1. 名谷教会 podcast
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2016-08-28 34:59

2016/08/28:イエスの名による命

2016/08/28 聖日礼拝

仁科早苗師

ヨハネの福音書 20:6-30

00:01
みなさま、おはようございます。
お久しぶりという方もたくさんおられますけれども、
はじめましてという方も非常に多くおられます。
少し自己紹介をさせていただきたいと思います。
なぜ私が14年前にここの教会に、1年半ほどでしたが、出席をさせていただいていたか、
その理由もお話しさせていただきたいと思うんですね。
これは用意してきた自己紹介なんですけど、
実は今、斉藤渡先生がそこに座っていらっしゃるお顔を見ただけで、ちょっと涙が出そうになりました。
なぜ14年前にここに来たかというのは、斉藤渡先生が大きな理由となっています。
当時は先生が総務というか、人事のことを関わっていらっしゃっておられました。
私たちは夫婦で、東京教会という小さな小さな開拓の教会を勃開しておりました。
一番上の子がその4月から小学1年生に入学する。
二番目の子が幼稚園に入園する。
そして三番目の子は3月末に生まれるという、この世の華というか人生の華というか、
30代でしたので毎日笑顔であふれているような。
そして2月も教会総会が終わっていましたから、来年はどんな1年が待っているんだろうかと私たち家族が思っていたときに、
リリリリンと電話が鳴りまして、土曜日の夜だったと思います。
斉藤先生から主人に誘われてきた電話だったんですね。
2月から神戸の方で、本部事務所の移転のことについて関わってほしいという、
もう突然の、晴天の兵器だけどこういうことなんでしょうかね。
電話が鳴りまして、土曜日の夜でしたが、本当に多分2時間くらい主人は話していたと思います。
いろいろその中でも、どうしても神戸に行かなくてはいけないということを決断するために、
もう総会も終わっていましたので、教会の役員が、
それじゃあ教会に来て斉藤先生に話を聞かせていただきたいという話になりまして、
わざわざ急遽斉藤先生に日曜日に来ていただいて、
役員たちと先生との混乱のときを思っていただいたことを思い出したんですね。
あのときに役員が先生に食ってかかったんです。
教壇中そこを見渡しても、石田先生が移るということはおかしいと、
この今から出産を迎えよう、入学を迎えようとしていらっしゃるこの家族以外、
この家族はここに留まらないといけないじゃないですか、
というようなことを言ってくれたような役員がいました。
私たちは教壇の指示に従って、従うのは神様の導きだという信仰の中にありますので、
もうそのときには心はすまっていたんですけれども、
03:00
でも主人は従うという中にいましたが、私は渋々だったと思います。
子どもたちのことも心に納めながら、引っ越しの荷物を準備をして、
そして3月の末に赤ちゃんを出産して、4月に子どもたちだけが先に引っ越してきて、
そして実家でおりましたから、実家の近くの明太寺教会の礼拝に出席させていただくということで、
この教会に1年半、私たちは礼拝に出席をさせていただいたという次第なんですね。
そのときに、なんで私たちが、なんでこんな時期に、子どもたちの答えはどうなるのと思っていた、
この30代の私が、あれから14年経って、15年でしょうか経って、ここで礼拝席をするなんて、
本当に神様のご計画は誰も予想できないと思うんですね。
その中で様々なことがありましたが、
両谷での1年半は私にとっては、本当にキラキラ輝く宝物のような思い出です。
というのは、本部事務所主義という働きは教会に属しませんので、
礼拝の御用に立つとか勃開するということはなかったんですね、当時。
ですから夫婦で2人で礼拝に出ることができたんです。
生まれたての赤ちゃんをベビーベッドに乗せて、この椅子の上に乗せて、主人と2人でその赤ちゃんを挟んで、
礼拝に出れたという、本当に懐かしい懐かしい思い出が、今、ふつふつと甦えてきて、
そんな素晴らしい思い出をくださったのは、私の先生のおかげだと、本当に涙がほろほろこぼれてくるようになりました。
人生って本当にわからないですけれども、神様に従うということがどれほど素晴らしいことであるのか、
そしてこの14年ぶり、15年ぶりにもう一度ここで先生と共に礼拝を下げることができるという、
この神様の御計画のおつなのところ、完璧なところ、本当にアレリアだなと思います。
この皆さんも本当に従えないようなことを神様がおっしゃったときに、従ってみてください。
その先に待っている神様の素晴らしい計画がどれほど私たちの想像を絶するものであるのかということを、
本当に思い浮かべながら、涙を流してでも従っていっていただきたいなと、今日は心から思います。
そのことだけでメッセージ終えてもいいぐらいなんですけれども、今日はヨハネ・ヨルビクインソが導かれておりますので、
06:04
神様からいただいた二言葉を開かせていただきます。
すみません、私がメールを送ったのが少し間違っていたようで、セースの箇所が少し修法と違っておりましたが、
26節から31節までを読ませていただきたいと思います。
今、少しもう一度読ませていただきますが、20章の30節と31節を読ませていただきます。
聖書の224ページです。
この書には書かれていないが、まだ他の多くの手術をもイエスは弟子たちの前で行われた。
しかしこれらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることをあなた方が信じるため、
また、あなた方が信じてイエスの名によって命を得るためである。
メッセージに入る前にお祈りを捧げます。
神様、今からこの小さな者が二言葉を語らせていただきます。
イエスの名によって信じて感謝してお祈りいたします。
ここにはイエスの名によって命を得るためという最後の結びの言葉が書かれてあります。
ユハネは福音書を書いたのは、あなた方が信じてイエスの名によって命を得るために
私はこの大変な大変な福音書、長い長い聖書を書いたんだよと力強く記しているんですね。
オリンピック本当に感動しましたね。2週間テレビに口づけだった方もらえるかもと思います。
ちょっと気になった言葉がありましたが、私はこの表現好きじゃないなと思ったんですが、
自分の賞味期限がもう終わったというようなことを言われた方が何人か年配というか年上のアスリートの方が言っておられました。
なんで本当に自分の限界がもう来たというようなことをおっしゃるのかなというふうに思いながら悲しい思いで聞いていたんですが、
実はある本を読むとクリスチャンにも賞味期限があると言われているようです。日本人は。
3年半だそうです。宣伝を受けて3年半経つともうどこかへ行ってしまうクリスチャンが日本では多いということだそうですが、
韓国ではどうでしょうかね。韓国はおそらくそんなことないと思うんですね。
09:03
日本ではやはり少数派と言いますか、見言葉をいただいても社会で生きていく中での困難や、
本当に生きて信じ続けるために難しい試練に生き抜けないんでしょうか。
3年半でクリスチャン生涯を自分で勝手に終えてしまう人も何と多いことでしょうか。悲しいことですね。
ヨハネは信じ続けていくために私はこの言葉を記すと言っておられます。
ここにいらっしゃる方は3年以上生き延びてくださっている方ですので、この熱い熱い思いを受け取ってくださっていると思うんですけれども、
またあるいは3年半以内の方かもしれませんが、私たちは信じるということよりも信じ続けていくということの方が難しいのではないでしょうか。
信じ続ける。ヨハネは信じ続けるためにはイエスの名による命があなた方の中になくてはいけませんと述べているんです。
命を得る。命というものは本当に素晴らしいかけがえのないものですね。
命があれば成長します。実を結びます。花が咲きます。香りがほのかにただよってきますけれども、命のないものはその瞬間から枯れていくしかないんですね。
私はもう30年ほど前に助産師という仕事をしておりまして、赤ちゃんの誕生の場面に立ち会っておりました。
赤ちゃんは必ず手を握って生まれてくるんですけれども、その手の中には幸せが握られているんだ。赤ちゃんは自分で幸せを握って生まれてくるんだというようなことを母親教師で話すと、
お母さんはそうかと思って心と涙を流されるかと思われました。本当に出産の場面にお父様方が立ち会うと、この赤ちゃんのために俺は絶対この子を幸せにするって誓われるようですね。
それぐらい感動的な場面です。お母さんもこの子のためには命をかけれると思うんですね。それぐらい命というのは尊いものであります。
なぜ尊いかけがえのない命なのかというのは、命は人間で作り出すことはできないからです。神様からしか受け取ることができないから命はかけがえのないものであります。
ですから誰と比べることもできないし、それを軽んじることはできないわけです。そういうかけがえのないものを神様は私たちにくださる。だから賞味期限とか言わず信じ続けてくれ。そのために御言葉をヨハネは残す。
12:08
だから命を受け続けてくれと切なる思いを持って神様は私たちに御言葉を与え続けてくださっているんですね。
この聖書の箇所はイエス様が復活されたすぐ後の聖書の箇所です。実はイエス様は十字架に架かられて墓に葬られて、そしてその時女性がイエス様の墓の様子を見に行ったというのが二十章に書かれてあります。
空になった墓を見て女性たちは弟子たちのところに帰ってきて、そして男性たちも一緒に部屋に閉じこもってブルブル震えているというのがこの二十章の箇所なんですね。
そして十九節に弟子たちはユダヤ人を恐れて戸を閉めていたとあります。イエス様の体がなくなったという報告を聞いたので弟子たちは恐れるんです。
弟子たちがイエス様の体を盗んでいったという噂が流れたら、自分たちが今度は捕らえられてまた殺されるのではないか。そういう思いでブルブル震えていたわけですね。しかしどうでしょう。
弟子たちはイエス様と三年ずっとそばにいて、イエス様からに言葉をいただいて、愛をいただいて、奇跡も見ながらイエス様を神の子だと信じるところまで行っていたのではないでしょうか。
でも目の前に起きたイエス様の体がないというその事実と、今まで聞いてきたイエス様が復活されるというその信仰とが一つにならなくてブルブル震えているんですね。私たちもどうでしょうか。礼拝に来ました。見言葉をいただきました。
でもその見言葉と現実とがあまりにもかけ離れすぎてブルブル震えて閉じ込まっているということはないでしょうか。でもイエス様にとってもそれは想定内なんですね。弟子たちに対してどんなふうにイエス様は接し知られたでしょうか。
宗教説に等しねてあったがイエス様が来られ彼らの中に立って言われた平安があなた方にあるようにと。私たちは現実に怯えます震えますそしてどうしようか分からずに閉じこもってしまいます。でもそこにイエス様は現れてくださって平安があなた方にあるように。
平安があなた方にあるようにともう一度私たちを抱き起こしてくださるんですね。その後私たちと同じように弟子たちはもう一度イエス様を信じた信仰を取り戻してですね。神様のために立ち上がって見言葉に従って行ったのではないでしょうか。
15:40
このような神様からのアプローチ私たちもいつも受けているのではないでしょうか。その後少しテイストをましてくださいね。
21節。イエスはもう一度彼らに言われた平安があなた方にあるように彼らか父が私を使わせたように私もあなた方を使わせます。私たちは使わされるために見言葉を受けるんです。自分たちの喜びのためだけに見言葉を留めているわけではないのです。
私たちの心にタッチしてくださったイエス様は私たちを生けして成長させて身を結ばせて花を咲かせて香りを輝かせるために使わせて誰かのためにこの愛を伝えてほしいと励ましてくださるのではないでしょうか。
そして息を吹きかけて聖霊を受けなさいとイエス様は弟子たちに言われたわけです。
息を吹きかけるこの言葉には非常に大きな言葉が隠されています。イエス様が復活されたということなんですね。復活した息、復活した命なんですよ。
その命はイエス様が今まで生きていた命とは全く違う命を弟子たちに吹きかけられたわけです。
今一番下の子供は中学校一年生なんですけれども、四人目の一番先っ子となると本当に愛情表現が上手ですね。
お母さん、お母さんと寄ってきてですね、お母さんハグしてとか、お母さんもキューしてといまだに言います。キューしてとかも言います。
私はですね、そのことを思い起こしながら息を吹きかけるっていうのはね、イエス様の愛情表現なんだな。
命を吹きかけるっていうことは、私たちをもう一度新しい命で愛するとおっしゃっておられるということなんだと、私は感じたわけですね。
今までのような臆病な霊ではなく、愛と力と慈しみの霊で私はあなたを使わすと。
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古い昔の臆病のままではなく、復活した私の命は使わすための愛と力の慈しみの霊なんだから、恐れずに生きなさいと。
イエス様は一人一人に声をかけてください。
私たちも新しい命を受けているならば、使わされていこうではありませんか。
その後また面白い記事があります。
当時その弟子たちがイエス様に出会った時に、なぜかいなかったトマスが一人だけいじけてるんですね。
教会にこういう人いますよね。自分は恵みの中にたまたまいなくてとか、出会い休めてとか、そういう時にいじけてですね。
その時に決まったことを反対反対とか言うような人いますよね。
トマスもそういう人だったようです。
みんなダメだとしても、自分がミヒンかったらそんな信じられないよ。
ちょっと読んでみますね。24節。
十二弟子の一人でデドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られた時に彼らと一緒にいなかった。
そこで他の弟子たちが彼に、私たちは主を見たと言った。
しかしトマスは彼らに、私はその手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をその脇に差し入れてみなければ決して信じませんと言った。
八日後に弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らと一緒にいた。
扉が閉じられていたが、イエスが来て彼らの中に立って平安があなた方にあるようにと言われた。
それからトマスに言われた。
あなたの指をここにつけて私の手を見なさい。手を伸ばして私の脇に差し入れなさい。信じないものにならないで信じるものになりなさい。
実はこういうちょっとへそまがりないじけ者のトマスに対しても、イエス様はそれを本当に彼にわかって、彼にわかるように使わせ準備をなさるんですね。
これは主人から聞いた復活のストーリーなんですけれども。
神様はパーフェクトに何でもできる方なので、イエス様の復活の身体は手の傷も脇腹の傷も全部全くなかったことにすることができたはずだと。
でもあえて傷を残してイエス様は復活された。それには理由がある。
21:04
トマスのためだったかもしれませんよね。
トマスに手の傷を見ててあなたのために十字架にかかったんだよ。脇腹を触らせてあなたのために苦しみを受けたんだよということを実感としてわからせるために。
イザヤスミはイエス様がどれほど苦しまれるかという予言があります。
彼は我々のトガのために傷つけられ杉のために砕かれたと。
私たちの目の前に現れるイエス様も手の傷跡をお見せになられると思います。
あなたのために私は十字架にかかったんだと。あなたを愛して愛して愛して愛して泣いたがために十字架にかかったんだと。
そしてもう一つの意味。今のあなたの苦しみも悲しみもしんどさも全部私は十字架の上で経験済みなんだ。
だからあなたの涙も全部わかるからあなたのその苦しみ悲しみを私のところに持ってきなさいと言ってその手の傷を差し伸べてくださるのがイエス様の愛ではないでしょうか。
命を投げ出してくださったからこそ私たちに意気をかけて新しい命で生きなさいと。
愛することができるものになれるんだよとイエス様は今でも言葉を通して私たちに伝えただけです。
最後に新しい命を受けた人のお証をお話しさせていただきたいと思います。
私は神戸中央協会出身ですが神戸中央協会の先輩に松屋正という方がおられます。
松屋正という名前は漢字は中心の中に心中心と書いて下の心で中と読めるので
正さんとはみんな中さん中さんと呼んでおられましたが私が中学校のときに中さんから一つのお証を聞くことができました。
中さんは黒い小さな聖書を持っておられてその聖書の障器に見てごらんここに丸い型がついてるでしょって
これは牛乳銀の跡なんだよと中学生の私に教えてくれました。
実は中さんは血格を患ったことがあってその病棟で隣に寝ていた人が
牛乳よりも物置に捨てる本があったのでそれをもらったということで
24:04
それが聖書だったということでその聖書を見せていただいたんですけれども
この中さんという人はどういう人だったかというと神様に出会う前の人生は非常に暗い人でした。
戦争で両親を失い遠くの親戚に預かってもらったわけですけれども
暮らしは荒れた三人。小学校の時から酒タバコ、そして中学校になるとバクチン夢中になるという
ひどく荒れた三段生活をしていたようです。
従来に少年院に送られたということですけれども
当時の少年院は人権というようなものが全くなきに等しかったようで
ひどい収拾を受けたそうでした。
それから真っ黒な部屋に入れられたり
出所する時には余計に心がつたんでどうしようもないような人になっていたそうです。
そこで学習したことがあったということでした。
割に合う犯罪を犯して、そしてその後人生を楽しく自分の好きなようにやろうと決めたようです。
そしてある一つの罪を犯して
数百万円、今から50年も前の話ですが数百万円を手に入れ
それを架空名義に預けて
署名手配になりながらも逃げていったそうですけれども
あるところで捕まって4年間でしょうか、刑務所暮らしをしたそうです。
でも彼はそれも計算の中にあったということで
出所してからすぐ、もう今は架空名義なんか絶対つけてませんけれども
50年前ですからね、当時の数百万円というお金を出して
もう遊びたいように、自立のようにそれを使って
もうこれで自分は計算通りの人生だと思って楽しく暮らしていたということでした。
しかし座参で生きていた彼に一つ計算違いのことが起きます。
彼の両方の肺が血格という病に犯されてしまっていたんですね。
滑血をして、もう自分は直感で命がもうほとんど終わりなんだということに感じていたということでした。
自分の命があとわずかだと悟った時に
その時初めて自分は何のために生まれて、何のために生きているのかということを真剣に考えたそうです。
ただ人を傷つけて黙っただけの人生だった。
一度でいいから死ぬ前に生まれてよかったと思えるそういう出来事に会いたいと
宗教書を本当にうたぶるように読んだということでした。
しかしそこには何の答えもなかったということです。
27:00
ある時隣の人のベッドを見ると、両様その話ですね。
机の上に牛乳瓶の下に黒い本がある。
それは何だと聞くと、牧師先生が置いていた本だけど読まないからあげるよと言われた。
そのテイストを必死に読んで、そこでわかったことは
自分の罪深さがどれほどのものであったのかということと
自分を愛してイエス・キリストが死んで自分の罪を忘れて許されたんだということがわかったということで
彼はイエス・キリストを心に迎えて新しい祈りになったんですね。
不思議なように神様は病も癒して、それから彼は伝道と食材の旅に出かけていくわけです。
当時の中学生だった私はその頃中3からお話をしたと思います。
いろんなところに来ました。昔入っていた少年院、それから罪を犯したそういう人たち。
いろんな人のところで謝りに行って、自分がどんなに人生を変えられたかという証をしていったそうです。
その中で一つ、今まで入院していた聖書をもらった療養所にも行ってみたそうです。
その療養所の久しぶりに行ったそこに入って、建物に入って、自分が入院していた部屋に入って窓を見て愕然としたということです。
何に愕然としたかというと、当時入院していたときには目の前に見えていた矢場がすっきりなくなっていた。
そのときに入院している人は自分の知っている人ではなかったようですけれども、その人に尋ねてみたそうです。
私が入院していたときにはここに大きな大きな矢場があったんだけれど、今ここなくなっている。場所は違いないけれどもどうなったんだというふうに聞いたら、
そこに入院していた人はこうおっしゃったそうです。
あの山は全部切り崩されて海を埋め立てるために運んでいかれたんだよ。
このエピソードを聞くと長い間この辺に住んでいらっしゃる方はピンとくると思うんですね。
当時神戸は大プロジェクトがありまして、スマやら樽の山を切り崩して海に運んでフォートアイランドを作るという大きな事業があって神戸が栄えたわけですけれども、
あのときのキャッチフレーズが山、海へ行くということだったと思います。
30:01
私は子供の頃でしたのでその療養所がどこにあったかわからなくて、今回も調べてみたんですけれども、神戸には結局療養所が何個かあったみたいですね。
正岡地域も神戸で療養していたらしく、それが新スマ病院、浜の方だったという感じです。
私はこの話はもしかしたら日赤スマ病院じゃないかなとか思うんですけれども、ちょっとそれは今回わからなかったんですが、
その山が海へ行ったという話を聞いたときに、しゅうさんの膝はもう崩れ落ちたということです。
死ぬと思わせ祈ったと。なぜだったか。
ケースを読み始めたときに、マタイによる福音書でしゅうさんはこんな見言葉を見ていたんですね。
この山に向かって動き出して海の中に入れと言ってもその通りになるだろう。
小さい小さい信仰があれば、山に向かって海に入れって言ったら海に行くよと政府に書いてある。
彼は本当に人生の解決法をキリスト教に求めたくて、祈ってみたんですね。求めて。
神様祈りますと目を閉じて、目の前の山よ海に入れと祈ってそっと目を開けた。
でも山はそのままだった。当たり前ですよね。でもそのことはふっかり忘れていたそうでした。
数年たって、彼が新しく生まれ変わって、そしてもう一度人生を変えるたびに歩み出したときに、
その大きな出来事に出会って、彼は本当に神様の大きな愛に圧倒されたということです。
今日これ何ですか聞いて。目の前の山を見起こす山を移れって祈らないでくださいね。
そういうことを言っているのではないんです。
私たちの困難がどれほど大きなものであっても、信じて神様に向き合って祈るならば、
神様はその小さな小さな祈りも忘れずに必ずそれを取り乗り越えてくださって、
生きてあなたの人生に改善しているよということを神様は教え続けてくださっているんだということを、
この十三の話から私たちは覚えておいてほしいんです。
彼は将来本当に信徒としてでしたけれども、たくさんの人をイエス様に導きなさいました。
恐れていたイエスたちには息を吹き入れて平安があるようにと御言葉をくださり、
疑うトマスミはあえて手の傷を残しておいて、手の傷を見てて信じるものになりなさいと言ってくださるイエス様。
33:05
あんなに罪深かったシュウさんにも忘れているようなお祈りでも、
神様は愛しているからということを明らかに分からせるために山まで動かすことができる。
私たちもイエス様から命をいただいていながら、まだまだ印が欲しいと願ったり、
この状況をどうして神様が変えてくださらないんですかと不平を言ったりしていないでしょうか。
あなたが信じ抜くために、信じ続けるために、聖書によって私たちは御言葉をいただいているわけです。
もう一度今日の御言葉31節をお読みします。
しかしこれらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることをあなた方が信じるため、
またあなた方が信じてイエスの皆によって命を得るためである。
あなた方が命を得るということはもう既に決まっているわけです。
その命を受けた私たちがどう生きるかということが私たちに委ねられているわけです。
今日御言葉を受けた私たちはこの命を受けたわけですから、
帰る時にその愛を無駄にすることなく、命を無駄にすることなく、
イエス様の命と愛を誰かにお伝えするものにならせていただきましょう。
どうぞ皆様で良い言葉の応答のお祈りをお捧げください。
34:59

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