2023-10-22 26:36

#清い食べ物 23/10/22

マルコ-23 2023年10月22日録音。旧約聖書の中には食べてよい食べ物と食べてはいけない食べ物について書かれています。食べ物によって清い食べ物とそうでない食べ物について教えれられているのです。しかし今日の箇所を読むと、イエス様はそのような教えから私たちを自由にしたことがわかります。その上で清めや汚れ問題は外面的なものではなく、むしろ内面的なものであると教えたのでした。1.すべての食物は清い、2.人を汚すものの実例、3.より本質的でより自由に、の3つの点からこの箇所を見て行きましょう。


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00:06
では、新約聖書〈マルコの福音書〉の7章、1節から14節をお読みします。
14節から23節ですね。
イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。
みな、私の言うことを聞いて悟りなさい。
外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。
人の中から出てくるものが、人を汚すのです。
イエスが群衆を離れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねられた。
イエスは彼らに言われた。
あなた方まで、そんなにも、そんなにも物分かりが悪いのですか?
わからないのですか?
外から人に入ってくるどんなものも、人を汚すことはできません。
それは人の心には入らず、腹に入り、排泄されます。
こうしてイエスはすべての食物を器用とされた。
イエスはまた言われた。
人から出てくるもの、それが人を汚すのです。
内側から、すなわち人の心の中から悪い考えが出てきます。
みだらな行い、盗み、殺人、関印、貪欲、悪行、欺き、高職、妬み、罵り、傲慢、愚かさです。
これらの悪は、みんな内側から出て人を汚すのです。
それでは今日はこのところから、清い食べ物と題して見事話を取り組みます。
みなさんおはようございます。
10月第4の礼拝となりました。
10月は第5週まであるわけですけれども、今日は先週に引き続きまして、旧約聖書の教えと関係していることです。
旧約聖書を読んでいると、具体的にこれをしなさい、これはしてはいけないということがあります。
よく言うのが、食べ物の規定です。
そういうものを、クリスチャンになったら全部守るのかどうかということを考えさせられて、
クリスチャンでない方は、こんなことを守るのであればやっていけないと思って、
キリスト教信仰について考えることをやめてしまうという方もいらっしゃるかもしれません。
そうではないということを、今日はお話ししたいと思うんですけれども、
03:00
先週、イエス様はパリサイビと、まさに当時神様の御心に完全に従っていると自負できる、パウロもかつてそうでしたけれども、
パリサイビと、彼らが教える先祖の言い伝え、その何が問題かということを、イエス様は厳しく批判したわけですね。
簡単に言うと、彼らの表面的な宗教の振る舞い、心は遠く離れているということでした。
そして、旧約聖書そのものの教えからも、彼らの教えは反している。
父母を敬えという、孟瀬の10回に明らかに反しているということを取り上げていきました。
今日のところでは、それをさらに深く掘り下げて、心の問題ということを取り上げています。
心の問題というのは、ある面非常に難しいですね。見えないわけですし、自分で制御できない。
でも、そういうことを今日は旧約聖書の食べ物の教えなどと関連づけながら、イエス様は私たちを自由にするために教えられた。
そういう、難しく言うとですね、宗教理識規定と倫理規定ということの区別になるかと思います。
それは旧約聖書の教えを私たちがどう受け入れるかということのヒントにもなるかと思います。
その中で3つ見ていきますが、最初はですね、全ての食物は清いとイエス様がされたところから見ていきましょう。
7章の18、19節でイエス様はこう言っておられます。
イエスは彼らに言われた、外から人に入ってくるどんなものも人を汚すことはできません。
それは人の心に入らず、腹に入り排泄されます。
最後だけ読んでみましょう。
こうしてイエスは全ての食物を清いとされた。
全ての食物を清いとされた。
旧約聖書のデビキには、食べても良い食べ物と食べてはいけない食べ物の食物規定というものがありました。
それにはですね、食べていいものを食べていけないものという規定があったんですけれども、2つの事例をこの見言葉から紹介します。
デビキの11章の1節から7節ですね。
それから主はモーセとアロンに告げて仰せられた。
イスラエル人に告げて言え、地上のすべての動物のうちで、あなた方が食べても良い生き物は次の通りである。
動物のうちで、蹄が分かれ、その蹄が完全に割れているもの、また半数するものはすべて食べても良い。
食べてはいけないものに、豚、これは蹄が分かれており、蹄が完全に割れたものであるが、半数しないので、あなた方は穢れたものである。
06:12
蹄が分かれて半数するものの代表例、食べていいものとしては牛とかですね、羊があるわけですね。
で、豚はこうやってトン足って足ありますけど、分かれてますけど、半数しないから食べていきませんよと書いてある。
その続きの10章10節には、こう書いてありますね。ちょっと興味深いので読めるか読んでみましょうか。このしかしから3、はい。
しかし、海でも川でもすべて水に群生するもの、またすべて水の中にいる生き物のうち、へや鱗のないものはすべて、あなた方には飲むべきものである。
と言うわけですね。で、これをですね、イエス様は禁止、じゃなくてですね、旧約聖書で禁止した理由、いろいろ言われています。
で、よく言われるのは、衛生状況が考えられるなどと言われるんですね。例えば豚肉はですね、当時、暑い地方で食べると皮膚の病気にかかると言われていたらしいです。
そんなこともあるのではないかという、あくまでも仮説ですけど、そういうことがありました。あるいはちょっとレジュメ書いてないんですけども、私のある先輩が言うにはですね、例えば
うなぎとかですね、あの土壌とか穴子とかですね、泥の中のものを食べるから、その汚いので衛生状を食べていけないとされたのではないか、というようなことも聞いたことがあります。
しかしですね、キリスト教が違法人社会にも広まっていく中で、普通にこのようなものを食べている人たちがいました。
で、そういう人たちが旧約聖書や先祖の言ってたように、そぐわないからどうしたらいいんだという問題も生じてきたようです。
そうした背景の中でイエス様が、全ての食物を清いとされた。
ここでマルコの福音書で断言されていたというのは、大きな意味を持ったものだったんですね。
で、実は今日、7章23節で終わりますが、その7章24節から、いわゆるイエス様と弟子たちの違法人選挙になります。
来週、ツロの女が出てきます。そういう当時のマルコの書かれた文化的背景とか、マルコの福音書が書かれている文脈から、この違法人への広がりということが考えられていてですね、このような食物規定に関わる教えが出てきたんですね。
で、これはちょっと違いましたね。 今、解説したようにこの
マルコの文脈と、この地域的な文脈、違法人選挙という中でこういうことが語られた。
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まあこれね、豚肉ですけどね。どこが好きかみなさんによります。 これはうなじゅうですけどね。こういうものを食べてもいいよと、今言ってるわけです。
ちょっとお腹空いてきた人もいるかもわかりませんけどね。
このようなローマ人のクリスチャン、よく言われるのは、マルコの福音書はローマ人に向けて書かれたという説もあるんです。
ですからこのローマ人、いわゆるユダヤ人から見た違法人、旧約聖書の立法とか言い伝えと関わりがなく、食生活を送っていた
ローマ人や違法人の人は、この聖書の箇所に触れることによって、私たちは
誠の神を信じたとしても、旧約聖書の食物規定に縛られずに済むんだなと言って、信仰生活に確証を得たのではないかと思われるわけです。
そうした意味がここの歌詞に一つありました。2番目、じゃあそんな中でイエス様がより問題とした、人の心の中から出て怪我するもの、その実例が出てますので、それを見ていきたいと思います。
この続きの7章21から23節、内側から、すなわち人の心の中から悪い考えが出てきます。
みだらな思い、盗み、殺人、関印、貪欲、悪行、欺き、公職、妬み、罵り、傲慢、愚かさで、これらの悪は皆内側から出てきて人を怪我するのです。
じゃあ少し1個ずつどんなことかというのを少し見ていきたいと思います。まず悪い考えというのが全体を
総称するもので、じゃあその具体的なものは何ですかということです。イエス様はこれらの行為はもちろん、そしてそこを生み出す人間の性質が
人を怪我する ということを断言されたわけですね。
宗教的な食べ物とか何かに触ったとかそういうものではないということで、人の内側から出るもの、人の行為、人からの下から出る行為ということで出てきます。
例えばこの中で、みだらな行い、
寛因、公職ですね。好むという字に色。これはですね、性的不道徳に関わるものだって言うんです。 そのうち最初に出てくる
みだらな行いはですね、あらゆる性的不道徳をカバーする包括的な意味を持っています。 その中で寛因というのが出てきますが、それは結婚の千切りを破るというニュアンスになって、
よくも悪くも話題になる、例えば不倫ということがそこに含まれるかと思われます。 そしてこの公職というのは、この不道徳な行為が世間一般に知らされるということです。
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そういう意味合いがあるので、それはですね あえてそれを知らせるという意味合いがあるので、今で言えばマスメディアによって性的な商品や商売がなされる
ということと関連しているのではないかと考えられるわけです。 続きまして、その後ですね
盗みと殺人と寛因という言葉が21から23節、皆さんの聖書やレジュメイルと続けて書いてあることがわかります。
みだらな行いの後に盗み、殺人、寛因、これはですね
契約聖書の10回のところでもですね、あと預言者の中でやはり 並列して書かれているんです。明らかな悪として盗みや殺人や寛因、婚外交渉と言われているんですね。
その中で例えば一例挙げますと、補正和尚の4章2節ではこうやって閉域されているんですね。
呪いと欺きと人殺しと盗みと貫通がはみこり、流血に流血が続いていると言って、当時のイスラエルの
堕落と言っていいんでしょうかね、そういうものが続いていると。 こうやって明らかな罪として閉域されている実例がありますよ。
そしてその続きのですね、貪欲という言葉、この言葉もですね 旧約聖書の中などでは性的な罪を表す他の言葉と頻繁に関連していることから
性的な貪欲を含めた欲望に駆られた行為を含んでいる可能性があるということなんですね。 まあ
貧しい人を顧みないようなこと。 そしてそれから続いてですね
悪行、これはですね 読んで字のごとく意図的な悪意
悪意、それを行動に起こすことを表します。 欺きはですね、いわゆる嘘
ディスイートと英語で言いますけれども、その狡猾さや裏切りなどを意味するそうです。 そしてここでまあ興味深い言葉
日本語ではネタミと訳されていますが、このセム語 このヘブライ語などの言葉の仲間のグループの中ではですね
物惜しみするとかケチケチするという様を意味するという、そういう背景があるとも言われています。
あるいは人が他人の財産を恨めそうに妬むことを意味しています。 ただ興味深いのは皆さんの新科学聖書の
新しい版の直訳というところが、22節の直訳というところにですね 悪い目というふうに訳されています。
英語である英語の聖書では文字通り Evil Eye
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邪志と言うんですけども、それは何かというと当時ににらめつけたり 悪い視線を送ることによって相手を呪うということをしていたそうです。
ですからここの 直訳は邪悪な目となっているんですけども、ネタミの中には相手のものをネタましく見る
ということの他に、あるいはそれとは別に まさに視線を送って相手を呪う行為を
特に異教社会の中で行われていた、そういう相手を呪う行為を 今占めていたのではないかとも言われているわけです。
そして 最後に出てくる罵り、これはですね
直接人に向けられた アクションで出てくる中傷を指します。これはギリシャ語ではですね
ブレスフェミアと言って英語を知っている方でですね、英語のブレスフェミという言葉で、これはよく
英語圏の人が使う言葉です。これは直訳すると 冒涜する
神を冒涜する。よくあの 映画なんか外外の映画でいわゆるカースワードと言って悪い言葉を吐くときがありますよね。
あの昔私はのずっと学生時代にコーラスラインというですね 映画見たことあるんですけど、あそこで
まあ日本語で言ってしまいますけれども失敗すると役者とか監督が 英語で
まあ日本人だから言いますよ。英語でジーザスクライストって言うんですよ。 わかるんですよね。
いわゆるそういう種の名を皆に唱えてはならないというを起きてわざと破る。でよくまあ 相手言うと私が知っていた敬虔なクリッシャーの人たちはそれはブレスフェミ
神を冒涜する行為だと言って嫌っていたわけです。 だからまあそういう神を冒涜するという言葉や行動であえて冒涜するということを指して
たかもしれませんし、それは神という人格を超えて相手の人を具体的に言葉によって 相手の人格を冒涜するということも含まれているかもしれません。
そしてこの高慢にはですね文字通り自我自賛する 自分を普通以上に高く見せるそういう傲慢さのニュアンスがある。
そして最後の 愚かさというのは
道徳的や霊的に愚鈍な人間の支配的な 気質を表していてその根っこには
旧約聖書でよく指摘されている愚かなものは言っている 神はいないと言っている。ローマ美女の手紙でも引用されていますが愚かさのそのものと
その根っこにある神を知ろうとしない。 そんなことも含まれているのではないかと思われるわけです。
調べられたので皆さんの参考にもなればと思ってレジュメにも書いておきました。
18:05
ざっと見ましたけれどもそれぞれの言葉にはこういう意味があって 宗教的な外側の汚れではない。このような人間の性質や行為が本当に人を汚すものなんだ。
神に対して公然と反抗する心にその源があるんだ。 そのようにですねおそらく当時のイエス様パリ裁備と
立法学者らにも
突きつけたのではないかと言われています。 つまり
食べ物や人との接触から外側から汚れるという。 だから汚れるからよく洗うってことを先週見ましたけれども
手を洗ったり体を洗ったり器を洗うということでは清められない部分ということをイエス様はしてきたわけです。
外面的な宗教的な汚れじゃなくて内面的な倫理的な汚れという部分にイエス様は目を向けさせたこと。
それが一つの新しい教えだったわけです。 宗教儀式では清められない。
最後に これはより本質的でより自由な教えなんだということを取り上げたいと思います。
この繰り返しになりますが先週見た箇所では パリ裁備とらがですね
私たちこそすべての規定を守っていて 汚れから自分たちは無縁であって神様の御心とに仕えていると自負していました。
けれどもそれは本当の神の御心と旧約聖書の教えそのものに反しているんだとイエス様は厳しく非難した。
そして今日の箇所ではさらにそれを振り深く掘り下げて 心の問題だと
心の問題とちょっと日本語だと語弊がありますけれども あなた方の内側の汚れの問題だというところで掘り下げたわけですよね。
ただこうも考えられるんです。 使徒パウロがですねフィリピトの手紙の中で私はパリ裁備とであって立法による義なら
落ち度がありませんってパウロは宣言したんです。 逆に
彼らの教えが簡単であるとすればですねその 儀式さえ守ってさえいれば細かい儀式を守ってさえいれば自分を正当化できたと
言えるわけですよね。そういう面では神の前に人の前に自分は正しいと言い切るのに 簡単な手段だったとも言えるわけです。
けれども 人の内にある汚れ
それは儀式を守っていても解決できないとイエス様はより本質的なことをしてきたわけです。
そしてそれはある面 パリ裁備とらの教えより厳しい教えだと言えるわけですよね。
21:07
今日の箇所でイエス様は 先週もそうでした。同じことを繰り返して強調したように今日の箇所でも3回もですね
内側のことを取り上げていました。 内面の悪について取り上げました。15節で
人の中から出てくるものが人を汚すのです。 20節では人から出てくるものそれが人を汚すのです。
そして21節で内側からすなわち人の心の中から悪い考えが出てきます。
内側内側ということを3回も強調されて目をそこに向けさせたわけですよね。
このイエス様の新しい教えは 最初に見ましたように旧約聖書の食べて良い清いものと食べていけない
汚れたもの、それをですね 取っ払ってしまった。
そのような教えから私たちを自由にしたわけです。
そして先祖の言い伝いや旧約聖書の儀式立法からですね 私たちを解放してくださいました。
私は長い本が好きですからね。食べれるようになりましたよ。 穴子寿司とかですね。
柳川鍋とかですね。長いものにとらわれずにですね。 とにかく
牛丼もいいけども、うな丼も 穴子の寿司も食べていいっていう自由を得たわけです。
そんなことはいいんですけど。 そのようなですね
旧約聖書の儀式立法から私たちを解放してくださいました。 そればかりかイエス様は儀式を守ることよりも難しいとした今日の問題
私たちの内側の汚れの問題も解決してくださるわけですよね。
それはイエス様が自ら十字架にかかることによって私たちの内面を清めてくださる。
これこそマルコが最初に掲げた神の御子イエスキリストの福音。
最も難しいことをイエス様は十字架で成し遂げてくださったわけです。
まあその約束を最後見てですね この時間を終わりしたいと思いますが
旧約聖書のヘブル人の手紙、機会があったら読んでみてください。 これはどうやってイエス様が私たちを儀式立法から解放して本当の清さを与えてくれた?
そういうことをですね、論理的に書いてあります。
たぶん1時間もあればバーッと読めちゃうと思いますけども、ヘブル人の手紙の10章の10節、22節にイエス様の清めの素晴らしさということを書いてありますので、最後にやりましょう。
24:03
この御心に従って、この御心というのは地によって罪が清められるという御心に従ってですね
イエスキリストの体がただ一度だけ捧げられたことにより
私たちは聖なるものとされています。 ちょっと難しいんですが最後だけ読んでみましょうか。
3、心に血がふりかけられて、邪悪な良心を清められ、体を清い水で洗われ、
全き信仰を持って、我心から神に近づこうではありませんか。 これはですねイエス様によって
邪悪とされた心に血がふりかけられて清められましたよということを強調しているわけですね。
このイエス様の復印を改めて思いながらですね、歩んでいくお互いになりたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、救い主イエス様を送ってくださり、私たちを
利器的な穢れから、また食物をはじめとする様々な規定から開放してくださったことを感謝いたします。
いちいち食べるものを吟味せず、私たちは食する、そのような自由が与えられていることを感謝いたします。
そればかりか、私たちの力では解決できない、私たちの内側の清め、それをイエス様の十字架によって、
その流された血によって、成し遂げてくださったことを感謝いたします。
まだ私たちは完成の途上にありますけれども、どうぞおりあるごとに、このイエス様の復印を思い出しながら、
あなたの清めを覚えながら、歩んでいくことができますように、どうか導いてください。
また、そのような自由に人々を招くために、どうか私たちの生き様をお持ちくださるように、お願いいたします。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは、1分ほど御言葉に応えて、黙祷する時間を持ちましょう。
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