1. 名谷教会 podcast
  2. 2013/11/10:聖日礼拝(旧音源)
2013-11-10 45:38

2013/11/10:聖日礼拝(旧音源)

2013/11/10 聖日礼拝(旧音源)




00:01
おはようございます。
この皆さんの教会にとってチャークの2回目になりますが、以前はこっそりと礼拝をしていただきました。
でも、皆さんの教会で、いつも新学校のために覚えてお祈りくださり、本当に感謝しております。
今、新学校では行動が使えなくなりましたので、ちょっと浮遊がないわけではないんですけれども、
みんな元気で学びと訓練に励ましていただいていることを感謝しています。
いつも、前こちらにいらっしゃったんですね、鎌野尚人先生ですね。そして三上さん、いつもお世話になっております。
本当に、新学をして、教会の員人の中で支えて送ってくださっていることを感謝しております。ありがとうございました。
今日はこちらで、礼拝の御用ということでしたので、祈り待ち望んでおりましたが、
人を呼んでいただきました人の働き九章の三十六節から四十三節のところ、
たびたおきなさい、このお言葉を力与えられ導かれたいと願っています。
一言お祈りさせていただきます。
恵み深い父なる神様、本当にあなたの皆を崇めて感謝します。
イエスの血によって買い取られた神の教会が、
こうしてこの地に建てられ、また多くの人々の祈りと導きの中で、
今日を迎えていることを覚えて心から感謝します。
また、愛する兄弟姉妹たちが、本当にいろいろなところから導かれて、ここに一つにせられて、
血の教会に仕えるものとし、あなたを礼拝する民とされていますことを心から感謝します。
今日は小さきものを送ってくださいましたが、どうぞお言葉を通して、
もう一度あなたの御前に静まりますから、神様どうぞ、
あなたのお言葉が御霊によって私たちの心に届きますように、
助けて導いてくださることをお願いします。
どうぞあなたの御業が御言葉によってなされ、導かれますように待ち望んでいます。
主が慰められますように待ち望みつつ、
委ねて主キリストの皆によってお祈りします。
アーメン
今日のところですが、
このタビタというギリシャ語は、言葉はですね、ギリシャ語ではドルカスという意味があるそうですね。
この日本語に訳すと、カモシカという意味があるそうですね。
カモシカからイメージするのは、非常に活動的なですね、
03:04
そして何かこう、何て言うんですかね、
俊敏なと言いますかね、
そういう生き生きとした、行動的な、そういうイメージを抱くわけですが、
きっとこのタビタという女性はそういう思想ではなかったかなと思いますね。
多くの人々に愛され、慕われていた人でありました。
ところが彼女が死んでしまった。
周囲の人々の悲しみは、いかがばかりであったかと思いますが、
諦め切ることのできない周囲の人々が、ペテロを呼びに行って、
そして祈ってほしいというわけですよね。
きっと彼らは、このペテロはイエス様の弟子であり、
そしてイエス様と共に、あのカイゾウ塚さんの家に行った時ですね、
イエス様が、その時はタリタじゃなかったですね、
タビタではなくてタリタと言われましたね、娘の方ですね。
タリタ国と言って、その12歳になる娘を生き返らせたという出来事がありました。
おそらくそのことは知れ渡っていたのではないかと思います。
その時の立ち会い人であったペペロをね、ぜひ来てもらって、
神様が大きな業を成してくださることを期待したいと、
そういう思いを持ったのではないかなと思います。
実はですね、私がもうだいぶ前になりますが、
以前におりました教会のある姉妹が亡くなりました時、
他の人がいなくなって、病室にもう亡くなっていたのですが、
その姉妹の所に周辺に誰もいない時に、
私はその部屋に入りまして、
この姉妹をじっと見ているうちに、思わず
「タリタ、起きなさい!」と言ったんですね。
どうしてかと言いますと、大変な事情の中で死を迎えたのです。
で、このがんになってですね、死の末なくなったわけですが、
その間ずっと私の心にありました。
こんなに大変な状況の中で死を迎える、
いったい神様はどういうことだろうか。
それこそ私に代わっても、と思うような気持ちになるような状況でした。
06:02
で、どういう状況であったかと言いますと、
私が初めてですね、この姉妹を訪問してやって欲しいと、
その姉妹のお兄さんのお嫁さんから依頼されたわけですね。
で、そのお兄さんのお嫁さんはクリスチャンで、
私たちの教会の官員であったわけです。
で、そのお嫁さんにも娘がいましてね、そのユウカミというのですが、
その人もクリスチャンで教会に来ていました。
で、ぜひ訪問して欲しいと言われたわけです。
で、事情を聞かされました。
そうしますとですね、そのご主人が腸の萎縮病という難病にかかっているわけですね。
そして動けない状態。
そしてそのご主人のお母さんがその病気で最新亡くなったというわけです。
そしてご主人のお姉さんも、学校の教頭先生もされていた方ですが、
最終で発作が出てですね、病状がだんだん悪化して、
もうその当時には動けない状態だったわけです。
で、子供が2人、娘の2人いたわけですが、その上の子は3歳の時に発病したわけです。
そしてもう同じ病気で動けない状態。
で、そのように4人の同じような難病を抱えた人たちを世話してですね、
本当に疲れている。
そして毎日毎日がもう駒ネズミのように動いていますよと言っていましたけれども、
大変な毎日だったわけです。
で、その方に福音を語って欲しい。
救われて欲しいと、ずっと祈ってきたので先生お願いしますとこう言うわけですね。
で、私も祈ってその時が与えられるようにと願いました。
神様、時を与えてくださるお方ですね。
ゆくちょっと前に、こういうことが起こったんです。
その2番目の娘、もうこの娘だけは普通であって欲しい。
普通であるというのはすごいことですね。
本当に感謝のことなんですよ。
普通であって欲しい。
ところが、トイレの中で発作が起こってしまったんです。
小学校5年生、6年生かな、の時ですね、発作が起こったんです。
やっぱり同じ動機だということが分かってしまったんですね。明らかになったわけです。
09:05
で、奥さんは異常に悩みましてね、もう最後の望みが切れる。
もう生きる望みがない。
ということで、もう自殺しようと。
娘を連れて自殺しようと考えたんですね。
で、ご主人とまだ元気だった頃に、よくいぶきさんに登りました。
そして、いぶきさんの登山でいろんなところをよく知ってましたから、
冬、この雪の中、冬だったんですけどね。
そういう中で登ってあそこから落ちたら、おそらく誰にもわからないだろうと。
こう思ったわけですね。
そして、次の朝早くそこに出かけようと準備をしたわけです。
ところが、朝目が覚めてみると、もうその当時にはない大雪だったんです。
その辺は、よく雪が積もるところで、30センチ、40センチは人がバッと積まれてしまうというのは当たり前なんですけれども、
その時は50センチから60センチほど積もったんですね。
それでもう車が動けなくなって、出られなくなってしまったわけです。
神様をとどめなさったんでしょうけどね。
その方はその時はそうは思いませんでした。
昼過ぎになりますと、もう雪時のこの車がバッとその辺はよく動きますから、車が出るようになるわけですね。
家の前だけ開ければね。
昼過ぎに車を出しました。
ある交差点まで来た時ですね、出ようとした時、止まって出ようとした時ですね、
横からずっと車が走ってくるのが見えたわけです。
行かんと思ってブレーキをかけたんです。
皆さんご存知でしょうけれども、雪の中でブレーキをかけたらどうなるか。
スルーと滑ってしまうわけですね。
かえってスピードが出て滑ってしまうわけです。
その時にその奥さんはね、いわゆるそのお兄さんのお嫁さんの娘ですね、ユーちゃんって言うんですが、
そのユーちゃんから度々聖書のお話を聞いてましたので、
それで思わず、ユーちゃんの神様とこう叫んだんですね。
ユーちゃんの神様。
で、しばらくはじっとしていました。
気がつくと道の真ん中に車が止まっていてね、
当たるかと思った車が雪過ぎていたんですね。
その時に心に来たのは、神様が助けてください。
12:07
神様は私に、死ぬな。行くよ。そう言っておられる。
こう思ったんですね。
で、そのような出来事があった後に、私が寄せてもらったんです。
神様がね、コルネリオのあるいは導かれたこの後に、ジュスティオにペテロを導かれたその事がありますが、
確かに神様の導きの中で事が起きますね。
そういう時でしたから、もうイエス様の事をお話ししましたら、
もう本当に乾いたスポンジに水が染み込むようにね、受け止めてくださってね。
そして、イエス様によって私は救われた。
十字架の死を信じます。
罪を許してくださった事を信じますと、
本当にこんなにたくさん信じてもらってイライラと思うくらいにですね、信じて。
それから、ホスターが起こった小学生の娘さんもイエス様を信じるようになって、
一生に洗礼を受けになって、
そしてその3歳の時からこの病気があって、発病していたですね、
その娘さんもイエス様を信じた。
だから洗礼を避けてほしいとおっしゃったんです。
ところがその娘さんは、光に当たるとホスターが起こるという。
ですから、光の当たるところでは生きていれない状態だったんです。
最初は家でね、カーテンをしておられたんですけども、
ついに施設に入れたんですが、
施設では真っ暗な部屋の中で世話をしているという状況だったわけです。
しかもその娘さんはもう言葉を話せませんでした。
医師が通じないわけですね。
看護さんやお医者さんは全然もう医師の卒はないと言ってたわけです。
でもお母さんは何か感覚があるっていうんですね。
で、話したことにちゃんと応答してくれるって言うんです。
で、自分が救われた喜びを語ったんです。
そして、あなたもイエス様を信じるよね。娘はちゃんと応答したって言うんですね。
信じますと。
先生、娘は信じています。
だから洗礼を避けてくださいと言われてね、私はその病院に寄せていただいたわけです。
もう最初入った時真っ暗闇ですから、何がどこにどうあるのかわかりませんでしたけれども、
15:03
だんだん目が慣れてきてね、ここにベッドがあるんだ、ここに人がいるんだとね、だんだんわかってきました。
そしてそういう中で洗礼式を持たせていただきました。
このお母さんの信仰と、そしてそれに応じた娘さんの信仰によって、イエス・クリスの名によって私様を授けます。
そう言って、洗礼式をさせていただいたんですね、病床で。
ところが、かんさんはすごいことをされたと思います。
1ヶ月、2ヶ月経ってなかったと思いますね。
その施設から、病院からですね、手紙が来たんですね。
写真裏にこう写真の貼ってある歯書きです。
そして、初めて日光浴しました。すごいことなんですよ、それはね。初めて日光浴。
何か娘さんの様子がね、少しずつ変わってきているということに気が付いて、少しずつ光を当ててみたんです。
そしたらね、おっさんは怒らないんです。
これでも大丈夫だ、これでも大丈夫だということで、ついに明けてですね。
そして今日は、サンサンと降り注ぐ太陽の光の中に寝ましたと。
ですが、借金が多くて寝たんですよ。感動でしたね。
お母さんも本当に喜びました。娘が光の中に出た。
そして娘の告白は、そうじゃなかった。私は空耳で聞いたんじゃない。
確かにその信仰に応えて、神様が闇から控えに解放してくださったんだと言ってね、喜ばれたわけです。
その後ご主人も信仰に導かれたんですけど、そのような過程の中でですよ。
他の病人を世話しなければならない一番の柱となっていた、この姉妹ががんばって入院して、ついに死んだんですからね。
神様何なさんでよかったと思いもなことでした。
ですから本当に旅立った国、娘を起きなさい。旅立った国、その方の名前を読んで起きなさい。
思わず祈らずには折れなかったんです。けれども、目を覚ましませんでした。
それで私は余計に考えさせられてしまったんですね。
旅立った国、起きなさい。私はこういう風に決まったけれども、相手には通じませんでしたけれども、
18:04
そのことは私に返ってきましたね。旅立った国、起きなさい。
私に返ってきたこの旅立った国、起きなさいは一体どういう意味があるのか、この歌詞をもう一度読み直してみたわけです。
その時にいくつかのことに思い当たりました。
一つはですね、このタビタ、36節を見ると、こう書いてありますよね。
36節、ヨッパにタビタ、これを訳すとゾルカス、すなわちカモシカという女弟子がいた。数々の良い働きや施しをしていた婦人であった。
そして、39節を見ますと、こう書いてありますね。
39節には、私今、公語訳で英読んでおりますので、38、39ですね。
そこでペテロは立って二人の者に連れられてきた。
彼が着くとすぐ屋上の間に案内された。
すると、ヤモメ達がみんな彼のそばに寄ってきて、ゾルカスが整然作った下着や上着の数々を泣きながら見せるのであった。
いわゆるタビタは、多くの良い業と施しをし、人々に慕われ愛されていたわけですね。
良い行いをして人々に慕われ愛されている人よ、起きなさいということですよね。
私は逆に、良い業を成すために起きなさい、立ち上がりなさい。
そのような呼びかけのように思いました。
この良い業をする、良い行いをするということは、特にプロテスタントの方ではね、信仰が強調されて、
そして、良い行いということよりも信仰だということがね、非常に強く言われます。
確かにそうなんです。信仰がなければ救われないですね。
良い行いによって救われるのではありません。信仰によって救われるんです。
けれども、良い行いによって救われるのではない。
21:00
けれども、良い行いのできるものとなるように救われたと僕は言っているんですよ。
言い換えるならば、イエス様の救いの贖いの御業の目的は、救われた人が良い行いをするようになるためなんですね。
今回でありますね。テトスの2章の14節。
キリストが私たちのために御自身を捧げられたのは、この11話の御業は、贖いの業は、私たちをすべての不法から贖い出して、
良い業に熱心な御自分の民を御自分のために清めるためでした。と書いてあるんですよ。
だから、救われた者は良い行いをすることを神様に期待されていますし、また良い行いができるようにと神様は願っておられるわけですね。
エペソンの2章の10節を見ると、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリストイエスにあって作られたと書いてあるんですよね。
そう書いてますね。
で、その後にこう続くんです。
神は私たちが良い行いをして日を過ごすようにと、その良い行いをあらかじめ備えてくださった。
一日一善という言葉がありますけどね。
私たちは毎日毎日今日も明日も良い行いをするために生かされている。
朝起きた時に今日すぐ喜ばれる。良い行いができる一日でありますようにということも祈っていいのではないでしょうか。
神様は私たちのためにその良い行いも準備して備えているとあるわけですからね。
神様が備えてくださっている良い行い、それをすることができるようにと祈ってもいいのではないかと思います。
聖書を見ると、良い気は良い身を結ぶと書いてありますね。
私たちはイエス様に作られてキリストにあって新しく作られたものである。
キリストに継続されたものである。
それはどうなるのか。
いわゆる良い身が結ばれるものとされたということなんですね。
良い身が結ばれる。
そして身を見たら気が分かると言われますけどもね。
私たちはイエス様のような良い身を結ぶことができて、キリストを表すことができるものになりたい。
24:10
なぜなら、マタイの5章の16節にはこう書いてあるんです。
あなた方の光を人々の前で輝かせ。
人々があなた方の良い行いを見て、天におられるあなた方の父を崇めるようにください。
と書いてあるんですね。
良い行いをしているその人が褒められるためではないんです。
私たちの良い行いを通して、天の父なる神様が褒められるためだと。
あの人もあんな良い行いができる人になったのか。
変わったもんやなということが明かされるためであるわけですね。
私が渦巻におりました時に、本当に熱心な師媒がいました。
その師媒がよく明かしてくれたんですが、
なんとか主人を救いに導きたかった。
主人に一生懸命イエス様のお話をした。
聖書を渡した。100万人の福音を渡して連動しようとした。
ところがその度に主人から返してくる言葉は、
クリスチャンにならなくても、毎日の生活において私の方が良い生活をしている。
また周りの人がみんなそう言うんです。
主人は本当に良い行いをしている人だったんです。
誰でもが認めていました。
それで、あんたにはキリストが必要かもしれないけど、私にはキリストが必要じゃないと。
キリストがなくてもやっていけると。
あなたよりもやっていると。こういうわけですね。
それで奥さんは一生懸命祈ったんです。どうしたらいいんでしょうか。
どうしたら主人を救うことができるでしょうか。
本を読んでました時に、あなたが救うのではないと書いてあったんですね。
俺がハッとしたんです。あ、そうか、私が救うんじゃないと。
じゃあ私はどうしたらいいんですか。祈りました。
そしたらまた別のところでですね。
あなたは祈っているその人が救われるために、徹底的にその人を愛すればいいんだ。
徹底的に愛って、愛の行いを実践しなさい。
そう勧められていたんですね。
あ、これだ!と思いましてね。
それで奥さんは一生懸命主人を愛するようになった。
そうしましたらね、6ヶ月って言いましたけど、1年近くなっていたかもしれません。
27:01
ご主人がね、奥さんの違いに気がついたんです。
今までは言葉で進めるばっかりでね、ちょっとうるさかったんですね。
ところが最近違うと思い出したんですね。変わった。
何が彼女を変えたのか。神様が変えたとしか思えない。
ということで、その神様の話。
いつもね、奥さんをね、礼拝、毎週の礼拝にちゃんと送っていたんです。
礼拝に出ないで、自動車を綺麗に洗ったり拭いたりしてですね、
集会が終わるのを待って、また乗せて駆けたわけですね。
全然教会に入らないで。
ところが変わった。それで一緒に礼拝に入ると言えばいいんですけど、
そうは言いたくないですね。
それである日こっそりと僕氏のところに訪ねて、
そして僕氏と個人的にお話を聞かれ持つようになったわけです。
そのうちに彼が罪を示されたんです。
私は良い人間だと思ってたんですけどね。
あなたの心の中に罪があると。
傲慢だと。
そして自己中心だと。
その罪の方が、実は現れた罪よりも問題だと、
いうことを教えされましてね、
そのためにキリストが十字架にかかって、
あなたを新しく作り変えるために命を捨ててくださったと聞かされてね、
もうご主人、砕かれたんですよ。
そしてイエスも信じます。
私は傲慢の人間でした。
自己中心でした。
そしてある日、奥さんに言ったんですね。
私もこれから一緒に教会へ行くと。
そして宣誓を受ける。
神様はこの良い行いの伴わない言葉、
これはあまり喜ばれませんね。
でも良い行いの伴う宣教、
御言葉の宣教、
そこに身が結ばれるというね、
業がなされるのではないでしょうか。
私がよくお付き合いさせていただいて、
非常に教えられたり励まされたり、
先輩の牧師がいたんですが、
残念ながら教会で事件が起こりまして、
その先生が教会の姉妹と関係を持ってしまってね、
30:03
スキャンダルが起こってしまって、
その先生は教会を去らなければならなくなりました。
非常に心痛いことでしたね。
悲しいことでした。
ところが十何年、十五、六年していたでしょうかね、
私はふとある教会関係の雑誌を読んだんです。
そこにその先生の名前が出てたんです。
はっ!と思ったんですね。
その先生の名前で証が出てたんです。
あの事件後のことが証されていたわけですね。
私心打たれましたね。
その先生は本当に下されたんです、その後ね。
そしてこのようなことが書いてありました。
私は御言葉で使徒を責め、御言葉で使徒を裁えていた。
しかしあの事件以来、私は御言葉で自分が裁かれ、
自分が責められる立場、
そして神様の御前に徹底的に悔い改めることを導かれて、
そして私をもう一度神様は申し入れて下さいと言うことが分かった。
なかなか立ち上がれなかった。
けれども神様の御言葉を信じて、私は立ち上がることにした。
けれども御言葉を振り回す動きではなくて、
振り回すのではなくて、御言葉に生きる。
そして行いを通して御言葉を語る。
そのことを願いながら日々趣味使えている。
というようなことでですね、証が書いてあったんです。
そして一人二人と救われる人が起こされて、
今開拓伝道が進みつつあるんだと。
そういう証が書いてあったんですね。
私は本当に感謝しましたね。
一度出会いに行かなければならないと思われているんですけどね。
そのように余裕をおこないをするために、
御言葉を立ち上がりなさい。
また神の力で生きる者として、すなわちたびたは死んだんですね。
もはや自分の力で生きることができない状態になったんです。
そのようなものに起きなさいと言うんです。
人間は酔ったってだめですね。
神様がおっしゃるから、イエス様がおっしゃるからこそ、
死にも結果となりに力が与えられて、生きる者とされるわけですよね。
酔ってほしいとは言いません。
けれども、イエス様がおっしゃるとね、
33:01
イエス様の言葉が働くと、死にも生き返るわけですね。
でも、私たちもそうじゃないでしょうか。
そのように生かされて、生かされたものではないでしょうか。
ロマンスの6章の4節によると、
私たちはその死に預かるバクテスマによって、彼と共に葬られたのである。
いっぺん死んだものだというわけですね。キリストによって。
それは、キリストが父の栄光によって死人の中から蘇らされたように、
私たちもまた新しい命に生きるためである。
私たちはキリストによっていっぺん死んだものである。
そしてキリストによってまた新しく生かされたものである。
キリストによって新しく生かされたものとして生きなさいというわけですね。
自分の力で生きるのではない。
キリストの力によって、見た目によって、
宝刀息子は死んでいたのが生き返り、いなくなったのが見つかったといって喜ばれました。
神様との関係が、父との関係が消えていたわけですが、
父との関係が再び結ばれるようになったわけですね。
私たちもそうじゃないでしょうか。
神様との関係が新しく結ばれた。
また私たちは信仰によって生きるものとされたんです。
私はキリストと共に十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられる。
これは信仰によると書いてありますね。
死人の中から蘇ったキリストを信じる信仰によるんですね。
そして私たちは本当に見た目によって生きるものとされているわけです。
ですからこそ、神様によって歩きなさい。
そうすれば決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
さらにもう一つ言えることは、
タビタは主の弟子であり。
三十六節にそう書いてありますね。女弟子であり。
熱心に主にお仕えするものでした。
さらにその名の通りカモシカのように主にお仕えする。
生き生きとした主の弟子であったわけですね。
そうすると、こう言えるのではないでしょうか。
タビタよ、起きなさい。
それを主にお仕えする弟子として、
行きなさい、起きなさい、立ち上がりなさい、ということではないでしょうかね。
主のために生きる。
36:03
今までは自分のために生きてきたかもしれませんが、
これからは主のために生きるものとして
立ち上がりなさい、起きなさい、とこういうわけですね。
ただ主にの人が喜ぶからだけではなく、
主に生かされたものとして主に仕える。
そして主に捧げた死と人生を送るために
生きなさいということになるでしょうね。
実は私が救われて間のない頃でした。
夏の生会がありますよね。
通りどころから来てくださった先生が話してくださったのですが、
ところがその後ですね、選挙主の先生が立ち上がりまして、
どうも説教を聞いていなかったらしい。
聞いていなかったというよりも、通訳をしている人がいなかったんですね。
ですから通訳をしなかったわけです。
ですからその説教の内容がわからなかったんでしょう。
説教の内容と全然違うことをお話になりました。
そのお話になるときは通訳がついたんですけどね。
こう言われたんです。
私たちは三つの点で神様のものになることができます。
一つは神様に作られたものであると信じたら、
あなたは神様のものです。
作られたものが作り主のものであることは、
誰でもわかるでしょうとおっしゃってね。
そしてもう一つ、
イエス・キリストによって買い取られたと書いてあります。
十字架によってね。
私たちは買い取られたものだ。
買い取られたということを信じるなら、
あなたは二つ目の意味においても神のものです。
こう言われたんですね。
そしてもう一つあります。
それは自分の体を神に喜ばれる生きた聖なる備えものとして
捧げなさいと聖書は言っています。
ですからあなたがそのように
誠の霊的な礼拝をするという礼拝者として
自分自身を捧げるなら、
あなたは神様のものです。
だから三つの意味において神様のものですが、
三つ目のことは、
あなた自身がはっきりしなければいけません。
とこうおっしゃいましてね。
そしてね、こう言われたんですよ。
神様のものであるならば、
神様の所有です。
ですから今日所有権の移転の手続きをはっきりとしましょう。
今までもうそうしている人はいいです。
いえ、それを再確認してください。
けれどもまだそこまでやってなかった、
信じてはいたけれどもそれをしてなかったという人は、
私は神様のものですという告白をしましょう。
とおっしゃってですね。
前からじんばりにごめんなさいということになってですね。
39:02
ハワイで50年ほどいたんですけれども、
前からじんばりにごめんなさいということでね、
じゅんばりにこう、
私は後ろのほうにいたんですが、
まだその頃教会に行き始めて、
信仰を持って審理を受けたばかりだったんですよ。
いや、やらないことになったんですね。
で、ちょっとこう抜けてようかと思ったんですが、
どういうわけか神様はとどめてくださって、
私の番に回ってきました。
で、私は祈りました。
私は神様に作られたものであることを信じます。
ですから私は神様のものです。
イエス・キリストがその恩賜をもって私を買い取ってくださった、
という意味でもう神様のものです。
それを認めます。
そして私は心から今、神様に自分自身を捧げて、
神様のものとなります。
まことの礼拝者になります。
こう祈ったんですね。
礼装を祈ってからですね、家に帰ったんです。
そしたら私の父は、私とだいぶ違いました。
私は母のように見えたのかな。
父は非常に卑怯面な人だよね。
でも本当に机の上でも何でもきちっとしてましたね。
出かけた後、帰ってきたら、
今日、引き出しを誰か開いたやつがいるとか言ってですね、
すぐ分かってしまうらしいんですけども。
そんな父でしたから、
持ち物、家の中の持ち物を全部書いてあるんですね。
きちんと。
何年何月何日。
中沢、購入。
中沢亀二郎、所有と書いてある。
うちのお父さん亀二郎だったんですけど、亀さんだったんですけどね。
私は、所有という言葉が、その当時の高校生でしたから、
非常に気に入ったんですよ。
所有。
それで、私の机の周りを見ると、
私の持ち物の全てに中沢亀一、そこで終わってないんです。
所有と書いてあったんですね。
所有と書いてあった。
私はそれを見た時に思ったんです。
今日私は神様の所有になったと。
所有兼移転の手続きをした。
そしたら、私を所有というのはおかしいんですよ。
思ったんですね。
私自身が神様のものなら、私のものも神様のものではないかと。
そう思ったんです。
それでどう書いたらいいかと思いましてね。
この所有というところを消しまして。
そしていろいろ考えたんです。
そして使うも知ると書いたんです。
神様は所有権を与えておられる。
使うも知る権利は与えておられるんでしょう。
42:03
そう思ったから、中沢亀一、所有と書いたんですね。
私、所有じゃないんですよ。
所有と書いたんです。
それを書いたんです。
これはある意味で私の行き着開発になったんです。
神様を信じているだけというのではなくて、
私の持ち物も私の自身も神様のものだ。
神様のものとして生きる。
それが牧師になるとか献身するとかいうことじゃなくてもね。
クリスチャンとして、神を信じるものとして。
まずそうではないか。
こうして言われたんですね。
今までも大きな一つの転機になったんじゃないかなと思わされています。
そして神様に喜ばれたいという思いがね。
一段と強められたことを感謝しています。
ですから、あなた方はどのように歩んで主を喜ばすべきか。
私から学んだはずだと太郎は批判で言ってますね。
主のものとして、主に喜ばれる生き方をしたいという願いを持ち続けることは大切なことではないでしょうか。
信仰がなくては神に喜ばれないともありますし、
肉にあるものは神を喜ばせることはできない。
礼によって生きなさいと。
信仰によって生きなさいと言うわけですね。
自らを清く保つものを主は喜ばれると聖書は言います。
今もう一度思わされますが、
自分を喜ばせた人生は自分とともになくなります。
人を喜ばせた人生は人とともになくなります。
しかし神様を喜ばせた人生は、
神とともに永遠に思えられ、喜ばれるんですね。
そのようなものとして生きるために、
起きなさい、立ち上がりなさい。
旅だよ、起きなさい。
良い業をするものとして、
神の力で生きるものとして、
御霊に生かされて御霊によって歩むものとして、
起きなさい、立ち上がりなさい。
主にお仕えする弟子としてね、
主に喜ばれる生活をする者として、
立ちなさい。
今日もう一度新たに突破させて頂きたいと思いますね。
お祈りしましょう。
天の血つなる神様、
汚い時訳でありましたが、
御言葉をもう一度教えられたことを
お明かしする機会を与えて頂いて感謝します。
神様ともに、
旅だよ、起きなさいと
あなたの御声を聞く機会が与えられて感謝です。
45:01
どうぞ私たちが本当に神様のために、
また良い業をすることのできるものとして立ち上がり、
また本当に主に捧げた者として、
主の弟子として立ち上がることができるように助けて導いてください。
これからの歩みのうちに主がともにいてくださることを信じます。
私の力によってではない、
神様の力によって成すことができると信じます。
主キリストの皆によってお祈りします。
45:38

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