1. 名谷教会
  2. 2012/12/09:聖日礼拝(旧音源)
2012-12-09 43:56

2012/12/09:聖日礼拝(旧音源)

2012/12/09 聖日礼拝(旧音源)


00:01
聖書を朗読していただきます。
聖書の箇所は、フィリピビトへの手紙2章の1節から11節、新訳の384ページです。
信玉姫様よろしくお願いいたします。
こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、見たまの交わりがあり、愛情と哀れみがあるなら、
私の喜びが満たされるように、あなた方は一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
何事でも自己中心や教えからすることなく、ひりくだって互いに人を自分よりも優れたものと思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも変えりみなさい。
あなた方の間ではそのような心構えでいなさい。
それはキリストイエスのうちにも見られるものです。
キリストは神の見姿である方なのに、神の在り方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして使えるものの姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての性質を持って現れ、自分を癒しくし死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。
それゆえ神はこの方を高くあげて、すべての名に勝る名をお与えになりました。
それはイエスの皆によって天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
すべての口がイエス・キリストは主であると告白して、父なる神が褒めたたえられるためです。
以上。
聖火体に参両していただきます。
その後、神の見姿から人間の姿に対して、内田先生より本日のメッセージをいただきます。
03:18
聖火体に参両していただきます。
聖火体に参両していただきます。
聖火体に参両していただきます。
聖火体に参両していただきます。
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06:01
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09:01
聖火体に参両していただきます。
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聖火体に参両していただきます。
ただいまからのこの御言葉のひとときをも祝福してください。
御言葉が一人ひとりの心にとどまりますよう、
ゆだねて主キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。
お祈りにもありましたように、
昨日はCSのクリスマスか、
子どもたちと一緒にここでお祝いのとき、
また楽しい交わりのときを持たせていただきました。
子どもたちから元気をいただきました。
それは本当にイエス様が来てくださったからこそ、
そういう楽しいお祝いのときが持てますことを本当に覚えます。
その後、中高生の皆さんとお鍋をいただきました。
本当にお鍋はいいですね。
体も温まりますし、心も温まりますね。
ですから、もっともっとそういう機会が増えればいいのになと思いますね。
そしてそれが終わって、本当に一日恵まれて休ませていただきました。
今日の朝、ここに降りてきますと、お鍋の香りがしていました。
ですから少し窓を開けて、空気を入れ替えて、
今は皆さんの鼻つくろ、キリストの香りで満ちているという、
そんな気がいたします。
本当に幸いなひととき、まだまだこのアドベントのとき、またクリスマス礼拝、
いろんな集会、交わりが用意されています。
そのひとつひとつ、本当に心を込めてイエス様をお祝いし、
また礼拝を捧げていきたいと思います。
そしていろんな人に来ていただいて、
そして一緒にこの救い主をおめたたえ、礼拝していきたいと、そう願っております。
さて、このクリスマスとは何かということを、私たちはもう一度覚えるとともに、
それを世の皆様に伝えるという、その使命が与えられているわけですが、
イエス様がこの世に来てくださった、私たちの救いのために来てくださった、
それがクリスマスなんですけれども、
12:00
世にあってはこのイエス・キリスト抜きのクリスマス、
かつての私もそういうところにいたわけですが、
そのイエス様抜きのクリスマスで賑わっています。
神は実にその一人をお与えになったほどに、世を愛された、この世を愛された。
イエス様抜きのこの世、
この世も神様は愛しておられるということですね。
中にはイエス・キリストとは何ぞや、そんなものは信じないと言っている、
そういうこの世ですね。
この世を神様はこよなく愛して、そして今もともにいて取りなしの祈りをしてくださっています。
この世を愛するがゆえに、一人をさえも惜しまずに送ってくださった。
この世が救われるために、そして罪人をその罪から救うために、
サタンの支配から救うために来てくださった。
このことをもう一度このクリスマスのとき、特に覚えておきたいと思います。
さてその救い主、それでは救い主イエス・キリストとはどういうお方なのかということを、
この御言葉から見ていきたいと思うんですね。
先ほど読んでいただきましたピリピピトイの手紙の2章の語説、
それはキリストイエスのうちにも見られるものです。
こういうこと、こういうこと、こういうことがイエス・キリストのうちに見られます。
ということはイエス・キリストというお方はこういう御性質を持っておられるんですよ、
ということを私たちに教えてくれているわけです。
これは全てではありませんけれども、そのいくつかがこの中に見られるということを言うわけですね。
一節からずっと見ていきますと、一節励ましということがあります。
慰めがあります。
見たまの交わり、愛情と憐れみ、そして愛の心、そして自己中心でない虚栄からすることなく、
そしてへり下って互いに自分を、互いに人を自分より優れたものと思う、
そのようなことが次々と書かれている。
これらは全てイエス・キリストのうちに見られるものです。
ですから、あなた方の間ではそのような心構えでいなさいという勧めがなされている。
15:01
このアドベントのときに、もう一度イエス・サマを覚えてこの御言葉をいただくということは本当に幸いだな、そのように思います。
あなた方の間ではそのような心構えでいなさい。
それはイエス・キリストのうちにも見られるものです。
イエス・サマの持っておられる御性質を覚えて、
願わくは見たまによってまたそういう御性質を私たちのうちにもいただけたら、そういう願いと祈りを捧げたいと思うんですね。
励ましというのがありました。
人を励ますということ。
これは決しておべんちゃらではなくて、真心からその人を励ます。
そのことがここに勧めとして書かれてあるわけです。
私自身もイエス・サマに励まされて今ここに立てているんだろうな、そのように感謝するものであります。
しかし私は果たして人を励ましているだろうか、励ましてきただろうか、そんなことを思わされるわけですね。
励ますよりもむしろ人をへこませてしまう、そんなところがあるのではないか、そんなことを思うんですね。
人をへこませてしまうとやはりその人はやる気をなくしてしまいますし、それはお互いにとっての損失であるわけですね。
ですから励ますということ、そのことによってその人は立ち上がり、そしてまたやる気を起こして、そして良い働きをしてくれるということ、非常に大事なことだと思います。
もちろん人には得手とか不得手とかあります。
あるいは強みとか弱みとかそういうものがあるわけですが、
願わくは私たちはこの人の得手のぶところ、あるいは強いところ、あるいは賜物という、そういうところを伸ばしてあげる、そういう励ましの心が大切なんだろうと思うんですね。
そういうお互いがその人のことを思って、もちろん弱いところありますけれども、そうではなくて、その人のいいところ、賜物を支えて、そしてそれを伸ばしてあげようという、そういう思いがお互いにあったならば、教会がもっともっと祝福され変わっていくだろうと思うんですね。
二つ目の慰めということ、これも励ましと同じように、非常に私たちにとって大事なことであります。
人は多かれ少なかれ、何らかの傷を持って生きているわけです。
18:04
それはただ言わないだけであります。
そして、愛に植えかわいている、そういう人がこの世には多くいるでしょう。
そういう人たちにとって何より嬉しいのは、そしてその傷が癒されるのは、やはり慰めであろうと思うんですね。
私たちもそのことをわかって、そして何とかその人を励まそう、慰めてあげようと、そう思います。
それは尊いことですね。
しかし時にはそれが恨みに出てしまう、あるいはミスマッチ、全然違うところに行ってしまう。
そういうことも泣きにしもあらずで、自分の限界を感じてしまう、そんなことがあるんですね。
やはり人の心、あるいは魂が完全に癒されるのは、癒すことのできるのは、神の慰めであろうと、そのように思うんですね。
神の慰めこそが人の魂を癒すことができる。
しかし神様は人を通して、その神の慰めを人に与えなさいというわけですね。
そのためにはまず自分自身が神の慰めに満たされること。
自分自身が神様によって癒され、そして慰めを受け、そしてその神による慰めをもって人を慰めるという。
そのことを聖書は私たちに御言葉を通して教えてくださっています。
そして御霊の交わりというものがありました。
これは本当にイエス様のうちに見られるもの。
私たちは福音書を読んで、イエス様がいつもの通り、ゲッセマネの園でお祈りをされていた。
それはまさにこの御霊の交わりをされていた姿を見るんですね。
父なる神様との対話。
父なる神よ、聞いてください。
そして父なる神様、私に答えてください。
そのような交わり。
それがイエスキリストを支え、
そしてまた十字架へと向かうその力と、そして勝利が与えられたということも覚えるわけですね。
私たちはそのような日々を送らせていただいていることを感謝します。
個人的なディボーション、神様との交わりも幸いです。
あるいは祈祷会、その他のお仏の礼拝、そういう中での神様との交わり。
21:04
御霊の交わり、これは本当に幸いで、
このことによって私たちはこのイエスキリストの御霊をいただいて、
そして日々過ごさせていただけるわけであります。
さらに愛情と憐れみ、また二節には愛の心持ちというふうに書かれています。
これはアガペの愛のことであります。
このアガペの愛をお互いに持って、
そしてそれを人々にもこの愛の交わりをなすことができたら、
そのことをこのピリピの教会にパウロは書いたわけですね。
愛の心を持って心を合わせ心出しを一つにしてください。
これは励まし、慰め、またと同じように、
それらと同じようにこのまた愛の心も、
私たちは人々にそれを何とか与えよう、そのように励むわけですね。
しかしこれもなかなかうまくいかないという、そういうこともあります。
なぜかと言いますと、それは私たちがこのアガペの愛を自分で作ることもできませんし、
自分が生み出すこともできない。
このアガペの愛はイエス様からいただかなければ、私たちがこの愛を持つことはできない。
そのことを思うわけですね。
慰めと同じように、イエス様からこのアガペの愛を分け与えていただいてこその人への愛であるわけです。
賛美を教会ではよくしますけれども、
この賛美がもっともっと恵まれるためにはどうすればいいのかということで教えていただいたことは、
まずこの賛美の歌詞を読んで、そしてじっくり味わいなさい。
まるで朗読するように読むということですね。
読んで、そしてこういう意味だったのかということをしっかりと覚えて、
そしてメロディに合わせて賛美を捧げる。
それが本当に恵まれる一つの秘訣ですと教えていただきました。
愛をくださいという賛美。
この歌詞をもう一度味わいたいと思うんですね。
イエス様、私にいつでも笑顔、溢れる感謝を、許せる心を、
24:03
どんな時でもどんな人にも与える愛を、愛をください。
イエス様、私にいつでも自由を、変わらぬ友情を、素直な心を、
どんな時でもどんな人にも与える愛を、愛をください。
この歌詞を作った人はおそらくこの思いがここに書かれてあるわけですね。
自分はどんな時でもどんな人にも愛を与えたいんだ。
そしてイエス様のその見足の後を従っていきたいんだ。
でもそのためにはまず私に愛をください。
イエス様の持っておられるそのアガペの愛をまず私に与えてください。
愛をください。
その溢れるばかりの愛をもって私は出て行って、人々に愛を与えさせてください。
それがこの歌の内容であるわけです。
私たちもこれをとにかく賛美として、そして祈りとして常に覚えたいと思います。
6番目は自己中心でなくということが出ていました。
自己中心でないように、もちろんイエス様のうちに見られるものとしての
この自己中心でないということであるわけですが、
それは四節のことと同じですね。
自分のことだけではなく他の人のことも顧みなさい。
自己中心、それは罪であると聖書は言うわけですね。
とにかく自分は、自分は、自分は、何でも自分はという、そういう心。
これは決して自分を大切にする、大切にしなさいということとは違うことですね。
神様が私たちに与えてくださった体とか、私を支えてくれている周りの人たち、
それに関わるもの、全てが大切な大事なものですから、そのものを大事にする。
それはもちろんのことでありますけれども、この自分中心、自分が、自分が、自分がという、
それはまるでこの地球が、この宇宙が、この全世界がもう自分中心に動いているかのように思ってしまう。
あるいは考えて、そして言動に現れてしまう。
27:05
もちろんそういう思いが言葉になり、行動になって現れるんですけれども、そういうことだというわけですね。
ここにもありますように、人のことではなく自分のことだけをという、それが自己中心というわけですね。
別の言い方をすると自己中というふうに言いますけれども、
この自己中心、人のことは考えないで、自分のことだけを考える。
ある人が、先生何でも相談に来てくださいというふうにおっしゃってくださる人がいて、相談に行きました。
実はこういうことで悩んでいるんですけれども、と相談に行きます。
ああそうですか、ああそうそう、私もそういうことが先日あったんですよ、ちょっと聞いてもらえます?
そしてこうでこうで、もうどちらが相談に行ったのかわからないような、そんなことがありました。
そして自分のことばかりで、人のことなど顧みないという、これはまさにあの傷つき倒れている人を目の前にしながら、
そしてああ自分はもう神殿に行かないといけない、遅れてしまう、そういうふうにして向こう側を通っていった際し、
そして傷つき倒れている人を見ながら、ああ自分はこんなところにいたら自分もやられてしまう、ああ恐ろしや恐ろしやと向こう側を通っていったレビビと、
まさにあのような人たち、自己中心で、自分のことばかりで人のことなど顧みないということ、私自身にもそういうところはないだろうか。
このアドベントのとき、もう一度自分を点検しないといけない、そういうふうに思うわけですね。
自己中心は、自分中心は罪である。聖書はそのように言うわけですね。
罪、罪というものの中に私というものがもうどっかりと座っている。何でも私が私が私が、それが罪なのだ。
英語で罪というのはsinと言います。sinですね。まさにsin、罪の真ん中にどっかりと座っているのは愛、私であります。
そして虚栄からすることなくというおすすめがあります。
30:01
虚栄というのは、実質その人のうちには本当はないのにあたかもあるかのように見せて、その上辺だけをつくろったり飾ったりする。
そういうことを言うんだそうですね。
上辺をよく見せようとする、あるいは見栄を張るという、そういうことが虚栄からするのではないということをこの中で進められているわけです。
聖書の中に皆さんもよくご存知のこういう見言葉があります。
人は上辺を見、いわゆる外側を見、神は心、すなわち内側を見られる。
そしてこの見言葉から神様は私たちの心の内を見られる。
だから私たちはこの心、内側を神様に清くしていただきましょう。
それこそ私たちの中にある虫とか汚れとか腐っているところを神様に取り除いていただきましょうという正解でのメッセージとかそういうふうに語られ、私たちもそれを何回も聞きました。
案外おろそかにされているのが、人は上辺を見るという、ここが案外おろそかに、おろそかにはしていないでしょうけれども、なかなか取り上げられることは少ないんですけれども、これは非常に大事なことだと思います。
人は上辺を見る、人は外側を見るから、私たちはやはり自分自身が間違って判断されたり、あるいは誤解を受けたりすることのないようにきちんとしておくということ。
神様は上辺を見ない、内側を見られるんだから外側はどうでもいいんだということでは決してないということですね。
私たちの内側と言いましょうか、きちんとちゃんとしているのに外側がそれと違うということで、間違って判断される、誤解を受けてしまう、あるいは不愉快な思いをさせてしまう。
そういうことのないように、やはり外側というものもそれにふさわしくしておくというのは大事なことだと思うんですね。
でもここはそういうことではなくて、やはり自分自身は本当はないのに、そういうものは持っていないのに、あたかも持っているように見栄を張って、そしてつくろってしまうという、そういう一つの弱さかもしれません。
33:03
それを精霊によって取り除いていただく。私のありのままの姿を神様にあるいは人にも示していけばいいんだ。そしてこの内側も神様によって精霊によって整えられていく、練られていく。
それは自然と外側にも現れてくる、その人の言動その他にあって現れてくるから決して教えを張ったり、見栄を張ったり、つくろったりしなくてもいい。
もし自分のありのままを指摘されたら、それは今の自分のこと、図星だなとまさにそうですと言われたらごめんなさいと。もっともっと自分自身精霊によって神様に整えられる必要があるんだろうなという、そのことをまた祈っていけばいいんだろうとそう思うんですね。
プライドというのもおそらくそうだと思うんですね。プライドというのも非常に大事なことだと思います。これも二面あるかと思うんですね。
一つは自分にある与えられた賜物、それを感謝して、あるいは誇りとして、あるいはそれをまた次の人に分け与えていくような、そういうふうにして自負を持ってきちっとそれを大事にしながらまた用いていただく、そういう意味でのプライドというのは良いことだろうと思うんですね。
しかしもう一つのプライドというのは、この虚栄とか見栄と同じように、少しは与えられている、でもそれがあったかもまるで大きなことのように自慢してしまう、あるいはそれが傲慢になってしまう、傲慢になってしまうという、そういうことのないように、そういうプライドだったら神様は喜ばれないだろう、そのことを言うわけです。
何事でも自己中心や虚栄からすることのないようにという、これがすすめであります。
最後は、へり下って互いに人を自分よりも優れたものと思いなさい。
このへり下り、これは謙遜でありますけれども、イエス・キリストの内に見られる、それはまず第一といえばこの謙遜だと思うんですね。
へり下り、今日も教えていただいたようにイエス様は富んでおられる方なのに貧しくなって生まれ下さった。
36:01
本当にへり下り、私たちでは到底でき得ないようなへり下りと謙遜を表されてこの世に来てくださった。
そういうへり下りをまた私たちにも与えられるようにという、このクリスマスはまさにこのへり下りの謙遜の姿のイエス様、これを拝するときでもあろうかと思うんです。
神の見姿である方、神の王国の王である方なのに、その神の在り方を捨ててまで、ご自分を無にしてまで人の姿をもってこの世に来てくださった。
使えるものの姿をとり、人間と同じようになられました。
私たちも使えるということはあっても、イエス様のような癒しくなって、そして死にまでも従う、十字架の死にまでも従順な、そんな姿をとってまさにこの父なる神にお使いなさったという、そこまでは到底でき得ない。
そんなことを思うんですが、イエス様はそれをなさったわけです。
この使えるものというのは、おそらく当時のしもべ、あるいは召使い、あるいは奴隷のような、そういうことをもパウロはイメージしたのではないかと思うんですね。
そんなところまで減り下り、そして貧しくなって、私たちのところに来てくださった。
それは、やはりこの世にも、このような虐げられた人、貧しい者たち、そういう人たちがたくさんいるということを神様は見て知っておられた。
その人たちと同じように、それよりももっと低くなって、どんな人でもこのイエス・キリストを主として崇めることのできるように。
どんな人でも、やはりイエス・キリストはちょっと資金の高い、私たちには到底高い人、手の届かない人であるということを思わせないために、さらに低く低く低くなって貧しくなって現れてくださった。
そのことを言うわけですね。自分を癒しくし、死にまで従った。癒しくなったイエス様。
39:00
この癒しいというのをどこかで、別のところで聞いたような気がいたしました。それは、母マリアがあの祈りの中で、この癒しい舌芽をこの種の母として召してくださるんですかという、そのマリアの参加がありました。
あの母にしてこの子ありですね。本当にこの癒しい舌芽。それと同じように、御子イエス御自身も癒しい姿を持って、人間と同じように人としての性質を持って現れなさいました。
そして十字架の死にまでも従われました。ここに私たちのこのクリスマスをお祝いする意味があり、また私たちが世にあってこのようなキリストの御性質をいただけるものとさせていただけるように願いたいと思うんですね。
繰り返し繰り返し、この御言葉を読みながら御霊が一人一人に語ってくださると思うんですね。
こういうわけですから、キリストイエスにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情と哀れみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなた方は一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、減り下って互いに人を自分よりも優れたものと思いなさい。自分のことだけではなく他の人のことも変えりみなさい。あなた方の間ではそのような心構えでいなさい。それはキリストイエスのうちにも見られるものです。
キリストは神の見姿である方なのに、神の在り方を捨てられないとは考えず、御自分を無にして使えるものの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を癒しくし死にまで従え、実に十字架の死にまでも従われました。
それゆえ神はこの方を高くあげて、すべての名に勝る名をお与えになりました。それはイエスの皆によって天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての口がイエスキリストは主であると告白して、父なる神が褒めたたえられるためです。
遠い遠い東の方から博士たちが別霊部にやってきました。そしてその馬具屋の会話受けの中に寝かせられている御子を見たときに、ああこの方が救い主なんだ、私たちが待ち望んだ救い主だ。
42:15
そして彼らは膝をかがめて、また黄金乳黄を持つ薬を捧げて、この方を拝したと福音書は記しています。
そして私たちもまたこの博士たちと同じように、今膝をかがめて、イエスキリストは主である、誠の救い主であると告白して、そしてこの父なる神を褒めたたえていきたいと、そのように願います。お祈りいたします。
天の神様、あなたは私たちを救うために、御子イエス様を贈りくださったことを感謝いたします。
この主なるキリストを拝して、そのうちに見られる御性質を今日覚えたことでありますが、どうかそのうちの一つでも御霊によって分け与えていただけるように。
そしてこのクリスマスを迎えるとき、私たちがあなたにふさわしく整えられて、このお方をさらに深く信じ、そしてこのお方を主なるお方、私の救い主と告白する日々を送ることができるように、またこれを世にある人々にもお伝えすることができるように、お一人お一人をまた教会を祝し導いてください。
イエス様の尊い御名前によってお祈りいたします。
アーメン。
43:56

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