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改めて皆さんおはようございます。 今日も
復活祭礼拝、イースター礼拝を1週間前にしている シロの聖術の礼拝にようこそいらっしゃいました。感謝いたします。
今、私自身がこのガンとの戦いの中にありますが、多くの方に祈っていただいて
本当に感謝しております。 そこで今、12回の抗ガン治療の中で、半分、前半戦が終わってですね
先週、火曜日に福部市知事を取ってですね、その経過を見ました。
驚くべきの神の癒しがあったことを皆さんに報告させていただきたいと思います。
ちょっと市知事の写真になりますが、ちょっと出していただけますか。
大分ですね、大きかったガンの腫瘍が、本当に神の恵みによって、大分小さくなっています。
後からまたしたいと思いますけれども、本当に神の癒しが働いておられること、神の御手が働いておられること、本当に感謝いたします。
まだ後半戦が続きますけれども、続けて祈っていただきたいと思っております。
では一言を祈りいたします。 愛する天の父の神様、主の皆をあがめて賛美いたします。
今日もこのようにして、神の恵みによって私たちが生かされて、この礼拝に出席させていただいたこと、本当に感謝いたします。
今日も主よ、イエス様が生まれたことに、この十字架に向かうこの一週間の歩みを、私たちも共に歩みながら、
そこで主がこの教会に、私たち一人一人に語ってくださるそのメッセージを拝聴したいと願っております。
どうか一人一人の魂の中に、主御自身がこの朝もお語りくださいますように。
感謝して、イエス様の皆によってお祈りいたします。 アーメン。
今日はまた来週は、創石の説教は一旦休んでですね、
今日はこの修道の誠実、それから柔軟宗のメッセージ、来週は復活祭、イースター礼拝のメッセージをお伝えしたいと思います。
キリスト教の祭りというか、その説の中で最も大事な祭りがあるとするならば、
それはイースター、あるいは復活祭、私たちはそう信じて、また信仰生活を送っています。
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その復活祭礼拝を迎えるために、私たちは今日から柔軟宗一週間を送るわけです。
まず、イエス様が当時エルサレムに入られたこと、そして一週間の柔軟の道を歩まれたことについて話をしていきたいと思います。
皆さんがご存知のように、当時イスラエルは政治的にローマの支配の中にいました。
イエス様が来られるそのまでに、だいたい400年間ぐらいにイスラエルという国はありませんでした。
人と土地はあっても、イスラエルという国家という国はなかった、暗黒の時代を彼らは送っていました。
ですから、国や宗教、文化、言葉、思想、もう多くのものを彼らは失っていました。
失ったというより、取り上げられてしまったということなんですね。
ですから、それが10年でもなく400年です。これはとても相当長い時間じゃないですか。
ですから、来る時代に来る時代にイスラエルの中では、このローマの支配から私たちのこの国、彼らは先民思想を持っているわけですから、
このイスラエルを独立してくれる英雄、メシアを、彼らは本当に願って、願って、願っていました。
長い間、国やすべてのものを取り上げられてしまった彼らにとって、そういうふうに考えるのも当然かもしれません。
そんな時代にイエス様が現れたわけなんですね。
貧しくて、苦労が多くて、暗い暗いその時代にイエス様が登場されたわけです。
そしてイエス様が行かれるところで、不思議な記憶が、奇跡が行われたじゃないですか。皆さんでしょう。
パンにこと、魚、合液で何百人何千人以上が満腹した。
病人が癒される、悪霊が追い出される、死んだ者が蘇る、それを見た人を聞いた人にはイエス様はまるでヒーローみたいな存在だったんですね。
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いや、彼らにとってはイエス様がヒーローであってほしかったでしょう。
そしてローマからこの国を自分たちを独立してくれるあのメシアであってほしいと、彼らはそういうふうに望んでいたに違いないと思います。
そのイエス様に対する噂が、もうイスラエ全国に広がっていたあの時代。
そのある日曜日、イエス様はいよいよ十字架に向かって、十字架でかかられて死ぬためにエルサレムに入られました。
その時に、今日見言葉にありましたように、多くの人々が自分の上着を脱いで、イエス様が持っていかれるコロバの道に敷いたり、
松目足の枝、真っ白、その枝を持って、歓迎して、歓迎して、
穂様、穂様、祝福あれ、主の皆によって来られる方に、イスラエルの王に、みんな万歳するように、イエス様を大歓迎をしたわけなんです。
まるで何かヒーロー、救済主を迎えるようにでした。
その日から、この日を記念して、キリスト教では、今日というこの日を、シロの聖日、英語ではパームサンデーと言われているようになりました。
イエス様はコロバに乗って、エルサレムに入られました。
群衆はみんなも熱く歓迎しました。
しかし、彼らがイエス様を歓迎した理由は、パンのためであったり、独立のためであったり、自由のためだったりしたでしょう。
しかしどうですか。イエス様がエルサレムに入られた目的は、人々の思いとは全く違ったものでした。
イエス様は十字架で死なれるために、エルサレムに入られました。
自分の体を裂いて、血を流して、私たちを贖うために、罪を許すために、犠牲の子羊として、その道を歩まれました。
歓迎を受けるためではなく、恥と罵りを受けるために入られた、その日が、今日このシロの聖日なんです。
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イエス様は皆さんを救うために、十字架で全ての罪を背負って死なれました。
このイエス・キリストを信じれば、全ての罪が許され、永遠の命が与えられ、救われて神の子となります。
イエス様は月曜日に、そして金曜日まで歩まれて、いよいよ金曜日に十字架にかかられて死なれました。
その受難の5日間のその週を記念して、あるいはイエス様の受難の歩みを、あるいはその時に語られたメッセージを目指して覚えて、
それらを通して、私たちの信仰を深くしていきたいと願います。
今日、その日曜日から金曜日まで起きた出来事すべてをお話しできませんが、
今日お配りしている受難書の木曽集、あるいは教団のベラーカを皆さん、ぜひそれを用いて、
この1週間をことに、このイエス様の受難を深く隠目そうして祈って、そういうふうに送っていただきたいなと願っております。
今日はその中で、月曜日のミヤを清められたこと、それから金曜日の、失礼しました、木曜日のイエス様と弟子たちのその話を中心にして、
この受難の意味、あるいは十字架の意味を一緒に考えていきたいと思います。
月曜日、イエス様は、いわゆるエルサレムの神殿、エルサレム神殿、ミヤを清められました。
神のミヤ神殿、いわゆる今風に言うならば教会ですね。
それは、祈る場所であり、礼拝のために存在する場所です。
ただ唯一神様のためにある場所が、ミヤであり神殿、教会です。
ところがそこで、イエス様がエルサレムに入ってみたその光景はどうでしたか。
売り返して、そして両替して、自分の利益をもう本当に貪欲している、むさぼっている人々。
そこには神様への礼拝はもうない。
人の貪欲によって堕落してしまった、その汚れた光景しかありませんでした。
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だからその様子を見て、イエス様はお前たちはそれを強盗の巣にしてしまったと言えるほどでした。
火曜日にはイエス様がその神殿で、当時の宗教的あるいは政治的に、いわゆる権力を持っている
パリサイ人とかサドカイ人たちと論争をされた日が火曜日でした。
そして水曜日は何が起きたんでしょうか。
いよいよイスカリオーテユダがイエス様を裏切ることが起きてしまう。
銀貨30枚でイエス様を売ってしまいました。
イエス様はそのユダが、弟子の一人のユダが自分自身を裏切ることをご存知でした。
しかし彼の裏切りでさえも、神の御言葉の上手のために主はそれを受け入れられたわけです。
木曜日には何があったんでしょうか。
イエス様は弟子たちと最後の晩餐の時を待たれました。
そこで自ら弟子たちの足を洗ってくださいました。
そして記念としてパンとブドウ酒を食べて、パンは私の十字架での体だ。
ブドウ酒は血潮だ。
これを記念しなさいとイエス様が教えてくださった。
これを記念して覚えて、今日のキリスト教はこの聖三式を教会の重要な精霊展の中の一つとして取り行っているわけです。
金曜日には何が受けたんでしょうか。
イエス様が十字架でくきつけられて死なれました。
不当な裁判を受けて、強盗たちと一緒に扱われて、十字架刑で処刑されてしまいました。
あのいつか前の枝を振って上着を敷いて大歓迎していた群衆たちは、金曜日になってまるで冒頭のように変わってしまいました。
彼らの目にはイエス様はもはや英雄でもメシアでも解放指導者でもない、
ただ助けない人間にすぎなかったように見られたでしょう。
このようにしてイエス様は十字架にくきつけられて死なれました。
その中で今日はまず、月曜日に起きたことからもっと深くお話をしていきたいと思います。
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主のミヤを清めたこと。
ミヤ、神殿は教会ですね。
そしてそれは神約にきますと、皆さんお一人お一人が神のミヤであるということなんです。
だからイエス様が神殿を清められたことを見るときに、私たちは実際の教会を主が清められること、
そして私たち一人一人が清められなければならないことを一緒に結んで、それを考えていただきたいです。
ただ神様だけを礼拝すべき場所が、人間の貪欲の場所に堕落してしまいました。
神の栄光が現れる場所であるはずなのに、もうサタンの栄光の場所になってしまいました。
神の栄光が失われ、神の礼拝が失われた名ばかりのミヤになっていたんですね。
それをイエス様は、義の怒りをもって神を怪我することだから、それを許すことはできませんでした。
皆さん、教会が存在する唯一の目的は、この地上で私たちが唯一の神を礼拝し賛美するためです。他はありません。
これが教会の存在の目的のすべてなんですね。
だから教会では、神の皆だけが呼ばれる。神の皆だけが褒め讃えられる。
神の皆だけが栄養を受けられる。神の皆だけが覚えられて、たっとばられるべきなんです。
神様のお名前のその場所に、それが素晴らしい神道であろうが、素晴らしい牧師であろうが、人間の名前がそこに入ってはいけません。
しかしイエス様の当時はどうですか。あのミヤでの礼拝は消えてしまった。
神の栄光は消えてしまった。人々はもうね、
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スイコシの祭りになると、あのエルサレムに10万人ぐらいが集まったという記録があるんです。
人だかりのですね、たくさんの人が来てですね、羊やら、あるいは鳩やら、それを捧げるわけなんです。
その何かの行為はある。
しかし、マコトの礼拝はなかった。神の栄光はなかったということなんですね。
人間の貪欲、権力、腐敗、堕落で一般になっていました。
神殿で売り返している人、彼らがあの儲けたお金の中で、結構な分を税金としてバリサイブとかに、それをね、また差し上げなければならない。
もうだからバリサイブたちから見ればですね、神殿でたくさん売れば売れるほど、自分のポケットに入るお金はどんどんどんどん多くなるわけなんです。
金持ちになってしまう。神の栄光なんて関心がないわけです。自分の腹を満たすわけでした。
誰もその神殿を清めようとしなかったんです。ほったらかされていました。
また誰も悔い改めようとしようとも思わなかったんですね。
腐って穢れてしまった神の教会を、イエス様は、義の怒りを覚えられて、神の教会を清められました。
この清めの出来事は、当時の悔い改めを知らず、神より高くなっている人々、
権力や名誉や金銭や自分の名前がたっ飛ばれることを求めていた彼ら、
宗教性はあるんだけれども、誠の救いを経験していない人々、彼らに向かって悔い改めなさいと、
自分の罪や堕落を清めていただきなさいというイエス様の叫びだったんですね。
この朝、私たちもあの宮を清められたイエス様の言葉から、
私の家はあらゆる民の祈りの家と呼ばれると語られたイエス様の御言葉を、真摯に聞いていただきたいです。
願わくは、明大に教会はイエス様が来られるその時まで、ただ神様だけを礼拝して、
ただ神様の皆だけが褒めたたえられて、
ただ神様の皆だけが覚えられる教会でありたいです。
神の皆の場所に人間の名前が入ってはいけません。
もしも人間の名前が、それが誰であろうが、神の場所を奪ってしまうならば、
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もはや神の教会ではなく、誰々の教会、人間の教会になってしまうでしょう。
すると、そこには神の栄光は望まれません。
人間の主張があるだけ、人間の考えや人間の名前だけが覚えられる教会になるかもしれません。
私たちはこれを本当に肝に銘じて、
しっかりと、ただ神の皆だけが崇められる教会とさせていただきましょう。
私が発病してから、本当に神様から教えられたこと、悔いを改めたことがたくさんありますが、
今日はその中でまたいくつかを分かっていきたいなと思います。
その中の一つは、人に、それが妻であろうが、人であろうが、他人であろうが、
人に問題があるんじゃなくて、私自身に問題が一番多かったこと。
それを主は悟らせてくださりました。
私たちは、みんながそう考えるわけではないと思いますが、
夫が悪い、妻が悪い、母子が悪い、神徒が悪い、学科が悪い、会社が悪い、政治家が悪い、みたいにね、
この指が人に指す場合は多くあるのですが、私もそうでした。
人に問題があると考えていた時には、心の中に平安がない。
しかし、発病してから、すべての罪とすべての問題は、私にあったのだ。
私が問題の原因だった。
まるでパウルが、私は罪人の頭だと告白した言葉があるのではないでしょうか。
そんなふうに、私がすべての問題の原因だと悟って、そして悔いを改めたから、
もうそこから神様が下さる平安で、平安で感謝しております。
そこでですね、私が、それは前から気づいていることですけれども、
悔いを改めることができることも、神様の特別な恵みだなと思いました。
そうでしょ、皆さん。
イエスサムの時代もそうですし、今の時代も、イエスサムからイエスサム時代までそんな現象があると思うんですけれども、
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みんなが悔いを改めたらよかったのに、そうでもないということなんですよ。
イエスサムも誠に悔いを改めるものは少ないと言われました。
同じメッセージを聞いても、同じ受難書を送っても、
そこで本当の悔い改めの霊が注がれて、本当に自分自身の罪を、汚れを、あるいは傲慢を、
あるいは清くない行いを、悔いを改めることができたということは、それは素晴らしい神の恵みなんです。
この1週間、我々は受難書を送ります。
特に皆さん、この1週間、今年の1週間、特にこの悔い改めの霊が、皆さん一人一人に注がれて、
そして心から本気で神の前に悔いを改めるその恵みが起きますように、
そして我々の霊と身体と魂が清められますように、そういうふうに願っております。
そんな中で、もどと具体的に、私自身が投票の中で教えられた3つの罪に対してお話をしたいと思います。
1つ目は憎しみというものです。憎しみという罪、汚れです。
誰かを憎んでいる。家族だったり、友人だったり、人々だったり。
皆さんよく考えるですね、憎しみというものは恨みにつながっている。
恨みはまた怒りにつながっている。あるいは怒りは暴力につながっているということになるんですね。
例えば、実際に自分を苦しめる人がいるかもしれませんね。
ところが、それに縛られている限りは、その人に対する憎しみで、
それが自分の心の中に毒になって、自分の魂にも、体にも、霊にも、生活にも、健康にも、平安にも、すべてを台無しにしてしまう。
壊してしまうんです。
ところが皆さん、イエス様のこの柔軟の道を十字架を仰ぎ見て考えるならば、
イエス様は、私がイエス様に神様に対しては最悪の罪人であって、とんでもないものであって、弱いものであって、
そんな私のためにイエス様は死ぬまで私を抱きしめて受け入れてくださったんですよ。
そうでありませんか、皆さん。
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とするならば、イエス様に比べたら、私たちが抱きしめることのできない、受け入れることのできない人はいないわけなんです。
どんな人も私たちは抱きしめて受け入れなければならない。
すべての人を受け入れ、抱きしめることができるならば、不思議にですね、そこからこの憎しみという毒がですね、もう抜けてですね、幸せになります。
ですから皆さん、この受難所のうちにですね、祈りを通して、あるいは断食を通して、あるいは食い当たりめを通して、あるいはもう精霊の火を受けるか、
なんとかして、もしも皆さんの心の中に憎しみというこのけがれがあるならば、これをもう絶対に清めていただかなければなりません。
2番目は、ネタミというけがれ、毒です。ネタミ、ソネミ。ネタムことです。
自分より人が褒められる、うまくいく、羨ましい、心の中にのネタミがですね、もう燃えてしまうんですね。
そうするとそれが悪口を生み出す。悪口はまた妨害を生み出したりします。
そういうふうに考えるとですね、ネタミ、ソネミ、そういったものは光の世界じゃないんですよ。闇の世界じゃないですか。闇の世界なんです。
僕会社にもこんな危険があると思うんですよ。他の部会社と比べてですね、
いや、先生はうまくいっているのに、教会は成長しているのに、勉強もできているのにと比べてですね、俺はダメなんだな、みたいにね、絶望する、挫折する。
そうしているうちにですね、そのネタミがどんどんどんどん、その毒が自分を挫折させる。もう闇の中にとどまらせる。
もう光の世界は消えてしまって、もう中がですね、もう闇になってしまうわけなんです。
そこで覚えたいことがある。
イエス様の十字架を見上げてほしいです。
イエス様はこんな私を尊く思ってくださって、
ご自身の神の命を捨てるほど私を大切に大事にしてくださったんです。
そのイエス様が私をたっ飛んでくださって、大事にしてくださったその恵みに預かって感謝して歩んでいきたいんです。
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人々が私のしたことを認めてくれようがどうか、
私の名前が覚えられるがないか、有名人になろうがならないが、
すべてをですね、すべてを下ろして手放していたら本当に平安が来るんです。
あのパウロでさえ私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはチリアクターだと考えていますと言ったでしょう。
パウロはね、すべてをもう憤怒のように思ったわけなんです。
皆さん、妬み、そういったものを手放して捨ててしまえば、感謝と満足の主からの恵みが来るんです。
3番目、これは何かを隠すことですね。こっそり何かをすることです。
意外とですね、皆さん、多くの人々が隠して暮らしているんです。
夫に隠れて、妻に隠れて、親に隠れて、子供に隠れて、教科に隠れて、徳士に隠れて、生徒に隠れて、何かをこっそりするわけです。
だから不安で不安でどうしようもないんです。
皆さん、隠すということは美徳じゃないんですよ。
遠慮じゃないんですよ。
アダムとエヴァが善悪の汁、貴の実を食べてから一番先に現れた彼らの行動は、神様から避けて逃げてしまった、隠れてしまったわけですね。
何か隠しているから秘密が多いんです。
だからいつも不安なんですね。
皆さん、隠していることが多い、秘密が多い、こっそり何かを企んでいることが多いということは、偽善であり、偽りであり、闇の世界であり、サタンの世界なんです。
こっそり何かをしていることは隠している罪にすぎません。
皆さん、私たちは全てを神様から見られているわけなんですね。
そもそも隠すことはできないんですね。
だから私たちは誰に対しても、透明に透き通る人生を送らなければならないんです。
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皆さん、もしも何か隠している罪があるでしょうか。
それがあるならば、もう一日も早く下ろして、悔い改めなければならないんです。
隠してこっそりやっているその罪が、どんどんどんどん大きな大きな岩になって、自分の人生を潰してしまう。
しかし手放して悔い改めれば、そこからもう自由にされる、解放の恵みが主から来るんです。
願わくば、この受難集に、四谷教会の子どもから大人まで、悔い改めの礼が望まれて、
誠の悔い改めが、そして誠に清められる恵みがありますように、心からお祈り申し上げます。
次に、木曜日の話に行きましょう。
木曜日は、イエス様が弟子たちと、この地上での最後の晩餐の時を持たれました。
そこで、自ら弟子たちの足を洗ってくださった。
そして、パンと布団紙を持って、いわゆる最後の晩餐を持たれました。
神なるイエス様が、先生なるイエス様が、主なるイエス様が、王なるイエス様が、
癒ししもべの姿になられて、弟子たちの汚くて臭い足を洗ってくださった。
それは、とても意味ある象徴的なイエス様の行動だと思うんです。
一箇所ですね、聖書を開きたいと思うんですが、
新約聖書のピリピリ人への手紙、2章6節。
ピリピリ人への手紙、2章6節から8節を、新しい聖書の396ページですね。
ではですね、みんなで一緒に読みたいと思います。
ピリピリ人への手紙、第2章6節から8節。
ご一緒に、せーの。
キリストは神の見せ方であられるのに、神としての在り方を捨てられないとは考えず、
ご自分を美しくして、下辺の姿をとり、人間と同じようになられました。
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人としての姿をもって現れ、自らを低くして死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
アーメン。
ここにね、イエス様は神の見せ方であられるのに、
神としての在り方を捨てられないとは考えず、
ご自分を虚しくして、いやしくして、下辺の姿をとられて人間と同じようになられました。
そして8節、自らを低くして死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
皆さん、イエス様の受難は、十字架の恵みは、自分をいやしくされた、虚しくされた、低くされた、イエス様の謙遜の最高の、
ですから、イエス様の足跡に従っていく道は、栄養の道ではありません。
それは恥の道であり、謙遜の道であり、自分をいやしくする下辺の道なんです。
自分を低くする道なんです。謙遜の道なんです。
まるでイエス様が十字架にかかわれる、その前後に受けられたような、その罵りを、恥を、侮辱を、知辱を受けるまで、そこまで低く、低く、低く行ってしまうことです。
自分が高くなることを拒むことなんです。自分が栄誉を受ける、自分が栄誉を受ける、自分が人気を得る、
自分の名前が覚えられること、すべての名声を拒むこと、それが十字架の道なんですね。
だからキリスト教は低くする宗教と言えるでしょう。徹底的に低くする。どこまで?死にまで。
私たちはイエス様が人間として低くなられて、罪人、強盗の扱いをされて十字架で死なれました。
その低くされたことがありましたから、私たちは救われたんですよ。
イエス様のこの低くされた十字架がなかったならば、私たちの救いもなかったということではないでしょうか。
そこでこのメッセージを準備しながら、また自分自身が当別で教えられて悔いを改めた罪の中の一つが、傲慢という罪でした。
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自分自身がどれだけ傲慢なものだったのか、本当に神様は悟らせてくださりました。
自分では悟っていなかったから、もしかしたら神様はこの廃墟をもってこのものを私を売ってでも悟らせてくださったと私は受け止めております。
しかしそれは恥でも屈辱でもないんですよ。むしろ感謝なことなんですよ。
本当の意味で悔い改めができた人は、今の私の話の意味がわかると思うんですよ。
悔い改めのことは皆さん恥ずかしいことでも、何かのやりたくないことでもないんですよ。
感謝なことなんです。
主がこの傲慢という区引きをもう外して取り除いてくださって、傲慢という罪から私を解放してくださったから、本当に晴れるようなんですよ。
そして常に主は謙遜になりなさい。謙遜になりなさい。
十字架を見上げて、イエス様が死なれるまで被告されたように、謙遜になりなさいという主のメッセージを日々私は聞いております。
神言の18章12節を見ると、人の心の傲慢は破滅に先立ち、謙遜は栄養に先立つとあるんですね。
イエス様の十字架は謙遜の最高の見姿です。
十字架は死であり恥であり罵りの象徴ですが、そこまで大なるイエス様が謙遜になられました。
そして同時にその謙遜の十字架を信じる者を闇から光へ、死から命へ、滅びから救いへ導いてくださるんです。
この謙遜の王として私を自由にするため、解放するために十字架で死んでくださったこのイエス・キリストを皆さんの救い主として受け入れて信じて救われていただきたいです。
そして信じる方々はイエス様の謙遜を習って、その謙遜を身に覚えて実践していただきたいです。
皆さんの言葉や行いやもう顔を見てもそこにイエス様の謙遜が見えるほどの信者になっていただきたいです。
メッセージを言いたいと思います。イエス様の受難は我々に栄光をもたらしてくださいました。
私たちに救いをもたらしてくださいました。
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私たちから恥や汚れの衣を取り除いてくださって、義の衣を着させてくださりました。
どうか皆さんこの1週間イエス様の受難を深く黙想し、汚れの罪があるならば悔い改めて、あるいは傲慢の罪を悔い改めて、
神の皆だけを礼拝する、そして我々みんな清い謙遜の子供として新しく生まれるその恵みを体験できる1週間であってほしいと願います。お祈りしましょう。