1. 名谷教会
  2. 2015/09/13:聖日礼拝(旧音源)
2015-09-13 42:07

2015/09/13:聖日礼拝(旧音源)

2015/09/13 聖日礼拝(旧音源)




00:02
みなさん、おはようございます。よくいらっしゃいました、今日も。
それでは、一緒のみようにですね、礼制に入る前に隣の方と挨拶をしましょうか。
ありがとうございます。感謝します。
それでは一言お祈りします。神様、今日もこの世に来て、本当に良い閃光の中で、
主の父に討って贖われ、神のことされた我々が、一つの場所に一つの心を持って、
主を賛美し、礼拝してますことを覚え、心から感謝を致します。
どうか、主の定めのお恵みと、主のお言葉を我々に聞かせてください。
主の御言葉は命です。泉です。
私たちの内側に乾くことのない、永遠に溢れ流れる主のお言葉、主の真意、主の命を、
主から来る希望を、我々に主を満たしてください。
そして、それがまた私たちから溢れ流れて、我々の周りに植えている人々、悲しんでいる人々、
苦しんでいる人々が、また我々を討って希望を得て、主に出会い、
また彼らも生きる命を頂けるように、どうか主を祝福してください。
このものは隠して、主御自身だけが、主の栄光と御言葉だけが、主を現れますように。
イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン
今日は先週に続きまして、ヘルシー・クリーチャー・ライフ。
どうでしたか、皆さん。先週一週間、ヘルシーでしたか。
ある日、テレビの番組で見たものですけれども、自分では自分の部屋の中を掃除ができない、
片付けられない人がいるようなんですね。いわゆるゴミ箸で暮らしている人なんですけれども、
今日、心の大土地ですから、こういう状態です。
テレビの画面をさっさと見たものですけれども、こういう所で暮らしている人がいるんですね。
もちろん皆さん、誤解はしないでほしいんですけれども、
03:00
そういう人々を避難するつもりはありませんので、誤解はしないでください。
ところが、こういう人々は、自分が汚い所で住んでいることを知っているんです。
自分で掃除ができないわけなんですね。
あるいは、どうしたらいいのか、どう整理整頓したらいいのか、どう片付けたらいいのかはわからない。
できなくなっている。
それで多分、いわゆるゴミ箸で暮らしているのが、もう習っているかもしれない。
ところが皆さん、こういった場合はどうしたらいいんでしょうか。
自分では整理整頓、片付けができない、捨てられない、そういう自分があるんですね。
実際にどう言っていますか。
このような場合で、自分ではできないので、自分ではなく他の人、他の人が自分の部屋に来てもらって、
そして捨てるものは捨ててくれて、そして整理整頓してくれる。
何かケースを持って、ちゃんと片付けてくれれば、そう言ってもらう方法しかないんですよね。
いわゆる助け手、助け手が必要なんですよね。
そうすると、その人々はどう整理整頓したらいいのか、もう一目でわかってくるんですね。
そして捨てて整理整頓してくれる。そしたらどう変わったんですか。こんなふうに変わりました。
きれいになりましたね。きれいになりました。
自分ではきれいに整頓ができない人がいる。整理整頓ができない。
そういう人々のためには、その人ではなく、他の人が外から来て助けてもらうことが必要なんです。
そうやって大量的物を捨てる。片付ける。
そしたら、あのように全く別の部屋のように変わるんですね。
また違ったこういう場合もあると思います。
この前、3月に足利病院に入院していまして、血液検査をしました。
そしたら、いろいろたくさんの項目があるんですよね。通知が出る。
その中で修正希望の通知が若干高かったんですね。
それで食事の調節をしましょうという先生のわなしがあって、
06:00
その昼から食事が全然脂のないもの、全然塩とか調味料を入れてないもの、
煮物は全然出ないんですね。味が薄い。
そして全部蒸したもの、そういうものがずっと出ています。
なぜでしょうか。血液に希望がついているから、このままほったらかったら危険なんですよね。
どうしたらいいのでしょうか。希望をなくすこと、減らすことです。
塩分は避ける。油も避ける。
部屋が汚くなっているならば、ごみを捨てて整理・整頓をする。
血液に希望がついてならば、希望のあるものを、脂のある食べ物を食べない、捨て出すということなんですよね。
それでは皆さん、私たちの心はどうしたらいいのでしょうか。
最初に見せた部屋も、たぶん最初に作ったときにはとてもきれいな部屋だったでしょう。
埃もないぐらいですね。ところが人が住むにつれて、少しずつ汚くなってきたと思うんですね。
皆さん、私たち人間の心も実は同じなんです。
神様が、私たち人間、アダムとエヴァを最初に作られたとき、その心はどのようなものだったのでしょうか。
それは、神の清い心、きれいな心が、アダムとエヴァの最初の心だったんですね。
汚れもない、ほこりもない、まるで新品の部屋のように、ほこりもなくて、傷もなくて、へこみもなくて、ビカビカで敷かれていたことです。
しかし、人間の心がどう変わってきましたんでしょうか。
悪魔の誘惑に、つまり罪のその力のゆえに、本当に神様の心のようだった、汚れも汚れもない、
シミも傷もなかった、へこみもなかった、本当にきれいだった人間の心が、どんどんどんどんどん汚れてしまいます。
ところが皆さん、汚れた洋服とかは、洗濯機に入れて、アサクを入れて、ハイパーを入れて、フロラルのジュースを入れたら、真っ白にきれいになるでしょう。
09:10
ゴミだらけの部屋は、掃除をすればいいでしょう。
汚くなっている車は、ガソリン槽に入れて、きれいに洗えばきれいになるでしょう。
しかし、アサクの心はどうしたらいいんでしょうか。
もし汚れたら、掃除機かけることもできないんですね。
モップで拭くこともできない。
端物で履くこともできない。
心の中にアサクを入れることもできない。
どうしたらいいんですか。
みんな、私たちは、きれいな心、強い心が持ちたいんです。
今日も三言の三節に、ダビデは、後からまたお話が来ますけど、
彼はこう言いました。
ことに、私は自分の背向きの罪を知っています。
みんな知っているんです。
きれいな心、強い心のようになりたい。
汚れのままで済みたくない。
みんなわかっているんですね。
そう思っていない人は、一人もいないと思うんですよ。
今日、不思議と言いましょうか。たまたま、今日が私の目的でした。
子どもたちにこういう話をしました。
学校から帰ってきて、家にいて、例えばテレビばかり見ている、漫画ばかり見ている、
遊びばかりしている、そしてお父さんがお母さんのお手伝いを全然しない。
でも、自分はお手伝いも近いし、お世話も近い。
そうですよね、とある男の子から聞いたら、そうよ、私もわかっている。
近いんだけども、いないという自分が、自分の中にあることを、
一年生の男の子も知っているわけなんですね。
私も同じではないでしょうか。
神様が作られた最初の心のように、けがれもなく、へこみもなく、痛みも傷もない。
本当にきれいなきれいなきれいな心を持っている。
ところが皆さん、いかがでしょうか。
皆さんが決心した通りに、いつもいつもきれいに清く保つことができるのでしょうか。
ムカつくとき、全然怒らない。
自分を苦しめる人に対して、全然憎しみの心を持たない。
12:00
許したいときにすぐに許せる。
愛したいときにすぐに愛せる。
うまくできるんでしょうか。
まったくできないわけではないと思うんですけれども、
なかなかできないのがわかっているんだけれども、
なかなかできないのが私たち人間の心ではないでしょう。
自分自身を見てもそうだなと思わされるんですね。
愛しなければならないことを知っているにも愛せないときがある。
寛容であるべき、それわかっているんだけれども寛容できない自分がある。
親切でなければならないのに、親切にしていない自分がある。
それを知っているんですね。
心を納めること、清くきれいに保ち続けることは、なかなか難しいことなんですね。
ところが皆さん、このような悩みは、
今日の私だけが抱えているものではない。
古代の人々も同じでした。
今日のこの51篇4本の著者、ダビデも同じでした。
ダビデのお話は皆さんご存じですね。
今日の51篇の最初の頭のところに小さい障大と言うんですけれども、
どんなときにダビデがこの参加を作っていたかなと。
ダビデがこういう悪いことをしてしまいました。
彼はイスラエルの王でした。
とても強い権力を持っていました。
ところがその王の権力を乱れに振るってしまいましたね。
とても忠実な将軍ウリアという人がいました。
彼女の奥さんは多分とても美人だったようなんですね。
王ですから権力も持っているから乱れに振るって、
彼女の元に通ってしまいました。
ところが身を持ってしまいました。
これを隠すためにダビデは、
今、戦争の最中にいるウリア将軍をこの親父のところに呼び掛けて、
もう家で休みなさいと、自分の罪を隠すためでした。
ところが彼が、いや私は、私の部下たちが今戦いの出ているのに、
自分は家で休むわけにはいけませんと。
結局ダビデは戦いの最前線に彼を立たせて、死なせてしまいました。
15:05
その時に彼の周りにはナタンという漁言者がいました。
彼がダビデの王の元に来て、ダビデ王の罪を告げました。
ただダビデは、今日のこの伏編のように、神様の御前で何と求めて祈っているのでしょうか。
一言で簡単に言うならば、主よ、私の心をきれいにしてください。清くしてください。
と祈って求めているのがその伏編なんです。
一節から三節まで、一節二節を一緒に読みましょうか。
一節と二節を、ダビデ王の気持ちを想像しながら一緒に一節二節を読みたいと思います。
神よ、御恵みによって私に情けをかけ、あなたの豊かな憐れみによって、
どうか私の蕎麦を私から全く洗い去り、私の罪から私を清めてください。
ダビデの心がその心境をとてもリアルに書かれているんですね。
主よ、一節の三行目、神様、私のこの蕎麦の罪を拭い去ってください。
ある英語のセリフは、主よ拭ってくださいと語っている。
どうか私の蕎麦を私から全く洗い去ってください。私の罪から私を清めてください。
その一気の罪を犯している自分が自分の中にあることを主よ、私は知っています。
しかし時にはそれがどうしようもなくて、その罪の力に負けてしまう自分があります主よ。
だから私の罪から私を清めてくださいと、本当に切実な心を持って彼は祈っているんですね。
それから七節の言葉をご覧ください。七節。
こういう日本語の訳はここにありますね。
七節を持って私の罪を除いて清めてください。そうすれば私は清くなりましょう。私を洗ってください。
18:09
そうすれば私は雪よりも白くなりましょう。
この英語の教書にユリン・ピータスという先生が個人で個人訳したメッセージバイブというのがあるんですけど、
そこのメッセージバイブでこの七節をとても現代風にとてもわかりやすく訳しています。
それを私が翻訳してみました。英語はああいうのです。読みませんが、日本語を訳したらこういう意味です。
私をあなたの洗濯の中に浸してください。そしたら私は不明になって出てくるでしょう。
私をごしごし洗ってください。そしたら私の人生はスノーホワイト真っ白になるでしょうという言葉です。
皆さんそうなんです。どういう意味でしょうか。
神ではわかっている。自分では自分の心を、自分の霊を清くすることができない。ある程度ができるのだけども、根本的にはできない。
ある意味ですね、最後に述べました。自分では自分の部屋をきれいに掃除ができない人のようなものではないです。
神ではどうしているのでしょうか。自分で頑張っているのでしょうか。そうではない。
神様に助けてください。日を掃除してください。救ってください。救ってくださいと求めているんですね。
神様、私は自分の心をきれいにすることができない。洗うこともできません。掃除することもできません。
神様、あなただけが私の心を洗うことができます。洗い流すことができます。あなたの洗濯だけが私の心を、霊を洗って、スノーホワイトに真っ白の人生に作られます。
救ってくださいと求めているんですね。
続いて10節ご覧ください。一緒に見ましょうか。神よ、私に強い心を作り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。
これが今日のメッセージの結論です。どういう意味でしょうか。神様、私に強い心を作って私にくださいと。
自分では清めることができない。だから神様、私に神様が作られる強い心を作って私にくださいと。
21:08
そして、揺るがない霊を、主の霊を私のうちに新しくしてください。
神よ、私の霊は、私の心はこの世の罪のゆえに、穢れのゆえに汚れてしまいました。汚くなっています。へこんでいます。修復できません。
神よ、私は殺人猫じゃないんです。神様、あなただけが私を清めることができます。あなただけが私の霊を新しくすることができます。
それで、私は神様に求めています。ところが皆さん、私たちはどうでしょうか。私たちは時々、自分の霊を、心を新しくすることができると。
綺麗にすることができると思ったりしないでしょうか。でも、根本的にはできないのです。
ザビレは、私に圧迫しているのです。
時々、私はザビレのように自分の霊を、自分の心を汚してしまうことがあるかもしれません。
よくない思いを抱いてしまう。
道が開いていないものを見てしまう。
抱いてはいけない感情を抱き続けてしまうことがあるのではないでしょうか。
汚れた洋服は、洗濯機に入れて、綺麗になれれば、香りが出る。真っ白になるでしょう。
私の心と霊は、神の洗濯機、そこに浸して、すぐに洗い流していただかなければならないのです。
神様だけが、私たちの心も霊も思いも体も行いも言葉も、神様だけが清めることができる、綺麗にすることができるのです。
24:09
そうしたらどうしたらいいのでしょうか。
神の洗濯機に自分が浸してもらわなければならない。
神に近づくものが、神によって清められます。
皆さんいかがでしょうか。このごろ、神様に近づいていますか。
神様と親しく交わりを持っているでしょうか。
汚れた心を静に、静の洗濯機に、神様のランドリーに預けていますか。
皆さん神様は、私たちの心も体も人生もこの世も最初に作られた方ですから、作り口であられますから、
私たちの汚れた心も体も全人格も、神様だけが最初のもののように、元通りに新しくすることが、綺麗にすることができるのです。
私には限界があります。努力によっても限界はありません。
世にある良いものを見たり、読んだりしても限界はありません。
ダビデは、正解、答えを私たちに教えてくれているのです。
それは、神様だけが、私たちの人生を真っ白に、綺麗に新しくすることができる。
皆さん、神様に私たちの人生を、心を、考えを、行いを、全てを、清めていただきましょう。
新しく作っていただきましょう。その道しかありません。
私たちの心を作られた神様が、私たちの人生を作られた神様だけが、
汚れてしまった私たちの心を、最初のあの少女の時のように、新しく作ることが、綺麗にすることができる。
その方こそ、作り主の神様であります。
その神様は、さっきの十つの御言葉のように、
私たちの中に、清い霊を、清しく洗うことです。
27:07
神の霊、聖霊様は、聖霊ですから、清い霊なんですよね。
やられますから、私たちの内側に入ってくださって、汚れた汚れた心をですね、
洗剤のように、漂髪剤のように、綺麗に綺麗に洗い流して、洗い流して、
壊れたところを直して、凹んだところを修復して、
臭いところは、香り放つように、血は綺麗に綺麗に清めてください。
それが、聖霊様であります。
神様だけが、私たちの体を綺麗に洗い流すことができるんです。
強めは、神様から来るんです。
私はですね、小さい時に、今亡くなった父とか、
上に兄が二人いるから、たまに銭湯に行くんですね。
そしたら、洗ってもらう。
韓国ではですね、赤いタオル、お手持ちタオルですね。
昔はですね、あんまり店舗に行かないから、
特に冬はですね、月に一回ぐらいとか、家でおもちろん洗いますよ。
全然洗わないの?そういう顔で見てるんですけど、そんなことありました。
たまに銭湯に月に一回ぐらい行く。
そしたらですね、ゴシゴシとですね、洗ったらですね、この手から足からですね、まるで蕎麦麺みたいな赤髪が出てくる。
大人になっては、そんなことは滅多にないんですけれども。
ちょっとこういう考えをしてみました。
私の心も霊も、ゴシゴシとですね、洗って、1年365日、24時間、きれいにきれいになっていたら、どんなに嬉しいんだろうと、思うんですね。
みなさんもそう思っているでしょう。
これちょっと真実にできないんですけどね。娘が聞いたらちょっと不安いですけど。
二番目の娘が、この前、卒業アルバムを楽から持ってきたら、写真の後ろにそれぞれ自分の文が載っていました。
自分のことを変えりみる、そういうね、変えりみる、そういう文章でした。
30:00
で、娘が、自分がなかなかイライラしている。
無駄ついていて、お父さんやお母さんに話をちゃんと聞いていない。
自分が嫌だと。そう言ったんだけれども、それができない自分があって、それが嫌だと。
そう言ったくないと。そう書いてですね。
あの、ちょっとですね、読んでですね、ちょっと涙します。
みなさん、みんな、みなさんもあたしもそう思っているんです。
それを神様がご存知なんです。
それで、この愛の神様は、あたしたちが、その罪の中に戦っている。
必死に、もう強く生きたいと。
心を、決して口を、心を、思いを、聞かせたくないと。
そう、もがいてですね、戦って戦っているあたしたちを、今日は、作っておられ。
そして、今の様子だけ見てですね、即時でさばいてしまう神様ではなく、
今、戦っているその貞子の中から、将来に清められるあたしたち。
将来に神の形にどんどんどんどん成果出ているあたしたちを、
今日は、愛の眼差しで、今見ているんですね。
その神の心を知ること、それが信仰なんです。
愛するみなさん、
どうしたら、自分のものにすることができるんですよ。
この世の、罪のよいに、悪いことのよいに、穢れてしまった心を清めて、
悪のよいに穢れてしまった自分の霊を、その墓を、汚れを、傷を、きれいに洗い流してもらうこと。
自分の心の中に抱えている、抱いている、その汚れを、
神様様によって洗い流してもらうことではないでしょう。
ところが、もう一度申し上げますが、この洗い流すこと、洗い晒せることは、自分にはできないのです。
助け人が必要であり、助け人が必要なんですよね。
その方が、イエス・キリストであられます。
33:04
神なるイエス様は、私たちの強い心の増幅を知っておられ、
そして私たちの心の霊も、きれいに、きれいに、その罪の汚れを洗い流すことができる唯一のお方です。
その方が、イエス・キリストです。
だからそのイエス・キリストを、自分の人生の中に受け入れなければならない。
そして、イエス様に助けてもらわなければならない。
まるでですね、あのごめんやすいよ、
その罰金が入って、きれいに片付けてですね、もうすかすかきれいにしてもらったように、
我々の人生の汚れ、心の汚れ、そういったものを清めていただくためには、
洗い流して、洗い晒していただくためには、自分の人生からではなく、イエス・キリストをお迎えして、
日々お迎えして、そしてイエス様に洗い流していただかなければならないんですよ。
今日も四年の黙示録とか開きましょうか、四年の黙示録。
3の二十節、もう一度ですね、二十節を一緒に読みたいと思います。
三回、身を私はこの外にさして片付く。
誰でも私の声を聞いて扉を開けるなら、
私は彼のところに入って、彼と共に食事をし、彼も私と共に食事をする。アーメン。
皆さん、イエス様が私たちの人生の友の外に立って、ピンポンをしておられるんですね。
開けてください。私が入って、あなたの人生を、あなたの心をきれいにしてあげるから、
開けてくださいねと、マックしておられる。
私は自分では自分の礼を自分の人生をきれいにすることができません。
できると思っている人はその思いを早くしてなければならないんです。
イエス様を自分の人生にお迎えして、そしてまた毎日日々常にイエス様をお迎えして、
36:02
イエス様によって礼を新しく作っていただく。
清めていただく。洗い流していただく。
イエス様の指標は一番強力な洗剤、消薄剤なんですね。
きれいにきれいに、雪よりも白くしてください。それがイエス様の指標。
皆さん、神なるイエス様に、その愛に、さっきのメッセージバイブのように、
そのイエス様の洗濯の中に、我々自分自身の心、汚れた心、汚れた思いを、汚れた人生を、
どっぷりときかして、そして洗い流してもらいましょう。
私たちにはそれができないんです。決してできません。
だからイエス様は戸の外に立って、ピンポーンと叩いて叩いておられる。
開けてくださいね。私が入るから。
私はあなたの人生の、人生を掃除する達人なんだよ。
そういうふうに仰ってくださるイエス様に、人生の戸を開けてください。
イエス様は助けておいて。
私たちの心の人生の戸の外に立って、叩いて、泣くしておられる。
だからそのイエス様も開けてくださいね。
きれいに言ってあげるね。
そのイエス様のお声を聞いたならば、戸を開くようではありませんか。
その声を聞いてあげるのが、人生が新しくピカピカ光るような現世に変えられるんです。
私たちの心、礼、人生そのもの、イエス様だけがきれいに洗い流し、
罪を拭い去ってくださり、
そしてずっとそれを保つことができるように、維持できるように、
常に取り出して、常に清めて、常に助けてくださるでしょう。
掃除の達人を呼ぶならお金はかかるでしょう。呼ぶたびにお金はかかるかもしれません。
39:06
しかしイエス様を呼ぶのにはお金はかかります。
イエス様に入っていただきましょう。
常に罪を、汚れを、汚れを、きれいに洗い流していただきましょう。
凸凹んだところ、壊れたところをイエス様に修復していただきましょう。
そして私たちも知っていて、私たちも心の底から願っているように、
私を強い人生にしてください。新しい礼を作ってください。
二度と罪を犯すことがありませんように、
自分自身を自分で聞かせてしまうことがありませんように、
悩むことがありませんように、何か言われても、誰から何とかされても、
決して揺るがない私の礼を、心意識を与えてくださいと祈り求めようじゃありませんか。
実は戸の外で、パパのせいか。
助けたい、助けたいと願ってあげる。そしたら戸を助けていただければいいんじゃないでしょうか。
心の大掃除。皆さん、心の大掃除しているんでしょうか。
家の大掃除は、大晦日から年末に一度するかもしれません。
ある方は、急に一回通ってかけるかもしれません。
毎日来ている方もいらっしゃるでしょう。それはどうでもいいかもしれません。
しかし、心の大掃除は、自分にはできません。
散らかっている、汚れている、傷ついて、凹んで、凸凹になっている我々の人生は、
神様に預ける時に、その御霊様によって、全く新しいものによって生まれ変わるんです。
それが救いであって、これが信仰の歩みなんですね。
皆さん、家様をお受けしろではありませんか。
そして、家様を常にお受けしまして、我々の人生の平和を、人生を、心を、霊を、
全く新しくしてくださることができる家様に委ねて、
また、家様、御霊にしてくださいね。
そう言えばいいでしょう。
凸凹ちょっと凹んでいるから、これを直してくださいね。
頼めば、家様、はい、喜んで、喜んで、
イエス・フィリップだけが、我々の人生の唯一の希望者です。
42:05
お祈りします。
42:07

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