00:01
聖書朗読をいたします。聖書朗読は、本庁の箇所は、丸子の福音書6章の14節から20節までです。新約聖書の75ページをおいただきください。本庁は裏田姉妹に朗読していただきます。ではよろしくお願いいたします。
では、お読みいたします。
一人のような預言者だと言っていた。しかしヘロデは噂を聞いて、私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだと言っていた。実はこのヘロデが自分の兄弟ピリポの妻ヘロデアのことで、ヘロデはこの女を妻としていた。人をやってヨハネをとらえ、老につないだのであった。
これはヨハネがヘロデに、あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法ですと言い張ったからである。ところがヘロデアはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら果たせないでいた。
それはヘロデがヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に陶悪しながらも喜んで耳を傾けていた。以上です。
続きまして、聖火体の賛美、新聖火464話に続いて、内田牧師より、言葉の悪用と題して説教をしていただきます。
03:07
聖火体の悪用と題して説教をしていただきます。
聖火体の悪用と題して説教をしていただきます。
聖火体の悪用と題して説教をしていただきます。
聖火体の悪用と題して説教をしていただきます。
聖火体の悪用と題して説教をしていただきます。
聖火体の悪用と題して説教をしていただきます。
聖火体の悪用と題して説教をしていただきます。
聖火体の悪用と題して説教をしていただきます。
おはようございます。
今日も御言葉をいただきますが、その前に一言お祈りをいたします。
私にとっては、神の近くにいることが幸せなのです。
天の神様、今日もこうして私たちをこの御堂へとお送りくださり感謝をいたします。
06:01
あなたを賛美する特権が与えられていますことを心から感謝し、また心を込めてあなたを礼拝いたしますから、
手をどうぞ清めてお受け取りください。
毎週の日曜日の朝ですが、こうしてあなたのもとに帰ってくることが私にとっての幸せなのです。
神の近くにいることが何よりの幸せなのです。
あなたに信仰告白できるその特権を覚えて皆をあがめます。
どうぞ今日もあなたと共にこの一時を過ごし、またここを出た後も常にあなたの身そばにおかせておいてください。
また賛美いたしましたように、いわなるイエスに怒りをおろして、そしてしっかりとあなたにつながって、
どんな罪の嵐、誘惑にも流されることなく、あなたと共にこの生涯を歩んでいけるように。
時には揺らぐこともありますけれども、神様どうぞ私たちを捉えて離さないでください。
また今日も御言葉を通してあなたの御心を教えていただきますようにお願いいたします。
あなたの御言葉を主体求めて来られたお一人お一人に聖書を通して、あなた御自身が一人一人にお語りくださるようにお願いいたします。
植え替えた魂にその御言葉が宿りますようにお願いいたします。
今日ここに来れなかった兄弟姉妹方、また暑さが続きますが、そのため弱っておられる方がいますならば、
主をどうぞ強めて、また共にあなたを賛美礼拝できるその時を覚えてください。
また子どもたちも夏休みになりましたけれども、どうぞ子どもたちを悪の災いまた自己けがからもお守りくださって、
この夏休みを過ごすことができるように助けてください。
また教会の様々な行事の一つ一つをも主が恵んで、また豊かな神様の御救いがまた御愛があふれますように委ねてお祈りをいたします。
今からのひととき主御自身が全てを導いてください。委ねて主キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン。私たちは日常、言葉を使って生活をしています。
言葉なしに生活はできないと言っても言えるぐらい、言葉というのは日常三半時、意識しないでそれを使っているわけであります。
言葉とは一体何か、そんなことも改めて考えることもしないわけですが、でもこの言葉とは一体何なのか。
09:03
考えてみますと、それを文字として書き連ねていきますと、一つの言葉あるいは文章になる。
それも言葉だと思いますし、私たちが口から出る音が連なって、それが言葉となり、そしてそれを人々に伝えるということをしている。
不思議といえば不思議なものだと思います。改めてそんなことを考えないで私たちは過ごしているわけですけれども、
特に口から出る言葉、そのことが今日の一つのテーマではないかな、そのように思っております。
その言葉には不思議な力がある、そんなことも言われるわけであります。
言霊という書いて、言霊というものがありまして、要するに言葉には霊あるいは力がある、人を動かす力があるんだということから来たそうでありますが、
それは良いようにも人を動かし、悪いようにも人を動かす、それぐらい言葉というのは力があるんだ。
それはおそらくそれを言うもの、聞くものが生きていて、その人に感情があり、そういうことのお互いの生きた人間の中で交わされる言葉であるから、その言葉にもまた力があるんだろう、そのように思うわけであります。
私たちはいちいちそういうことを意識しながら使ってはいないんですけれども、しかしこの言葉をまた存在に扱ってもいけないということも、聖書を通して私たちは教えられるわけであります。
なぜそういうことを前置きいたしましたかといいますと、先ほど読んでいただきましたこのマルコの福音書の六章の中にそういうことが書かれてあったわけです。
先ほど読んでいただきましたところは、バプテスマのヨハネが殺されたということが書かれてありました。その殺された、それでは戦というのはどういうことなんだろう。なぜ彼は殺されたのかということを見てみますときに、二十節まで読んでいただきましたが、
その二十一節から二十九節のところ、ここにさらに詳しく出ているわけであります。二十一節、その前の十九節のところを押さえておきたいと思います。
12:17
ヘロデアはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら果たせないでいた。それから時が流れて、ところが良い機会が訪れた。ヘロデがその誕生日に獣神や仙人隊長やガリラ屋の主だった人などを招いて祝縁を設けたとき、ヘロデアの娘が入ってきて踊りを踊ったので、ヘロデも列席の人々も喜んだ。
そこで王はこの少女に、何でも欲しいものを言いなさい、与えようと言った。また、お前の望むものなら私の国の半分でも与えようと言って誓った。そこで少女は出て行って、何を願いましょうかとその母親に言った。
すると母親は、バプテスマのヨハネの首と言った。そこで少女はすぐに大急ぎで王の前に行き、こう言って頼んだ。今すぐにバプテスマのヨハネの首を盆に乗せていただきとございます。
王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって少女の願いを退けることを好まなかった。そこで王はすぐに護衛兵をやって、ヨハネの首を持ってくるように命令した。護衛兵は行って牢の中でヨハネの首をはね、その首を盆に乗せて持ってきて少女に渡した。少女はそれを母親に渡した。
ヨハネの弟子たちはこのことを聞いたので、やってきて遺体を引き取り、墓に収めたのであった。これがバプテスマのヨハネが殺された戦いであります。
ここに幾人かの登場人物があって、皆さんも混乱を起こされる方もおられると思うんですが、まずこのヘロデという人が出てきます。このヘロデと聞いて思い当たる人がおられると思うんですね。
ヘロデ、確かにヘロデというのは以前聞いたことがある。しかしそのヘロデ、マタイの福音書の二章のイエス様の誕生の時に出てきたヘロデ王、それはここに今、マルコの六章に出てくるヘロデとは違って、これはその父親であります。
イエス様がヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった時という、あの書き出しで始まるこの二章ですが、これはヘロデ大王と言われて、そして彼も残虐な人でありました。
15:12
このヘロデ王、ヘロデ大王の家系というんでしょうか、家族の説明というのが、またかなり複雑で説明するのが難しいんですが、一番いいのはこういう家系図のような、誰それが誰、それでこの息子は誰とか、そういうふうにすれば一番いいんですけれども、
このヘロデ大王、ヘロデ大王には五人の妻がいまして、そしてこの五人の妻、それぞれにこう設けているわけです。
そのうちの一人の妻の間に生まれた、それがヘロデピリポという人がいます。また別の妻との間に生まれた人にヘロデアンテパスという人がいます。このヘロデアンテパスがいま読みました、マルコの福音書六章のこのヘロデなんですね。
そしてヘロデ大王の、また別の妻の間に生まれた子供が孫になるんですか。
孫娘がこのヘロデアという女性ですね。ですからヘロデピリポやヘロデアンテパスにとっては命になるんでしょうか。そしてこのヘロデピリポが、このヘロデアと、もう混乱してきました。
ヘロデピリポはこのヘロデアを妻にしていたわけでありますが、かたやヘロデアンテパスが自分のいた奥さんを追い出して、父の違う兄ですけれどもその奥さんであるヘロデアを自分の妻に迎えた。
というんですね。それがここに書いてあったわけです。
そしてこのヘロデアという女の人は、ピリポとの間に生まれた子供がいるわけですが、それがここに出てきましたサロメという女性ですね。
18:33
この少女というのがそうだということですね。
いずれにしましてもかなり複雑な家計の中にあって、このヘロデアンテパスがヘロデピリポの妻であったそのヘロデアを妻に迎えたということですね。
これに対して当時のバプテスマのヨハネ、彼は預言者であり、そして正義を貫き、ここにありました聖なる人であった、正しい人であった、そういうことでこのヘロデアンテパスに対して、それはよくありませんよ、それは不法ですよ。
そういうふうに彼が進言したところ、ヘロデアンテパスは痛いところをつかれた、なるほどそうですね。
彼自身もそれはわかっておったわけです。
しかし彼は、ヘロデはヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ保護を加えていた。
またヘロデはヨハネの教えを聞くとき非常に陶悪しながらも喜んで耳を傾けていた。
痛いところをつかれて非難されてはいるけれども、なるほどバプテスマのヨハネの言うことは間違ってはいないと、そういうふうに彼は思っていたわけです。
しかしヘロデピリポの妻であったヘロデアは、またヘロデアンテパスのところに妻として行ったということ。
それに対してバプテスマのヨハネがそのことを非難したときに、ヘロデアはヨハネを憎み、恨み、彼を殺したいと思っていた。
そういうことがここに書いてあるわけです。
そしていよいよヘロデアンテパスの誕生の祝いのときに、ヘロデアの娘であるその少女が舞いを舞った。
それを喜んだヘロデアンテパス、あるいは劣跡の人々も喜んだ。
そこで彼は、「素晴らしい踊りだ。少女に何でも好きなものを言いなさい。与えよう。お前の望むものなら私の国の半分でも与えよう。さあ何でもいいから言ってごらん。」
21:12
そのように言ったわけであります。
そしてこの娘は自分で決めることをしないで、それを母親であるヘロデアのところに行って、そのことを言ったわけです。
ヘロデオが私に何でも欲しいものを言いなさい。そしたらそれを叶えようと言ってくださっていますが、お母さんどうしましょうか。
そこで母親はこのように言った。
それじゃバプテスマのヨハネの首を望みなさい。
その通りそのままヘロデオに伝えましたところ、王は非常に心を痛めた。
なんとバプテスマのヨハネの首が欲しい。いくら私が何でもいいからあげようと言ったとしても、人の首を盆に乗せて持ってきてくれと、そこまでは考えてもいなかった。
あるいはそんなことを望むものがあろうかと。
そういうふうに彼は思ったようでありますが、が二十六節、自分の誓ったこともあり、また劣跡の人々の手前もあって、少女の願いをしりづけることを好まなかった。
彼は自分自身の正直な思い、それよりも自分が言ったこと、その示しがつかない、あるいはそれを聞いていた劣跡の人々の手前、もう引っ込めることができない。
それじゃバプテスマのヨハネの首を盆に乗せて持ってくるようにと、彼は命令したということであります。
このヘロデの心の動き、これはポンテオピラートのあのことを思い起こします。
ポンテオピラートも、イエス様が罪を犯していると人々が言いますから、調べあげさせたところ、一つも罪にあたるようなものが見当たらなかった。
ですからこのものはもう釈放してもいいんじゃないかと人々に言いましたところ、いやそうじゃない、彼は十字架につけるべきだ。
あるいはバラバかイエスかどちらかを解放するという特例があるが、どちらを釈放してほしいのか。
軍衆はイエスを十字架につけようと。
24:03
ピラートにすればこのイエスを釈放してあげたいという思いを持ちながらも、この暴動が起こってもいけないし、自分の立場が悪くなるということのゆえに、
それじゃあお前たちの言うようにバラバを解放して、そしてイエスを十字架につけるようにと、そういうふうに命令した。
あの心の動きとよく似ております。
一方のこの妻のヘロデア、彼女のこの動きに対してはここにありました。
ヨハネの首をはねたい。彼を恨み憎み、彼を殺したい。そう思っていたが果たせないでいた。その機会がいよいよ来た。
ヘロデが何でもいいから望むものを与えようと言ってくれた。
それじゃあバプテスマのヨハネ。
ここにこのヘロデアがヘロデアンテパスの何でもあげようというその言葉の返事として悪用をして、そしてヨハネを殺すというその願いを果たしたということですね。
何でもあげよう。それじゃあ何でもいいんですね。もちろん何でもいいよ。
それじゃあバプテスマの首をください。
このようにしてこの妻のヘロデアのその言葉がこのバプテスマのヨハネの首をはねる一人の一人の命を断つという、そういう戦になっていくということ。
そんなことを思うときに、ああ言葉には力があるんだな。いいようにも人を動かすことのできる力があるとすれば、このような悪いようにその言葉を用いて人を動かすことができるんだな。
私たちはそういう人の言葉によって左右される。言葉にはヨハネの首だってはねてしまうほどの力がある。
ある人が自殺をしました。その遺書にこのように書かれてありました。
彼のあの一言で生きる希望をなくしました。と書かれてあったそうです。
どんな言葉を投げかけられたのか知りませんけれども、あの一言で私は生きる希望をなくした。
27:03
またある人が自殺をしようと思っておったわけですが、ある人に声をかけられて、そしてとにかく話を聞いてくれた。何も言わずに聞いてくれた。
そしてその人が何気ない優しい一言をかけてくれた。その一言によって自分は自殺を思い留まった。
言葉には人を殺しもするしまた人を生かしもする、それほどの力があるんだということを私たちは改めて考えるわけであります。
言葉の悪用というタイトルをつけましたが、後であまりいいタイトルではなかったかな。
言葉の悪用はいけないというタイトルのはずなのに、言葉の悪用はいけないし、またその言葉の悪用はどこから始まっているのか。
そんなことも考えさせられました。
それは創世記の3章というと皆さんはもうピンとくると思うんですが、
蛇に姿を変えたサタンがエヴァに近づいてこのように言ったわけです。
あなた方はソノのどんな木からも食べてはならないと神は本当に言われたのですか。
女は蛇に言った。私たちはソノにある木の実を食べてよいのです。
しかしソノの中央にある木の実については神はあなた方はそれを食べてはならない。
それに触れてもいけない。あなた方が死ぬといけないからだと仰せになりました。
そこで蛇は女に言った。あなた方は決して死にません。
ここにサタンは巧みに言葉を変えてエヴァを騙したわけです。
神様はこのように命じられたわけです。
あなたはソノのどの木からでも思いのままに食べてよい。
しかし善悪の知識の木からは取って食べてはならない。
それを取って食べるときあなたは必ず死ぬ。
蛇が言ったことはあなたは決して死にません。
このようにして言葉を巧みに操って人間を騙し、そして罪を犯させたということ。
このことからも言葉によってまた私たちに罪が入ったということも言えるわけであります。
30:03
イエス様の言葉を見てみたいと思うんですが、それは修法にも書きましたし、
次のマルコの福音書の7章のところにあるんですけれども、
マルコの福音書の7章の18節あたりから読んでみます。
イエスは言われた。あなた方までそんなにわからないのですか。
外側から人に入ってくるものは人をけがすことができないということがわからないのですか。
そのようなものは人の心には入らないで、腹に入りそして皮屋に出されてしまうのです。
イエスはこのようにすべての食物を清いとされた。
イエス様は食べ物のことを言われたんですね。
食べ物が口から入って体に入ってもそれは心魂をけがしたりそういうことはしない。
お腹を壊すことはあっても、そのように言われたわけです。
しかしまた言われた。人から出るもの、これは言われる言葉です。
これが人をけがすのです。
内側からすなわち人の心から出てくるものは、悪い考え、不貧乏、盗み、殺人、
関意、貪欲、横島、欺き、高職、妬み、そしり、高ぶり、愚かさであり、
これらの悪はみな内側から出て人をけがすのです。
人をけがす、このけがすというのは何だろうか。
例えば人に嫌な思いをさせる、不愉快にさせる、あるいは人を怒らせる。
至っては人を罪に侵させる。人に罪を侵させる。
あるいは人を絶望に追いやる。あるいは破滅に追いやる。
そんなことを含めて人をけがす。
このヘロディアの言った一言がバプテスマのヨハネの首が飛ぶという、
そういうところまでこう言ってしまった。
まさにヘロディアの内側から出たその殺人の思い、
それがヨハネを死にいたらしめたということであります。
私たちは今日覚える見言葉として、ぜひこのパルコの七章の十八節、
あるいは二十節、二十一節、二十一節、このことをぜひ覚えておきたいな、そのように思います。
いじめの問題。
いじめの問題、これはいじめというのは難しい課題であります。
33:00
例えばそれが殴る蹴るということであったとしても、黙って殴ったり蹴ったりしているだろうか。
あるいはいじめというのはただ殴る蹴るだけでしょうか。
もちろんお金をせびったりそんなことはあるでしょうが、
必ずそこには言葉が添えられているはずです。
これは言葉の暴力というのでしょうか。
言葉によるいじめというものがあるんだということに私たちは知っています。
私くしごとで恐縮なんですが、関西聖書新学校、これを卒業するには卒業論文という二単位に取らないと卒業できません。
私が示されたその当時のテーマとして、いじめと聖書ということを十数ページ書かせていただきました。
もう十数年前、そのときにもうこのいじめの問題があったんでしょう。
そういうことでかなり勉強もいたしました。
そして自分なりに聖書を繰りながら考えてまとめたわけですが、
かなりいじめの問題は難しい問題でありまして、
特にAとB、グループであってもそうなんですが、
誰も見ていない状況の中で、それが本当にいじめなのか、ただ単に遊びなのか、そういう判断をするのも難しいですし、
特に子どものケースの場合は、それをうまく表現できませんし、
あるいはそのときの対応がまだ未熟で、うまく対応できない、そういうことがあります。
またケースバイケース、さまざまなケースがあって、本当に難しいということがあります。
その卒業論文の最初の書き出しのところをもう一度振り返って、またどんなことを書いたのか、見てみたいと思います。
もう生きていく自信をなくした、今の生活にはもう耐えられない、そういったメモを残して、
自ら命を絶っていく中高生が後を絶たないという現実があります。
その人でしか歩むことのできない、神様から与えられた生涯を、これからというとき、青春を謳歌したいというときに、
自ら道を閉ざしていく若者たちがいる、実に心の痛むことであり、
私はこれらの中高生の自殺の多くが、いじめを原因としていることを知ったときに、
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いじめが社会問題になっているからというものではなく、救励の働きに預かるものとして、一傍観者ではいられないという思いに駆られました。
1994年11月27日、愛知県西雄市の私立中学2年の大高知清寺君が、同級生からいじめられた上、
再三お金をせびられ、ハードないじめに耐えられなくなり自殺しました。
彼の遺書の入った封筒の表紙に、「お母さん、昔、僕を教会へ連れて行ってくれって言ったこともあったよね。
あのときはとても生きたかった。」という言葉が記されてあったようです。
死をも考えるほどの苦しみと痛みの家中にあって、教会に行きたかったと走り書きした清寺君の思いを見過ごすわけにはいきません。
彼は、親にも相談できない四面楚歌の中で、教会に助けを求める思いが与えられていたのです。
なぜ、もう一歩進んで教会の門をくぐってくれなかったのか、と悔やまれてなりません。
今なお、多くの子供たちがいじめに苦しんでいます。そして彼らは助けを求めています。
そして、そのほとんどが無言の叫びなのです。
救励者としてこの問題にどう対処していけばよいのか。彼らの叫びを察知するにはどうすればよいのか。
彼らが教会の門をくぐって助けを求めてきたとき、その勇気と切実な求めに対して十分な応答をしてあげることができるだろうか。
そのことを聖書とともに、聖書を置き、聖書から学び教えられ、そして問題解決への示唆が与えられたらと願って、これを書いていますということで。
実にこの聖書の中に、いじめあるいは虐待、それに類する記事がたくさんあるということを私たちは知るわけでありますし、
またそこからいかにこのイエス・キリストを通しての救いを与えられ、希望が与えられているかということも同時に教えられるわけであります。
特に言葉による暴力、言葉によるいじめというものが、今日の一つのテーマであろうかと思うんですが、なかなか難しい問題であります。
私たちは、出ずエジプト紀の中に、彼らがエジプトを出たときに、神様が孟子を通していろんな定めを彼らに授けるわけですが、当時のいわば法律のようなものをいうわけでありますが、
39:21
その中の一つに、自分の父母を呪う者は必ず殺されなければならない。これは当時の彼らの倫理観というのでしょうか。要するに犯した罪に対しては、それと同等の罰を与える。
いわゆる目には目、歯には歯、一つの目を、片目をやられたら相手にもその片目の傷をつけてもよい。ただやられたらやり返すのではなく、その同等の犯した罪に対して同等の罰を受けなければならない。
父母を呪うということは、それは死罪にあたるのだというのが、彼らの当時の倫理観であったわけです。これを厳しいととるのか、それだけ重い罪なのだととるのかであります。私たちはいじめの問題を今悩んでいます。どうしたらいいのか。
もし私たちがずっと遡って、シュツエジプトの当時まで遡ったならば、おそらくいじめたならばその者は必ず殺されなければならない。そういう法律が与えられても過言ではないと思う。
いじめによっていじめられた人は死に追いやられるわけですから、その死に追いやられたことに同等する罰としてその者は死罪である。
しかし、今日父母を呪うが、口汚く罵ろうが、彼らは何も咎められない。いじめようが、その人が傷つこうが、いじめた方は何だ、お咎めを受けないでいいんだろうか。
このシュツエジプト記のこの法律は、もう何千年前でしょうか。三千年、四千年、五千年。人間は進歩してきた。人間は進化してきた。そのように言われていますが、本当にそうだろうか。
この当時の方が本当に倫理観が高い。そして本当に彼らは人々の行いをつぶさに見て、そしてそれにしっかりと対応する力があった。
42:06
人間はもちろん様々な技術面、いわゆる経済面において、いろいろと発展もし栄えてきましたけれども、本当に人間の心の面、倫理面で進化していただろうか。むしろ退化しているのではないかと思えるようなものであります。
もちろん現在は現在の法律がありますから、子どもたちを守ってあげなければいけない保護法というのがありますから、しかしこのいじめという問題、これに対してはもっといじめられた方がどうしてもクローズアップされる。
心を痛み、そして何とかしてあげなければというそういう思いがあります。しかしそれと同じくらいいじめる方の問題、あるいはむしろもっといじめる方の側のケア、それをもっともっと考えるべきではないか。
それがこの箇所からも教えられるわけです。
私たちの家にあるその思いが言葉になって、そして出てくるのだということを覚えるわけであります。
言葉の悪用ということが、きょうテーマとして挙がったわけですが、悪用があるならば善用というんでしょうか、良いように言葉を使うということも、当然イエス様は私たちに教えてくださっているわけであります。
うちに良いものが私たちの中に形作られていくならば、言葉を気にしながら話さなくても、その人の口から出る言葉は全て良きものだ。
たとえ何か少し間違って言ったとしても、すぐにごめんなさい、私は今間違ったことを言ってしまいました、すみませんという、またその言葉も出てくるでしょう。
45:12
私たちは言葉の善用というものをこれからさせていただきたい、そのことがその人を変えていきますし、おそらくその人の周りを変えていく。
私たちは言葉を存在に扱いすぎてはいけない。決してお上品になる、そんなことではありません。私たちが自分の吐いた言葉が一体その人たちにどんな思いを与えているのか、そういうことを常に考えながら、あるいは祈りつつそうできたらいいかな。
一歩でも二歩でも少しずつでも、そのようにさせていただけたら感謝であります。私たちの今年度の標語の中の一つは、見たまのみは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、乳和、自省です。
このようなものを禁ずる法律はありません。私たちの心の中に、精霊によって豊かな実を結びなさい。もし実がなったならば、そこから出てくる言葉は、おそらく愛のある言葉でありましょうし、喜びを与える言葉でありましょうし、平安を与える言葉であります。
寛容な言葉であり、親切な言葉であり、善意のある言葉であり、誠実な言葉であり、乳和な言葉であり、そして自分を自省する言葉である。
イエス様は、そのように私たちに今日も教えてくださっているんだと思います。お祈りをいたしましょう。
内側、内側から出てくるもの、それが人を怪我すのです。天の神様、今日は言葉ということについていろいろと考えさせていただきました。
不十分ではありますけれども、私たちがこれからを考える上での一つのヒントになればと願っています。イエス様は私たちのうちに、御霊の実を実らせなさい。
そして、そこから出てくる言葉が、人々を励まし、人々を慰め、そして人々を生かす、そのようなものであることを、イエス様ご自身が教えてくださったことをありがとうございます。
どうぞ、さらに神を愛し、また神の言葉を私たちのうちにいただき、また隣人を愛し、また人々の間に平和を作っていくものとしてください。
イエス様の尊い皆によってお祈りをいたします。
48:01
アーメン