これがエジケール37章、今日読んでくださった枯れた骨の幻です。
エジケール37章1節と11節だけ私がもう一度読みましょう。
主の手が私の上に臨んだ。
私というものはエジケールを意味します。
主の手がエジケールの上に臨んだ。
私は主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に下ろされた。
そこには骨でいっぱいであった。
枯れた骨がいっぱいあるエジケールの谷に残された。
主は私に言われた、人の子よ、これらの炎はイスラエルの善火である。
彼らは言っている、我々の骨は枯れた。我々の望みを失せ、我々は滅びると。
絶望、これは落胆、絶滅の中にいるイスラエルを見せてくださいました。
エジケールを見たある谷、その中で見たこの枯れた骨。
これはイスラエル民と言います。
言葉を変えれば、今世の中、これがまるでエジケールの谷のような、この枯れた骨、
はなはたしく枯れた骨にいっぱいあります。
神様の目線から見たら、この世の中にはみんな死んでしまって、
長い間、もう長い間過ぎてしまった、この枯れた骨がいっぱいある、死の谷だと思っていいでしょう。
じゃあ、これはなぜこんなになったのか、それを知るために私たちは十字架の福音を学びました。
旧約聖書の後になっていく、末期になっているイスラエル。
信仰生活しているのに、偽りの信仰ばかり。
偽りという意味は、命がない信仰生活です。
もともと、信仰生活で神に出会って、命の源である神に出会えば、
神の命を私たちはたっぷりいただくようになっているんですけど、
偽りという意味は、命がない信仰生活をしているんだということです。
その信仰生活、これは自分はよく知っている、よくやっていると思っているから、
命がないのに自分はよくやっていると思って、これを続けてやっているから、
この人たちを治す方法がないんです。
あ、私は命がないんだ、これをわかれば、すぐ命を与えてくださいと言うべきなのに、
もう自分は正しい信仰をやっていると思っているから、
自分は命があると思っているから、この人を助ける方法がない。
それがイスラリピッドたちが旧約聖書で、最後の最後まで、
自分たちは自分の口で私たちは枯れた骨、私たちは望みを失せ、我々は滅びたというような存在になってしまった。
なぜでしょう。
これを知らせるために、預言者たちを救わされたんですけど、
預言者の話を聞かない、預言者をみんな殺してやる。
最後にイエス様も送ってくださったんですけど、
イエス様の見越えさえも聞かない。
イエス様さえも殺してやる。
どうすればいいんでしょう。
どうすればこのような人々を生かすことができるかということです。
人間が生きる方法はただ一つだけです。
これを今日読みたかったんですけど、創世記2章7節です。
主なる神は土の塵で人を形作り、その花に命の息を吹き入れられた。
人はこうして生きるものになった。
皆さん、人間が生きるものになったのは、
まず土の塵で人間を形作り、その花に命の息を吹き入れられた。
神様から命の息を吹き入れられたから、私たちは生きるものになった。
人間がどうして土なのか、ごめんなさい。
私は牧師だから葬儀に行くんですね。
亡くなれた方の私は体を必ず触ってみます。
皆さん、ごめんなさい。
私の父も触りました。
私はもうみんな触っていました。
本当に今触ってみれば、もうこのような体でしょ。
亡くなった方を飾ってみたら、これと全く同じです。
わざわざ私は触ってみます。
違う人がいるかなと思いながら。
みんな同じ。これなんです。
だから人間は土で作ったこの器と同じような存在に命がなくなったら、
すぐこうやって死んであります。
これがだんだん土の中で溶けていく。
それで人間の姿が全部見えなくなる。
同じです。
神様は人間をこのような時のような存在で作って、
そこに命の息を吹き入れられた。
だから人間がこのように柔らかくて生きるものになったんです。
不思議でたまらないでしょ。
しかしこれが人間が私たちが生きている理由なんです。
しかしこの命の息というものは、
私たちの命と聖霊様を含めて考えられる、
このような旧約聖書のこの単語がこのような意味です。
それが罪を犯した時に聖霊様が消えていき、
また私たちの命さえも、これからも残っている命がシャーッと抜けられる。
だからもう死んでいくということでしょう。
人間が罪を犯して神様から離れていくところによって、
人間が死んでいく、また枯れていく。
このような存在になります。
私たち信者も同じです。
イエス様を受け入れた時に私たちは命に、
イエス様は命ですから命に満たされます。
しかし神様との関係がダメになればなるほど、
私たちの体は命がずっと抜けていくような状態になるので、
私たちの体は固くなり、問題が生じ、病気になり、いろいろなことが生じます。
この解決する方法は今日の同じです。
命の息がフーッと入れられるなら、私たちは生きるものになるんだということです。
イスラエルはもともと神様から祝福される存在で、
命のビジョンもすべてが豊かだったのですが、
神様から離れて一割の信仰をやっているし、
自分たちが悔いを改めないから、それが長くなってしまったから、
イスラエルは裸々しく枯れた骨になってしまったのです。
私は1998年に新学校に入りました。
新学校に入ったら、まずある教会に保守神学生として勤めるようにやります。
いろいろな教会に行って保守神学生の働きをします。
それで和裕教会に行って野住さんに手を当てて、
和裕教会に行く前に私はある教会に行きました。
そこで1年間、中学と保守神学生として一緒に信仰生活をしているうちに、
これは傲慢な話になったら申し訳ないのですが、
その時、日本の教会を見て私が感じたのが、
日本の方たちの信仰生活は、枯れたタオルをまた絞っているような、
また絞っているような信仰生活をしておられるのだなと思いました。
神様の命をいただくことはできないのに、
奉仕は熱心にやります。
私は日本の教会が今なんとかなんとか存在しているのは、
日本の集団主義という考え方のおかげではないかと思います。
集団主義。
日本、ごめんなさい、これは勝手な話ですけど、
ある集団に所属されていることで自分の存在の何かを感じる。
そこで皆さんから文句をされるのは大嫌いなんだよ。
だから文句をされないように頑張ります。
また仲間を外れされたらいけないから、仲間を外れされないように決める。
ですから年度初めに自分の役目が決められるんじゃありませんか。
あるある奉仕、あるある奉仕。
1年間その奉仕は文句がないように、他の人から指摘されないように熱心にやります。
もうこれを熱心さは私たちは真似できないほどの素晴らしい熱心さ。
ですから命は得られないのに奉仕は熱心にします。
だから結局信仰生活イコール教会奉仕です。
このような教会、だから教会には熱心に奉仕して人間関係を大事にする方たちが今残っている。
そこに皆さん若者たちが来ますか。
賛美が強い教会、そのところには若者たちが集まるかもしれません。
奉仕ばかり要求する教会に若者たち行かないんです。
ですから私は日本の教会で奉仕進学生として3年間働きながら、
このお年寄りの方々が亡くなられたら、教会の扉は閉めるしかないんだなと思いました。
これが新学校で私が学んだ、私が目で見て考えたことです。
だったらどうすれば今はななしくかなっていて、奉仕ばっかりしながら自分もものすごいつらいでしょう。
そのような信徒たちを助けることができるか。
それで私たちが考えられるのは、はじめに神様が人を土で形作って、
そこで命の息を入れられたら生きるものになったように、
私たち今本当に難しい信仰生活しておられる方たちに、
どうすれば命の息、またそのような生きる働きができるかと、
そこには見事場と精霊の働きが大事だということを申し上げたいと思います。
今日エジケール37章1節から10節まで、エジケールは神の見事場を体現したら、
その腫れた骨がクトクトクト動きながら骨がつながり、
その上に筋肉がずっと覆せられ、そこの上に皮膚が折れる。
それでこのカタカタとして体の形がみんなできたんです。
しかしその中で命の息はなかった。
それで命の息をフーッと入れるようにエジケールが体現したら、
その中で命の息がフーッと入っていった。
それで見ていますと、神様の大きな手段、大きな軍隊になったということがエジケールが見た幻なんです。
ここで人を生かす方法は見事場と精霊なんです。
なぜ見事場と精霊なのか。
腫れた骨を生かされたのは神の見事場が体現されたことから始まります。
見事場によって神様に対する信仰が植えられ、希望が与えられて民たちは生かされるようになります。
皆さん、試練、苦難、患難、これは訓練はできるけど、人を新しくすることはできません。
ただ神様の見事場だけが人々を目を覚ませ、新たにする力があります。
ですから神の見事場を聞くときに、死んだ霊魂が目を覚ませ、生かすようになります。
このように腫れた骨たちに向かって神の見事場を体現したときに、
この人の形がパッとできて、みんなパッと立ち上がることができたんです。
しかしその中に命、息がなかったということです。
皆さん人の形は知っているんだけど、命の息がない人とはどうなったんですか。
世の中に存在するほぼほとんどの人です。
いくら立派な体を持っていたとしても、霊的には死んだ人です。
死んだ人は無気力で、夢とビジョンはありません。
何より神の霊、精霊が折れない人生は、霊的な世界を見ることができない。
神様と親しい交わりができない。
うちなる人が変わることができない。
霊的な成長はできないんです。
だから霊的には何もできない。
体は持っている。また精神的なことは生きている。
霊は死んでいる。
だから人間としては活動はしますけど、神様が見られるのには死んだということです。
ですから神様が見られるのに生きているもの、神との交わりができる人、霊的な世界を見ることができるためには、
神の霊、精霊様が望まなければなりません。
精霊が望んだ時に、神様を下さるビジョンを見ることができるし、また霊的に新たに生まれる。
霊的な世界でこれから、いくらでも夢、いくらでもビジョンを開ける人になるんです。
ですから、シドギョウデン2章17書。
神は言われる。終わりの時に、私の霊を全ての人に注ぐ。
すると、あなたたちの息子と娘は予言し、
若者たちは幻を見、老人は夢を見るようになろうと言われます。
ここで人を生かすポイントは二つです。
一つは神の御言葉です。
天地万物始めに神様は、全世界を御言葉によって作られました。
御言葉が入ったら、天があり、水があり、動物があり、生き物ができました。
御言葉、御言葉なんです。
ヘブライシュ、ヨンシュ、チュネスというのは、神の言葉を生きており力を吐き、
どんなボロハの剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほど差し通して、
心の思いや考えを見分けることができます。
さらに、神の御前には隠された人物は一つもなく、
全ての者は神の目には裸でなり、さらげ出されています。
この御言葉を聞いて、悔い改める。
この神に対して私たちは、自分のことを申し述べないで。
人間が聖霊を受けることができないように、
まずは見言葉を受けることができないように、
メッセージが正しく伝える、
宗旨家の福音、復活の福音を伝えるところには、
見言葉が嫌で嫌で聞こえることができないように悪魔が妨げる。
また、聖霊を妨げる方法は簡単です。
誘惑して罪を犯させて、世の中を愛するようにして、
汚れなものになって、聖霊が入れないようにします。
悪魔の働きです。
この悪魔の働きを滅ぼすためにイエス・キリストが来られたんです。
十字架によって人々を罪をあがなって、
それで清いものにさせてくださった。
イエス様の一番の願いは、
十字架によって、復活によって人が清くなって新たになることです。
なぜ清くなって新たになることを願うのか、
第一ペートル1章16節で言います。
あなた方は聖なるものとなれ、私が聖なるものだから。
神様は私が聖なるものだから、
あなたたちも聖なるものになれと言われる理由は、
聖なるものになった時、神様との交わりに入ることができる。
汚れたものには神様との交わりができない。
だから救いだけで信仰が終わったように考える人は、これはダメなんです。
救われただけじゃなくて、私たちは新たな人になる、清い人になる。
聖化の過程が非常に大事な理由はここにあるんです。
清くなった人と神は交わりをし、親しい交わりの中で神の身もねを知り、
主のために働くこともできるし、主の祝福をいただくことができるんです。
ですからイエス様は私たちのために、
十字架と復活のこのような過程を通して私たちを救ってくださり、
新しいものにしてくださったんです。
これから命の復活と私たちが考えているリバイバルとはどんな関係があるのか。
イエス様が来られて、この書いてある福音書、マルコの福音書では、
マルコ1章15節に、時は道、神の国は近づいた。
悔い改めて福音を信じなさいと言いました。
悔い改めて福音を信じるなら神の子供になり、そして救われる道を教えてくださった。
それから2章で、新しい武道士は新しい革袋に入れるものだと。
そのような働きができる方法を教えてください。
それで福音書を通してイエス様は教え、述べ伝え、癒され、
それで弟子たちを新しい革袋を作っておいて、
ペンテコスのリバイバルが来るように心合わせて祈りなさい。
この都を離れず、上から私が約束したものが起こるから、
祈り、集まって祈りなさい。
その通り祈ったときに、上からリバイバルが来たんです。
その時、枯れた骨、はなはだしく枯れた骨のようなユダヤ人たち、
まだ借りられの領主出身の弟子たちが、聖霊に満たされて、
皆さん、聖霊に満たされたということは、聖霊様100%、自分は0%です。
聖霊様が導く通り弟子たちは動き始めます。
私たちの大抵の信仰生活は、聖霊様50%、自分の考え50%、
ある強い人は自分の考え90%、聖霊様10%、このくらいあるんでしょうかね。
だったらほとんど自分の考え通りやってしまうでしょう。
しかし弟子たちは100%聖霊に満たされて、それで聖霊が導く通りついていきました。
それで彼らは、聖霊によってローマまで福音を述べ伝えれ、ローマ帝国を変えられたんですけど、
その福音の力が、イエロサレム、アンディオキア、ヨーロッパ、アメリカ、アジア、そして中東まで今繋がっています。
また24章中4節、この福音が地の果てにまで述べ伝えられたら終わりが来る。
これを近代宣教の父であるこの方は、イエロサレムから始まった福音が、
福音を西向けでイエロサレムに戻ってくれれば終わりが来る。
そうしたら今福音はどこまで行っているんですか。
全世界のどこまで述べ伝えられるんですか。
私は中東地域、イエロサレムまで行ったと考えています。
今ユダヤ人たちはイエロサレムを信じていないでしょう。
ローマ書中1章を見ますと、ユダヤ人たちがイエロサレムを信じていない理由は、
福音が異邦人の世界に入るためなんです。
異邦人の世界がみんな信じたら最後にユダヤ人たちがイエロサレムを信じて戻ってくると聖書は約束しています。
最後の時のイエロサレムに福音が入ったらユダヤ人たちが信じて戻ってくるように今世界の歴史がこのように流れています。
今全世界はどこまで行っているんですか。どのように流れていますか。
私たちはこの世はもう限りなく続けるように考えているかもしれませんけど、
この世は間もないこれから終わりが来ます。
じゃあここで私たちの働きが大事なんです。
今終わりだと思っている時に私たちに与えられている任務は何ですか。
あなたが救われたように、あなたが愛する周りの方たちも救われるように、あなたの役目があるんだよということを教えてください。
私たちが周りの方たちを救うために私たち経済力、君治力が必要ですか。
いいえ、私たちは見事ばと精霊の働きが必要なんです。
見事ばと祈りが必要なんです。
歴史的に礼儀的なリバイバルは世の中が一番暗い時にリバイバルが来ました。
なぜ、暗い時にこうしたらいけない、神様来てくださいと叫ぶ人々の働きがあったからです。
一番暗い時期にリバイバルが来たように、バベロンの捕虜の時代、イスラエル人たちは夢がなかった。
その時に誰が働いたんですか。ダニエルが祈りました。エレミア、エジキエルが祈りました。
見事ばを述べ伝えました。そして彼らたちが帰還するようになりました。
エルサルに戻ってきたからは、エズラ、ネエミアがイスラエル人たちにこの見事ばを述べ伝えながら、この人たちを祈ってあげました。
だから帰ってきて神殿を作るようになります。
18世紀、ヨハン・ウェスレイ。皆さん、フランスはフランス革命がありました。
市民革命があってフランスの国が変わった。地によって変わったんです。
しかしイギリスは革命がなかったんです。しかし国は新しくなりました。
どうして。ヨハン・ウェスレイによるリバイバルがあったからです。
ピュリタンによってアメリカが変わりました。しかしこのピュリタンの信仰がますます弱くなっている時に
アメリカがもう霊的な暗黒地域がありました。その時チャールス・ピニー、ジョナダン・エドワードン
そのような人たちが見事ばを述べ伝えながら祈りを通してアメリカを助けました。
それでアメリカがもう一度強くなって、それで今全世界で一番強い国になりました。
今世の中の終わりの時、神様はリバイバルと大収穫によって最後の収穫、最後に全世界の人々を救われる働きが残っていると言います。
それで枯れた骨たちが今神の見事ばによって、また命の息によって彼たちは生かされるようになりますけど
ここに私たちの役目が必要なんです。
人々はたくさん祈れば精霊様が来る、リバイバルが来ると思います。違います。
たくさん祈るんだって精霊が来るんじゃなくて、新しい皮袋の準備ができなきゃいけない。
新しい皮袋の準備はまず見事ばによって杭を改めて、自己中心的な人は神中心的な、変わる、このような働きが大事なんです。
それで新しい皮袋になって、その人たちが集まって、祈るとき上から精霊様が来られて、大きな大きなリバイバルを受ける器になって、
それでこのリバイバルの力によって福音が延べ伝えられます。
私たちがやるべきことは何ですか。
私たちがやるべきことは、日本と日本の教会と日本の神と皆さんに、新しい皮袋の教会になるように見事ばを伝える役目。
自己中心はダメだよ。神中心に変わらないといけないよ。
儀式が大事だけど儀式だけじゃダメだよ。本質は大事だよ。
このようなメッセージを日本の方々に伝える役目が私たちにあります。
これが見事ばの働きです。
それでこの人たちと共に、神様来てください。
祈る働き、見事ばと精霊、見事ばと祈りの働きがこれから大事なんです。