1. 名谷教会 podcast
  2. 2020/01/26:見たことがない景..

2020/01/26:新年聖会2

大頭眞一師

申命記 10;12-22、ピリピ人への手紙 -15

00:01
ありがとうございました。
それでは、この新年政界保護の部は、見たことがない景色を開いてくださる神の物語、見たことがない景色を開いてくださる神の物語、という題です。
今年もみなさん、本当に平安に恵まれましたんですよね。ここもね、期待して、いかなる神様、そして私がどう生きるべきか、先生を通して語ってくださる神の御声に、みんな傾けて聞いていきたいと思います。では、先生よろしくお願いいたします。
ちょっと待ってください。先生、明日誕生日。50歳。はい、祝福のお祝いをしましょう。おめでとう。
先生はね、もう十何年前かにね、プサンに行って会った時に、なんかすごい温かい人がいるんだなぁと思ってね、日本人みたいっていうと、またいろいろ問題がそこでね、日韓問題が出るんだけども、本当にね、変わらないですね。温かいですね。みなさんは幸せです、こういう福祉がいてね。
それでね、私眠いんですね。みなさんもね、眠いでしょ。さっきご飯をいただいたので帰りますと言って、ちょっとちょっと待てって言われてね。なので、午後からあまり根を詰めずに、私のいろんな体験を中心にね、面白いお話をしようかなと思うんですけれども、ただね、面白い話をしようとするとね、いろいろささわりがあちこちに出来ることがあるのでね、
ここで聞いたことはくれぐれもないし、ここだけの話にしていただくと思うんですね。
それでね、神とは何をなさるお方かっていうのが、この午後ですね。
数年前に、日本ナザレン教団の参院生会という、出雲にね、招かれたことがあって、そこの出雲の先生がね、めちゃめちゃ真面目な先生でね、その生会の前に何を準備しておけばいいでしょうかっていう。
そんなの初めてですよ。たぶんね、何か読んどけとかいうことを期待していたのかもしれないんだけれども、それではね、あまり決まらないので、私の方から質問をすることにしたんですね。
それは、皆さんが考える清めとは何ですか。
佐々木さん、すみません。ちょっとね、その清めとかわけのわからないこと言うけど、また後で説明するので。三菱の時代の同僚が来てくださいます。また後で説明するので。
皆さんが清めって何だと思いますか。皆さんはどういう今まで経験をされてますか。そういうことをとにかく質問でもいいし、明かしでもいいし、何でも書いて送ってくれって言って、先に言ったんですね。
03:09
そしたら十数人の方々がいろんなことを書いて送ってきてくださった。それを見てわかったのは、やっぱりかと思ったんですよ。誰もこれでいいっていう自信がある人は誰もいなかった。自分はこれでいいと思っている人は誰もいなかったんです。
で、清めっていうのはこうこうこうだということがはっきりと言える人も誰もいなかった。これはここだけの話ですけど。僕自分はなぜれんだというわけじゃないと思います。それほど、なんていうか、なかなか言葉にするのに難しいんです。そういうところがね。
神様が大きすぎて表現しがたいように、こういう神、神様に似たものにされていくということも非常に大きなことなので、そう簡単にはと思うんです。
で、この神様が私たちに清め、何をしてくださるかということなんですけど。私が生まれたのは二宮町というところです。三宮のちょっと上に二宮というところがあって、二宮小学校というのがあって、後部ユニオンチャース、今レストランになっているところがあるじゃないですか。あそこの近く。
二宮小学校の真ん前に大津という家があります、今でも。大津公務店とやってたんですけど、震災の後潰れたんですね。それはうちのおじいちゃんです。このおじいちゃんの話がなかなか面白い。面白いんだけどね、そんな話をするとダメなので、もうしないけど。
でもね、うちのおじいちゃんをね、戦争中に韓国の人とか中国の人とかにすごい親切にしてあげたんですね。それでね、だからユン先生との友情も三代遡るということですよ。そのためにね、これちょっとここだけの話ですけど、戦後ね、三年目の駅前を韓国の人とかが勝手に、勝手なんだと思いますけど、ロープを張って自分のものだということにして、パチンコがやっぱり立てたんですよ。
そのときに、戦争中に親切にしてくれた大津さん、大工なんです、うちね。それで、パチンコを作るのにやってもらいたいと言って、いや、そんなこと言ったって材木なんか、釘も何もないですって言ったら、それを全部うちで用意するから立ててくれと言われて、それでまあそれなりのものになったんだけど、まあそうなると潰れるわけですね。
だいたい何をやっても長続きしないのがうちの家計という感じですけどね。それでまあ、その後ね、長田区に引っ越して、長田小学校ですよ、私。長田小学校。長田小学校にね、5年生の1学期までいたんですね。
いつも西大中学のプールにね、夏になるとみんなでゾロゾロ歩いて行って。それで三陰に引っ越して、三陰北小学校に卒業したの。六高中学、六高中学、六高高校っていうあるじゃないですか、カトリックのイエズス会ですけど、そこに受験することになったわけですね。
06:25
その理由はね、私、脱力系と言われていて、子供の頃からそうなんですね。みんながピッと体操するときに、決まらないんですね。だいたいなんかこうなってるんですよ。子供の頃、学校の先生にね、この子はどっか体に何か障害があるに違いないって言われてて、いつもなんかこんな、こんなみたいなね。
で、親がまあ、お前のようなやつは内心症がある普通の高校に行ったら絶対ダメだ、ダメだっていう。だからそういう受験一発で入れるところに行けっていう話になって、そこが悲劇の始まりだったんですね。
で、手がね、六高中学に入ったのはいいんだけれども、定員180人で、私が181番目だったってことが、後で分かってるんですよ。そんなこと教えてくれなくてもよかったと思うんだけどね。だから誰かがそれで入らなかったんで、補欠で入ったんですね。
そこでね、僕はダメなんだってなんとなくその頃から思い出して、いろいろその頃うまくいかなかった。なんか身長が妙に伸びたりして、体のバランスが悪くてスポーツがうまくできなかったりとか、勉強もできないと思っていると全然できなかったりとかね。
で、なんか結構金持ち良いんですよ。医者の息子とかね。で、私なんか小遣い1000円なのにね、みんなもっともらってるしね。で、なんかみんな電車通学のうちだけ歩いていかなきゃいけないしとか、みんななんか電車の中でバレンタインデーにチョコレートもらったりしてるのに、私なんか全然ないし。
いや、おふくろと姉がくれるんですけど、それもなんかかえってみじめだみたいな感じでね。
まあ、そういうわけでね、挫折したんですね。でね、3回くらい首をくくったんですね。もう死んでやろうと思って。でもそれがね、あまりこう、そういう言い方ではなかなか死ねないものでね。
ネットもなかったんで、そういう自殺の仕方もよくわからなくて。今だったら完全に睡眠薬を飲んで、インスタンカタン酢中毒でね、やってると思うんですけれども。
それでね、割とみじめな中学時代を送ったわけですね。
友達もいないしね。でもその頃にね、しょうがないから本ばっかり読んでて。で、なんかそれがちょっと後になって生かされるみたいなところもあるんだけれども。
でもその時はね、本当にね、済まなかったんです。で、母は私が小学校の5年生の時にクリスタンになったんですね。
ここだけの話ですが、日本キリスト教堂の神戸聖愛教会っていう、新幹線の駅から塔が建てて十字架見えますよね。あそこのね、教会だったんですね。
09:03
時々は私もね、教会に連れて行かれたりするんですけれども、そうするとね、ここだけの話なんですけど、すごい親切そうなおばちゃんがいるじゃないですか、教会行くと。
ここにもいっぱいいますけど。びっくりやってくるんですよ。それでね、なんか母から聞いてるでしょ。
だから、大丈夫よとかね。なんか、ふんふんとか言うんだけどね。そのふんふんやめてくれないかなと思って。
だって中学2年生ぐらいって自分心の塊なので、人から同情されるぐらいだったら死んでやろうかっていうぐらいの感じなのでね。
だから中学2年生が来た時はとにかくね、ほっとくにかけますから。無視しとくのが一番いいと思うんですけどね。
神様なんか大嫌いだった。神様大嫌い。神様大嫌いだったよって話あちこちでするんですけど、
これがね、不思議なことにね、人々のなんかこう、そういうふうだったら、じゃあ教会行ってもいいなみたいな人が不思議に、
そういう人でも、神様大嫌いなんかって言っても、なんか雷が落ちてくるとかそういうことないんだとかね、そういう人でも牧師になるんだとか言ってね、
そういうようなことでね。大嫌いだった。
私もお祈りもしまして、神様なんかこの、なんか一個でもいいから、今日1日一個でもいいから、いいことね、あれしてくださいとかってお祈りするんだけど、
全然そんなことないのでね、俺にあんまり関心ないんだなと思ってね。それかいないかどっちかだと思ってね。大嫌いだと思ってたんですよね。
ところがね、ある出来事、これもちょっと話がめちゃめちゃ長いんで、ある出来事がきっかけになってね、
この何か、人生って新物狂いでやるとなんとなく道が開かっていくこともあるな、こともあるんです。
今日来て何聞いてきましたかって、人生新物狂いでやればなんとかなるって話聞いてきましたっていう話、家に帰ってしないでください。
全然違います。
なんかこう、ちょっと一生懸命やったら、少し道が開き始めたわけですよ。
そこで私は3つの人生における原則っていうの、これ3つも間違ってるんで、絶対書かないでくださいね。
言ってもね、書いてる人いますからね。
第一原則は、生き延びるためなら何をしても構わない。これが第一原則。間違ってる原則ですよ、これ。間違ってる。
第二原則は、人に馬鹿にされると生きづらくなるので、馬鹿にされる前に馬鹿にしろっていうのが第二原則なんですね。
これも間違ってる。誰も書いてないですよね。間違ってる。
第三原則は、今良くても明日になったらどうなるか分からないじゃないですか。
だから今むさぼることができる快楽を全てむさぼるっていうのが第三原則。
これは完全に本当に間違ってるので、間違ってるんです。
でもね、その3つの原則でいくと、ある程度までは生きるので、それから私ずっと25歳までこの原則を忠実に守って生きてきたわけですね。
12:13
しかし、神様を知らなかったのでね、なりふりも構わずに生き延びるために、どんなことでもしないと私は生き延びることができないんだと、そう思い込んでたわけですよ。
でも神様を知っていたらね、なりふり構わずに生き延びる必要がある。
なりふり構わずっていうことは、人のことを変えてみたりね、人のことをケアしたりね、そんな余裕なんかないわけですよ。
良い関係とかじゃなくて、とにかく俺が生き延びることが大事だと。
その後のことは、後から考えるって言うんだけど、後から考えないです。次から次へと生き延びてるだけなんで。
それを知らなかったのは悲劇だなあっていうふうにね、まあ思うんです。
だから皆さん、私のようにならないうちに、なんか失敗先生みたいになってきましたけど、私のようにならないうちに、神様のね、胸の中で緩やかに生きるということをしていただきたいと思うんですけど。
それでね、大学を卒業して三菱重工という素晴らしい会社に入ったんですね。
そして、25歳ぐらいまで、まあそうやって人を押しのけてね、やってたわけですよ。
その間の悪業はちょっとあまりにひどくて、口に出すことはできないので言えないんですけど、そこで笑っている方がいますけれども。
ところがある出来事をきっかけに、これは私は罪人だなと思ったんですよ。
それまではね、まあ教会に何回か行ったことはあるんだけれども、あなたは罪人ですかと言うとめちゃめちゃ腹立たってね。
何言ってるんだと言ってね。私はこの六高中学という医者の息子の3分の1ぐらいいて、残りの息子も金持ちで頭のいい奴らの間に間違って入って、それですごい何かいじめられたりとかそういうのはなかったけれども、すごいつらかったわけですよ。
だけど親もお前はもっと勉強しろとか言って何か怒ったりして、誰も僕のことをわかってくれなかったという思いがあるわけですよ。チョコレートももらえなかったしね。
そういうわけで、俺は被害者なんだと思うんですよ。この非常な世界、ジャングルのような世界の中において被害者なんだと思うんですよ。
その被害者の私に向かって、お前は罪人だとは、そのお前は誰だという感じですよ。
罪人じゃない、被害者だと。ところがある出来事が起こったときに、これどうしても知らない。知りたい人は後で。
これは講習の面では言えない。後でこっそり聞いてくださったら教えないでもないけれども、ちょっとここではね。
15:01
25歳のときにある出来事のきっかけに、被害者のつもりであった私が、被害者であると同時に加害者であるということに気が付いた。
私がそうやって落ちのけて、こうやって生きている中で傷ついている人というのがいるということがわかったわけですね。
そのときにね、罪というものを初めてわかった。古部聖夜教会に行っていたときは全然わからなかったけど、そのときわかった。
罪ってね、金網みたいなものですよ。金網。金網を誰かが殴るとね、ここが歪んで全部に歪みが伝わっていくわけですよ。
一人の人が傷つくときに、その傷を耐えかねて叫びを上げたり、手を振り回したりするでしょ。それが他の人に及んでいくっていう。
伝査なんです。鎖みたいに伝査しているんです。四方八方に広がっていくんです。世代を重ねてそういうこれが集積していくわけです。
例えば、親のことを悪く言ってはいけないのはここだけの話ですけれども、うちの父親は学歴がなかったわけです。
それが原因じゃないんだけども、本人は自分がもう一つなのは学歴がないせいだというふうに自分を納得させている。
一つの傷になっているわけです。自分が社会の中で認められないということが。だからお前には勉強させると。
うちにはちょっと無理だけど、六高中学に行くのは無理だけど、無理して行かせてやっているんだから勉強しろって話になるわけですよ。
だけど勉強嫌いなんです。今でも勉強嫌いだしね。やっぱり今思うと多動ですね私。
同じことを5分以上大体できないですね。おかしいですけどね。
何かやるときも3つぐらい並べておいて、5分ごとにやっていくとめちゃめちゃ能力が上がるんですけど、一つのことはできないんですよね。
やっぱり何かそういうのがあるんだと思うんです。
だけどそれで父親としては自分をせめてこの子にはと思ってやるわけなんだけれども、それはめちゃめちゃ苦しいんですよ。
何かずっと座って勉強しようとかやるとね。何か死にそうになるわけですよ。
それでね、そういうふうに人の傷というのは、良かれと思ってやったことが歪めていくという。
こういう話がありますよ。虐待を受けたお母さんは虐待したことが多いっていうね。
例えばネグレクトされてね、育ったお母さんが、この子だけには絶対そんな寂しい思いをさせないと思って大事に大事に育てていくわけですよ。
ところが大きくなったこの子がどこで聞いてきたのか、お母さんなんか嫌い死んじゃえって言ったときに、
この子までも私をネグレクトするのかと思ったら、気が付いたら虐待しちゃってるってことはありますよね。
だから罪ってね、悪いとか何とか言うよりもね、悲しい、痛い、誠意することができない、誰の心の中にも傷として伝わっていくものなんだなあっていうことをね、思うわけです。
18:13
そのことに気が付いたときに、私はね、ああ、これが罪かと。だったら俺は罪人だなと。被害者にして加害者だなと。
誰か見返そうと思って、馬鹿にされないと思って。
ねえ、羽生さん会社でどれほどのことをやってきたかね、本当に人をね、痛めつけたりしてたわけですよ。
それをね、思ったときにね、これはもう自分の手には負えないなと思ったんです。
教会に行こうと思ったんです。行くのは当然神戸性愛教会ですよ。ところがそこで不思議なことが起こったんです。
ちょっとこれだけはここだけの話です。
そこのね、当時の牧師が、面会を申し込んだんだけれども、会わないんです。会わない。
それは、いやちょっと今週は何か忙しいとかね。
いや、次の週になって出ます。いや、ちょっとまだ何とかとか言ってね。
考えられないことが起こったわけですね。
で、どうしようかなと。
お袋がそこで、たるみ教会に行ったらどうかと言ったわけですね。
実はお袋はね、日本キリスト教団神戸性愛教会というところに行ってたわけですけれども、
何かね、自分がね、清くないっていう、そういう思いがどこかにある。
で、清め、清さを求めていたんですね。
いろいろ調べて、その頃うちは本屋をやってましたから、
お袋はね、クリスタンだから、クリスタン書、キリスト書コーナーみたいなのがあって、
青谷のルーテル神学校の真下でやってましたから、ルーテルの先生たちが引きに行ってくださって。
今でもあそこ行くと、あそこの本屋のせがれかみたいな感じですけれどもね。
そのいろんな本がここにあるのでね、それを調べたりして。
ある時はね、旧正軍に電話をしてね、清めについて教えてほしいとか言うとね、
それが旧正軍人がね、寄せばいいのに軍服を着てね、うちの店に現れたわけですね。
その時、親父は裏口から逃げたらしいですけど、
それは清めの本を持ってきてくれたっていうね。
そんなことをしているうちに、
日本イエス・キリスト教団というところのタルミ教会というところがあるらしいということが分かって、
おふくらはそこに行こうとしていたんだけど、
ところが神戸清和教会にはおふくらがクリスタンにサポートした人たちが二十数人いて、
ちょっと自分がそういうふうにするとね、いろんな影響が起きだろうということで急遽していたと。
そこで思ってきて、私が教会に行きたいとか、清和教会で受け付けてくれないとか、
21:03
なんかこうスパイみたいな、先にちょっと行っておけみたいな感じでタルミ教会にいたわけですね。
これはある土曜日の晴れた秋の日の午前だったと思うんですけれども、
私がタルミ教会に訪ねて行きますと、
森風見彦先生が、森風見彦先生っていつもこうね、ネクタイをこうしてみてね、
ある時、夜突然タルミ教会に行った時、その時もネクタイをしてみてたんで、
きっと寝る時もネクタイをしてみてるんじゃないかと思いましたけれども、
そんなことはないかもしれませんが、いや確実にいないと思いますが、
そこで、私は積み入りとは、そしたら森先生が、そうか、積み入りというのはと言ったんで、
いやいい、それよくわかっているんです、それいいです、ただ一つ教えてくれるんです。
イエス・キリストの十字架が私の罪と何の関係があるの?と。
そしたらそこでね、それはあなたの罪のためなんだ、と言った時にね、
いや、ただそれだけ言っただけなんですけど、全部わかった。
それはこういうことですよ。
私たちは、自分の痛みや傷や、傷つけられたプライドや、愛されなかった、覆われなかった痛みや、そんなものに傷があるわけですよね。
そこに触れられる時に飛び上がるようにして、この手を振り回してしまう。
誰かが、そうすると、誰かが手を振り回すと、そこがなんか融資鉄線みたいな、融資鉄線みたいなトゲトゲのやつが振り回されるようにして、私に巻きつく。
その痛みに耐えかねて私がまた手を振り回すと、それが誰かに巻きついていくという。
そういうことがこの世界に起こっていくわけなんだけれども、世界中でただ一人、歴史の中でただ一人、傷つけられても傷つけなかったお方がおられた。
それがイエス・キリストというお方で、十字架の上で。
一番私が十字架のことを聞く時に心が痛くなるのは、唾をかけられたという。
神が人となって、またこのことは後でゆっくり話すのでね。
神が人となって、神が顔に唾をかけられた。
殴られたとか、鞭を打たれたとか、釘で刺されたとか、いろいろあるんだけど、唾をかけられた。
そんなことを我慢する必要なんか全然なかった。全くない。
だけど、私たちは惜しむがゆえにそんなことをどうでもよかった。唾をかけられるぐらいどうでもよかった。
その有志徹心が次々巻きついてくるんだけれども、じっとそれを全部受け止めた。
全人類の罪の呪いというか、痛みというか、人を傷つけようと思って傷つけてるって人はいない。
24:02
そのように見えてもね、そのように口で言ってみせてもね、そうじゃなくて、他にどうしていいかわからない。
何とか十何人殺人事件ってあったでしょ、あの施設の。
あれってみんなとんでもないやつだとかね、死刑だとかって言うんだけども、
あれは他にどうしていいかわからなかった。
自分の満たされない心がどうしていいかわからなかった。わからないんです。
叫び出しそうな自分の思い。私たちもそうでしょ。
夫婦喧嘩するときに、うちからしたことないですけどね。
ちょっとだけ笑うポイント、あんまり大笑いするポイントでもないんだけど、ちょっとだけは笑うポイントだったんだけど。
夫婦喧嘩するときに、ちょっと待てよ、俺のこと聞けよって言って、あんたのこと聞けなさいよとか言って、あんまり白心に染まってやってんじゃないかって疑いを受けるかもしれない。
それ何でかって言うとね、聞いて欲しいんですよ。僕のことをわかって欲しい。
あなたがさっき何かびっくりするようなきつい口調で言ったから、僕がびっくりして、そして嫌だったことをわかって欲しいんだけども、びっくりして嫌だったよと言えばね、ごめんと言えるところはね、びっくりするじゃないかと悩めん急にって言う。
しかそのとき、他に何をどうしたらいいかわからない。
くせるようになってるんですよ。特に関西人はね、パッと言われたらパッとそこで含まないとね、話がどんどん流れていくのでね、そういう三民道を見計らって子供の頃から成長してるのでね、そういうとこあるわけですけども。
だけど、他にどうしていいかわからないで手を振り回してるんですよ、お互いに。傷つけ合ってるんですよ。
この罪の連鎖をイエス・キリストがもう終わりにしようと言って、私がすべて引き受ける、あなた方の痛みや憎しみや許せない心や、びっくりした、傷ついた、どうしていいかわからない、全部引き受けると言って、ここで終わりにして新しい出発をしよう。
そうおっしゃってくださったということが、森先生はそこまで言わなかったです。私がそう理解したということです。
で、その時に私は信じた。イエス・キリストを信じて。で、その時のクリスマスに宣伝を受けたんですね。
ところが話はそういうめでたしめでたしでいかないわけですよ。その時にふっと私思ったんですね。これ日曜日これから毎週教会行くのかと思ってね。まだ遊び足りないなと思っちゃったんですね。
ちょうどその頃に本社に転勤になった。本社って東京なんですよ。東京に転勤になって、当時はバブル末期でめちゃめちゃ楽しいところだったんですよ、東京ってね。
27:06
みんなでこうやって踊ったりとかね。立ち回りそこに迷子として教会に行かなくなってね。
ただその時に知り合ったのが今の金井。今の金井って今も昔も一人しかいないですけど。金井ですね。金井は当然クリスチャンではないわけですよね。
で、その時に私は実はタルミ教会では毎週水曜日私のために涙の祈りが捧げられていたんですね。
で、おふくろがね、うちの息子が教会にターンと行ってね。であの、もうこうです。またみんなが泣いているわけですよね。
そうすると森先生が、このような涙の祈りの子は滅びることがないとかって言うわけですよ。
それが嫌でね。もう俺のことを忘れてくれと。死んだと思ってくれと。お母さんみたいな話でね。
それでまあ今の金井のことが今もそうなんですけど大好きなものですからこの人と結婚しようと思ってね。
福産物としてはこのクリスチャンじゃない人と結婚すればさすがのおふくろももう諦めるだろうというね、そういう読みで。
この話をするとね、子供が教会から離れているお母さんたちはお喜びしますよね。
そういう人が牧師になったのか、うちもひょっとしてみたいなことで喜びますけども。
で、そういうわけで優位能というかね、そういうことになったときに、そんな謙識ばったことではなかったんだけど
うちの実家に三陰の実家に母親とかも来てね、そこで食事をしましょうって言ったときに
しだし屋さんがね、その料理を持ってきたらね、おふくろがね、泣いてるわけですよ。
ぼーっと泣いてるわけですよ。
いやーおめでとうございますって、よっぽど嬉しいんだなとしだし屋さんは思ったんですけど
そういうふうに思っておふくろは、もうこれでこの子も永遠に失われてしまうのかみたいな、泣いてたというわけですね。
で、結婚式が東京。東京ワクライダー協会。
井塚先生、井塚先生ね、場所はアバコブライダルホールって和世田にあるね、そこだったんですけども
そこでまたね、いろいろね、つまらない話があるんですけども、それまた今度にして、また今度呼んでね。
ところがね、ちょっと東京で暴れすぎて、左遷されたんですよ。
で、最初は行ってたのは高佐古工業ですね。三菱重工高佐古製作所ってところに行ってて。
で、東京の本社に行って、でまた三菱重工高佐古製作所に帰ってきたわけですよ。
そしたら橋井君がいた、だよね。
で、帰ってきて、その時ね、家内と喧嘩したことはないって言ったんです。
30:02
それって本当は小さな嘘があって、ちょっと喧嘩したことがあるんですね。
で、ちょっと喧嘩してて、結婚生活って思ったようじゃないなっていうふうにちょっと思ったところがあってね。
それは皆さんもそう思ったことあると思うんだけれども。
そこでいいアイデアを思いついた。
家内がクリスタルになったらすごくいいんじゃないかなって思ったわけですよね。
これまた勝手なことを考えるわけですね。
で、普通高佐古工場、高佐古製作所の人は高佐古の社宅に入るのは当たらないですよ。
橋井君は高佐古の社宅に入ってたわけですよ。
ところが私はね、一計を案したわけですよ。
実はたるみの清涼台社宅の取りにもあってね。
ここは神戸造神社の社宅なんだけど、まあ可能なんですよ、頼めば。
で、清涼台からたるみ教会までなんて歩いて20分くらいのところですよ。
だからこの清涼台社宅に入って、そしてそこでどうせおふくろが、おふくろもその時にはたるみ教会にいるんですから、
おふくろがきっと誘いに来て、こう言ってこう言って、そしたらクリスタルになって優しくなるんじゃないかなとかいろいろ考えるわけです。
で、家内を説得するのに、君のような千葉の都会育ちの人には高佐古はちょっといなかったかもしれないので、たるみには映画館もあるんですよ。
そんなことはあったんですよ、たるみには映画館。駅前にあったんです。今はないですけど。
たるみは生き物じゃないかなとか言ってた。
そうかしらとか言ってた。たるみの社宅に入って、そしたら私の思い通りおふくろが日曜日教会の会議に清涼台に寄って、
いろいろ親切にしているうちに、家内を救われたんですね。
それが工藤博先生の特典のときにね。
で、あのー、あれです。
その頃、それからね、そうなんだ。
ところが私はね、相変わらずね、めちゃめちゃやってたわけですよ。
その時あの、波水家の事件が起こったわけですよ。
それはね、酔っ払った私がね、たるみまで帰るのがめんどくさくなってね、
波水家にリンゴ1個持って行ってね、止めてくれって言いに行ったという事件があってね。
これはね、いまだに波水家の中ではね、あの人が牧師になったというのは信じることができないという、なってるわけですけどね。
まあ、奥さんにまたよろしく言っておいてください。
で、あのー、そういうことをやってたんですが、
家内が妊娠するに至って、
これでは、これはまずいと。
このままでは家で教会に行かないのはパパとコチュだけだねっていう話に絶対なるっていうことが分かったので、
真面目にやろうと思ってね、クリスチャンに戻ろうと思って、
で、教会に行き始めたわけですね。
でもまあ、それまでいろいろね、
33:00
なぜたるみ教会ですから、いろいろ聞かされてますから、
ただのクリスチャンじゃないとダメなんだ。
清められなきゃダメなんだっていう風にね。
なので、その清めてやろう、求めようかと思ってね。
求めるぞーと思ってね。
で、タバコ吸いながら、求めるぞーと言ってね。
で、あ、これは何だろうと思ってね。
そこまでやめるところから、やめなきゃいかんなと思って、
タバコと酒をね、こうやめようと思って。
酒をね、割と簡単にやめたんだけど、タバコがなかなかやめられなくて、
で、やめてるとね、夢の中に柏井さんの栗原さんっていうのが出てきてね、
タバコ一本吸ったら頭すっきりするぞとか言ってね。
で、タバコ吸ってたところでパッと目が覚めるんですよ。
そういう悪夢をね、毎晩のように見たんですけどね。
で、半年くらいかかってね、タバコもやめてね。
だからまあ、清めていっても、そういうところから始まりますので、
全然大丈夫ですので。
で、そこへ起こったのが阪神淡路。
そこに至る前にちょっと求め始めて、
で、まあ、家内とね、とにかく、家内も清めを求めていた。
で、当時の我々の理解っていうのはね、すごい未熟でね、
いろんなところで聞いてきたことがごっちゃになっているので、
清められた人と清められていない人は、鳥と人間ぐらいの差があるんですよね。
で、清められた人には見た目が、
殿下、皇太子が外をうろうろしてて、こうけろけろしてると、
お月の人がね、殿下、ごみんぶんごみんぶんと言ったっていう話があるんです。
小島伝書に出てきますけどね。
で、あれを、あの、つまり、清められた人は精霊が何でも教えてくれるけど、
清められていない人は精霊は何も教えてくれないっていう、
まあ、そういう理解だったわけです。
そうするとね、もし、家内が私より早く清められたらどうなります?
彼女は何でも言ってるんですよ。
で、私は何も知らないんですよ。
で、私が、今日晩御飯で何してた?
いや、すき焼きがいいなって言ってんのよ。
で、家内は、いや、スパゲッティですると言って。
で、清められた人が言ってるんだから、それ、だめでしょ。
で、私の生活がどんなみじめなものになるかわかるでしょ。
で、それね、そういうことになっちゃいけないと言ってね、
ちょっとこう、動機が間違ってるような気も、今からするとしないではないんだけれども、
とにかくこう、自分の方が早く清められなければならないという、
この清めレースが始まったわけですよ。
で、そのためには、我々の知識では、
捧げてつけて待ち望む。
そうすると精霊が来るという、三段六感になっているので、
捧げるということだなと思ってね。
で、もともと極端な方なので、やりだすと極端なので、
まず新聞なんか読んでたらだめだね。新聞やめる。
テレビも見ない。
家の中にある本をね、
この聖書と信仰的な本以外を全部捨てちゃおうとかね。
ゴルフも、日曜日もこれから教会行くからゴルフもやめる。
36:03
ゴルフの道具を現業民の誰かに、私は送りましたけれども、
釣りの道具も誰かにあげて、
なんか家の中がどんどん空っぽになって、スカスカになっていってね、
なんかとても寒かったことを覚えてますけれども、
それでね、四、五年やってたんですね、そういうことをね。
ところが一向に何も起こらないわけですね。
そこへ阪神淡路大震災が起こったわけですよ。
そのね、ちょっと前にね、家内が社宅のように百何軒あるんですけれども、
そこの理事会長を9時で引いてきててね、
確かに理事会長だったわけですよ。
それはよかったというのは、近くの西陵高校が避難所になって、
多くの人たちがそこにいたのでね、
理事会長すごいです。理事会長がね、百軒の家にね、
頼むとみんなやってくれるよ。
その避難所に行ってね、今何が欲しいんですかって言ったら、
温かいご飯が食べたい、弁当ばっかりでもう嫌だって言ってね。
そんなの簡単ですよ。だって百軒の家があるので、
みんながあの、電気炊飯器でご飯炊いて、
何時に持ってきてって言って持ってきてもらって、
で、何台かの車に乗っけてやったら、
もうほかほかのご飯なんて簡単にできますからね。
そういうことをね、やってたわけですよ。
で、まあ、あのー、
それ自体はそんなに大した話はないんだけれども、
その時の塩屋生会が5月にできなかったんですよ、あの年。
震災の影響で。
11月に日程を短縮して行われたんですね。
で、講師で来たのが、ハーバート・マゴニガルっていう、
イギリスのナザレンシー学校の校長だったわけです。
その時に私ね、自信もあったし、
そろそろこれはケリをつけないといけないんだろうなと思って、
いつまでもこんなね、だらだらやっててもしょうがないなと思って、
それで会社を休んで、
その頃はずいさんにはご迷惑を受ける、
結構よく休んでたような記憶があるんです。
新学校に行ってね、
最初の争点から最後のところまで、
全部で会社を休んでね、
最後の夜に、
清められたい人は前に出てこいって言うので出て行った。
で、祈ってもらえて、そこに先生たちがいてね、牧師たちがいて、
誰のところに行こうかなと思ったけど、
そこに森先生がいたんだよね、やっぱり森先生の方だろうなと思って。
それで祈って、
祈ってくれたんで、
清めの道を歩いて行くようにって言ったんで、
え?って言って、
清められたの?って聞いたら、うんって言うから、
それは違うだろうと思って、
そういう信仰を持って歩けっていうね、
そういうことではあると思うんだけれども、
それは何かが違うと思ったんですよ。
39:02
それでね、千代星会を一人で続行することにしたんですよ、終わってからも。
マイコブ園に行ってね、
そこで祈ってたんですね。
その日も会社休んで、
祈ってたところにふっとね、
もし牧師神様から牧師になれって言われたら、
俺はなるかなってふと思った。
いや、なるよって言ってね、思った。
だけどその時にふっとね、
高校時代の、別に名前を出す必要はないけど、
米澤くんっていう人の顔が頭に浮かんできて、
米澤くんが、
お前60くらいになって、
神様がいないって分かったらどうするの?って米澤くんが言うんですよね。
そこでふっとね、
怖くなってね、
それは困るなぁと思って、
大丈夫みたいですけど、
今のはちょっとクソッとやって笑うところだったんですけど、
すみません、分かりにくくて。
それでね、家に帰ったんですけど、
自分が清められたというのは、
全然思わないわけですよね。
でももうこれ以上やることないわけですよ。
なので、どんぼっと寝るようになってしまった。
朝になると起きて会社に行って、
会社が終わると帰ってきて、
飯食って寝るみたいなね。
水曜日は5時ぐらいになると、
この間、
久しぶりに22年ぶりに三菱を訪ねたんですね。
そしたら当時の部下の人がいてね、
これおじさん怖かったと言ってね、
水曜日に5時半に会社が、
5時半に終わる?
5時を過ぎて質問するとめちゃめちゃ怒るって言うんですよね。
帰るのになんでそんな回路が上際に利くのよとか言って、
あれはね、完全なパワハラでしたと言ってね、
もうごめんと言ってね、
謝ったんですけど、とにかく水曜日は、
5時半になったらピューって帰ってね、
頼み協会の帰って、日曜日はもうずっとね、
会場建築とかやってた頃ですよ。
あの時代ね。
それも自動的にやってる感じですよね。
ところが、
三針大震災の次の年の2月6日の火曜日がやってきて、
その時東京に出張して帰り、
ここのところは真面目に聞くような話でもないので、
気楽に聞いていただけたらいいと思うんですけども、
新幹線に乗って帰ってくる途中に、
隣のおじさんがフライデーっていう、
ちょっとエッジな写真を載ってる本を読んでたんですね。
で、私ちょっとこう、
ちょっと思ったんだけど、
でもね、私清めを求めてるのにそんなもん語りしてませんからね。
あの、置いておりないかなと思って。
どっか途中で置いておりたら、僕がそれを見ることができるのにと思ったわけですよ。
42:00
それで、ところが京都でね、
まもなくそれを置いておりてね、
それで閉め閉めって思ったんだけども、そこでふと思ったんですね。
清めを求めている私は、
私に手を伸ばすのはいかがなもんだろうか。
イエス・キリストはそういう小さな違和感を私を守ることができないような方かどうかと思った時に、
ふとバカバカしくなった。
で、もうそんな見る必要ないなと思って。
別に見なくてもいいやと思って。
で、家に帰ったんです。
で、もう11時過ぎてますから。で、もうみんな寝てるし。
で、そこで布団の上に腰を下ろそうとした。
その時にふと思ったんですね。
それは、こんな小さな私を清くすることが、
イエス・キリストにできないものだろうか。
そんなわけないよねって言って、こう寝たわけですよ。
ところがね、その日からちょっと何かが変わり始めたわけです。
その、
次の日が水曜日でまた祈祷館に行くわけですよね。
で、祈ってるんです。
それまではね、神様私を清くしてくださいというお祈りばっかりしてたんですよ。
ところがその時にふっとね、
マラナタって主を早く祈りなさいというお祈りを自分がしてて、
で、友達がね、
今日の祈りなんか違ってたなみたいな。
そうかなーって思ってね。
で、
次の日が木曜日で、
また会社休んでたんですよ。
会社休んでてね、朝起きてね、
そうすると私ね、午前中も言いましたけど、
私の成果体が素晴らしい神聖明けの成果体になったのは
私が抜けたからだって話しましたけども、
あのー、だめ、全然だめ。
歌っててなんか楽しくないし、何が楽しいかよくわからないんですよね。
で、ところがその日の朝ね、
私がね、気が付くとサンビカを歌ってるわけですよ。
サンビカ歌ってる。楽しい。
で、こないだはどうしたんですかーって感じでね、
こう言ってるわけです。で、こう歌ってるうちにふっと
なんかおかしいなと、俺じゃないみたいだと思って
気が付いた。ひょっとして
俺は清められたんじゃないかなと思った時に
ドシャーッと喜びがね、あふれたっていう。
まあしかしこれが典型的な
こうあれかっていうとね、
日本ニュースにおいては何時何分何秒と
はっきりと言い聞ける瞬間があるっていう。
その時に見言葉が来るっていうのが2つの清めの。
これ私ね、牧師生命賭けて言ってるからここだけにしてくださいね。
私のそのスタッフを見させてないって話を今してるので
じゃあ王子先生が清められてないんだっていう
公式見解になりかねないけど、まあどうでもいいやと思ってね
もう言ってるわけですけど。何時何分何秒と言えば
だいたいその2月6日の夜の
11時頃だいたいってね
見言葉っていうのは別にシエスキリストの
私を清めることができないような方かっていうのは
言葉でもないし、それに似たようなところがあるんだろうと思うんですけど
そういう意味では
45:01
そういう2つの基準からいくならば私は
清められてないと言われるかもしれない。
ところがとにかくその時
喜びが溢れたという経験をした。
1週間経って2月13日の火曜日の朝
4時に
それも何分何秒って見とけばよかったんですけど
そういう夜もなかったんです。目が覚めた。
今はそういうのしょっちゅうですけど、年取りません。
その頃はそんなからしたギリギリに走っていくっていうね
そういうあれですから、4時に目が覚めるなんて。生まれて初めてだ。
それでせっかく目が覚めたから
聖書を読んでお祈りでもしようかな
という変な忠告神になった時に
大きな声が聞こえたわけですね
これはね
変な風に聞こえるし変なんだけれども
でもそういう、あまり気にしないで
声が実際聞こえたから聞こえた後に
新憩私の質疑を変えなさいという声が聞こえた。
その頃まだそれが聖書のどこにあるのか
わからなかった。聖書の言葉ともあまり思わなかった。
その時に私は
生涯痛恨の失敗をするわけですね。
その時私はね、はいって言いたかったんですよ。
ところが急だったしね。
変な急腰の姿勢でしょ。思わずそこでね
へーって言っちゃったんですよ。
ところがね、もう一回そこで
でっかい声で、こんな大きな声なのに
なんで構えが寝ているのかわからない。
こんな大きな声なのに、どうして鼓膜が破れないんだろう。
おかしい。
でもそれはやっぱり頭の中で響いているだけなんだと思います。
物理的なことじゃなくてね。
信じよう私の必要を変えなさい。
今度こそはいって言えばよかったんだけど
またね、へーって言っちゃったわけですよ。
神様もう一度ちゃんと与えてください。
三回目にまた信じよう私の必要を変えなさい。
でもそこでもう
ぐだぐだそこまで行っちゃったんです。
またへーって言っちゃったわけです。
で、その時にわかったのは
これは証明、話に聞く証明というものなんだろう。
誰が聞いたってね、そうそうとしか思えないわけで
これ証明ということなので
家内をね、起こして
神様から羊を飼えという
証明があったのであると言うと
まだ寝てるわけですよ。
ちゃんと起きてからちゃんと話にしましたけどね。
で、
つまり2月6日の
証明とその13日の証明
というのがあったわけですね。
ところが会社は
辞めるということにした。
でもその時点ではまだ白衣君には言わなかった。
48:00
それは水上さんにだけ言った。
1年かかって公認人事とかね、そういうことをこうやって
こういう名刺をこうやって出してますけども
それで辞めて
牧師のあたりに学校に行かなければならない。
新学校に行かなければならない。
当時私が知っている新学校は世の中に世界に3つしかなかった。
塩屋の新学校か、アズベリーの新学校か
イギリスのマジャレンが3つしか知らなかった。
で、どうもね
孫になる先生の語り方は他の先生の語り方と
ちょっと違ってた。
精霊を受けなさいと言わないんですよ。精霊に満たされなさいと言うんですよ。
何か違うなと思って
それで心惹かれるものがあったんですね。
それでイギリスに行こうということになって
三菱社内預金とか、持株会とか
そういうのを、生命保険とか全部解約して
その当時の
退職金が333万3000円という妙な数字だったことを
覚えてるんですね。
入社14年働いてね。
多かったか少なかったかわからないけどね。
イギリスに行くことになったわけです。
親子3人でね、向こうに行って
あんな行ってみると何年もあったんだけど
大変だって言ってね
一番安いやつで行こうと言って
シンガポール空港に乗ってね
出発地の1月ですから
北半球から南半球行ってそれから北半球行ったんですよ。
シンガポール空港でしかも待ち時間が一晩あって
めちゃめちゃ暑かったですよ。
そこに電気釜とか持ってね
難民ですよね。
イギリスに向かったわけですね。
イギリスに行って
奇妙なことが起こったわけです。
私はイギリスといえばバックストーン先生が
ふるさとじゃないですか。
我々の清めの源流じゃないですか。
だから我々の言うこのはっきりした清めをね
みんなはそこで教えられてるんだろうと思って
なぜ新学校を選んだのかもう一つの原因は今はないんですけど
当時MA in Christian Holiness
つまり清めの修士号っていう
そういう学位があったんです。
そこはいいだろうなと思って
ところが行ってみてね
私はこういう経験をしてこうなんだと
そうすると人々の反応がおかしいんですよね。
普通だったらそれはワンダフルだとかね
グレードとかね
言うと思うじゃないですか。
うふんとかね、サンキューとかさ
インタースティングとか言うわけですよね。
それでどうもこの人たちは
清めがわかってないんだなという結論に達したわけですよ。
何もわかってないんだな。
本国では清めはグダグダになってて
51:02
はっきりして清められるとか捧げるとか
このキリスト教世界の中でね
ぐずぐずになってるんだなと思って
俺の使命がわかったと思って
イギリスに清めを逆輸入するために
神様が選ばれた器なんだと思ったわけですよ。
そこで私が愛読書にね
サムエル・ブリュンゲル・清めのしおり
という旧聖人の人の書いた本がある。
あれをみんなに読ませてやろうと思って
ところがイギリスでは全然売ってない。
アメリカではまだ売ってるってことが分かったのに
アメリカから十何冊結構高かったんですけど
輸入してそれを新学校の先生とか友達とかに配って
そうすると彼はまたね
サンキューとかね
インタレスティングとか言ってるわけですよね。
なんかどうなってるのかなって
非常に不思議に思ったわけですよね。
知らないわけでも
この手の本はよく知ってるっていう感じの
インタレスティングみたいな
またカモが来たぞみたいな感じなんですよ。
それでねどうもよく分からなかったんだけれども
授業が始まってだいぶ経った頃に
分かったの。
それは清めには二種類あるということが分かったの。
彼らはそれをアメリカンタイプの清めと
ヨーロピアンタイプの清め
なんかコーヒーみたいなのと思いましたけど
があるということが分かったの。
アメリカンタイプってのはどういうことかって
やつですよ。
この捧げてつけて町なぐむときに
神事的な何時何分何秒と特定できるような
鮮やかな清めの経験を経て
人は聖なるものとされるという
聖霊を受けるっていう
聖霊のパルテスマとそれを呼ぶっていうね。
それがアメリカンタイプ。
で、バクソン先生イギリスなのにどうしてアメリカンタイプなのかなと思うと
それはムーディーとかあの人が
イギリスに当時行っているわけですよ。
アメリカンタイプがイギリスにいて
そこから来ているので我々のは
イギリス経由のアメリカンタイプなんですよ。ややこしいですけど。
ヨーロピアンタイプっていうのは何かっていうと
一言で言えば
リレーションし
関係性における清めってことですね。
マザイの御祖父にイエス様が
あなた方の天の完全であるように
あなた方も完全でありなさいって言うじゃないですか。
今朝もちょっとノアのところで言いましたけどね。
それがパフォーマンスパフォーマンスっていうのは
実績っていうか
出来上がりっていうかね。
言葉と行いと思いにおける
パーフェクトであれっていうことであるならば
54:02
全然そうじゃないです。私もさっきから余計なこといっぱい言ってますから
全然完璧じゃないです。
罪も犯す。私は罪を犯す。
あまり胸張って言うようなことじゃないけどね。
だから
あのイエス・キリストの言葉
あなた方の天の地が完全であることか
あなた方も完全でありなさいっていうのを
大抵のクリスチャンは到達不能な目標なんだけれども
ゴールだからそっちを目指して頑張りなさいという言葉と
捉える。改革派は特にそうです。
でも清め派の中で行き過ぎた清め派は
いや罪を犯さない全く聖なる人は可能なんですよと
私じゃないけど他の誰かが
他の誰かが
だけどそれはね自分を見たら
やっぱりいつまでたってもそういう感じには到達しない。
なぜかというと罪を犯す原因というのは
起こそうと思ってきてるだけじゃないから
起こしたくないのに
ずっと愛したいのに私の中の危惧に誰かが手を突っ込むときに
そんなこと言わんでもいいじゃないか
あんたなんか嫌いや。あんたはどうやねん。
私の潜在意識よりもまだ深いところにある危惧が
癒されなければ私は完全な愛の人になることができない。
今も癒されつつ途中なわけですね。
ここまでいいですか。正解ですけど質問があったら
質問すればいいですよ。
大丈夫ですか。ここまでは。
これがアメリカンタイプとヨーロピアンタイプです。
つまりアメリカンタイプはどっちかというと
体験重視なんです。
そしてこのヨーロピアンタイプは
今ここにおける神様との関係
そして仲間との関係
縦の関係と横の関係が
彼らがよく使っている言葉は
つまり曇りのない
クラウドというのはよくコンピューターであるクラウドという
雲みたいなふにゃふにゃっとした
雲ひとつない。あるいは曇りがないという言い方でもいいです。
曇りのない神様との関係
曇りのない兄弟姉妹との関係が清めなんだというわけですね。
だから生きている人間は
曇りができるんです。
例えば私の家内のことについて
誰か他の人が、お宅の奥さんが
男の人と話しとったぜと言ってくるとします。
私の中に何かもやもやしたものが起こるとします。
その時に私はそのことをもやもや
ムラムラしていないで
家内に何かそんなこと言ってたぞと言ったら
隣のなんとかさんがあそこかと言って曇りが晴れるわけですね。
関係というのはメンテナンスが必要なんです。
神様との関係、他の人との関係
いくつもメンテナンスし続けなければならない。
57:01
リレーションシップにおける完全というのは
常にメンテナンスが必要だという緊張を強いるものなわけです。
でも私たちの当時の理解では
清めというのは一発の
鮮やかな体験によって
あまり後はメンテナンスがいらないんじゃないかなと思っています。
そういったら後はスーッと
見た目によって導かれていく障害なのかなと思っていたわけです。
そのほとんどの問題点は
イギリスのナザレン新学校は
知り尽くしているので
大体飛び込んでくるやつは、特に日本から飛び込んでくるやつ
日本から飛び込んでいたのは私が4人目ぐらいです。
ナザレンのアサヒナブラザーズというのが昔いて
その後、工藤博先生がいて、半年後に私がいています。
その人たちは大抵は
アメリカンタイプでやってくるから
僕たちはこうですということを説明して
そうだったのかと言って
アメリカンタイプの人が愕然とするところを見るのが
彼らの無情の喜びであるということが後からわかったわけです。
そのことからそれまでは
勉強もあまり身が入らなかったんですよね。
こういういい加減な清めしか
なんか清められたのか、清められたのかわからないよね。
証もちゃんとできないようなね。
そういう人たちの中にいてもしょうがないなと思って
もう帰ろうかなと思っていたんだけども
ふっとそれに気がついたときに
特にうちの家内というのは、そういうはっきりした体験がないんですよ。
そういう人はいっぱいいると思いますよ。
ところがね、うちの教会の人に聞けば
絶対、家内の方が清いって言いますよ。
いや、胸端で言うようなことじゃないんですけども。
どういうことなんだろうと
長年の疑問なんです。
どうして家内ははっきりした経験をしなくて
私ははっきりした経験をしたんだろうと
その話はずっとあったんですけどね
最近
大体わかっていたのは
青山新学院の川村さんという委員長がいますけれども
あの人がね、神様のイメージというのは
その人の生育歴とものすごい関係している。
その不幸な
あまり愛されずに育った人というのは
神様のイメージというのがないんです。
むしろとても怖い神様だったり
要求する神様だったりすることが多くて
そういう人たちは
バーンと救われたり、バーンと決められたりする傾向が
統計的に多い。
だからクリスチャンフォーム、特に牧師の家の子供が
いつの間にか神様信じているじゃないですか。
キャンプとかいうとね
みんなめちゃくちゃ悪い奴が悪いことして
これで食い温めて救われましたとか言うと
1:00:02
いいな、救いがはっきりしとっていいなと思ってね
牧師家庭の子供たちはね
じゃあ悪い子になって
そこから救われたら自分の救いが確認できるんじゃないかと思って
よくね
真面目な牧師家庭の子供なんかが
大学なんか入ったりするといきなり
誰もしないような金髪になったりするんですよ。
やっぱり自分の殻をはじけようとやるんだけど
でも周りにそういう人いないんで
かえってみんなに惹かれるということがよくあったりするんですけれども
関係なかったですけどね、すみません忘れてください
養護的、養護っていうのはね
養護学校の養護、養い守るっていう言葉ね
養護的に育てられた両親の愛を受けて
愛するということがどうか、許すということがどういうことか
っていうふうに育てられてきた人は
神様のイメージが最初からきちんとあるので
徹的な戒心とか激的な清めを経験することが少ない
これは別に精神的に変えたわけではないけども
体験的にそういうことですよ
だからカナエと私の違いはそうなんですよ
私はつらい少年時代を送っているので
自分も許してなかったし
自分も愛してなかったし
自分なんか大嫌いだったし
でもそれが自分が愛されていると分かったときに
激的な復位や成長していくというのはそうですよね
そうでない人は緩やかにということがあるわけですよね
ですからそういったことの違いも
一つまたあるということと
それとあとは品学的なことですね
プロテスタントの世界で
清めということを言い出したのはウエスレですよね
もともとキリスト教会の伝統の中にはあるんだけれども
宗教改革以降
プロテスタントの教長というのは信仰によって義とされる
ただ信仰によって義とされるということで
成果とかというのは技というか
なんか行いのようなことに結びつく可能性があるので
非常に違ったというところがあります
カルバンは違う
カルバンはだんだん清められていく
でも100%清くなるのは死ぬときだという風に
カルバンはそう言った
改革派の清めというのはしんどい話ですよ
死ぬまでずっと階段登っていくというね
ところがウエスレが19世紀
18世紀の人ですが
になって清めというと
キリスト社の完全ということも分かりやすかった
清めとか完全とかホリネスとか
それがなぜかということが
これも割と最近わかった
1980年代にわかった
ウエスレの一世代前のオックスフォードやケンブリッジの
教授たちの間で
1:03:02
東方というのは東東方教父
教父というのは教会の父
3世紀4世紀5世紀ぐらいの教会の
礎を築いた人々のことを教父と言いますが
教父には2種類ある東と西がある
西というのはラテン語を使う教父たちです
アウグルスンスが最大の人です
東はギリシャ語で考えたり
書いたりする
アタナシオスという人がそうです
私の専門の
ニュスカのグレゴリスという人もそうなんです
ギリシャ語とラテン語は
似てて割と違う言葉で
魂に関することを非常に
爽やかに表現することができる言葉が
ギリシャ語でラテン語はそれに比べると
不安な言語だと言われているわけですね
この
東方教父の書いたものというのは
みんな映しているし注釈しているうちに
割といい加減のものが出回っていたんだけれども
ウエスレイの一世代前の時代にイギリスに
オリジナルの東方教父の書くものが
オリジナルと言っても茶本ですけれども
信頼性の受け入れが流れ込んでいくわけですね
それを学んだ人たちからウエスレイは
教えてもらっている
だから実はウエスレイの中にあるのは
西側のキリスト教と
共に東側のキリスト教
日本で言ったらロシア製教会というのが
来ていますけれども
正しい教会に製教会
ですからウエスレイは
西と東と両方彼は
彼の精神性の中にあるわけです
西から言うとこういうことになるわけです
信仰によってただ信仰によって偽都される
でもそれは口の悪いルーターの言葉を借りれば
小さい声で言いますが
道の山に雪が降っている
本気のままだというのが
ルーターが言ったわけです
信仰によって偽都されるけれども
何にも変わっていない
そのままで許される
そのままで救われる
ルーターはその救いの喜びで打ち合わせる
それ以上のことは考えない
カルバンになると50年後です
そういうわけで
そうなるとやはり
西の精神性から言うと
救いというのがまず一段階あります
でもそれだけじゃダメなので
家庭なり清められていく瞬間があって
1:06:00
世間に至るという
二段階みたいな話になるわけですよね
でもそれは私の場合には当てはまったかもしれないけど
救いも清めもわからないです
非常になだらかで
ところが
東のキリスト教はこういう
リレーションシップの完全
よく使われる例は
バラの花は完全なつぼみがある
花は咲いてないです
咲いてないけど
咲いたり腐ったりしてなかったら
完全なつぼみだと言う
花が咲いて
この花も完全な花と言えるけど
つぼみは花じゃないから完全じゃないと言うことができない
だから私たちは今ここで
神様と兄弟姉妹との間の
リレーションシップが
曇りがなければ
今完全
これがリレーションシップの完全です
先程も申し上げたように
生きている神と生きている人間との関係も常に流動しているし
いろんなことが入り込んできますから
主の祈りを祈るでしょう
我らの罪名も許しため
清められた人間は祈るわけではない
日々祈るわけです
いつもクリアにするために
曇りのないものにするために
ですから東方によれば
瞬間的な体験
どういう体験をしたかというのは
重要なことではない
特に私のような
3回大きな声を聞いて
笑えるけれども誰かの参考になるかというと
だってその人にそういうことが滅多に起こらないから
私だってそういう神秘的な体験というのは
生涯ただそれ一度きりなんですよ
一回あったら十分ですけどね
そんな処置があったら大変ですけど
だから体験じゃない体験じゃないです
体験があったらそれは喜んだらいいです
今こういうふうにお話ししているのに
自分はでも発見した清めの体験がありますという方がおられると思います
それによって他の人もそうじゃなくてはいけませんと言ったらだめなんですね
それをやっちゃったのが私なわけですよ
家内に私なかなか極められないんだけど
と言ってね
それは俺にもっと従うか
ハラスメントの世界はここで終わってくるわけですね
自分の体験は自分だけのものであって
それはいろんな現れ方の一つなので
1:09:00
人の話を聞いてそういう体験が自分にないから
私はまだ清められていないんだって
その出雲に沢山そういう人いましたよ
それは違うそれは違う
今あなたが力を尽くし思いを尽くし存在を尽くして
神を愛し兄弟姉妹を愛しているならば
あなたは今完全だと
リレーションシップにおける完全だということができます
それを何を
しかしみんなそうしたいと思っているんだけど
それは傷ですね
このことを最初に言ったのは
アズベリシン学校のシーマンズという親の方ですね
ある時この人は
自分が牧歌している教会で
今までにない説教をした
それを説教したら
深夜長老牧師が絶対怒られるだろう
厳しい人だから怒るだろうなと思って
でもそれが後で本になって
ヒーリング・ザ・ウーンディッドは
傷の癒し
ヒーリング・ザ・ウーンディッド・エモーション
傷つけられた感情の癒しという本を書いているんですけれども
つまり私たちの感情や
この自意識は
今まで生きてきた中で
大いに傷ついている
それが私たちを
この
愛することから遠ざけている
愛そうと思う意思だけでは十分じゃない
傷は自分でも気がついていないんです
気がついていないんだけどパッとやって
誰でも
この言葉に反応するというのがあると思います
バック・トゥ・ザ・フィギュアに出てくる主人公は
チキンと呼ばれると反応するんですけど
何かそういう
言葉というか
相手がこんな風な思いを自分に
抱いているんじゃないかなということが
嫌で嫌でたまらなくて
やめてと叫びたくなるような
そういう思いというのは
誰にもあるじゃないでしょうか
それは
普通はね
クリスチャンの聖書を読んでお祈りして
そして神様との関係を
と言うんだけども
そこはちょっと別の
別のその
癒しを必要として
意思を強くして
愛することができるように
意思を強くするということが問題じゃなくて
私が愛そうと思っても
愛することができないで
むしろ相手に叫んでしまう
やめてと叫んでしまう
私の目の前から消えてくれと叫んでしまう
そういう風な
傷が
あなたから刺激的なことに気づかないでいる傷が
癒されずに残っているときに
それはあなたのクリスチャンとしての人生を
耐え難いものにしている
捧げてつけて
待ち望むのは
もちろんその通りだと思うんです
でもそれだけが届かない
潜在意識の底にある
1:12:02
怪我というか
病というか
癒し
ですから東方においては
清めは
癒し
救いは癒しとか
癒しと
治療として捉えるんです
罪は病です
怪我である病である
両面あります
罪は私がやろうと思って犯した
罰せられなければならない
許されなければならない
行ないという罪もあります
でも
癒しを必要としている
病としの側面の罪にあるという
これはねとても
特にクリスチャンにとっては大切なことだと思います
このことが
わかるならば
急いで清められようというのが
時として無理があるということがわかると思う
なぜなら
時間がかかって傷つけられてきた私たちの
心が癒されていくためには
時間がかかるんです
それには二つの方法がある
二つの各べからざる
やらなければならないことがあると思います
一つは陶寺ですね
陶寺というのは
温泉ですね
温泉に入る
温泉が
私はカラスの行随なんですけど
それじゃ駄目なんです
温泉は
じっくり何回も何回も
入ってね
長く入ってね
二言葉の陶寺なんです
聖書を読むならば
聖書には
私たちがどれほど
奇妙でわかりにくいほどの愛を持って
神様から愛されているかというと
どこにでも書いてあるんですよ
これ読むんです
パッと読んでわかったとかね
もうわかったとかじゃなくてね
心にひみ込んで
本当に私のうちに
本当に私は愛されていて
本当にこんな私だろうけど
こんな私なんていうことしかない
神様が
私の目にあなたを置かれたと
おっしゃっているということが
本当に本当に本当にわかるまで
聖書を読む
二言葉の陶寺
頭で理解するということとは違う
どんな時でもその言葉を聞くんです
とても自分が愛せないような時
自分のようなものに
嫌気がさせた時
私はよくしょっちゅうですけど
その時に聞くんです
そしたらね
入り込んでくるものがある
癒されていくもの
三言葉の陶寺ね
もう一つはリハビリですね
なおっても私たちは非常に不器用なので
互いに愛し合うということを
スムーズにすることはできないです
役員会議や総会議が
もめるのはそれですね
先生前に声を歌わないか
先生おっしゃらないか
といってね
時に役員と一緒に資料を作ったのに
この人はおかしいと
ちょっと待って
というようなことがね
明のじゃないですし
1:15:00
嘘の教会のことですけどね
そういうこともあったりもする
なんでだろう
その人は役員会をかき乱そうとして
総会を潰そうと思ってやってる
とんでもないですよね
牧師をいじめようと思ってやってる
とんでもないですよ
そうじゃなくて
そこには
教会をよく行きたいなと思っている
気持ちがあるんだよ
でもそれが
彼のどこかの傷に触れて
他にどういうふうに
言ったらいいかわからないんです
目の前にいる牧師が
敵のように思って
先生がそんなこと言うから
わかんないや
とつい言っちゃうわけです
でも本当は
そんなこと言いたいんじゃないんです
いや本当にそういうこと
言いたくて言ってるとしたら
ちょっと困りますよね
人は
みんな素晴らしい動機から
すべてのことを
しようとしているんだけれども
自分の傷に触れられるときに
悲劇的な行動を取っている
悲劇的な行動を取られた人は
それに対して
自分が傷つけられたと感じがして
また悲劇的な行動をもって
応酬する
ということが世界中で起こっている
戦争とか
戦いとか
喧嘩とか
日韓問題とか
そういうことが
世界中で起こっている
だから
見言葉によって
当時して癒されていた人たちは
愛し方?
許し方?
許され方?
許され方下手な人が多いですよね
覆い方?
例えばね
こう
自分が提案したものが
役員会なり
あるいは総会なりで
この
自分が反対していた意見が
届いたとしませんか
よくあることでしょう
その時
その通った案件を成功させることができる
鍵になっているのは
自分だということが分かります?
だって自分だけには
みんなが賛成していても
この問題は
ここに問題があるということ
自分だけは分かっているわけでしょう?
だったらその人は
失敗するのを見ていて
ざまあみるじゃないでしょう?
そうじゃなくて
分かったらやろうと
僕も加えてほしいとやったらいいんですよ
ただ
ここだけはというポイントがあるはずですから
それはあなただけに見えていますから
ここはちょっと気をつけようね
ここはちょっと僕に任せて
覆い方というのはそういうことです
覆うというのはそういうことです
癒されている人間はこれができますよ
癒されていない人間は
またいつも俺のことに言うことに
みんなが反対する
俺の意見だけいつも否決される
こう怒っているわけです
でもそうじゃなくて
みんなそれなりに考えてやったんだな
確かにみんなの意見にもいいところがあるよね
でもここは危ないよね
1:18:01
その危ないところを
自分が通り過ぎることができるように
遂行することができるように
働くことができたら
そういうことを学ぶのがリハビリですね
ですから教会は愛の学校ですとある生会で
私が言ったらその後
横田ポールさんが出てきて
先生は愛の学校と言いましたけど
教会は愛の実験室ですと言って
つまりこういうことです
愛の学校と言うと
最近の学校は失敗で許されないんです
本来学校は失敗して
できなかったことができるようになってきて
すごいですよ
でも今は内心症があったり
いじめがあったりするので
失敗したらアウトなんです
スクールカーストで
突き落とされるんですよ
失敗したら
だから実験室だったら
失敗も半分ぐらいだから
大津先生の愛の学校で
愛の実験室がいいですって
これなんか後出しだなと思って
めちゃめちゃ腹立ったんですけどね
それからあとは
すかさず愛の学校
そして実験室というね
いろいろしてます
実験室なんです
教会は失敗していい
安心して失敗していい
誰もあなたのことを
わざと意地悪でやったなんか
思わない
だから誰かが失敗したときにね
みんなでね
笑って笑ったらいい
あ、失敗だったねって言ってね
楽しいじゃないですか
そういう失敗できる教会だったら
楽しいですよ
これが世の中だったら
誰の責任だとかね
あんたがこうやからとかね
だいたい牧師はいつもそうなんだとかね
そういう話になるでしょ
そういう牧師が
その教会がそんなところで
あってはならないですよね
謝りか
謝るときにはどういう風に謝ったらいいのか
ってね
人を許してあげるときには
どういう風に許したらいいのか
やってみないとわからないんですよこんなこと
我々はそういうことあまりにもやってないのでね
自分を何とか守ることしかね
やってないのでね
とことんね
当時とリハビリに励んでいただいたのね
こういうことは細かく言わなくてもいい
先生が全部知ってるのでね
また聞いといてください細かいことはね
で、ある教会で
こういうことを語った
そうするとね
その集会が終わったときに
ちょうど
その辺にいる人と
この辺にいる人と
二人の
女性が
若くもないけど
年でもないという感じの
女性が
こっちとこっちに座ってたわけですよ
そしたらこれで終わりますよって言ったときに
その二人の女性がほっと立ち上がって
真ん中にストーブがあるんですけど
そのストーブのところが
そこに立ったまま語り始めたわけですよ
何だろうなと思いながら
私は
そのね
その地の三菱重工の
1:21:00
市社長が会社のお金で
ステーキ食べさせてあげるって言ったんで
そこを早々に
今の話はちょっとマズい話なので
ここだけの話しといてくださいね
今ちょっとだけ笑うポイントですけど
まあいいです大丈夫です
私はすぐそこを離れたんだけど
ちょっと気になったのです
そこの牧師の後で聞いてみたんですよ
あれ、あの二人何
どうなったのと言ってね
ちょっと気になる様子だったの
そしたらあの二人は
この協会の中心的な人々なんです
二人なんです
でもここの十数年間
挨拶以外に口を聞いたことがない
喧嘩してるとか
じゃないんだけど
要は会わないわけですよ
向き合おうとすると喧嘩になっちゃうので
お互い賢く
挨拶ぐらいにして
それぞれ別の方針をやってるっていう
人間関係だと
ところがあの日彼女たちは
あのまま立ったままで数時間
十数年ぶりに語り続けた
奇跡が起こったんだ
これは奇跡だと
言ってました
リハーサルが始まったんだよ
まあいろいろね、教会で何かが
街道が立ったとかね
いろんなことはあるかもしれないけど
でもそういう凍りついた人間関係が
溶けていく
そういうのが奇跡じゃないですか
神様がする奇跡っていうのはね
そういうことが起こったときに
神様がどれほどの
人の心を深いところから
取り扱って
癒していくか
彼らはもう
前の彼らではないので
家族のところへ
職場へ学校へ
彼らが帰っていくときに
彼らはそこでリハビリを覚えていくわけです
これが
世界を変えていく
世界を変えていくというのは地道なことですね
鉄砲で世界は変わらないですね
どんなに技術が発達しても
それを人間は悪いことに
用ってしまうかもしれないけれども
私の心が癒されるときに
私はまた人の心を
癒したいと思うんです
これほどの喜びはないですよ
自分が癒されて
もう何もいらないですよね
本当に自分が目の前の人と
心が通じて
そのことを憎んでいると思った人たちと
手を取り合って
私はあなたを愛しています
大好きだよということができたらね
言ってもらうことができたらね
人生の目的って
多分そういうところにあるんですよ
この
アゴヒゲの話なんですけど
これね
もともとはしょうもないところから始まったんです
これは
台風で東北が
えらい目にあったので
支援に行きましょうということで
1:24:01
言ったわけですね
ところが行ってみると
なかなか
被害地はもうだいたい
ボランティアが入っている
ところが普通のボランティアが
入り込めない領域があった
それは農地なんです
農地は保険か何かの関係で
入れない
我々は保険なんか関係ないですからね
リンゴ園に
雇われて
お金もらえないですけど
リンゴのプラスチックの
いれる収穫箱が
何百個か積んじゃって
ドロドロになって
金が入っていて使えない
ケルシャは高圧洗浄機で
やるんですよ
それを二日間やってたわけです
その間に
なんとなくヒゲ剃らなかったわけです
帰ってきてみて
これは
ちょっと伸ばしてみたらどうかな
そこで
役員会に
聞いてみたんです
12月の最後の役員会
12月1日の役員会
その去年
2019年の間に
97件の
しょうもないこともいっぱい
含めてですけれども
議案を処理してきた
97件
98個目なんですけど
アゴヒゲどう思いますか
っていう
牧師アゴヒゲの件
そしたら
やってみますか
やってみますか
いないですか
誰も気にしてないですけど
みたいなことだったので
こういうことになったわけなんですけれども
実はね
私は本当に悪い牧師で
アケノキリスト教会
ここだけの話
13年前にやってきたときに
私はその前に
カガト教会という大きな教会にいました
主管牧師がいて
副牧師がいて
それで私たちがいて
大変だったんですよ
忙しくてでっかい教会だしね
やっぱり主管牧師が
言ったことをやるわけなので
私みたいな脱力系で
人と違うことをやる
いつもね
大体言われてもちゃんと
その通りのことができなくて
他のことをやっちゃうみたいな
いろいろめんどくさかったんですよね
窮屈だなと思って
それでアケノに来て
俺一人しかいないなと思って
羽を伸ばしすぎたというか
いろいろ勝手なことをやったりとかね
多くの人々が
えーっていう感じがあってね
多くの人たちが
教会から離れた
その頃は斉藤先生に
ご心配をおかけします
でね
あのー
その頃の役員会って大変だったんですよ
もう
どうして先生はこうなんだみたいなね
1:27:00
じゃああんたらだってこうじゃないかみたいなね
もうそういう感じでね
だからね
それも今考えてみれば
それぞれ大義にしようとしているものがあって
相手がそれを土足に
踏みにじって
るっていう風にね感じて
他にやり方がわからなかった
私もわからなかった
叫ぶしかなかった
とてもそこはね
痛みがあるんですけどね
それから考えるとこの
第98号議案でアホヒゲ
どう思いますかと言って
好きにやればって言ってね
なんか私もとてもね嬉しかったんですよ
なんかこういう合わない話が
役員会でできるようになったなと思って
それがねこのアホヒゲの話なんですね
新学校を卒業するときに
パーティーみたいなのがあってね
そのパーティーの中で私は
アカデミックディーンで
校長の次でアカデミックな方面の
学問的な方面の責任を
持っているのがアカデミックディーンですね
そのアカデミックディーンに
私は7年の新学校で
3つのことを学びました
1つはもちろん英語ですよ
I
I got 3
things
1
経験ではない
曇りのない
風と横との関係である
経験ではないその本質は経験ではなくて
経験は表れ
本質は関係なんです
曇りのない関係
この辺のことはね
たき火を囲んで聞く神の物語
っていう本の中にちゃんと書いてあるからね
帰りにお求めください
お求めの際に
私のそこにサイン代わりにね
お友達カードが置いてありますから
何枚でも持っていっていいので
1はこれね
経験ではない
曇りのない神と人との関係
2
清めは
個人の持ち物ではない
個人主義的なものではない
あの
私は清いけどお前は清くないみたいな
話が
なんとなく個人主義でいくとあるわけですよ
そうじゃないです集団としての
清めなんです
だからこの教会では
あの人とあの人が清いけどこの人とこの人が清くない
っていうのはありえない
この教会の中の愛の
リレーションシップが
満ちている時に
この教会は清いんです
清いキリストの体の
私は一部分だということですよね
でも必ず
それにはいろんな要素が
入ってきていろんな出来事が
起こってくるのでその平和は
破れる
破れた時に
どうやってメンテナンスするか
それをメンテナンスするんです
生きてる人間は成長してきます
成長痛というのもあってね
集団が成長していく時に
成長のこのね
手とこっちの
あれがバランスが違うとどっか痛くなるとかあるじゃないですか
1:30:00