00:02
おはようございます。
今朝は、ユン先生が、六高緑教会の特別礼拝に御用のために行かれておりますので、その留守をということで、この朝の説教を、依頼を受けてまいりました。
今、読んでいただきましたのは、この、いわゆる三条の説教と言われている、その中の一つです。48節。
ですから、あなた方の天の父が、完全であるように、完全でありなさい。
で、三条の説教とか、十無以前は三条の推訓という、そういう言葉で、この五章、六章、七章、そのところから、イエス様がお話しなさった言葉が、そこに語られてまいりました。
で、最近は三条の説教と言ったり、私は、まさに、宗は語られるところですから、三条の礼拝ではないだろうか、礼拝に関することからも、このところには出てまいります。
私に一つのこう、昔の記憶がですね、これを読みますと必ず出てまいりますのが、たぶんまだ新学生の1年生か2年生か、その頃の宗谷生会で、当時校長をなさっておられた澤村五郎先生が、
この三条の説教、三条の推訓というところから、正解メッセージを語られたんです。非常に私の印象の中には厳しいお言葉だなあ、というですね、そういう印象があります。
で、特に澤村先生は、非常にこの頑固鋭いと言いましょうかね、なんか視線が合うと、こっちが申し訳ないという形でですね、目を伏せてしまうぐらい、そういう先生でした。
ですからこの三条の説教が語られたときに、私は本当にこのお言葉の当時に生けたらいいなという、そういう思いがありましたし、しかし同時に私のクリスチャン生活といってまだ日も浅いわけですけれどもね、新学校におりましたけれども、
03:06
程遠いそういうクリスチャンのレベルだなという、そんな印象でもって澤村先生が語られたその言葉を今も思い起こします。
で、この三条の説教、特にここにおいてイエス様がおっしゃった言葉を見てまいりますと、これは十回、
もうせを通して神様がこれを守りなさい、そうするならばイスラエルを私は守ります、この言葉に従いなさい、あなた方に命が絶えられますという、そういうことでもってイスラエルが新たな歩みの中に進もうとするときに、その十回をもうせを通して神様がおっしゃられた。
で、その十回からのこの三条の説教は、そこに印象しまして語っておられるところであります。あなた方のほかに、私のほかに、あなた方神を作ってはならないという、そういうところから始まって。
イエス様がこのところにおいておっしゃられたことは、特に人との関わりの中において、私たちはどうあるべきかという、そういう事柄をそこに特に取り上げております。
ですから、人との関わりの中においてイエス様がおっしゃっていることを見てまいりますとですね、やっぱり私にはついていけないなという、そういう挫折感にも似たような言葉がいくつかついてまいります。
で、私は今日は、こちらの方がよく見えますので、ユン先生の真似しましてね、iPadで持ってこれを見ておりますけれども、イエス様は特に対人関係においておっしゃっていることは、
二重説を見ますとですね、殺してはならない、人を殺す者は裁きを受けなければならないと言われたのを、あなた方は聞いています。
しかし、私はあなた方に言います。兄弟に対して怒る者は、誰も裁きを受けなければなりません。兄弟に、馬鹿者というものは、最高法院で裁かれます。愚か者というものは、火の燃えるゲゲラに投げ込まれます、というですね、そういうことですよね。
06:11
私は言葉の問題でね、よく失敗を重ねてまいりました。特に家庭となりますとね、大変来やすく、そしてまた乱暴な言葉、表現も使えますのでね、ついつい言われてから気が付いて、そうかなって。
娘からは、パパは天国へ行けても、口はいけないわって言われて、今でも残っているんですけどね。そんなこと言っているかなと思いながら、しかし彼女にとってはですね、非常に厳しい言葉として受けたんでしょうね。
それでも牧師か、とか言われたりね。言いたいことを言う娘なのですから、しかしその娘もね、皆さん方にご祈りいただきましたけれども、そのクッコンした相手がですね、2年前に水族館であるということが分かりまして、そしてついにこの9月に召されましたけれども、
なんとか生き延びてほしいという思いを持っておりましたが、しかし最後には長男が時々名古屋まで出張に行ったときに寄りまして、そこでいろいろ話をしたり、別れるときにお祈りをしたりして、私ができない異常のことをしているんだなと後で聞きましたけれども、
その彼が、勝郎君と言うんですけどね、クリスチャーになったらという一言を進めなさった。それがきっかけでね、もうその晩のうちに、じゃあクリスチャーになるのどうしたらいいんだろうか、じゃあ聞いてみるわと言ってですね、また私に直接娘が言ってきたらいいんですけれども、長男を通していちいち言ってくるものですから、
こうこうこうだということを、そしてそのときにクリスチャーになるということのひとつにはね、イエス様がおっしゃったように洗礼を受けることなんだ、ということを言いましたら、もうすぐにでも受けたい、それで急遽洗礼を施しに、
ユン先生のお願いして、こういう携帯をって言うんでしょうか、両手を洗礼やそういったときに使う、そういうものをお借りして、そしてその住まいでもって急遽洗礼式を行いました。
09:07
それが行われる直前には、私には直接は聞いておりませんけれども、私の家内にですね、本当に身近かったけれども、私にとっては最高でした、ということを言ってくれた。
そして、自分の44年の人生がどんなに幸いだったか、いろいろ考えるとそういう思いがするので、本当にありがとうございましたということを言われた。
良かったなぁと思いましたけれどもね、よく娘のシーンが、娘の言葉に左右されずに、ストレートにイエス様に向かってくれたなぁと思いながら、
もし娘を通してだったならば、あるいは、あんな父はダメよ、もう天国行けないんだからなんて言われて、否定的なことを言われてダメだったか分かりませんけれども、幸いにその娘も洗礼を行いましたときに一緒に感謝しておりました。
私はそういうことにおいてもそうですし、そういう言葉の失敗を挙げるならば、いろいろあるわけですが。
その中で、23節にここで、「ですから、祭壇の上に捧げ物を捧げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出しながら、捧げ物をそこに、祭壇の前に置いて、まずあなたの兄弟と仲直りしなさい。
それから戻ってきて、捧げ物を捧げなさい。」と言うんですね。
私は、礼拝をする、礼拝に臨むということも大切だけどもね、もし人との関わりの中において、何かをお詫びしなければいけない、このままの状態でもって、礼拝するにはふさわしくないというものが分かったならば、
まず礼拝の前に行って、そしてその人と和解しなさい、というこの言葉が。
このクリスチャーになって、そう月も得ていないのですけれども、私の中に一つの光になって、これがこの言葉が来ました。
ですから私は躊躇しながら、あえては感じていったらどうかしら分かりませんけれども、礼拝の前にその人のところに行って、
12:00
いやあなたに対してこういう思いを持っていました、本当に申し訳ないという一言でしたけれども、しかし私は一つのね、このイエス様の光をいただいて、やはり礼拝を望むときに自分はどうやるべきかということで、
その一つが私になすべきことを教え、そしてこのお言葉のようにまず言ってそれをして、そして礼拝に出なさいというふうに私にはこの言葉が、そういうふうに聞こえたわけですね、読めたわけです。
ですから私はそういうことでもって、本当に申し訳なかったという、それをこのあいでに伝えました。
イエス様はこの一連の言葉の中でもって、二十六節ですが、まことにあなたに言います、最後の一ゴドラントを支払うまでそこから決して出ることはできませんという、
これは当時の核兵の中でも一番低い核兵価値のようですね、この注釈のそれを読んでいきますとね。
つまりはイエス様はね、私たちのそういう神社の前、礼拝の前に、どんなことを思う私たちは忠実にその光に従って、まず言ってお詫びし、償い、そして食い温めなさいということをそこでおっしゃっているわけですよ。
ささいなことだから、これはまた別な時に機会があればという、それでもってそれを伸ばし伸ばしにしておいてはいけないですよという、そういう意味合いでもあるわけです。
私たちの死は、それこそ私たちですからね、意識して罪を犯すこともあるし、意識しないで相手に対してそういう罪を犯してしまっているという、それもあるわけですね。
特に申し上げた言葉の問題であるとかね、そういうことの一つ一つの中に、イエス様はどんな些細なことでも、小さなことでもね、それを本当にお詫びしなさい。
それだけではない、イエス様は、私たちの犯してしまった、その一つ一つの罪を、それこそ残すとこなく、全てをですね、イエス様の十字架というのは、もう私たちの許しを、とことん許されておるわけですよね。
15:14
どんな些細なことでも、気づいて犯した罪も、気づいてないで犯してしまったような、そういう罪も含めて、イエス様は私たちの全ての罪を、そこに許してくださっている、そういう方だと。
ですから私は、ここでは確かに、兄弟に対してこう、あるいは礼拝に行く前に、もし兄弟に対してこういう思いがあったならば、まず言ってそれを清算しなさいということを、この仰っている書の中でもって、同時にイエス様は、私たちの内に潜む一つ一つのそういう思いをですね、
死の前に全部それを言い表して、そしてイエス様がこんな罪のためにも、徹底して許すために十字架に連れてくださった。
十字架の光というのは、確かにその時私たちは、ああ本当に私は罪人だということが分かって、そして食い改めるんですね。
けれども食い改めた後でもね、罪を犯す、あるいは犯してしまった、というそれもあります。
最後の一言乱と押し払うまで、そこから決して出ることはできませんという、この言葉は、曖昧にしてはならないし、また主の十字架の許しというのは、それこそ主の方から私たちの全ての罪を全部許しかさっているという、そういうことへの意味でもあるわけです。
もう一つのことは、もう少し先を読んでいきますと、この二十七節ですね、今読みました二十六節の隅、下院してはならないと言われたのをあなた方は聞いています。
しかし私はあなた方に言います。欲情を抱いて女を見る者は誰でも心の中ですでに肝炎を犯したのです。もし右の目があなたをつまずかせるならえぐり出してそれをしてください。体の一部を失っても全身がげへなに投げ込まれない方が良いのです。
そして三十一節読みますと、ここではまた妻を離縁する者は離縁状は対応と言われていました。しかし私はあなた方に言います。誰でも乱な行いがいの理由で自分の妻を離縁する者は妻に肝炎を犯させることになります。
18:12
また離縁された女と結婚すれば肝炎を犯すことになるのですという、そういう夫婦間の問題、家庭の問題をイエス様はあの十回の中から特にこのことを取り上げておるわけですね。
三条の説教と言いますけれども、主にその対象になっているのは弟子たち、弟子となって間もない彼ら。
本来このユダヤ人たちのその考え方というのは、あくまでも妻は自分の所有物、財産の一つみたいにそういう考え方が一般的だった。
ですからここでも女性に対してというよりもそういう男性に対してあなた方はこうなってはならないということをそこで厳しく下院という言葉を使って当時の男性に弟子たちに向けているわけですね。
そういう問題ではどうかというね。じゃあ女性はそれで大丈夫なのかというとそうではないんですよね。
しかし支配的には男性の方がそういう立場で持って罪を犯しつけてしまう。人のものまでもそれを奪い取ってしまう。
その最たる例がダビデとバテシバの例ですよね。
まさかダビデというそんな人がという思えるほどみんなからダビデ王として慕われ尊敬されそしてみんなから威敬の念を持って私たちの王としてあがめられていたようなその彼がバテシバとの一見から彼はもうとんでもない罪を犯していくわけですよ。
欲がはらんで罪を生みまた罪がまた新たな罪を犯してそして死にたらしめるようなそういうこの一つの罪にとどまらないで次々とそのために犯し続けてしまう。
それこそこのダビデの一見を挙げるならばとんでもない目にあったのはバテシバの夫のウリアですよね。
21:02
まさか王が私を妻とのことでもって死にをやるなんてのことは。
もうダビデを尊敬してそしてダビデ王のためには自分の命を懸けてもっていう実際彼はそうだったんですね。
その裏ではあのダビデがそこに今書いてあるようなドロドロとした思い出を持ってその自分の妻を得るために自分を非常に高いの厳しい御任をやってそしてそれもみんなから彼の最後の死を称えるというようなそういう美名と言いましょうかね。
そこまでダビデは演出をしてそしてさらにはそのウリアを失ったこのバテシバを私は生涯彼女の保障しますというようなばかりに正式に自分のところに迎えていくわけですよ。
表面こそ美しくドラマ化されたそういう演出されたそういう事柄がそこにありますけれどもしかしその中身はどうかって。
イエス様がこの10回の問題をそこに取り上げておりましたけれどもそういう事柄の中にたんでもない私たちは罪を犯してしまう。
としまる夫人から先生どうもうちの夫がっていうですね相談を受けたんですね。
でそれはある企業に勤めなさってそしてかなりの地位にある方なんですけれどもしばらく単身赴任で東京の方に出る。
でどうもその様子がおかしいんですっていうね何かそういう実際のおかしいっていうだけじゃなくて何かあるのって聞いたらあるんです。
写真が出てきたりいろんなそれが出てきてねもう夫は浮気してますって先生何とか言ってくださいって言ってください言われてもねこっちは大阪ですし。
じゃあたまたま東北の方へ出張で行くので寄って一度お会いしましょうかって言ってね。
それでこの言ったことがあるんですね。でその時に彼がですねいや確かにそうかもしれないって。
で彼はまた大変理屈を通すようなタイプの人間でしてね先生愛は一番素晴らしいもんじゃないですか。
なんでその愛がまあ妻も愛してますよって。
24:06
けれどもどうして間違いにあのこちらのこの女性を愛してると間違いでしょうかって言ったら。
それはね愛は大切だし一番強いもんだって。
けどねその愛も方向間違うとね罪になっちゃうんだって。
お宅の場合は子供さん二人も成長してそしてやってる特にこのお嬢ちゃんの前で自分のそういう主張が言えますか。
そういうことを申し上げたらそれはねうーんって考え込んじゃいましたけどもね。
なぜ言えないのかって。
本当の愛だったらね妻や自分の子供たちに対してそういう愛をそれを向けていくならばそれは間違いない。
けどどんな素晴らしい愛でもね方向間違うとねそれはとんでもない過ちになって。
そしてその家庭ももろく崩れてしまう。
だからそういうせっかく神様が私たちにイエス様を通して教えてくださったそれこそあなたへの愛をあなたはね自分勝手なエロスの愛に格下げしてねやってる。
便便のしようがないと思いますよっていうそういうやり取りをしたことを思い出します。
まあ今そういう問題もないと思いますけどもね。
もう丁寧になってそしてご夫婦だけでしっかりなさっているようでありますから問題ないんですけども。
しかしどんなに素晴らしいね愛であってもダビデのようにね愛すべき方向を間違うちゃう。
やがてそれはとんでもない死をもたらしてしまうっていうそういうことですよ。
問題はそういう人との関係あるいは家庭での特にご夫婦との関係の中において。
私たちはいつもね聖書の光の中において新たに示された光の中においての自分の様子がわかったならばそこで悔いを改めてね。
そしてそこでイエス様の十字架を仰ぐ。
私はそれは私たちに許された本当に神様からの素晴らしい恵みとして覚えておりますよ。
今48節の言葉だけを読みましたけども。
27:03
言うならばこの48節はこの5章6章7章と続く3章の説教の中のほぼ中心にある言葉ですよね。
そしてイエス様はそのほぼ中心にあるこの言葉。
この言葉ですからあなた方の天の父が完全であるように完全でありなさい。
天の父のような完全さをイエス様が私たちに完全でありなさいとお命じになっていらっしゃる。
私たちはこの言葉の前にそうありたいと思いながら神様のような完全というのはこれはとてもじゃないけれどもそこに及ぶことはできない。
私が聖であるようにあなた方も聖でありなさいというレヴィケールのこの猶予の言葉です。
ペトロモスの言葉を引用して私たちが人として主のように清くあるということがそこに求められておりますし、
しかし聖書のことをよく見てまいりますとね、この1句だけをそこにピークアップされてそしてこうありなさいと言われたならば、
もうそれこそゲッヘナにこの身をもって滅ぼされても弁解にしようがない。
私はクリシアになって間もないころにね、こういう神様の裁きということに非常な恐れを持ったことがあるんですね。
やっぱり自分の罪に対しての曖昧さというのがまだまだありましたんでね。
その時に私は非常にクリシアン生活をだんだんと窮屈に感じていったんです。
そうするとイエス様を信じているというこの豊かさというのでしょうか、その喜びよりもこうでなくちゃならないというような、
そういうこのクリシアン像を自分なりに持ち始めていったんですね。
そうするとこんなことをしたら、こんなことを言ったら、いろんなそういうことでもって自分に規制をかけていくわけです。
もう窮屈になってしまって。
それこそ娘に言われた、これは牧師になってからのことですけれども牧師事前の話ですから、余計そういうことにおいてはあるわけですが。
しかし、この三条の説教のこの一つ一つの言葉の前に自分の立っていけるような余裕はどこにもなくなっちゃった。
30:01
でも私はもうやめた、やめようかってですね、そんな思いになったんですね。
イエス様を信じることもやめるし、教会行くのもやめるし、
まあそんなに説書を読んでたわけじゃないですけれども、説書を読めるのもやめる。
そしたらなんか自由なんじゃないかなっていう、そういう変な思いがずっと入ってまいりましてね。
じゃあやめてみようっていう思いを持ってた、あるときですが自転車で持って、どこ行くときだったのかちょっと忘れましたけれども、とにかく自転車に乗ってたんですね。
で、そのときにね、もし今ここで思いもしない事故にあって、そして今自分は死んで、神様の前に立たなきゃいけない、そのときお前どうするんだって。
それこそここで言うような、げげなに、やる地獄にですね、落とされてしまう。
非常に私はそのときにね、だんだんと怖くなりましてね。
もう自転車に乗ってらんなくて、降りて、歩くようにしながら、いろいろこう考えたんですね。
クリシアンになって、そしてまだ暇さえ、いろんな点で自分はクリシアンらしく行こうと思いながら、それがもうどんどんできなくなってしまって。
なんかこう、うとうしくなってきた。もう何もかも全部やめるっていう。
しかし、本当にそれでいいのか。
それこそイエス様のお話があるようにですね、愚かな者よ。
あなた今宵、あなたの命を奪われるっていう、そういうようなことがあったならば、いや、今宵じゃない。
今、もし自分が神様の前に立たなきゃならないような、そういう中に置かれたならどうなんだろうか。
イエス様を信じればこそ、この方が私の罪のために十字架についてくださったっていう、この大きな大きな、思いもしないような、そういうことでもって私の罪を全部許し、
この方は私のために最高の弁護者として、父なる神の裁きの座に共に立ってくださるっていう。
その方がいなくなったら、私はどういう立場で神の裁きの前に立つのかと思ったときに、
本当にそこで私は自転車を止めて、そこで、長い運命じゃないですよ、路上ですから、そこで、もうそんなことは思いません。
33:04
どうぞ私を守ってください、私の幼稚な信仰ですけどもね。
それから、行こう、もう信仰も捨てて、何も捨てて、もう牧師もやめてなんていうのは、そんなことはですね、一度も思いもしないで、今日まで来れたなっていう。
そこに私の、そういう、この、もし罪を犯すならば、そういうとんでもないゲーヘナにですね、投げ込まれる。
あの、イスラエル、エルサリムに行った方は、エルサリムっていうところが、2つの大きな谷の上にある、難航不楽の、そういうところなんですね。
1つは、ベンアダレという谷の谷、1つはこっちのピレーノの谷っていう、こちらの谷は、このオリーブ山のほかずっと降りて上がっていったところがエルサリムですけども。
あの、そうですね。
ところがですね、この、こちらのこのベンアダレというのが、ベンヒノムというところは、これは、マナセという、ヒゼキアの名君、ヒゼキアの息子のマナセという、彼が王になった時に、
お父さんが大切にしてきた信仰の全部をですね、やめて、そして当時のこのいろんな偶像集を取り入れて、とんでもない過ちを得た。
自分の子供ですがも、その偶像のその紙につなげるということでもって、そのベンヒノムという、その底でもって、焼き殺したっていうのは、もう考えられない。
こないだ、そういうね、言いたいけない何歳かの子供にネットをかけたか、なんかそういう、聞いててもうたまらなくなりますけども、マナセというのはね、そういうことをやった王様なんですよ。
で、そこがですね、やはり死体のこの焼き捨てる場所とかなんかそういうことでもって、その谷は死の谷とかね、ゲケナっていう、そういうふうに名称が変えられていったんです。
それをそんなところにですね、神様の裁きでもってこの置かれるっていうことになったら、もう立ち上がっていけませんし、その裁きの中において自分はもうダメになってしまう。
けど私は、この48節、あなた方の天の父親が完全であるように、完全でありなさい。
36:00
ゲケナか、神のごとく私は本当に清くされるか。
私はこの聖書の言葉の持つ、この豊かさをそこで改めて思う。
父親が完全であるように、完全でありなさいっていうことを同時に、私があなた方をその完全にそこにもたらせるっていう、そういう約束であるわけですね。
ご承知のように、聖書の言葉っていうのは、お命じになる一面と、命じなさった事柄のように私たちをそのように変えてくださるっていう、この聖書の言葉のこの素晴らしさ、醍醐味っていうのをそこに思います。
ですから、父親が完全であるように、完全でありなさいっていうのは、単なる理想ではなくて、イエス様が私たちをご自分の十一日の父親の家に、その完全なものに私たちを仕上げてくださるっていう、そういう救いの約束がそこにあるわけですよ。
どこを見たって清められるような人間じゃないのに、しかし、主は私を完全になりなさいとおっしゃっているだけではなくて、完全にするよっていう、そういう約束の言葉です。
皆さんご承知のように、ローマ人の手紙の8章の28節、これは有名な箇所ですが、最後にそこを読んで終わりたいと思います。
このローマ人の手紙の8章の28節を読みますと、そこに、神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて、益となることを私たちは知っています、というお言葉です。
神様、私たちのために、全てのことを最善にしかさるという、これも非常に私たちに、深刻な夢の中において、ほしほしまた、この言葉の矢に守られてきたというお互いの証もあろうかと思います。
神様、本当に最悪と思えるような言葉なのに、沖縄さんじゃなくて、もうそういうところにあってとしても、そこから最善のことを私たちに向けてくださる、ある人が。
39:03
だから、クリスチャンというのは、能天気、何でも自分に、神様が一番いいことをしてくださるんだ、という、単純に割り切れたらいいよ、ということで言ってくれたことがありますよ、そうかもわからない。
確かにその28節の言葉は、全てのことが相働きとして、私は公語訳で、神が共に働いて、役としてくださるという、公語訳を読んだときに、相働きだけじゃなくて、神が共に働いて役としてくださるという、一つの光をそこで持って得たことを思い起こします。
しかし神様は、そのように最善のことをしてくださるんですけれども、ちゃんと目的があるわけですね。
その次の29節を見ますと、神をあらかじめ知っている人たちを、巫女の形と同じ姿にあらかじめ定められたのです。
それは多くの兄弟たちの中で、巫女が長子となるためです、という。
つまりは、神様が私たちのために最善をするということは、私たち自身がここに書いてあるように、巫女の形と同じ姿に変えられるという、
そういう目的の中において、神は私を最悪乏し器用な中においてでも、そこから最善の技をそこに始めてくださる。
ただ自己満足ではないんですよ。神様は、そういう私どもを巫女の形に向けて、そして私たちにこの降りかかってくるような最悪乏し器用なことも最善にしてくださって、
そして私たちを修衛するキリストのお家にいただくような、そういうクリシアンとして歩むことができるようになる。
ですから、神様の御命令は、命令してくださった方が、その命令のように私たちを変えさせて、成長させてくださるという、そういう意味合いを持つお言葉です。
ですから、あなた方の天皇父親が完全であるように、完全でありなさいというのは、理想じゃなくて、現実に神がこのようにしてくださるということへの力強いメッセージですよ。
私たちは、そういう中に今置かれているということ、神様は私をそういう存在として、地の完全さの中に、あなた方が完全に守られていくように、今も取り出してくださっている。
42:09
私はこの救いを、この御言葉を、本当に中心に覚えていきたい、そのことを思います。お祈りをいたしましょう。
恵み深い一生を。