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2025-04-27 36:57

「復活とリバイバル」2025年4月27日のメッセージ

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東京ぶどうの木教会 2025年4月27日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/tokyovinechurch

(聖書)エゼキエル書37章1-11 主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」 そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。

メッセージ題 : 復活とリバイバル (エゼキエル書37章1-11)
*この世のほとんどの力は?破壊し殺す力です。この世で強い国というのは知力、経済力もありますが軍事力を誇ります。子供たちが喧嘩するとき、殺してやる?と脅かします。殺す力で支配しようとする世界?この世は悪魔の世界であることを示しています。 *反面、この世で生かすところもあります。病院です。体と精神的な部分を治療し生かしますが、霊的な部分を癒したり生かす役割は教会がやります。ですから、教会は神様が見られるのに非常に大事なところです。

1.先週、イースターのメッセージに加えて・・・どのように人々を癒し救うことができるのか?生かす力、殺す力
*生かす力、生命は神様から来ます。この力は初めに天地を創造されました。この力が愛、恵み、関心、慰めとして働き・・・人に意欲を与え、生かします。反面、破壊し殺す力は悪魔から出ます。その力で人を非難、冒涜、悪口、裏話などで挫折落胆させ、罪過ちを犯せ人を駄目にします。ここには、肉的な命と死もありますが・・・霊的な命と死もあります。 *創世記1,2章では神様の命の力が働いて大自然と人間に豊かな命とびジョンを与えてくださいました。しかし創世記3章で悪魔は人を誘惑し罪を犯させ、罪の罰と呪い、苦難で人間を駄目にしついには死ぬように地獄に
*罪によって霊が死んでいる人間を、どのように生かすか!これが聖書の課題ですが・・・創世記3:15
イエス・キリストが来られて十字架の贖いの死と復活によって、罪を赦し、信じる人も復活させる!従って、イエス様を受け入れ永遠な命を得るし、そのお方の御声を聞き従うことで祝福で過ごす。

2.このような御業を私たちに示してくださった・・・事例があります。エゼキエル37章の枯れた骨の幻です
*エゼキエル37:1,11枯れた骨で満ちている谷、その骨は神の民イスラエル?なぜこのように
*創世記2:7土に過ぎない人間に命の息が・生きる者に。しかし罪と偽りの信仰によって命が流れないので、どうすれば枯れた骨を生かすことができるのか?―>御言葉と命の息、聖霊で・・・
*生かすのは御言葉。御言葉を聞くとき死んだ霊魂が覚まされ生かされるようになります。しかし人の形をしていても命の息(聖霊)がなければ?霊的には死んだ者、無気力、夢とビジョンができない、何より霊的世界を見ることが出来ないし神様との親しみもない、内なる人の変化成長もない
#ここで生かす核心は?1)神の御言葉!ヘブライ4:12、この御言葉を聞いて13節悔い改めるなら聖い器になる。新しい革袋!2)この器に神の霊が来られるように祈ることで新しい葡萄酒が
*初代教会の信徒たちが聖霊充満、聖霊の導きに従ったとき・エルサレムからローマまで福音が

3.命の復活と・・・私たちが準備するリバイバルとの関係
*マルコ福音書で、イエス様が来られて、マルコ1:15―>2:22その通りイエス様は弟子たちを新しい革袋に。そして復活後、ルカ24:49命じられる通り祈ったときペンテコステのリバイバルが
#このような御業の為に大事なのは御言葉の僕が必要。歴史的な事例。今の時代私たちの役目
@枯れた骨のような人々に、どのように命を与えることができるのか。その為の教会の役割は?

サマリー

このエピソードでは、復活の力とリバイバルの重要性について考察され、特に家庭や教会が人を生かす場所であることが強調されます。聖書のエジケール37章を参考にし、命の息を与えられることで人々が再生される可能性が述べられています。復活の信仰と証人の生活に関するメッセージでは、神の御言葉と聖霊の働きが人々を生かす力であることが強調されています。また、信仰生活を新たにするためには、霊的な成長と神との交わりが不可欠であると説かれています。リバイバルと精霊の力を通じて、人々が神の御言葉を受け入れ、命を与えられる重要性についても述べられています。さらに、日本の教会が新しい皮袋として変容し、神中心の生活を送ることが求められています。

命と破壊の力
今日は復活とリバイバルという対応をもってメッセージを分かち合いたいと思います。
世の中にはいろいろ力がありますけど、大きく申しますと、生かす力と殺す力があります。
ところが世の中をよく見てますと、ほぼほとんど力は破壊して殺す力です。
世の中で強い国ということは、経済力が強い国もありますけど、軍事力が強い国もあります。
子供たち間に喧嘩するとき、「この奴殺してやろう!」と言うんですね。
それで子供たちを怯えたら、その子供はもう弱くなって、わーっということもあります。
殺す力で支配する世界、これが悪魔の世界です。
しかし世の中で殺すところだけじゃなくて、生かすところもあります。
生かすところの一番大事なところは家庭です。
また病院、また学校もあります。
本当に感謝したい、素晴らしいところです。
私たちの体、精神的な部分は、家庭で、病院で、また学校で、いろいろ助けをもらって生かされなければなりません。
しかし、礼儀的なところを癒したり、また生かしたりするところは教会です。
ですから教会は神様が見られるのに本当に大事なところです。
今日は先週のイースターのメッセージに加えて、どうすれば人を癒し、生かすことができるのか、それをもっと詳しく考えていきたいと思います。
人を生かす力、これを一言で言えば命ということですけど、生命ということですけど、
それはどこから来るのか、これは神様から出ます。
この力は天地万物の初めに、この天地万物を創造しました。
この力が私たちに働いて、愛を通して、また感心、また恵み、また慰め、いろいろな形で人々に意欲を与えたり、また人々を生かすことができます。
人を破壊したり殺す力は悪魔から出ます。
この力で人々は他の人を非難します、暴読します、悪口をします、また裏話をします。
それによって人々を挫折させたり、落胆させたりします。
また嘘をついたり、暴力を振る舞ったり、誘惑によって人を堕落させて、それで人をダメにしようとします。
この難しいこと、ここで肉的な死もありますけど、霊的な死もあります。
罪と救いの道
創世紀1章、2章には神様が天地万物によって大自然と人間に命とビジョンを豊かに与えてくださりました。
ですから世の中は生き生きして、この命とビジョンに満ちあうれた世界を夢見ることができました。
ところが創世紀3章、悪魔は人々、初めの人たちを誘惑して罪を犯させ、
この罪の罰、また呪いによって人々を無力させ、結局死ぬようにしました。
この後の人はどこに行きますか?地獄に行くでしょう。
アダム以来、すべての人類はそのような運命の中で過ごすようになりました。
罪によって死んだ人間、どうすればそれを生き返すことができるのか、これが聖書の中で大きな主題です。
どう解決するのか、創世紀3章、15世紀の女の子孫としてメシアを送ってくださって人々を生かすことができると言います。
そのためにイエス・キリストは女の子孫として来られて、十字架で贖いの死を通して私たちの罪を許し、私たちを救ってくださり、
また復活を通して敵である悪魔を滅ぼし、私たちも復活ができるようにしてくださったのです。
これが全人類に対してどれほど素晴らしいことなのか、これは先週メッセージで分かち合いました。
まとめてみますと、道を真理を命であるイエス様を受け入れ、そうするなら永遠の命を得ます。
またその御方の御声を聞き従うことによって神様の祝福の中で生きるようになります。
こんな素晴らしい命を救う御業をどのように具体的に行うべきなのかを私たちに教えてくださった聖書の中でよく素晴らしい事例があります。
日本の教会の現実
これがエジケール37章、今日読んでくださった枯れた骨の幻です。
エジケール37章1節と11節だけ私がもう一度読みましょう。
主の手が私の上に臨んだ。
私というものはエジケールを意味します。
主の手がエジケールの上に臨んだ。
私は主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に下ろされた。
そこには骨でいっぱいであった。
枯れた骨がいっぱいあるエジケールの谷に残された。
主は私に言われた、人の子よ、これらの炎はイスラエルの善火である。
彼らは言っている、我々の骨は枯れた。我々の望みを失せ、我々は滅びると。
絶望、これは落胆、絶滅の中にいるイスラエルを見せてくださいました。
エジケールを見たある谷、その中で見たこの枯れた骨。
これはイスラエル民と言います。
言葉を変えれば、今世の中、これがまるでエジケールの谷のような、この枯れた骨、
はなはたしく枯れた骨にいっぱいあります。
神様の目線から見たら、この世の中にはみんな死んでしまって、
長い間、もう長い間過ぎてしまった、この枯れた骨がいっぱいある、死の谷だと思っていいでしょう。
じゃあ、これはなぜこんなになったのか、それを知るために私たちは十字架の福音を学びました。
旧約聖書の後になっていく、末期になっているイスラエル。
信仰生活しているのに、偽りの信仰ばかり。
偽りという意味は、命がない信仰生活です。
もともと、信仰生活で神に出会って、命の源である神に出会えば、
神の命を私たちはたっぷりいただくようになっているんですけど、
偽りという意味は、命がない信仰生活をしているんだということです。
その信仰生活、これは自分はよく知っている、よくやっていると思っているから、
命がないのに自分はよくやっていると思って、これを続けてやっているから、
この人たちを治す方法がないんです。
あ、私は命がないんだ、これをわかれば、すぐ命を与えてくださいと言うべきなのに、
もう自分は正しい信仰をやっていると思っているから、
自分は命があると思っているから、この人を助ける方法がない。
それがイスラリピッドたちが旧約聖書で、最後の最後まで、
自分たちは自分の口で私たちは枯れた骨、私たちは望みを失せ、我々は滅びたというような存在になってしまった。
なぜでしょう。
これを知らせるために、預言者たちを救わされたんですけど、
預言者の話を聞かない、預言者をみんな殺してやる。
最後にイエス様も送ってくださったんですけど、
イエス様の見越えさえも聞かない。
イエス様さえも殺してやる。
どうすればいいんでしょう。
どうすればこのような人々を生かすことができるかということです。
人間が生きる方法はただ一つだけです。
これを今日読みたかったんですけど、創世記2章7節です。
主なる神は土の塵で人を形作り、その花に命の息を吹き入れられた。
人はこうして生きるものになった。
皆さん、人間が生きるものになったのは、
まず土の塵で人間を形作り、その花に命の息を吹き入れられた。
神様から命の息を吹き入れられたから、私たちは生きるものになった。
人間がどうして土なのか、ごめんなさい。
私は牧師だから葬儀に行くんですね。
亡くなれた方の私は体を必ず触ってみます。
皆さん、ごめんなさい。
私の父も触りました。
私はもうみんな触っていました。
本当に今触ってみれば、もうこのような体でしょ。
亡くなった方を飾ってみたら、これと全く同じです。
わざわざ私は触ってみます。
違う人がいるかなと思いながら。
みんな同じ。これなんです。
だから人間は土で作ったこの器と同じような存在に命がなくなったら、
すぐこうやって死んであります。
これがだんだん土の中で溶けていく。
それで人間の姿が全部見えなくなる。
同じです。
神様は人間をこのような時のような存在で作って、
そこに命の息を吹き入れられた。
だから人間がこのように柔らかくて生きるものになったんです。
不思議でたまらないでしょ。
しかしこれが人間が私たちが生きている理由なんです。
しかしこの命の息というものは、
私たちの命と聖霊様を含めて考えられる、
このような旧約聖書のこの単語がこのような意味です。
それが罪を犯した時に聖霊様が消えていき、
また私たちの命さえも、これからも残っている命がシャーッと抜けられる。
だからもう死んでいくということでしょう。
人間が罪を犯して神様から離れていくところによって、
人間が死んでいく、また枯れていく。
このような存在になります。
私たち信者も同じです。
イエス様を受け入れた時に私たちは命に、
イエス様は命ですから命に満たされます。
しかし神様との関係がダメになればなるほど、
私たちの体は命がずっと抜けていくような状態になるので、
私たちの体は固くなり、問題が生じ、病気になり、いろいろなことが生じます。
この解決する方法は今日の同じです。
命の息がフーッと入れられるなら、私たちは生きるものになるんだということです。
イスラエルはもともと神様から祝福される存在で、
命のビジョンもすべてが豊かだったのですが、
神様から離れて一割の信仰をやっているし、
自分たちが悔いを改めないから、それが長くなってしまったから、
イスラエルは裸々しく枯れた骨になってしまったのです。
私は1998年に新学校に入りました。
新学校に入ったら、まずある教会に保守神学生として勤めるようにやります。
いろいろな教会に行って保守神学生の働きをします。
それで和裕教会に行って野住さんに手を当てて、
和裕教会に行く前に私はある教会に行きました。
そこで1年間、中学と保守神学生として一緒に信仰生活をしているうちに、
これは傲慢な話になったら申し訳ないのですが、
その時、日本の教会を見て私が感じたのが、
日本の方たちの信仰生活は、枯れたタオルをまた絞っているような、
また絞っているような信仰生活をしておられるのだなと思いました。
神様の命をいただくことはできないのに、
奉仕は熱心にやります。
私は日本の教会が今なんとかなんとか存在しているのは、
日本の集団主義という考え方のおかげではないかと思います。
集団主義。
日本、ごめんなさい、これは勝手な話ですけど、
ある集団に所属されていることで自分の存在の何かを感じる。
そこで皆さんから文句をされるのは大嫌いなんだよ。
だから文句をされないように頑張ります。
また仲間を外れされたらいけないから、仲間を外れされないように決める。
ですから年度初めに自分の役目が決められるんじゃありませんか。
あるある奉仕、あるある奉仕。
1年間その奉仕は文句がないように、他の人から指摘されないように熱心にやります。
もうこれを熱心さは私たちは真似できないほどの素晴らしい熱心さ。
ですから命は得られないのに奉仕は熱心にします。
だから結局信仰生活イコール教会奉仕です。
このような教会、だから教会には熱心に奉仕して人間関係を大事にする方たちが今残っている。
そこに皆さん若者たちが来ますか。
賛美が強い教会、そのところには若者たちが集まるかもしれません。
奉仕ばかり要求する教会に若者たち行かないんです。
ですから私は日本の教会で奉仕進学生として3年間働きながら、
このお年寄りの方々が亡くなられたら、教会の扉は閉めるしかないんだなと思いました。
これが新学校で私が学んだ、私が目で見て考えたことです。
命の息と神の見言葉
だったらどうすれば今はななしくかなっていて、奉仕ばっかりしながら自分もものすごいつらいでしょう。
そのような信徒たちを助けることができるか。
それで私たちが考えられるのは、はじめに神様が人を土で形作って、
そこで命の息を入れられたら生きるものになったように、
私たち今本当に難しい信仰生活しておられる方たちに、
どうすれば命の息、またそのような生きる働きができるかと、
そこには見事場と精霊の働きが大事だということを申し上げたいと思います。
今日エジケール37章1節から10節まで、エジケールは神の見事場を体現したら、
その腫れた骨がクトクトクト動きながら骨がつながり、
その上に筋肉がずっと覆せられ、そこの上に皮膚が折れる。
それでこのカタカタとして体の形がみんなできたんです。
しかしその中で命の息はなかった。
それで命の息をフーッと入れるようにエジケールが体現したら、
その中で命の息がフーッと入っていった。
それで見ていますと、神様の大きな手段、大きな軍隊になったということがエジケールが見た幻なんです。
ここで人を生かす方法は見事場と精霊なんです。
なぜ見事場と精霊なのか。
腫れた骨を生かされたのは神の見事場が体現されたことから始まります。
見事場によって神様に対する信仰が植えられ、希望が与えられて民たちは生かされるようになります。
皆さん、試練、苦難、患難、これは訓練はできるけど、人を新しくすることはできません。
ただ神様の見事場だけが人々を目を覚ませ、新たにする力があります。
ですから神の見事場を聞くときに、死んだ霊魂が目を覚ませ、生かすようになります。
このように腫れた骨たちに向かって神の見事場を体現したときに、
この人の形がパッとできて、みんなパッと立ち上がることができたんです。
しかしその中に命、息がなかったということです。
皆さん人の形は知っているんだけど、命の息がない人とはどうなったんですか。
世の中に存在するほぼほとんどの人です。
いくら立派な体を持っていたとしても、霊的には死んだ人です。
死んだ人は無気力で、夢とビジョンはありません。
何より神の霊、精霊が折れない人生は、霊的な世界を見ることができない。
神様と親しい交わりができない。
うちなる人が変わることができない。
霊的な成長はできないんです。
だから霊的には何もできない。
体は持っている。また精神的なことは生きている。
霊は死んでいる。
だから人間としては活動はしますけど、神様が見られるのには死んだということです。
ですから神様が見られるのに生きているもの、神との交わりができる人、霊的な世界を見ることができるためには、
神の霊、精霊様が望まなければなりません。
精霊が望んだ時に、神様を下さるビジョンを見ることができるし、また霊的に新たに生まれる。
霊的な世界でこれから、いくらでも夢、いくらでもビジョンを開ける人になるんです。
ですから、シドギョウデン2章17書。
神は言われる。終わりの時に、私の霊を全ての人に注ぐ。
すると、あなたたちの息子と娘は予言し、
若者たちは幻を見、老人は夢を見るようになろうと言われます。
ここで人を生かすポイントは二つです。
一つは神の御言葉です。
天地万物始めに神様は、全世界を御言葉によって作られました。
御言葉が入ったら、天があり、水があり、動物があり、生き物ができました。
御言葉、御言葉なんです。
ヘブライシュ、ヨンシュ、チュネスというのは、神の言葉を生きており力を吐き、
どんなボロハの剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほど差し通して、
心の思いや考えを見分けることができます。
さらに、神の御前には隠された人物は一つもなく、
全ての者は神の目には裸でなり、さらげ出されています。
この御言葉を聞いて、悔い改める。
この神に対して私たちは、自分のことを申し述べないで。
聖霊によるリバイバル
神の御言葉を聞いたら、何か悟ること、悔い改めること、決断することがなるでしょう。
それを神様、こうします。
神様、悔い改めます。
神様、これをやりたいです。
このように神様に自分のことを申し述べる人、
そのような人が神の御言葉に反応する人であり、
そうするなら神様が働いて、御言葉が入ったら、
みんなが立ち上がって生き生きするように、神様が作って下さいます。
これが新しい川袋の教会になります。
そのうちは、新しい川袋の教会が、神の霊、聖霊が来られるように祈る。
皆さん、聖霊イコル祈りだと考えていただければ。
死の行で一生八折、あなた方の上に聖霊が下ると、あなたたちは力を受ける。
そして死の果てに至るまで、私の証人になる。
その神様の約束通り、彼らがマルコのアポロムに登って、
それで心を合わせて熱心に祈っていた。
その時、ペンテコステのリバイバルが彼らに与えられ、
新しい川袋に新しい葡萄酒が入れられたんです。
その時、信徒たちは聖霊に満たされ、
聖霊が導かれる通り、導かれていって、
イエルサレム、サマリア、アンティオキア、ショアジア、
そこに散らされて聖霊を討別して、
それでローマまで聖霊を伝えるようになりました。
そこで宗旨家の福音、復活の福音を聞いた人はみんな生かされるようになって、
それで迫害したローマがキリスト教を国教として受け入れるようになった。
想像もできない奇跡が起こったんです。
このような働きを一番気にする者がいます。
それが悪魔です。
悪魔はこんなことがあったらいけないから、
私たちの役割と使命
人間が聖霊を受けることができないように、
まずは見言葉を受けることができないように、
メッセージが正しく伝える、
宗旨家の福音、復活の福音を伝えるところには、
見言葉が嫌で嫌で聞こえることができないように悪魔が妨げる。
また、聖霊を妨げる方法は簡単です。
誘惑して罪を犯させて、世の中を愛するようにして、
汚れなものになって、聖霊が入れないようにします。
悪魔の働きです。
この悪魔の働きを滅ぼすためにイエス・キリストが来られたんです。
十字架によって人々を罪をあがなって、
それで清いものにさせてくださった。
イエス様の一番の願いは、
十字架によって、復活によって人が清くなって新たになることです。
なぜ清くなって新たになることを願うのか、
第一ペートル1章16節で言います。
あなた方は聖なるものとなれ、私が聖なるものだから。
神様は私が聖なるものだから、
あなたたちも聖なるものになれと言われる理由は、
聖なるものになった時、神様との交わりに入ることができる。
汚れたものには神様との交わりができない。
だから救いだけで信仰が終わったように考える人は、これはダメなんです。
救われただけじゃなくて、私たちは新たな人になる、清い人になる。
聖化の過程が非常に大事な理由はここにあるんです。
清くなった人と神は交わりをし、親しい交わりの中で神の身もねを知り、
主のために働くこともできるし、主の祝福をいただくことができるんです。
ですからイエス様は私たちのために、
十字架と復活のこのような過程を通して私たちを救ってくださり、
新しいものにしてくださったんです。
これから命の復活と私たちが考えているリバイバルとはどんな関係があるのか。
イエス様が来られて、この書いてある福音書、マルコの福音書では、
マルコ1章15節に、時は道、神の国は近づいた。
悔い改めて福音を信じなさいと言いました。
悔い改めて福音を信じるなら神の子供になり、そして救われる道を教えてくださった。
それから2章で、新しい武道士は新しい革袋に入れるものだと。
そのような働きができる方法を教えてください。
それで福音書を通してイエス様は教え、述べ伝え、癒され、
それで弟子たちを新しい革袋を作っておいて、
ペンテコスのリバイバルが来るように心合わせて祈りなさい。
この都を離れず、上から私が約束したものが起こるから、
祈り、集まって祈りなさい。
その通り祈ったときに、上からリバイバルが来たんです。
その時、枯れた骨、はなはだしく枯れた骨のようなユダヤ人たち、
まだ借りられの領主出身の弟子たちが、聖霊に満たされて、
皆さん、聖霊に満たされたということは、聖霊様100%、自分は0%です。
聖霊様が導く通り弟子たちは動き始めます。
私たちの大抵の信仰生活は、聖霊様50%、自分の考え50%、
ある強い人は自分の考え90%、聖霊様10%、このくらいあるんでしょうかね。
だったらほとんど自分の考え通りやってしまうでしょう。
しかし弟子たちは100%聖霊に満たされて、それで聖霊が導く通りついていきました。
それで彼らは、聖霊によってローマまで福音を述べ伝えれ、ローマ帝国を変えられたんですけど、
その福音の力が、イエロサレム、アンディオキア、ヨーロッパ、アメリカ、アジア、そして中東まで今繋がっています。
また24章中4節、この福音が地の果てにまで述べ伝えられたら終わりが来る。
これを近代宣教の父であるこの方は、イエロサレムから始まった福音が、
福音を西向けでイエロサレムに戻ってくれれば終わりが来る。
そうしたら今福音はどこまで行っているんですか。
全世界のどこまで述べ伝えられるんですか。
私は中東地域、イエロサレムまで行ったと考えています。
今ユダヤ人たちはイエロサレムを信じていないでしょう。
ローマ書中1章を見ますと、ユダヤ人たちがイエロサレムを信じていない理由は、
福音が異邦人の世界に入るためなんです。
異邦人の世界がみんな信じたら最後にユダヤ人たちがイエロサレムを信じて戻ってくると聖書は約束しています。
最後の時のイエロサレムに福音が入ったらユダヤ人たちが信じて戻ってくるように今世界の歴史がこのように流れています。
今全世界はどこまで行っているんですか。どのように流れていますか。
私たちはこの世はもう限りなく続けるように考えているかもしれませんけど、
この世は間もないこれから終わりが来ます。
じゃあここで私たちの働きが大事なんです。
今終わりだと思っている時に私たちに与えられている任務は何ですか。
あなたが救われたように、あなたが愛する周りの方たちも救われるように、あなたの役目があるんだよということを教えてください。
私たちが周りの方たちを救うために私たち経済力、君治力が必要ですか。
いいえ、私たちは見事ばと精霊の働きが必要なんです。
見事ばと祈りが必要なんです。
歴史的に礼儀的なリバイバルは世の中が一番暗い時にリバイバルが来ました。
なぜ、暗い時にこうしたらいけない、神様来てくださいと叫ぶ人々の働きがあったからです。
一番暗い時期にリバイバルが来たように、バベロンの捕虜の時代、イスラエル人たちは夢がなかった。
リバイバルの重要性
その時に誰が働いたんですか。ダニエルが祈りました。エレミア、エジキエルが祈りました。
見事ばを述べ伝えました。そして彼らたちが帰還するようになりました。
エルサルに戻ってきたからは、エズラ、ネエミアがイスラエル人たちにこの見事ばを述べ伝えながら、この人たちを祈ってあげました。
だから帰ってきて神殿を作るようになります。
18世紀、ヨハン・ウェスレイ。皆さん、フランスはフランス革命がありました。
市民革命があってフランスの国が変わった。地によって変わったんです。
しかしイギリスは革命がなかったんです。しかし国は新しくなりました。
どうして。ヨハン・ウェスレイによるリバイバルがあったからです。
ピュリタンによってアメリカが変わりました。しかしこのピュリタンの信仰がますます弱くなっている時に
アメリカがもう霊的な暗黒地域がありました。その時チャールス・ピニー、ジョナダン・エドワードン
そのような人たちが見事ばを述べ伝えながら祈りを通してアメリカを助けました。
それでアメリカがもう一度強くなって、それで今全世界で一番強い国になりました。
今世の中の終わりの時、神様はリバイバルと大収穫によって最後の収穫、最後に全世界の人々を救われる働きが残っていると言います。
それで枯れた骨たちが今神の見事ばによって、また命の息によって彼たちは生かされるようになりますけど
ここに私たちの役目が必要なんです。
人々はたくさん祈れば精霊様が来る、リバイバルが来ると思います。違います。
たくさん祈るんだって精霊が来るんじゃなくて、新しい皮袋の準備ができなきゃいけない。
新しい皮袋の準備はまず見事ばによって杭を改めて、自己中心的な人は神中心的な、変わる、このような働きが大事なんです。
それで新しい皮袋になって、その人たちが集まって、祈るとき上から精霊様が来られて、大きな大きなリバイバルを受ける器になって、
それでこのリバイバルの力によって福音が延べ伝えられます。
私たちがやるべきことは何ですか。
私たちがやるべきことは、日本と日本の教会と日本の神と皆さんに、新しい皮袋の教会になるように見事ばを伝える役目。
自己中心はダメだよ。神中心に変わらないといけないよ。
儀式が大事だけど儀式だけじゃダメだよ。本質は大事だよ。
このようなメッセージを日本の方々に伝える役目が私たちにあります。
これが見事ばの働きです。
それでこの人たちと共に、神様来てください。
祈る働き、見事ばと精霊、見事ばと祈りの働きがこれから大事なんです。
日本の教会の変容
これが日本を救う道、日本の方たちを生かす道なんです。
このような働きのために、神様が私たちをエジキレルのように呼んでくださったんです。
神様が私たちに言います。
人の子よ、この枯れた骨が生かすことができるか、生かされることができるか、
あなたはこの枯れた骨たちに神の見事ばを体現しなさい。
神の見事ばを体現し、またこの人たちに命の息が吹き入れられるように、
この人たちのために祈りなさい。
最後の時、私たちに必要なこと。
イースターの愛産会をして、おいしいビビンパ食べてよかったです。
それで終わったらいけません。
復活の力が、復活の信頼度を生かす力が、今は枯れた骨を命を与えるリバイバルとして変えなければいけない。
そこに見事ばを伝える役目、
この人たちのために祈る役目が私たちにあります。
エジケルのように神の見声を聞いて、
枯れた骨たちに向かって見事ばをと祈りを通して生命の息を吹き入れられる、
このような役目が私たちにあります。
その働きが私たちを通してうまく成し遂げられるように、
そして神様がこの小さい群れなんですけど、喜ばれ大きく祝福される教会になりたいです。
私たちだけじゃなくて、私たちの子供たちまで、
これらの働きが私たちの役目だ、使命だとビジョンだと考えてついてくるように、
これらの働きができる教会になりたいです。
お祈りいたします。
主よ、先週イースターを通して、
忠実家と復活を通して成し遂げられた素晴らしい見業を分かち合いました。
私たちは忠実家と復活をイース様の厚労によって、
罪を許し、また命をいただいて天国に行くものになりました。
しかしそれは私たちだけじゃなくて、
私たちが愛するほとんどの全ての人たちが同じような祝福を味わうように願っておられる神様。
この素晴らしい福音を伝えるべきなんですけど、
私たちは弱いです。伝えるのは怖いです。
うまくできていません。
どうか聖霊様、リバイブルとして来られて、
私たちの中で力を与えてくださって、
枯れた骨のように苦しんでいる方たちを救う神の見業ができるものにしてください。
イース様皆を通してお祈りいたします。
アーメン
36:57

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