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2024-02-11 23:18

2024/02/11:恐れないで、ただ信じなさい

2024/02/11 聖日礼拝

加藤満牧師

ルカの福音書 -42,49-56


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それでは一言お祈りを致します。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美を致します。
今日もあなたの御前へと私たちを招いて下さり、
あなたを仰いで礼拝ができる幸いを感謝致します。
神様、祈られたように、本当に春の日差しが近づいてきているような中にありますが、
気候が落ち着かない中で、
私たちは心も体も疲れてしまいやすい、そういう時にあります。
主がどうか、お一人ひとりの心と体と霊とを支え、
日々を主の喜びで満たし、守って下さいますように、お願いを致します。
何よりも、私たちはあなたの愛を知っています。
巫女イエス様を十字架に捧げられるほどに、私たちを愛し抜いて下さり、
巫女の父親により私たちの罪が許され、
それだけではなく、三日目に甦えられた復活の命を私たちに与え、
永遠なる死と共に歩む永遠の命を与えて下さいました。
あなたはもはや一人ではない。
どこにいようと、私があなたと共にいると、あなたは約束をして下さいました。
神様、ありがとうございます。
ただ、本当に私たちは日々の中で、いろいろなことに巻き込まれる中で、
あなたの恵みを同時に忘れやすいものですから、
死がどうか今日も、目を開き、耳を開き、口を開き、
あなたを賛美し、あなたへ祈り、あなたの御言葉を素直に聞くことができますように、
私たちにあなたが働きかけて下さい。お願いいたします。
今、ここに来たくても来れない一人一人がいることを覚えます。
施設にいる方、ご自宅で礼拝を守っておられる方、また心が離れておられる方、
ご用事があって今日は、よその教会で礼拝を守っておられる方もいらっしゃいます。
神様が、お一人一人の歩みに伴い、祝して下さいますように、
守り下さいますように、お願いいたします。
これから御言葉を聞きます。
あなたが開いて下さり、光を与え、悟りを与えて下さい。お願いいたします。
これからの時を見てにゆだねをして、イエス様のお名前によってお祈りを致します。
アーメン
先々週のことになりますが、私は田島福音教会の雪かき支援に2日間行かせていただきました。
その教会は新年生会で御用事してくださった池口哲郎先生が使わされている教会でして、
雪かき支援と聞いて私も遺産で行ったんですけれども、
ちょうどその日程の前後が、ちょっと快晴が田島で続きまして、雪はだいぶ溶けてたんですね。
ただ、この後また雪が降る予定だから、ちょっと積もっている山みたいになっているところを割ってほしいということで、
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シャベルで割って、雪割りといいますか、そういうことをさせていただいて、
ただ同時に少し時間もあったので、教会の青年たちとゆっくりお話しする機会をいただきました。
先生が生会の中でお明かしくださったように、田島は今不思議なように青年が集まってきていると。
5、6名ほどの青年がいるということで、その何人かの方とゆっくりお話ししたんですが、
面白かったというか、びっくりしたのは、実はその青年たちは、
願った通りの道じゃなくて、願った通りに行かずに田島に来たということです。
急に転勤が決まって、田島に行くことになった。
ここに来る予定はなかったのだけれども、大学が田島になって、田島に来た。
一人一人は最初来たときに思ったそうです。
田島、行かれたことあるかもしれません。
兵庫県の北のほうの、少し地方都市というんですかね、そういうところですから、
こんなところに来て、僕たちみたいな若い人間が行ける教会があるんだろうか。
もしかしたら、この地域で僕たちが行ける教会はないかもしれないと不安に思っていたところ、
けれども不思議なように、この人たちがこの地方に行った、地方という言い方があれですね、
田島に行ったこのタイミングで、教会に次々と青年が集まってきたということでした。
本当に聞きながら不思議だなと思いました。
神様はちょうどこのタイミングで、教会に青年たちを集め始めて、
そしてみんなが喜んでそこに集えるようになさったということですよね。
聞きながら改めて、不思議だな、本当に不思議なことだなと思いました。
けれども池口先生の話もちょっと頭にかすりながら思ったことは、
でも神様がなさることって、いつも人の目から見たら不思議なんだろうなということです。
神様がなさることって、いつも実は大きすぎてですね、
人の目から見るならばそれは説明がつかない。
ああ、ただ不思議なことが起きている。そういうふうになるのかもしれないなと思いました。
この経験を通して私自身、私も含めて思わされたことは、
私たちは結構、自分の願った通りになることがいいことだと思っているんだろうなということです。
信仰を持つクリスチャンであれば、きっとその自分の願いがあって、
その願いのために私たちは祈るわけですよね。一生懸命祈ります。
神様はその祈りを必ず聞いてくださるわけですね。神様は聞いてくださる。
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けれども、神様が聞いてくださった祈りの答えというのは、どう答えられるかわかりません。
私たちの願った通りのことが聞かれて与えられるかもしれませんし、そうではないかもしれません。
けれども、仮に願った通りのものが得られず、願った通りの場所に行けなかったとしても、
そこにはもっと大きな神様のご計画というものにつながっているかもしれないなと、
その話を聞きながら思わされたんです。今回の田島の訪問でそう思いましたし、
そしてそれはおそらく、どんな状況であったとしてもそういうことが言えるのではないか。
実は今朝の箇所を見ながらそのことを思うんですね。
今朝の箇所を見ていきたいと思いますけれども、
今朝の箇所ではイエス様のもとに一人の人がやってくるところから話が始まります。
街道管理人ヤイロという人物です。
彼はイエス様に一つの願いを持っていました。
イエス様、私の家に来てください。
12歳の娘が死にかけているのですということでした。
彼の願いはまさに、イエス様、娘を癒してくださいですよね。
娘を癒してください。
41節、42節をお読みしますと、すると見よ、ヤイロという人がやってきた。
この人は街道塚さであった。
彼はイエスの足元にひれ伏して、自分の家に来ていただきたいと懇願した。
彼には12歳ぐらいの一人娘がいて、死にかけていたのであった。
それでイエスが出かけられると、群衆はイエスに押し迫ってきたとあります。
12歳ぐらいの娘が死にかかっている。病気でしょうか。
きっと親としてはこれほどつらいことはないのではないかなと思います。
ヤイロは街道管理人と書かれています。
当時の街道礼拝所の最高責任者です。
ですからおそらく社会的な地位もある人です。
しかしその彼が足元にひれ伏してイエス様に懇願をしたということが書かれてあるのは、
なりふり構わない姿だということです。
なりふり構っていないということです。
きっと藁にもすがるような思いでイエス様のもとに来たのです。
どうかイエス様来てください。どうかどうにかして娘を助けてくださいと懇願している姿がこの姿です。
イエス様はこのヤイロの願いに応えて彼の家に向かっていきます。
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その道中でこの43節から48節に挟まれていますが、
有名な12年間長地を患っていた女性の癒しの記事、癒しの言葉があります。
この長地の女性の話、また大事な話なのでどこかでしたいと思いますが、
ただこの女性が癒されたのはまさに奇跡、神様の鮮やかな奇跡ですよね。
これを見たヤイロも希望が持てたのではないでしょうか。
やはりイエス様は間違いない。
このイエス様が私の娘のところに来てくれたら必ず娘は助かるんだ。
けれどもこの長地の女性と話している最中に、
ヤイロの家から知らせが届くわけです。
お嬢さんは亡くなりました。もう先生を煩わすことはありませんという。
娘は死んでしまったという知らせが届きます。
ヤイロはきっと目の前が真っ暗になったのではないでしょうか。
間に合わなかったわけです。間に合わなかった。
イエス様はもうすぐそこまで来ているのに手遅れだった。
もう私の願い、娘を癒してほしいという願いは届かなくなった。
終わってしまったということです。
私たちもイエス様を信じる中でそういう経験は山ほどあるのではないかなと私は個人的に思うんです。
神様は私の願いに応えてくださらなかった。
私の願いに間に合わなかったと思うことが私たちは往々にして経験をいたします。
私は何度か話していますがクリスチャンフォームの人間です。
両親は神様を信じる家庭で育ちました。
けれども家庭には大変なことがいろいろありました。
父の仕事のことがありましたし、家族関係のことがありました。
親がイエス様を信じているだけにやっぱり思うんですよね。
神様、あなたを信じているのになぜつらいことが続くのでしょうか。
あなたは本当はいないのではないでしょうか。
いいえ、いたとしてもこの時に助けてくれなければ意味がないのです。
あなたは間に合いませんでしたと。
神がいる、いいだろうと。
ただ神がいるのであればなぜあの時私を、あの子を助けてくれなかったのか。
それがまさにイエス様を信じた後であったとしても
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深い傷として、怒りとして、悲しみとして残る人の話を聞くことがよくあります。
私たちにももしかしたらあるのかもしれません。
この時に助けてくれなければ意味がない。
そしてイエス様、あなたは私に間に合いませんでしたと。
ただですね、今日の箇所を読んでいきますと
イエス様はここから実に不思議なことをおっしゃられるわけです。
五十節をお読みしますとこういうことがあります。
これを聞いてイエスは答えられた。
恐れないで、ただ信じなさい。
そうすれば娘は救われますと言われるのです。
恐れないで、ただ信じなさい。
ヤイロはこの言葉を聞いてどう思ったでしょうか。
おそらく唖然としたのではないかなと思います。
この人は一体何を言っているのだろうかと。
娘は亡くなったのだと。
私たちは間に合わなかった。もう終わってしまった。
私の願いが叶う可能性はゼロになった。
それなのに今から一体何を信じろというのか。
しかしそういったイエス様の足は止まりませんでした。
イエス様はヤイロの家に着きます。
そして少女の泣きがらの周りで泣き悲しんでいる人々に対して
イエス様は五十二節ですが
泣かなくてもよい。死んだのではなく眠っているのだと言われ
そしてこの少女の手を取ります。
当時人の死体というのは穢れているものです。
ですから人の死体には絶対にみんな直接的には
特殊な仕事の人以外は触れません。穢れが映るからです。
でもイエス様は穢れた人を癒す時に
必ず穢れに直接手を触れられます。
そしてこう言われるんです五十四節
声を起きなさい
ここには叫んだと書いてあります。
起きの声で叫んだのでしょう。
起きなさい!
まるで少女が本当に眠っているかのようです。
眠りを起こすかのように大きな声で叫んだ。
起きなさい!
するとこの少女の霊が戻り
少女は起き上がったというのです。
これはまさに神様だけができる奇跡です。
でもこれはただイエス様が
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イエス様がイヤイロの願いを聞き届けられたのだとも言えます。
最初にイヤイロが願っていた
娘を癒してくださいと
なりふり構わず願ったイヤイロの願いを
イエス様は聞かれた。
それは途中でイヤイロ自身が
諦めてしまった願いです。
途中でイヤイロが
もうこれは手遅れだと思ってしまった願いです。
でもイエス様はこの願いを聞き届けられたわけです。
この箇所から私たちは一体何を聞くことができるのでしょうか。
おそらく信仰とは何かということが
教えられるような気がするのです。
信仰とは何なのか。
私たちにはそれぞれの願いがあります。
そして私たちはその願いが全て
自分の願った通りに進むように
神様に願います。
そうだと思います。
それがベストであると考えますし
それこそが祈りが聞かれたと思うのかもしれません。
けれども言うまでもないかもしれませんが
私たちの世界は実に混沌としています。
そう願いながらもなぜという嘆きはつきません。
もしも願った通りになることだけが
信仰的なことであり
祈りが聞かれたという理解しかないのであれば
私たちは一気にその信仰が揺さぶられる
お互いであると思うんです。
ああ間に合わなかった。終わってしまった。
けれども今朝の箇所を見るときに
イエス様はイヤイロの願いが尽きたとき
願う可能性が、願いが叶う可能性が
ゼロパーセントになったときに言われたのです。
恐れないでただ信じなさい。
恐れないでただ信じなさい。
それはおそらく言い換えれば
こう言えるのだと思うんですね。
信仰というのは自分の願った通りにならず
すべてが遅すぎた
すべてが終わってしまったと思う
ゼロ地点で
神様は新しいことを始めてくださると信じることです。
信仰とはすべてが間に合わなかった
すべてが終わったと思ってしまった
そのところから神様は何かをなさる
そう信じることを
イエス様は亡くなった少女
人の目から見てですね
亡くなってしまった少女を見て
こう言われました
死んだのではなく眠っているのだと
これは何を言っているのか
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イエス様と私たちとでは
この事柄の見え方が違うということです。
私たちは死が終わりだと思います
そう考えます。
けれども
全能の神様と共に歩まれたイエス様には
違うように映っていたのです。
私たちの見る終わりは
イエス様の目には
神様の目にはまだ終わっていないということです。
可能性がゼロに見えたとしても
神様には見えている可能性がある
イエス様には見えている可能性がある
イエス様はイエス様の時に
イエス様が私たちに持つ計画があるのです。
だから恐れないで
ただ信じていなさいと
イエス様に招きかけるのです。
もう終わりますが
私たちには
願った通りにならなかった願いや
もはや手放してしまった願いというものが
あるのではないでしょうか
それはもしかしたら
主よなぜですかという
うめきや痛みとともに
あなたはあの時私を助けてくれなかったという怒り
もう終わってしまったという痛み
けれども今朝
私たちが恐らく一緒に聞かなければならないのは
その痛みからその終わってしまったその場所から
再び恐れないで主を信じなさい
私を信じなさいと招かれる
イエス様の声を聞かなければならないのです。
そこから主は招かれる
私はあなたに良い計画を持っている
私はそこから新しい身業を起こすと
イエス様は言われるんだと思います。
私たちはこの言葉にどう答えするでしょうか
私たちは知っています
神様やイエス様というお方は
信じてみなければわからないんですよ
信じてみなければわからない
信仰生活というのは私は
こういうことだと思っているんです
それは復活し今も生きておられるイエス様の
愛の広さ高さ長さ深さを知り続けることだと
イエス様は生きておられてこんなに愛情深いのか
ということを知り続ける歩みだと思っています
けれどもそれは
何も何でもあれですけれども
それは一歩信じてみなければわからないんですね
一歩信じてみなければわからない
信仰ってそういうものだと思います
信じられるだけの確信が自分の中に固まってから
主を信じるのでしょうか
けれども信じてみなければわからない
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今朝やいろは信仰に招かれたときは
実は最も信じがたいときに招かれたんです
娘が死んでしまった
もう可能性が私にとってゼロになった
ここで何を信じろというのか
でもそこで主は招かれるんです
私を信じなさい
イエス様を信じるというのは
最も信じえないときでもいいんです
もうこんなんで信じていいのかな
信じていいんですよ
でもそのときに主が招いておられるんです
信じえないときに
確信が固まらないときに
信じていいのかなと迷うときに
私を信じなさい
祈ってみなさいと
信念正解において池口先生が
ご自身の救いの証をされたときに
イエス様はあなたの罪のために十字架につかれたのですと
イエス様はあなたの罪のために十字架につかれたのですと
その短い一言を聞いて
神様の愛という漢字が自分に迫ってきたということを
言っておられましたけれども
私たちが信じるというのはそんなに複雑なことではない
そんなにたくさんの情報が必要なのでもない
この一つの事実に主にどう答えるかです
どうか信じえないときに
や私たちの可能性がゼロに至ると思えるときにこそ
主に答えて祈っていただきたいのです
イエス様の前に時短打を踏まずに
どんな場所に立とうとも
私たちはそこからイエス様を信頼し
祈り始めていきたい
そう願うのです
私たちの見る終わりは
まだイエス様の目には終わっていません
そこからイエス様が始めてくださる祝福があるのです
何を手放したでしょうか
でもそこから
今日恐れないで
ただ私を信じなさいと招かれます
私たちは主の御言葉に答えさせていただきたい
そのことを願います
一言お祈りをしてメッセージを終わります
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