00:02
みなさん、おはようございます。
今日は新年正月です。本当に感謝いたします。
講師の先生を私が紹介させていきたいと思います。
大洲新一先生。先生に私が初めにお会いしたのは、確かに2008年でしょうね。
8年、私がまだ韓国の武蔵にいた時に、西洋の教会の方に、教団の全国青年研修会が、あの時の殿堂局長が、福本先生が、
印刷なさって、全国から先生があった青年を含めて、60,70人ぐらい、50,60人ぶりにお見えになって、その時に先生に初めてお会いして、
12年、3年になっております。先生は、神戸市生まれの方で、北海道大学の経営大学部を卒業し、三菱重工で社会生活をなさって、
その後、独自として寝されて、イギリスのマンチョシタナザレンステオロジックカレッジで勉強されて、その後、関西政策品学校で勉強をなさった先生です。
私が見た日には、先生は、冷静の上にさらに学問をお持ちの先生方でいらっしゃいます。今は、京都府にあります、明け野キリスト教会の機関牧師と、
今日やる機関牧師で、また後輩たちを教えてもらえます。また、お昼の時にも皆さんに紹介しますが、先生の図書がたくさんありますが、今日また皆さん、ぜひ、正常に詳しい先生ですので、その本も、皆さん、講演されたら、さらに2倍3倍の恵みになるかと思います。
では、今日午前、また午後ですけれども、今日の午前は、奇妙でわかりにくい神の物語を題して、大洲真嗣先生にメッセージを語っていただきます。先生、どうぞ。
皆さん、おはようございます。
素晴らしい聖火体の賛美に心を打たれました。
03:05
明け野キリスト教会にも、ちょうど同じくらいの規模の聖火体があるんですけれども、去年から神聖明け野聖火体になって、めちゃめちゃ評判が良くなったんですね。
どこが変わったかというと、私が抜けたんですね。
それで、何が問題であったかが、はっきりしたわけですね。
今朝、本当にびっくりしたんです。
私、車で今日来て、どこに泊めたらいいのか聞こうと思って、そこの前に泊めて、それで誰かいるかなと思って入ってこようとして、車から降りた時に、
歩いていたおじさんがやって来て、「大洲さんでしょ?」って言うんですよ。
え?って言ったら、隣の隣の香川さん。
香川さんね、私が三菱重工で働いていた時に、同じ部屋で、机並べていないけど、斜め前くらいの人だったんですね。
そこでね、向こうはポスターを見ているから、今日は大洲が来るんだって言ってね、知っていたわけですね。
それがでも、あの時間だから会ったわけで、
というわけなので、今度香川さんを見たら、ニコニコを一人で。
他にもね、びっくりしたのはね、
斎藤先生が、斎藤先生がそこに、中川先生がそこに。
三菱さんが教師帰った時、びっくりして、本当に。
なんか、かえって、外も内も知っている人がいっぱいいて、なんかリラックスした感じで、
ここだけの話、今日ここだけの話をいっぱいするのに、もうよそで言わないようにしていただけたらと思うんですけど、
ここだけの話なんですけど、
ユン先生って世界一の牧師なんですね。
こういうこと言うとね、どこ行っても言っているだろうって言われるんですけど、
言っているけど、普通はね、日本一って言うんですよ。
でもユン先生の日本一って言うとね、もうちょっと世界だからね、韓国から来ているんだから、世界一ですよね。
どこが世界一かって言うと、
明太に教会のために、そしてみなさんのために、ユン先生ほど、その成長を喜び、
そして何かあったならば、一番悲しんだり痛んだり、何より祈っているのは、やっぱりユン先生ですよね。
私もこの1ヶ月ほどはね、明太に教会のために祈りましたけども、
普段はね、まず120教会あるので、4ヶ月に1回ぐらいですね、明太に教会のために。
でもユン先生は、そういう意味ではね、一番みなさんの愛して、愛を注いで、ご自分を注いで、韓国からね、日本に来てくださって。
だからやっぱり世界一の福祉だと思いますね。
もちろん明けのキリスト教会で私が、世界一というのはちょっと日本一ぐらいになるわけですけれども、
06:04
今日この中にね、3人ぐらい、なんかヒゲ生やして、変な服着たい人が来たぞって思った人がいるでしょう?3人。
これ日本イエスの伝統ですね。3人ぐらいいますっていうのはね。
この話はね、なんでヒゲが生えててこんな服着てるかって話は午後、午前はしない。
午後がね、圧倒的に面白いので、午後残らなかったら損だと思うんですね。
ですから午後にね、今日は2回の正解ですね。
最近2回の正解って増えてきましたね。かつては大体1泊2日で3回ってやつが多かったんです。
それに3回の正解ってパターンがあるんですよ。
最初福祉の話をして、そして清めの話をして、そして派遣をするっていうね。
2回の場合はちょっとね、工夫が必要なんです。
ただね、私2回の正解もいいなと思うんです。みんな忙しいですからね。
なかなかそんな風に3回っていうのもいかないと思うんで。
で、どういう風に2回で語ったらいいかなってことを考えた結果、こういう風にすることになります。
午前中は、神とはいかなるお方であるか。
Who is God? 神とは誰か。
神とはいかなるお方であるか。
で、午後は、神とは何をなさるお方なのか。
いかなるお方がわかって、そのお方が何をなさるかっていうのが午後に来ますね。
What does God do?
あの、本当はダズかな。What God doesだと思うんですけど。
神様は何をするか。私たちに何をしてくださるか。
これ、午後しますのでね。
ただその前提にはね、神様がどれほどのお方かってことが、本当に本当に本当によくわからないと、
ポンと何するかだけ聞いてもね、わからないので、
これはセットになっているので、午前だけで帰ったらほんとそんなと思うんですよ。
で、午前をするわけで、神はいかなるお方かって。
それを語るためには旧約聖書に限るんです。
というのはね、旧約聖書ってこんだけあるでしょ。
新約ってこんだけでしょ。
厚さが違うんですよね。
で、言ってみるとね、新約聖書はね、短い分だけね、
割と結論のようなことが書いてある。
というのは、みんなこれ、ユダヤ人の人たちは旧約聖書全部頭に入っているわけだから。
旧約聖書がわかった上で、だからあなた方はこうなんだって言われるとすぐわかるわけですよね。
だからね、あんまり神様がどういうお方なのか、
私たちの思うよりもはるかに大きなこういうお方なのだってことは、あんまり詳しくは書いてないです。
09:01
もう前提になっているからね。
だから私たちはまず正解を始めるにあたって、旧約聖書から神様がいかなるお方であるのか、
というのを聞くのがいいんですね。
今日はノアの箱舟の歌詞ですね。
ここで神様はせっかく作った、お作りになった世界を滅ぼそうとするわけです。
でも結局滅ぼさなかったでしょ。
で、作ったことを後悔したり、
滅ぼしたことを滅ぼそうときっかけたことを後悔したり、後悔するんです、神様が。
なんとも奇妙でわかりにくい神様ではないでしょうか。
全知で全能ですべてを知っていて何でもできる神様が、どうして後悔するんだろうというね。
このね、奇妙でわかりにくい神の物語っていうタイトルはね、わりと好きでね、
あちこちでね、これにしませんかって言うんですけどね、ある教会で却下されたんですよね。
どうしてやる気があるんかってね、神様がね、一生懸命わかりやすい神様だと言って、
わかりやすいお話ですから来てくださいっていうのが普通だろうと。
それを奇妙でわかりにくい神様のお話ししますって言って、誰が来るんだと言って。
真面目にやれとかって言われるわけですよね。
ある教会は役員会で、ちょっと違う普通の題にしてもらえませんかっていうことでね、変えたことがあるわけですよ。
でも、やっぱり神様はね、奇妙だと思うんですよ。
神であるキリストが十字架に架けられ、神であるキリストが人になって、私たちの間に、
積み重ねた人に一人として来られるっていう。
これは奇妙なことと言わざるを得ない。
このことをね、わかりやすい話ですからと言って、人々にそれをあまりよくわからずに受け入れさせようとしてはならないと思うんです。
まずは、なんて奇妙な話なんだって驚きがかきにくるはずです。
そんな神様って、おかしいじゃないかって。
いるのかって。
それは私が知っている神様と全然違う。
わかりにくいと。
まずその反応があって当たり前だと思うんですよ。
でもそれが本当だったら、それが本当だったら、私が今まで知っていた神様とは全く違う神だっていうことがだんだんわかり始めるんじゃないかと思うんですよね。
だから今日も、あまりわかりやすいかどうかわかりません。
なるべくわかりやすいようには語るつもりではいるんだけれども、神様そのものがわかったと思ったらもっと大きいでしょう。
これほどの愛だとわかったらもっと大きな愛があるわけですよ。
だからやっぱりね、どこまで行ってもね、わかりにくさっていうのは、やっぱり私たちは人なので、人の愛には、人の理解には限界があるので、
12:01
まだあるっていう、まだ神様は、何十年クリスチャンやってきたけど、まだ神様は私が見たこともない恵みを今日も見せてくださるに違いないと思って。
そういう風にね、私自身も参りました。
今日はね、メモを誰だけ取らないでね、聞いてくださった方がいいんですね。
それはね、顔を、目と目を見ながらね、顔と顔を見ながらね、こうやって振るってことは素晴らしいことだと思うんですよ、神様を称えるっていうのはね。
今日お話することは、さっき持ってきたその説教書に書いてあるの、後で書けばいいから、書かなくていいと思います。
ただね、これがね、去年のクリスマスに出たんですけれども、わずか10日ぐらいでほとんどなくなっちゃって、今、第2版を待っているところです。
2月の初めに出てくるんです。
第1版と第2版が違うのは、その間に歌ができたんです。
この説教書のテーマソング、アブラハムと神様と星空とっていうね、歌ができて、その歌の楽譜が第2版には載っているんですよね。
だから、第1版を買わずに、第2版を買った方が得だと思うんですけれども、
でも今はまだできていないのでね。
井上先生に言ってくださったらまた送りますのでね。
なんか宣伝みたいなことしてますけれどもね。
ノアの物語を読むためには、聞くためには、世界がどういう有様であるのかというのを聞く必要がある。
よく知る必要があるんです。
これをパラパラ読みますけれども、聞いておいていただいたらいいです。
アダムとエヴァが、まず最初に神様に背を向けた。
彼らは神様を押しのけて、自分たちが主人公になろうとした。
この今日の2つの題材、両方とも何とかかんとかの神の物語って書いてあるでしょ。
これはね、世界の主人公は誰か。
神様なんです。世界の主人公は神様なんです。
ところが、アダムとエヴァは、我々が主人公になりたいと思っている。
神のようになれるというのがそういうことです。
神のようになったら、神がいなくても、いちいち神様の言うことを聞かなくても、自分たちで全部決めてやっていけるという。
私の物語にしようと。
彼らのこのカインは、アベルを殺した。
本当はなんで兄弟って言うかというと、愛し合うために、助け合うために、喜び合うために兄弟って言うわけです。
一人っ子寂しいじゃないですか。
なのに、カインは弟のアベルを殺した。
競争相手のように見えました。
愛し合うために作られた兄弟を、なんで俺の捧げ物が受け入れられなくて、
15:07
弟のくせに、弟のくせに、兄貴は俺なのに、俺が主人公なのに、弟の物だけが受け入れられて、競争に敗れたような気がして、
悔しくて、情けなくて、もう弟を見ていることも嫌だから、殺れるのだった。
自分が主人公で生き続けるために。
一番愛するべき存在を、妬み、憎む。
自分が主人公だと思っているからですよね。
だけど本当の主人公は神様ですよね。
世界の主人公が神様であることを忘れるときに、何もかもがおかしくなっていく。
神様が主人公なんです。
神様が主人公です。
あなたは主人公じゃないんです。
この会議から5代目に当たる人に、レメクという人が出てきます。
開ける人は4章19節。
明けのも公益化しているので、開ける人は、私読みますからといって、あまりあちこち開くと時間がかかっちゃうので、4章の19節。
ここにこういうのがありますね。
レメクは2人の妻をめとった。
1人の名はアダ、他の1人の名はチラであった。
2人の奥さんがいる。
おかしいですね。
そういうとき、旧約聖書に何人も奥さんを持っている人がいるから、旧約聖書はそういう一夫多妻制を認めているんですかと聞かれることがあるんですが、そうじゃないんです。
旧約聖書で一夫多妻制のときは、ろくなことが起こっていないでしょ。
アブラハムのときもそうですよ。ソロモンのときもそうですよね。
だから、いいことだと書いているのではなくて、そういうことをしたらどうなるかということが書いてある。
そういうことなんだよね。
2人の奥さん。神様はもともと1人の男と1人の女が一つになるために、男と女が作られたわけですよ。
2人の奥さんがいる。
このレメクの時代になると、結婚のそういう祝福がもう破られているわけです。損なわれている。
ここでレメクは大変傲慢な言葉を口に出します。
それが4章の23節。
さてレメクはその妻たちに言った。
あざと違えよ、私の声を聞け。レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。
私の受けた傷のためには1人の人を、私の受けた打ち傷のためには1人の若者を殺した。
つまり彼は、1人の若い人に怪我させられたというわけですよね。
18:00
どうしたかというと、その若者を殺した。自慢しているんですよ。
しかも俺に怪我をさせるような奴は、息の根を止めてやったと言って自慢しているわけです。
しかも24節。カインに7倍の復讐があればレメクには77倍。
カインの7倍の復讐というのは、アレルを殺してしまったカインを守るために神様が示しを付けてくださって、
彼を殺すのが7倍の復讐だと言ったわけですよ。
守るために神様が愛を持って、住別である、殺人者であるこのカインを守るために。
でもそれは悪用しているわけですよ。
カインは7倍だったかは知らないけれども、俺様は神様よりももっと恐ろしい男だと。
77倍の復讐をしてやると。
この神様を押しのけて主人公になってしまった人間の姿がここにあります。
そしてこの言葉は妻たちに似ているわけですよね。
妻たちよ、俺はこんなに恐ろしい人間なんだと。
俺の起源をそこで出ると77倍だぞと。
これ完全なハラスメンですよね。パワハラですよね。
DVですね。言葉によるDVですね。
言葉だけではなかったかもしれないですよ、この連盟は。
こうしてアダムとエヴァから始まって、まるでお風呂の線を抜くと渦巻きになって水が落ちていく。
その渦巻きがだんだん下に行くほど勢いを増して吸い込まれていくみたいに、
下向きの渦巻きのような罪のそういう激しくなっていく姿が、
勢いを増していく姿が、世界の罪がはなはだしくなっていくそういう姿がここにある。
だけど五章の一節で神様は、人はもともとどういう存在であるのかを思い出させようとしておられると思います。
一節。これはアダムの歴史の記録です。
神は人を創造された時、神に似せて彼を作られ、男と女と彼らを創造された。
彼らが創造された日に、神は彼らを祝福してその名を人と呼ばれた。
神に似せて男と女に、そしてそれを祝福された。
そしてこれがアダムの経図なんだ。
その経図はやっぱり下向きの渦巻きとして、罪に巻き込まれている経図がここに書かれていく。
そして下向きの渦巻きは六章の五節においてどん底に達するわけです。
21:02
五節。
非常に人の悪はどうだし、人の心にはかることか、皆いつも悪いことだけに傾くのを御覧になった。
いつも。いつもいつもいつも悪いことだけに傾く。
それがどのような悪いことであるかの一つのことが六章の一節と二節に書いてあります。
さて人が地上に増え始め彼らに娘たちが生まれた時、神の頃は人の娘たちがいかに美しいのを見て、
いかにも美しいのを見て、その中から好きなものを選んで自分たちの妻でした。
早口で聞き取れなかったら手を挙げてくださいね。
明けのうでは家内がそれをやることになってるんですけど。
ただちょっと早口で言わないとね、あんまり長くなってもいかんのでね。
今のところ大丈夫ですね。
このところはね、人が好き勝手に神の子ら、神の形に作られた人って言うんですね。
人は神の形に作られた。
一人の男と一人の女として作られてるのに好き勝手に外見だけを見て、
あ、綺麗だなと思うと、結婚してようがしてまいが妄想をめとって、どんどん妻が増えて、
ぜんめくは二人の妻、それどころじゃないことが普通に行われるようになってしまった。
結婚関係の乱れが起こるようになった。
神の形というのは、男と女が一対でペアになって神の形なんだけれども、
それが損なわれてしまう。はなはだしく損なわれてしまう。
その時、神様は六章六節です。
そこで主は、地上に人を作ったことを悔やみ、心を痛められた。
神様が心を痛められた。奇妙じゃないですか、神様が。
どうして神様が心を痛めなきゃならないんだ。悪いこと何もしてないのに。
いや、悪いこと何もしてないから、この私たちの姿を見て、心を痛めた。心を痛めた。
このノアの時代の罪というのは、私たちと関係がないんじゃない。
先ほどレムクの傲慢さについて書いてありましたけれども、
自分の妻たちに自分の恐ろしさを知らせようとした。
何でそんなことをしたのかな。ひょっとしたらこういうことであるかもしれません。
妻が押されていると、必ずそこに持ち上げるいろんな問題がある。必ず問題が起こる。
ここで絶対言っちゃいけないのは、一人の奥さんでも大変だからとか、そういうことは絶対言わないことですね。
私は言わない。そういうことを言ったら、いかんと今言っただけなんですよね。
でも二人の妻がいたら、大変ですよね。
24:00
どうやったら、二人と一人で三人いたら、一対一で向き合うことができないじゃないですか。
向き合って生きるべき、その夫婦がね。
いろんなイザコザが起こると。
だいたいあなたはあの人には、星一軸二個をやったのに、私には一個四個はくれないとか、
そんなようなことが言うかもしれませんね。
レメクはそういう時に、そういうイザコザを恐怖によって支配して、抑え込もうとしたんだろう。
妻たちよ、お前ら主人公が誰かわかっているのか。
レメク様が主人公なんだ。
お前たちは黙って私の言うことを聞いていればいいんだ。
私が二個と言ったら二個なんだ。
一個と言ったら一個なんだ。
ごちゃごちゃ言わずに黙って食っていることを超えたわけですね。
受けました、今。面白いですか。
何でしたっけ。
そう、そういう乱暴なことを言ったのかもしれない。
私は目の前にいる人と共に生きることに失敗した。
目の前にいるただ一人のかけがえのない人と共に生きることに失敗した。
目の前にいる人と一緒にどうやって心を通わせるかということを、
努力して生きるということに失敗して、努力をやめた。
私たちもしかして、私たちは目の前にいる人と共に生きることに失敗する。
自分はもう知らないという心になってしまうお互いであることを、
やはりこの朝正直になれば認めざるを得ないと思います。
自分を愛するように目の前にいる人を愛することを神様は望んでおられる。
聖書はそれを語っている。
でも私たちは自分を愛するようには目の前にいる人を愛することができない。
たびたび失敗する。
デメクはもうその努力を放棄して、
もうそのような二人の奥さんと共に生きる関係に生きようとすることを諦めた。
私が牧師として大変な喜びを感じることの一つは結婚式の詩式ですね。
中でも感動的なのは神道の手と神父の手を重ねて、その上に私の手を置いて、
そして制約をしていただく。
神道と神父が私が言った言葉の後について繰り返して制約を行う。
私は神の御心に従ってあなたを妻とします。あるいは夫とします。
27:01
以下、夫の男は省略ね。
今から後、幸いな時も悩みの時も、止める時も貧しい時も、健やかな時も、やめる時も、
あなたを愛しあなたを守り、命の鍵であなたを保ちます。
今ここに制約します。
二人の人が神様によって結び合わされる。
そしてその目の前にいる一人の人に、私は命を尽くして、生涯命を尽くしてあなたに向き合います。
そう言うんです。感動しますね。このことは本当に感動的ですよね。
神様が作られた人の形の回復がここにあるわけです。
結婚するまでに大抵の人間は相当傷ついています。
いろんな生きていく中でね。みんな傷ついています。
いろいろね、本当に信仰を持ったり、仲間たちとの間で癒されていくんだけれども、
結婚関係の中は本当に深い癒しがありますね。
LGBTのことなんかもあってね、結婚しなきゃダメなんですかとか、そういうことを言っているのではないでしょうか。
全ての人は本当に向き合う関係の中で癒されていく必要があるという、そういうことを申し上げております。
だから私たちの目の前にいるこの一人の人は取り替えることができない、とても大切な人なんです。
その人を通して私が癒され、私を通してその人が癒されていく。
そこから世界の癒しが始まるというね。
ところがレメックはどうだったかな。
一人の奥さんが辞める時に彼は何をしていただろうかな。
病んでいる時に多分ほっといて、もう一人のところに行ってご飯を作ってもらっていたのかもしれないと思う。
もちろん私たちの中には二人の妻や夫を持っている人はいないと思いますけれども、
しかし目の前にいる夫や目の前にいる妻ときちんと向き合うことができないということは承知起こっているわけですよね。
結婚関係だけではないんです。目の前にいる人ときちんと向き合うことができない。
自分を愛するように愛することができない。
すべての人が実はこの痛みを抱えている。
そこに罪のもたらす痛々しいこの世界の姿がある。
それは全部自分が主人公になろうとしたことから始まっているということですね。
でも私たちは今日いいお話を聞きました。
今日から互いに向き合って一緒に互いに向き合って生きるようにしましょう。
と思ってもそれだけでは変わっていくことができないんです。
30:03
ロマ書の7章のところですけれども、このようにございます。
18節
私は私のうちに、すなわち私の肉のうちに、善が棲んでいないのを知っています。
私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
私は自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、
それを行っているのは、もはや私ではなく私のうちに住む罪です。
いつもいつも私たちは善をしたいと思っている。
いつも自分のように目の前にいる人を愛したいと思っているんです、私たちは。
本当に思っている。
それなのにそうすることができない。
とパウロは告白している。
結婚式の制約で幸いの時も悩みの時も、止める時も貧しい時も、
健やかな時も、舐める時もとあんなに誓ったのに、
そのように愛することができない。
なぜか?
それは深いところに私たちを愛から遠ざけようとする罪の力が働いているからです。
全ての人にこの罪の力が入り込んでいて、
神様と私たちの関係を損ね、私たちの互いの関係を損ねてしまっている。
でも私たちにはどうにもならない。
私たちがいくら力で自分をコントロールするよりも、
もっと深い人間の存在の根っこのところに罪が入り込んでいるので、
自分ではいつも愛することができない。
ここちょっと挟んでおいていただいて、何か挟んでおいていただいて、
組織に戻って、6章の5節。
さっきのところですけれども、
死は地上に人の悪が増だし、その心に測ることが皆いつも悪いことだけに、
いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
それで死は地上に人を作ったことを悔やみ心を痛められた。
神様が心を痛めてくださった。
私たちはついつい神様が地上に起こることを全てに驚いたりしない。
何かあったからといって心を動かされるようなことはないと思いがちなんです。
思ってしまいがちなんです。
神様に心ってどうなのかな、あるのかな。
世界はやっぱり自動的になんとなく回っているのであって、
神様がその出来事に一つ一つに怒ったり泣いたりおかしいじゃないかと、
こう思ってしまうところがある。
案外クリスチャンでもそういうところがあったりするんです。
しかし聖書には明らかですよね。
聖書には神は心を痛めるお方だと書いてある。
私たちが這い込んでしまった罪を見て、こんなことになるくらいだったら、
こんなひどいことになるくらいだったら、
33:00
むしろ人を作らなかった方が、
そしたらこんなことを見ないでも済んだかもしれないと心を痛めて、
作らなかった方がよかったと思うほどに、
そのように嘆いてくださるお方である。
私たちが愛することができない私たちのありさも、
神様は嘆いてくださる。悔やんでくださる。
そうでなかったらよかったのにと思ってくださる。
そういうお方。
私たちが罪を犯すときに、その罪は相手を傷つけます。
そしてまた私たち自分を傷つける。
しかし私たちの罪が最も傷つけるのは、
ダメだと。
間違いなくこれは神様なんですよ。
神様を傷つける。
私たちは互いに罪に対してかなり鈍感になっているところがあると思いますよ。
でも神様は罪に対する鈍感さを持ち合わせていない。
本当に痛む。
私の愛する子たちが、どうしてこんなことと痛む。
私たちは罪を犯すとき、何とかごまかして自分を守ろうとする。
けれども、こんなことは誰でもやっているとかね。
あの時はここでこう思っただけだとかね。
いろいろ。
でもそんな私たちよりも神様の方がよっぽど私たちを大切に思っておられるので、
神様は大切だから私たちを私のようには甘えかさないんです。
大切だから。
神様は私のように罪となり合いになっていくんじゃなくて、
神様は私を罪から離れさせたいんです。
愛なき思いや言葉や行いから私を罪から離れさせたい。
どんなことをしてでも離れさせたい。
大切にするというのはそういうことですよね。
読書の七節、小説ですが、
簡単に出てきた言葉じゃないんでしょう。
36:00
まるで迷いを自分から断ち切るように、
勢いつけて断ち切るように、
滅ぼすと口に出せとおっしゃった。
この時、神様の前には三つの選択肢があったと思います。
第一の選択肢は何もしないことです。
何もしないとどうなるか。
人の悪がますます増大していく世界を見続けなければならない。
私たちが傷つけ合い、殺し合い、
バカにし合って苗頭にし合い、
憎しみ合うのを見ていなければならない。
神様にそんなことができるだろうか。
耐え難いと思います。
第二の選択肢は、ここでおっしゃったように、
全ての生き物を本当に滅ぼしてしまう。
罪がこれ以上増し加わることがないように、
私たちがこれ以上苦しむことがないために、
とどめるために、もう終わりにしようといって、
私たちを全ての生き物を滅ぼしてしまうという性格もあった。
そうすればこれ以上、悪が増えていくことはない。
もう見ないで済む。見ないで済む。
でもやっぱり、それもできないんです。
愛するゆえに、愛するものがいなくなってしまうということ。
それはできない、神様には。
だから、第一の選択で見ていることができないのも愛ゆえなんです。
第二の選択の滅ぼしてしまう、それができないのも愛ゆえなんです。
愛ゆえに、右にも左にも行くことができなくて、
立ち往生している神様の姿がある。
そして、挙句の果てに第三の選択をなさった。
それが、ノアという一人の人にかけるということですよね。
読書発説、しかしノアは主の心にかなっていた。
主の心にかなっていた。
神様の心にかなっている人が一人いた。
主の心にかなっていたノア。
主の心にかなう人というのは、どういう人なのか知りたいですよね。
そのために正解にしているんですよね。
主の心にかなうとはどういうことなのか。
知ったら、私もそういうふうになりたいと本当に思います。
ノアは実は、洪水の後で酒に酔ってだらしないところを見せたりね。
完全じゃないですよね。いろんなことをやらかしている。
弱さがある人物です。
完全な人物ではない。
でも彼は主の心にかなっていたんです。
もし私たちが完全な人物でなければならないのであれば、
主の心にかなってこの地上の生涯を生きることはできないです。
でも神様が求めていることはそのことではなかった。
39:04
これはノアの歴史である。ノアは正しい人であって、
その時代にあっても、まったき人であった。
本当に墨のどん底の時代にあって、彼はまったき人だった。
正しい人であった。
でもまだわからない。
正しい人ってどういうことか。
いつも正しかったのか。
そうじゃないだろうと思うわけですよね。
まったき人って、いつも完全であったのか。
それはそうじゃない。
もしそうだったら私には無理です。
皆さんには可能かもしれませんけど、私には確実に無理です。
しかし、救いの言葉が一つある。
ノアは神と共に歩んだ。
神と共に歩む人を、
神は私の心にかなうもの、正しいもの、まったきものとみなしてくれます。
神様と共に歩むもの。
だけど、私はすごい疑い深いので、簡単に納得しないんですね。
だけど神と共に歩むって言ったら、いつも神様と共に歩めるかって言っている。
私はそうじゃないぞと思うわけです。
しかし、小さな子供がね、
お父さんやお母さんと一緒に歩くときにね、
今日僕はお父さんと一緒に歩いたとか、お母さんと一緒に歩いたって言うわけですよ。
でも本当にそうなの。
子供たちはすぐ疲れたり、
走って走り回ってるかと思うとなんかノロノロ歩いてたり、
あるいはこっちに逸れていったり、
それだと、もしお父さんが一緒に歩いてたとするならば、
子供が一緒に歩いたんじゃないですか。
お父さんが一緒に歩いたんですよ。
走り出したら一緒に走り、
ノロくなったら一緒にノロくなり、
道間違えたら一緒について行って、また引き返させ、
挙句の果てには疲れ果てたら、
おんぶしたり抱っこしたりして、
それが神と共に一緒に歩くということですよね。
なので心配しなくても大丈夫です。
私たちが神様と共に歩むことができるのは、
神様が私たちと共に歩いてくださっているからです。
なので、神と共に歩む人生というのは、
もっと正確に言うならば、
神と共に歩むことを願う人生だと。
それでいい。それでいいんです。
あとはね、そこで一歩踏み出したらね、
あとは神様がね、
どんなところでも一緒に歩いてくださるから。
私たちの人生の最悪の時も、
あなたが最悪の裏切りを犯したとしても、
42:02
決して許されないような罪を犯した時でも、
神様があなたと共に歩いてくださっていると。
忘れないで、忘れないでいてほしい。
何を忘れてもいいですけど、
今日それだけ覚えて帰ってほしいと思います。
神様と歩くことを願うだけでいい。
もう始まってる。そこでもう始まってるんです。
先ほど神様はノアに賭けたとそういうふうに申し上げました。
賭けるってどういうことってですね、
本当にあなたはあれだなと言ってね、
脱力系だなと、もっと真面目にやれとよく言われますよね。
賭けなんて不満面なことを言うなっていうね、
そういうふうに思われるかもしれないんだけれども、
しかしいつも神様は賭けている。
アダムとエヴァに賭けたんです。
命の木の実を選んで、それを食べて、
神様のようにならなくてもいいから、
ずっと神様と永遠に共に生きることを選ぶか、
それが命ですから。
それとも命の木なんかいらないと、
神様とずっと一緒になんかいたくないと、
神様はいらないで済むような知恵が欲しいと。
つまり自分を主人公にするのか、
永遠に脇役として神様という主人公のそばにいるのか、
選べって言ったんです。賭けたんですよ。
ヨブの時もそうです。ヨブが、
あの時はもうサカンと賭けてますけども、
自分にヨブが従うかどうか賭けてるんですよ。
そして今はノアに賭けてる。賭けてる。
賭けてね、勝つか負けるか分かんないのが賭けなんですよ。
神様はもともとそんなことする必要はないんですよ。
どうやったら勝てるか知ってるんだから。
でも、それでも賭けるんです。
ノアとその子孫がご自分に従うことに賭けた。
どうしてそんなことするの。
大抵負けてるじゃないかって。
アダムとエヴァの時も負けたじゃないですか。
カインについても、
あなたは罪を治めなければならないと言って、
治めろと言って、負けたじゃないですか。
私たちに対しても神様、
共に歩こうよと招いて下さいと。
でも、それに応じるかどうかは私たちに委ねられてる。
神様の手にはないんです。
こっち側にあるわけです。賭けなんです、これも。
こうしてこの朝、
神様が二言葉を持って皆さんに語りかけておられるのは、
神様の神なんですよね。
どうして賭けるんだろう。
神様ともあろう方が、
どうして私に賭けるなんて、
すごい可能性が低い、
勝ちリスクがすごい可能性が低いね、賭けを。
どうして神様はするのか。
もちろんそれには理由がある。
決めようだけれども理由がある。
それは神様にとって一番大切なことは、
私たちが神様を愛して神様を選ぶことが、
神様にとって一番大切なことだからなんです。
45:00
こんな私が神様を愛するかどうかが、
神様にとってこれ以上ない大切なことなんです。
奇妙ですよ。分かりにくいですよ。
何をこうしたらこうなるって分かってんだからやればいいんですよ。
でも、あなたが私を愛して、
私と共に歩くと、
私がそれを言ってほしいと、そのためにこの世界を作った。
そのためにあなたを作った。
そのためにあなたを招いて、私の子として、
今日もあなたに語りかけているという、
私たちの愛が大事なんです。
それ以上大事なものは神様にはないんです。
なんてことだろうなって思うわけですよね。
人を作らなければ心が痛むことなんかなかったのに、
それなのに人を作って愛そうとする。
愛そうとするだけじゃなくて、愛されようとするんです。
愛されようとする。あなたに愛されたい。
あなたの愛が欲しい。
奇妙ですよ。分かりにくいです。この神様。
うちの近くに、いわし水八幡宮っていうでかい神社があって、
30人の神職がいるっていう神社がある。
そこに行くと、交通安全のお祈り1万円とか、
何か忘れましたけど、暗算何とか3万円とか、
何か5万円とか書いてある。
そのお金を払ったら、お祈りしてくれる。
分かりやすいんですね。
このお金を捧げたら、安全に過ごすことができる。分かりやすい。
だけど、私たちの神様は、何にももらわなくたっていい。
与えるだけなんです。
最後何を与えたかって。
ミクイースキリストを与えた。与えるだけ。
何かいいことしたら、お金あげたら何かいいことしてくれるかって、
そうじゃないです。
私たちが悪いことすればするほど、
泥の前に落ちていけばいくほど、
愛が増し加わって、愛を注いでくださる。
私たちが愛さなければ愛さないほど、心に痛みを味わえ、
それでもなお、私の愛をきかえし、私と共に生きようとする。
本気で、私に愛されることを願っておられる。本気で。
そんなことを本気で。
神なのに、おかしい。おかしいです。
でも、そういう神様なんだからしょうがないんです。
本気で私の愛を求めておられる。
このロアノ・ハコブネの歌唱は、私が一年に一度必ず語ることになっている歌唱なんです。
48:05
なぜかというと、一年十二回で聖書を読む会というのをしているんです。
ご近所さんと一緒に聖書を読むって。
最近ね、求道者って言ったらだめなんですよ。
求道なくしてねえって言うんですよ。
ミシンジャーって言ったらね、差別だって言って、まだ信じてないとか言って。
ご近所の方というのがね、一番いいわけですよ。
ご近所の方と聖書を読んで。
ちょっと宣伝みたいですけどね、聖書を物語るというのがそのテキストなんですよ。
聖書をさらに物語るというのが二年生のテキストなんですよね。
そのテキストの中に、さらにの方にロアノ・ハコブネの記事が出てくるんですよ。
だけどね、東日本大震災のところはね、あそこから語るのは難しいんですよ。
あの東北を襲った津波の、みなさん見たでしょ、車で逃げていく人がいてって。
あれとね、ノアの洪水の物語は被って見える。被るんですね。
ですからご近所にしてみればね、神様あのノアのところに大洪水を起こしたんじゃないか。
またやったのか。お前の神様はまたやったのか。ひどいじゃないか。
でもそうじゃない。そうじゃないんです。
八章の一節、宗旨的に。
神はノアとハコブネの中に、彼と一緒に。
ごめんごめんごめん、八章二十一節、ごめんなさい。
二十一節。
主はそのなだめの香りを嗅がれ、主は心の中で高揚せられた。
私は決して叱る人の家にこの地を呪うことはすまい。
人の心の思いをはかることは始めから悪であるからだ。
私は決して再び私がしたように、すべての生き物の家を滅ぼすことはすまい。
日の続く限り、タネマキとカリレ、アムサとアツアナとユーヒルトユはやむ。
神様は人の心がいかに罪に支配されているかわかった上で、とことんわかった上で、だから。
だからって不思議ですよね。
そんなにひどいようにだから滅ぼさないって変ですよね。
ひどいことはわかったと。覚悟もしたと。
どこまでも付き合うと言ったんですね。
どこまでも、どこまでも付き合う。
だから決して滅ぼすことはしないと言った。
呪わない。地を呪わない。
だからどんな自然災害であろうと、それは神様が起こされたことではないということを
この世はなければならない。
思いがけない自然災害、愛する者たちの突然の死に直面するときに、
どうして神様はこんなことを私たちに思います。
51:04
でもそれは神様が起こしたことじゃない。
絶対にそうじゃない。
じゃあなぜ起こったのか。
わからないことはいっぱいあります。
私たちにわからないことはいっぱいあります。
でも、わからないことが多くあっても、一番大切なことは私たちにもうわかっている。
それは神様が私たちを本気でどこまでも愛してくださっているということ。
わかっているじゃないですか。
私たちには想像もつかないような大きな愛で愛されている。
だからどんな出来事の中にも、神の愛をそれが貫いている。
どんな耐えられないような、あってはならないような、あるのがおかしいような
出来事の中にも、神様の愛は貫いているんです。
貫いているんです。
そして、私たちが悲しんだり痛んだりする時には、私たち以上に神様が悲しんで痛んでいてくださっている。
そのことを知っておくならば、いろんなことが私たちの目の前に開かれてくる。
本当の姿が見えてくる。
全部はわからないです。
でも、ひょっとしたらこういうことなのかもしれないなということがね、見えてくるんです。
そして、神様はノアとソノヒさんを賭けた。
彼らがご自分に従うことに賭けたんです。
結局、神様はこの賭けに勝ったのか、それとも負けたのか。
この後の人類の歴史を見るならば、数々の問題が起こっています。
出めくどころじゃない。神に従わなかった者がほとんどです。
神に従った者のうちでも、神に従い抜いた者はほとんどいない。
ましてや、完全に従った者ならば一人もいない。
そういう意味では、神様はここでも賭けに負けた。
そう思えるわけですが、本当は違う。
やがて、このノアのヒさんから、主イエス・キリストが生まれてくださったんです。
この主イエスは、父なる神に従い抜かれた。
十字架の死に至るまで従い抜かれ、そして復活の命に蘇ってくださった。
この命を私たちにもたらしてくださった。
奇妙でわかりにくい神の物語の頂点は間違いなく十字架ですね。
これほどわかりにくいことはない。
なぜ奇妙でわかりにくいのか。
説明を聞くと、何とかそういうことかなと思うかもしれないけれども、実感がわからない。
54:03
何でかと。
あまりにも大きな愛は、私の感性で腑に落ちるようなものではないからです。
あまりにも大きなものってね、わからないんですよ。
表現もできないんですよ。
神が人となって私のために死ぬというのは、これが簡単だから信じなさいと言ってはならない。
確実に理解を超えている。
理解なんかできると思ったらダメですね。
ちょっと匂いを嗅ぐぐらいはできても、十字架の意味を完全に説明しきることはできない。
僕たちはそれで悩みますけど、悩む必要は全然ない。
こんなちょびっとおいしいとこをかじって、わかったことだけ言えばいいんです。
でも、その大きな愛の根質というか香りというか命というのはそこにあるので、大丈夫。
ロマ諸八諸一説と二説。
先ほどのロマ諸の七諸では、私たちのうちに棲む罪が私たちを愛する方から遠ざけて罪を犯させていると言いました。
しかしイエス・キリストは素晴らしいことをしてくださった。
ロマ諸八諸一説と二説。
こういうわけで今はキリスト・イエスにあるものが罪に定められることは決して決して決してありません。
なぜならキリスト・イエスにある命の御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを解放したからです。
あなたを解放した。
立法というか原理って書いてあるのは、力とここでは読んでもいいと思います。
イエス・キリストが与える新しい命、私たちがいただいたイエス・キリストの新しい命には力がある。
その力が御霊の力が私たちを解放す。
罪と死の力から私たちを解放す。
今までは罪の力に突き動かされて生きていた。
その支配の中で生きていた。
自分ではどうしようもなかった。
だけどイエス・キリストを信じる私たちは、御霊の力によって生きている。
全然違う原理によって、全然違う力によって生きている。
8章の13節。
もし肉に従って生きるなら、あなた方は死ぬのです。しかし、もし御霊によって身体の行いを殺すなら、あなた方は生きるのです。
あなた方は生きる。御霊によって生きる。
あなた方は愛に生きる。
罪に死んで愛に生きる。
死んでいたあなた。
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死んでいたんです。自分は主人公だと思って。
何とか自分を、傷つけやすい自尊心を、何とかかんとかやりくりして、
そうやって、死んだように人の目っきりにして、
あの人がこう言ったとか、ああ言ったとか、本当はそうじゃないとか言いながら、
死んだように生きていた。
本当の命を知らなかった。喜びを知らなかった。愛を知らなかった。
私、今は御霊によって生きている。
そうは言っても時々っていうね、必ず、時々やっちゃうんですけど。
いや、そりゃそうです。
それは御霊によって日々作り変えられているから。
一回だけじゃない。日々作り変えられているんです。
だからそれは続いていく。
そして神様の愛を深く知れば知るほど、私たちの癒しは進んでいく。
私たちは神様の愛を深く知れば知るほど、自分の罪に、
自分を支配していた罪の力の影響、影響の残りにさらに深く気づく。
でも、気づいたらその深いところからまた癒されていくんです。
そういう歩みが私たちのうちに始まっているんです。
神と共に歩く歩みというのはそういう歩み。
癒されながら歩んでいく歩み。
だから、その歩みが私たちのうちにもう始まっているということは、
ノアにかけた神様はこの影に語れたということなんです。
もう始まっているんだから。
私たち、愛する皆さんの中にもう始まっているんだから。
神様は勝ったんです。イエス・キリストにおいて勝った。
その十字架と復活によって勝った。
その勝利に私たちはもう預かり始められています。
その時に戻って、ノアのホッカブネの締めくくりは、空にかかる虹ですね。
九章の十三節。
私は雲の中に私の虹を立てる。
これは私と地との間の契約の印となる。
私が地の上に雲を起こす時、虹が雲の中に現れる。
契約という言葉が出てくる。
この契約は人間同士の契約とは全然違う。
人間同士の契約というのは、何かをしてもらったら自分が何かをするということですよね。
例えば、私の本を誰かが買ったら、お金を払わなければならない。
本をもらってお金を払う。
作った人はお金をもらって本を渡すという、それぞれに義務があるわけですよね。
それが人間の契約です。
1:00:00
でも神様の契約は違う。
神様の契約は恵みの契約ですね。
聖書の契約はそういう意味ですから。
一方的な契約ですから。
神様の側に側だけが義務を負っているという契約ですよね。
ノアのところでもそうですよね。
私はもう滅ぼさないとそう言ったけども、
あなた方がどうしたら、何かをしたら、いい性格を送ったら、そんなことは言っていないでしょう。
人の心に思い起こることは、元から悪いことがわかった。
だからもう滅ばさないと言ったんです。
覚悟の上で、どんなにこの世界が悪のどん底に落ちたとしても、
どんなにあなたが罪のどん底に落ち込んだとしても、
どんなにあなたが不信仰の、もう神様なんかいない、もう後悔なんかいかないと言ったところで、私があなたを愛することはやめないと言った。
もうちょっとで終わります。
何かをしたから滅ぼさないんじゃないんです。
何かをしなかったら滅ぼすというわけでもないんです。
ただ神様が一方的に、私はあなたを恵むとおっしゃった。
あなたが何をしたからではない。あなたが何をするであろうからでもない。
あなたを、ただ何をしようがしまいが、ただあなたを愛しあなたを祝福するという誓いを立てた。
十五説、私は私とあなた方との間、及び全て肉なる生き物との間の私の契約を思い出すから、
大水は全ての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。
じゃあどうして自信があるのですか、という疑問を抱かれる人がいると思うんですけれども、
そのことはちょっと今日は話せないので、
百万人の福井二月号に私とカナユスグ先生が書いているので、それを読んでくださったらと思います。
十六説、虹が雲の中にあるとき、私はそれを見て、
神と全ての生き物、地上の全て肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。
世界が終わるまで、神様は私たちを祝福し続ける。
永遠の誓いを持って、永遠の契約を持って、私はあなたを永遠に祝福するとおっしゃっている。
私たちは自分の罪に打ち強がれることもしばしばです。
思うようにいかない現実に悩むことももっと多い。
そういうときに私たちは、神様の永遠の祝福の誓いを思い出さなければならない。
天地を作られた神様が本気でおっしゃっている。
1:03:00
永遠に私はあなたを祝福する、本気でおっしゃっている。
虹が出てようが出てまいが、そんなことは関係ない。
虹なんか出てなくたって十字架がある。
十字架を見たら、この永遠の契約をみんな思い出したらいい。
十字架には神様の永遠の誓いが鮮やかに記されている。
刻み込まれている。
メコイエスキリストの血をもって刻み込まれている。
私は神様が本気で差し出されているこういう祝福を、どれほど本気で受け取ってきたかなと思うときがあります。
私に対する祝福があるんだろうけど、自分の足りなさに目が行くときに、私に対する祝福はこの程度のものかもしれないなと。
私がこんなだからと思うことがありますね。
あるいは神様が祝福してくださっても、この状況がこの状況だから。
八方を下がる状況で、こういう状況だから祝福してくださるでしょう。
でも、常にこのぐらいかなと思うこともよくあります。
そうやって神様の祝福を小さくしてきたな、私の人生は。
そういう人生だなと思うんです。
でも神様が本気で祝福を出してくださっている。
だったら自分が足りるとか足りないとか関係ない。
全く関係ない。関係ないです。
状況が絶望的かどうか、何の関係があるか。
全能の神が本気で祝福を注いでいるのに、何でそれが関係あるのか。
だから大胆に祝福をそのまま受け取ったらいいんです。
そうだ、その通りだ。
今私の上に、このような私の足りなさにも関わらず、このように私の絶望的な状況にも関わらず、
いや、そうだからこそ、神の祝福が、これ以上ない祝福が、今この時も本気で注がれている。
そう信じて一歩歩み出す。
その時にその祝福が現実のものになっていく。
時間はかかるかもしれない。
大きな祝福は、急にそんなことが起こったら、私たちはついていけない。時間もかかる。
そして、何か百万円宝くじで、どうせ宝くじなら3億ぐらいにするんですが、3億当たるとか、
1:06:02
そういうことを通して、神様は世界を、あるいは私たちを変えようとなさらない。
私を変え、私の向き合っている人との人間関係を変え。
そしてそのことを通して、誰も見たことがないような祝福を、今も本気で注ぎ出してくださっています。