1. 名谷教会 podcast
  2. 2015/09/06:聖日礼拝(旧音源)
2015-09-06 36:54

2015/09/06:聖日礼拝(旧音源)

2015/09/06 聖日礼拝(旧音源)




00:01
みなさん、おはようございます。
今日も雨の中ですけれども、礼拝にようこそいらっしゃいました。
それではですね、メッセージに入る前に、生まれる方々と挨拶しましょうか。
よくいらっしゃいました。
では一言お祈りいたします。
神様、今日もここに集まっている我ら一人一人の上に、主の愛を秘めてください。
そして、神様がこの時代に、私たちに、この日本のリフレッシャーに何を求めておられるのか。
主の御心を知る、悟る、恵みと智慧をお与えください。
今日も上からの力を着せられて、主と共に歩める力を、また信仰を、また人格の主を、あなたがお伴いさせてくださいまして。
主をお抱えてください。しもべは聴いておきます。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、ありがとうございます。
先週の礼拝は、教区の高段交換。
高段は交換していないですね。牧師を交換しています。
どうでしたか、皆さん。佐藤先生がお見舞いになりましたけれども、たくさん恵まれたでしょうか。
私は静大福音教会に奉仕をさせていただきました。
また、礼拝の後に食事もともにしてですね。
このようにですね、教区の中で28ぐらいの教会がありますから、またお互いにそれぞれ教会の様子や様々な課題をそれぞれ持っているんですね。
その中で牧師だけですけれども、礼拝を交換して、その中でお互いに祈り合える、また支え合える、そういう恵みが与えられて、本当に良い企画だなと思いました。
不思議にもですね、静大福音教会に行きましたら、4年前頃、私が福岡におるときにですね、あのときは月に一回、
03:08
聖地礼拝のメッセージをさせていただきましたが、スランライの教会の神道さんの息子さんが福岡にいて、
そしてお母さんが福岡に来てですね、たまたま礼拝に出たら、私がメッセージをしていてですね、そのメッセージを聞いて、
その方の話ですよ、私から言うのは恥ずかしいですけど、とても恵まれて、
弥生先生がまた福岡の前に来て、とても楽しみにしていましたと、その話を励ましてですね、いただきました。
そして今、商店のメッセージをですね、ユーストリームで流していますけれども、
どなたか知りませんでしたけれども、いなくわかりました。弥生先生には本当に失礼ですけれども、
そこの教会の神道さんがですね、毎朝その当店を聞いて恵まれていて、
私は知らないんですけど、彼女に渡されているわけなんですよね、顔をですね、とても温かく迎えてくださって、
本当に励まされて、共にですね、恵みを分かち合えたこと、本当に感謝いたします。
また皆さんの背後の祈りにも心から感謝いたします。
さあですね、9月からは、人の働きのメッセージをしばらく休みにしまして、
今日からセルフィクリチャーナイフという題を持ってですね、共に恵みを受けしたいと思います。
ちょっと題が変わったタイトルですけれども、
皆さん、良い国家、あるいは良い信仰、あるいは健全な信仰とか健康な信仰という言葉を聞いたら、
皆さんはどういう様子を思い浮かべるでしょうか。
最近と言いましょうか、日本に来てから、特に神戸に来てからですね、
良い信仰とは何なのか。何が一体良い信仰であって、そして健全かつ健康な信仰なんだろうか。
こういった点につきまして、いろいろ考えたり黙想したり、あるいは本を読んだり学んだり、
あるいは先生方とかあるいは先生たちとですね、分かち合いながらいろいろ教えられています。
その恵みを共にですね、分かち合っていきたいと思います。
ところが不思議にもですね、何か悩みを持ってですね、こう考えて祈って黙想していたら、
不思議にですね、意外なところから、意外な人からメッセージのような煌めきのようなですね、
06:08
話が与えられるときがあるんですよね。
多分皆さんにもそういう経験があるかなと思いますけれども。
先日の金曜日に2月2日、教団のたしたきのビジョン2021の推進チームがありまして、
そこに私、出席させていただいておりますけれども、
その中にですね、メンバーの中に三陰教会の森先生がいらっしゃるんですね。
そしてその先生と会議の間にですね、いろいろ話をしているしね、
私は聞いたわけではないんですけれども、この健康な健全なキュリティなライフは何なのか。
それについてですね、とてもなるほどとですね、本当に煌めきのようないい話をしてくださいました。
それですね、そこでまた講談交換の話が出まして、そしたら森先生にですね、
先生、私と2人で講談交換しませんかと言いましたら、森先生がそうしましょうとですね、
いつかそれができるかわかりませんけれども。
今日はお互いにですね、私も皆さんも神様が喜ばれるシルシフリッシュなライフは何なのか。
それを一緒にですね、見事ばからお教えいただきたいと思います。
皆さん、普段ですね、皆さんの身体の健康のために気をつけていらっしゃるんですよね、皆さん。
ある方はインスタントは絶対に食べないとか。
サポや塩やあるいは調味料は使わないとか。
いろいろですね、皆さんそれぞれ何かですね、気をつけていらっしゃるかと思います。
それはいいことですよ。
ヘルシーな健康な身体を保つためでいいことだと思います。
ところが、私たちは健康そして健全なクリーチャー、あるいは良い信仰、あるいは信仰の良い神道という言葉を思うときに、
皆様何を先に思い浮かぶんでしょうか。
一概に言えないかもしれませんけれども、
だいたい熱心さ、あるいは熱さ、あるいは熱心に放出すること、あるいは一生懸命伝語付け、一生懸命祈ることとか、
そういったことをだいたい思い浮かぶのではないかなと思います。
09:03
あっています。それが間違いとかそういうのではありません。
あるいは熱心はいりませんよ、そういう話ではありませんよ。
皆さん、覚えていないでほしいんですけれども。
でも、余裕という子、ヘルシークリーチャーナイフは果たしてそれが全てなんでしょうか。
という疑問から一緒に考えていきたいと思います。
この話は聖書からヘルシークリーチャーナイフについて学べますし、また学ばなければならないと思います。
皆さん、福音書がありますよね。
マサイ、マルコ、ルカ、イワネの四つの福音書があります。
そこにはイエス様のお話がほとんどたくさんそこに書かれています。
その中で福音やササチが注目すべき見言葉は、
マサイの文章第5章から8章に書かれている、いわゆる三畳推訓という言葉です。
それはイエス様が、イエス様を信じるクリスチャンはどういうものなのか。
いわゆるクリスチャンの倫理や神性、あるいは人格といっていいでしょう。
それについて、実はイエス様が語っておられる。
つまり、クリスチャンはどういう存在なのか。
クリスチャンがやっぱりどういうものなのか。
それについてのイエス様のお答えは何でしょうか。
結論から申し上げますと、それはただの行いではなく、存在そのものについて、
存在そのものについて、実はイエス様が語られたということです。
つまり、何かの行いとか、あるいはその行いの結果とか、
あるいは成果をあげること、成功すること、
それを指してそれだけが良い信仰、良いスリチャンだとか、
そういうふうにはイエス様は語っておられないということです。
ちょっと聖書を開きましょうか。
大正福音書第5章、1節からです。
新約聖書の5章の1節から。
新約聖書6ページです。
全部は読みませんけれども、この1節からイエス様が、
12:01
その当時の文書に向かって、これが信仰である、
これがクリスチャンライフである、これが信者の生き方であると、
その当時までなかった、全く新しい倫理、新しい信仰の生き方を、
イエス様がお語りになりました。
それがいわゆる橋の福なんですね。
3節から始まります。
頭だけザーッと読んでいきますね。
心の優しいもの、悲しむもの、
仁和なもの、義に飢えて渇くもの、
憐れみ深いもの、心の清いもの、平和を救うもの、
義のために殺害されているもの、
について語られました。
皆さん、深く目指してみました。
これは徹底ですね、イエス様が。
我々に何かをやりなさい。
成果をあげなさい。成功しなさい。
その行いとか、行いの結果を強調して、
そしてそれを求めておられる御言葉ではないです。
実はクリシャンは、クリシャンのライフはこういうものだ。
クリシャンはこういう存在だと、
その存在についてフレーズで語っておられます。
つまりこれはクリシャンの人格といいますか、
クリシャンの人生について語っておられるメッセージではないでしょうか。
皆さん、聖像をたくさん読んでおられると思いますけれども、
イエス様の御言葉を見ましたら、
確かにイエス様はこれをしなさい、あれをしなさい、
こういう御言葉がないわけではないんですけれども、
しかし実は深く読んで、そしてあるいは比べて学んでいきますと、
何々をしなさいという御言葉よりは、
こういう存在でありなさい、こういうものになりなさいという存在そのものについて、
つまり人生や人格について多くの御言葉を語られたということなんです。
いわゆるあえて英語で言うならば、
doingじゃなくてbeingなんですね。
行いではなく存在そのもの。
ところが私もそのあたりの一人の牧師ですけれども、
私たちは大体今まで何をしなければならない、何をしましょう、
そういった行い、doingを強調してきたのではないかなと思います。
それを強調しすぎた結果、どういう失敗と言いましょうか、弊害とかが起きたんですか。
15:09
残念に思って悲しいことですけれども、
私、韓国の牧師として、韓国の日本に挟まれてはいませんけれども、
両方を知っているものとして、長い間韓国の漁業界は確かに大きなリバイバルをなってきました。
ところがその中に、この存在、doingについて教えられるより、
何かをしなければならない、成果を得なければならない、
成長、リバイバル、そのdoingを強調しすぎてきました。
恥も同じになりますけれども、
私たちが反面教師にするために、また裁く、そういう意味ではなく、
私たち日本が同じ失敗をしないために、そのつらいでしょうけれども、
その失敗の話を、向こうの話をちょっとさせていただきたいと思います。
成果や、あるいは成功、あるいはただのリバイバル、あるいは行いだけを追い求めてきた、
多くの結果として、確かに熱心や前導や、あるいは情熱、あるいは前導、成功はありました。
その結果、何千人、何万人が集まるメガチャーキンがたくさん当てられました。
それが本当に素晴らしいことです。
その身を稲むつもりはあります。認めます。素晴らしいことです。
ところが、最近10年、5年のうちに、本当に悲しいことですけれども、
韓国の教会が、韓国の社会で、まるで側方を向けられるような、
端を欠いている様々な事故事件が、実は教会に多く起きています。
応与の問題とか、信徒の間の国訴や国発の問題とか、
あるいは成果審査は蔓延している。
大寺教会の信徒や大寺教会の牧師は素晴らしい。
小さい教会の信徒や小さい教会の牧師はダメなもの。
そして牧師は、進学を果たしたくらいの学位を持っていないと、
どこかの教会に奨励されない学歴資金などなどが、実は蔓延しています。
そしてまた、進学の教えを無視したこの結果として、
神様から直接自分は刑事を受けているという人々が多くおきまして、
18:00
あらゆる異端がものすごく起きています。
去年、本当に呆れるほど馬鹿げた事が起きました。
あるアメリカ出身の女性のジェンドットと名乗る女の人が、
自分は神様から刑事を受けている。
そして12月5日、韓国に戦争が起きて、イエス様がサインにする。
だからそれを備えなければならないと。
そしてみんな戦争を起こるからアメリカに逃げました。
そして人々を募集しました。
結果はですね、おかしくもですね、多くの信徒さんがそこにも牧師たちも乗っかってですね、
実際にアメリカに逃げました。
そういう話がある時にですね、
政府にはそういう話が書かれていない。
しかし一部では、いや神様彼女に実際に語られるかもしれないんじゃないかと、
そういう風に思って乗っかってしまった人々が大勢いました。
成功主義、成果主義、あるいは単なる情熱主義が生んでしまった弊害だと思います。
ずいん行いばかり強調しすぎた失敗の結果であります。
私は、美人存在について、信仰と共に神聖、信仰と共に人格を共に成熟して、
整えていかなければならないんじゃないでしょうか。
イエス様は福音書を読みますと、こういうようにおっしゃいました。
熱心さんの身を結びなさいではなく、良い気になりなさい。
奉仕をたくさんしなさいではなく、私と共に歩みなさい。
熱心が信者になりなさいではなく、私の後にとどまりなさいと語られました。
ついてはですね、イエス様はこの世まで言われました。
弟子たちに向かってですね、あなたの熱心が私を食い尽くすまで言われました。
もちろん、だからこそですね、全部失くていいですよ、熱心は要りませんよ、とかそういう話ではありません。
何が先なのか、そういうメッセージなんです。
皆さん、ヘルシー・クリチャー・ライフとは、良い人格が裏付けられて、良い品性が裏付けられて、
信仰と品性、信仰と人格が共に成熟するクリチャー・ライフなんです。
それが世にクリチャーなんです。
21:00
今日の御言葉にちょっと戻りましょう。
ガラセア・リトヨの手紙、5章、22節、23節。
ここに、聖書の御言葉は、私たちにですね、見たまも見が何なのか。
見たまに満たされた人、いわゆるですね、精霊十万の人。
あるいは、もっとわかりやすく簡単に言うならば、良い品座、良い品句は何なのか。その身は何なのか。
それ何でしょうか。単なる熱心でしょうか。あるいは多くの奉仕でしょうか。
何かたくさんですね、その業績を積み上げることでしょうか。
それが悪いとかどういう意味ではありません。
22節、23節に語られている、見たまの身は何でしょうか。
一つずつ読んでいきましょうか。
皆さん、これは、行いでしょうか、存在そのものでしょうか。
存在なんです。
部員じゃなくて、部員なんです。
見たまの身は、行いというより、品性であって、人格を、それが見たまの身であると私たちに語っているのではないでしょうか。
どれを見ても皆さん、行いではなく、内面の品性ではないでしょうか。
内面の人格を指して、その存在に触れて語っているのではないでしょうか。
愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、入和、自省。
ですから皆さん、ヘルシー・クリティカル・ライフとは、単なる日清さだけではなく、良い品性、良い人格を整えることなんです。
いわゆる、バランスの良くとれたクリティカルになること。
バランスを良くとれることなんです。
品性と親子が、人格と親子が、この両方と言いましょうか。
これが、バランスの良くとれたクリティカルになることなんです。
例えば、皆さんの中には、そんなことは言われていないと思いますけれども、
日清はあるんだけれども、その品性がとても荒くて、言葉も荒くて、人になかなか配慮もない。
奉仕は熱心なんだけれども、とても傲慢である。
祈りは熱心だけれども、愛と自省がない。
24:02
それは、ヘルシーなクリティカル・ライフではないと思いますね、皆さん。
さっきの大絵の福井書を見ましたけれども、五章の十六節に、このように上様が言われました。
そこをもう一度開きましょうか。
大絵の福井書、五章、十六節です。
私がお読み出します。
十六節。
このように、あなた方の光を人々の前で輝かせ、人々があなた方の良い行いを見て、
天におられるあなた方の血を崇めるようにしなさい。
ユス様は、蜂の服について語られました。
そしてですね、ここで、あなた方の良い行いを見てとあります。
この良い行いというものは、単なる行い、随員というよりは、
この蜂の服、あるいはこの三女睡君で語られる、ユス様が語られる、
ツリシャンの倫理、神聖、人格を指している言葉なんです。
つまり、アカサツの良い神聖、アカサツの柔和な神聖、
愛の言葉、喜び、兄弟姉妹、家族、隣人に対する感謝の心、
自生する神聖、その人格を人々が見て、感動をして、
ああ、やっぱりクリスチャンは何かが違うんだと、その神聖と人格が違うんだと感動を受けて、
神様に栄光を返して、彼らがユス様を信じるようになるという、
もっと分かりやすくお話ししましょう。
皆さん、熱心なクリスチャンになります。
しかし同時に、良い品性を持つクリスチャンであっていただきたい。
良い品性を持つ夫、良い品性を持つ妻、良い品性を持つ両親になっていただきたい。
そのためには、神の恵みが必要です。
そうです。確かにそうです。
それから、私たち自らの決心と努力も実は必要なんです。
例えば皆さん、兄弟姉妹たち、あるいは家族の方々に祝福の言葉を話すため、
兄弟姉妹たち、家族を立ち上げるためのその言葉をすることも、
自分の努力も必要でしょう。決心も必要でしょう。
27:00
希望を与える言葉を話すことです。
小さなことでも、協賛をして感謝の言葉を忘れないこと。
そして逆に言いますと、傷つける言葉を話さないことに決心をする。
希望を奪い去る言葉を話さない。
裁きの言葉を話さない。
悪口を言わない。
謝るべき時には謝る。
実はこれらが良い品性であって、良い人格であって、
それが信仰とともに成熟しなければならない。
一つの一話を紹介したいと思います。
ポーランドである少年が音楽学校でピアノを習っていました。
ところが彼を教える先生は、お前は指が短くて細くてダメだなと。
他の楽器にするかやめたほうがいいよと言われたそうです。
その少年はひょんぼりと気をつけて何回もやめようと思いました。
その時に天使のような人がやってきました。
その少年があるレストランでピアノの演奏をしていました。
ところが演奏が終わって、自分は今日もたくさん失敗してしまった、泣いたと思った時に、
ある紳士の人々が少年に肩を軽く伝えて、
あなたは本当に天才的な才能を持っていると思う。
世界的な有名なピアノ人になれると思うよ。
その一言葉を彼にかけてくれました。
その夜から彼は毎日7時間以上ピアノの練習をしていました。
その少年が音楽界ではリストというピアノの有名な人がいるんですけれども、
彼の依頼に世界の最高のピアノピアニストと言われる、
名前は初耳かもしれませんけれども、パデレヴスキという人です。
彼はそもそもポーランドの第一の首相にもなった人物だそうです。
皆さん、このように励ましの言葉が人を変わらせ、潜在能力を200%引き出して立て上げる力が、
日中私もたくさんの励ましの言葉をいただいています。
30:00
私がたまに富山に行くときとか、あるいは西洋の都会の聖先生が日本においでになるときが時々あるんですよね。
この前6月にも、神戸にいらっしゃったときにも私を呼んでくださりまして、
個人的にちょっと話をしたことがありました。
富山に行くときも必ず忙しい中でも30分であろうが20分であろうが先生が呼んでくださりまして、
あるいは出国されるときに空港にお送りするんですよね。
そしたら必ず忘れないで、私とあてまわってコメントからさせるんです。
実は私が言うのは僕だからではないことを私は知っています。
多分聖先生から見られたら、私はもうダメな選挙主かもしれません。
素晴らしい選挙主が多くて素晴らしい牧師が市下に大勢いらっしゃる。
そんな中でもこの先生の目には私が足りなくて、私的近いところが100個、1000個あるかもしれません。
ところが聖先生はいつもですね、選挙して難しい日本でよく頑張っていい。
あなたは私が見て日本選挙にとても向いていると思う。
今からもっと協会が恵まれていい協会に守るよとか。
あなたは政治で良い信心を持っているから日本の協会に愛されているだろうとか。
よくよくさせましてくださるんですね。
私は個人的にいろいろ悩みを相談しますと、
しゃらくのではなく、また息子に対して語っているようにですね、私のプライドを立てながら優しく答えてくださるんですね。
そういう話を聞きますと、
私はもっと私のために命を懸けて選挙をしなければならない。
お答えしなければならない。
そういうふうに思わされるんですね。
聖書を一箇所開きたいと思います。
新元、旧約聖書です。旧約聖書、新元18章21節を開きたいと思います。
新元18章21節、旧約聖書、1081ページです。
それではご一章にお読みいきたいと思います。
新元18章21節、3回。
人生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。
33:04
わかりやすく申し上げたいと思います。
もし私たちが人を捌いて、品して、呟いているならば、それはその人を殺すことである。
そしてその死の実を自分が喰らうだけです。
逆に私たちが人を褒めて、励まして、圧やけて、慰めの言葉を言いますと、
それが人を生かす、そしてその命の実を自分が食べるという意味です。
皆さんはどれを選びたいでしょうか。
死の実を食べたいでしょうか。命の実を食べたいでしょうか。
それは私たちが自分のこの舌をどう使うかによるということである。
皆さんは今までどれほど多くの人々を立ち上げて生かしてこられたでしょうか。
あるいは、どれだけ多くの人々を毒を撒きつらしてこられたでしょうか。
皆さん、身様の身は良い品性でありましょう。身様の身は良い人格でありましょう。
イエス様もペペロを励まして、立ち上げてくださいました。
あのパウロを認めて、励まして、立ち上げてくださいました。
みっともないあのイエス様の弟子たちをイエス様は、褒めて、認めて、立ち上げてきた時に、
彼らは皆殉居するほど神の立派な人になりました。
どうか皆さん、兄弟姉妹たち、あるいは皆さんが関わっている周りの方々、隣人の方々、あるいは何より皆さんの家族の方々、
イエス様がそうしてくださったように励まして、認めて、褒めて、立ち上げて差し上げてください。
これがイエス様の良い神性であります。
そしてこれが信仰であって、これが御様の御であります。
皆さん、したくなくても励まして、称賛をして立ち上げて差し上げてください。
言い方と言い方ですと思っても、決心して努力して必要を励まして必要を差し上げて、そう差し上げてください。
36:00
それが良い神性であって、それが御様の御であります。
メッセージを終わりたいと思います。
イエス様は私たちに何々をしなさいというより、こういうものでありなさいと、
Doing、行いよりBeing、存在そのものをイエス様は触れて語られました。
秋になっていきますが、この秋に私たちの神性、そして人格に良い身が豊かに結ばれたらいいなと思います。
皆さん、ヘルシティ・クリスチャンライフは、良い神性、良い人格を持つクリスチャンです。
お祈り致します。
36:54

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