かれています。
この辺りのことはローマ人の手紙三章の辺りによく書かれていますので、ご覧いただければというふうに思います。
主は立法を破棄するためではなく、成就するために来られた。
この立法というのはわかりづらい言葉なんですけども、
豊田先生は神の要求、神の期待というふうに置かれて話されています。
主は立法を破棄するためではなく、成就するために来られた。
これは私たちに代わって主が神様の期待に100%応えてくださったということを意味します。
これが私たちの作りである。
イエス様は私たちに義を下さいました。
キリストの義を、キリストの正しさを着せて下さいました。
06:00
本当の息子がお父さんから最上の衣を着せていただいたようです。
そして面白い例えがあるんですね。
イエス様が私たちが受け入れきテストに、これ全てイエス様が正解を記入してくださって、
私たちにそのテストに自分の名前だけ書きなさいと言ってくれたことに等しいんだというような、そのような面白い例えをして下さいました。
私的には、いや、そんな不摂していいのかと思ってしまうんですけれども、
それほどまでにイエス様がしてくださったことは、私たちの身近におけば画期的なことであるということが確かというふうに思います。
私たちは主の美、新しい人を着せられました。
これが救いであるというふうに先ほど言いました。
しかし私たちは新しい人、新しい衣を着せられていますけれども、その中には古いままの自分であるということは従順よく自覚できることです。
そしていつもこのギャップに苦しんでいます。
そしてその腕があって、それに葛藤を覚えています。
しかし聖書の中では、私たちはそのような古い内面を持っていても、内面は外側の着の衣、イエス様が着せくださった着物に似せられて変えていくということを約束していて下さいます。
これは一瞬変えられた人もいるらしいですけど、私の場合は全然違っていて、精霊の助けを得て少しずつ変えられていく。
衣にふさわしい生き方をゆっくりゆっくり身につけていくということが聖書に書かれています。
そして本文に入りまして、マタイ五章二十節。
あなた方の着が立法学者やパイサイビットの着に勝っていなければ天の御国に入ることはできない。
これそのまま受け取るとものすごく恐ろしい言葉なんですよね。
いや本当に私の着は大丈夫だろうか。天の御国に入れてもらえるんだろうか。
不安を思わず覚えてしまい、そして戸惑ってしまうのが現実ではないでしょうか。
しかしイエス様はおっしゃっています。
私たちの義はキリストの義、既に与えられている。
これから自分の行いによって獲得する。
何とか足りない部分の長寿命を合わせようと思って宿泊する必要はない。
これは私たちの義、キリストが与えてくださった義は、私たちの努力で勝ち取っていくものではない。
恐れることはないというふうに励ましていてくださいます。
09:04
なんとなれば、立法学者やパイサイ人の義、これは如何なるものか。
それは偽善でしかありません。
私たちの義、キリストの義は立法学者やパイサイ人の義に最初から勝っている。
負けるわけがない。遥かに勝っている。
それぐらい無敵であるということを語ってみてくださいます。
これは現実にはありえないことで、実際当時のユダヤ社会でそのようなことはなかったんだろうというふうに思います。
これはあることを言わんがために誇張した表現であります。
もうての十回六話面に殺してはならないという戒めがあります。
これに対応するものとして、キリストの義では怒ってはならないということが挙げられています。
兄弟に対して怒ってはならないというふうにイエス様はおっしゃいました。
じゃあ怒ることは殺人と同じなのかというふうに思ってしまいますけれども、
これも先ほどの大げさに言っているのかと言って、ちょっと疑問符がつく表現になっています。
キリストの義はパイサイ人の義に勝っている。遥かに勝っている。
キリストの要求、キリストの期待はパイサイ人への要求、パイサイ人への期待の遥か上を行っている。
このことを言わんがための表現であるとポイラー先生はおっしゃっています。
マタイ五章二十三節に入ります。
ある人との諍いに気づいたならば、捧げ物を置き、まず謝るか和解しなさい。
それから捧げ物を捧げなさい。
めんどくさいなあというふうに思います。どうしてそんな手順になってしまうんだろう。
捧げ終わってから謝ったの良いのではないかというふうに思ってしまいますよね。
ここの辺りのところから今日のメッセージの確信に入ってくるんですけれども、
神様を礼拝すること、そして私たちの日常生活、これを切り離してはならない。
パイサイ人や一方学者、よく偽善者ということで言われるんですけれども、
この辺りのところ、神は神、生活は生活、これをこの二つを切り離すことによって彼らは偽善を成した。
12:02
そのように言われています。
この二つ、神は神、生活は生活、この神と生活、この二つを切り離すことは偽善の大きな要因、恩賞であると主は言われています。
十回の七十万名に、安息日を聖なるものとせよ、という言葉があります。
聖というのは、御徒功門な引導みたく、全てを平伏させるような強い言葉なんですけれども、
そもそもの意味は、ある目的を持って、あるものをあるものから取り分けること。
そういうことが聖ということの言葉の意味であるというふうに私が述べたわけではないんですけれども、
豊田先生はそうおっしゃっています。
安息日を聖なるものとせよ。
ああ、安息日は神聖なんだ。
だったら、その他の六日は俗で十分な日なのかな、そういうふうに受け取ってしまいます。
当時の人たちはそのように受け取っていたそうです。
七日目は仕事をしてはならない。
このことからも誤解が生じました。
六日までは仕事をして、七日目は休みます。
では仕事も他の六日と同じように俗なるものなのかな。
神殿の仕事だけが聖なるもの。
聖職者だけが本当に清い人たち。
でも宗教改革はこれを否定しました。
七日目だけが聖ではない。
すべての日で主に仕える。
仕事は神様に仕えるためのもの。
そして宗教改革は仕事の価値を高め、倫理観を高めました。
すべての仕事は主に仕えること。
六日間も七日目も聖。
すべての人は聖職者。
これが宗教改革が述べ伝えたメッセージだと言っています。
イベラジンの礼拝は日常生活と介していました。
私たちが日曜日だけ清められて神の心の前に神戸へ行かれ、
六日間は、私なんかがそうですけどね、
会社の駐車場に車のドアをパパンとしてしまったら、
角が生えてきて牙が生えるような、そういうようなものだったということと
同じようなことをイベラジンの社会の人々は感じていたのかもしれません。
結論です。
神様を礼拝することと私たちの日常生活、これは重ねていかなければならない。
15:00
まず和解してから捧げなさいと教えました。
そこに神様と日常生活の出来事をオーバーラップさせていかなければならない。
また五章二十三節の意味はここにあるというふうに豊田先生は語っています。
私たちが人々と和解すること、その和解そのものが捧げ物である。
隣人との人間関係と神を礼拝すること、これは一つである。
これを引き離してはならない。
これこそがキリストの求め力、キリストの要求、キリストの鍛えである。
これが結論です。
これをあといくつか聖書の中から出を挙げて語っています。
私たちの生涯全てが神への捧げ物とならなければならない。
三百六十五日全ては神を礼拝する捧げ物。
私たちのサンデークリスチャンの生活と切り分けなければ悩まないということです。
神の祭壇はこの世の至る所にある。
神との出会いは日常生活の中に隠されている。
これが断言詞ですね。
そして礼拝という形になるのか、ちょっと言い方はまずいかもしれませんけれども、
孟瀬の燃える芝の話が出てきます。
孟瀬はエジプトを逃げ出し、そしてリデアンの地で羊飼いの生活をしていました。
孟瀬にとっていつもの道、いつもの羊飼いの通り道をあえて歩いていました。
そして伸びが発生して茨が燃えるなんて現象は、これ彼にとっては日常サランジの出来事だったんだろうと思います。
そしていつもの燃えては消える伸びの芝の光景を見ました。
どうせすぐ消えてしまうんだろうって進む話であるかもしれませんけれども、
孟瀬はどうしたのだろうと疑問を覚えました。
その何気ない光景に孟瀬は関心を示しました。
この関心が孟瀬からしめ、神の声を聞く機会を与えました。
明日時間が取れたらこの不思議な伸びの原因を探ってみよう、それでも良かったのかもしれません。
天なるところでしか神様には出れないとユダヤ人のように教えられていたとすれば、孟瀬はこの現象をスルーしていたかもしれません。
18:13
分岐道だったかもしれません。
もしそれと言って、そんな面倒なことはやめたと孟瀬が言っていたとしたら、あるいは、
エジプトの聡明と言われる孟瀬の一大事業がなかったかもしれません。
このことから、神様との出会いは日常生活の中に隠されている。
些細なことの中にも、大いなる期待を持って近づくとき、神様の声を聞くことができる。
いつもの私たちの歩く道、それが聖なる地であると神様が言われる、そういうようなことが起こるかもしれません。
私たちはどんなときに大細かな思い、意気込みを抱かされるでしょうか。
僧侶な礼拝堂で神様に礼拝を捧げるときでしょうか。
パイプオルガンがものすごく大細かな音色を奏でるときでしょうか。
豊田先生は、日常風景の通りに足りない中で、神様が私を見つめていてくださるとき、
なじげないいつもの光景の中に神様の姿を認めるとき、それが私たちにとって意気込みを覚えるときであるべきだ、また、そうであるとおっしゃっています。
日常生活のただ中におられる神様に目が開かれること、そして、そこにおられる神様に意気込みを感じること、
それは、礼拝をしている自分たちの仲間と仲直りするときにこそ、神様を見つめ、神様に見つめられるときであるのではないか。
引き返して仲直りしなければ、もうせないように私たちは神様と出会うときをスルーしてしまうかもわかります。
一生許してくれるはずのない人が許してくれる。そんなとき、神様と出会うことができます。神様の声を聞くことができます。
今日の聖書の歌詞には出てきませんけれども、
マタイによる福音書22章36から39節には、聖書の中の確信たるといえるような良い言葉が出てきます。
立法の中で大切な娘はどれですか。
21:03
そして、イエス様は答えました。
神である主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。
もうご存知だと思うんですけれども、この二つの今しめの成就、これに聖書、すなわち立法と預言者の教えの全体がかかっているとおっしゃいました。
神を愛することだけ、これだけでは立法と預言者の教えを支え切ることはできません。
神と隣人、この二つを愛することによって、聖書全体を支えることができます。
神を愛することと隣人を愛すること、これは一つである。
もしこの二つを切り離してしまえば、パリサイ人の意と変わらない偽善になってしまう。
皆さんよくご存知だと思うんですけれども、マザー・テレサが出てきます。
インドの市民くせ、病人の人たちを一生懸命看病して、古い言葉ですけれども、滅死奉公されている方なんですけれども、
彼女は聞かれたそうです。
なぜそんなに見知らぬ人に親切にできるのですか?
彼女は何と答えたでしょう。
貧しい人の中にイエス・キーズの姿が見えています。
そのイエス・キーズに疲れているのです。
先ほどの仲直りの話に戻りますけれども、
自分に悲願あるのに仲直りしないとすれば、
捧げ物をするとき、神の中にその人を見なければ、心責められて捧げ物はできなくなる。
神様を愛そうとするとき、神様の中に兄弟を見なければなりません。
兄弟を愛するとき、兄弟の中に神様を見なければなりません。
人間的な思いで、単なる憐憫や思い合いだけで兄弟を見るのではなく、
その人の中に神様の姿を見なければならない、というふうに仰る。
理屈ではないのですけれども、隣人って誰ですか?というような問いが精神の中に来てきます。
豊田先生流の解釈で、このように隣人ということについておっしゃっていました。
これも私の励みになる言葉だったのですけれども、
24:01
気が合う必要はないとおっしゃるのです。
好きになる必要もない。
その人と楽しい時間を過ごすことができなくてもいいとおっしゃっています。
価値観が違いますからね。
クリスチャン同士であっても、私たちはそのような価値観の違う人と友人になることはできません。
しかし、その人の中に神様を見てください。
その人の祝福を願ってください。
その人を通して神を見て、そしてその人を愛し、その人の祝福を祈ってください。
それだけいいとおっしゃっています。
私にとって好きになる必要はない。
友人になる必要はないと言われることは、ものすごく高いハードルだったのですけれども、
ああ、そうなんだ、その人の中に神様を見て、その人の中の神様を愛して、
結果的にその人を愛すればいいんだな、その人の祝福を祈っていけばいいんだな、
本当に歩みのあるメッセージを出た。
神様だけを見ていく、これは偽善にすぐじる。
これは先ほど言いました。
神を愛することと人々を愛すること、これを二つに違反さない。
これを完全に重ねることは無理です。
ただし、私たちの日常、一歩一歩歩む中で、少しずつ神を愛することと人々を愛することを重ねていく。
神様の中にその人の姿を見ていく。
神様が愛するものを愛するようにしていただく。
一歩一歩だったら、十回だったら、一回か二回はできるかなというふうに私自身は思います。
そうしていただければな、いけたらなというふうに願わされています。
好きにならなくても愛するようにしてください。
この祈りが何よりの神様への捧げ物、最高の礼拝だというふうに仰っています。
神を愛することと人々を愛すること、この二つを少しずつ重ねていくときに、キリストの愛とは何かがわかり、
キリストの義にふさわしい生活に私たちは少しずつ変えられていく。
願うは私たちの生涯そのものが神様への礼拝となりますように。
祭壇の捧げ物となりますように。
神が愛するように人々を愛することができるようになりますように。
27:02
そしてそれは私たちの捧げ物となりますように。
私たちの心を探ってください。
キリストの義にふさわしい生き方ができているか、どうか私たちの心を探ってください。
自力では変わりません。
精霊に心を開くとき、神様が私たちを変えてください。
新しい人の形に私たちの内面を変えてください。
日々の生活の中に神様が隠れておられます。
私たちの出会いを待っていてください。
私たちが些細なことに関心を持つとき、そこから神様への礼拝が始まります。
ちょっと立ちのる勇気、期待を持って神様に近づくとき、神様の私たちに近づいてください。
以上が戸田先生のメッセージです。
ここから私の短い証が二つあります。
一つ目はね、私が49の時にJTJで学んだときに一番最初に最も感動したことを書いてくださいと言われた課題に対して私が書き上げたもの。
救いの証に相当するんですけども。
前回蔡さんが反されましたので、私もそれを読ませていただきます。
ものすごく限られた時数の中で書いたので、言葉を圧縮して書いたので、わかりづらいのを少し緩めて書いたんですけども、聞き取っていただければというふうに思います。
私はいる神様の言葉が鳴り響いた。
1984年2月14日、金曜日の夜、大阪フェスティバルホール、ベトベンの公共曲第7番が演奏されたときのことだった。
神はおられるのか、おられないのか。
神様に求める私の問いかけはピークに達していた。
この2ヶ月間、キリストの道志という冊子を必死に読んでいた。
教会を離れて10年になるのに、札幌、富山、神戸へとこの一冊だけは質疑に持ち運んだ。
キリスト教は正しくて、教位も完全だということがわかった。
30:00
神様はきっとこのような形で、こんな私をも救ってくださるのだろう。
今度こそキリスト教が理解できた。
ただ一つ、神がおられるならば、という条件付きではなかった。
日本を捨ててアメリカへ、留学へと竹内さんは旅立っていった。
アメリカからクリスマスカードが届いた。
私は神様の導きだと確信しています。恐れも不安もありません。
親も兄弟もいない、天外孤独の竹内さんの人生にどれほどの困難があったことだろう。
そしてこれからあることだろう。
リストラに怯えるみじめな自分がいた。
今さら研究所を閉鎖するなんて。
生涯をかけて掴み取ってきた研究職を奪われようとしていた。
神戸まではるばるやってきたのに、この転職は無謀で間違いだったのだろうか。
竹内さんと自分、二人は何が違っていたのだろう。
左折したはずのキリスト教に私の知らない何かがあったのだろうか。
人を根本的に作り変えてしまう何かの力が。
神はいるのかいないのか。何度も何度も同じ問いを繰り返す。
神はいるのかいないのか。その思いはいつか変えられて。
神よ、どうかいてください。心の中にそんな願いが芽生え始めた。
神はおられるのか。おられないのか。
旭名隆が作る色帽に大阪フィルは大音響をホールに届かせた。
世界が鳴りどよめく。その刹那。
私はいる。と神様の声が頭の中に響いた。
どうだ、この音楽の美しさは。この音楽も私が作ったのだ。
33:03
頬に涙が伝わった。震えが体を突き抜けた。
時が止まった。主よ、感謝します。
あなたはおられる。確かにおられる。
私の戦いは終わりました。
六本の緑が神様の業を語り、教会の賛美が神様の愛を歌う。
クリスマスを心から祝う私がいます。主をおめでたい。
で、もう一つの証の方に移ります。
今から20年前の話になりますけども、
私は49歳、そしてそれから51歳までの3年間の話。
ジーザス・トゥ・ジャポン。ご存知ですよね。
JTJ選挙新学校。そこで私は学びました。
聴教派の団体で日本のリバイバルに備え、学びを提供するという趣旨で設立されました。
やがて日本にもリバイバルがやってくる。必ずやってくる。
日本の人口の10%が食い温め、教会に押しかけたとしたら、
既存の教会だけでは受け入れられない。家の教会が必要になる。
御言葉を取り付くことができる人材の規制が急務である。
証明や志願に関わらず、そのような趣旨でJTJ選挙新学校は設立されました。
私も仕事を抱えながらその新学校で学び、手前みそですけども、
それなり以上の水準で私は学びを終えることができました。
あくまでも知識とそれから技術の点においてですけどね。
しかし私には奉仕の機会が与えられませんでした。
神様の強さにこれを信じて始めるはずないんです。
天地人三つのベクトルが揃わなかったというふうに私は感じています。
36:03
天、これは神様のことなんですけども、神様は即決の採用とはおっしゃいませんでした。
神様には神様の深い計らいがあって、この地上の条件ですけども、
今は変わってきていますけども、
当時の教団にはそのような教団以外の新学校を卒業したものを受け入れる規則はありませんでした。
そして当時の神人牧師の教会の牧会方針にも、
そういうものを講座に立たせるというような方針はありませんでした。
この日本のキリスト教会においても、教具ニーズとのズレがあって、私の道は地においてすべて飛ばされていました。
一番大きいのは人、人の条件です。
私自身の訓練が未完成であった、これが最大の要因かなというふうに思っています。
これが5月に省令で明かしをしましたが、そこのところからかなり話してしまったので、そこはスキップさせていただきます。
言えることは、私の信仰生活には二つの弱点があった。
食い改めと祈りが欠けていたということ。
これは人の条件ですね。
食い改めがないものに講座に立たせたとしたら、どういうことが起こったか。
食い改めを知らないということは、ブレーキのない車も同然。
神様の引かれた霊を逸れてしまったら、元に戻ることはできません。
聞く耳がありませんから、自分を正当化します。
傲慢になります。高ぶります。
あろうことが、神様の栄光を横取りさえしかねません。
そして一番大きいのは、霊的成長は全く期待できないということ。
祈りに不足していたので、どういうことになるでしょうか。
神様に聞きません。
自分の力だけに頼ります。霊は枯渇していきますよね。
閉塞感に陥り、やがて自分の命そのものが枯渇してしまいます。
まとめれば、従順でない器がここにある。
39:00
そのような御法になっていたんだろうということで、今回のこの証を作り上げて築けられました。
例えなんですけれども、もし皆様が上司で部下にこんな人がいたとしたら、大事な仕事を任せるでしょうか。お聞きしたいと思います。
仕事はそこそこにします。しかし、傲慢で話を聞きません。
自分勝手に動き回ります。成長もしなければ報告はいつも遅れがちです。
周囲も指導も受け付けません。限界ばっかりです。
こんな人が皆さんの部下にいたらどうするでしょう。
どうします。
私が上司だったら、彼が態度を改めない限り、仕事は任せないということになります。
独なことではなく、保守的なことになります。
きっと神様もそのように判断されたのではないでしょう。
先ほど言いましたけれども、大部分は既に5月の奨励証で言いましたので、だいぶ破損してしまって、
ユン先生と判断先生との出会いのところから、バタ時計を動かせてみたいと思います。
お二人の先生との出会いで私は学びました。
祈りと悔やためということを再認識しました。
これによって信仰2.0にレベルアップした、バージョンアップしたということはお話ししました。
そして祈りと悔やため、これは何なのかということを再認識しました。
悔やため、これは自分を恥ずかしめることではない。
精霊は穢れた宮には住みません。
悔やためは精霊の満たしを受ける必須条件である。
これは本場先生の言葉です。
そして人間関係の和解を得るための、平和を得るための前提条件でもあります。
全知全能の神様の絶大なバックアップをいただくため、
自分自身の立ち位置に戻るためのミラクルだということができています。
祈りから学んだこと。
涙、叫び、祝福を掴み取ろうとする半田先生の芸的迫力。
42:02
これをこの半田先生の迫力が私を立ち直せてくださいました。
全ての全てであられる神様に私の全てとなっていただく唯一の道。
これが祈り。
自分が正しい道に立っているか、神様の御心から逸れていないか、
これを知る道しるべ、これが祈りであるということを教えられました。
悔やためと祈り。
人間を根本的に作り変えてしまう神の力、その原点がこの二つにあります。
そして私の生涯をかけたキリスト教探求の道の答えがこの二つに、
神様が私の人生の全ての全てとなってくださいました。
神様だけで十分。
何他の何者にもとらわれない、縛られない、背を追い込まない、
罪の縄目にも目を止めない、争いの種にも頓着しない、
神様が私の全てを満たしてください。
二十年前、自分の御言葉の奉仕で一人でも救われるのであれば、
小さな心の願いからJTJの学びを始めました。
そして神様に二十年をお祝いしますと約束しました。
そして今、その十九年が過ぎようとして、
私の予想とは全く違う展開となってしまいました。
しかし神様は一人の人を救ってくださった。
誰でしょう?他のあるこの私。
自分というかけがえのない一人を神様に救ってくださりました。
神様は確かに私の願いを叶えてくださいました。
ここでハレルヤということになろうかと思います。
あるイギリスの司祭の話を聞いたことがあります。
長年の開拓でたった一人の少年だけしか導けなかったと彼は嘆きました。
しかしその少年こそは後のディビングストーンであった。
これは皆さん聞かれたことがありますよね。
私の献身の約束にはまだ一年が残っています。
45:04
封印されていたはずの私のメッセージですけれども、
この明太に教会で二度も語られることになりました。
天地神の条件は揃ったのでしょうか?
そういう叫びをずっと実施し続けていたのですけれども、
今、人の準備が整いましたか?というふうに神様に語りかけたいと思います。
天の配慮はいかがですか?
地の条件は整いつつあるように思いますけれども、
主よ、私の時間は残されていません。
道端の人を見てごらん。私はその人の中にいる。
私と出会って残された生涯を共に生きてみないか。
喜びあり、悲しみあり、そして連動もあるかもしれない。
私はあなたを愛している。
私は世の末まであなたと共にいるのだから、
主の語りかけに耳を傾けたいというふうに思います。
終わりの祈りに応えて、
ユン先生、ハンナ先生の御教会、
セオンロ教会、ジョン・ピルドン先生が書いてくださった
教会は祈りで建てられる。
この本から祭りを引用したいというふうに思います。
落ち込み、座り込んでいるだろうか。
今からでも主にしがみついてほしい。
教会にしがみついてほしい。
未熟で弱いあなたを通して、
神は最も強い力を見せてくださるはずだ。
私たちを通して必ず勝利の歌を歌わせてくださるはずだ。
私たちは神様の教会であり、
教会は必ず勝利するのだから。
アメン。
47:46

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